2021年3月31日水曜日
特許関係
2021年3月30日火曜日
自転車関係資料④
先日、自転車工具関係の資料ファイルを見ていたら、下の工具カタログが出てきた。カタログではなくチラシといった感じのもの。内容は異なるが同じようなものが2枚ある。
標題にイタリア、ミラノのS.A.S フラテッリ・ドニセリとある。この会社は1919年に設立された自転車及び部品製造会社のであるフラテッリ・ドニセリのことであろうか。今のところ確証はない。
この資料の年代も不明である。またどこで入手したのかも覚えていない。他に㈱山本自工の工具カタログ(チラシ)もファイルの中に入っていた。
2021年3月29日月曜日
2021年3月28日日曜日
世界無錢輪行者中村春吉
今回で世界無錢輪行者中村春吉 君の談片
はこれで終わる。当初はこの後に寄稿文も中村氏から送られて来る予定であったが、届かなかったとのこと。
世界無錢輪行者中村春吉
君の談片(承前)
▲君の携帶品砂糖及食鹽
燐寸
高野豆腐
空氣銃
幾那円
一斗入金巾袋二打
疊系
高野豆腐は一は煮て食用とすべく一は之に石油を浸してブリキ缶に詰め置夜間の蓋を開きて枕頭に置くこととし猛獣の襲ひ来りし場合に之に点火して八方に撒ちらせば危害を免る事を得べし就中虎は非常に火を忌む獸類なれば斯くして火を八方に撒らせば忽ち逃げ去るものなりと然して虎はまた鳴物を恐るる性あるよりスワといふ時に鉄槌を以て劇しく金盥を打ち鳴らすも宜しといふ
2021年3月25日木曜日
2021年3月24日水曜日
自転車関係資料②
自転車関係資料②
これも宮田の特許資料。第一四三八八號
特許 同年6月2日
東京 宮田榮助
自轉車用コースター・ブレーキ
本發明は大体の構造を在来のコースターブレーキと畧々同様なすも其の制動作用をなさしむべき要貼全然異るものにして即ち軸及び完着杆を固着せる圓版の内面なる凸起の外部に該圓版と殆ど同径の弾力性缺圓環を嵌着し該缺圓環の缺所に凸起の載缺部に嵌合せられたる排子の頭部を挟容せしめ該排子を鏈車に關聯せしめた壓子にて壓し出し缺圓環を排開して覆筒の内周面に緊合せしめ以て運轉を制止すべくなしたる自轉車用コスターブレーキに關し其目的とする處は在來のコスターブレーキに比すれば構造簡にして而も迅速に且つ完全に制動作用をなさしむると破損の憂少なく耐久の効あらしむるとに在り。
2021年3月23日火曜日
世界無錢輪行者中村春吉 君の談片
米国製ランブラー号は当時の人気ブランドで、小説家の志賀直哉も神田の濱田自転車店で購入し乗用していた。志賀直哉以外で当時ランブラーを愛用していた人に那珂通世がいた。彼は「奥州転輪記」(明治34年4月1日発行の『自転車』所収)の中で次のように書いている。
余が乗れるは、ランブラーなり、世間に余りはやらぬ旧式の車なり。然れども此車は、余が為には実に善く忠勤を励みたり
ランブラーの意味は「ぶらぶら歩く人」でゴーマリー&ジェフリー社製の銘柄車である。
世界無錢輪行者中村春吉
君の談片
世界無銭輪行遂行者中村春吉君の輸行經驗談は各新聞紙争って之を掲げたるを以て一般輪友諸君は既に知了されたるなるべければ本誌は殊更にそれを贅せず唯だ新聞紙の記事に漏れたる中にて輪友の大に参考となるべき分丈け追々に紹介すべし偖て同君の
▲平均一日の疾走哩數 を聞くに
印度 八十哩
伊太利 五十哩
佛蘭西 五十哩
英吉利 七十哩
亞米利加 六十哩
土耳古 不明
即ち自轉車旅行に對する行動に於ける道路の良否を判定するに足るべし
▲自轉車用豫備品の最も必要なりしものは
各部廻轉部に要するボールのみなりし由し
其時々付替へて輪行せられたりと又チェーンの如きは少しも予備品の要用なく是等は其二三節を満一の準備に携帯すれば沢山なりと
▲タイヤーの耐久力
君はランブラー號に乗り通うされしも車は始終一つ車にて少しも損じたる所なく唯だタィャーは此旅行中三度取替へられたる由なるが君の經驗によれば先づ普通のターヤーは凡そ四千哩は優に保つべしと而して君の乗用車は余程古き出來のランブラー號なるが此旅行中該車製造会社に立寄りたるに同社にては大に君の挙を壮とし且つ其乗用車を紀念のため譲り吳れよ其代りとして同車數台を君に送るべしと頻りに梱望したる由なれど君は固く拒んて肯へりしと記者其理由を問ひしに君曰くどうしてどうしてあの車は私の大事な車です且つ此節出來るランブラーでは迚もあんなに丈夫な訳には往きません・・・・
(以下次就)
因に同君は旅行中の疲労を休め且つ留守中の用事を片付け少しく閑を得次第旅行中の奇事珍談をものして本社へ寄せらるる事を約せられたれば次號には定めし弁を掲載し得るなるべし
2021年3月22日月曜日
自轉車関係資料①
自轉車関係資料①
これは宮田栄助の特許資料、あまり明治期の長めの文章ばかりでは疲れる。そこで、今後は短めの資料を時々合間に入れたいと考えている。
第一四八八九號 第四六類出願明治四十一年七月十三日
特許明治四十一年八月十九日
東京市本所區菊川町二丁月五十二番地
宮田栄助
自轉車用自由(ハンドル、ポスト)
本發明は堅直中空軸の上部の一側に把柄を通貫せしむべき短円形の横管を形成し該中空軸には螺旋杆の進退により離合して把柄を廻動し緊締し得しむべき二個の抱締磐を装附して成る自轉車用自由(ハンドル、ポスト)に開し其目的とする所は簡便なる手段により容易迅速に(ハンドル)の傾斜を變せしむるに在り
2021年3月21日日曜日
日本自轉車の由來
