鳥山新一の提言
この一枚のチラシは、鳥山氏が主催した「自転車趣味の会」の時期に印刷され、関係者に配布されたものである。
アメリカ自転車博物館
この資料は当時、同博物館がオープンした時に名古屋の八神さんからいただいたもの。
アメリカ自転車博物館は、1993年(平成5年)8月16日にシカゴにオープンした。
この博物館のコレクションはシュイン社のものが多く含まれている。
下の写真を参照、この写真は1991年にシュイン社の博物館設立準備室を訪ねた時に撮影した。
誰が初めに
自転車歴史研究者の中で誰が最初に門弥の千里行車、竹田近江の陸舩車、そして久平次の陸奔舟車を自転車であると云い始めたのか少し調べたところ、如何やら福島県の自転車歴史研究家の真船高年氏のようである。
それを裏付ける一つの資料が出てきた。
それは下の年賀葉書であり、この年賀葉書が作成された1988年に同氏は自転車史研究会の会報に”江戸中期の自転車「陸舩車」”と題し投稿している。
当時「門弥の千里行車、竹田近江の陸舩車、そして久平次の陸奔舟車を自転車である」と云っていたと思われる。
この葉書の図とキャプションに
右上から武州児玉郡・百姓門弥の陸船車 1729年
右下、彦根藩士、平石久平次の陸奔舟車 1732年
左下、璣訓蒙鏡草の陸舩車 1730年 とある。
参照、
日本自転車史研究会デジタルライブラリー
26、江戸中期の自転車「陸舩車」 真船高年
埴 亀齢の三輪車 -3
次に埴 亀齢(はに かめとし)の三輪車の駆動方式について、
以前私はこの駆動方式を、
写真が不鮮明でよく分からないが、どうやらシンガーと同様足踏み式のクランク・シャフト駆動のようである。ただし、前輪1の後輪2で、車輪構成は八幡浜から出た三輪車に似ている。
としたが、不鮮明な写真を拡大して見ると、シャフトドライブ方式ではなく、ペダルクランクによる2から3枚の歯車方式のようにも見える。
下がその拡大図である。不鮮明であることは変わりがないが、じっくりと見ているとそのように思えてくる。
先ず両足の位置であるが踏み込む角度からしてシャフトではなくペダルクランクに見える。しかしながらかなり回転が大きいようにも見える。大きな歯車を回している感じもする。
足元を見ると下駄を履いているようにも見える。下駄はパダルか、それとも下駄の下にシャフトがあるのか。
右足の下の部分を見ると右側に歯車のようなものが見える。
ステアリングと本体の接続構造がよく分からない。
吉田教授は、「埴亀齢の研究はテコの原理を応用し、 テコで歯車を動かし、小歯車から大歯車に、 それからコースターをして二つの大車輪を廻すことにした前一輪、後二輪の三輪車であった。
と書いているが、この説明だけではよく分からない。テコの原理であるならば大歯車から小歯車をまわすことではないのか。その方が楽で、スピードも出るのではないか。車軸にも歯車が付いていたはずなので、全部で歯車は3個となるのか。
何れにしてももう少し鮮明な画像が欲しいところである。
今後また新たな資料が出てくれば紹介したい。
取り敢えず、結論としては、
一、製作年代は、明治30年代後半。
一、駆動方式は、ペダルクランクによる歯車方式。(いまだ分明ならず)
以上
埴 亀齢の三輪車 -2
埴 亀齢(はに かめとし)の略歴、
埴 亀齢は安政5年(1858) 11月23日信州坂木(現在埴科郡坂城町) の町医・児玉正彦の二男として生まれた。
父正彦は明治6年(1873) 1月28日 64歳で不慮の死を遂げた。
明治7年8月18日、 文部省から医制が東京・京都 大阪の3府に布達され、 医師になるためには西洋医学による開業試験を要することになった。これは世襲であった漢方医にとって青天の霹靂のことであった。 この布達に刺激された埴 亀齢は笈を負って16歳で上京。
