自転車と市電
下の写真は大正12年6月1日発行の「自転車の経済と其活用」渡辺承策 著所収のもの。
そのキャプションに、
どの町どの通りでも大抵斯の様に自轉車の輻輳が劇しのであります。
日本自転車史研究会のブログ Copyright © Yukio Ootsu
自転車趣味の会
この会は、鳥山新一氏が代表幹事となり「自転車趣味の情熱を通じて、自転車文化を守り育てる活動を展開する」ことを目的として1993年9月に設立された。
そして第1回の集い「講演とコレクション展示」が同年11月3日(文化の日)に中野サンプラザで開催された。
鳥山さんから事前に講演を頼まれていたので、当日は早めに出かけることにした。
以下は当日の私の講演内容である。(一部加筆修正)
オーディナリー自転車について
老舗さんぽ-49
だいぶ古い話になるが、1994年に日本自転車史研究会の会員でもあった中野サイクルを尋ねる。
自転車関係資料-54
中村春吉の自転車無銭世界旅行ではないが、やはり貧乏旅行に近い。
決行したのは小樽市の奥山瑛明・おくやま てるあき(23)さん
1日2ドル世界一周
昭和42年6月16日発行「アサヒクラフ」通巻2258号 16頁~21頁
以下に本文の一部を抜粋
世界一周サイクリング旅行を企てた。その計画とは、アメリカ、ヨーロッパ大陸を自転車で横断して、ギリシャから船で東南アジアを回ってこようというものである。大学の三年間、トレーニングで明け、アルバイトで暮れ、英会話に精を出した。機は熟せり…いざ実行という段になり、はじめてアメリカ人の先生にこの計画を話すと、文字通り飛上がって驚いた。「アメリカ大陸を甘くみてはいけない、人家一軒ない広大な砂漠もある。自動車だって大変なのに、自転車で横断とはクレージーだ。あえて決行するなら、即ち自殺である……」と。さらに自転車通行禁止のハイウェー、山猫、熊、ガラガラ蛇の襲来など、不利な条件ばかりを述べ計画中止をすすめる。エンパイヤ号
今回も岡本の自転車である。
岡本と云えばすぐに思い浮かべる銘柄はノーリツ号である。ノーリツ号イコール岡本と云ったイメージが強い。これは岡本が何種類かあった銘柄をノーリツ号一本に集約したためで、大正13年からこの銘柄を踏襲している。それ以前はエンパイヤ号と云う銘柄が岡本のメインであり、当時の広告に度々このエンパイヤ号が登場する。
下の資料もその一つである。ノーリツ号
下の写真は昭和22年ごろの岡本ノーリツ号である。三菱十字号同様にフレームはジュラルミン製、戦後間もない時期に発売されたもの。このノーリツ号を入手してからも既に40年ほどになる。
軒下に長年置いているので劣化が著しい。スチールの部分は見ての通り赤さびだらけ。おそらくフレーム部分もかなり劣化が進んでいるだろう。
入手してから数回は試乗したが、フォークの強度に不安があり、それ以来まったく乗っていない。販売の当初からこのフォークの強度不足は問題で、折損事故も起きたとも聞いている。発売から何年間続いたのか分からないが数年で販売を停止したはずである。
このノーリツ号は浜松に腕のいい職人がいて、その店で組み立ててもらったもの。
以下がその辺の経緯である。
その腕のいい職人さんとは小栗自転車店の店主であった小栗幸平さんで、きっかけはラレーロードスターに付いていたスターメイ・アーチャーの内装ハブが故障して、どこの店に行っても修理ができないと断られていたが、あるバイク屋さんを訪ねたところ、腕のいい自転車店を知っていて、浜松市鴨江の小栗自転車店を紹介してくれた。
或日、小栗自転車店を尋ねた。店主は小栗幸平さんと言って、この時すでに83歳のご高齢であった。まず驚いたことは店の佇まいで、一般の自転車ショップのイメージからまったくかけ離れた店であった。店内に新品の自転車が置かれていないこと、床は土間であった。天井から古いフレームが何本も下がっていたり、中古の自転車が数台置いてあった程度。修理用の大きな作業台には万力があり、土間には確かフイゴのようなものもあった。昔の鍛冶屋のことは知らないが、たぶんそのイメージに近い店である。
小栗さんは釣りが趣味で、釣から帰ってきたところで、スターメイ・アーチャーの内装ハブの修理を依頼をした。早速、快諾をいただき、その日はラレー自転車を預けて帰る。