何れにしても、この記事は箇条書き風に書かれ、簡潔で読みやすい。
文中に読みにくい漢字もあるが、なるべく原文を尊重した。旧漢字に変換できるものはなるべく原文に合わせた。
明治41年9月25日発行「輪界」第1号 20頁~23頁
日本自轉車の由來
一記者
一、自轉車輸入の嚆矢
自轉車は明治二十年前後に始めて輸入したり、其のときは今日の自轉車の様に完全なるものにあらず。只ダルマと稱する鎖りなく前車大にして、後車は小さき二つの車をつけたり。而して米國より輸入し来りたるものは其不完全一層甚しきを以て、終に其あとを断っに至れり。且つ此不完全なるダルマ比較的歡迎を受け、好評を得自轉車流行の端緒を開けり。
二、我國自轉車製造の始め
故に我國にても自轉車を製造せんと苦心し、終に木製の自轉車を拵へるに至れり。而して此自轉車は多くは三輪車なれども、たまには四輪車を見たり、是等は明治二十年後間もなく製造したるものにして、元よりダルマを模型として製造したるものなれば、タイャは勿論、鎖りなどの存することなく、最も不完全なるものなりしものより。
三、安全車の輸入
それより漸く進歩し、明治二十四年頃には安全車なる自轉車の輸入を見るに至れり、此安全車には鎖り等もあり、略ぼ今日の自轉車に類似し、ダルマに比し稍完全なれば、輕快の點は勿論乘り工合ひ甚だよろしく、又便利なる點に於てもグルマの比にあらざりしなり。
四、タイャの輸入
日本に自轉車の始めて輸入せしときには、タイアなるものなかりしなり、然るに英國よりニューマチックシングルタイア即ち空気タイア輸入したりこれまでタイアの附しある自轉車なきを以て其乘り気持ち甚宜ろしく、自轉車界の一進歩と云ふべし、故に一般乗用者に於てもこれを歡迎せり。
五、自轉車製造業
我國の自轉車製造に從事せしものは、目下本所區菊川町の宮田自轉車製造所なり、其當時は明治二十五年頃なりしが神奈川に於て梶野なるもの又是れを始めたり、共後明治三十六年の頃本所にて蝙蝠傘製造者森田某なる人自轉車の製造に従事せり然かるに今日にては神奈川の梶野本所の森田は其製造を止め、宮田自轉車製作所のみ本所に於て増々盛んに製造をなせり、されば今後一層發展すべきなり。
六、西洋人タイアの修繕を依頼す
其當時自轉車を用ふるものは、西洋人か或は洋行帰りの紳士なり、而して其當時は自轉車の代価非常に高く殆んど三百円以上なり、故に普通の人士はこれを用ふること能はざりき、されば自轉車商人の如きは勿論東京に一人なき有様なり、一日西洋人タイア のパンクをなしたりとて其の修繕を東京市本所區菊川町宮田工場に依頼せり、然れども宮田工場にても、これが修繕をなす能はず、依って工場にてはこれを引き請けたれども、自ら修理をなさずして、これをゴム屋に依頼せり。されどゴム屋にて完全にこれが修理をなすことは、能ふところにあらず、故に不完全に其修理をなし、これが代価として金参円を請求せり、それよりパンクの修理は参円と云ふことになれり。されど如何とも仕様なければ安価なりと稱して、喜んで其依託をなす。これを今日の進步せる諸子の頭脳を以てすれば、実に滑稽の感あらむ。七、其當時の自輛車使用の目的
目下我國にては都たると鄙たるとを問はず、自轉車と云へば一般に交通に最も便益なるものとし、これを使用するものなり。故に士農工商の區別なく、苟も迅速を貴ぶ事業には此自轉車を用いざるはなき有様なり。然れども最初自轉車の輸入當時は、一人の実用的使用者なく、殆んど貴族の遊びものとして、贅澤品となり終れり。それ故實利を喜ぶもの及び富貴ならざるものは、其使用を欲するも、価甚高き為め其實利ならざるを信じ、これを使用するものなかりしなり。
八、自轉車使用の例
それ故自轉車使用と云へば西洋人か、又は西洋帰りの所謂ハイカラ連中なりしなり。此連中が今日は横濱へ日帰りをせしとか、明日は日光へ行くとか、それ位が自轉車の主たる業務なりしなり。然して價格の如きも殆ん三百円以上ばかりにて、實に高價の贅沢品なりしなり。
九:宮田工場
前述の本所の森田工場も、神奈川の梶野工場も、宮田工場と同じく自轉車を盛んに製造せむとせしが、今日にては森田梶野の二工場は其業を止め、独り宮田工場のみ本所にて旺んに自轉車の製造をなせり。
十、日清戦争と自轉車
斯くして日清戦争は開かれ、贅沢品は其費用を避くる趣きあり依て日清戰爭以前は、多少の使用者を出せしも、開戦と同時に市中に其乗用を見ざるに至れり。而して一面は宮田工場は政府用の御用を命ぜられ、戰時の用品を製造せざるべからず、為に自轉車製造の余暇なし、二十七八年より三十四年までは宮田工場に於ても全く全製造を中止し、一般には全く其乘用を中止する有樣となれり。
(以下次第)
明治41年10月25日発行「輪界」第弐号 33頁~35頁
日本自轉車の由來 (二)
一記者
十一、日清戰爭後の自轉車
日清戰爭は名譽の戰勝を博して目出度其極を結べり、而して全國至るこころ景気は次第に良好なり、臺灣は割譲され、償金は多大の額を取得され、為に金貨は市場に流通するに至れり。故に各種の商人は勿論、一般の人士に至るまで自轉車を使用するもの次第に多さを加ふ、是を以て之れが輸入又日を追ふて盛大となり、されば一般人士も大ひに此れを用ゆるあるに至れり。
十二、日清戦争後の自轉車の輸入
