ダンロップの歴史
以下はダンロップの本
空気入りタイヤ ダンロップ
註、Gleanings from the history of Dunlop tires は、1895年(コヴェントリー)で刊行された、ダンロップ社による公式社史。空気入りタイヤ発明直後〜1890年代半ばまでの企業史・技術史である。
日本自転車史研究会のブログ Copyright © Yukio Ootsu
ダンロップの歴史
以下はダンロップの本
空気入りタイヤ ダンロップ
註、Gleanings from the history of Dunlop tires は、1895年(コヴェントリー)で刊行された、ダンロップ社による公式社史。空気入りタイヤ発明直後〜1890年代半ばまでの企業史・技術史である。
C.T.C. 月刊「ガゼット」誌
ヴェロシペードの本
Sporting Goods Gazette誌
Sporting Goods Gazette v. 3 (Apr. 1890-Mar. 1891)
「スポーツ用品ガゼット」誌
ヴェロシペードの本
アマチュア・サイクリング
この本は、1893年にロンドンの Dean & Son から刊行された、英国アマチュア自転車競技のための実践的ハンドブック。著者は英国自転車界の重要人物 G. Lacy Hillier と三輪車競技の選手 W. G. H. Bramson。内容は当時の競技・技術・文化を総合的に扱う入門書である。
「現代の自転車と付属品」
アレックス・シュヴァルバッハ、ジュリアス・ウィルコックス共著
ライダー、ディーラー、メーカーのための参考書 1898年発行
THE MODERN BICYCLE AND IT'S ACCESSORIES
A COMPLETE REFERENCE BOOK FOR RIDER, DEALER AND MAKER
アレックス・シュヴァルバッハとジュリアス・ウィルコックスが『ザ・コマーシャル・アドバタイザー』誌に「1898年の自転車」という見出しで寄稿した一連の記事を再録。1816年以降の製造における改良と変遷を解説。
YE ANCIENT CYCLER
1890年、及び1891年の年鑑
ロンドン、イリフ&サン、3.セントブライド・セント・ラドゲート・サーカス。
註、“YE ANCIENT CYCLER”は、19世紀末〜20世紀初頭の英語圏で使われた「古き良き時代のサイクリスト」を指す表現である。
サイクリング誌 - 4
第132号 第6巻 1893年7月29日発行
図解入り週刊誌
自転車世界一周 - 最終回
「自転車世界一周」ジョン・フォスター・フレイザー著
註、『Round the World on a Wheel』(1899) は、 John Foster Fraser、 S. Edward Lunn、 F. H. Lowe の3人が、1896〜1898年にかけて世界一周を自転車で走破した記録。以下は日本旅行の部分、最終回
日本のもてなし
日本の子供たちが最も心待ちにする祭りが終わると、人形は梱包され、翌年の祭りまでしまっておかれる。
東京と横浜、イギリス人も日本人も、私たちを大いに歓迎してくれ、多くの称賛の言葉をいただいた。恥ずかしくて顔が赤くなっていただろう。日本の伊藤首相は、ある晩、東京の私邸で私たちのために晩餐会を開いてくれた。多くの閣僚が出席し、私たちは20か月ぶりに(借りた)黒いコートを着て、(これも借りた)糊のきいた硬いシャツを着た。首相は魅力的な方であった。
ある日の午後、私は日本アジア協会の会員の方々に、中国西部の部族、交易、地形について、長々と講演した。英国公使のアーネスト・サトウ卿が議長を務めていた。しかし、私にはもっと興味深い経験があった。東京大学の学生千人を前に、現代イギリスのジャーナリズムについて講義した時のことである。教授の一人が議長を務め、講堂は着物を着た若い日本人で満員、皆が1時間の講義に真剣に耳を傾けていた。特筆すべきは、東京大学にこれほど多くの英語を理解できる若者がいるということであった。