数日後に、店へ行ったところ、既に修理は終わっていて、完璧に直っていた。これがきっかけで小栗さんと親しくなり、中古車だが2台この店で購入した。1台は昭和22年製の岡本ノーリツ号で、これは天井から下がっていたフレームに適当な部品を組み合わせて作っていただいた。もう1台はこれも昭和20年頃のフレームで、形状はスチール製の十字号のような形であった。
カッター號
先のブログの中で、(2021年9月14日火曜日、チドリ号)
「昭和10年代にもチドリ号やカッター号があったのかいまのところ不明である」
と書いたが、本日、昭和4年度の輪界興信名鑑を眺めていたら、ヒドリの自転車カッター號が載っていた。下がその広告である。
昭和新進の標準車 ヒドリの三種とある。
チドリ號については、チドリ商会と云う名で昭和4年、昭和12年発行の名鑑に出ている。はたしてこのチドリ商会がチドリ号の発売元であるのか、もしそうであれば、チドリ号代理店山内自転車店の店舗前写真の撮影年も昭和6年頃で間違いないということになる。
昭和4年、チドリ商会 東京市芝区櫻田鍛冶町三 小売商
昭和12年、チドリ商会 東京市渋谷区景丘10 完成車・フレーム製造
同じチドリ商会だが所在地が違っている。小売りと製造元の相違もある。はたして同じ会社なのか判断できかねる。チドリ号と云う銘柄も載っていない。
自転車関係資料-53
西独から来た自転車夫妻
昭和43年12月20日発行「アサヒクラフ」通巻2343号 41頁~49頁
CYCLING ROUND-THE-WORLD German journalist Mr. Wolf Dieter Ahlborn, accompanied by his wife Wilma, set out cycling round the world from their hometown, Heilbronn,near Stuttgart Sept. 16, 1966. in Cairo they were detained for 49 hours by police on suspicion of espionage, when they took pictures without permission in a desert in Syria, an Arabian nomad proposed Ahlborn give Wilma to him in exchange for his two concubines, children, 450sheep and camels, and tents. They reached Japan months ago by way of Malaysia and Thailand.輪タク
戦後に現われた交通機関の一つに輪タクがある。この輪タク(自転車タクシー)は、戦時中にもあり、国民車、更生車、厚生車、国策タクシーなどと呼ばれていた。地方のどこの駅前にも2、3台は見かけたものであるが、敗戦後の東京では名前も”輪タク”と呼ばれ、明治から大正期にかけて普及した人力車のように駅前を現在のタクシー並みに占拠していた。まだこの時期はガソリンも不足していたので自動車やオートバイは珍しく、ガソリンのいらない自転車が活躍したのである。昭和24年ごろから数年であったが庶民にとって欠かせない交通機関であった。
昭和21年の春、 新宿の露天商(闇市も統率)、関東尾津組組長であった尾津喜之助(1897年 - 1977年)が200台の輪タクを作らせ、当時の厚生大臣河合良成の協力も得て輪タク事業を始めた。しかし、新宿周辺の地権者から不法占拠だとして、告訴される事態になる。
このような騒動もあったが、この輪タクは全国的にも大いに普及し、便利な乗物として歓迎された。営業当初の料金は一区(24キロ)10円であった。
東京の輪タク台数の推移は次のとおり
昭和24年(1949) 3,498台
昭和25年(1950) 2,302台
昭和26年(1951) 1,611台
昭和27年(1952) 1,161台
昭和28年(1953) 958台
昭和29年(1954) 567台
昭和30年(1955) 449台
昭和31年(1956) 110台
昭和32年(1957) 501台
昭和33年(1958) 17台
昭和27、8年頃になると、ガソリンの供給量も徐々に増え、小型自動車やオートバイも増加、その反動で次第に輪タクは姿を消していく。
参考資料:「東京百年史」 東京百年史編集委員会編 1972-1979
