2023年8月31日木曜日

鳥山新一の提言

 鳥山新一の提言

この一枚のチラシは、鳥山氏が主催した「自転車趣味の会」の時期に印刷され、関係者に配布されたものである。





「自転車趣味の会」とは、

この会は、鳥山新一氏が代表幹事となり「自転車趣味の情熱を通じて、自転車文化を守り育てる活動を展開する」ことを目的として1993年9月に設立された。

そして第1回の集い「講演とコレクション展示」が同年11月3日(文化の日)に中野サンプラザで開催された。

1993年9月30日付け
日本輪業通信

2023年8月30日水曜日

アメリカ自転車博物館

 アメリカ自転車博物館

この資料は当時、同博物館がオープンした時に名古屋の八神さんからいただいたもの。

アメリカ自転車博物館は、1993年(平成5年)8月16日にシカゴにオープンした。

この博物館のコレクションはシュイン社のものが多く含まれている。

下の写真を参照、この写真は1991年にシュイン社の博物館設立準備室を訪ねた時に撮影した。

海外情報
日本自転車輸出組合
1993年9月27日付

アメリカ自転車博物館のパンフレット

同上

シュイン社の博物館設立準備室
担当者のジム・ハード氏から説明を受ける
1991年6月25日撮影

同上

同上
写真の日付は日本時間

2023年8月29日火曜日

誰が初めに

 誰が初めに

自転車歴史研究者の中で誰が最初に門弥の千里行車、竹田近江の陸舩車、そして久平次の陸奔舟車を自転車であると云い始めたのか少し調べたところ、如何やら福島県の自転車歴史研究家の真船高年氏のようである。

それを裏付ける一つの資料が出てきた。

それは下の年賀葉書であり、この年賀葉書が作成された1988年に同氏は自転車史研究会の会報に江戸中期の自転車「陸舩車」と題し投稿している。

当時「門弥の千里行車、竹田近江の陸舩車、そして久平次の陸奔舟車を自転車である」と云っていたと思われる。

19891月の年賀状
当研究会宛に届く
 

この葉書の図とキャプションに

右上から武州児玉郡・百姓門弥の陸船車 1729

右下、彦根藩士、平石久平次の陸奔舟車 1732

左下、璣訓蒙鏡草の陸舩車 1730年 とある。

参照、

日本自転車史研究会デジタルライブラリー

26、江戸中期の自転車「陸舩車」 真船高年


2023年8月28日月曜日

埴 亀齢の三輪車 -3

 埴 亀齢の三輪車 -3

次に埴 亀齢(はに かめとし)の三輪車の駆動方式について、

以前私はこの駆動方式を、

写真が不鮮明でよく分からないが、どうやらシンガーと同様足踏み式のクランク・シャフト駆動のようである。ただし、前輪1の後輪2で、車輪構成は八幡浜から出た三輪車に似ている。

としたが、不鮮明な写真を拡大して見ると、シャフトドライブ方式ではなく、ペダルクランクによる2から3枚の歯車方式のようにも見える。

下がその拡大図である。不鮮明であることは変わりがないが、じっくりと見ているとそのように思えてくる。

先ず両足の位置であるが踏み込む角度からしてシャフトではなくペダルクランクに見える。しかしながらかなり回転が大きいようにも見える。大きな歯車を回している感じもする。

足元を見ると下駄を履いているようにも見える。下駄はパダルか、それとも下駄の下にシャフトがあるのか。

右足の下の部分を見ると右側に歯車のようなものが見える。

ステアリングと本体の接続構造がよく分からない。

吉田教授は、「埴亀齢の研究はテコの原理を応用し、 テコで歯車を動かし、小歯車から大歯車に、 それからコースターをして二つの大車輪を廻すことにした前一輪、後二輪の三輪車であった。

と書いているが、この説明だけではよく分からない。テコの原理であるならば大歯車から小歯車をまわすことではないのか。その方が楽で、スピードも出るのではないか。車軸にも歯車が付いていたはずなので、全部で歯車は3個となるのか。

何れにしてももう少し鮮明な画像が欲しいところである。

今後また新たな資料が出てくれば紹介したい。

取り敢えず、結論としては、

一、製作年代は、明治30年代後半。

一、駆動方式は、ペダルクランクによる歯車方式。(いまだ分明ならず)

以上

216頁に例の三輪車の写真
日本医師会雑誌 昭和53年1月15日
国会図書館所蔵資料

埴 亀齢 -2

 埴 亀齢の三輪車 -2

埴 亀齢(はに かめとし)の略歴、

埴 亀齢は安政5年(1858) 11月23日信州坂木(現在埴科郡坂城町) の町医・児玉正彦の二男として生まれた。 

父正彦は明治6年(1873) 1月28日 64歳で不慮の死を遂げた。

明治7年8月18日、 文部省から医制が東京・京都 大阪の3府に布達され、 医師になるためには西洋医学による開業試験を要することになった。これは世襲であった漢方医にとって青天の霹靂のことであった。 この布達に刺激された埴 亀齢は笈を負って16歳で上京。