また別の夜には、横浜リライアンス・ホイールメンによる賑やかなコンサートがあり、私たちは招待された。さらに別の夜には、横浜アンリライアブル・ホイールメンに夕食会を催してもらった。このアンリライアブル・クラブはスコットランド人とユーモア作家で構成されている。入会資格は、50ヤードごとに自転車で転倒すること。合言葉は「ダミモフ」で、会費を支払っていることが発覚すると即座に会員資格を剥奪される。
それは楽しいディナーパーティーで、私たちは名誉会員に任命され、バッジを授与された。メニューカードはなかなか凝ったものだった。それぞれ日本人アーティストによって手描きされたものであった。表には「アンリライアブルズ」のバッジ。壊れた車輪、牛乳瓶、そして世界一周自転車旅行者たちの伝説が描かれた盾。裏面には絵が描かれていた。片隅から富士山がそびえ立ち、その上には世界が広がっていた。大陸は茶色、海は青く塗られ、その頂上を3人の自転車乗りが走っていた。カードの裏面には、赤いひげを生やしたスコットランド人がキルト姿で柱の頂上に座っている。「アンリライアブルズ」は、これは「我々3人の中で謙虚な男へのさりげない賛辞だ」と付け加えた。
しかし、祝宴と陽気な騒ぎはついに終わった。日本に別れを告げる夜がやってきた。どんよりとした、みぞれ混じりの雨の夜だった。私たちは仲間の「自転車」たちと小さな蒸気船に身を寄せ合い、横浜湾の暗闇へと蒸気を噴き出しながら進み、別の大陸へと運んでくれる巨大な太平洋汽船、ビクトリア号の黒い船体に乗船した。夜明けとともにエンジンが唸りを上げ、船は出航した。私たちは甲板に出て、愛する日本に別れを告げた。中国を後にした時は喜びでいっぱいだったが、日本を去る時は悲しかった。楽しい時間をたくさん過ごしたからだ。
私たちは太平洋を横断し、北極圏へ向かって航行した。カムチャツカの雪と氷のような風が吹き荒れる場所、そしてはるか北の荒波が荒れ狂う海へと向かい、アリューシャン列島の風下側にたどり着いた。西経180度線を越えると、ちょうど地球の反対側、グリニッジ子午線のちょうど反対側、西経180度線を越えたところで、1日分の航海時間を稼いだ。暦の日付より1日遅れて寄港する。こうして、1898年3月11日金曜日、イギリス領のバンクーバー島に寄港し、ビクトリアという小さな町はまさにイギリスの雰囲気に満ちていた。船を乗り換え、海岸沿いを800マイル南下し、ゴールデンゲートをくぐってサンフランシスコに到着した。サンフランシスコ!私たちはこれまでずっと東に向かって旅をしてきたのに、今や極西にいることに気づいた。これまでは常にイギリスから遠ざかっていたのに、今や私たちの顔はイギリスに向かっているように感じた。
自転車世界一周 - 18
「自転車世界一周」ジョン・フォスター・フレイザー著
註、『Round the World on a Wheel』(1899) は、 John Foster Fraser、 S. Edward Lunn、 F. H. Lowe の3人が、1896〜1898年にかけて世界一周を自転車で走破した記録。以下は日本旅行の部分、その18。
真の東京
彼は、並外れた礼儀正しさの持ち主だった。そして、日本の自転車界の重鎮、カービー氏。彼はミカドの国で初めてダルマ自転車を走らせ、最初のセーフティ、最初のクッションタイヤ、最初の空気入りタイヤ装着の自転車に乗った人物だ。彼らと共に、他にも紳士たちがいた。間もなく、私たちは東京の途方もなく広い通りに出た。東京は、直径8マイル(約13キロ)、人口200万人近い大都市だ。私たちはここで数日間滞在し、そして横浜に戻り、再び東京へ行き、この二つの都市を3週間近く往復した。
