2021年8月31日火曜日

牛車の製作

 牛車の製作

下の資料は牛車の構成部品の名称について書かれている。

この元資料は1905年(明治38年)発行の「宮殿調度図解」関根正直 著である。

車輪は自転車でも重要な部品であり、その各部の名称も当然ながらこの牛車との共通点がある。たった一字の漢字にも意味がある。この難しい漢字そのものからも何となくその部品のイメージが浮かんでくるように思える。

以下、牛車の製作部分を抜粋する。

牛車の製作

上古の車はいかなる製作なりけむ、詳に知りがたし。藤原時代に至りての製は記録の文と、當時の繪畫とによりて窺ふことを得べし。醍醐天皇の延喜の始め、先規旧章をたづねて更に諸式を選定せられし中に、車の製並びに用材のさた見えたり。すなはち延喜の内匠式と、和名類聚抄とを合はせ考ふるに、轓、輪、輻、轅、轂、轉、軸等の名稱あり。

轓(ハン・ホン) 車の屋形なり。俗に車箱と書き久留末乃波古(クルマノハコ)と云ふ。

輪 (わ・タイヤとリム) 於保和(オホワ)といふ。車脚の進轉する所なり。櫟(くぬぎ)を以て作る。

輻(や・スポーク)  輪と轂との間なる細木なり。夜といふ。矢の義なるべし。樫(かし)にて作る。

轂(こしき・ハブ) 輻の湊まる所なり。古之岐(コシキ)と稱す。俗に筒ともいふ。

轅(ながえ)車前の長き木なり。加奈江(ナガエ)といふ。長柄の義なり。俗に後方を鴟尾(トビノヲ)といふは、形よりや名つけけむ。

軛(くびき)轅の端にて、牛の領にあたる所なり。久比岐(クビキ)といふ。

轉(ころぶ・テン)車下の索なり。止古之婆利(トコシバリ)といふ。床縛の義なり。之を以て、車箱を車臺に結び付くるなり。

軸(じく・ハブの芯棒) 輪を持する細き木なり。與古加美(ヨゴガミ)といふ。

軾(しきみ) 車の前の板なり。止之幾美(トジギミ)といふ。

此の他、轄(くさび)と云ひ釭(かりも)といふものなどあれど、さる細かきことまでは、煩はしければ省きつ。大體のことはに就いて知るべし。

註、括弧内は漢字の読みと分かりやすいようにスポーク、ハブなどを追加した。
藤原時代・・・ 894年(寛平6年)~1185年(寿永4年)まで。
醍醐天皇の延喜・・・平安時代中期。900年頃。
櫟や樫など部材の材質まで書かれていて興味深い。

「宮殿調度図解」1905年
国会図書館所蔵資料
コマ番号64

2021年8月30日月曜日

パラリンピック自転車競技

 パラリンピック自転車競技

明日から静岡県小山町で開催されるパラリンピック自転車競技のパンフレットを小山町役場のオリンピック・パラリンピック推進局へ貰いに行く。

8月31日 男子・女子 タイムトライアル

9月1日~3日 男子・女子 ロードレース 

今日も猛暑日の暑さで、国道246号も換気のため車の窓を少し開けると、熱風のような風が車内に入ってきた。山中湖方面も予定していたが時間の関係で断念、途中、山北・清水橋のガソリンスタンドに寄り、帰路に。

オリンピック・パラリンピックの
自転車競技関係パンフ

オリンピック・パラリンピック推進局
の入り口

同上

コース地図

2021年8月29日日曜日

「自転車デザイン-イラストの歴史」

 「自転車デザイン-イラストの歴史」

「Bicycle Design - An Illustrated History」Tony Hadland、Hans-Erhard Lessing共著(2014年3月21日)

この本が出版されてから既に7年も経過しているが、未だに日本語訳版が出ていない。殆どの主要国(ドイツ、フランス、イタリア、ロシア、イスラエル、アラブ諸国、インド、タイ、台湾)では出ているのだが、日本ではその気配すら感じない。なぜこのような良書が翻訳されないのであろうか、誰もが英語版を読めると思っていないはずなのだが、その理由は分からない。ただ言えることはこのような本を出版しても売れないという現実が待っている。特に自転車の歴史などは、殆どの日本人には全く関心がないのも事実である。はじめから売れないもの、赤字になるものに誰も手は出さない。そうなると、やはりどこかの公益法人あたりが出版するか、或いは資産家がボランティア的に費用を負担してもらう以外無理であろう。
なぜ、この本だけをここで取り上げるかと云えば、日本の自転車の歴史の一部がたとえ1頁でも紹介されているからである。従来から欧米では誰も日本の自転車文化など興味もないし、無視されてきたのである。
例え1頁ほどでも図版入りで紹介された意義は大きい。当然この解説には日本の研究者もかかわっている。
最近その知人から電話があり、更に彼のブログでも紹介されているが、イタリア語版が出るにあたり、わざわざイタリアの博物館から連絡があり細部についての質問があったと云う。その後に久平次の陸舟奔車の実物大模型を製作したのである。
これは画期的なことであり、極めて重要なことでもある。
この本のイタリア語版が出なければ、そのような事態には当然ならなかったはずである。
何れにしてもそのような具体的な影響を与えた自転車の歴史本が、日本で未だに出ないこと事態不思議でならない。