信越線が全通したのは明治26年4月1日であるから、当時は軽井沢・倉ヶ根・熊谷・蕨などに途中4泊して入京した。 したがってこの上京は年若い亀齢にとって誠に心寂しい旅であった。

そして陸軍軍医監、緒方惟準(おがた これよし、洪庵の次男) の塾(神田駿河台南口賀17番地)に入り、明治7年10月1日より明治10年2月までに医科全科を修業した。 

卒業するや直ちに明治10年3月、 東京府庁へ医術開業試験の受験を出願し、 8月受験を結了。

明治11年11月2日、第1438号をもって開業医免状を下付される。

明治12年4月19日、「依願傭差免候 警視局」の辞令を受け帰郷。

明治12年5月、21歳で坂城町で開業。開業した翌年の明治13年に更級郡と埴科郡の医師十数名と協力して起百社なる会合を作り医学・衛生上に関する事理を研究することにした。 

明治15年1月19日、埴科郡郡医に長野県から任命された。

明治17年4月25日、 微兵検査御用のため徴兵医員を依嘱され、診療を中止して、 下伊那・飯田・東筑摩・松本に出張し、公務に尽力した.

明治19年6月12日、上田町の沓掛ハルを妻に迎える。亀齢28歳、ハル18歳。

起百社は明治21年7月に到り、起百社衛生会と起百舎医学会に二分。

明治25年3月信陽医学会を発足させた。

明治28年頃、坂城から妻の実家である上田町鎌原に転居し診療所を開設。

明治32年、自ら発案した医薬分業を実践する。

明治39年5月25日、妻ハルが肺結核で世を去る。また実施した医薬分業のため患者が減少し、失意の状態に陥る。このころから各種の発明に寝食を忘れ没頭する。最も苦心したのは三輪車の製作であった。

吉田 元 教授は次のように述べている。

「埴亀齢の研究はテコの原理を応用し、 テコで歯車を動かし、小歯車から大歯車に、 それからコースターをして二つの大車輪を廻すことにした前一輪、後二輪の三輪車であった。その型は人力車からヒントを得たもので、鉄輪であったが、外国からの知識でなく、純日本的で、 鍛治屋を相手に古物を利用し、自らヤスリを手にして製作したものである。」

大正2年、上田を引払い近隣の小県郡和村に転居。和村は山村のため愛用の三輪車は上田に置き去り、馬に乗って往診し、和歌と囲碁を趣味とした。和村に居住すること17年。

昭和4年5月、72歳で急性肺炎を患い、この世を去った。

参考資料、日本医師会雑誌、第79巻、第2号 昭和53年1月15日

「長野県における明治の医薬分業実践者埴 亀齢医師」柳沢文秋

216頁に例の三輪車の写真
日本医師会雑誌 昭和53年1月15日
国会図書館所蔵資料

註、この略歴を見ると三輪車を製作したのは明治39年頃とある。明治30年代後半と云えば既に安全型二輪車は数多く輸入され、この上田にも何台かは入っていたと思われる。
或いはいくら練習しても二輪車に乗れないために自分で三輪車を工夫し製作することになったのかどうか。明治39年であれば既に彼の年も48歳になっている。

小県上田歴史年表 第4輯(昭和38年-44年)の44頁に、
上田町の自転車
明治35~36年頃、上田町に津田という人が夫婦で自転車を乗りまわしていた。
これに刺激されて人力車の古輪で三輪車を工夫した埴 亀齢医師(鎌原住)の長男と次男から直接その話を聞く。

とあり、やはり三輪車の製作年は明治30年代後半ということになる。

2023年8月27日日曜日

埴 亀齢の三輪車

 埴 亀齢の三輪車

昨日、以前に撮影した写真を整理していたら、埴 亀齢(はに かめとし)の三輪車の写真が出てきた。この写真は上田城址へ旅行に行った際に資料館で撮影したものである。館内は薄暗くどうしてもフラッシュをたかないと撮影できない。そしてどの写真もフラッシュの光がパネル写真に反射して肝心な駆動部分などが分からない。

この埴 亀齢の三輪車のことを知ったのは1967年3月号のニューサイクリング誌に掲載された記事である。下がその号。

ところでこの三輪車の製作年代について調べてみたが、どうやら明治20年代ではなく、明治30年代であることが分かってきた。

以前、私は「自転車の歴史探訪」で次のように書いた。

信州の上田城にある資料館に1枚の古い写真パネルが飾られている。この写真は大きな三輪車に男性が乗っている。この男性の名は埴 亀齢(1858年~1929年)である。この土地で医者をしていた人物である。若い頃、緒方洪庵が創設した適塾で医学を学んでいる。その後、信州に帰り、生まれ故郷で開業した。