私の意見では、形容詞を多用する作家たちによって、東京について世の中に多くの熱狂的なナンセンスが広められてきた。確かに日本には美しいものがたくさんあり、作家がトルコ絨毯のような文体で書き綴りたくなるような魅力がある。しかし、「日本的」という言葉は美しさと同義ではなく、東京は大衆的に見ればむしろ醜い場所でもある。確かに、古い城を守る巨大な石造りの城壁、木々に縁取られた長く静かな堀、門の上に建つ奇妙な白塗りの中国風の家々には独特の趣がある。桜が満開の頃には、上野公園はさぞかし美しいだろうし、東京の皇室霊廟である芝公園には、神社や神道の社、時を経て緑化した大きな青銅の灯籠があり、金漆塗りの素晴らしい石棺を見ることができる。そして、街路には数多くの美しい光景が見られる。寺院の周りでは、様々な人々が行き交う様子に魅了されるだろう。しかし、これらは東京の姿ではない。実際、6月の午後のロッテン・ロウ、土曜の夜の妖精の灯りが輝くアールズ・コート、リッチモンド・ヒルから見たテムズ川の描写がロンドンの描写にならないのと同じように、これらは東京の姿ではない。
東京は陰鬱な空間が広がる場所だ。その新しい文明は粗末に見え、キノコのようなアメリカの都市を彷彿とさせる。赤レンガ造りのまぶしい公共建築物は、まるでどこにでも建てられているかのように無造作に建てられている。統一性は皆無だ。高くてケバケバしい大邸宅の周りには、みすぼらしい小屋がいくつも建っている。官公庁は安っぽく、粗雑な造りだ。仮設の国会議事堂(塗装された木製の正面と小さな扉を持つ)は、まるでイギリスの競馬場の観客席の裏口を彷彿とさせる。道の向こうには、両院の議長公邸、端には2つ別荘が建っている。
雑誌『ドイツ』
下の資料は雑誌『ドイツ』より
自転車の歴史
自轉車は今日では、最も普及している交通機関である。ドイツで現在動いている自轉車は18萬ないし20萬臺と見積もられている。人々は自轉車を早くから、『小市民の自動車』と名付けて憚からなかったのである。
さて自轉車の普及は、道路の改装に負ふものであり、また空氣入りの弾性タイヤとブレーキがついていて、しかもペタルを踏まなくても獨りで進む装置、 これらを共に備へた技術的に申分のない自轉車それ自體の構造に負ふものである。注目に値するのは、戦前のドイツの大都市における自轉車利用者の数が、 その全都民と關聯させて考へると、田舎におけると同様、都民のやっと半分にすぎなかったといふ事實であった。その理由は、田舎では公の交通機関を安価に利用することが思ふやうに出来ないからであった。
自轉車もまた他の技術上の発明と同様の経歴をふんで来た。 即ち人々は最初のうちは、自轉車に偉大な成功を豫期していなかったのだ。
男爵フォン・ドレイオの脚輪機をもつて今日の自轉車の濫觸と見做すならば、自轉車の年齢は今年で百二十五歳といふことになる。ドイツ、フランス、イギリスの発明家たちは、自轉車の發展にそれぞれ貢献した。ドイツとフランスでは、クランクの推進力に関する色々の發明があった。兎に角一八六八年から七九年には、自轉車は獨・佛・英三國で相當の発展を見た。一八八八年にスコットランド人ダンロップが空氣入りタイヤに對する特許を獲得したとはいへ、 それは既に一八四五年にトムソンによって溌明されていたのである。一八九八年フイヒテル・ ザッハ會社が自動推進機のボスを市場に出したが、暫く時を経るうちに本質的な改良を加へられて、自轉車の一般的改良に非常に貢献したのであった。今日ではもはや完全と見られている自轉車も、日々改良が加へられて止まるところを知らない有様である。