然るに米國にては、クリブランド、エッスルの如き少しく進歩せる自轉車を大に我国に輸入し始めたりされば我國にては、上下の區別なく一般に大に之れを觀迎するに至れり。尤も此クリブランド、ェッスルは車輪は元とより其車臺に於ても、日清戦争以前に米國より輸入せしものよりも、細そく寧ろキャシャと云ふ方にて、當世所謂ハイカラ式なり。爲めに車臺極めて軽く、走る點に於て以前のものよりも大に快速なれり、それ故是等の點に於て大いに良好なる結果を得たり。
十三、クリブランド、エッスル以後の自轉車
此クリブランド、エッスルは大いに世に好評を得たり、為めに我國にても外國自轉車の多く用ひらる狀態になれり、故にデートン、及びピャス等續々輸入を始めたり是れ等も大いに世の觀迎を受くること、彼のクリブランド、エッスルに劣らざる有様となれり。
十四、宮田工場再び自轉車を製造す
宮田工場にては日清戦争と共に銃砲の製造をなし砲兵工廠の御用工場となりしが、日清戰爭は其極を結び、加ふるに、明治三十三年我帝國議會に於て、銃猟税を增加することとなり、為に銃を負ふて山に猟するもの甚だ少なし、是に於てか宮田工場にて銃砲を製すること、余りに良好ならざる有様となり、寧ろ不景氣と云ふも必ずしも失當にあらざる次第なり、されば宮田工場にて再び銃砲製造を止め、自轉車を製造することとなりたり。
十五、宮田工場最初の自轉車の模型
是れ實つは自轉車なるのは、從來贅沢品なる観ありしが、日清戰爭以後漸く其観念を去り、実用を旨とするの傾向あり。爲めに宮田工場にて将来大ひに發展の希望を有せり。さればクリブランドを模型となし、自轉車の製造を始めたり。
十六、自轉車の商標
日清戦争以前は、自轉車專門の商店なく、為めにマークの如きも其専用のものなし、されば各々其好みに應じてマークを製造せり、故に或は自家の定紋を以てマークに代へ使用するものあり、又紋は不良なりと云って、種々の形ちを取り以てマークとして使用す、故に殆んど同じマークを見ることなし、是れを以て同じ自轉車と雖も、必ず其マークは異なりしなり。
十七、宮田工場の自轉車の価格
宮田工場にては、スポーク、玉、及びサドル等自轉車に關する凡てのものを製造し、以て自轉車を完備せしめ、此れを五拾五圓か六拾圓位にて販賣したり、為めに大ひに其価額の安さを喜こび以て大いにこれを觀迎せり。
十八、デートン
クリブランドは一時大ひに流行を極めたりしも、今日に至りては、全たく流行の跡を断ちたり、デートンも次で大いに其流行を博せり、然るに此デートンも、車臺に於ても車輪に於ても、大に其良好なるを認めたり、されど一時奸商ありて、大いに不良よる品質の自轉車を盛んに輸入し、これをデートと稱して大いに販賣せり是れが爲め、デートンの信用は落ちて地を払ふに至り、今は僅かに其あとを存するのみ。
十九、ピヤス
ピャス(ピアス)は良好なる車なれども他の自轉車か、時代の進歩に伴ふて其価格も漸次安くなるに反しピャスのみは、五六年以前に猶ほ異なることなし。而して目下內地にて製造する自轉車少なからず、加ふるに外國より輸入するもの亦其価額廉なるもの甚だ多し、これを以て仮令品質に於て多少良好なりと雖も、其価額餘り高きものは用ゆるもの次第に減少するは、是非なき次第なり。
二十、見本の作製
宮田工場にて明治三十四年始めて自轉車の製造をなさんとせし頃、其見本の製造に意を注げり、然れども僅か二臺の自轉車を作るに其日數実に六ヶ月を要せり。然れどもこれをよく製造するに於ては將來大に望みあり、為めにこれより次第に其製造に力を入れ、大いに自轉車の発達を計れり。
(以下次號)
2021年3月20日土曜日
世界自轉車旅行者中村氏③
世界自轉車旅行者中村氏の新嘉坡の滑稽業③
今回の話でとりあえずこの稿は終わることになる。結局中村氏は仕事にもありつけず、路頭に迷い橋の下で野宿することになる。そして炊事の支度をしようと焚火をしたところ、煙が周辺に漂い橋を通る人々に発見され、ひと騒動に。その後巡査も駆けつける事態となる。その結末は・・・
橋下にて巡査に叱かられる
それで氏は何處にか安眠の場所を講せねばならぬと思ふて居る內に日は全く暮れ市中は電氣燈や瓦斯燈にて昼も欺かんばかりに輝らして居るけれども中村氏の懐中は一向何物も輝らさん。しかし眠さは眠し苦しさは苦しいしはやく眠る方法をつけんと苦慮最中であったが仕樣がないから氏は宮か寺を探し始めた、しかしそれも見當らぬ、ときに1つの橋があった此橋は何ふかと橋の下を覗いて見ると川の一方は水もなく白毛布の様な白砂が奇麗にあって、水の中には星の影やら市中の燈火の影が浮いた様にあるかと思へば又くずれた様になる。しかし中村氏はこれを見て楽しむどころか、腹は空く眠むさは眠むし、何見ても面白くもなければ喜しくもない。それで何もかまわず橋の下の白砂の上に行ひて、ふろしきを枕にしてグーグーと眠ってしまった。すると中村氏は奇麗な奇麗な家に眠かされて居て、自分の側ばには美しき花毛布を敷き。テブールの上には澤山のぼたもちがある、そしてそれは中村氏の為めに用意されてある、腹の空いた中村氏に喜ぶことか喜ばないことか、一時もがまんが出來ない、それで走り寄りこれは甘ひと云ふさま行きなりにぼたもちに手を掛けた。ところが如何なることかぼたもちに羽ねが生へて向かへ飛んだ、やしまったと又追っかけて行つて取らふとした、するとぼたもちはピント飛んだ、只困まったのは中村氏でぼたもちがどふしても取れない、それで此ん度は小供が蝶々でも取る様にそっと行って取らうとする、さすれば手が届かんとするときぼたもちはピント飛んで仕様がない。嗚呼お腹が空いて空いて咽喉はギユーギューと鳴るぼたもちは取れぬ、中村氏はお腹が空ったが又お腹が立った、そこでこんどは怒った。ェーこんなぼたもちなんか有らんと云ったときに、それは夢であって空腹の為めに目は覚めた、目が覚めて見るとやばり橋の下たの白ろ砂なの上である、嗚呼まるで乞食の様だと中村氏グズグズ云って居ったがグズグズでは腹はふくれぬ。
