ペニー・ファージング(英: penny-farthing)、日本ではダルマ自転車、アメリカではハイ・ホイール・バイク(米語: high wheel bike)、イギリスでは当時、オーディナリー(英: ordinary)とも呼ばれていた。
2020年9月30日水曜日
2020年9月29日火曜日
お寺のダルマ自転車
私が単身赴任で浜松に行っていたころの出来事である。
タイトルは「お寺にあったダルマ自転車」である。
袋井市にある古刹、真言宗の法多山尊永寺(はったさん そんえいじ)で、境内の物置のような建物の軒のところで、ダルマ自転車があるのを発見した時の話である。発見した時の感動はいまでもはっきりと覚えていて2、3日頭から離れず眠れないこともあった。この法多山へは浜松に居た2年間に少なくとも5回ぐらいは参拝に訪れている。神奈川県で言えば大雄山を思わせる雰囲気のお寺である。
お寺にあったダルマ自転車
昭和55年11月のある日、浜松市内の共栄モータースというオートバイ屋の親父さんから耳寄りな話しを聞いた。それは、以前静岡県袋井市にある法多(はった)山尊永寺というお寺に行った時の話しで、そのお寺のお堂の中に木製の自転車が置いてあるのを見たという。お堂の中は薄暗くてよくわからなかったが確かにあれは自転車だったという。
2020年9月28日月曜日
銀輪のわだち その1
1983年4月15日から季刊「サイクルビジネス」(自転車専門店の経営情報誌、ブリヂストン株式会社発行)に連載した「知られざる銀輪のわだち」を何回かに分けて掲載する。
この原稿は私が書いて当時担当であった高橋 達氏が編集したものである。(今回の掲載にあたり一部修正加筆した部分あり)
ブリヂストンサイクルが一昨年ごろから雑誌への企業広告に、自転車の歴史物語をつぎつぎと取上げている。これは私にとってちょっと嬉しい。私は勤めをする余暇に、日本の自転車史の研究を趣味としている。二年半ほど前からは同好の人たちと『日本自転車史研究会』を発足させ、昨年一月からはささやかながら隔月刊で機関誌を発行するようになった。とはいうものの、私と自転車とのつき合いはそんなに古いものではない。小学校のころ乗って遊んではいたが、それはだれにでもあることで、本格的に自転車に関心を持ち出したのは、10年前に就職をしてからである。そのころ、雑誌や新聞でラーレーやモトコンフォート、プジョーなどの外国自転車の広告を見て、そのシンプルなシルエットに魅力を感じ通勤用に買い求めたのがはじまりで、これは変速機のないものだったが、すぐにロードレーサーを買い足した。自動車との接触事故もおこしたが、自転車への愛着は増すばかりで、つぎつぎと外国製の自転車を買い入れ、欧米の専門誌も集め、競技にも参加するなど、ついには職場でも,自転車狂い、にされてしまった。外国製の自転車でスタートした私の趣味は、あるとき「日本の自転車は、どんな生いたちをしてきたのだろう?」という疑問から方向が変った。俗に「わが国に自転車が入ってきて100余年」などといわれるが、その歴史的資料はきわめて少ないことがわかり、また研究する人も数少ないことがわかってきた。このため、手探りの日本自転車史の研究がはじまった。この雑誌の読者は自転車店主だそうであるから、連載を通じて関心のある方や資料をお持ちの方と接触できることを楽しみにしている。
初登場は、一年さかのぼる2020年9月27日日曜日
鈴木三元
どちらもイギリスのシンガー三輪車の影響を受けたからである。
私と三元車との出合いは、一本の電話から始まる。1982年頃、名古屋のM氏から知り合いの骨董屋さんが、昭和57年4月に開催された東京・平和島の骨董市で見つけた農機具のような三輪車の由来を調べているとのことで照会があった。その三輪車の車体の一部に「三元」という文字が刻印されているという。当初は分からなかったが、電話で話している最中に、明治9年頃の新聞に載っていた鈴木三元を思い出し、若しやと思い鈴木三元についてその時の知りえる情報を伝えた。
その後、新聞紙上や自転車文化センターで開催された明治自転車文化展で一躍三元車が有名になり、歴史的な大発見の方向へ進んで行った。