 当時は往診に人力車を利用していたが、経費節減のため自分で乗り物を作ることを思いついたのである。そして、村の鍛冶屋と協力して一台の三輪車を製作した。残念ながら現物はすでに処分されていて無い。

 この三輪車、写真が不鮮明でよく分からないが、どうやらシンガーと同様足踏み式のクランク・シャフト駆動のようである。ただし、前輪1の後輪2で、車輪構成は八幡浜から出た三輪車に似ている。

 製作年代も分からないが、彼の生年月日から推論して、1888年(明治20年)前後ではなかったかと思う。

 私は、以前この写真を見に上田城へ行ったことがある。薄暗くて写真がうまく撮れなかった。フラッシュをたくと反射して、光ってしまったことを思い出す。


今回の調査でこの記事の疑問点を整理すると、

一、製作年、「彼の生年月日から推論して、1888年(明治20年)前後ではなかったかと思う」

一、駆動方式、「どうやらシンガーと同様足踏み式のクランク・シャフト駆動のようである」

の部分である。

この辺について、これから何回かに分けてこのブログで説明したい。

上田城址の資料館で撮影

同上
この写真でパネルの大きさは
約30㎝×35㎝

「純日本式の最初の自転車」吉田 元
   『ニューサイクリング誌』№31 1967年3月号
資料提供:渋谷良二氏

2023年8月25日金曜日

50年前のヴェロシペード

 50年前のヴェロシペード

ハーパース・ウイークリー誌 1869年3月6日号より、

50年前のヴェロシペード

149頁



50年前のヴェロシペード
今まさにニューヨークで大人気のヴェロシペードは、ちょうど 50 年前にこの街に持ち込まれたものである。 
それはドイツの貴族、シャルル・ド・ドライス男爵の発明であるとされており、彼はバーデン大公に属する森林の管理者としての公務を遂行中にそれを使用した。
それは長い間、発明者によりドライジーネと呼ばれていた。 そして、今世紀初頭イギリスに導入されたとき大いに流行した。
そして有効性とスピードを考慮して製作された。
そのマシンの性能と特性は次のように説明された。

1. よく整備された道は、人間が歩くのと同じくらいの速さで丘を登っていく。
2. 平地では、大雨が降った後でも、時速 6 ~ 7 マイルで進む。
3. 道路が乾いているときは、平地を時速 8 マイルで走る。
4. 下り坂では、全速力で馬に匹敵する。

出版社から抜粋したイラストを調べてみると、
1819年にロンドンのアッカーマンによって発表されたものは、クランクまたは「足踏み」を除いて、現在私たちがヴェロシペードと呼んでいるものとまったく同じであると認識されるだろう。
英国人はこれらのマシンを「ホビーホース」または「ダンディホース」と呼んだ。 
彼らはこの名前で街を走った。 
当時の広告では、それらは「止まり木で接続された 2 つの車輪が前後に並んでおり、その上にサドルが座席として置かれている」と説明された。
前輪は、手元にある湾曲したレバーまたは舵によってガイドされるピボットを中心に回転するように作られている。 前腕は前方のクッションの上に置き、この位置で両手で舵を握る。
マシンとライダーはこれにより平衡状態を保つ。
英国のスポーツ愛好家はしばらくの間、ヴェロシペードを歓迎した。 
しかし、ジョージ・ベン・ティンク卿と彼らは最終的にそれに反対の声明を出し、若者の低俗な遊び道具のレベルに下がり、おもちゃか趣味以外の観点では見なされなくなった。 
それでも流行は続き、ロンドンの靴メーカーは、つま先に鉄が入った丈夫な靴を製造し、この「ヴェロシペダー」が地面を歩くときに足を保護した。
これがニューヨークにやって来たとき、市民は驚きと喜びで興奮した。
メーカーはしばらくの間、需要に応えることができなかった。 ・・・・

2023年8月24日木曜日

ブリヂストンのカタログ

 ブリヂストンのカタログ

このカタログはブリヂストンが海外向けに発行したもの。

1992年版である。

表紙の写真は釣り人がブリヂストンの実用車に乗って湖畔を訪れたところのようである。

自転車の前には水鳥が4羽見える。

なぜ表紙に最新のスポーツタイプではなく実用車を選んだのか少し疑問だが、日本車をイメージするにはこの車種がよかったのかも知れない。

カタログの表紙

ブリヂストンのスタッガード型実用車
参考写真



ブリヂストンサイクルの沿革(同社のHPより)