中村氏の旅行談も此他に最少しはしたいと思ふしかし続き続きでは返って面白味があるまいそれで痛快のところを擇んで一言申上んと思ふ幸に御一読の栄を得は幸甚此上ない
2021年3月19日金曜日
力士と自転車
力士と自転車
コロナ禍で、今回は両国国技館で3月14日から始まった春場所の大相撲も中日(なかび)を迎えている。特に後援をしているわけではないが、私の贔屓力士は照ノ富士、妙義龍、炎鵬、御嶽海、朝乃山、逸ノ城である。
ところで、これも力士と自転車の新聞広告で、先のデートン号に乗る国見山と同じ図柄だが、よく見ると国見山の他に常陸山、太刀山、若島、駒ケ嶽関の名前が見える。皆当時の人気力士である。
自転車競技選手として活躍した鶴田勝三、砂田松次郎の名もある。
明治後期に活躍した上位力士
元横綱、常陸山 谷右衛門 ( ひたちやま たにえもん ) 1874-1922
元横綱、若島 權四郎(わかしま ごんしろう)1876-1943
元横綱、太刀山 峯右エ門(たちやま みねえもん)1877-1941
元横綱、大砲万右エ門 (おおづつ まんえもん)1869-1918
元横綱、梅ヶ谷 藤太郎 二代目(うめがたに とうたろう)1878- 1927
元大関、駒ヶ嶽 國力(こまがたけ くにりき)1880-1914
元大関、國見山 悦吉(くにみやま えつきち)1876-1924
参考までに昭和13年頃の自転車に乗る双葉山の写真も下に載せる。
尚、明治36年5月15日発行の雑誌『輪友』第19号、15頁~17頁に「相撲と自転車競争」という記事があるので、追って紹介したい。
2021年3月18日木曜日
世界自轉車旅行中村氏②
中村氏が赤い家に住む西洋人の奥さんから棒で打擲されたり、石を投げつけられた真相が、以下で語られる。
文中に現在では不適切な言葉が散見されるが、明治期のそれが表現であるため、そのまま掲載する。
世界自轉車旅行中村氏の新嘉坡の滑稽談(ツヅキ)
一聞生
此日天清らかに風なき日であった。太陽は中村氏が奉公口を見出さぬとて遠慮はせぬ、それで河の水がさらさら音さして、東の方へ流るるに引きかへ、西へ西へと立ち去りてはや西山に落ちかからむとする、鳥は友を誘ふて遠方よりガーガーと叫んで帰りくる、人は業を終へて家庭の楽しみを見んと西へ東へ南へ北へと我家を辿りて帰るのである。紳士は迷惑な顔をして「決して決してそんなわけのものではない、それは日本人が惡るいのである」と云ふたそれで中村氏は「然らば日本人は如何なることをしましたか」を問ふた、それで紳士が答へて云ふには「日本人は常に金を貪るは少くないそしておまけに日本人の女を下女に雇へば日本の男が来て盗んで逃げて仕舞ふ、それで日本の下女は能く働くけれども雇ふことが出来ぬ、先達ても此町に赤ひ家がある、あの家では妻君が日本に居た時分から使って居た下女、なかなか働くからさと云って、日本を出発するときに態々連れて来た、ところが其下女は実によく働くと云って妻君も大喜であつた、するとあなた見た様な色の小黒き日本人が奉公させて下さいと云ふて来た、それで妻君もそれを下男に使った、がしばらくすると其下男が下女を連れ出して陰れてしまった、其後間もなく其妻君が他行したとき醜業婦の群には入ってかんなで削る様にお白粉を顔につけて居った、それで妻君も折角の良き下女を其男の為めに淫売にされたからくやしくてたまらない、もとよりきかん氣の妻君であるからたまらない、すぐに日本人は雇ふべからずと云ふ規約を結んだそれであなたが雇われようとしても雇はないのは無理はない」と云ふて去って仕舞った。
中村氏其話を聞き大いに後悔したけれども仕方がない、それで最早此土地には奉公する気はなくなった、それで一刻も早く他に行かんと思へども、奈何にせん懐中に分厘の貯へもなく、飛ばんとすれど羽ねもなし、実に憐れなる次第なり。それで船に乘り労働者となり、以て他に行かむと思へりされども今日の日は西山に春き如何ともなる能はず又宿に一泊せんとすれどこれ又文なしでは活動の方法なし。
2021年3月17日水曜日
ダニエル・ルブールの描画
先日、何気なくダニエル・ルブールの自転車部品描画集を眺めていたら、某サイトで見たことがあるイラストが目に留まった。
下のイラストがそれである。
2021年3月16日火曜日
プレミア自転車
下の図の自転車はプレミアである。ただし、フランス語の1896年のカタログ。
日本では、1911年(明治44)に大阪の角自転車商会がプレミア自転車を販売していた。
上のカタログや新聞広告を見ても当時のプレミア自転車は世界的な大企業であったこのが伺える。
以下はプレミアの略歴である。
1875年、ウィリアム・ヒルマンとウィリアム・ハーバートが自転車メーカーとして英国のコベントリーで創業、社名はヒルマン&ハーバート・サイクル社。
1876年、この年にジョージ・クーパーも参加し、社名をヒルマン、ハーバート&クーパー株式会社と改名。
1902年、プレミアサイクル株式会社と改名。
1914年、プレミアサイクル株式会社をコベントリープレミア株式会社に変更。
1920年、シンガー社に売却、コベントリープレミアの商標は、その後もシンガー社が引き続き使用し、1927年まで製造を続ける。