今では鈴木三元の郷土である桑折町でも、町おこしに三元車が大きな看板になり、盛大なイベントも開催されている。鈴木三元が考案した大河号や4人乗り三元車のレプリカまで製作して町の観光に一役かっている状況である。それはいいとして。
ここで、少し整理をしながら三元車について再度探ってみたい。
疑問点その一、
私は明治自転車文化展の時に注意しながらフレームなどを丹念に見たつもりだが、いまだに三元と刻印された部分を見ていない。この刻印がきっかけで三元車の情報が広がっていったわけであるから、是非その部分を確認したいと思っている。
疑問点その二、
交通史研究家の齊藤俊彦氏の調査した三元車といわゆるシンガー型三元車を比較した場合の大きなギャップである。まったく違和感があり同じ鈴木三元が製作した三輪車とはどうしても思えない。私は以前から齊藤氏が調査研究した三元車が本筋であり、これが三元車だといまも思っている。明治自転車文化展の時もシンガー型三元車に何か常に違和感を感じていた。明治自転車文化展がシンガー型三元車の歴史的価値を誇大に評価宣伝してしまったのではないかと感じている。決して当時の関係者(私も実はその一人だが)を批判する訳ではないが、歴史的な評価はつねに公平で、ある程度納得できるものでなければならないと思っているからである。歴史に誤謬や錯誤は日常茶飯事であるが、それは次の世代の人が調査研究し、正当な歴史に近づけていくことが大切である。歴史の怖いところは嘘や間違いが本当の史実になることで、特に一度その事柄が印刷されてりっぱな装丁の書籍になった時、歴史的事実になってしまうことである。そのようなことは、常に起きているし、いまでも起きている。原書原点を深く吟味研究しないで、安易に各書籍の孫引きやひ孫引きが行われている。いまではネット情報まで一役かっている。一役どころか主役になっている場合が多い。そして著者の肩書やら学歴でそれを権威づけているのである。そしてそれが正しい歴史になり教科書にも採用されてしまう。
2020年9月26日土曜日
宮武外骨
シンガー三輪車と言えば、宮武外骨と鈴木三元を思い出す。このことは既に何回も触れている。そこでまた宮武外骨である。
宮武外骨(みやたけ がいこつ、1867年-1955年)、讃岐国阿野郡小野村(現在の香川県綾歌郡綾川町小野)に庄屋宮武家の四男として生まれる。幼名は亀四郎。
外骨と自転車との係わりあいについては、「滑稽新聞」(第48号、明治36年5月5日)に次のようにある。
俗社会の毀誉は時勢によって変遷する事多し、昔の阿房が今はリコウとなり、今のリコウが後世阿房と目される事になる。滑稽記者村夫子(宮武外骨の「滑相新間」時代のペンネーム小野村夫)が去る明治14年、15才の春、東京に出たる折、或日一人の西洋人が自転車に乗って万世橋の北よりお茶ノ水に至る阪を造作もなく上りしを見て、予はこども心に自転車を欲しくなり、それより後は日夜思い絶えず、後3年を経て母親より三百円の金を貰い、是非にも先年見たる自転車なるものを買わんとて、東京横浜は云うに及ばず、大阪をも探りたれども、自転車の売物は一台も無きのみか、自転車に乗りたる人をも見ず、殆ど途方に暮れたりしが、尚念のためとて神戸に至り、彼方此方を駆回りたれども、是亦同じく売物なし、尋ねあぐみの果、布引の竜でも見て帰らんとて同所に至りし折、附添たる車夫に此事を物語りたるに、其車夫の云うには「サホド御熱望ならばいささか心当りあり拙者が御世話致さん今夕まで御待あれ」とて予の宿所をただして立去りしが、其午後果して吉報を伝え来れり、そは神戸居留地のダラム商会(後破産して英国に帰りしと聞く)に一台の自転車あり、御望みならば銀貨二百ドルにて譲渡さんとの事なりし、予の喜び天にも登る心持して早速同商会へ出掛け、談判の末百七十ドル(其頃の相場にて日本貨百九十二円)にて買い取りたり、其自転車は現今の如きものにはあらず、ゴム輪なれども古式の三輪車にて大なる一輪は直径五尺余あり瓦斯灯二個附の大物なりし、予は早速、郷国讃岐の高松に至りて数月間其自転車にて飛び廻りしに見る人々は珍らしがりて噂さ市内に伝わりしも、予の親族の一統は眉をひそめて予の母親を攻撃し、彼に自転車の如き馬鹿気たるものを買わせしは何故なるや、彼も亦日本一の馬鹿者なりなど日々非難の声を高むるのみなりし、或日予は此自転車に乗って阪出港に遊び、同所の従兄鎌田勝太郎(現今貴族院議員)方に至りしに勝太郎も亦予の自転車を見て馬鹿臭しと罵り、平常にも似ず一碗の茶も出されざるの汚辱を受けたり。