昭和24年(1949) ブリヂストンタイヤ株式会社より分離独立、「ブリヂストン自転車株式会社」を創設。
昭和26年(1951) ダイカスト法による自転車車体製造に関し、日、英、仏、蘭、伊5ヶ国の特許認可。
昭和28年(1953) ブリヂストン工機株式会社の前身、「大谷機械工業株式会社」が設立。
昭和35年(1960) 埼玉県上尾市に上尾工場を新設。
プリンス自動車工業株式会社(ブリヂストン姉妹会社) より小型エンジン部門を移し、原動機付二輪車「ブリヂストンチャンピオン」及び自転車の製造を開始。
社名を「ブリヂストンサイクル工業株式会社」と改称
昭和41年(1966) 軽快車「ス−パ−ライト」(展示品)並びに子供用三輪車「ジェット・バンビ-」が業界初 のグッド・デザイン賞を受賞。
昭和43年(1968) 「ダイカスト法による自転車フレ-ム製造法」が経費節減と生産性向上の優れた研究業績であると認められ、業界初の大河内記念生産賞を受賞。
昭和44年(1969) ベルギ-のべカルトエンジニアリング社と、タイヤ用スチ-ルコ-ド製造機械 の技術援助契約を締結。
昭和45年(1970) 工機部門を新設し、タイヤ用スチ-ルコ-ド製造機械の生産を開始。
昭和46年(1971) 埼玉県北埼玉郡騎西町に騎西工場を開設し操業を開始。
昭和51年(1976) 社名を「ブリヂストンサイクル株式会社」と改称。
佐賀県三養基郡北茂安町に佐賀工場を開設し操業を開始。
昭和53年(1978) 「大谷機械工業株式会社」が社名を「ブリヂストン工機株式会社」に改称。
昭和57年(1982) ベルトドライブシステムを開発。
昭和59年(1984) ギヤ式無段変速機を開発。
昭和60年(1985) 構造接着工法の開発により、アルミ・カ-ボン等新素材を自転車フレ-ム量産に活用。
昭和61年(1986) フロント内装4段変速機を開発。
昭和62年(1987) ベルトドライブ機構(フロ-ティングギヤ方式)により全国発明表彰特別賞を受賞。
昭和63年(1988) 「FFS(ファミコン・フィットネス・システム)」を開発。
オ-ダ-システム「テ-ラ-メイド」の生産開始。
平成元年(1989) 株式会社ブリヂストンと「ダイナリッジタイヤ」を共同開発。
新型3輪自転車(前2輪・後1輪)「ミンナ」を開発。
平成2年(1990) 新発電システム「点灯虫」を開発。
平成3年(1991) 最適形状理論による「ネオコットフレ-ム」を開発。
ブリヂストン工機株式会社が東松山に移転、操業を開始。
平成5年(1993) 埼玉県北埼玉郡川里村に東日本物流センターを開設し操業を開始。
平成6年(1994) 中国に「常州金獅普利司通自行車有限公司(合弁会社)」を設立。
「ネオコット・カーボンモノコックフレーム」を開発。
平成7年(1995) 「ワンピボットサス付軽快車」を開発。
平成9年(1997) 「ブリヂストン工機株式会社」と合併。
平成10年(1998) 片持ち式シャフトドライブ自転車「トランジット」(展示品)がGデザイン賞グランプリを受賞。 「電子制御式自動変速機付き自転車」を開発
「キーレスキー」を開発
「最高級スポーツ車アンカー」を開発
平成11年(1999) カーバイシクル 「トランジットシリーズ」を開発
常州金獅自行車との合弁を解消し、「常州金獅普利司通自行車有限公司」を「常州普利司通自行車有限公司」と改編
平成12年(2000) 株式会社ブリヂストンと「タフロードタイヤ」を共同開発
英国モールトン社と「ブリヂストン/モールトン」を共同開発
平成13年(2001) アルミフレームとベルトドライブ機構をドッキングした「アルベルト」がヒット商品になる世界初の適性空気圧を目視できる空気圧チェッカー「空気ミハル君」を開発
平成14年(2002) 手元レバーでサドルが上下できるラク乗りシート装着の「ラクラク」を開発
ハイパーサスペンション装着の「アルサス」を開発
平成15年(2003) 後輪錠をロックすると同時にハンドルもロックする「一発二錠」、白色LED灯使用で玉切れがなく明るい「ホワイトフラッシュ点灯虫」を開発。
団塊の世代向けのニューコンセプトバイク”大人の自転車”「アビオス」を開発。
平成16年(2004) 車輪が回転すると、自動的に空気がタイヤのチューブに送り込まれ、常に快適走行ができる「エアハブ」、踏み出しが軽く、踏み出し時のフラツキを防止する「楽スタート」を共同開発
平成17年(2005) お子様の安全を科学的に分析した「スーパーエンジェルシート」や手を離さずにハンドルがロックできる「テモトデロック」を装着した子供乗せ付自転車「アンジェリーノ」を開発。
“愛地球博”(愛知万博)の会場内を、電動アシスト機能をベースとした3人乗り「自転車タクシー」が走行。
平成18年(2006) ゆったり乗れる街乗り自転車をrelaxybikeとして「ベルトロ」「ベガス」の2機種開発。スポーツ車需要の拡大を目的とした「オルビー」や子供乗せ付自転車で後部シートを装着した「アンジェリーノR」の開発。
平成19年(2007) 4月1日に工機事業本部を分離。
平成20年(2008) サイクリングSNSに繋がるサイクルメーター「emeters」の開発
平成21年(2009) 創立60周年記念式典
3人乗り(幼児2人同乗)の厳しい安全基準を満たした自転車「アンジェリーノ」・「ボーテ」発売
ショールーム兼オフィス「バイクフォーラム青山」オープン
平成22年(2010) おしゃれで実用的な女性の為の自転車JOSIS-WGN(ジョシスワゴン)発売
平成23年(2011) VERY(ヴェリィ) コラボ おしゃれな子供乗せ電動アシストモデル“HYDEE.B(ハイディビー)”発売
平成24年(2012) 「アンジェリーノプティット」がグッドデザイン・ベスト100受賞
親子でコーディネートを楽しめるペア・バイシクル「bikke(ビッケ)」発売
平成25年(2013) スポーツバイク領域に対応したベルトドライブ「カーボン・ソリッド・ドライブ」の開発
平成26年(2014) シニアでも乗りやすい、かんたん電動アシスト自転車「アシスタユニプレミア」発売
アソビゴコロ目覚めるジュニア用プレイバイク「BWX」発売
平成27年(2015) フロントモータードライブ(前輪)と、ベルトドライブ(後輪)を組み合わせた、両輪駆動の電動アシストシステム「デュアルドライブ」を独自開発
「自転車と」あらゆるライフスタイルをつなぐコンセプトショップ「RATIO &C(レシオ・アンドシー)」をオープン
平成29年(2017) 「エアフリーコンセプト」を用いた新しいデザインの自転車用次世代タイヤを開発
平成30年(2018) ブリヂストンサイクル東日本販売株式会社およびブリヂストンサイクル西日本販売株式会社を吸収合併
シニア向け電動アシスト自転車「フロンティアラクットシリーズ」発売
令和元年(2019) ブリヂストンのトラック用自転車が自転車競技トラック日本代表に正式採用
令和2年(2020) 走りながら自動充電を搭載した電動クロスバイク「TB1e」発売