ドイツ国防軍においても、自轉車は廣く用いられている。その發端となったのは、一八七〇年ペルフォールの防禦戦でフランス軍が利用した時のことである。一八八六年にドイツ國防軍が自轉車を採用し、それ以来、 この方面でもまたドイツが断然先頭をきっているのである。油といふ燃料の節約が至上命令となっている戦時下の今日、古くから利用されている自轉車が、 輸送機關の花形として大いに活躍しているのはけだし當然のことである。
自転車世界一周 - 17
「自転車世界一周」ジョン・フォスター・フレイザー著
註、『Round the World on a Wheel』(1899) は、 John Foster Fraser、 S. Edward Lunn、 F. H. Lowe の3人が、1896〜1898年にかけて世界一周を自転車で走破した記録。以下は日本旅行の部分、その17。
国際自転車歴史会議など
2026年国際自転車歴史会議などが、インドネシアのクラテンで開催。
Klaten International Cycling Festival 2026
開催地:インドネシア共和国 中部ジャワ州 クラテン県(Kabupaten Klaten)
期間:2026年5月17日〜24日(8日間)
主要イベント、
• ICHC – 国際自転車史会議(2026年5月17日~20日)、ペンドポ・クラテン
• IVCAラリー2026(2026年5月20日~24日)、プランバナン寺院(クラテン)
• オールバイククラシック・デイアウト(2026年5月23日~24日)、チャンディ・セウ広場(プランバナン)
国際学術会議、コスチュームパレード、バイクキャンプ、ヴィンテージマーケット、フードバザール、ソーシャルライド、音楽&文化公演、展示会、クラシック自転車競技会(ヴィンテージロードバイク、レトロMTB、クラシック折りたたみ自転車、BMXオールドスクール、ローライダーコンテスト)など。
週刊『サイクリング』誌 - 3
1893年7月22日に発行されたイラスト入り週刊誌『Cycling』の表紙。
表紙のタイトル: 『Cycling: An Illustrated Weekly』
1808年代から1893年代にかけての自転車の歴史や、当時のサイクリングの様子を描いた挿絵がコラージュされている。
自転車世界一周 - 16
「自転車世界一周」ジョン・フォスター・フレイザー著
註、『Round the World on a Wheel』(1899) は、 John Foster Fraser、 S. Edward Lunn、 F. H. Lowe の3人が、1896〜1898年にかけて世界一周を自転車で走破した記録。以下は日本旅行の部分、その16。
富士山を望む
そして静岡に到着し、龍で有名な神社を目にした時、あの暑さへの償いと感じた。静岡では、ヨーロッパ風のこぎれいな小さな宿を見つけ、夕食には世界一美味しいビーフステーキと最高に美味しいビールを堪能した。ウェイターは笑顔の素敵な老人だった。
また別の素晴らしい日、駿河湾沿いを長距離走り、山々を見下ろすように、いつまでも称賛されるべき雄大な富士山を眺めた。円錐形の山頂を持ち、銀色の雪に覆われたその巨大な山は、近づくにつれて大きくなり、やがて私たちの頭上にそびえ立った。そして畏敬の念を抱いた。雪解け前の早春、晴れ渡った美しい日に、その雄大な姿を目の当たりにした。私たちは尾根を迂回し、麦畑、葦原、松林、木陰に咲く牡丹、そして至る所に咲く菊が広がる吉原平野を走り抜けた。
鈴川で宿をとると、部屋の窓から永遠の美しさを誇る富士山が姿を現した。富士山は聖なる山であり、夏には白い衣をまとった巡礼者たちが持つ鈴の音が山腹に響き渡る。毎年約2万人の巡礼者が山頂まで登り、祈りを捧げる。山全体が伝説に包まれている。2000年前、富士山は一夜にして姿を現したと云われる。