以下は英語版の抄訳とその挿絵である。

初期の日本の人力自走車
日本では稲作の灌漑用に足踏み式の道具が利用されてきた伝統があった。
1732年にボート型の三輪車が陸上用に考案製造された。(小池-2013)。

この陸舟奔車は、彦根藩士、平石久平次時光が書いた文書に描かれている。
それは藩主の命より製作されたのである。

それ以前にも四輪(竹田は三輪)の自走車が二つ製造されていた。
その一つは1729年の庄田門弥によって製作されたもの、もう一つは1730年に竹田という人物により製作された。これらの2台の自走車については久平次の陸舟奔車のような文書はのこっていないが、地元では庄田門弥に「長距離の人」(千里車の人)と呼んだ記録があるとしている。この車は後輪との中央に木製フライホイールがあり、車体の両側に固定された一種の複合クランクシャフト式であった。田圃の灌漑用のようなものである。

久平次の陸舟奔車の方は、ペダルに下駄(木製のサンダル)が付いており、フロントステアリングシステムは、ロープが数回巻き付けられた垂直ステアリングポールで構成され、その両端がレバーに接続されていた。

久平次は四輪車の自走車からクランクシャフト式の自走車について、その文章の中で、陸舟奔車の三輪車が以前のものより成績が良かったと報告してる。
四輪車では、傾斜面に差し掛かると車から降りて押す必要があった。陸舟奔車の方は斜面を駆け上がることも可能であると云う。

この文章には乗り手はダンサーのような動きでどこへでも自由に行けるとあるが、しかし、その後この陸舟奔車が何台製作されたかは不明である。

「自転車デザイン-イラストの歴史」の挿絵

2021年8月28日土曜日

一遍聖絵など

 一遍聖絵など

下の画は「一遍聖絵」と「中世近世 街頭生活者繪巻」からである。

これらの画は以前から気になっていた。直接に自転車とは関係ないものの日本の車の歴史や車輪の変遷などを調べていくと、これらの車が目に留まる。

これも乗り物であり、或いは居住を兼ねた小屋車と云える。

「一遍聖絵」は説明するまでもなく、鎌倉期を代表する文化風俗を活写した重要な歴史絵巻であり、その奥書にあるように、1299年(正安元年)一遍の弟子の聖戒が詞書を起草し、円伊が絵を描いたと云われている。

ただし、下の画は江戸期の天保11年出版されたものである。

その興味ある部分は「一遍聖絵」第二で、そこに描かれているのは築地塀にへばり付いているような屋根付きの車である。連結されている小屋もあれば独立している小屋もある。一見して最下層の人の移動式住居と云える。差別的用語で言えば、乞食或いは不具者などが利用していた小屋である。

この小屋の画をよく見ると意外としっかりした造作であり、冬はともかく夏場は快適とは言わないまでも雨や風もしのげるし、ある程度は生活に支障がなかったはずである。当時はこのような小屋車を製作する職人もいたはずである。

しかし、その付近にいる乗馬の武士や従者などと比較して見れば、歴然として差別されていた人々であることがわかる。

一番下の画は「中世近世 街頭生活者繪巻」からのもの。発行年は不詳であるがおそらく江戸期と思われる。

この車は差別的な言葉にもなるが所謂「いざり車」である。障がい者がこの車に乗り、物乞いをしながら周辺を巡るのである。この車は移動手段であり、住居は粗末ながら別な場所にあったはずである。身なりからしてそのように推量する。単なる乞食ではない。或いは物乞いをしないまでも車いすのような使われ方もしていたと思われる。

