平石久平次関連 - 2
「彦根案内」 彦根実業同志会 編 大正6年発行
下の記事も平石久平次について、
平石久平次関連 - 2
「彦根案内」 彦根実業同志会 編 大正6年発行
下の記事も平石久平次について、
陸奔舟車 - 7
「新体制バス経営学」 後藤栄一郎 著 国防知識普及会 昭和18年5月18日発行
これも陸奔舟車関連、
陸奔舟車関連 - 6
「乗合自動車」 加藤盛次郎 著 工業図書㈱ 昭和11年4月23日発行
この本の9頁に陸奔舟車関連の記事あり、
3. 我が國に於ける自動車の沿革
我が國に於ける自動車に関する資料は極めて少い様であるが、滋賀縣彥根町史編纂中、昭和8年5月、同町長松院境内の鐵塔内より徳川時代の天文曆學者彥根藩士平石久平治の古文書を掘出し研究中のところ、計らずも最近に至り平石久平治の發明せる新製船奔車と云ふ乗合の自動車の如き木製乘用車の設計図が發見せられた。之に依ると桐材で造った長さ9尺の小船型、前後と左右に車輪を附けた四輪車で、ハンドルを持ってカラクリを運轉すれば音もなく走り出し、速さは一刻7哩(時速約14㎞)にして、享保18年と記され、今より凡そ200年前に當り、ニコラ=ジョゼフ・キュニョーの蒸汽自動車や、ジェームス・ワットの蒸汽機關が生れよるよりも以前の事であるが、遺憾ながら、カラクリの構造は秘密として發表せられず、當時に於ても此の發明は確かに世人を驚かせ便利なるものであったらうが、流行しなかつた處を見ると、乗用を禁止されたのではないかとも思はれる。
註、新製船奔車は、陸奔舟車のこと。平石久平次は平石久平治ともあり、資料によりまちまちである。
陸奔舟車関連 - 5
「時代文化記録集成」4月分 20号 時代文化研究会 1935年5月15日発行
これも陸奔舟車の記事、
鉄道博物館
鉄道博物館では企画展「 驚・収蔵展」を開催中。
会 期 2024 年3月9日(土)~6月 17 日(月)まで
鉄道博物館の所在地:〒330-0852 埼玉県さいたま市大宮区大成町3丁目47番
以下は展示品の一部、
陸奔舟車関連 - 4
「大分県警察史」 2/2 大分県警察部 昭和18年7月30日発行
これも陸奔舟車関連の記事、
驚ク勿レ自動車ノ元祖ハ我日本二在?
標題を一見した丈では誰しも驚くであらうが實は今を去る二百年も前に今や交通機関の寵兒たる自動車に似た「陸奔車」なるものを創製した話、之は大正十三年四月二十五日付大阪朝日新聞に掲載されたものであるが自動車に対する一の智識でもあり又面白くもあるので其の記事を茲に紹介することにした。
「二百年も前に、自動車に似た”陸奔車”、天文學者の彦根藩士が創製」
江州彦根藩士平石久平治時光は享保年間に於ける天文學者として知られた人であるが彦根町史編纂史料蒐集中の史蹟研究家中川泉三氏はこのほど時光の子息彌右門重實が同町長松院境内の鉄塔中に埋めていた時光の遺書類中からはからずも陸奔車創製の原書を發見した、陸奔車とは現在の自動車と同じ代物で享保十八年に完成試乗に成功したもので大正初期に舶来の自動車を我国に輸入し騒いだが、すでにそれより二百年前に邦人の發明した木製自動車のある事を知つては一驚せざるを得ない愉快事で、当の中川氏 は「全く今日迄隠れて居た發明で邦人の誇りである」と雀躍して喜んで居る、木製自動車の陸奔車は桐材を使って作られた小舟型に長さ九尺で外面は黒塗、中央に楫を立て、運転者が自ら其楫棒を執って前進する、舟型の下には四輪車があり、二輪は中央の左右に現はれ、二輪は前後につけ車を隠し、その前車、後車を奔車、左右二輪を遊行車と名づけ車は大小ある、速力は一刻に七里を走ると記されているからいまの時間で一時間三里半のスピードが出るわけで進止屈曲も楫によつて自由でその原書の賛辞を訳すると 「手に舞し足にて踏む、實にこの器ありて行かんと欲するものは足下にて往き、止まらんと欲せば直ぐに止まり、曲らんと欲せば掌中にて曲る鳴呼奇たる哉」と賛し機関部は簡單なれど秘して図とせずと断って居るが。