然るに近年は何処とも自転車大流行にて山間にもベルの音を聞くに至り、予は帰郷する毎に比旧事を追想して笑止の感絶えざるなり、その往年予を馬鹿者と誹りし親族共がいづれも今は自転車を買入れて揚々自得たるの一事なり。時勢のために馬鹿がリコウになりしと云えば云うべきも、予は馬鹿者と目されざる今日にてはモハヤ自転車に乗って稱人の間を駆廻りたき心は毫も存する所なく、反って今は自転車を見れば、馬鹿者との感想起りて、昔日予の親族が予に対するの非難と同一の趣きあるのみ、然れども世間並のリコウ者と日本只一人の馬鹿者との別あり、其心事の差は雲泥なりと知るべし。(以上、滑稽新聞より)
2020年9月25日金曜日
シンガー三輪車
宮武外骨や鈴木三元に影響を与えたシンガー三輪車に触れたい。
シンガー三輪車は1879年にシンガー社によつて製造された三輪車で、発売当初から注目され、国内はもとより海外でも好評を得た三輪車である。
ここで開発者であるジョージ・シンガー(1846年-1909年)について触れる。
自転車メーカーとしてスタートしたシンガーは、その後オートバイや自動車まで製造する大企業となる。
2020年9月24日木曜日
ピレンタム
ロンドン科学博物館にあるピレンタム(Pilentum、人力馬車)或はアクセレーター( Accelerator、加速機)の画が自輪車の原画であるとしたが、このピレンタムにしても全く疑問がないわけではない。
まず構造上の疑問であるが、手握りから伸びる線と足から伸びる線の素材である。針金のような鉄製のワイヤーなのか、それとも丈夫な紐なのか、どうみても鉄のワイヤーに見えるが当時の技術ではどうなのであろうか。そして足から伸びる線との接合部分であるが、図をみるかぎり不自然で本来ここには接続金具のようなものが必要である。
それから2枚の細長い板であるが、おそらくこれはテコの原理を利用した踏板のようである。後部が長く出ているのもうなずけるが、それを止めている金具などが見えない。最後にこのピレンタムの製作年代であるが、どの画のキャプションにも1820年頃とある。1820年頃と言えば、まだドライジーネ(1817年)が誕生してから間もない時期で、なぜかこの年代に違和感を覚える。このピレンタムはイラストだけで実物はないのか。肝心な考案者は果たして誰なのか。ホビーホースを製作したイギリスのデニス・ジョンソンなのか。いまのところ不明である。それともすでに解明されているのかどうか。
再度、ピレンタムと自輪車を掲載する。
自輪車の方は日本自転車史研究会の会報”自転車” 第20号 1985年3月15日発行「やはり幕末に自転車は来ていた!」の全文を載せる。
「此車は自りんの物にして、前の車をめぐらせば自然として大車めぐり出し走るの図」
この三輪車の図を見てすぐ感じることは、はたして、この三輪車はどのような方法により動かすのかという疑問である。当時、外国の三輪車の駆動方式としては、手動式、踏み板式、ペダルクランク式などがあった。この本の文中には更に、その駆動方法が次のように書かれている。
「次の図は自輪車なり。これは乗りて細き組糸をもって前の輪に巻きつけあるを、腰のかげんにて、車の台向う上りになりたるとき、くるくると糸を巻き上るなり。またゆるめするに、前の車はげしくめぐれば自然と大車めぐり出だして走ること最も早くして、小犬の付添来りてこの車とともにかけ出すに、車の方少し早し。車小なる作りにして大体一人のりなり。手ぎわよろしく奇麗なる車なり多くは女性の乗るべきものと見る」