「一遍聖絵」第二

同上

「中世近世 街頭生活者繪巻」より
「一遍聖絵」と同様
国会図書館所蔵資料

2021年8月27日金曜日

大正期の絵葉書④

 大正期の絵葉書④

下は大正初期の絵葉書である。

キャプションには仙台名称、芭蕉の辻、SENDAI

とある。
江戸時代では城下町の中心地であり、大町通りと奥州街道が交差する地点。高札場があった場所で、当時は「札の辻」が正式な名前である。芭蕉の名の由来は諸説あるようだ。(芭蕉と云う名の虚無僧が住んでいた場所或いは芭蕉の木が植えてあった場所)
現在の地番で言えば仙台市青葉区一番町付近にあたる。

この絵葉書を見ると中央に自転車、右側には荷車がある。
自転車の後輪部分には荷台も両立スタンドもない。大正初期の自転車の特徴が見えている。後ろ泥除けにも大きな鑑札は見当たらない。

大正期の絵葉書

2021年8月26日木曜日

老舗さんぽ-48

 老舗さんぽ-48

先日また小田原市永塚にあった一石自転車店の場所探査に出かける。

その途中、下曽我のとある洋品店の前を自転車で通過したとき、その店のショーウインドーに懐かしい戦時中の飛行機のプラモデルが10点以上飾られていたのを目にした。自転車から降りて少し眺めていたら、店の中から店主らしい男性が近づいてきた。そこで、このプラモデルの話や永塚の自転車店のことも聞いてみた。年齢(60歳代)からして、やはり一石の事は知らないということであった。ところがその話の中で、この先の踏切の近くに昔、寺田自転車店があったことを教えてくれた。昔と言ってもこのご主人の時代の話であるから昭和40年代のことである。
早速、その寺田自転車店があった場所に行ってみる。だがその踏切付近を探したが、どうもそのような気配の場所は見つからなかった。誰か通行人でも居れば聞いてみたいところであったが生憎誰も通らなかった。かといってぶしつけに近くの家で聞くのも失礼と思い、この日は諦めて退散することにした。

本日、また近くに用事があったので、再度寺田自転車店のあった場所を探査する。ちようど踏切近くのお店に客と初老の店主と思われる男性がいたので、客が帰ったあと尋ねることにした。
すると、即答で「あそこに見える白い家が昔、寺田自転車店だ」と、明快に教えてくれた。
先日調べたところよりももっと踏切よりであった。踏切よりというよりもその隣接場所であった。
踏切を渡りその場所に自転車で近寄り何枚か写真に撮る。

今日は、この夏最高の暑さのようで、自転車に乗っていると背中辺りからじわじわと汗が出てきた。東京は猛暑日とのこと、剣沢沿いの道を木陰を見つけながら国府津経由で家に帰る。

今日の成果はどうでもよいことながら、下曽我にあった寺田自転車店の場所を確認できたことである。

寺田自転車店があった場所
現在は一般の住宅
表札も寺田ではない

寺田自転車店関連資料
戦前の自転車商名鑑には記載なし

①寺田自転車店 寺田正男 曽我別所697
小田原商工名鑑 1956年版 昭和32年5月31日発行 107頁~108頁
小田原市役所、小田原商工会議所編

②寺田自転車店 寺田正男 曽我別所797
小田原商工名鑑 1962年版 昭和37年3月31日発行
小田原市役所、小田原商工会議所編

③寺田自転車店 寺田正男 曽我別所797
小田原商工名鑑 1970年版 昭和45年3月31日発行

④寺田商会 寺田正男 曽我別所823
小田原商工名鑑 1976年版

途中、住所と店名に異動あり
これらの資料からは20年ほどは営業していたことが分かる。

2021年8月25日水曜日

自転車関係資料-51

 自転車関係資料-51

前回からの続き、

 下の資料は1933年(昭和8年)3月1日発行の「アサヒグラフ」第20巻第9号、

自転車特集「浪速津の交通文化 走る下駄」より。

この写真のキャプションに、

お店になる
大體車が二つあつて、ペタルをふむと走り出して、止まるとコロリと横にころぶ、その自轉車の後輪につつかい棒が出來て、もたせかけなくとも、ころがらないとわかると、チャンとお尻を店の代用に利用する事を考へる。自轉車とて走るばかしが能でありませんデス

とある。
いったい何屋さんなのかこの写真と解説からでは分からない。最初に見たときには運勢占い(路上占い師)とも思ったのだが、筮竹や拡大鏡もない。どうもそうではないようだ。前に垂れた紙にも何か書いてあるのだが、不鮮明で読み取れない。何かの修理屋さんなのかも不明である。この11枚の写真の中で一番分からない写真であった。
今回でこの写真シリーズは終わりとなる。