信越線が全通したのは明治26年4月1日であるから、当時は軽井沢・倉ヶ根・熊谷・蕨などに途中4泊して入京した。 したがってこの上京は年若い亀齢にとって誠に心寂しい旅であった。
そして陸軍軍医監、緒方惟準(おがた これよし、洪庵の次男) の塾(神田駿河台南口賀17番地)に入り、明治7年10月1日より明治10年2月までに医科全科を修業した。
卒業するや直ちに明治10年3月、 東京府庁へ医術開業試験の受験を出願し、 8月受験を結了。
明治11年11月2日、第1438号をもって開業医免状を下付される。
明治12年4月19日、「依願傭差免候 警視局」の辞令を受け帰郷。
明治12年5月、21歳で坂城町で開業。開業した翌年の明治13年に更級郡と埴科郡の医師十数名と協力して起百社なる会合を作り医学・衛生上に関する事理を研究することにした。
明治15年1月19日、埴科郡郡医に長野県から任命された。
明治17年4月25日、 微兵検査御用のため徴兵医員を依嘱され、診療を中止して、 下伊那・飯田・東筑摩・松本に出張し、公務に尽力した.
明治19年6月12日、上田町の沓掛ハルを妻に迎える。亀齢28歳、ハル18歳。
起百社は明治21年7月に到り、起百社衛生会と起百舎医学会に二分。
明治25年3月信陽医学会を発足させた。
明治28年頃、坂城から妻の実家である上田町鎌原に転居し診療所を開設。
明治32年、自ら発案した医薬分業を実践する。
明治39年5月25日、妻ハルが肺結核で世を去る。また実施した医薬分業のため患者が減少し、失意の状態に陥る。このころから各種の発明に寝食を忘れ没頭する。最も苦心したのは三輪車の製作であった。
吉田 元 教授は次のように述べている。
「埴亀齢の研究はテコの原理を応用し、 テコで歯車を動かし、小歯車から大歯車に、 それからコースターをして二つの大車輪を廻すことにした前一輪、後二輪の三輪車であった。その型は人力車からヒントを得たもので、鉄輪であったが、外国からの知識でなく、純日本的で、 鍛治屋を相手に古物を利用し、自らヤスリを手にして製作したものである。」
大正2年、上田を引払い近隣の小県郡和村に転居。和村は山村のため愛用の三輪車は上田に置き去り、馬に乗って往診し、和歌と囲碁を趣味とした。和村に居住すること17年。
昭和4年5月、72歳で急性肺炎を患い、この世を去った。
参考資料、日本医師会雑誌、第79巻、第2号 昭和53年1月15日
「長野県における明治の医薬分業実践者埴 亀齢医師」柳沢文秋
埴 亀齢の三輪車
昨日、以前に撮影した写真を整理していたら、埴 亀齢(はに かめとし)の三輪車の写真が出てきた。この写真は上田城址へ旅行に行った際に資料館で撮影したものである。館内は薄暗くどうしてもフラッシュをたかないと撮影できない。そしてどの写真もフラッシュの光がパネル写真に反射して肝心な駆動部分などが分からない。
この埴 亀齢の三輪車のことを知ったのは1967年3月号のニューサイクリング誌に掲載された記事である。下がその号。
ところでこの三輪車の製作年代について調べてみたが、どうやら明治20年代ではなく、明治30年代であることが分かってきた。
以前、私は「自転車の歴史探訪」で次のように書いた。
信州の上田城にある資料館に1枚の古い写真パネルが飾られている。この写真は大きな三輪車に男性が乗っている。この男性の名は埴 亀齢(1858年~1929年)である。この土地で医者をしていた人物である。若い頃、緒方洪庵が創設した適塾で医学を学んでいる。その後、信州に帰り、生まれ故郷で開業した。
当時は往診に人力車を利用していたが、経費節減のため自分で乗り物を作ることを思いついたのである。そして、村の鍛冶屋と協力して一台の三輪車を製作した。残念ながら現物はすでに処分されていて無い。