2021年3月15日月曜日
世界自轉車旅行者中村氏
明治41年発行の「輪界」創刊号に中村春吉の記事と写真があったので、以下紹介する。
どうもこの記事はドタバタ喜劇のような内容で、少し呆れる。型破りの中村氏の一面をここでも演出している。以前の中村春吉の直話でもこのようなトラブルは毎度発生していた。これら騒動の海外版といったところであろうか。筆者の誇張もあるはずだ。
世界自轉車旅行者中村氏の新嘉坡の滑稽業
一聞生
中村春吉氏と云へば苟くも輪界に事をなすもの共名を知らぬものなし、故に此處に中村氏を紹介するは寧ろ無用に似たり。然かれども氏一と度び自轉車を以て世界無銭旅行をなし、其內には百難を排し九死一生の間を逃れ、又非常なる歓迎を受け、或は滑稽殆んど腹もよれんとすることあり。故に其談を聞くもの或は戦慄して心胆を寒からしめ、或は欣然自ら愉快を覚へ又滑稽に至りては人之れを笑い顔面殆んぞ皺となり之れを延ばすに火熨斗(ひのし)を要することあり。されば其一端を載せ未だ知らざる人に紹介せんとす、幸に読者の一読を得ば幸甚なり。つづく
2021年3月14日日曜日
クリーブランド号
下図のクリーブランド№18は、まだ日本には輸入されていない時期の自転車である。
日本でクリーブランドが輸入れるようになったのは明治30年頃からで、その頃に伊勢善、仁籐商店、高木喬盛館などが販売するようになる。
明治33年、ヴォーガンが富士山に乗って行った自転車はクリーブランドであり、同行の鶴田勝三はデートンであった。
2021年3月13日土曜日
日本輪友会について④
日本輪友会について④
ダルマ形自転車の時分には何しろ車輪が馬鹿気て大きかったもので、畢竟そん滑稽な大失敗があったのですが、もう此節の安全自転車になっては車体が低うございますし、それにはコースターブレーキなども輸入されて居りますし、又乗り手も大変熟練して来て居りますから、乗り手の多くなった丈け失敗もあるようですが、昔のような大失敗の無くなったのは、何より結構だと思って居ります。まだ思い出してお話しすれば種々な出来事がございましょうが、何しろもう古い事で日記にでも書留めて置かなかったことは思い出す事もできませんから、今回はこれだけで御免を蒙って置きましょう、いずれ又輸友諸君の御参考になるような事でもございましたら、お話し申すことに致しましょう。完(半開生速記)この頃まだ、ダルマ自転車でサイクリングをしていたことがわかる。屋台店に突っ込んだのは、一体誰であろうか。名前は分からないが、右近氏か或は森村兄弟の一人かもしれない。森村兄弟は、米国製のゴマリー&ジェフリー社製のオーディナリーを持っていたことが知られている。左近氏も当時オーディナリーに乗っていた。
日本輸友会のサイクリング行事については、当時の新聞にも出るほどで、まだサイクリングそのものが珍しい時代であった。
明治27年1月11日付の時事新報
日本輪友会は、この様に各所に集会場を設けるなど、発足1年たらずでかなりの会員数を擁したものと思われる。
第三回のサイクリングは、梅見をかねて、2月18日に行われている。
明治27年2月17日付、東京日々新聞に、
第3回自転車郊遊
日本輪友会につづく自転車倶楽部は、その後、全国各地に発生し、サイクリング熱が、盛んとなった。また、自転車競走会も行われるようになり、更に発展していった。
2021年3月12日金曜日
雑誌『輪界』
雑誌『輪界』について、続き
雑誌『輪界』については3月8日のブログで触れたが、今日は明治41年発行の『輪界』創刊号の目次などを見ることにした。
こちらの『輪界』は、明治41年9月25日の創刊で、発行元は東京府豊多摩郡大久保村大字西大久保村59番地、輪界雑誌社、発行人は氏家正統とある。
次に『輪友』の方を見ると、
発行所の住所と発行人は、
住所は東京市本郷金助63番地であるが、その後住所を転々としている。
東京市京橋区西豊玉河岸28号地、東京市深川区西大工町10番地、東京市浅草区寿町51番地など。発行人も島廉太郎、関口才佐、清水 卓、小田垣哲次郎と変ってきている。
いずれにしても大阪の『輪界』は、未見であり、その所在も不明である。
この大坂の『輪界』を加えると以下のようになる。
明治期だけでも16点もの自転車専門誌があったことになり、自転車文化とその熟成度に驚嘆する。
明治期に発行された自転車専門雑誌(2021年3月12日現在の調査)
雑誌名 発行所 発行年
①自転車 日本輪友会 明治26年~5号で廃刊
②自転車 快進社 明治35年8月~昭和初期?
③輪友 輪友社 明治34年10月~明治38年?
④輪界 大阪 発行人 田村規茂 明治36年~?
⑤輪界 東京 輪界雑誌社 氏家正統 明治41年9月~明治45年?
➅猟輪雑誌 大阪、猟輪倶楽部 明治35年9月~明治35年12月
⑦三友雑誌 自転車銃猟写真の友 明治36年1月~明治40年?
⑧関西自転車 大阪 創刊年月日など不明
⑨自転車世界 大阪、自転車世界社 明治35年10月~明治35年12月
⑩愛輪時報 名古屋 創刊年月日など不明
⑪清輪 清輪時報社 明治38年~?
⑫信越輪界 信越輪界 明治43年?
⑬自転車 日本輪友会 明治27年2月~5号まで発行
⑭愛輪 金沢愛輪クラブ 明治36年10月~?
⑮周防愛輪月報 周防愛輪同志会 明治37年6月~?
⑯日米タイムス 日米商店 明治42年6月~?