店になる自轉車

ページ全体 11、12頁
1933年3月1日発行の「アサヒグラフ」

2021年8月24日火曜日

自転車関係資料㊿

 自転車関係資料㊿

前回からの続き、

 下の資料は1933年(昭和8年)3月1日発行の「アサヒグラフ」第20巻第9号、
自転車特集「浪速津の交通文化 走る下駄」より。

この写真のキャプションに、
合乘り
これは街のナンセンス
お手てつないでの道行を、二輪の車に仲よく乘つて (と云つても彼女は荷物なみ) 寒風をついて走る合乗り風景に、今更足もとの寒いキモノをクサミと一緒に感じた御兩人です

とある。
確かに後ろに乗る女性は寒そうで、クシャミも連発しそうである。下半身はかなり寒いはず。下駄ばきでペダルを踏んだことがないので分からないが、その感触はどうであろうか。
ハンドル部は防寒服に覆われている。
バッテリ式の角型自転車用ランプもヘッド部に取り付けられている。暗くなっても万全である。ただし寒い。

自転車の合乘り

ユアサの角型自転車用ランプと乾電池
昭和初期

註、大正7年創業の松下電気器具製作所(現パナソニック)も、1927年(昭和2年)に自転車用「角型ランプ」を発売している。

自転車用ランプ製造業 コマ番号178
全国製造卸商名鑑 昭和10年度
国会図書館所蔵資料


2021年8月23日月曜日

自転車関係資料㊾

 自転車関係資料㊾

前回からの続き、

 下の資料は1933年(昭和8年)3月1日発行の「アサヒグラフ」第20巻第9号、
自転車特集「浪速津の交通文化 走る下駄」より。

この写真のキャプションに、
子供を人れる
自轉車の後へ荷台をつける事を発明した人は、そこに竹籠がのり、子供を輸送する為めにも使用されると云ふ、日本人の小器用さにあきれた事と思ふデス

とある。
確かにこのアイデアは日本的なのかも知れない。子供がすっぽり収まっているところを見ると、なるほどと思えてくる。
やはり後ろ泥除けには大きな鑑札が目立っている。番号は読めるが上のマークまでは分からない。

自転車と竹籠

2021年8月22日日曜日

自転車関係資料㊽

 自転車関係資料㊽

前回からの続き、

 下の資料は1933年(昭和8年)3月1日発行の「アサヒグラフ」第20巻第9号、
自転車特集「浪速津の交通文化 走る下駄」より。

この写真のキャプションに、
自轉車の波
どんな小路でもお目にかかれる自轉車だけに、叉点で堰をとかれるとどっと流れ出します。

とある。
まだこの時代に少数派の自動車が2台見える。それにひきかえ自転車は15台ほど、当然だが現代の風景と逆転している。手前に立つ人物は交通巡査か、右隣の構造物は手動の信号機だろうか、上部が見えていないので分からない。
自転車をよく見ると後ろの荷台には大きな篭や荷物がある。リヤカーを牽引している自転車も見える。当時は荷物の運搬手段として欠かせない乗り物のであったことがこの風景からもよく分かる。
そしてどの自転車にも鑑札が取り付けられている。

自轉車の波 1933年(昭和8年)

2021年8月21日土曜日

自転車関係資料㊼

 自転車関係資料㊼

前回からの続き、

 下の資料は1933年(昭和8年)3月1日発行の「アサヒグラフ」第20巻第9号、

自転車特集「浪速津の交通文化 走る下駄」より。

この写真のキャプションに、

女工さん帰る

女子自転車隊の進軍は一日中座り込みで運動不足の下半身に、心よい刺激を興へると云う、これが第一。第二に足代が助かりまんが。とは彼女の本音であります。

とある。

一日中座りずくめで、夕方やっと解放される。この自転車での帰路のひと時が最高の気分であったはずである。また家庭に帰ればそれなりの家事手伝いが待っている。

寒いので自転車のハンドル握り部分には防寒用のグローブが付いている。襟首にはマフラーも欠かせない。足元を見ると下駄ばきである。この写真に写っているのは7名の乙女自転車隊。少しだけ笑顔があり、安心させてくれる。

女工さん帰る
1933年3月1日発行の「アサヒグラフ」

2021年8月20日金曜日

自転車関係資料㊻

  自転車関係資料㊻

下の資料は1933年(昭和8年)7月5日発行の「アサヒグラフ」第21巻第1号からの写真である。

この写真のキャプションに、
便利屋さんとして早朝東京へ用達しに出かけるところ

とある。
写真の看板をみると茂原東京間諸用達所と書いてある。
茂原は、千葉県の東部に位置する場所、現在は茂原市。首都圏の準商業都市と云ったところ。茂原から都内までは70㎞ほど離れている。自転車では片道5時間ほどの道のりである。往復では一日仕事である。それとも駅まで行って汽車に乗り換えか。汽車でも当時は2時間かかった。
右端の看板には、煎餅・あられ・かきもち・和洋菓子 篠崎商店とある。