2023年8月23日水曜日

千里行車の駆動方式

 千里行車の駆動方式

正田門弥の千里行車の駆動方式

千里行車(せんりこうしゃ)の概要は、

一、名称は、千里行車、一般的には舟車或いは陸舩車)、欧米風に云えば「門弥のヴェロシペード」(Monya's Velocipede、Shoda Monya's Senri kō sha)

一、製作者は、武州兒玉郡若泉庄北堀村の正田門彌(61歳)。

一、製作年代は、1729年(享保14年)。

一、製作期間、構想から完成まで、5~6年。

一、形状は桐材を使用した木製のボート型で4輪車。一人乗り。本体のサイズは長さ2.8mで、高さは50㎝程、梶棒の高さまでは90㎝)、車体の色は墨色。

一、駆動方式は足踏み式(ゼンマイ仕掛けのラチェット方式)で箱の中の歯車を回し、車輪を回転させる前輪駆動である。後輪は操舵輪。

一、方向転換は車体の下部左右に梶取紐があり、後輪車軸が少し前後に動く。後輪は遊び車であり、車軸は回転しない。(左右の梶棒から紐で後輪車軸に繋がつている)

概念図は以下に

概念図

月堂見聞集にある図
国会図書館所蔵資料

世説海談の図 
国立公文書館所蔵資料

2023年8月22日火曜日

自転車関係資料 - 267

 自転車関係資料 - 267

軍用サイクル装備の説明 (ACMI) 1943年 全90頁

ストックホルム 

ARMÉNS CYKELMATERIEL-INSTRUKTION (ACMI)