女神である富士山は女性を憎み、機会があれば女性の髪をつかんで連れ去ってしまう。そのため、日本の女性は登山をする前に、十分に女性らしさを磨かなければならない。富士山の塵は非常に神聖なもので、巡礼者が草履に塵を付着させて持ち帰ると、夜になると奇跡的に戻ってくると言われている。
富士山は本当に美しい。1500年までは活火山で、毎世紀に激しい噴火を繰り返していた。最後の噴火は1707年で、1ヶ月間続き、火山灰は50マイル(約80キロ)先まで飛散し、山の麓は6フィート(約1.8メートル)もの深さの火山灰に覆われた。しかし今では、静かにそびえ立ち、山々の女神のように堂々と佇んでいる。
私たちは雪に覆われた火口に背を向け、名残惜しくも旅を続けた。途中、小さな宿屋に立ち寄った。干し柿をたらふく食べ、人々はまるで屏風から出てきたかのように、「おはようございます」と声をかけて私たちを迎えてくれた。すべてが礼儀正しく、お腹が空いたと言うと、「お腹」を気遣ってくれた。とても丁寧な人たちであった。彼らは悪態をつかないと聞いたが、いずれ文明化されれば分かることだろう。
箱根山地と呼ばれる、大きな山は、自転車では通れない山並みが行く手を阻んでいた。私たちは山地を迂回し、ルートを外れて熱海という小さな集落に数日滞在することを考えた。私たちは伊豆半島へと進路を変えたが、それは容易なことではなかった。この国の悪路の厳しさに身をもって知る前に、その地を去ることを許さなかったかのようだ。結局、山を越えなければならず、道はひどく荒れていた。土は黒く粘り気があり、道は急勾配だった。自転車は泥の塊を巻き上げ、車輪が回らなくなるまで進み、時々座り込んでポケットナイフでチェーンについた泥を取り除かなければならなかった。自転車を担いで進もうとしたが、油っぽい泥の上を滑るように進んだ。
太陽がシトロン色とサフラン色の雲の向こうに沈むと、恐ろしく荒涼とした景色に変わり、風は不気味なうめき声を上げながら吹き荒れた。気温は容赦なく下がり、自転車についた泥は5分も経たないうちに鋼鉄のように硬くなった。私たちは指を温めようと息を吹きかけ、足を踏み鳴らし、雪の中を進んだ。登りは果てしなく続いた。山頂にたどり着いたものの、反対側は500もの曲がりくねった崖だった。疲れ果てて熱海の小さなホテルに入り込んだのは午後8時。15マイルの道のりを5時間かけてやって来たのである。
熱海はなんて素敵な場所だろう。そして、そこで過ごした日曜日は、なんとものんびりとした素晴らしい時間だった。そこには気取ったところは何一つなかった。ただの小さな村で、古く不揃いな建物が並んでいたが、温泉地として非常に有名だった。
自轉車瓦版 第112号
この号が最終回
昭和62年10月20日
☆先日ぶらりと本屋に行ったら、自転車ターボブックと云う本があった。内容はこれといって目新しいものではなかったが、自転車の単行本は余り発行されないので買っておいた。自転車史の関連記事は、たったの2 ページ、それでも無いよりは増しである。自転車文化センターのドライジーネの写真が載っていた。
1987年9月16日発行 ナッメ社 1200円。
☆大阪の斧氏より錦絵及び引札のコビーを多数いただいた。
*東京名所之内・吾妻ばし風景(明治22年)
*東京名所吾妻橋(明治28年5月10日)
*当世くるまづくし(壱人車の画あり)
*合資会社愛知物産組織工場之図 (明治32年1月、オーディナリ一の画あり)
*東京名所・吾妻橋ノ真景(明治2 6年1月20日)
*東京名勝づくし・日本橋御高札場 - (幌つき三輪車の画あり)
*団扇画?(中国・朝鮮の上に日章旗を持った自転車乗りの画)
*引札機関車と自転車(セーフティー) 2葉
*引札 自転車店のもの、(大黒様の顔をした男が自転車に乗っている画)
*引札 12干支が自転車に乗っている画、etc.
