自転車関係資料-94
本日、資料を整理していたら懐かしいスチール写真が出てきた。
この映画は1956年に日活が制作した「若いお巡りさん」で監督は森永健次郎
出演:名和 宏、中川晴彦、歌手の曽根史郎、美多川光子、宍戸 錠、安部 徹、天草四郎、東美恵子など。
上野坂下交番で勤務する若いお巡りさん達を描いた笑いと涙の物語。
この時期は戦後の自転車産業の隆盛期にあたり、映画やドラマに度々自転車が脇役として登場している。
自転車関係資料-94
本日、資料を整理していたら懐かしいスチール写真が出てきた。
この映画は1956年に日活が制作した「若いお巡りさん」で監督は森永健次郎
出演:名和 宏、中川晴彦、歌手の曽根史郎、美多川光子、宍戸 錠、安部 徹、天草四郎、東美恵子など。
上野坂下交番で勤務する若いお巡りさん達を描いた笑いと涙の物語。
この時期は戦後の自転車産業の隆盛期にあたり、映画やドラマに度々自転車が脇役として登場している。
古い絵葉書-30
前回に引き続き、(肥後)日奈久温泉元湯である。千鳥高速自転車
先般、雑誌「サイクル」の広告を見ていたら下の写真が目に留まった。
名前も千鳥高速自転車と大仰なネーミングである。
世界的発明愈々完成 二段変速特許装置 平地は速く坂は軽い
千鳥高速自転車 東京都港区芝南佐久間町1-54 (株)銀輪社
とある。
二段変速特許装置とは、現物がないので写真だけからの判断は難しい。写真を拡大してみたがよく分からない。このチェンジギヤどこまで有効なのか疑問が残る。
株式会社 銀輪社の他の銘柄としサンチドリ号、銀栄号などがあった。(「捜査資料」30 自転車の研究 京都市警察本部 科学捜査研究所 昭和 30 年 6 月 20 日発行より)
バンドブレーキのオギタ
オギタ製作所のバンドブレーキは古い、まさにバンドブレーキの老舗と言ってよい。
オギタの創業は古く明治41年。昭和10年発行の全国製造卸商名鑑にも営業課目として自転車部分品と特許バンドブレーキとある。当時の住所は東京市浅草区神吉町39番地。
昭和4年の広告には「旭日昇天 輪界の好評嘖々(さくさく)たる 特許バンドブレーキ」と、大仰に宣伝している。
これがいまのところバンドブレーキで一番古い広告であり、それ以前は出てこない。大正期は勿論見当たらない。
下の広告は月刊雑誌「サイクル」1955年(昭和30年)4月号の裏表紙にある広告。この時期いつも「サイクル」の裏表紙に広告を出していた。
通産大臣賞受領 5つの特許を持つ オギタのバンドブレーキ
東京都荒川区三河島町1ー2815 ㈱オギタ製作所
その後、このオギタ製作所がどうなったかは調査中である。
自転車関係資料-93
本日、資料を整理していたら懐かしいタブロイド紙が出てきた。
新聞名は「ライフスタイル」1991年6月18日(火)発行 (全8頁)
オハイオ州フィンドレーで1991年6月25日~30日まで開催された第11回国際ラリー及びクラシック自転車世界選手権大会を特集。
表紙の写真は主催団体である「ホイールメン」会長のボブ・バルコンブ氏。
Life styles.BOB BALCOMB OF FINDLAY, chairman of the 11th international rally and world championships of the International Veteran Cycle Association, rides an ordinary Dicycle, Invented circa 1871, in a parade in front of the Hancock County Courthouse. The rally will be held June 25-30 at the University of Findlay. For more on the four- day event, see pages 2-4
「自転車学」の提唱
佐野 裕二
1、研究を組織化すること