どうやら、この文章からその駆動方法を判断すると、前輪に巻いた組ひもを巻き上げることによって、前輪の中に組み込まれたゼンマイ仕掛が巻かれ、手をゆるめることにより動きだす仕組みのようである。それとももっと別な方法により動くのであろうか。どうも「腰のかげんにて、車の台向う上りになりたるとき」という文の意味がよく分からない。
ロープを使った手動方式ならば、この組ひもが輪ゴムのようにつながっていて、これを継続的にたぐりよせることにより前輪を回転させる方法なら理解できる。しかし、この方法でも手の疲れをさし引かなければ、けして快適な乗り物とは言えない。それとも、この組ひもは坂を登る時にだけ使用されるのだろうか。そうなると、やはり、他の有力な駆動方法がなければならない。組ひもを一回巻き上げたら、またいちいち三輪車からおりて前輪に巻くとしたら、それこそたいへんである。画のように犬が三輪車を追いかけるどころか、おそらく寝そべってあくびをしている時間の方が長いであろう。それにしても、この画と本文の説明を読む限り、その駆動方法はよくわからない。今後の調査が必要なところである。
三輪車は普通この画にあるように、主に女性用の乗り物として利用された。このようなところから、外国では、Ladies' English Velocipede とかParisian Ladies Velocipede という名称の三輪車もあったくらいである。C.F.カウンターの「サイクルその歴史的評論」でも「すでに述べた初期のマシンの系列に属する他の型の三輪車も、1860年代に、特に女性の間で人気があった。これは婦人用英国製ベロシペードもしくは、婦人用パリジャン三輪車として知られ・・・」
確に、この画のように女性が乗っている姿が自然なのである。男性は主に、ミショー型か、後期になるとオーディナリー型の二輪車に乗ったのである。
おわりに、この画の三輪車は、自転車の範ちゅうに入らないのではないかという疑問もあると思うが、外国では、このような三輪車も四輪車も Tricycle、 Quadricycleとして、自転車の中に入れている。当然狭義の意味で自転車を定義づけるとすれば、二輪が直列した乗り物が自転車ということになる。しかし、乗用者みずからの力により走る物は総て自転車とみるべきだろう。
2020年9月23日水曜日
自輪車
日本自転車史研究会の会報”自転車” 第20号 1985年3月15日発行で
「やはり幕末に自転車は来ていた!」で自輪車について述べた。
『横浜開港見聞誌』6冊 橋本玉蘭斎誌 五雲亭貞秀画 1862年(文久2)~1865年(慶応元)
の後編五に自輪車の画がある。
その時から気になっていたことはその駆動方法であった。どうみても前輪から伸びた綱状のひもを手繰りよせるようにして、前輪を駆動させる仕組みのようで、全く不可解な駆動方式であった。
その後、自転車技術史研究家の梶原利夫氏の指摘もあり、この三輪車は下のイラスト①が原画で、その絵を見て橋本玉蘭斎が描いたのではと言っていた。
このイラストを注意深く見ると駆動方法もなんとなく理解できる。
手と足の両方で駆動する仕組みで、前輪駆動式であり前輪はステアリングも兼ねている。足と手の部分から伸びたワイヤー状の線がクランクシャフトに接続され、足の方は2枚ある長い板を上下に踏み込み、それと連動するように手で引くことにより前輪が回転する。このように手と足を使った駆動方式であればこのイラストの女性でも走らせることができたはずである。
橋本玉蘭斎は恐らく実物をみたのではなく。文献に載っていたこのイラストを見て、自輪車を描いたはずである。
横浜の居留地で実物を見て描いたのであれば、もう少し細部にわたって描いたはずで、その構造も分かるように描いたに違いない。単に組紐を引っ張る形にはならなかったはずである。それにこの三輪車は1819年から1820年に利用されていたようで、橋本玉蘭斎の描いた年代からは40年以上も時代が遡ってしまう。
ただ言えることは、この橋本玉蘭斎の画にあるような三輪車は横浜に無かったということである。
2020年9月21日月曜日
ダブリン三輪車
シンガー三輪車が先かダブリン三輪車が先か?