篠崎商店

2021年8月19日木曜日

自転車関係資料㊺

 自転車関係資料㊺

下の資料は1933年(昭和8年)7月5日発行の「アサヒグラフ」第21巻第1号からの写真である。

この写真のキャプションに、

村の訓練日
 静浦では青年訓練日には、必ず表通りへ「訓練日」と大書した旗を棒の先にぶら下げてつん出して置きます
 これを見た青年達は、団服或は仕事着などの儘村の小學校庭へ参集します。

とある。
静浦は伊豆半島の沼津寄りの漁港がある場所、いまでも釣りをやる人には馴染みのところである。
この時代は丁度満州事変がはじまってから関東軍が満州の全土を占領した時期で、この「訓練日」も村の青年達を集めて近くの小学校校庭で在郷軍人による訓練が定期的に行われていたのである。写真は自転車に乗って訓練会場に向かうところである。「訓練日」の旗も掲げられている。
何となく戦時下の緊張した風景が漂っている。

1933年7月5日発行の「アサヒグラフ」

2021年8月18日水曜日

自転車関係資料㊹

 自転車関係資料㊹

前回からの続き、

 下の資料は1933年(昭和8年)3月1日発行の「アサヒグラフ」第20巻第9号、
自転車特集「浪速津の交通文化 走る下駄」より。

この写真のキャプションに、

 市場にも必要

市場で自轉車を売っているんだ、なんて早合点は困るのです
日本の道路は自動車が入れない處が多いのです
細い路地に乗り入れて「エ、魚屋で御在い」と云ふやつ・・・自転車様々と云う處です

とある。
如何やら魚市場の雑踏のようだ。所狭しと自転車が置いてある。トロ箱を後ろ荷台に置いてある自転車が目立つ。後ろ泥除けにはやはり大きな鑑札が付いている。この自転車の持ち主は奥の方で水揚げされた魚を物色中、或いはセリが行われている。
この市場で買った魚はそのまま自転車に積み行商に出かける。狭い路地もなんのそのだ。

市場と自転車

昭和8年3月1日発行の「アサヒグラフ」11、12頁

2021年8月17日火曜日

自転車関係資料㊸

 自転車関係資料㊸

前回からの続き、

 下の資料は1933年(昭和8年)3月1日発行の「アサヒグラフ」第20巻第9号、

自転車特集「浪速津の交通文化 走る下駄」より。

この写真のキャプションに、
自轉車 車を引く
うらぶれた、一寸淋しい街の風景
時代の波に乗りおくれて、路傍に見すてられたやうな力車が、時代の寵児自轉車に引かれてサテ何處へ行く――とだんだん話が滅入つて來ます

とある。
冷たい雨は降っているし、何処となく寂しい。人力車の終焉を物語っているような景である。お客は乗っているのであろうか。空身で帰路を急いでいるようにも見える。それにしても人力車の位置が少し斜めのような気もする。自転車との接続位置がちょうどポンチョに覆われていて分からない。この人物も元は人力車夫なのか、聞いてみたいところである。
自転車は実用車で後荷台、両立スタンドそれに乾電池式のヘッドランプも見える。

自転車と人力車

昭和8年3月1日発行の「アサヒグラフ」11、12頁

2021年8月16日月曜日

自転車関係資料㊷

 自転車関係資料㊷

前回からの続き、
 下の資料は1933年(昭和8年)3月1日発行の「アサヒグラフ」第20巻第9号、
自転車特集「浪速津の交通文化 走る下駄」より。

この写真のキャプションに、
通學自轉車
朝。モヤの中から校門へ自轉車が走り込む。ユニホームのこのサイクルレースの選手達は、すばらいスピードです。
午後。ダンスのやうにほがらかな足取がベタルをふむです。歸りを急ぐスピードは、朝と違って、どこかのどかな處があります。

とある。
それにしてもすごい数の自転車群である。ざっと数えて30台はある。何処かの校庭である。この自転車の持ち主は見ての通りすべて学生服を着た生徒である。旧制中学のようだ。自転車はすべて実用車でやはり後ろ泥除けには鑑札が見える。後ろ荷台にハンドルにベル、ライトは付いていない。日没後は無灯火走行になる。
気温が低いと見えて、殆どの生徒がポケットなどに手を入れている。
吐く息までは分からないが、白いはずである。