自転車を愛するばかりでなく、自転車の文献資料を集めたり、記録を作ったりする努力は、わが国でも明治以来細々ながら先人たちが続けてこられました。欧米諸国では、たくさんの車両関係博物館を始め、個人コレクターなど裾野の広い研究が盛んなようです。日本でも、さいきんは同好の士が増えてきたことは素晴らしい傾向だと思います。国内保有台数が6千万台に迫る今日、自転車関係のさまざまな角度からの研究が行われるのは、自然な成行きとも申せましょう。個人の熱い想いに裏打された研究の一つ一つは、巨大な足跡でなくても、次代への貴重な物として至高なもののひとつとなることでしょう。このような研究は、研究成果を体系として位置づけ、大きな流れとしてシステム化することが必要になってきていると思われます。
2、 分類体系化によって価値を高める
*自転車学”といえば固苦しくなりますが、自転車好きの大勢の仲間のうちには、関係の文献資料を発見したり、歴史的なめずらしい自転車・部品にめぐり合ったりすることがあってもふしぎではないはずです。そうしたことは個人としての秘かな喜びであるとともに、大きな流れのなかで確かな位置を占めることになれば、その値打ちはより高いものになります。自転車の研究と一口にいっても分類すれば多岐にわたります。歴史としてだけでも工学史、産業史、風俗史、文化史、社会史などいろいろな分野に分れますし、ジャンル別では生産流通、体育医学、競技、サイクリング、交通、整備技術など、分類方法にも幾通りもの選択肢が考えられます。おのおのの分野で専門家も熱心なアマチュアもおられます。これらの複雑な各分野における研究はどれも貴重ですが、体系として取りまとめるシステムを確立することによって、研究成果は確かな位置づけを持つことになり、価値は一層高まるに違いありません。どんな体系を描くかについては大いに検討すべきでしょうが、総合的な体系づくりをすることによって、研究者のターゲットも明確になり、作業はしやすくなる利益は大きいものと思われます。
3、 自転車研究は文明の原点
自転車の発明と発展は、自転車がまだなかった時代と較べれば、人類に計り知れない貢献をしてきたことは確かなことです。自転車の発明工夫を起点として、近代の科学文明は各種の車両航空機などをめざましく開発し、自転車はともすれば華やかな舞台を遠ざかる傾向で推移してきましたが、それでも今日なお約10億人の利用者層があります。自転車学というたしかな姿勢を持っても決しておかしくはないのではないでしょうか。
4、自転車の過去・現在・未来像
生産部門では自転車ばかりでなく、過去を振返らず、大切な足跡を棄てて顧みないのがこれまでの日本企業の通弊でしたが、試行錯誤を繰返してきた過去の実績によって現在と未来があるのですから、史料保存の努力は単なる回顧趣味ではありません。時代遅れ無価値と思われる史料が未来展望の足がかりとなることも少なくありませんでした。自転車についての各分野にわたる研究が行われるようになれば、自転車学として集大成するシステム造りが早晩必要になってくるものと思われます。その組織図の作成には多くの研究家たちの合意を必要とすることはもちろんですから、決してやさしくはないと思いますが、そうしたことを考える時期として現在は早すぎるともいえない気がします。このような提唱をすることは、私としては潜越なことだとは承知しておりますが、いずれ誰かが発言しなければならないことと思って、あえて同好の方たちに呼びかけてみることにした次第です。自転車研究家諸賢のご参考になれば幸いです。
註、この記事は日本自転車史研究会の会報「自轉車」第32号、1987年3月15日発行より
佐野裕二(サノ ユウジ)氏の主な著作、
「東京立腹論―これでいいのか日本人 」1975年
「自転車の一世紀」1975年
「発明の歴史自転車」1980年
「自転車の文化史―市民権のない5,500万台」 1985年
「鋏読本(はさみどくほん) 」 1987年
「自転車の文化史」 (中公文庫) 1988年
「日本の自転車の歴史、-その始まりから、現在までー 1860年代~1990年代」(1994年の遺稿)
「53年目の仏印戦線 : 元陸軍宣伝部員の独白手記」 佐野裕二 著 日新報道 1998年
「自転車 : 機械の素」 INAXギャラリー 1988年
「とびだせサイクリング」 佐野裕二 指導: 六田登外え フレーベル館 1975年
会員名簿
<順不同>(正会員及び協力者を含む)
(氏名と住所が書いてあるが、氏名のみ掲載する、敬称略、物故者を含む)
氏名 住 所
高橋 勇
三輪 健治
齊藤 俊彦
井上 重則
