2009年5月30日土曜日

中村春吉(10)

 明治35年2月22日、汽船丹波丸にて横浜を出向した中村春吉は、同年の3月15日に香港に到着しています。 
 香港在住の日本人である梅谷正人氏の世話になり、領事館などを訪ねています。領事館での話によるとオーストラリア政府は規則を変更して東洋人の上陸を禁じることになった由で、彼はオーストラリア行を諦めシンガポールへ向かうことになりました。

その後の消息は、明治35年5月16日頃にカルカッタに到着しています。

以上の記録は、雑誌「輪友」第6号及び第8号に載っています。

 押川春浪編述「中村春吉自転車世界無銭旅行」(明治42年8月14日博文館発行)には、明治35年2月27日下関着、3月3日上海着、3月8日香港着などとありますが、小説ゆえかそれとも記憶違いか、実際とは若干のずれがあるようです。
 自転車での走行の記録も極めて不鮮明です。印度まだは殆んど船での移動のように思われます。当時の治安や道路状況を考えれば、当然の結果なのでしょう。

2009年5月21日木曜日

東亜護謨会社

 東亜護謨会社は、明治32年創業で社長は小林六三郎という人でした。工場は、東京府下南葛飾郡亀戸村字柳島四百十九番地にありました。彼は元薬剤師で、ある薬問屋に勤めていました。ある日、雑誌読んでいた小林はゴム製造に興味を持ち、自分でもやってみようという気になりました。明治32年12月から本や雑誌などを見ながら、実験を繰り返していました。おそらく薬を調合するような具合で実験を重ねたと思います。そして、明治33年8月にようやくゴムというものが概ねどういうものか分かってきたようです。この時期まだ日本で自転車用のタイヤを製造する会社はありませんでしたので、彼はこれを専門にやってみようと思い、手始めに廃物になったタイヤを安く買い入れ、この古タイヤに上からゴムをかけて造ったようですが、この方法はうかくいかなかったようです。その後も試行錯誤を続けながら研究を続け、明治34年10月になって、初めて実用になりそうなタイヤを製造することができるようになりました。 
 その後、この会社がどうなったかは分かりません。この会社は自転車用タイヤの他に足袋底、草履裏、ゴムマリ、消しゴム、医療器械用のゴムなども製造したようです。

2009年5月19日火曜日

タイヤ

 自転車の部品の中で国産化が遅れたものの一つにタイヤをあげることができます。
 明治後期に自転車用タイヤを製造していた企業は、次の4社です。

東亜護謨会社 
 東京府下南葛飾郡亀戸村字柳島四百十九番地 明治32年創業

合資会社明治護謨製造所
 東京府豊多摩郡大久保村大字西大久保 明治33年創業

ダンロップ護謨(極東)株式会社 
 神戸市 明治42年創業

三田土ゴム製造合名会社
 東京 明治19年創業

ただし、この4社にしても自転車用タイヤの製造は遅く、明治42年頃からです。

梶野

 梶野が日本で最初にセーフティー型自転車を製造したのはほぼ間違いないと思われますが、その詳細については殆んど分かっていません。断片的な資料があるのみです。

次の記事もその一つです。

日本で自転車を一番初めに造ったのは横浜高島町の梶野自転車合名会社であるが、空気入りの自転車を製造しはじめたのは確か明治二十五、六年の頃だと考える。私もその頃同社に特に一台を注文して試乗した事もあるが併し遂に好結果を得なかった。其後彼是れ四年程後にまたまた梶野自転車合名会社の手に於いて金日本、銀日本等の自転車が製造された。是は主に舶来の原料を以て唯だ其組立てを梶野でやったと云う位に止まって居ったが、之も矢張り余り思わしくない結果に終わったのである。(明治35年5月8日発行の雑誌「輪友」より)

 梶野といえども、国産自転車製造の当時の状況はこの程度のものであったようです。国産といっても殆んどの部品は外国製品が使用され、単に組み立てた所謂アッセンブル方式による製造だったのです。宮田の創業時(明治26年)もこのような状況でした。
 梶野の創業は明治12年と伝えられていますが、当初(明治21年~明治26年頃)はコロンビアやビクターなどのアメリカ車を輸入販売していました。創業期から明治20年までの状況は殆んど分かりませんが、恐らく木製のミショー型か三輪車を製造していたものと思われます。

2009年5月16日土曜日

ジェラール自転車(4)