この辺のところを少し探ってみたい。
結論から言えばどうもダブリン三輪車の方が年代は早い。
ダブリン三輪車は、1876年にウイリアム・ビンドン・ブラッド(1817-1870)が特許を取得している。彼はアイルランドのクイーンズ・カレッジ・ゴールウェイの土木工学の教授であり、エンジニアでもあった。専門は橋梁の設計等で、アイルランドにあるドロヘダのボイン高架橋の設計に携わったといわれる。この橋は中央のスパンだけでも長さが269フィート(82m)もあり、この鉄道橋が1855年に完成した時は世界最長であった。
シンガー社とウイリアム・ビンドン・ブラッドの関係は未調査だが、どうも関連があったようだ。これらのことを考慮すると、どうやらシンガー型三輪車の元祖はダブリン三輪車であり、その後シンガー社が改良を加えて量産し、世界的に販路を広げていった。その数台が日本にも輸入され宮武外骨が少年の頃(1884年)に乗り、あるいは鈴木三元がこれを参考にシンガー型三元車を製作したのである。
2020年9月20日日曜日
シンガー型三元車
以下の写真やイラストが資料の中から出てきた。
何れも形状も駆動方式も酷似している。
前輪が並列の小径2輪で後輪は駆動輪。搭乗者は足でペダルを踏みクランクシャフトを介して大きい後輪を回転させる。2輪の前輪はステアリングも兼ねていてハンドルグリップを左右に動かすことにより進行方向を変える。サドルの下部は路面からの衝撃を吸収する板状のスプリングやコイル状のバネが付いている。これである程度の乗り心地の良さは確保できたはずである。
2020年9月19日土曜日
バブコップ
1910年6月6日付けのワシントン・タイムス紙にバブコップが載っていた。
その内容は、(一部意訳)
危険な自転車乗りのオスカー V.バブコックの偉業はその頂点に達したと言われている。彼は、アメリカンリーグ・ベースボールのヒップロドーム・パークで6月20日から3つのコンビネーション空中回転技などを披露する。この演技はマディソンスクエアガーデンでも行われた。この冬ニューヨークでは、多くの広告もを作成し発表していた。バブコックが使用した装置の構造は、デストラップループという名前で定着し、展覧会では「水路飛び」なども行われている。
2020年9月18日金曜日
オスカー・バブコップの曲乗り
下の写真がそれである。
平和記念東京博覧会は、第一次世界大戦が終結したのを記念して、1922年3月10日から7月31日までの間、東京・上野で開催された博覧会である。来場者数も1000万人を超えたというからその盛況ぶりがうかがえる。その博覧会場の中でひときわ人気を集めたのが米人オスカー・バブコップによる自転車曲乗りで、観客の度肝をぬくような巨大な構造物と驚異的なその演技であった。
その後、その曲乗りが絵葉書になり記念品として販売された。最近でも時々オークションや古書店に出ているのを見かける。
私もだいぶ前になるが古書店でその絵葉書を購入した。
改めてその曲乗りを見ると大掛かりな装置とその演技に驚かされる。当時の人の興奮と歓声がいまも聞こえてくるようである。
オスカー・バブコップについて、少し触れてみたい。
スペルが分からないので適当に綴りネット検索にかけたら、3回目でヒットした。
オスカー V.バブコック(1875-1957)は、元は自転車競技選手で、その後プロのスタント自転車ライダーになり、さらに複葉飛行機のパイロットでもあった。1917年頃には、世界中で彼の開発した「デストラップループ&フリューム法」の演技で有名になり当時の人々の話題を呼んだ。そしてこの絵葉書にある1922年、東京・上野で開催された平和記念東京博覧会の会場にその巨大な構造物と演技で臨んだわけである。
2020年9月16日水曜日
錦絵②
錦絵②
錦絵は多色摺りの浮世絵木版画のことであるが、その違いの境界は判然としない。浮世絵の一つの手法であり、おおざっぱに言えば、江戸期が浮世絵で明治期が錦絵と言っても過言ではない。ようは浮世絵の延長線上にり、版画技術と作風の違いである。