植原 郭
佐野 裕二
高橋 達
真船 高年
中川 忍
八神 史郎
山添 喬正
中野 保男
高木 六弥
中村 安良太
小川 正仁
岡田 素男
稲垣 正浩
大熊 広明
Erich Pauer
庄中 公三
斧 隆夫
濱口 宗士
河原 正
山中 唯裕
竹沢 荘一
町田 忍
成毛 弘一郎
須賀 繁雄
佐竹 慎太郎
岩立 喜久雄
三浦 和之
小林 恵三
上野 利夫
梶原 利夫
永田 望
奈良 重幸
今井 彬彦
谷釜 了正
石原 政雄
滝川 美佐緒
城本 輝男
高田 靖之
吉田 満
松島 靖之
中村 博司
小池 一介
浜田 秀隆
新田 眞志
長谷部 雅幸
Don Speden
横田 順彌
Michael Brien
中堀 剛
谷田貝 一男
渋谷 良二
山下 律
佐藤 修
宇佐美 敏宏
鈴木 昭一
三本 実
鳥山 新一
上野 修一
渡邉 喜久
大津 幸雄
以上 64名
バックナンバー 129
ニュースレター(NEWSLETTER)NO.129
2008年4月2日作成 日本自転車史研究会
●自転車で観桜巡りバックナンバー 128
ニュースレター(NEWSLETTER)NO.128
2008年03月22日作成 日本自転車史研究会星崎熊治郎
今日も近くの図書館へ。長崎金右衛門
以前から気になっていた長崎金右衛門の自転車関連資料を調べに近くの図書館へ行く。
今日はやっと長崎金右衛門の新聞記事を見つけることができた。この資料はコピー不可なので面倒だが書き写す。このような資料は是非とも今後デジタル化して閲覧またはコピーできるようにして欲しいものである。せめてコピーだけでも取らせて欲しい。
本日調べた長崎については、以下のとおりである。
★長崎金右衛門、足柄上郡圓通寺村(現、神奈川県足柄上郡開成町)
M18.4.4 足柄上郡圓通寺村大工の長崎氏が自転車を製作、横浜~小田原間往復便として神奈川県庁へ出願(小田原地方新聞記事目録、横浜毎日新聞・横浜貿易新報・神奈川新聞、明治4年8月~昭和60年12月・小田原市文化室 平成元年12月1日発行)
この新聞記事の全文は以下のとおり、
一種の人力車
神奈川県下足柄上郡圓通寺村大工職長崎金右衛門(43)と云えるは去る明治6年頃より一種の人力車(同人は之を自転車と名づく)を工夫せんと思い立ち数年間日夜心を此事を潜めしが昨17年7月頃に至り其雛形(6人乗りを2人にて挽くもの)を製造したりに附き試験を行いし處果して予想の如く軽便のものなりしかば始めて安堵の念をなし爾来益々改良に従事し今回は3人にて9人を運搬するものを案出し試験を行いしに悉く意の如くなるのみならず其速力は1時間2里余を走り至極便利のものなるにぞ賛成者も俄かに増加をせしかば先ず第一着手として横浜小田原間を往復するの見込みにて長崎は去月28日県庁へ出願したりとぞ(明治18年4月4日付け毎日新聞)
註、果してこの長崎金右衛門が考案した自転車と称する乗り物はいったいどのようなものであったのか、挿絵など何もないのでいまのところ不明である。
この長崎も貨客運送用の乗り物を構想し、実際に製作した一人である。
以下の資料は大型自転車開発の状況を伺い知ることが出来る唯一の資料である。
〇「明治十年代前半における自転車事情 ー貨客運送用大型自転車開発の動きー」齊藤俊彦著 西南地域の史的展開(近代編)1988年1月5日発行
自転車関係資料-92
この資料は月刊雑誌「サイクル」1954年11月号より。
特集記事として「第3回読売杯争奪 東京・神戸間ロードレース」があったので紹介する。(一部抜粋)
読売新聞社主催の、第三回プロロードレースは、二回迄の、箱根越え1日のレースの慣例を破って東京~神戸間3日間の大レースを挙行することとなり、去る10月8、9、10の3日間、第1日を東京ー静岡間、第2日を静岡ー岐阜間、第3日を岐阜ー神戸間、総距離652㎞ 参加チーム31、各チーム3名の選手出走の大レースである。レースは選手の能力と、その使用自転車の性能如何に懸る訳である。車の故障は何としてもレースには致命的な障害である。
選手は平素の訓練によって、作戦と身体のコンディションを最良の状態に置く必要がある。最後の勝利を得た光風自転車と渡辺3選手は、3日間1回のパンクもなく全行程無故障無事故と云う事が、この優勝を決定した。