2021年3月11日木曜日
老舗さんぽ㉜
老舗さんぽ㉜
昨日の「老舗さんぽ」は、鈴一自転車店である。
たまたま店の前を通りかかると、店先にお客さんと店主がいたので、少し言葉をかけてみる。「このお店は、鈴作、鈴甲さんとなにか関係がありますか?」と尋ねたところ。まったく関係がないとの返事、以前からこの店は、鈴作、鈴甲と何か関係があるのでは、と思っていたので、これで納得である。
註、「何か関係」とは、先代の時に暖簾分けか或は屋号を参考にしたのでは?と考えていたからである。
この店も既に創業から70年程になり、現店主は二代目にあたる。
この店を後にして、浜町のサイクル・ハウントに向かう。店主は、13日のイベント関係の資材の荷ほどきなどをしていて忙しそうであった。私の自転車のハブ、チェーンへの油さしを依頼。その後、店主と10分ほど会話。
2021年3月10日水曜日
日本輪友会について③
日本輪友会について③
日本輪友会の主な活動は、当然の事ながら遠乗会であった。発足当時の遠乗会でのエピソードを「輪友」雑誌から紹介しよう。ちょっと長いが、前回も引用しているので全て載せる事にする。石川 信
遠乗会のことに就いて日本輪友会が盛んであった時分の話しを致しますと、26年の6月に中島大尉(参謀本部在動)、 田中力造、高田慎蔵、原六郎、坂田實、玉木某等の諸氏とそれから私とで船橋迄遠乗を致しました。此時は誠に無事で別段お話しする程の失敗もありませんでしたが、其翌々月の8月に坂田實、福沢桃介、福沢捨次郎、伊藤茂右衛門等の諸氏と私とで大磯まで遠乗を催した事がございます。此時は何しろまだ8月の中旬頃で暑さもきびしかったものですから一同非常に疲れまして、殊に私はペダルを踏んで居る脚の神経がどうか成りましたと見えて、もう保土ヶ谷へ掛かりました時分には脚でペダルを踏んで居ると云うよりは、ペダルの回転するのに伴われて脚が動いて居ると云うような風で、脚の知覚が馬鹿になって来たのでございます。
所へもってきて保土ヶ谷の所に坂ありますが、あの坂へ掛かると坂の下に荷馬車が1台休んで居った、私は其時に何でも一行の内の真ん中へ挿まっておったと覚えて居りますが、先へ行った二人がツーッと坂を降りていって其荷馬車の傍を通る時に急にベルを鳴らしたのです、すると其荷馬車の馬が驚いて跳ね上がった所へ、私は後からやはり坂をツーッと降りて行ったのですが、あ馬が狂いだしたと思った時は既に遅しでもう其間近に至ってしまって、殊には今お話しした通りで脚が馬鹿になって居ったのでバックを掛けて飛び下りると云う事もできませんでした、又実際逆踏を掛ける余裕もなかったのです。危うくも其荷馬車へ衝突しそうだったので、ハッと思って急に轅(ながえ、ハンドル)を横へ無理に曲げますと、何しろ坂を降りてきた勢が車について居ったので堪りません、其處へ転落しました。幸いな事には此方が思った程荷馬車の馬が暴れたのでは無かったので自分は別段怪我はしなかったのですが、自転車は非常に破損しました。其時の日記を見ますと車の損所は斯う書いてございます。
それからもう一つ遠乗で面白い失敗のあったのは、何月だったか月は忘れましたがやはり其時分の事です、輪友会の連中で千葉へ遠乗を致した事がございます。其時に行かれた人は印刷局に居られた左近允君、それから森村明六君に同開作君、坂田實君、あとは名前を忘れましたが何でも私ともで七、八人でした。往は一行誰も無事でしたが千葉からの帰り道に、鴻の台の付近まで来た時にはもう日の暮方になりましたので、一同ペダルに力を入れて踏立てて急いで帰って来たのでございます。
2021年3月9日火曜日
日本輪友会について②
此雑誌は私も保存して置いたのですが只今一寸見えなくしました、多分慶応義塾の福沢さんの所には保存して有られるだろうと考えます。それから能く遠乗会も催しまして5、6里の所へは毎度出掛けましたが、其当時は今日の百分の一も乗り手は無いので至る所で自転車乗りが行くと珍しがりまして、なかなか面白い話の種を作りました。
その中で覚えて居ります事を一つ二つあとでまた話しましょうが、斯う云う風で出来た此会が自転車団体の最も古いもので、それから帝国輸友会とか、大日本双輪倶楽部とか、東京バイシクル倶楽部とか云うのが出来て、遂に今日の如く全国至る所に種々な自転車の団体が結ばれたので御座います。
(半開速記)
以上は「輪友」第17号、明治36年3月10日発行の記事である。
日本輪友会の設立については、当時の新聞にも次のように出ている。
明治26年7月11日付、朝野新聞
日本輪友会同会は自転車に関する諸般の研究を主とし、併せて同好者間の楽しみをともにせんとする一の倶楽部にして、当分京橋区南鍋町二丁目十二番地の交詢社内に事務所を置けり。
創立の趣旨は、自転車実用の道を啓かんとするに在りて、大いに会員を募集し、雑誌を発兌して一般会員に配布し、また会員の好みに応ずる外国製の車類及び附属品などを購求するの便益を謀り、併せて社交上に一新生面を開かんとする見込みなるを以て、会員二名紹介さえあれば、自由に会員たることを得べしという。
また、機関誌「自轉車」の発行についても、明治27年2月23日付の東京朝日新聞に次のようにある。
自轉車と題する雑誌出づ昨今同車の流行に連れ之に乗る人の機関となるを任ずるもの発行所は京橋区南錦町二丁目十二番地交詢社内日本輪友会
慶応義塾大学の図書館あたりにないだろうか。
つづく
2021年3月8日月曜日
雑誌「輪界」
雑誌『輪界』
本日、何気なく明治期の雑誌『輪友』を眺めていたら、『輪界』という雑誌の記事が目に留まった。
『輪界』は確か明治41年からの発行で、下の記事にある『輪界』は名前は同じだが別物と思われる。
今後、調査が必要である。
●大阪から今度『輪界』という雑誌が出たが遉(さす)がに田村規茂氏が幹する丈あって巻中気骨のある文字を以て満たされて居る輪士の読むべきものは東京で『輪友』大阪で『輪界』だ(愛読生)・・・明治36年3月10日発行『輪友』第17号 67頁
以前に調べた明治期に発行された自転車専門雑誌は以下である。
明治期に発行された雑誌(2020年現在の調査)
雑誌名 発行所 発行年
①自転車 日本輪友会 明治26年~5号で廃刊
②自転車 快進社 明治35年8月~大正?