下の写真は極めて不鮮明な錦絵である。絵師の名前も左側に書いてあるが全く分からない。
それにしてもこの錦絵はまさに「車尽くし」で、その描かれている車輪の数に圧倒される。自転車の形状等から察するに年代は明治3年から5年頃で絵師はこの手の作品が多い芳虎ではないかと思っている。車尽くしは、他に国政や三代広重なども描いているので定かではないが、可能性としては芳虎あたりが近い気がする。
以下の目録は会報「自転車」第65号、1992年7月15日発行より
自転車関係錦絵日録
第二版、平成4年6月1日作成
1870. M3.4月 東京日本橋風景 芳虎画、自転車(ラントン型)、片羽自転車、二人乗三輪車
M3. 4月 東京往来車盡 芳虎画、一人車(ラントン型) 天理参考館所蔵
M3. 5月 東京日本橋繁栄之図 芳虎画、自転車(ラントン型) 天理参考館所蔵
M3. 5月 於横浜無類絶妙英国之役館、三輪車(ラントン型)
M3.7月 往来車づくし国政、国貞画、品川宿の景、自転車(ラントン型)、水溺車、後押自転車(5輪)
M3.8月 横浜鉄橋之図 五雲亭貞秀画、自輪車 高橋氏所蔵
M3. 8月 東京繁栄流行の往来 三代広重画、屋根付三輪車、二人乗四輪車 天理参考館所蔵
M3. 9月 東京繁栄車往来之図 芳虎画 三輪車 天理参考館所蔵
M3. 9月 浪花繁栄東堀鉄橋図 松光亭長栄画 三輪車(ラントン型) 二輪車(ダルマ型)
M3.9月 志ん板車づくし 芳虎画 二人乗三輪車 斧氏所蔵
1870. M3. 9月 とお世いくるまづくし 木宗板 壱人車(ラントン型)斧氏所蔵
M3.10月 馬車船往来寿古録 芳虎画、 自転車、二人乗自転車
M3. 10月 流行車尽し廻り雙録 三代広重画 自てん車、二人乗自転車
M3. 東京高輅風涼図 国周画 一人車(二輪型)
M3. 東京日本橋之景 国輝画 一人車 斧氏、天理参考館所蔵
M3. 東京日本橋繁昌之図 芳虎画
M3. 東京日本橋繁栄之図 芳虎画 二輪車、屋根付五輪車 斧、大津、高橋氏所蔵
M3. しん板車づくし 芳虎画 二人乗三輪車
1871. M4.3月 流行くるまづくし 四代国政画 自転車
M4.7月 新版車づくし 国政画 二輪車 斧氏所蔵
M4.7月 東京高輪往来車盡行合之図 国輝画 自転車(ラントン型) 高橋氏所蔵
1 8 7 1. M4. 浅草御門人力車タ栄 国政画 二輪車
18 8 2. M15. 東京浅草金龍山並ニ鉄道馬車繁栄之図 重清画 三輪車(ラントン型) 斧氏、天理参考館所蔵
1887.M20.8月 志ん板往来人物づくし 国政画 三輪車(ラントン型) 斧氏所蔵
M20.11月17日 日本第一之名橋東京吾妻橋之真図 ダルマ車 天理参考館所蔵
M20. 12月 東京開化名勝吾妻橋 ダルマ車 高橋氏所蔵
1888.M21,2月 東京開化名勝吾妻橋 国利画 ダルマ車 大津所蔵
M21.2月 東京小網町鎧橋通吾妻亭 探景画 ダルマ車
M21. 9月 東京銀座通煉瓦石造真図 探景画 二輪車(前輪小)
1889. M22 東京名所之内吾妻ばし風景 国利画 堤吉兵工版 ダルマ車 斧,高橋氏所蔵
1890.M23.4月 東京名所上野公園第三内国勧業博覧会場略図 ダルマ車
1891.M24.5月 大日本五港之内横浜港 ダルマ車 神奈川県立文化資料館所蔵
M24. 東京名所芝増上寺山門の真景 有山定次郎 ダルマ車 斧氏所蔵
1892. M25. 少年自転車競走之図
1893.M26.1月20日 吾妻橋ノ新景 有上定次郎 斧氏所蔵
1893. M26. 東京名所(吾妻橋)
1895.M28.5月 東京名所吾妻橋 今井敬太郎 高橋、斧氏所蔵
1896. M29. 馬車鉄道汽車尽 松野米次郎 越米版 天理参考館所蔵
1897. M30. 京都名所四條大橋 春孝画 ダルマ車2台 斧氏所蔵
1898. M31. 4月 上野公園の景 安全車2台 斧氏所蔵
1899.M32.1月 合資会社愛知物産組織工場之図 オーディナリー1台 小菅堂版 斧氏所蔵