記者は全行程を選手と共に走りここにその見聞記に筆を執って、今回の熱戦が、如何にプロ選手の真価を発揮したかを、つぶさにこの眼で眺め、又体験した。
註、渡辺3選手とは、
第1日目 渡辺正夫 6時間39分05秒2
第2日目 渡辺和夫 10時間14分51秒4
第3日目 渡辺輝夫 6時間15分59秒6
総合順位 チーム名(使用自転車) タイム
1位 光風自転車 23時間09分58秒2
2位 日米富士 23時間14分25秒8
3位 水谷 23時間36分07秒0
4位 ゼブラ 24時間03分26秒3
5位 丸石 24時間40分46秒7
6位 山崎サンビー 24時間44分44秒7
7位 片倉 24時間57分15秒8
8位 中部日本 25時間00分43秒4
9位、川村産業 26時間01分09秒4
10位、川村産業 26時間02分04秒7
11位以下の使用自転車は、
川村産業、ヒドリ、片倉、東亜、三馬、丸石、岐阜、日米富士、丸石、岐阜、サンスター、島野、中部日本、川澄、土屋、中部日本、ゼブラ、丸金、丸都、土屋、そして31位は東亜。
バックナンバー 127
ニュースレター(NEWSLETTER)NO.127
2007年12月26日作成 日本自転車史研究会
●人力車工場が全焼それでは、いったい何時頃のものか。私見として類推すれば、舶来ものであれば、明治初期、国産であれば、早くても明治10年前後が妥当と思われる。いずれにしても、今後、関係者により細部を詳しく調べ、年代測定等をして欲しい。
自転車関係資料-91
この資料は、「サイクル」第110号 1962年8月号より。
今野 仁氏及び梶原利夫氏の投稿記事である。(興味深いのでこの記事の全文を紹介)
今野 仁(こんの ひとし)昭和15年11月6日-元自転車競技選手、今野製作所(CHERUBIM・ケルビム)フレーム製作。
梶原利夫(かじわら としお) 元、エバレスト( 土屋製作所 1966-1984)でフレーム製作、後に独立し梶原製作所を起業。産業遺産学会評議員。
レース用部品の試作
ハンドルバーステムとトラックレーサー用フォークエンド
今野 仁・梶原利夫
外国のカタログや雑誌等を見ると、スマートな部品や、レーサーが出ています。又国産の部品では使って見て満足出来ないものもあります。幸い私達二人は熔接工ですので、自作出来そうなものから作って見る事にしました。
その手始めに作ったのがこのステムとトラックエンドです。市販のステムの突出しの長いものは、肉が薄いせいか、力一杯ねじるとフワフワするし、転倒すると、曲がってしまう事があります。そうかと云って天返しの鉄のカタマリの様なステムも使う気になれません。そこで突出し部の肉を厚くして、剛性をもたせたステムを作りました。このステムは、実際のレースに、数回使用したもので、その結果、大体満足出来るものです。エンドの方はまだ組んでいませんが、良い結果が得られると思います。このようなものを自分で作る事はとても楽しい事で、市販するものでは、採算の合わないような、細かい細工でも自分の満足出来る様に作れます。工作は主に有楽町の電気研究所開放試作室で行いました。この開放試作室は、材料さえ持って行けばあらゆる工作機械を、安価に貸してくれます。私達のように工具を持たない者でも、このような場所を利用して、独創的で優秀な製品を作る事が出来ると思います。
この記事が皆さんの参考になれば幸いと思い、発表しました。
①アーク溶接によるイクステンションステム
材料-STK30 外径21.7mm、内厚 2.6mm、及び外径22.2mm、肉厚 1.8mm のパイプ、土屋製クランプ、神戸製鋼所製熔接棒B17,TB24, 2.6mm 径のもの五本づつ使いました。
図を見れば、大体分ると思いますが、クランプは旋盤で削り、突出しのパイプの中へ、挿入しました。クランプは、鍛鋼製で肉が厚く、肉の薄いパイプとの接合は、ガス溶接やロー接では、困難です。
このような接合には、アーク熔接が最も適しています。現在アーク溶接は、あらゆる工業分野に応用されて居り、その接合部は、非常に優秀で、普通鋼では、母材より優れた接合部が、容易に得られます。又このステムの様に、鍛鋼と圧延鋼、あるいは鋳鋼と圧延鋼という構成も、それぞれの長所を発揮出来るので、溶接技術の発達により、あらゆる方面に採用される様になりました。鍛鋼と圧延鋼をアーク熔接で接合したステムは、前例がないと思います。良し悪しは、ともかくとして、この様な試みも、自作だから出来る事です。