下の写真は尾津組の輪タクである。後部の窓の上に「尾津なリンタク」(おつなりんたく)と洒落て書いてある。新宿界隈をこの車が通ると注目されたはずである。この輪タクの車体を見ると特注の三輪車であることがわかる。フロントのフォークは松葉で堅牢に作られている。後部の座席はフルカバーが施され、雨風を凌いでくれる。このカバーの材質はおそらく軽量のジュラルミンでリベット止めが見える。窓はセルロイド製のようである。乗降は左側の中央に取っ手が付いているので、これで前に開くと中央で折曲がる形状になっている。輪タクに特化した乗り物であることが分かる。果たしてこの輪タクは何處の自転車工場で製作されたものなのか興味は尽きない。競輪誕生の前夜
競輪が戦後の復興に寄与したことは誰もが認めていることであるが、最近は残念ながらその競輪の人気は徐々に低迷してきている。9年前には挽回策の一つとしてガールズケイリン(2012年7月1日復活)も始まったが、根本的な解決策にはなっていない。以前から考えていることだが、この競輪も野球やサッカーのように有力な多くの外国人の選手登録を認めてもよい時期に来ているのではないのか、ケイリン(keirin)が自転車競技の国際的な種目の一つになっているのであるから、門戸を広げてグローバル化に対応する必要があると思う。
先日のニュースで、日本初となる自転車トラック「PIST6チャンピオンシップ」が10月2日に千葉JPFドームで開幕するとあった。これは競輪の新しい試みで国際基準のルールに基づき行われる。将来的には外国人選手の参加も検討されているとしている。将来的に検討ではなく、できることなら早く実行すべきである。
競輪誕生の前夜、「競輪10年史」より
昭和21年になっても銀座かいわいの惨状はまだ放置されたままであった。この年6月、銀座と背中あわせの有楽町二丁目に「国際スポーツ株式会社」という看板がかげられた。独立した社屋があるわけではない。国際技術者連合会に同居する法人組織、資本金18万円、それこそ戰後に雨後のたけのこのように、にょきにょきできた小会社の一つである。1948年6月に自転車競技法の法案が可決成立、同年8月1日から施行された。その年の11月20日には国民体育大会の自転車競技会場として建設された小倉競輪場(旧、三萩野競輪場)において、第1回小倉競輪が開催されたのがその始まりであった。
下の写真は、昭和24年1月に初めて大宮競輪が開催されたときのもの、明治後期や大正期の草レースのような風景である。走路も選手のユニフォームも自転車も、そして観衆もすべて黎明期の雰囲気を映し出している。自転車をよく見るとすべて一般的な実用車である。さすがに荷台と両立スタンドは取り除かれたいるが泥除けは付いている。
夢のあと
先日(9月7日)、オリンピック・パラリンピック競技が終了した富士スピードウェイ周辺を尋ねてみた。まだ交通規制の看板が随所に残つていたが、富士スピードウェイの入り口では幟や横断幕の撤収が始まっていた。
7月24日に開催された自転車男子ロードレースの沿道での歓声や熱狂ぶりを思うと、まさに
夏草や兵どもが夢の跡
と云った感じであった。(既に季節は秋だが)
今回のオリンピック競技の中で沿道のすべての観衆を含めると、自転車男子ロードが最大の観客動員数を記録したのではないかと思っている。
今後の日本のサイクルスポーツの発展に寄与したことは確かである。一過性で終わってほしくない。スロベニアのヤン・トラトニク(Jan Tratnik)、タデイ・ポガチャル(Tadej Pogačar)、ヤン・ポランツ (Jan Polanc)、プリモシュ・ログリッチ(Primož Roglič)のような選手が輩出されることを望む。新城幸也選手のようにツールやジロで活躍できるアスリートの登場を待ちたい。
今日はGoogleストリートビューで、ヤン・トラトニク(Jan Tratnik)選手の故郷周辺を散歩した。風光明媚な緑の多い地域である。
スロベニアのリュブリャナ周辺にある2軒の自転車店も尋ねた。
サイクリング・ユナイテッド・リュブリャナ(Cycling United Ljubljana、Dobrunjska cesta 62, 1261 )
VEBカンパニー(Veb Company, podjetje za trgovino in inženiring, d.o.o.)