FASTSTÄLLD 1943

STOCKHOLM

註、これもスウェーデンの軍用自転車の装備についての解説本

表紙
日本自転車史研究会所蔵

47頁

48、49頁

53頁

74頁

この解説書では、当時の陸軍の自転車装備品、自転車を輸送するための特殊な設備及び自転車整備士試験などについて説明している。

これらの自転車は軍用のために詳細な製造規則に従って製造された自転車である。


2023年8月21日月曜日

自転車関係資料 - 266

自転車関係資料 - 266

「自転車とオートバイの解説」

発行: ストックホルム: 国防コマンドエキスパート  1930年

スウェーデン語 145p

 Instruktion för velociped- och motorcykelordonansen : fastställd 1930

Publicerad: Stockholm : Lantförsvarets kommandoexp. 1930

Svenska 145s

註、スウェーデン軍の指導書

表紙
日本自転車史研究会所蔵資料

40、41頁

ヴェロシペード
ヴェロシペードの部品と付属品。
velocipede (図 21) は次の主要部品で構成されている。フレーム、フロントフォーク、ステアリング、ベアリング部品、コートと上部カラビナホルダーを取り付けるためのラグ付きのハンドルバー、ペダルとスプロケット付きのクランク部品、チェーン、チェーンテンショナー、ホイールハブで構成されている。 (図、22 および 23)、エア・チューブとウェア レール付きのスポークとリム、ブラケットとブレース付きのフェンダー、及びシート ポスト付きのサドル。
ヴェロシペードにはフレームバッグが付属している。 また、ランタン (図 24)、ベル、走行距離計、コート、調理鍋、カラビナとポンプ ホルダー、ホース付きポンプ、必要な工具と修理用付属品が入ったツール バッグなど特定の装備。


44、45頁
カーバイド(アセチレン)ランプ

46、47頁
オートバイ

2023年8月19日土曜日

ダルマ自転車のレターシート

 ダルマ自転車のレターシート

このレターシートは30年以上前にダルマ自転車の意匠があるということで、八神氏からいただいたもの。


提供:八神史郎氏

南アフリカ共和国のケープタウンにあったペニー・ファージング サイクルワークス

ヤガミコーポレーション宛の手紙、1985年5月24日付け
文面の内容は自転車用チューブに関する取引。
シートの下部に懐かしいウォルバーやマビックのロゴもある。

Googleストリートビューでこの会社を調べたところ、現在はこの場所に無かった。

特にウォルバーのチューブラー・タイヤには世話になった。しかし、よくパンクした思い出もある。サドル下には常にこの予備タイヤをトゥークリップ用のビンダのストラップで保持しながら走っていた。

2023年8月18日金曜日

キャリッジ・スプリング

 キャリッジ・スプリング(Carriage Springs)

 サイエンティフィック・アメリカン誌( Scientific American) 

1848年10月7日号

サイエンティフィック・アメリカン誌は、科学雑誌で1845年8月28日の創刊である。

世界最古の科学雑誌として知られている。

1848年の号を眺めていたら、自転車のような図が目に留まった。

よく見ると四輪車の馬車であった。もしこれがヴェロシペードであったならと内心期待を込めて眺めた。


キャリッジ・スプリングの発明

サイエンティフィック・アメリカン誌
1848年10月7日号


この図は、ペンシルベニア州サスケハナ郡スプリングビルのエラスタス T. スプラウト(Erastus T. Sprout)によるキャリッジ・スプリングの発明。
新しく改良されたキャリッジ・スプリングの側面図である。
1847年7月18日に特許状が彼に交付された。
A A、車輪。 C はキャリッジの本体で、この図ではかなり位置が高く配置されている。 B B は、スプリング。 F F はキャリッジの本体の下で互いに交差し、バーと弾性鋼製スプリングパーチを通過するボルトによって取り付けられている。・・・・

2023年8月16日水曜日

自転車関係資料 - 265

 自転車関係資料 - 265

「今世少年」 第1巻第4号 春陽堂 1900年(明治33年)7月23日発行

この「今世少年」は既に東野の旅行記でも紹介している。

同じ号の2か所で自転車を取り上げている。

明治30年代に入ると自転車が徐々に一般国民にも浸透してきた時代であるが、まだこの頃の自転車は高価で一部の富裕層の娯楽的な乗り物であった。

当時の銘柄としては、石川商会が取り扱っていたピアス、アイバンホー 、ノァウード、スネル、グレンドン、スー ダン、伊勢善のクレセント、双輪商会のデートンなどで殆どが米国製の自転車あった。


目次
「今世少年」 第1巻第4号 
国会図書館所蔵資料
以下同じ

51頁

奥付


自轉車談(上)
曙山生
自轉車といふものが我邦へ輸入されたのは、割合に久しき以前からであつて、其頃は二輪車といふものは、木製のガタ車でなければ、前輪の頗る大きい、後輪の頗る小さい車ばかりであつて、今の安全式といふものは皆無であった。
夫で是等の車を一時間三銭若しくは四銭で貸す店が、外神田の秋葉原に三四軒あつて、盛んに學生や丁稚先生の間に持て囃されて居たが、何時しか借馬と共に衰微して来た頃に、始めて安全式といふものが、横濱の波止場へ陸揚されたのである。
此安全式といふものは、外国でも至つて最近の發明であつて、これは前後輪共同一の大さで、歯車と鎖の仕掛で、非常の速力を与えるやうに成つて居る。・・・