 明治35年に日本陸軍はジェラール折畳自転車を50台程購入しています。

◎ジェラール式自転車
今回陸軍兵器監部にては曾て仏国海軍大尉ジェラール氏が発明されたる折畳自転車五十余台を購入し軍用として各師団に配布したる由なり其詳細なる説明は次号に詳記して読者の前に提供すべし(明治35年5月8日付けの雑誌「輪友」第7号より)

とあります。ジェラール自転車を日本陸軍が使用していたことは分かっていましたが、いったい何台ぐらい入っていたのかはよく分かりませんでした。この記事から凡その見当がつくかと思われます。

このブログでのジェラール自転車関係は、下記のとおりです。
2009年5月5日梅津大尉
2009年4月4日ジェラール自転車(3)
2009年4月1日ジェラール自転車 (2)
2009年3月16日ジェラール自転車

を参照願います。

2009年5月13日水曜日

愛輪号

 これは愛輪号の保証書です。愛輪という名前は3社ほどが採用していますが、この愛輪号は東京神田の愛輪自転車製作所が製造した自転車です。車体番号は2033で、保証書の日付は昭和11年1月11日とあります。良く見ますと透かしのようなトレードマークも中央に見えます。

木村商店

 明治37年6月2日付けの新愛知新聞の号外第1号です。日露戦争がこの年の2月6日に始まり、その戦況をいち早く伝えることをこの号外で宣伝しています。その裏面にこの木村商店の広告がありました。前輪に寄せ書き風でピアス、アイバンホー、ラシクル、コロンビア、アイバージョンソン、デートンなどの名前が見えます。後輪にその輸入元である石川商会、角自転車商会、双輪商会などの店名が見えます。

 新愛知新聞は、その後、名古屋新聞と合併して、現在の中日新聞になっています。

2009年5月10日日曜日

中村春吉(9)

 馬関から東京まで無銭により長距離サイクリングをした中村春吉は、いよいよ世界へ旅立つことになりました。それは翌年の2月におとずれました。

雑誌「輪友」第5号、明治35年3月10日発行に次のようにあります。

世界周遊者の見送り
世界周遊の自転車乗り中村春吉は去る2月22日正午横浜出帆の汽船丹波丸にていよいよ香港へ向け出発したければ那珂会長はわざわざ東京より来り、曽我部幹事長と共に本船まで見送りたり

明治35年2月22日に横浜を発ったとありますが、押川春浪編述「中村春吉自転車世界無銭旅行」(明治42年8月14日博文館発行)では、

汽船は日本郵船会社の丹波丸、時は明治35年2月25日の午後1時、いよいよ無銭冒険自転車世界一周の目的を抱いて、日本横浜港を出発することになりました。

とあり、3日のズレがあります。馬関出発の日付でも明治34年11月15日と明治34年11月14日と1日ズレています。それぞれどちらが正しいのか今となっては分かりませんが、とりあえず私は明治35年2月22日横浜港出発と明治35年11月14日馬関出発を採用したいと思います。理由は単にそれらが記述されている資料の古い年月からです。

2009年5月8日金曜日

中村春吉(8)

 中村春吉の無銭旅行について、当時もいろいろな意見があったようです。

松田歴山という人は、
無銭旅行、言い換えれば乞食旅行だ。紳士として好ましくない。なぜ金を貯えてから旅に出ないのか。湯本の福住などへよくずうずうしく只で泊めてくれと言えたものだ。天竜川でも橋銭を払わずに渡ろうとした。教育者としていかがなものか。ベルやポンプが3日と経たないうちに壊れるとは、世界を周遊しようとする人の用意とは思われない。縁もゆかりもない宿屋などは気の毒である。このような旅行は中止した方がよい。

と手厳しい批判もありました。

明治35年2月13日発行の雑誌「輪友」第4号より。

ミシュラン

    雑誌「輪界」第11号 明治42年7月25日発行に掲載された広告

 この時期ダンロップのように多く雑誌や新聞に広告を載せていませんが、時々見かけます。

 ミシュラン(Michelin )は、世界的なタイヤメーカーで有名ですが、同社の発行する「三つ星」ランク付け旅行ガイドブック(レッドガイドブック)の方が、最近では日本での知名度は高いかも知れません。

中村春吉(7)

 馬関を出発した中村春吉のその後の足取り(その3)

明治34年12月8日、朝8時に浜松を発ち、天竜川の橋に着く。ここの渡守は無銭では通させぬということになり、仕方なく小夜の中山経由で静岡に向かった。何という名前の旅館か忘れましたが、こころよく無銭で泊めてくれた。