参考文献、樋口 弘『幕末明治開花期の錦絵版画』・『幕末明治の浮世絵集成』、端山 孝『幕末明治文明開化』その他。
☆新刊英語版、自転車の本
On Your Bicycle
ジェイムス・マクガーン著 208 ページ、挿絵125図、内容はイラストで見る自転車の歴史。
☆イギリスのクラッシク自転車研究クラブ、SVCC (サザーン・ベテラン・サイクル・クラブ)は、名称をVCC(ベテラン・サイクル・クラブ)と改称、名実ともに全国組織に、いや世界的組織になりつつある。
自転車世界一周 - 15
「自転車世界一周」ジョン・フォスター・フレイザー著
註、『Round the World on a Wheel』(1899) は、 John Foster Fraser、 S. Edward Lunn、 F. H. Lowe の3人が、1896〜1898年にかけて世界一周を自転車で走破した記録。以下は日本旅行の部分、その15。
私たちは立ち止まることなく、雨と泥の中をガタガタと揺れながら、軽快なペースで進んだ。午後、暮れるにつれ雨は止み、素晴らしい夕焼けになった。薄明かりの中、私たちはシダに覆われた荒涼とした湿原を横切った。静寂を破るのは野鳥の鳴き声だけだった。遠くには山脈が連なり、雪を頂いた山頂は、もはや見えない太陽の光を受けて、美しいピンク色に染まっていた。道は徐々に高くなり、丘の頂上に着くと、目の前には鉛色の太平洋が広がっていた。黒く広大な海は、波一つなく、その憂鬱さを破るものはなく、白い波の帯が海岸に沿って音を立てて寄せているだけだった。
私たちは暗くなるまで、海沿いの道を走り続けた。浜名湖と呼ばれる広くて厄介な潟湖を渡らなければならなかった。激しい突風が吹き荒れ、月明かりは厚い雲に遮られていた。私たちは急いで走った。ランプもつけずに、土手の陰に隠れて進んだ。それから、小さなガタガタの木橋を渡った。何マイルも続く潟湖。幅は約6フィート(約1.8メートル)で、決して水平ではなく、板が何枚か欠落していて、どれもガタガタと音を立てていた。高さ30センチほどの橋桁も長い部分が折れていた。湾の上を風が唸り、ぐらつく橋は海に吹き飛ばされそうだった。私たちは慎重に、風を受け止めるように大きく体を傾けながら、長い距離を自転車で進んだ。しかし、板が欠落しているせいで不気味な揺れが起こり、自転車から降りる必要性を感じた。風は轟音を立て、橋は揺れ、そして、もろい橋が片側に傾いた時の恐怖は、どれほどのものだったことか!
暗闇の中を急いでいたため、二人が土手から田んぼに転落し、牡蠣の殻で補修された道を2マイルも歩かなければならなかったが、ようやくたどり着いたのは嬉しい限りだった。浜松の町に到着したのは午後8時半だった。
自轉車瓦版 第111号
昭和62年9月26日
☆この度、横田順弥氏(古典SF 作家)から中村春吉関係の資料をいただいた。
1 「現代のドンキホーテ五賃将軍世界横行記」大正2年10月~大正2年12月発行 雑誌( 冒険世界)より。
2 「俺は笑って死刑の宣告を受けた 五賃将軍 中村春吉」明治45年1月発行 雑誌(冒険世界)より。
3 「愛国的弥次馬譚 五賃将軍中村春吉」大正2年6月発行 雑誌(冒険世界)より。
以上の3点。
☆八神史郎氏より、
「第32回国民体育大会記念切手の通信販売申込用チラシを探究していますので、もしスペアーがありましたらお分け下さい。」
八神氏は、自転車の、切手・小型記念日付印・初日カバー等を蒐集している。スペアーのある方は、ご一報して下さい。
☆雑誌「モーター」大正14年2月発行に、自転車の起原と発達と題して、 自転車史の記事がある。ページ数としては半ページだが、次ページには、自転車変遷のイラストがあり一目で発達の歴史が分かるようになっている。当時のオートバイ関係の雑誌にも時々この様な記事が散見される。