この新考案發明品も常時の権勢者に容れられず「人間には足がある、危険の伴う乗物まかりならん」と叩き壊され漸く文書によってのみその會心の創製を鉄塔下に埋め遣したものである。
註、大阪朝日新聞は、1935 年(昭和 10年) 4 月 23 日付である。陸奔舟車関連 - 3
「憲友」第29巻6号 軍警会 1935年6月10日発行
この「憲友」の121・122頁に陸奔舟車の以下の記事あり、
陸奔車に関する記錄發見
自動車の發明は日本が最初か
段々研究して行くと世界の科學的發明の最初がどれもこれも日本らしい、たゞどれもこれも 完成しないのが遺憾だが著想だけは確かにいい、大毎紙(大阪毎日新聞)の報道によると自動車の發明が日本が最初らしい記録が出現したといふのである。
江州彦根藩士平石久平治時光は享保年間に於ける天文學者として知られた人だが、彦根町史編纂資料蒐集中の史蹟研究家中川泉三氏は四月二十一日時光の子息彌右衛門 重實が同町長松院境内の鐵塔中に埋めてゐた時光の遺書類中からはからずも陸奔車創製の原書を發見した、陸奔車とは現在の自動車と同じ乗物で享保十八年に完成試乗に成功したもので、それは今から二百年前の事である。
木製自動車の陸奔車は桐材を使って作られた小舟型の長さ九尺、外面に黒塗、中央に揖を立 て、運轉者が自らその揖を執て前進する、舟型の下に四輪車があり、二輪は中央の左右に現われ、二輪は前後につけ車を隠し、その艗車、後車を奔車、左右二輪を遊行車と名づけ、車に大小ある、速力は一刻に七里を走ると記されてゐるから、いまの時間で一時間三里半のスピードが出るわけで、進止屈曲も揖によつて自由で、その原書の讃辭を訳すると、「手に舞し足にて踏む、實にこの器ありて行かんと欲するものに足下にて往き、止まらんと欲せば直に止り、曲らんと欲すれば掌中にて曲る嗚呼奇なる哉」と賛し、機關部は簡単なれど秘して図とせずと斷つて居るが、この新考案發明品も、頑冥な當時の權勢者に容れられず、「人間には足がある、危險の伴ふ乗物まかりならん」と叩き壊にされ、文書によつてのみ會心の創作品を鐵塔下に埋め遺して置いたのである。
仙臺新報 - 7
「仙臺新報」第21号 仙臺新報社 1908年4月号
以下に自轉車大競走會の記事、
平石久平次関連 - 1
「彦根市史 」中冊 彦根市 1962年発行
同書の575・576頁に陸奔舟車の考案者である平石久平次に関する記事があるので紹介する。
・・・平石久平次時光の業績に触れておきたい。久平次は弥右弥門繁清の子である。繁清の父の重好は井伊直興に仕え、直定を生んだ大光院の弟に当る。久平次は幼少の頃から、学問を好み、京にでて中根元珪の門に入り、天文暦数を研究した。江戸中期以降にはいくぶん西洋天文学が輸入されたが、はじめは中国で漢訳された西洋天文学を通じて研究される程度であった。その後、徳川吉宗の時代になって、暦学が奨励され、建部賢弘の推挙によって、中根元珪は清の梅文鼎の著書「暦算全書」を研究し、訓点を施して吉宗に献上した。衆知のように寛永禁書令ののち、漢訳西洋天文学書も多く禁書の厄を蒙っていたのだが、元珪は暦学研究のためにこの種の書物の禁をゆるめる必要を建議した。これがもとで、蘭学発展に拍車をかけ、ひいては寛政改暦を実施することができたのだとさえ考えられる。こうした時代の空気を吸って、久平次は元珪から天文暦数を学んだのである。幕府においてもこの方面の関心を示しはじめた時であるから、他藩においても当然天文暦数に対する関心が強まったの は事実であるが、久平次はその先駆者の一人であることにまちがいがない。