明治34年12月9日、7時30分に宿を発ち、なにごとも無く沼津に着く。松本和平という大きな旅舎へ行き、宿泊を依頼したらすぐに快諾してくれた。

明治34年12月10日、朝警察署を尋ねる。署長さんから無銭では手紙を出すのも不自由するだろうと言って、切手をいただく。また宿屋に戻り、箱根のくだりで使用する自転車の背負子を作る。9時20分に宿を発ち、箱根を上る。箱根を越すときに一滴の水もなくなり苦労する。茶店に着き渇きを癒す。下り坂は自転車を背負って下る。ところがその途中空腹に耐えられなくなり、一軒の茅屋を尋ねる。無銭旅行を説明したところ、こころよく食事を提供してくれた。この親切な人は、神奈川県足柄下郡湯本村字須雲川の安藤寅吉という人だった。元気になったところで、湯本へ下る。福住という旅館を訪ね宿泊を依頼したら、主人は留守で、取込んでいるからという理由で断られる。しかたなく駐在所を尋ねる。ところが後から追ってきた福住旅館の若者が来て、いま主人が帰って来て、なぜ断ったと叱られ、おつれもうしてこいということで来たという。しかし、婚礼があり取込中のことだからと私は辞退した。そして、小田原へ向けて湯本を発つ。小田原に着いたのは22時頃になっていた。旅館片野屋を尋ねて宿泊を依頼したところ、混雑しているのにもかかわらずこころよく歓待してくれた。

明治34年12月11日8時に旅館を発ち、無事に神奈川に着く。自転車の油がきれたので、近くの貸し自転車屋に立ち寄り油をさしてもらう。東京に向かう途中で平岡宗之助という人に会って同行する。13時に双輪商会の練習所に到着する。この旅行の経験で8時から16時までに25里走ることは容易と分かる。そして長途の旅には必要の物以外は携帯しないことである。

終わり

 この自転車無銭旅行の旅は、明治34年11月15日12時に下関を出発して、明治34年12月11日13時に東京に到着しています。この長い助走期間と準備があればこそ世界一周も成功することができたのではないでしょうか。

注、如何いう訳か明治34年12月8日の天竜川から1日ずれてきています。中村春吉氏直話ではこの日は7日になっています。錯誤と思われます。

(雑誌「輪友」第3号、明治35年1月1日発行 中村春吉氏直話より)

2009年5月7日木曜日

ケンブリッジ・タイヤ


    雑誌「輪界」第11号 明治42年7月25日発行に掲載された公告

 ケンブリッジ・タイヤとは余り聞かない名前です。
 ダンロップやミシュランはこの当時から頻繁に新聞や雑誌に広告を載せています。
 このタイヤどうやら神戸の橋本商会が輸入元のようです。
 日本では、三田土ゴムが明治19年に創業していますが、実用になる自転車用のタイヤを生産できるようになったのは遅く、明治41年頃からでした。

ポインター号

 本日、アメリカのある人から写真添付つきのメールが届きました。
 昭和20年頃に日本に滞在していた伯父が所有している自転車の照会でした。
 写真を見ますと、ポインター号と光号でした。これらは、戦後まもないころに製造された自転車で、ポインター号は1951年頃のものです。セントラル日本自転車が製造した自転車で、ポインター犬の顔がトレードマークです。光号は、大日本機械工業が製造した自転車で、1950年頃のものと思われます。

2009年5月6日水曜日

中村春吉(6)

 馬関を出発した中村春吉のその後の足取り(その2)

明治34年12月1日、難波にある鉄工所の飾秀の親戚に昨日の夜から二日滞在する。

明治34年12月3日、朝飯に雑煮をたくさん食べ9時に出発する。餅と饅頭をたくさんいただき自転車のカバンに詰める。再度、大阪の橋本商会の支店に立ち寄る。非常に歓迎してくれる。支店長の高谷さんが二里程送ってくれる。京都には14時頃に着く。京都輪友倶楽部の人々の歓迎を受ける。この倶楽部の配慮により、高級旅館に泊ることができた。

明治34年12月4日、朝京都を発ち四日市に向かう。途中、大津から鈴鹿峠までは自転車に帆をかけて走る。かなりのスピードが出る。水口というところの警察署に立ち寄って小休止をする。12時20分、警察署を出発する。出発の間際に署長さんからたくさんのビスケットを貰う。15時に鈴鹿峠を自転車で一気に下る。四日市新町には19時に着く。本日の宿泊場所を探す。当てが無いので警察署や市役所を尋ねたが断られる。市役所の当直員からピンヘッドのタバコを貰う。思案の末、知人宅があることを思い出す。私立三重唖学院の高松清作院長である。そこで、この家を訪ねたところ歓待される。風呂に入ってから遅い夕飯を食べる。0時30分に就寝。