アーク熔接の場合、非常な高熱が局所に集中するので、熔接性が問題になりますが、炭素その他の合金成分の少ない軟鋼なので全く問題ありません。その他の工作は、大体常識的なもので特筆する事はありません。
②ロー接によるイクステンションステム
材料―前記のものと同じパイプ、日東クランプ、TSA 440 銀鑞。このステムは、フィリップスのステムと類似の構造としました。
この形式のステムは、クランプとイクステンションパイプのロー接面積が大きくこの点から見ると、強度的に優れています。このステムのポイントは、やはり、熔接の方法とロー材の優秀な機械的性質で、ステムの出来不出来はこの点に左右されます。熱影響及びローの流れ等の点から、低温銀ローを使用しました。ロー接部の形状は、強度を考え、アールに溶接して、溶接寸法を充分にとりました。重量から見ると前記のステムと同じパイプを使用したのですが構造上大分軽く出来ました。
③トラックエンド
材料ー本体SS41肉厚 4.5mm 補強板 SPC3.2mm の鋼板、真ちゅうロー。レース用トラックエンドは一部を除いて、あまり良いものがない様で、何回もホイールを取外している内に開いてしまったり、ちょっとの衝げきで曲がってしまったりする事があります。爪が良くなければ、良いフレームも何にもなりません。そこで外国製のエンドと同様の精度の高いものを作って見ました。4.5ミリの板を切り、補強板をロー接したのですが、このロー接はフレームヘロー接する際にはがれぬように1ミリのピン2本でカシメて融点の高い真ちゅうローを使用しました。鋼板なので圧延方向も考えなければまずいのですが、眼で見ただけでは解からないので板取は取易い様に取りました。溶接歪は、特に注意し、ボールトで固定歪を抑制してロー接しました。
結び
説明が不充分で解かりにくいと思いますが細かい所まで説明すると専門的になり、きりがないので大体概略を説明するだけにしました。この他にも二、三自作したものがありますが、何の故障も起らず役にたっています。自転車は乗るだけでなく、機械として見ても非常に興味があります。これからも良いアイディアが浮んだら何でも作ろうと思います。
皆さんの中でも私達のように自転車の改造や新らしい部品を作る事に興味を持っている人は、私達と一緒に考えましょう。私達で役立つ事なら、どんな事でもお手伝いしたいと思います。この試作品について皆さんの御批判をいただければ幸いです。
編集部から
このようなレース用の自転車部品の試作は、実験としてもなかなか面白いものです。
問題は、単なる工夫や細工に終らせずに、なにか科学的なデーターを出すような試みが、更に出れば意味のあるものになるでしょう。
読者の皆さんのアイデア又は実験がありましたら、どんなものでも結構です。編集部までお知らせ下さい。尚、この稿についての質疑も遠慮なくお聞かせ下さい。
註、図と写真については一番下の本誌(42頁、43頁)を参照願いたい。
パトリック・セルキュ
本日、渋谷氏からパトリック・セルキュの写真が2枚届いた。
①は、1964年東京オリンピック(会場は八王子自転車競技場)における1000mタイムトライアルでの写真。この時の優勝タイムは1分9秒59であった。
②は、1974年のツール・ド・フランスでポイント賞を受賞したときのもの。
パトリック・セルキュの略歴
パトリック・セルキュ(Patrick Sercu、1944 - 2019)、ベルギー・ルーセラーレ出身。
6日間レースでは、エディ・メルクスやペーター・ポストらと組んで88勝を記録。まさに百戦錬磨の活躍をした自転車競技選手であった。
自転車関係資料-90
この資料も前回に続き月刊雑誌「サイクル」1955年4月号からである。
「昔の自転車」としてヘンリーフォード博物館の所蔵自転車が紹介されている。
②と③のキャプションには、
②は1880年から85年にかけて、英国シンガー社で作ったオーディナリー、ピーター・クーパー・ヒュイットという人が乗ったもの。
註、米国の電気技師、Peter Cooper Hewitt (1861 –1921) であろうか?(水銀灯などを発明)それとも別人か?