この三輪車、写真が不鮮明でよく分からないが、どうやらシンガーと同様足踏み式のクランク・シャフト駆動のようである。ただし、前輪1の後輪2で、車輪構成は八幡浜から出た三輪車に似ている。
製作年代も分からないが、彼の生年月日から推論して、1888年(明治20年)前後ではなかったかと思う。
私は、以前この写真を見に上田城へ行ったことがある。薄暗くて写真がうまく撮れなかった。フラッシュをたくと反射して、光ってしまったことを思い出す。
今回の調査でこの記事の疑問点を整理すると、
一、製作年、「彼の生年月日から推論して、1888年(明治20年)前後ではなかったかと思う」
一、駆動方式、「どうやらシンガーと同様足踏み式のクランク・シャフト駆動のようである」
の部分である。
この辺について、これから何回かに分けてこのブログで説明したい。
50年前のヴェロシペード
ハーパース・ウイークリー誌 1869年3月6日号より、
ブリヂストンのカタログ
このカタログはブリヂストンが海外向けに発行したもの。
1992年版である。
表紙の写真は釣り人がブリヂストンの実用車に乗って湖畔を訪れたところのようである。
自転車の前には水鳥が4羽見える。
なぜ表紙に最新のスポーツタイプではなく実用車を選んだのか少し疑問だが、日本車をイメージするにはこの車種がよかったのかも知れない。
千里行車の駆動方式
正田門弥の千里行車の駆動方式
千里行車(せんりこうしゃ)の概要は、
一、名称は、千里行車、一般的には舟車或いは陸舩車)、欧米風に云えば「門弥のヴェロシペード」(Monya's Velocipede、Shoda Monya's Senri kō sha)
一、製作者は、武州兒玉郡若泉庄北堀村の正田門彌(61歳)。
一、製作年代は、1729年(享保14年)。
一、製作期間、構想から完成まで、5~6年。
一、形状は桐材を使用した木製のボート型で4輪車。一人乗り。本体のサイズは長さ2.8mで、高さは50㎝程、梶棒の高さまでは90㎝)、車体の色は墨色。
一、駆動方式は足踏み式(ゼンマイ仕掛けのラチェット方式)で箱の中の歯車を回し、車輪を回転させる前輪駆動である。後輪は操舵輪。
一、方向転換は車体の下部左右に梶取紐があり、後輪車軸が少し前後に動く。後輪は遊び車であり、車軸は回転しない。(左右の梶棒から紐で後輪車軸に繋がつている)
概念図は以下に
自転車関係資料 - 267
軍用サイクル装備の説明 (ACMI) 1943年 全90頁
ストックホルム
ARMÉNS CYKELMATERIEL-INSTRUKTION (ACMI)
FASTSTÄLLD 1943
STOCKHOLM
註、これもスウェーデンの軍用自転車の装備についての解説本
この解説書では、当時の陸軍の自転車装備品、自転車を輸送するための特殊な設備及び自転車整備士試験などについて説明している。
これらの自転車は軍用のために詳細な製造規則に従って製造された自転車である。
自転車関係資料 - 266
「自転車とオートバイの解説」
発行: ストックホルム: 国防コマンドエキスパート 1930年
スウェーデン語 145p
Instruktion för velociped- och motorcykelordonansen : fastställd 1930
Publicerad: Stockholm : Lantförsvarets kommandoexp. 1930
Svenska 145s
註、スウェーデン軍の指導書
ダルマ自転車のレターシート
このレターシートは30年以上前にダルマ自転車の意匠があるということで、八神氏からいただいたもの。
キャリッジ・スプリング(Carriage Springs)