明治34年12月5日、朝、高松さんの案内で、この学院の教授方法を参観する。行き届いた教育法に感心する。9時に学院を出発する。11時に木曽川の渡し場に到着する。無銭旅行の旨を渡し守に説明して快諾を得る。木曽川を舟で渡った後、最寄の警察署に寄る。お茶を一杯ご馳走になり、飲料水も貰う。15時40分に無事名古屋に到着。それから電気諸機械製造及輸入金物木材雑貨商の角田福次郎の紹介で、アンドリュース・ジョージ商会名古屋支店を訪問する。非常に歓待してくれて、旅館までとってくれる。その晩は洋食をご馳走になる。

明治34年12月6日、早朝に自転車を清掃・整備する。その後、憲兵屯署に向かう。そこで近藤代三郎という人が来て、私の自転車を点検してくれた。スポークが悪いと言って、修繕までしてくれた。その上、ランプの油や機械油の提供までしてくれた。山中鍋太郎という人からは、タバコを貰う。11時30分にここを発ち、鳴海に向かう。三里ほど走り鳴海に着く。着いたころにサドルのネジが折れたので補修をする。そして岡崎に向かう。岡崎では飛輪会副会長の千賀千太郎氏方を訪問する。そこにちょうど会長と幹事諸君が来て、近くの料理店でご馳走になる。飛輪会の好意により岡崎一の旅館に泊めて貰う。

明治34年12月7日、出発に際し、岡崎飛輪会のメンバーと記念の写真を撮る。8時40分に岡崎を発つ。副会長の千賀君、幹事の牛田君ら4名が、会を代表して二里程送ってくれる。その後、御油に到着。警察署に立ち寄り小休止する。昼飯を食って行けと言われたが辞退する。11時に警察署を出発。豊橋には、ちょうど12時ごろに着く。双輪会の会長宅を尋ねるが生憎留守であった。警察署へ行って、名刺を置き発とうとすると参陽新報記者の河合弘毅氏が来て、自宅へ寄って行けと言われる。河合氏と歓談し、昼食までご馳走になる。15時に河合氏宅を出る。遠州浜松へ向かう。途中、浜名湖を舟で渡るとき強風のため、岩に舟の舵が引っかかる。急遽、私は帆を下ろして櫓を一生懸命に漕ぐ。そして無事に渡ることができた。その時にたまたま沖商会の林五十三という人が同舟していて「君のお陰で助かった」と礼を言われた。浜松に着いたのは、17時30分頃であった。警察署に行き宿の手配を頼んだが、断られる。そこで、同舟した林五十三の宿所を尋ねる。よく来てくれたとばかり、歓待してくれる。そして同宿する。(雑誌「輪友」第3号、明治35年1月1日発行 中村春吉氏直話より)

つづく

ジープ・サイクル

  この資料は、1998年1月頃に信州小諸在住の中堀さんから送っていただいたものです。
 戦後のものと思いますがいまのところ不明です。ジープという名称から進駐軍を連想します。
 名古屋市北区城北新町3丁目7番地の高橋JS商会が製造発売元となっています。資料によりますと自転車用強力変速機とあり、どんな坂でも楽々登れる、どんな重荷も軽々運べるとあります。当時の定価は3,800円。
 新品未使用箱入りの現物が中堀さんのところにあるそうです。

 昭和6年頃に、神戸の林家商店がジープ号という銘柄の自転車を販売していましたが、それとは関係がありません。

2009年5月5日火曜日

中村春吉(5)

 馬関を出発した中村春吉のその後の足取りを追ってみますと。
(雑誌「輪友」第3号、明治35年1月1日発行 中村春吉氏直話より)

明治34年11月15日12時に下関を出発し、18時40分に三田尻に着。その後、久賀郡の知人宅で一泊。(久賀郡で二泊か?)