③は、マサチュセッッのウォルサム会社で1896年に作られた「オリトン」と称せられた、10人乘タンデム。現在はフォード博物館にある。世界でこの種の最大のものとなっている。スピードは1マイルを80秒で走る(時速約70㎞) 事が出来、重量は305ポ ンド、積載は2500ポンドとなっている。乘っている人の名も全部判明している。
自転車関係資料-89
この資料は月刊雑誌「サイクル」1955年4月号である。
特集記事として全日本プロサイクル・第1回ロードレース選手権大会があったので紹介する。
全日本プロサイクル・第1回ロードレース選手権大会(一部記事を抜粋)
主催、日本競輪選手会
プロフェッショナル・サイクルレースが、トラックの中のみを走って、それがスポーツである前に、歪められた見方をされるような時代は、過去のものとなりつつある。プロサイクルレースが、本当のスポーツ競技として競技の面白さの上に根を下ろし、多くの人々を引きつけた事が、この雨中の激戦を通じて今さらのように人々に感ぜられた。そしてこの大会を遂行した選手会の壮挙に敬意を表したい。自転車関係資料-88
この資料は以前にも紹介した「旅とサイクリスト」1972年(昭和47年)5月号である。
当研究会の発足時(1981年6月1日)の顧問であった高橋 勇氏が投稿した記事があったので、その全文を以下に紹介する。
のっきり車 日本の自転車史
自転車100年を迎えて
明治32~39年期
堺と名古屋に自転車工場が
堺市に、自転車工業が始まったのが明治三二年で、宮田製銃所のように、同じく鉄砲鍛冶の自転車修理所が、修理用部品への生産へと移行し、前田二郎という人が始めた。
また名古屋にも、時を同じく、岡本松造(のちのノーリツ)が、自転車部品の製造を始めたのもこの明治三二年の一八九九年とされています。
また堺市で、自転車の賃貸し(レンターサイクルの創り)を業としたのが始まり、北川清吉および斉木幸三の双輪商店だとの記録があり、当時一時間の料金は30銭~50銭と、かなり高額のようでした。
明治33年(一九〇〇年)歌舞伎座に、日本最初のサーカスが出演され、シートブラックという外人による曲芸師が、自転車による曲乗りを行って大好評を博し、以来日本のサーカスには、自転車の曲乗りが常設される因をつくったと言われています。
UCI誕生
一方海外ではこの年に、フランス・イギリス・アメリカ・ベルギー・ドイツ・イタリア・スイス・デンマークの8カ国によって、国際サイクリスト連合(UCI)が、パリに設立され、毎年加盟国の都市で、世界選手権大会が開催されることになりました。
でも第一次および第二次世界大戦中は、やはり開催されていません。
日米商店とゼブラ号
日米商店が竹河岸から銀座に進出した明治三十四年には、東京浅草聖天町で高橋長吉氏が英国製の自転車を検討した結果、英国製センター型の自転車の試作をした。
高橋長吉氏は慶応三年十一月に千葉県湊町の鳥海家に生れたが、後に高橋家を継いで高橋姓を名乗り、明治二十五年浅草区聖天町に移り当時隆盛をきわめた人力車の製造を始めた人です。
高橋氏は将来必ず自転車の需要が盛んになるとの確信をもたれ、明治三十五年”ゼブラ自転車製作所”を設立され、個人経営で自転車製造を開始し、”ゼブラ号”、”プライム号”のマークで発売した。
三田四国町でレンタ業
高橋長吉氏が自転車の試作に成功したその年の明治三十四年、三田四国町で外国車による貸自転車業を営んでいた東洋商会が新たに工場を設けて自転車製造にのり出しこの東洋商会は明治三十年頃から貸自転車業を開業しており、松下常吉氏、幸作氏の父子が経営したいものです。