サイエンティフィック・アメリカン誌( Scientific American)
1848年10月7日号
サイエンティフィック・アメリカン誌は、科学雑誌で1845年8月28日の創刊である。
世界最古の科学雑誌として知られている。
1848年の号を眺めていたら、自転車のような図が目に留まった。
よく見ると四輪車の馬車であった。もしこれがヴェロシペードであったならと内心期待を込めて眺めた。
自転車関係資料 - 265
「今世少年」 第1巻第4号 春陽堂 1900年(明治33年)7月23日発行
この「今世少年」は既に東野の旅行記でも紹介している。
同じ号の2か所で自転車を取り上げている。
明治30年代に入ると自転車が徐々に一般国民にも浸透してきた時代であるが、まだこの頃の自転車は高価で一部の富裕層の娯楽的な乗り物であった。
当時の銘柄としては、石川商会が取り扱っていたピアス、アイバンホー 、ノァウード、スネル、グレンドン、スー ダン、伊勢善のクレセント、双輪商会のデートンなどで殆どが米国製の自転車あった。
ダルマ自転車の風景画
下の画は雑誌の切り抜きにである。
雑誌のタイトルと発行年月日は不明。
ファーフラーの車椅子
ナショナルジオグラフィック日本版サイトに、車椅子の歴史、「車輪付きの家具」から世界を広げる乗り物へ(2023年8月12日)
の記事が掲載され、ステファン・ファーフラーのことが以下のように書いてある。
自走式の車椅子が登場したのは1655年のことだ。幼少時の事故で両脚の機能を失った時計職人のステファン・ファーフラーがドイツ、ニュルンベルクの教会に通うためにつくった。ファーフラーの発明品は、現代のリカンベント(あおむけに寝た姿勢で乗る自転車)に似ており、手回しクランクを使って前進する仕組みだった。今では、これが三輪車の先駆けと考えられているが、ユニークな発明は当時、自家動力の車輪付き乗り物の可能性を示していた。
自転車関係資料 - 264
「自転車乗車実習」昭和59年度交通安全教育指導者中央研修会資料
鳥山研究所長 鳥山新一 全6頁
この点検と整備項目は参考になる。
私も乗る前に先ず空気圧、前後車輪の振れ、サドルの上下左右位置(たまに後ろに下がるため)、ブレーキの利き、チェーンとギヤの汚れ、などを目視或いは点検している。
宮田の國華号
下の宮田の國華号の写真は、1999年(平成11年)1月1日の年賀葉書からで、当時宮田の社員であった中村安良太氏からいただいたもの。
茅ケ崎の宮田工業の正面ロビーに展示されていたとのこと、この自転車は現在どうなっているのか確認していないが、大正期に製作された自転車である。
どこかで現在も保管されていればよいのだが。
「日本で製作・販売された自転車のブランド名に関する調査研究報告」平成17年3月発行より
この調査研究報告書によると宮田製作所(当時は東京市神田区)が大正6年頃に製造販売とある。
はじめて自転車に乗ったあの日
企画展 はじめて自転車に乗ったあの日
1997年3月1日~5月30日
このイベントは師勝町歴史民俗資料館(現在は昭和日常博物館)で開催された。
内容は、昭和30年代の自転車店の再現や当時の実用車、子供車を中心に展示。
その他、和製ダルマ自転車、ランプ、各種自転車マーク等。
特に注目されるのは、 自転車店の再現で、当時の雰囲気を彷彿させ、幼い頃の風景を思い出させてくれる。
見る人によっては、三角乗りで初めて自転車に乗れた時の感動を呼び戻してくれるのでは。
4月27日には、自転車とモーターバイクのミーティングも同会場で行われた。
昭和日常博物館の所在地:北名古屋市熊之庄御榊53番地
陸奔舟車
陸奔舟車の関係資料
「憲友」軍警会 [編] 1935年(昭和10年)6月10日発行
この雑誌の121頁に陸奔舟車関係の記事あり。