通學自輛車

昭和8年3月1日発行の「アサヒグラフ」11、12頁

2021年8月15日日曜日

進化する自転車

 進化する自転車

先日、閉幕した東京オリンピック。私は静岡県小山町へ観戦に出かけた。日本でツールドフランスが見られるような思いであった。期待にたがわず、身近で本場のロードレースを見ることができた。ツールドフランスが終了(7月18日)して、まだ間もない時であり、ツールの最終ゴールが富士スピードウェイと想像した。このレースの終了後も何度もNHKの録画を見た。特に私が観戦した地点を繰り替えし再生した。この小山町上野から三国峠経由の山中湖は何度も通る道でもある。県道147号線で、そのコースで一番の急こう配は明神峠手前、そのこう配は18%である。本当はこの地点で観戦したかったのだが、交通規制の時間に間に合わず、しかたなく小山町上野にしたのである。

いずれにしても選手のスピードは半端ではなく、このコースを実際に自転車で走った人であればよくわかる。ツールの総合優勝とこのオリンピック個人ロードで銅メダルを取ったスロベニアのタデイ・ポガチャル(Tadej Pogačar)選手は確かにすごいが、私が何度もビデオを見た感じでは、殆ど集団のトップを引いていた同じスロベニアのヤン・トラトニク(Jan Tratnik、62位)選手である。私が観戦していた小山町上野でも最初に飛び込んできた。

タデイ・ポガチャルやタイムトライアルで金メダルを獲得したプリモジュ・ログリッチ(Primož Roglič、ロード28位)選手のサポート役に徹した走りであった。メダルの半分は彼のものである。

前置きがすこし長くなったが、次は伊豆ベロドロームで行われたトラック競技である。この競技場にイギリス選手が持ち込んだトラックバイクHB.Tが凄い。

この自転車はこのオリンピックが開催さえる約2年前にホープ社とロータス社(Hope HB.T by Hope Technology and Lotus Engineering)が共同開発したもので、その斬新的なフォルムは息をのむ思いがした。この自転車を見て、まだまだ自転車は進化の途上にあることを確信した。

東京オリンピックに出場するためには事前にUCI(国際自転車競技連合)の承認を受けなければならなが、それも無事にクリアーしてきている。

この自転車による影響なのかそれとも選手の実力か、英国は特に高速走行が要求される男子マディソンで銀メダル、女子は金メダルを獲得した。何れにしてもこの自転車は只者ではない。イギリスはいまだに自転車の先進国であることをこの自転車が証明してくれた。

最近の自転車を見てもあまり感動しなくなった私だが、このベロドロームを走ったトラックバイクはただものではなかった。

先頭のヤン・トラトニク選手
静岡県小山町上野

ホープのHPより

2021年8月14日土曜日

自転車関係資料㊶

 自転車関係資料㊶

昨日からの続き

 下の資料は1933年(昭和8年)3月1日発行の「アサヒグラフ」第20巻第9号、
自転車特集「浪速津の交通文化 走る下駄」より。

この写真のキャプションに、
仕出し屋
これは又、サーカスの心意気を心要とする仕出し屋さんの場合です。右肩にのっけた重い荷物の重心をうまく二つの車に調子を合せて行く点、そばやの出前持と共に日本人的な自轉車の利用法です

とある。一見すると蕎麦屋の出前風だが、よく見ると確かに仕出し屋である。中身は刺身の盛り合わせ、天ぷら、寿司だろうか、一番上には水差しのようなものまで載せている。トロ箱に似た木箱はかなり重いはずである。4段重ねはその道のベテランでない無理。これは蕎麦屋の出前でも同じこと。(現代では道交違反か)
この木箱に店の名前が書いてあるが、よく分からない。自転車のトップチューブに下げられている看板と同じだ。

仕出し屋と自轉車

昭和8年3月1日発行の「アサヒグラフ」11、12頁

2021年8月13日金曜日

自転車関係資料㊵

自転車関係資料㊵

昨日からの続き
 下の資料は1933年(昭和8年)3月1日発行の「アサヒグラフ」第20巻第9号、
自転車特集「浪速津の交通文化 走る下駄」全部で11枚の写真が掲載されている。

其の2枚目が下の写真、
キャプションに、
子持ち三輪車
母親が子供達をうち連れて市内見物をしているかに見える。ここに至っては大の大人もばあやの感じデス

とある。
だがどう見てもセンスや情緒思考のない私からは大型三輪車で子供用三輪車を行商する態である。
50年以上前にはいろいろな行商を見かけたものである。金魚屋、風鈴屋、魚屋、八百屋、豆腐屋、箒売り、キャンディー屋、飴屋、ポンせんべい屋、紙芝居屋、富山の薬売り等々、中には押し売りもいた。
このような三輪車でも行商していたが、殆どは自転車やリヤカーを利用していた。箒売りなどは歩いての訪問販売であった。