この東洋商会の隣りに小林作太郎という人が住んでいたが、この人は芝浦機械(現在の東芝)に勤務する洋行帰りの技師で、この小林氏から松下氏が自転車製造についての技術の指導を受けたということです。
東洋商会の自転車のマークは”東洋号”、”ルビー号”、”ヒーロー号”の名称で、"ハジメ号”という車を販売したがこれはかなり後年になってからであった。
折畳車の試作
一方………明治三十四年、宮田製銃所では、米式クリブランド103号。の設計に着手し、同年三月に三台を完成して、これまでの英式から米式に移行しています。
そして翌年の三十五年に宮田製作所と社名を改め、三十六年には陸軍技術委員部自転車要綱調査委員会から、品質優秀の折紙をつけられ、この年、斥候用折畳車の依頼を受けて試作を行っているが、重量の点で残念ながら試作に止まったとの記録があります。
しかし、別途に軍用としての自転車を四百台納入をし、一説によると日露戦争のときの常陸丸には宮田製の軍用自転車が積まれ、海戦の華として散ったということです。
有名ブランド「ラージ」
明治二十八年、日米商店は、自転車を米国から輸入していたのですが、横浜の商館から、ラージ自転車を二十四台仕入れ、始めて販売しました。
これは英国の自転車が多量生産時代に入って、米国を圧倒する勢いをみせ、一方ではすでに明治三十五年に日英同盟が成り、日英両国間の親善の色が次第に明るさを増していたことも理由の一つであったと思われます。
そして試販してみたところ、評判がよいので、岡崎久次郎氏は、英車の直輸入を考え明治三十九年に英国に渡っています。
日露戦争終結直後のシベリア鉄道経由で英国に着いた岡崎氏は、ラージ自転車本社と契約を結び、東洋の代理店の権利を獲得したのですが、当時の契約は、年間三千台を直取引するというものだった由です。銀座の店には、”直輸入日米商店”という看板を掲げ、人目を引きました。
間もなく日米商店は銀座三丁目から二丁目に移り、次いで明治四十年の暮れには、三十間堀りに転じ、年間数千台を販売、数十万円の利益を収め、これが数年も続きました。
上野の地で全国レース
日米商店の代理店でラージ号を販売していた弘前双輪商会の店員で佐藤彦吉氏が、全国自転車競争 (上野池の周囲で行われた)に優勝したのもこの頃であったといわれています。
この佐藤彦吉氏は、後年選手をやめて、日米商会に入り、各地の支店を経て、最後に大日本自転車会社の創立を計り、やがて同社の取締役になった人です。
もっともこの大日本自転車会社が、現在の大日本機械工業㈱の母体となったのですが、この大日本自転車会社は、大正三年に欧州戦乱が勃発し、このため英国における自転車製造が途絶したのを契機に国産振興運動に乗り出した岡崎久次郎氏が、大量生産による優良品の生産を企図して、大正五年本所業平橋に工場を設け創立したものです。
初め資本金五十万円であったのですが、財界実業界の猛者を擁して、数千万円の大会社の陣容を張ったということです。
ピアス号・ラレー号が入荷
日米商店がラージ号を取扱ったその翌年の明治三十九年、横浜の石川商会が営業満期を迎えましたので、これを機会に、山口佐助氏がその事業を継承して、資本金七万円の合資会社丸石商会を創立し、石川商会から、丸石商会への移籍が行われ、米国製のピアス号、英国製のトライアンフ号、ラレー号など舶来自転車の輸入と国内販売に積極的に攻勢に転じたのもこの頃であったといわれています。
合資会社丸石商会が、改組して株式会社丸石商会となったのは、これより後年の第一次世界大戦が四年目を迎えた大正七年でこの時資本金を一躍二百万円としました。
この頃、時代の変遷とともに、部分品の販売がいんしんを極わめましたが、同社がダイヤモンドチェンやフィッシャーボールの輸入買付けを開始したのもこの時期なのです。