1902,M35.10月 横浜停車場の図 桜木町駅前のにぎわい
M35. 伊勢名所宮川橋 田井久之助版 二輪車 斧氏所蔵
M35. 東京名所・不忍弁天 安全車 斧氏所蔵
1904.M37.1月 東京名勝九段坂上靖国神社 尾形月耕画 高橋、斧氏所蔵
1904.M37.1月 東京名勝日比谷公園之景尾形月耕画高橋、斧氏所蔵
1907.M40.3月20日 新撰東京名所 尾形耕一 高橋氏所蔵
1909. M42. 富山名所 県庁 石版画 富山市郷土博物館所蔵
1910.M43.2月 東京名所九段坂上靖国神社の図 斧氏所蔵
1911.M44.2月 東京名所日本橋の図落成渡り始 高橋氏所蔵
1911.M44.4月 東京名勝新日本橋之光景 綱島亀吉
1913. T 2 九段坂上靖国神社 堤吉兵衛 斧氏所蔵
1915. T4. 萬世橋停車場及廣瀬中佐杉野兵曹 浦島堂 斧氏所蔵
1917.T6.2月 東京名所上野公園潜水堂下之景 高橋氏所蔵
1916. T5. 4月 皇城二重橋御出門と東京駅之偉観 大楠公銅像 高橋氏所蔵
1917.T6.2月 東京名所上野公園清水堂下之景 高橋氏所蔵
1919.T8. 石版画 東京停車場之前景
1920.T9.4月 東京上野公園桜花満開 高橋氏所蔵
1925.T14.11月 東京名所新築之浅草雷門之真景
1926. T15. 1月 東京名所上野公園桜雲台西郷翔像附近之賑ひ 斧氏所蔵
1927. S 2. 2月1日 上野公園桜雲臺西郷銅像 高橋氏所蔵
1928.S3.4月 東京名所日本橋繁華之光景 斧氏所蔵
1932.S7. 石版画 東京駅及丸之内ビルディング之偉観
1934.S9. 石版画 帝都丸之内東京駅之偉観 自転車 高橋、斧氏所蔵
以下は年代不詳
日本橋御高札場 三代広重 明治初期 屋根付ラントン型自転車 高橋、斧氏所蔵
浪花十二景の内川口西洋館 小信画
摂州神戸海岸繁栄之図 長谷川小信画 明治初期 神戸市立博物館所蔵
小学運動図解 三宅半四郎画
志ん版くるまづくし 海老林板 明治初期
東京市中馬車往来之図 三代広重画 明治初期
浅草並木人力車の販ひ 一景画 明治3年頃
當世い車づくし 辻亀梓 明治初期 後押自転車(五輪車)壱人車(ラントン型) 天理参考館所蔵
新板くるまづくし 山口板 明治初期
明治乗物尽 国政画 明治初期 自転車(ラントン型)
芳虎画丸鉄板明治初
KURUMADSUKUSHI 芳虎画 丸鉄板 明治初期 自転車(屋根付五輪車)
のりもの尽し 芳虎画 五輪 二輪車 明治初期
古今の車尽 梅堂国政画 明治初期 三輪車 斧氏所蔵
名所車づくし・神戸福原 長谷川小信画 三輪車 明治初期 高橋氏所蔵
志ん板くるまづくし 国政画 明治初期 二輪車 斧、高橋所蔵
新板當世車盡 国利画 明治初期
東京名所・上野萬世品川競走風景 明治30年頃 斧氏所蔵
地球図と自転車 清 明治中期 日章旗と自転車 斧氏所蔵
川口居留地 貞信画 明治15年頃 ダルマ車 斧氏所蔵
丁稚大風呂敷肩掛乗車図 明治期? 斧氏所蔵
富士と篭 明治期? 斧氏所蔵
職業版画 出前 和田三造画 昭和初期 斧氏所蔵
子供あそびくるま画 梅堂国政 明治初期
東京府下自慢競江戸橋石橋 ガタクリ 明治期
日本橋之真景 明治35年頃 斧氏所蔵
東京名勝新橋附近銀座通の繁栄 明治35年頃
参考資料…錦絵幕末明治の歴史 講談社、浮世絵で見る幕末・明治文明開化 端山 孝 講談社、etc。
資料協力…高橋 勇、斧 隆夫、齊藤俊彦、上野利夫、梶原利夫各氏
2020年9月15日火曜日
2020年9月13日日曜日
三元車
1984年(昭和59)の春に自転車文化センターで開催された明治自転車文化展(3月9日~4月1日)は、当時、全国に存在が確認されていた和製の自転車が全て集合した記念すべき催事であった。事前の調査から含めると開催に至るまで1年以上の期間を要している。