③輪友 輪友社 明治34年10月~大正?
④輪界 輪界雑誌社 明治41年9月~明治45年?
⑤猟輪雑誌 大阪、猟輪倶楽部 明治35年9月~明治35年12月
➅三友雑誌 自転車銃猟写真の友 明治36年1月~明治40年?
⑦関西自転車 大阪 創刊年月日など不明
⑧自転車世界 大阪、自転車世界社 明治35年10月~明治35年12月
⑨愛輪時報 名古屋 創刊年月日など不明
⑩清輪 清輪時報社 明治38年~?
⑪信越輪界 信越輪界 明治43年?
⑫自転車 日本輪友会 明治27年2月~5号まで発行
⑬愛輪 金沢愛輪クラブ 明治36年10月~?
⑭周防愛輪月報 周防愛輪同志会 明治37年6月~?
⑮日米タイムス 日米商店 明治42年6月~?
2021年3月7日日曜日
日本輪友会について①
日本輪友会について①
我が国で最初の自転車クラブは、明治26年に発足した日本輪友会だと言われている。しかし、明治19年には既に帝大の自転車会が設立され活動していた。確かに組織とか内容などを比べると、帝大の方はむしろクラブと言うよりも同好の士に近い形態であった。自転車の台数もオーディナリーが1台で、メンバ-もたったの4人である。それから見れば日本輪友会は、組織も内容も充実していた。やはり日本最初の自転車クラブなのである。
以下、日本輪友会関係の資料を眺めて見たい。
我国自転車団体の最も古き日本輪友会の話(1)
石川 信
自転車の著しき発達に伴れて此節は都会は申すに及ばず各地到る所に自転車の団体が設けられない所はない位で、東京市中だけでも挙げて数えたら十有余の団体が設立されて居りましょうから、日本全国では実に百数十余殊によったら二百以上の団体があるかも知れませんが、此自転車団体の中で最も古きものは何という団体であるかと云うと、恐らくは私供が発起となって組織した日本輪友会というのが、最も魁けて設けられたものだろうと思います。
丁度私供が日本輸友会というのを組織したのは明治26年の5月のことで、その当時はまだ当今のように自転車の乗り手も少なく、又車も彼のダルマ形という車が大部を占めて居って、あとは木製の二輪車と三輪車・・・・此節名古屋あたりで電信配達夫が乗って居りますような車の外は、今の空気入安全車という自転車は実に東京市中でも10台とは無かった位でありました。今から考えて見ればその頃は今日流行の安全自転車の極く来たての時分であったと思われます。
2021年3月6日土曜日
國見山とデートン号
國見山とデートン号
昨日のつづき
元大関の國見山悦吉(1876年- 1924年)の写真がないか、輪友雑誌を丹念に調べていたら、下の写真がでてきた。
双輪商会の広告のイラストと見比べると、若干の違いがあるが、恐らくこの写真をもとに描いたに違いない。
写真の方の力士と和服姿の組み合わせのがより現実的で好ましいが、あえてデートンと書いたジャージーを着せて、ズボンをはいた姿に変えている。自転車もわざわざ右側を描き出している、確かにチェーンホイール側が一般的に表(特に表裏とは言わないが)になる。宣伝効果を考えた画とすれば当然こうなるはずである。
2021年3月5日金曜日
2021年3月4日木曜日
雑誌『自轉車』
雑誌『自轉車』について
明治36年8月5日発行「輪友」第22号58頁に次のような短い記事あり。
●雑誌『自轉車』
去る五月十日發行第三十三號以来沓(よう)として其消息を聞かず幸に健在にして一日も早く次號の發行を望む
註、明治33年に初めて発行された月刊専門雑誌「自轉車」は、はじめの数年は勢いがあり、内容も充実していたが、この頃になると元気がなくなり、この記事にあるように発行の遅延を来す様になる。
以前このブログでも触れたが、明治40年頃から精彩を欠くようになり、その誌面に変化がでてきたと述べたが既にこの頃からその兆候が現れたことが、この短い記事からも読み取れる。
以下は先に書いたブログの内容の一部である。
「知られざる銀輪のわだち」その16
佐藤半山と雑誌「自転車」㊦
明治40年代以後は誌面に活力がなくなる
いままでのべてきたように明治30年代の『自転車』は、当時の自転車事情を反映して、珍奇談をふくみながらも活気にあふれた誌面を提供しつづけていた。
しかし、その様相は明治40年代から大正期に入るとしだいに変化する。活気が衰え、誌面づくりにも苦悶しているかのようになる。
実は、この連載と併行して進められていた、佐藤半山と『自転車』の調査がかなりはかどり、いままで発見できなかった明治40年代と大正初年の同雑誌がまとめて発見された。このため『自転車』が歩んだ軌跡がある程度たどれるようになったわけであるが、そこからわかることは自転車文化の衰退である。
その変化をのべる前に、新しく発掘された資料によって判明した事実をかんたんに紹介しておきたい。
雑誌『自転車』は関東大震災まで発行されつづけ、最後は『自転車月報』という業界新聞に切り替えられる。この業界紙は半山の死後も継続して発行され、昭和9年ごろまで出されていた。
2021年3月3日水曜日
偽物デートン号
偽物デートン号
当時のサイクリストに人気のあったデートン号やピアス号などを巡っては、その自転車の偽物や商標の偽造が横行した時期でもあった。その一例が下の「輪友」記事である。
明治36年8月5日発行「輪友」第22号 59頁
●デートン号に就て