☆会報「自轉車」の臨時増刊号が、 10月15日付けで発行される。特集記事として、植原 郭氏の「旅と自転車史」がある。ベテラン・サイクリストの植原氏が、旅先で発見したクラシック自転車の話題などを楽しく語っている。
自転車世界一周 - 14
「自転車世界一周」ジョン・フォスター・フレイザー著
註、『Round the World on a Wheel』(1899) は、 John Foster Fraser、 S. Edward Lunn、 F. H. Lowe の3人が、1896〜1898年にかけて世界一周を自転車で走破した記録。以下は日本旅行の部分、その14。
日本人の自転車乗りたち
自転車が何でできているのか、私には想像もつかない。名古屋の自転車は、形こそ昔ながらの自転車に似ていた。大きな車輪はたいてい使い古しの荷車の車輪を鉄帯で巻、重い木製のスポークが2本ほど欠けている程度であった。フレームは大抵木でできており、時には鉄の棒が使われていたこともあった。後輪は例外なく、昔の荷車を運ぶのに使われていたものである。サドルはフレームに縛り付けた袋状で、半分ほどずり落ちそうな感じであった。腰に着物を巻き、大きな下駄を履いたまま乗り手は、ハンドルを握り、大きく後ろに体重をかけることで、見事に自転車を漕ぐ。確かに、その男は道路を独り占めしたかったのだろう。というのも、駆動輪のハブ・ベアリングがやや緩んでいて、ぐらついていたからだ。こうした自転車が近づいてくるのを見ると、私たちは降りて通り過ぎるまで待った。追い越そうとすれば、私たちの評判を落とすだけの価値しかなかった。それに、あの騒音ときたら!馬が暴走した荷馬車を想像してみてほしい。まさにそんな感じだった。しかも、名古屋にはこうした自転車が何十台、何百台、何千台も走り回っていたのだ。役人たちは事故統計を提供してくれない。
名古屋は素晴らしい街で、あらゆることで有名だ。その夜はひどい夕食だった。一口食べるごとに、法外な値段を請求する木彫り職人と口論していたからだ。彼らは荷車いっぱいの品物を運び込み、床に広げていた。美しい彫刻で、どれも素晴らしく繊細で、百もの趣向が凝らされた絶妙な作品だった。
名古屋が本当に名高いのは磁器だと知った。特に淡い灰緑色の磁器が人気であった。私たちは卵立てを買った。
次に聞いたのは、もちろん名古屋の磁器も素晴らしいが、名古屋の名産品は七宝焼きだとのこと。七宝焼きはまさに世界最高峰である。私たちは値切ることはせず、ただじっと待つことにした。
自轉車瓦版 第110号
昭和62年9月25日発行
☆長い間休刊していました、自轉車瓦版を本号より再刊いたします。
まる一年半以上の空白がありましたので、既に忘れた方もおられると思いますが、この自轉車瓦版は、 昭和60年3月20日創刊され、 昭和61年2月19日まで刊行されました。号数としては、第109号まで発行されました。
この程ワープロを導入しましたので、読み易い紙面で再登場と言うことになりました。
☆この瓦版は、1ヵ月に1回以上情報等の提供がある会員との連絡用(メモ)として使用しております。従いまして、全会員には配布されませんのでご了承下さい。
当研究会のコミュニケーションの中心はあくまでも会報「自轉車」ですから、瓦版で扱った重要な情報等は総べて会報誌上にて再度取り上げます。
なお、瓦版のバックナンバーを希望される会員は葉書(送料は実費)でご依頼下さい。
☆先般、自転車文化センターから錦絵のコピーをいただきました。 探景の東京小網町鎧橋通り吾妻亭や芳虎の東京二本橋風景等が入っていました。このコピーは、「錦絵 幕末明治の歴史」講談社刊からのもので、他にも自転車が載っている錦絵がありました。
錦絵は、美術品としても貴重な遺産でありますが、我々自転車史を研究する者にとっても重要な資料でもあります。
今後の課題として、これら錦絵に現れた自転車を一つ一つ解明していき、体系づけていくことではないでしょうか。