明治34年11月17日8時に久賀郡を出発して、広島に向かう。13時に広島着。大手町の鳥飼繁三郎の家で自転車のベルを修理してもらう。それから赤谷という人から空気入れのポンプを入手。この日は深越村の大下龍之進の家に泊る。

明治34年11月18日7時30分深越村の大下龍之進宅を出発。生まれ故郷の御手洗へ向かう。その途中の四日市西條というところに急坂があり、向こうから牛飼いが牛を牽いてのぼってくる。ベルを鳴らしたところ牛が驚いて暴れ出し、自転車にぶつかる。その瞬間に泥除けがはずれ、車輪に巻き込まれたため横転する。田圃の中に投げ出されて顔面を打つ。痛さをこらえながら再び自転車に乗って出発する。竹原町の警察署に寄り、旅の話などをする。それから写真屋を尋ね記念の写真を撮ってもらう。明神の鼻から便船に乗船し御手洗へ向かう。故郷の御手洗で10日程滞在する。

明治34年11月27日7時30分御手洗を出発し尾道へ。尾道では十四日町の鉄砲屋児玉という人の家に泊る。

明治34年11月28日早朝、尾道を発つ。福山の親類を尋ねる。その後、岡山に向け出発する。途中、笠岡の手前で犬にほえられる。空砲を撃って追っ払うがなかなか逃げない。全部で4発撃ってやっと追い払うことができた。ところが近くの家から人が出てきて、鉄砲の弾が当ったという。空砲だと言うと、砂が顔に命中した勘弁できぬと騒ぐ、そこで笠岡の警察署に同道して事情を説明する。その男は警官に説得され帰る。その騒動の後、署長と歓談し、昼飯をご馳走になる。13時30分、警察署を出発する。岡山には17時に着く。その晩は、双輪会で歓迎会を催してくれた。このクラブに一泊する。

明治34年11月29日早朝、自転車の損傷箇所を修理する。11時40分に双輪会のメンバーに謝意を述べ、出発して姫路に向かう。19時30分姫路着。大工町の須貝潜の英語学校を訪ね一泊を請う。当初断られたが理解され、泊めてもらうことになった。その学校の生徒や教師の前で、2時間ほど英語でいろいろな話をする。

明治34年11月30日7時20分、須貝氏や学校の人々に謝意と別れをつげ出発、神戸に向かう。途中、猟犬を連れた猟師とトラブルがあったが、無事に神戸へ着く。元町の長尾商店で夏用の帽子をもらう。その後、橋本商会を尋ねる。店の小僧とトラブル。外国帰りの少年で英語で応対したため。当初、日本語ができないことを知らなかったため、生意気な小僧と中村は判断した。橋本商会では昼飯をご馳走になる。13時に橋本商会を出発。14時30分に大阪着。大阪朝日新聞社に立ち寄り、自転車世界旅行の話をする。橋本商会大阪出張所にも寄る。20時に難波の親戚の家に行き、泊る。

つづく

中村春吉(4)

 中村春吉の名が最初に自転車雑誌に登場したのは「輪友」ではないでしょうか。
 雑誌「輪友」(第2号、明治34年11月25日発行)に小さく次のように掲載されています。

◎自転車世界周遊 11月馬関の中村春吉なる人自転車世界周遊を思い立ち本月14日横浜に向け発程せりと云う

 馬関とは、山口県下関のことで、古くは赤間関(あかまがせき)と呼ばれ、赤馬関とも書きました。これを略して馬関(ばかん)と呼びました。地理的には下関港の辺りです。
 中村春吉は、この馬関で明治31年に「馬関忍耐青年外国語研究会」という英語塾を開いていました。ここから明治34年11月14日に自転車による世界一周の旅をスタートさせたことになります。

梅津大尉

 自転車大尉として知られていた梅津元晴は、雑誌「自転車」にたびたび登場して自転車談議をしています。これもその一つで、ジェラール折畳自転車について詳しく解説しています。(雑誌「自転車」明治37年7月1日発行)
 彼は、軍人を中心に組織された自転車クラブ「勇輪義会」のメンバーの一人で、このクラブ結成にあたり尽力しました。国家に一大事あらば自転車をもって国にご奉公することを目的として明治34年に組織されました。当時この会に共鳴する人達が全国にいまして、盛岡、仙台、福島、水戸、土浦、結城、鹿沼、横浜、徳島など各地に支部がつくられ、会員数は400名を超えていました。会長は、海軍少将の新井有貫、副会長は陸軍戸山学校の鵜沢総司少佐でした。
 自転車軍事教練のテキスト「自転車指針」(厚生堂、明治35年)の著書でもあります。なお、明治34年4月1日発行の雑誌「自転車」で、自転車十傑(部門別の博識家で)の一人にも選ばれています。