この三輪車を見ると自転車とリヤカーを組み合わせたような特殊な形状である。それにかなり年季がはいっている。

一般的には自転車にリヤカーを牽引して行商していた。自転車に付ける特殊な接続金具も見たことがある。リヤカーを牽引しないときでも、この牽引金具(連結金具とも)が自転車のサドル下のシートポストに付いていたのを覚えている。

後の泥除けには鑑札のようなものが取り付けてあるが、ただの自転車用鑑札なのか、それともこの三輪車特有の鑑札なのか、或いは鑑札ではなく別なものなのか。
当時はリヤカー単体にも別な鑑札が付いていた。 

三輪車で子供用三輪車を行商

昭和8年3月1日発行の「アサヒグラフ」11、12頁

2021年8月12日木曜日

自転車関係資料㊴

 自転車関係資料㊴

下の資料は1933年(昭和8年)3月1日発行の「アサヒグラフ」第20巻第9号である。

この号の中に自転車特集「浪速津の交通文化 走る下駄」があり、全部で11枚の写真が掲載されている。

以下にこの写真集の要旨のようなものが書いてある。

近來都會の街頭から兎角邪魔ものあつかひされて、大阪では堺筋乗入禁止などといふ說まで持ち上つてゐる自轉車、だがこれはタクシイやトラック側から見た話で、自轉車側からは『阿呆ぬかせ、こらわいらの……』なんと下駄だといふのだ。「下駄履いて堺筋走るが悪ー
」からう訳はござんせん。それはどちらでもかまはないことに厳正中立を聲明しておいて、さて大阪に一體どれだけの自轉車が横行――これに限っては縦走でしたネー しているのかと調べて見ると府下の總數四〇九、六七五台で東京の五三三、〇〇〇、についで愛知県と二位を争っている。で府下の世帯数七七〇、九〇〇に對しては一・七二世帯について一台だから、ザッと一軒おきに一台づつ、又人口三、五四〇、〇〇〇に割當てると七・三人について一台づつを持つてることになる。又附下の自動車數が約六、三〇〇台だから自動車1台について自轉車は六拾五台あまりといふことになる。
なるほど一台の自動車が六十五台の自轉車に囲繞されてはこれは相当以上にウルサイもんだらう。日々ウンザリするほどある交通事故の五〇%にはこのスピーディな「下駄」が登場するといふからこの点でまさに一流のスターである。

11枚の写真を順次眺めていきたい。
今回は、まず最初にお百姓さんの自転車利用実態を見たい。
以下がこの写真のキャプションである。

 田園型
さつと朝日が村をおとづれる
野らへ御出かけの百姓氏も、自轉車利用の方法を、ちゃんと会得していらつしやる
商売道具の積み方にいたつては尚自轉車の習性をチヤンと心得ていらつしやる

註、左側の田圃には稲むら(稲塚とも)、季節は冬である。朝日を浴びながら畑に向かう。右肩には鍬と熊手鍬?の2本担いている。後ろの荷台には桶が二つ、右は肥桶であるが、ここでは水桶に利用か。左の桶に柄杓が1本入れてある。
後泥除けには大きな鑑札が付けられている。番号は二一五三六とあるが、その上の丸のマークは分からない。丸の印が分かれば市町村名が判明できるのだが。


①田園型自転車

②ページ全体 11、12頁

③表紙

④自転車鑑札
岩手県川崎村と近江八幡市(未使用)

2021年8月11日水曜日

自転車関係資料㊳

 自転車関係資料㊳

この資料は昭和4年発行の「竹田町勢一覧」である。

豊後竹田と云えば、すぐに思い出すのは、滝廉太郎の「荒城の月」である。そのメロディーが聞こえてくるようだ。

それと不幸な歴史だが西南戦争も忘れてはならない。茶屋の辻の戦い(ちゃやのつじのたたかい)は、1877年に竹田町で起きた戦闘である。政府軍の圧倒的な火力により西郷軍は敗退した。この戦闘で死者の約1.000名、焼失した家屋は1.500軒と云われている。

