松本自転車店へは、昭和58年に尋ねている。この時は既に自転車店は廃業していて、自転車店の面影はなかった。しかし、梶野仁之助の姻戚関係であった、松本春之輔氏にはお会いでき、仁之助にまつわるいろいろな話や貴重な資料を見せていただいた。
私より10年以上前にこの松本自転車店を訪ねて取材した人がいた。それは『神奈川のれん物語』の著者である田島 武氏である。この『神奈川のれん物語』は昭和45年~46年にかけて神奈川新聞に連載されたもので、その後、それをまとめて昭和47年に本として出版した。
その本の松本自転車店の部分をみると次のようにある。
自転車屋の草分け
松本自転車店<横浜>
空の青さを車輪に映しペタルを踏めば白い道 君の真赤なポロシャツが花びらみたいに飛んでいく……
という軽快なリズムの歌がある。これは昭和四十二年につくられた自転車産業振興協会選定歌だ。
わが国の自転車業は神奈川県の歴史とともに走りつづけてきたといってもよい。しかし、そのスタートから歌の文句のように快適に突っ走ったわけではなかった。
自転車業の幕開きは、西南戦争がおきた明治十年、横浜の港近くに輸入自転車の修繕所が開かれたことに始まる。そして、わが国初の国産自転車第一号が誕生したのもこの神奈川県で、その製作者が松本自転車店主・松本春之輔さんの先々代に当たる梶野仁之助である。
仁之助は安政三年(一八五六)三月、現在の津久井郡津久井町に生まれた。物心がつくと、同地のしょうゆ醸造業の梶野敬之方に丁稚(でっち)奉公としてはいる。
彼は、細密な人であったらしく、機械いじりに興味を持っていた。十五歳のとき、店のしょうゆだるの木片を利用して、今の自転車と同じような木製自転車をつくったという。ひと昔前の中学生たちが部品を買い集めて、ラジオづくりに没頭したようなものだろう。 ほどなく”走る銀輪”にひかれてか、志を立て横浜へ。そして、灯台局に仕上げ職工となり、腕をみがく。小まめに働いたかいがあって、二十歳のとき蓬莱町四ノ三六に職工十二人を使う工場をつくった。
そのころのアメリカ車の型をまねて、リム、ハンドルをはじめオール部品を自ら製作し、純粋な国産車を作り、あげて、これに「全日本号」「銀日本号」と名づけた。明治十年のことである。だが、満足の機械、道具もなかったころのこと、部品を一つ一つつくりあげるということは大変だった。たとえばスポークのニップルにみぞをつけるのに、一々ロク口で穴をあけ、タップでネジを切ったり、クランクの修理も、堅くて折れる心配があるので、フイ
ゴで赤めてなおしたりするなど大変な手間であった。
翌年の明治十一年になると、有力な後援者が現われて事業を拡充することになり、高島町五ノ十に工場を移転し、一大自転車工場をつくった。明治十五年ごろには五、六十台を製造する設備と能力を誇ったものである。
やがて、彼はチェーン駆動の自転車(安全車)の試作にとりかかり、同二十二年度で開かれた勧業博覧会に出品して「有功三等賞」を受けた。この写真は、いまも彼のおいが継いだ松本自転車店 (松本次郎吉、現在はその子の春之輔さん)の店内にある。
仁之助のすぐれた技術と製品は、その耐久力の強さとともに陸軍の嘱望するところとなり、陸軍御用商人としてその工場は陸軍の指定工場となる。そして憲兵隊、陸軍省、陸軍戸山学校などに納入することとなり、明治二十八年五月には当時の県知事中野健明から木杯一個を下賜された。
これをきっかけに仁之助の事業はますます発展し、明治三十年ごろにはその製品は遠くロシア、アメリカなど、海外にまで進出するようになった。そのころ閑院宮載仁殿下がフランスから軍用縮折自転車を購入して帰国され、これを見本としてつくるように陸軍省から下命があった。彼は日夜研究苦心の末、ついに舶来品を上回るほどの立派な自転車を考案製作したものだ。同三十五年、仁之助は同業者を代表してアメリカ・ワシントンに行きアメリカ自転車発明銀婚式に参列する栄冠を得た。
晩年他の事業をおこしたが、自転車ほど芽が出ず、昭和十七年八月、八十七歳の長命を完うした。南方戦線で、”銀輪部隊"が大いに活躍したころだった。
次は仁之助のおい、松本次郎吉で、現当主は三代目の松本春之輔さん、六十一歳。
自転車は、交通事情の悪化で安心して乗れない。そこに伸び悩みがあるわけだ。これからは自転車のほかに、オートバイ、軽四輪車などの修理をしながら、店を維持していくよりほかはない。
昭和47年6月20日発行『神奈川のれん物語 神奈川の老舗100店』田島 武著(昭和書院)
註、この記事をあらためて読むと、2,3異なるところがあるが、おおむね私が直接、松本春之輔氏からお聞きしたことと一致している。
主な異なる箇所
梶野敬之 → 梶野敬三
「全日本号」 → 「金日本号」
明治十年のことである → 明治12年の創業
明治22年に「有功三等賞」 →明治28年に「有功三等賞」を受賞
松本自転車店
『神奈川のれん物語』より