2009年5月3日日曜日

宮田製作所

 これは宮田製作所が明治34年にアメリカのクリーブランド103型を見本に製作した自転車の一台です。
 写真の説明書きには「クリブランド一〇三型自転車明治三十四年自転車製作所として初めて三台製作せしうちの一輌」(『宮田栄助追悼録』昭和7年9月9日発行)とあります。
 ところが、雑誌「輪界」に掲載されている「日本自転車の由来(二)」には次のように書いてあります。

二十、見本の作製
宮田工業にて明治三十四年始めて自転車の製造をなさんとせし頃、其見本の製造に意を注げり、然れども僅か二台の自転車を作るに其日数実に六ヶ月を要せり。(『輪界』第2号 明治41年10月25日発行)

 どうでもよいことなのですが、3台が2台になっています。どちらが正しいのか分かりませんが、説得力は2台の方にあるような気がします。

中村春吉(3)

      雑誌「輪界」明治41年9月25日発行にも掲載されたお馴染みの写真

 世界自転車旅行者中村氏の新嘉坡の滑稽業
 雑誌「輪界」明治41年9月25日発行より抜書き

中村春吉氏と云えば苟くも輪界に事をなすもの其名を知らぬものなし、故に此処に中村氏を紹介するは寧ろ無用に似たり。・・・(明治41年にもなれば、彼の名を知らないものはいません。明治36年の時の中村某と比べるとえらい違いです)

2009年5月2日土曜日

中村春吉(2)

                イギリスのリバプールにて

 世界一週の自転車乗(下関市の一青年倫敦に入る)
 雑誌「自転車」第31号、明治36年2月28日発行より抜書き

倫敦エキスプレスの記者に語れる所によれば彼は日本山口県馬関の者にて中村某といい自転車の世界一周を思い立ちて既に其一半を終わり先ず日本を発足して支那、印度、露西亜、白耳義、仏蘭西国を縦断し伊太利、土耳古をも訪いたり・・・
(この頃まだ日本国内では中村春吉の自転車世界一周旅行について、それほど話題になっていなかったのでしょうか。中村某とあるところを見ると、関心の度合いも分かるような気もします。明治37年に押川春浪の冒険小説「中村春吉自転車世界無銭旅行」が『中学世界』に発表されてから彼の知名度が上がったようです。

中村春吉(1)

                  ボストンに於ける中村春吉

 自転車世界無銭旅行者の中村春吉については、押川春浪の冒険小説『中村春吉自転車世界無銭旅行』や横田順彌の『幻綺行 中村春吉秘境探検記』、『大聖神 中村春吉秘境探検記』、『日露戦争秘話 西郷隆盛を救出せよ』、『明治バンカラ快人伝』など多数出版されています。いまさら同じようなことを書く必要もありませんが、当時の雑誌などに掲載された記事を中心に紹介したいと思います。

ニューヨークに於ける中村(雑誌「自転車」第33号、明治36年5月10日発行より抜書)

米国の「自転車世界」という雑誌にニューヨークに到着したことを報じているとあります。

去る土曜日にニューヨークに現れたり、彼は発熱のため・・・(どうやら風邪をひいたらしい)
中村は1901年11月に東京を出て世界旅行の途に上れり、・・・(横浜港を1902年2月25日に出帆したと思っていましたが、スタートは東京だったのでしょうか)

故郷山口県にては彼は六百人の生徒を有する慈善学校の教師なり、・・・(馬関忍耐青年外国語研究会のことのようです)

我が用いたるアメリカ製自転車は充分満足を与えたり、・・・(彼がこの世界一周旅行に使用した自転車はアメリカ製のランブラーです。あの志賀直哉も乗っていた自転車です)

略歴は下記のとおりです。
1872年(明治5)広島県豊田郡豊町御手洗に生まれる。
1893年(明治26)ハワイへ移住。
1897年(明治30)ハワイより帰国。
1898年(明治31)下関で「馬関忍耐青年外国語研究会」という英語塾を開く。
1902年(明治35)2月25日 自転車世界一周のため横浜港を出帆。
1903年(明治36)5月10日 世界旅行から無事帰還。
1904年(明治37)『中学世界』(春期増刊号)に「無銭冒険自転車世界一周」(押川春浪編述)が掲載される。
1912年(大正元)『快男児快挙録』河岡潮風作 東京堂で出版。
1925年(大正14)東京市四谷に「中村霊道治療所」を開設。
1928年(昭和3年)同治療所を弟子に任せ故郷の御手洗町へ帰る。
1945年(昭和20)2月 死去。