久平次は馬術もよくしたため、享保九(一七二四)年に、騎馬徒士として召され、玄米四十俵四人扶持を与えられたが、寛保二(一七四二)年には父の隠居にともなって家督を相続し家禄二〇〇石の知行取となった。その後、大津御蔵目付役御蔵奉行等を歴任したが、つねに天文暦数の学を好み、研究を怠らなかった。なかでも、享保九年に彦根で天体を観測し「新製日本天文分野図」を作っている。これによると、彦根の位置を三五度半強としているが、それから、一〇〇年後の文政年間に伊能忠敬が朝鮮人街道を測定した時、彦根伝馬町の位置を三五度一六分とした。このことはいかに久平次の測定技能がすぐれていたかを物語るものである。
享保十七(一七三二)年には陸奔車を作ってもいる。彼はまた多くの公卿に暦学・天文学等を教授したほか、算数・馬術・医術・軍書などに関する著書を五二四部著わした。なかでも「皇極運暦一巻」「大陽大陰授時暦経立成」「井田明疑本朝考」などは有名である。
なお、直弼や長野主膳らも天文学に深い関心を示したが、これは国学の方面から天地自然の原理を究明しようという立場もあったけれど、じつは軍事上必要な着弾距離などの測定に応用すべく、この方面に関心が注がれたといえる。こうした研究があったから、後日、ペリー来航に際し、相州警備の役にも立ったのである。 彦根藩の斯学に対する関心の深さは現に「反射望遠鏡」や「天体儀」が残っており、また天体観測の記録や、天体日月に関する記録を現存していることからも、容易に想像できる。
義塾での初レース
「慶應義塾學報」第4号 慶應義塾學報發行所 1898年(明治31年)6月発行
慶應義塾で初の自転車競技、
「慶應義塾學報」80頁に、
自転車競技 1等賞 鶴田勝三、2等賞 伊東吉二
慶應義塾自轉車規約
「慶應義塾學報」第54号 1902年(明治35年)7月15日発行
仙臺新報 - 6
「仙臺新報」第20号 仙臺新報社 1908年2月号
下は「自転車の売行」の記事。
見開き広告
下は新聞の見開き広告。
新聞広告に大きく自転車が載っていたので、保存していたもの。
自転車は英国のパシュレーであろうか。
南洋號
「旅人の友」渋谷金次郎 大正11年11月15日発行
註、下記の記事にはちょっとした日本での黎明期の自転車史を垣間見ることが出来る。
「南洋號」の屋号は、当初この店で販売していた自転車のブランド名と思われる。
大正期になると南洋號商會は自転車からオート三輪の販売へと進化している。
仙臺新報 - 5
「仙臺新報」第20号 仙臺新報社 1908年2月号
下の記事は、河原崎権之助と自轉車の記事。
註、河原崎権之助(かわらさき ごんのすけ)は、 歌舞伎役者の名跡 。 屋号は山崎屋 。江戸河原崎座座元の名跡でもある。この記事の河原崎権之助は八代目と思われる。權之助と自轉車
俳優中での自轉車狂なる河原崎権之助が自轉車に乗る功徳の大なる事を稱賛し居るが其言ふ處に依れば五つの便益を具へ居れり
一、従来の柔弱怯懦なる俳優の精神を强健に且つ確固ならしむ
二、男地獄的の服装を一變して自然にその氣象をも改善せしむ
三、他の社會に見るを得ざる一種忌むべき門閥の陋習を破り上下平等の源を開くことを得べし
四、婦人に接近する場合を少くして悪しき遊びより遠ざからしむ
五、遠足を屢次する爲め種々の観察を廣くし藝道に裨益するに至るべし
斯く見來れば自轉車なるものは何れの社會にも通じて多大の便利と功徳とを有するものなる事を知るなり、とはまた遅し、之れ等は疾くに社會の凡てに認識せられたるものにして我が東北に於て始めて新らしき云ひ條なるべきか呵々。
輪業世界 - 6
「輪業世界」第40号 大正10年6月15日発行
下は、「輪業世界」第40号の広告など、
輪業世界 - 5
「輪業世界」第40号 大正10年6月15日発行
下は、「輪業世界」第40号の広告など、