2023年8月15日火曜日

ダルマ自転車の風景画

 ダルマ自転車の風景画

下の画は雑誌の切り抜きにである。

雑誌のタイトルと発行年月日は不明。


ダルマ自転車の風景画

現在のこの辺りか?
Googleストリートビューより

グーグルマップより


説明文には、ルドヴィク・クバ の水彩画で百年以上前に描かれたものとある。
ルドヴィク・クバは、チェコ (Ludvík Kuba.1863-1956)の芸術家である。

この画は、ポジェブラディ近くのチュルメク・ナド・シドリノウとフラデツ・クラーロヴェに向かう国道とイチンへの分岐点にあるナ・ヴルチェニの一里塚で、サイクリストが腰を下ろし休憩している。

ルドヴィク・クバがダルマ自転車を描いた風景画で、自転車も正確に描いている。
この水彩画は、同時にチェコ自転車誕生当時の輸送技術とその組織に関するユニークな技術資料とも云える。
ナ・ヴルチェニという不思議な名前を持つこの場所は、現在どのようになっているか? チェコの風景とテクノロジーはどのような変化を遂げたのか? 

2023年8月14日月曜日

ファーフラーの車椅子

 ファーフラーの車椅子

ナショナルジオグラフィック日本版サイトに、車椅子の歴史、「車輪付きの家具」から世界を広げる乗り物へ(2023年8月12日)

の記事が掲載され、ステファン・ファーフラーのことが以下のように書いてある。

自走式の車椅子が登場したのは1655年のことだ。幼少時の事故で両脚の機能を失った時計職人のステファン・ファーフラーがドイツ、ニュルンベルクの教会に通うためにつくった。ファーフラーの発明品は、現代のリカンベント(あおむけに寝た姿勢で乗る自転車)に似ており、手回しクランクを使って前進する仕組みだった。今では、これが三輪車の先駆けと考えられているが、ユニークな発明は当時、自家動力の車輪付き乗り物の可能性を示していた。

ファーフラーの三輪車
ペダルクランクと前輪の歯車が連動
三輪車や自転車の元祖とも云われている
「自転車とサイクリスト」
ヴィルヘルム・ウルフ著 1890年発行

2023年8月13日日曜日

自転車関係資料 - 264

 自転車関係資料 - 264

「自転車乗車実習」昭和59年度交通安全教育指導者中央研修会資料

鳥山研究所長 鳥山新一 全6頁

この点検と整備項目は参考になる。

私も乗る前に先ず空気圧、前後車輪の振れ、サドルの上下左右位置(たまに後ろに下がるため)、ブレーキの利き、チェーンとギヤの汚れ、などを目視或いは点検している。

表紙
日本自転車史研究会所蔵

2、3頁
自転車利用者が行う点検と整備

2023年8月12日土曜日

宮田の國華号

 宮田の國華号

下の宮田の國華号の写真は、1999年(平成11年)1月1日の年賀葉書からで、当時宮田の社員であった中村安良太氏からいただいたもの。

茅ケ崎の宮田工業の正面ロビーに展示されていたとのこと、この自転車は現在どうなっているのか確認していないが、大正期に製作された自転車である。

どこかで現在も保管されていればよいのだが。


中村安良太氏からの年賀状より

大正14年発行の日本輪界興信名鑑
国会図書館所蔵資料 コマ番号22

国華号のマーク

「日本で製作・販売された自転車のブランド名に関する調査研究報告」平成17年3月発行より

この調査研究報告書によると宮田製作所(当時は東京市神田区)が大正6年頃に製造販売とある。


2023年8月11日金曜日

はじめて自転車に乗ったあの日

 はじめて自転車に乗ったあの日

企画展 はじめて自転車に乗ったあの日

1997年3月1日~5月30日

このイベントは師勝町歴史民俗資料館(現在は昭和日常博物館)で開催された。

内容は、昭和30年代の自転車店の再現や当時の実用車、子供車を中心に展示。

その他、和製ダルマ自転車、ランプ、各種自転車マーク等。

特に注目されるのは、 自転車店の再現で、当時の雰囲気を彷彿させ、幼い頃の風景を思い出させてくれる。

見る人によっては、三角乗りで初めて自転車に乗れた時の感動を呼び戻してくれるのでは。

4月27日には、自転車とモーターバイクのミーティングも同会場で行われた。

昭和日常博物館の所在地:北名古屋市熊之庄御榊53番地


(情報と写真提供:冨成一也氏)