旧軍需工場の参入
太平洋戦争が終結して、間もなく旧軍需工場の中で、平和産業である自転車の製造を始めた企業が登場した。これらの企業は高い技術と大勢の優れた技術者もかかえていたので、自転車製造は比較的容易であったはずである。
所謂転換メーカーと云われた会社には、次の14社をあげることが出来る。
1、三菱重工津機器製作所 三重県津市 ジュラルミン製の十字号 昭和22年
2、萱場産業岐阜工場 ユートピア号 東京都中央區日本橋本町1-2-2
3、日本金属産業株式會社 東京都中央區木挽町6-7 プテーエクレア号
4、中西金属工業株式會社 大阪市北區天橋筋5-68 N.K.K号
5、半田金属工業株式會社 愛知縣半田市乙川字畑田9 オリオン号
6、不二越鋼材工業㈱ 富山市石金20 NACHI (那智)号
7、富士産業株式會社太田工場 群馬県太田市太田747 ハリケーン号
8、高砂鐵工株式会社 東京都板橋区 滋賀縣栗太郡草津町矢倉385 T.T.K 号
9、天辻工業 大阪市東淀川區三津屋南通6-12 ニューローレル号
10、片倉工業株式會社 東京都西多摩郡福生町熊川724 片倉シルク号
11、西日本工業 調査中
12、株式會社中山太陽堂 大阪市浪速區水崎町37 クラブ号
13、大同製鋼 名古屋市
14、大和紡績 大阪市 1941年(昭和16年)創業
参考資料:「自転車の一世紀―日本自転車産業史 (1973年)」
1950 年6月の朝鮮戦争がはじまると、特需による景気からこれらの工場は以前の重工業などへと戻っていた。唯一残っていた片倉シルクも1989年1月には、自転車業界から撤退した。
以下は、参考までに三菱十字号と不二越の那智号について触れる。
三菱十字号
戦後まもなく航空機の技術者であつた本庄季郎技師が製作した三菱十字号は精緻な強度計算からうまれた自転車であった。不二越鋼材工業㈱が一時自転車を製造していたことは、あまり知られていない。
以前に自転車技術史研究家の梶原利夫氏から頂いた「日本工場大観」日刊工業新聞 1950年8月1日発行のコピーの一部に不二越鋼材工業㈱の広告があり、ベアリングと自転車の写真が載っている。自転車オートバイ
自転車オートバイとは、自転車に補助エンジンを取り付けたバイクである。
当時、通常のオートバイはまだ高値であり、一般庶民は手を出せなかった。そこで開発されたのが自転車用の補助エンジンであった。一時期この補助エンジンは大きな反響を呼んだ。ホンダもスズキもこれを機に発展していったのである。その代表的なものがホンダの「カブF号」やスズキの「ミニフリー号」であった。
オートバイの歴史も古く日本では明治29年まで遡る。一番最初に日本に現れたのがドイツ製のヒルデブラント& ヴォルフミューラーで、このオートバイの試験走行を十文字信介が皇居前で走ったのが最初である。
1896(明29)年1月19日(日)付 報知新聞に、
石油発動機自転車試運転
昨年独逸で発明せられたる石油発動機自転車は、極少量の石油を用ひ円筒内の空気を熱し一種の促進機を働かして一時間六十哩を疾走するものの由にて、十文字信介は曩に之を購入し数度試運転を成したりしが、本日午後一時より、東京ホテル前より乗り初め、川岸より西方和田倉橋へ走らし、坂下門前を廻り二重橋東へ出で、緩急各種の運転を行なひつつヽ衆覧に供する由。
とある。
このニュースは他に中央新聞、毎日新聞も同様に報じている。
その後、国産化に向けやた動きも始まり、先駆者達の努力により試行錯誤の末、明治42年に、島津楢蔵が初の国産車であるNS号を完成させた。
1914年(大正3年)には、自転車の宮田製作所も国産初の市販車となるアサヒ号を発売した。このオートバイは英国製のトライアンフをモデルに製造された。
1,945年に太平洋戦争が終結してから10年を待たずして、この自転車オートバイのブームが訪れたのであった。
この時期の主なメーカーとしては、本田技研工業株式会社のホンダ・カブ号F型、BSモーターのバンビー号、株式会社トヨモータースのトヨモーターE8型、三輝工業㈱のサンライト号、日米富士自転車(株)の富士ベビーランナー号、田中工業株式会社のタス・モーターのフェザー号、東京発動機株式会社のトーハツ・パピー号、トーマスオウトユニオン社のトーマス・エンジン、仙石製作所のサイクロンペット、ブラザー精密工業のマイダーリン、宮田自転車のマイティーオート、山ロ自転車の山口ペットYB1などが発売された。