快速堅牢高尚優美なるを以て我輪界に非常なる好評を博せし双輪商會直輸入のデート号に昨年來偽物若くは粗製品の現はれし事は聞くが儘に報道を怠らざらしが同商會にては自己の迷惑と輪士諸君の此等奸商の毒手に罹るを憂ひ昨年來種々手を盡して其撲滅策を講じたる結果偽物は大抵其跡を絶ちたるも尚デート号製造会社が桑港(サンフランシスコ)向として製出せる安物を桑港なるエゼントの手を経て窃に輸入し之を同商会が日本向に特別に注文し輸入してるものと欺き販売せる奸商あるにより今回同商會にては此の桑港向粗製安物のデート号をも輸入し以て従来同商會が特に注文して日本向に製造せしめ居るデートン号と如何に其構造装飾等の点に於て相違せるかを我輪界に紹介する由なれば從來毒牙を逞ふしたる妊商も愈々退治し盡さるるに至るべし
2021年3月1日月曜日
電信配達と自轉車
この記事は初めて郵便局で自転車が採用された時期のことが、具体的に書かれていて興味深い。現場の担当課長から直接聞いた話を記者が口述筆記したもの。
以下にその一部を紹介する。明治期の文章と旧漢字で読みにくい点はあるが、一部を除きなるべく原文を尊重した。
明治36年10月5日「輪友」第24号より
電信配達と自轉車
東京中央電信局受付配達課長 八木鍾次郎
日本で自転車を初めて使ったと云ふことは、『輪友』の記事に據って見てもる明治十四年頃から既に乘出した人があるやうに見えて居るが、之を実際実用に使ったと云ふ上に就ては、抑も電信配達上に応用したのが一番最初であるだらうと思ふ。それで私は今御需めに依つて電信配達用に自轉車を応用した既往の沿革、現在の有様、及び私の所感と希望とを搔摘まんで御話して見やうと考へる。
抑も電信配達上に自轉車を応用したのは明治二十五年の三月の事で、今の木挽町電信支局の隣の商業會議所が其頃は日本の電信中央局であって、東京を中心として全国各地から集って來る電報は、皆此の局を経過したものであるから、此の電信局と云ふものは非常に規模の大きなものであって、從つて所屬の配達區域も一番広く有して居った。其頃漸く自轉車が流行の萌芽を現はして來て、勿論今日の空気入りタイヤの安全式自轉車は無かったが、此の自轉車なるものは最も便利なものであるから、之を一つ電信配達上に応用して見やうと云ふことに、其當時の当局者が気付かれて、そこで前申した明治二十五年の三月に初めて十臺の自轉車を中央電信局で買入れた。其內五臺は其當時流行した木製のガタガタ車で、前輪の車軸にクランクが取付けられてあって、ペダルを一踏みすると車輪が一回転する「直踏」と云ふ二輪車であったが、後の五臺は俗に丸ゴムと云ふ細い硬質護謨輪の附いた鉄製の二輪車で、形は丁度当時大流行の安全式空気入二輪車と先づ総体の格構が同じ事で、前後の車輪の大きさも殆んど同じく、矢張り鎖を用ひて伝働するやうに仕掛られた構造の自轉車。(図参照)此の自轉車は横浜高島町の梶野仁之助(今の梶野自轉車合資会社)から買入れたのであるが、梶野で亜米利加あたりから自轉車の部分品を取寄せて模造した車であると云ふことを聞いて居る。今日では如何なる田舎へ行っても貸自轉車店の一軒位無い所はないが、其當時は東京のも私の記憶に残ってい居る所では、僅かに神田の秋葉の原に二軒、錦町に一軒、本郷に一軒、芝の愛宕下に一軒があって、それも皆な重に木製の車を置いて貸自轉車を業として居るのみであった。
謂わば極自轉車の幼稚な時代に早くも十臺の自轉車を買入れて之を応用して見ると、其結果は甚だ好ましい。そこで明治二十七年の三月に至つて、横浜太田町の田中利喜蔵の手を経て海岸中通りのブルウル兄弟商会で輸入した英国製の自轉車を五臺買入れた。是が日本で電信配達に外国製の自轉車を用いた初めである。それから明治二十八年の三月にまた田中利喜蔵から四臺買入れた。其翌二十九年になってどうも英国製の自轉車は其時分の物価に合して廉い方ではない。之はどうしても輸入物をサウ使はぬで日本て造ることにしなければならぬ、既に横浜の梶野では或る一二の部分品を外國から取寄せて用ひたにしても、兎に角自博車を拵へて居るのであるから、東京でも相當の機械師に命じたらできぬことはなからう、一つ試験かたがた造らして見ようと云う説が出て、それから本所の吉岡町に居た森田玉江と云う機械師に命じて、自轉車を二臺製造させて見た、其の車は全部鉄製で目方は非常に重いものである、私は当時まだ其局に当って居らなかったが、其車が今でも一臺遺って居るのを見ても、能くこんな重たい自轉車に乗れたものだと思う位な所謂頑丈一点張りと云う拵へ方である。
所がどうも內國製のものは舶来品のやうに器用に出來ないのと、一方には又舶来品がドシドシ入って來て米國製のものなどは、価格の上から云つても割合に先づ康い方てあるし、且っ製作方が誠に器用に能く出来て居るので遂に又舶来品を買ふことになって、翌三十年の三月には横浜二百六十八番館のワンダイン商会からウルフと云うのを二臺と、外に三十八番館からビクトリアと云ふ自轉車を買込んだ。それから後はズッと米国製のものばかりで、三十一年二月には、またウルフと云うのを六臺、同年六月には銀座の伊勢善商店からウエストフィールドの№1と云ふ自轉車を敷臺購入した、其後は諸方から種々の車を買入れて来て居るのであるが、其數は殆と三百輌に近いのである、以上が先づ極く概略の電信局に於ける自轉車の沿革とも謂ふべきものてある。