先日、自転車関係の資料を整理していたら、明治自転車文化展の会場で撮影した写真が出てきた。すでに35年以上も前の写真で、しかも安い使い捨てコンパクトカメラで撮影したもので当然画質は悪い。その中に三元車の写真もあり、懐かしい思いがした。その写真は下にあるが、残念ながら肝心の鈴木三元翁の顔が劣化と摩耗で不鮮明で全く分からない。写真に写っている他の二人は鮮明ではないが何とか確認できる。この写真から1人乗り三元車の大きさとその形状も見てとれる。前輪の内側にある駆動補助輪も見える。ただ以前から疑問に思っていることは、その駆動方式がいまだによく分からない。齊藤俊彦氏が東京都公文書館で詳細に調査した時の写真と付随資料を見ても、何かブラックボックスのような箱に覆われた感じでさっぱり分からない。付随資料の三元車用法大意など何回か読んだが同様である。運転手を含め4人乗りの三元車もあるが駆動構造は同じのようだ。果たして平地はともかく少し登り坂になれば運転手以外の人は下りて後ろから押さない限り走らない気がする。その後もこの三元車が一般的に普及しなかったことを思えばその実像も理解できそうである。
2020年9月12日土曜日
航西日乗
成島柳北(1837年-1884年)は、明治5年9月に東本願寺の大谷光瑩の欧州視察随行員として東南アジア諸国、イタリア、フランス、イギリス等を歴訪。目的は仏教史跡や教会等の視察であった。旅行期間は9ヶ月にもおよび成島柳北は明治6年5月下旬に帰国している。
以下は、航西日乗中にある自転車の記述である。1873年(明治6)3月4日にパリの演劇場に行き、自転車の曲芸などを見た時の様子を書いている。もともとは漢文であったが、その後読み下し文になって出版。(一部判明しない漢字あり)
明治6年頃といえば、日本ではまだ自転車そのものが珍しく、貸自転車店の和製三輪車あたりがゴロゴロ、ガタガタとその周辺を走っていた時代である。
「ホリーベルジェー」とは、パリのフォリー・ベルジェール (Folies Bergère)のことかと思われる。フォリー・ベルジェール は、1869年に開業したパリの演劇場である。
当時のフランスは、自転車の先進国でミショー型自転車もさらに進化し、洗練されたものになっていた。曲乗りに使われた自転車は定かではないが、少なくとも最新式のミショー型自転車であったと思われる。
2020年9月11日金曜日
ホルストマンの自転車世界旅行
ここでハインリヒ・ホルストマンについて少し触れたいと思う。
ハインリヒ・ホルストマン(1874年10月30日~1945年5月4日)は、1895年にフランク・G・レンツが不運にも自転車での世界一周を果たせなかったの知り、自分が挑戦したいと思うようになり、家族や周囲の反対をおしきり、自転車世界一周の旅へ出発した。
その経路は、まずにドイツから内陸部をサイクリングしながらベルギーの港まで自転車を進め、そこから船でイギリスに渡り、さらにイギリスからは大西洋を航海し、アメリカ大陸に向かった。アメリカに渡った彼は、大陸横断鉄道のルートに沿ってサンフランシスコを目指した。サンフランシスコからいよいよ船で太平洋を渡る。途中、ハワイにも寄り、横浜に1896年10月24日に到着した。
ハインリヒ・ホルストマンの旅行記は、
Meine Radreise um die Erde vom 2. Mai 1895 bis 16. August 1897: Der Bericht des ersten deutschen Fahrrad-Weltreisenden anno 1895 (ドイツ語) 、Hans-Erhard Lessing (編集, 解説), Heinrich Horstmann (著)が2007年10月1日に発行されている。
その後の彼の足取りは、香港~シンガポール~インド(カルクタ)~エジプト~イタリア~スロベニア~オーストリアを経て、27ヶ月後にドイツ(ヴッパータール)に戻る。
旅行後は、ベルリンに移り住み、自転車販売店を起業。さらにワインと葉巻の取引も始め、多額の利益を上げたとある。