だがこの自転車バイクの流行も一時的(昭和27年~昭和30年ごろまで)であり、3年後には徐々に衰退していった。
特に1958年(昭和33年)に低価格で性能の良いホンダのスーパーカブが発売されると、他のメーカーは圧倒され、消えていくか、撤退を余儀なくされたのである。
鳥山氏とモハン号
先日来、三人の知人から鳥山新一氏の訃報の連絡が入った。以下がそのブログの記事、(一部修正加筆)
鳥山新一氏の書いた本や雑誌の記事にあるモハン号の2点の写真を拡大鏡でよく見ると、同じものではないことが分かる。モハン号の特徴としては、チェーンホイールの伝達構造と折畳小径車であること。特にこのチェーンホイールの位置は若干ずれているが左右それぞれに付いている。細部の構造は写真でよく分からないが、ギヤ比による変速か、或はギヤ比の拡張のために左右にそれぞれ付いているのではないかと思われる。次もブログの記事、
1936年頃にモハン号が登場している。この自転車を初めて見たのは、本に掲載されていた小さな不鮮明の写真であった。鳥山新一著「すばらしい自転車」(日本放送出版協会版、1975年01月発行)にある。このモハン号は、鳥山さんが少年の頃に乗っていたもの。
1993年(平成5)5月9日に東京上野公園で行われた第7回クラシック自転車コンテスト(梶原利夫氏主催)に現れた黒塗りの小径車がそのモハン号であった。当初、駆動部の珍しさとユニークな形状が目を引いたが、メーカー名等まったく分からなかった。フレームに特許番号のようなものが微かに見えたが、それ以上のことは分からない。後日、それがモハン号であることが判明したが、残念ながらその自転車の所有者名をメモすることと肝心な写真を撮ることを忘れてしまった。忘れたというよりも、モハン号であることも知らなかったので、軽く考えたのである。以来、いまだにモハン号の現物は見ていない。あの自転車はどうなったのであろうか。
ミニ・サイクルは鳥山氏が命名(以下は「すばらしい自転車」より)
ミニ・サイクルは1963年にイギリスで発表されたモールトンが初めてのものだと思われていますが、ほんとうは、日本で第二次大戦前に考案されたのです。二宮忠八と自転車
下の資料は「二宮忠八伝」関猛 著 日光書院 昭和19年発行である。
二宮忠八、自転車に乗れず
以下はその部分、
次に車をつけなければならないが、それをどうしたがよいか、色々と考へた。とある。
欧州大戦当時の独逸ー2
昨日からの続き
その二つ目は、飛行機の試作と三輪車の製作である。(「欧州大戦当時の独逸」の追記と訂正の17頁)
百五十年の昔飛行機の發明。私の血族關係ある三河国宝飯郡御油の戸田の家の次男に天明年間太郎太夫と申す一奇人がありまして、青年時代は発明に没頭しまして、こんな時代に、飛行機を研究し御油の海岸に櫓をしつらへ、自ら櫓の上から飛行試験をやって墜落して重傷を負ったといふ事です。また自轉車の前身ともいうべき木製の三輪車を作り、それに乗って豊川稲荷に參詣したとのことで、土地の者に非常な変わり者とされていました。近頃までその飛行機の翼が、つい物置に保存されてありましたが、鳥を真似たもので、竹で骨組し澁紙で貼り、足を踏むと翼がバタバタ廻ると云う極めて原始的なものであつたらしい。兎に角彼は交通発達史上に尖端を切らんとして、苦心惨澹した人であったが、當時は此のやうな研究をする者には非常な圧迫があって流刑の罪にさへ問はれさうな程で、發明とか研究に極度に恐れをなしたるのであったさうですが、幸い太郎太夫は御油の旧家で席貸の大元締の倅であったので、この憂目は見づに済んだが、親から貰った遺産は全部これ等の研究に使い果し、已むなく豊橋に移って実業に從事したといいます。
「欧州大戦当時の独逸」昭和8年5月15日発行、ベルツ花子著、 審美書院より
註、天明年間は、1781年から1789年で天明の大飢饉や老中の田沼意次が失脚した時代。また最上徳内が千島列島を探検し、ウルップ島まで足を延ばしている。