☆当会員の岩立氏から、ドライジ一ネ型の自転車が写っているコピーをいただきました。このコピーは、雑誌「モーター」 (大正9年 11月発行第88号)から撮ったもので、説明には次のように書いてあります。
「この写真中に見える二輪車は世界最初の自転車にして何人が作ったか製作者は不明であるが1720年時代に製作されたることだけは明らかである。現にフランスのバーヤータン・クラマンテン博物館に珍物として蔵してある。」
1720年は、疑問ですが、かなり古いことは確かでしょう。
自転車世界一周 - 13
「自転車世界一周」ジョン・フォスター・フレイザー著
註、『Round the World on a Wheel』(1899) は、 John Foster Fraser、 S. Edward Lunn、 F. H. Lowe の3人が、1896〜1898年にかけて世界一周を自転車で走破した記録。以下は日本旅行の部分、その13。
飢えた三人組
詩人たちは、石山から見るロマンチックな秋の月、比良に降る雪の美しさ、勢多の夕焼けの輝きなど、琵琶湖の無数の美しさを歌い上げてきた。唐崎に夜降る雨を愛で、堅田に飛来する雁の群れは外国人以外なら誰しも涙を誘うと云う詩を詠んだ。
日本で扇子を百枚も買えば、そのうち九十枚には琵琶湖の風景が描かれているだろう。掛け軸がお好きなら、ナポリからヴェスヴィオ山が見えるはずがないのと同じように、琵琶湖の絵が描かれていないはずがない。もしあなたの居間に繊細な日本の屏風があるなら、スポーツ新聞の言い回しを借りれば、「間違いなく」琵琶湖が8枚の屏風に描かれているだろう。
時速15マイル(約24キロ)以下で移動していたら、琵琶湖の景色にうんざりしていたかもしれない。
琵琶湖は美しい。壮麗な琵琶湖。魅力的な琵琶湖。日本人は琵琶湖を絶賛する。京都にいた時も、琵琶湖の海岸にいた時も、琵琶湖について散々聞かされ、その後も何度も琵琶湖について尋ねられたので、私たちは身を守るために無礼な態度を取らざるを得なかった。琵琶湖のことは忘れてしまったのである。
数日間、旅は平穏無事であった。日本食にも慣れたが、いつも「量が足りない」と不満を漏らしていた。3人分の昼食が運ばれてくると、まず1人が全部取って、それが自分の分だと示し、他の2人にはその倍の量を持ってくるように要求する。給女たちは驚いた様子で深々と頭を下げ、「はい」と言った。日本の「はい」は鼻にかかった鋭い声で発音された。彼女たちはくすくす笑いながら慌てて立ち去り、騒ぎが収まると、さらに食べ物を持って戻ってきた。おそらく、役場の職員の昼食を満足させるのに十分な量だったのだろう。私たちは「もっと、もっと!もっと持ってきて!」と叫び、村中の食べ物が集められると、村人たちが私たちの食事を見にやって来た。そして、いくつかの食事は魅力的だった。
ある日、私たちは田舎の静かな谷間に立ち寄り、宿屋に入ると、礼儀正しい老人に招き入れられ、暗い通路を通って庭へと案内された。そこは平均的な郊外の裏庭ほどの大きさで、幅約3メートル、奥行き約2.4メートルほどだった。しかし、その小さな空間には、障子の付いた東屋、小石が敷き詰められたせせらぎ、そこに架かる素敵な小さな石橋、そして松や桜、ミカンなど、あらゆる種類の木々があった。どれも小さいサイズだったが、愛らしいほど均整が取れていた。ミカンはビー玉ほどの大きさで、木はゼラニウムほどの大きさだった。小川は簡単にまたげるほどで、趣のある岩はどれも洗濯かごに収まりそうなほどだった。私たち自身を除いて、すべてが優美だった。私たちは身だしなみを整えるために髪を梳かした。
まるでガリバーのように、私たちの足は広大な土地を歩き、木を通り過ぎ、川を渡り、山の途中まで登った。 1時間ほど寝転がってタバコを吸ったが、寝床はまだ何十マイルも先だった。