また山口佐助氏は二回にわたって海外に渡航し、一方第一次世界大戦を契機として国内自転車工業は従来の手工業技術に拠ったものから、次第に近代的産業としての発展の基礎を確立していったのですが、丸石商会が自転車の製造に乗り出したのもこの時期で、大正九年にダンロップ会社と合弁で、日英自転車製造株式会社を創設し、ここで売り出されたのが、”プリミヤ号”であったのです。
アラヤ・高木鉄工の創業
明治三十七年、新家熊吉氏が木製リムを製作し、横浜の商会に売り込んだとの記録があり、今日のアラヤリムの創始でもあります。
またこの二年後、堺市において、リムの生産が高木幸太郎氏、次いで田中恒次郎氏が創りはじめ、神戸のグリヤ商会が、初めてダンロップタイヤを輸入して、販売したのもこの明治三十九年の記録があります。
そして同じく明治三十九年に九州日報の主催で、九州一周1000マイル競走の自転車競争が行われ、当時の実況写真が、画報近代百年史に掲載されています。
明治40年代
一九〇七年(明治四〇年)に、自動車の取締令が公布され、郡部で10マイル、市街地で、8マイルという速度制限が定められたのですが、この年にやはり堺市で、山本伊太郎氏と福瀬富三郎氏がコースターを、和田繁造氏がハブというように、部品の国産化が進み、この年の四月上野公園で東京勧業博覧会が開催され、国産自転車が入賞し品質が相当に向上した記録が残っています。
自転車第一号の輸出
そして自転車関係の輸入は増え、最高記録を明治四十一年に樹立。でもこの年に、上海の雑貨商の土井伊八氏によって、宮田自転車が3台、始めて船積みをされ、日本での輸出の実績をあげた、記念されるべき年でもありました。
そして翌年の四十二年には、百貨店での配達サービスに、東京三越百貨店が白塗りのX型フレームの自転車を使用、また松屋も相次いで自転車による配達サービスを実施し、当時としてはかなりの人気を呼んだとのことです。
日本の自転車史100年
フェスティバル開催についてお願い!
今年はご存知の通り、明治五年東京の諸税収納台帳に、自転車一両という文字があり、それまで、一人車とか、のっきり車などと呼ばれていたのが、このころ、自転車という名称になり、今日にいたっているようでございます。
日本の自転車史100年といえるのですが、この機に、城東輪業社の寺島社長がフランスから、一八〇〇年代のいわゆる古代の自転車を、約五〇台ほど購入され、現在日本への船に積まれ、間もなく横浜港に到着いたします。
この古代の自転車 (ダルマ型や、後輪が四角というものなど……)を一人でも多くの人々に見ていただくようにと、まず大阪の大丸百貨店で、六月一日より上記のフェスティバルに、そしてできれば、京都・神戸・東京の各大丸での公開とプランが進んでおりますが、この展示に、従来の鑑札がないでしょうか、との話が出ました。
私達もこれほどに、古きものへの興味がと知っておれば、自転車の鑑札なども残しておいたのですが、つい粗末にしたようです。
で、まことにご迷惑なお願いでございますが、お手許に鑑札または、古代自転車のパーツ写真や古文書などで、参考品的な品がございましたら、ぜひ貸与またはお譲りいただきたい。
数量的には多くは要りませんが、各地の珍しい鑑札をと、よろしくお願い申しあげます。
送料など、負担させていただきます。また、この展示会が終了いたしましても、堺市のマエダ工業の美原工場に、自転車の史料室を造っておられますので、お許しがあれば、展示させていただけますれば、幸いでございます。
以上なにかと、よろしくご協力のほどお願い申しあげます。
大阪市南区上本町筋2-12
ナショナルサイクルセンター
高橋 勇