三河国宝飯郡御油は、現在の愛知県豊川市御油町で江戸時代は宿場町として栄えた。安藤広重の東海道五十三次の35番目である。
戸田太郎太夫が三輪車を作ったとあり、どのような三輪車なのか分からないが、興味深い。またこの三輪車に乗って豊川稲荷までサイクリングをしたと云うからそれなりの構造と堅牢さがあったはずである。御油から豊川稲荷は往復で16キロほどである。まさに実用化を自ら証明している。
推論だが久平次の陸舟奔車のメカニズムを取り入れた可能性もある。或いはその改良型か。当然ペダルクランクと操舵も備えていたはずである。
三輪車もさることながら、飛行機を試作したということは更に驚きである。成功はしなかったがその試みは当時の封建制度下の社会情勢からして稀有なことである。
飛行機の黎明期に出てくる人物としては、江戸期の1780年頃に空を飛んだと云う琉球王朝時代の花火師、安里周当(あさとしゅうとう)。1785年(天明5年)、表具師っであった浮田幸吉(うきたこうきち)が知られている。明治に入っては玉虫型飛行器で有名な二宮忠八(にのみやちゅうはち、1866年-1891年)が登場する。この飛行機の車輪部分は当時の三輪車の構造を採用している。
この戸田太郎太夫についても、日本の飛行機の歴史上の登場人物に加えてよいのではと思う。
欧州大戦当時の独逸ー1
このタイトルは昭和8年5月15日発行、ベルツ花子著、 審美書院の題名である。
以前、自転車史研究会の会報「自転車」第43号、1988年11月15日発行に「天明年間 戸田太郎太夫の自転車旅行」として自転車史研究家の真船氏がその投稿ですでに紹介しているが、この程あらためてこの本を斜め読みした。
ざっと眺めたところ、2か所に自転車関連の文章が出てくる。
その一つは、以下のダルマ自転車が出てくる部分である。(283頁)
上野の慈源堂前の四軒寺の大學の官舎に居たネウトウといふ人は、動物を飼馴らす事に妙を得ていた、その官舎から撞球(ビリヤード)の會日には、毎時も車の高さが五尺もある自轉車に乗つて來ましたが、この自轉車に乘るには、一寸とした踏台が入用で、今の自轉車とは違い、五尺もある大きな車輸が一ツ、それに鞍が附添ってあり、後に竪一尺の小さな車がついてある二輪車でした、此の車に乘りて自分は池之端中町通りを通って、加賀屋敷の官舎の方へ通いした、その時上野の森に巣食う鳶が残らずとも言ふ程、跡を慕って不忍の池の上を通り抜て飛んで参ります、夫故ネウトウ氏の參る日には必らず油揚四五十錢買って盆に載せて置く、するとネウトウ氏は盆を差上げると、頭と言はず、肩と言はず鳥が飛付き、少しも恐れません、それにネウトウ氏が居さへすれば、外の者が居ても少しも恐れせん、鳥が残らず食べて仕舞った時分に、ネウトウ氏が「先にお帰り」と言ふと、一つ残らず鳥が引き上げて行って仕舞ひます、・・・・
とある。加賀屋敷の官舎に通ったとあるから、現在の東京大学である。ネウトウとは明治期のお雇い外国人である。この文章に書かれている年代ははっきりしないがダルマ自転車から類推して明治25年前後であるはずだ。ネウトウと云う人物も少し調べたが詳しいことは分からず。(継続調査予定)
踏車
下の画の踏車(ふみぐるま)の構造を見ると、何処かで見覚えのある形状である。それは陸船車の駆動部であるフライホイールのような歯車の部分と似ている。陸船車も踏車も細部はともかく駆動方法としては同じであった。
この踏車の発明は下の資料(1822年、文政5年の「農具便利論」下巻 大蔵永常 著) にも書いてあるように、 (資料③の赤線部分)
寛文年中より、大坂農人橋の住、京屋七兵衛、同清兵衛といえる人、この踏車を製作し、宝暦、安永の頃までに諸国に弘まり、今は竜骨車を持ちゆる国すくなし。
とある。庄田門弥の陸船車が1729年であるから、60年ほど前にあたる。門弥の時代になると日本各地の田圃で踏車は普通に見られたはずである。
ことによると門弥はこの踏車をヒントに陸船車を考案製作した可能性もある。
この資料の文中にある龍骨車とは踏車以前に中国から伝来したもので、構造的には踏車より少し複雑で規模も大きい。下の「天工開物」の図を参照。