同上

左隅のダルマ自転車にも注目


私が初めて自転車に乗れたのは小学校2年生の時(1956年・昭和31年)である。秦野市立本町小学校の校庭で自転車乗りの練習が始まった。この校庭からは丹沢の表尾根である二ノ塔や三ノ塔などがよく見える。
 父の大きな黒塗りの実用車を引っ張り出してきて、校庭で自転車訓練の開始である。最初は自転車の後ろ荷台を兄に支えてもらいスタートする。当然、チビなのでサドルには跨げない。そこで当時の子供が誰でもやっていた三角乗りという方法である。最初は自転車のバランス感覚をつかむためペダルは漕がず、後ろから兄に押してもらう。自転車が少し加速したところで、知らない間に兄の手が荷台から少し離れる。転倒しそうになるとまたすぐに荷台を支えてもらう。だが何度も転倒し膝などをすりむく。このような試練を経て練習をかさねるうちに体がバランス感覚を覚え、後ろの兄がいつ手を放しても徐々にその走行距離が伸びてくる。最終的には自分だけの力でスタートできるようになる。これをさらに何度も繰り返すうちに、今度は両足を使って、三角乗りの状態でペダルを回転させる。直進だけであったものがハンドルを少し動かし方向転換もできるようになる。だがやはり何度も転ぶ。
この段階になると自転車に乗れたという感覚になり、楽しさは倍増する。徐々に自転車がコントロールできるようになった証拠でもある。学校から15時ごろ帰ると17時ごろまで雨が降らない限り練習を繰り返す。毎日、3時間以上は練習したはずである。
この練習が日課のようになってから1週間ぐらいして、かなり走行距離を延ばすことができるようになると、いよいよ校庭から一般道路に出ることになるが、自分の家の前の通称「醍醐道」は殆ど車が通らないので危険はない。ただ、水無川の北側方向にはすぐに坂があるので、三角乗りでは登ることができなかった。ここは自転車から降りて押すことになる。また、平たんになったところで自転車に乗る。
 自転車に乗れるようになると、大げさに云えば世界が広がったように思えてくる。どこでも行かれるような気分と感覚になる。自転車のすばらしさを初めて体感したのである。

2023年8月10日木曜日

陸奔舟車

 陸奔舟車

陸奔舟車の関係資料

「憲友」軍警会 [編] 1935年(昭和10年)6月10日発行

この雑誌の121頁に陸奔舟車関係の記事あり。


「憲友」121頁
国会図書館所蔵資料
以下同じ

122頁

奥付


「憲友」121、122頁

陸奔車に關する記録發見
自動車の發明は日本が最初か

段々研究して行くと世界の科學的發明の最初がどれもこれも日本らしい、たゞどれもこれも完成しないのが遺憾だが著想だけは確かにいい、大毎子の報道によると自動車の發明が日本が最初らしい記録が出現したといふのである。
江州彦根藩士平石久平治時光は享保年間に於ける天文學者として知られた人だが、彦根町史編纂資料蒐集中の史蹟研究家中川泉三氏は四月二十一日時光の子息彌右衛門重實が同町長松院境内の中に埋めていた時光の遺書類中からはからずも陸奔車創製の原書を登見した、 陸奔車とは現在の自動車と同じ乗物で享保十八年に完成試乗に成功したもので、それは今から二百年前の事である。
木製自動車の陸奔車は桐材を使って作られた小舟型の長さ九尺、外面は黒塗、 中央に楫を立て、運轉者が自らその楫を執て前進する、 舟型の下には四輪車があり、二輪は中央の左右に現はれ、二輪は前後につけ車を隠し、その艗車、後車を奔車、左右二輪を遊行車と名づけ、車は大小ある、速力は一刻に七里を走ると記されてあるから、いまの時間で一時間三里半のスピードが出るわけで、進止屈曲も楫によつて自由で、その原書の賛辞を訳すると、「手に舞し足にて踏む、實にこの器ありて行かんと欲するものは足下にて往き、止まらんと欲せば直に止り、曲らんと欲すれば掌中にて曲る鳴呼奇なる哉」と賛し、機関部は簡単なれど秘して圖とせずと断って居るが、この新考案發明品も、頑冥な当時の権勢者に容れられず、「人間には足がある、危険の伴ふ乗物まかりならん」と叩き壊はされ、文書によつてのみ會心の創作品を鐵塔下に埋め遺して置いたのである。

註、この記事によると大阪毎日新聞に掲載された記事とある。
但し年月日は書いていない。
昭和10年4月であることは間違いない。
4月21日に発見とあるから、他の資料から類推して4月23日の記事と思われる。