いつものように交通運輸欄の自転車に注目する。
自動車 19台
自転車 380台
人力車 6台
馬車 8台
荷車 135台
とある。

やはり自転車が圧倒的に多い。大正14年の自転車商名鑑を見ると竹田支部だけで自転車店が13軒あった。
現在は4店舗だけ、後藤自転車商会、永田サイクル、森永自転車商会、塩崎自転車商会である。この中で100年続くような老舗はない。

Googleストリートビューで周辺を少し散歩したが、歴史を感じさせる街並みがまだ多く残っていた。大分には3回ほど観光で行っているが、残念ながら竹田へは行っていない。

竹田町勢一覧(現在の大分県竹田市)
概説
地勢 
竹田町ハ直入郡ノ南部ニ位シ海拔七百八十有餘尺大野川上流ノ支川白瀧稲葉ノ清水周園ヲ流レ丘陵青松緑竹繁茂シ奇岩怪石其間ニ立シ山紫水明盛夏三伏ノ候ト雖酷暑ヲ知ラス其大自然ノ風光佳ナルコト小京都ノ稱アリ

沿革
當町ハ文禄三年中川秀成岡城入城後市街漸次繁榮トナリ以テ維新ニ至リタルニ明治十年西南ノ役兵燹(へいせん)ニ罹リテ全町焦土ト化セシモ今ヤ再ヒ舊時ノ市街トナリ商業繁昌郡內第一都邑ナリ

土地
當町面積〇方里一八一東西一里十二丁南北十一丁ニシテ官有二屬スルモノ免租地五丁二反民有免租地百九十四丁一反歩其外民有々租地百四十七丁一反ヲ有ス其內最モ多キハ山林ノ六十六丁步之ニ亞ク(つぐ)宅地ノ二十九丁五反步畑地二十九丁四反步田ハ僅カニ四丁三反ニ過キズシテ其他ニ原野雑地合シテ十七丁九反歩餘アリ

人口
現住戸数千百六十一、人口ハ五千五百七十五人ヲ有ス

產業
本町生產総額ハ三十一万八千七百七十八円ニシテ工產ノ二十六万一千四百六十五円ヲ第一トシ畜産農産林産水産之ニ亞キ町民ハ商ト工トヲ主トシ副業トシテ竹細工タル竹人形、竹割箸、竹籠等ヲ生產シ就中竹人形ハ全國無比ノ好評ヲ博シ竹割箸又聲價ヲ昂騰シ將來有望ノ事業トス

交通
豊肥鐵道町ノ西北ヲ貫通シ其他各地ノ連絡ハ台数二十有餘ノ自動車ヲ以テ交通運輸上至大ナル便利ヲ増進シツツアリ

本書、主トシテ昭和四年事実ノ大綱ヲ掲載スルヲ主眼トナシタリ

交通運輸欄

ページ全体

表紙

概説

添付の地図

日本輪界興信名鑑 大正14年度版
コマ番号 696番
日本輪界新聞社
国会図書館所蔵資料

岡城
Googleストリートビューより

2021年8月10日火曜日

自転車関係資料㊲

 自転車関係資料㊲

下の資料は1956年(昭和31年)7月1日発行の「毎日グラフ」第9年第27号通巻第321号である。

自転車の部品を使って大空を目指す。

このブログでも度々空中自転車(下の画参照)や水上自転車を取り上げている。殆どが海外の情報であるが、この記事は純国産である。先人たちがいろいろな工夫を凝らして人力だけで大空を目指したのであるが、これもその一つの事例といえる。
その思いは現在も連綿と受け継がれている。

以下は記事一部を抜粋、

稲田武弘さん(42) 小倉市城野富士見町 は、”大空への夢”に憑かれた男である。本職は金物製造業だが、グライダーにかけては滑空士の免状を持つ腕前。少年時代から大空へ憧れ、ソアラー(高性能グライダー)の組立てなど平ちゃらという。ところがだんだんグライダーでは物足らなくなって、近ごろはヘリコプターに目をつけだした。
何とか自作のヘリコプターで大空を自由に漫歩してみたい。彼はこの夢を、たった一人の心を許した助手、妻千代子さん(35)に打明けた。そして春ごろから千代子さんを相手に、コッコッと稲田式ヘリコプターの製作に取りかかり、まず全長5メートル、幅22センチの回転翼の骨組みを完成、続いて胴体、方向ダ、着陸用ソリへと進んだ。ふるっているのは機体の中核に競輪用の中古自転車をそのまま使い、翼回転の動力は人力でペダルを踏み、車輪の木製リムにかけた布製ベルトでプロペラ主軸を回転させようという仕組みである。
さて稲田さんの計算によれば、この方法で操縦者とも。80キロの重さを浮上できるはずなのだが、再三のテストにもかかわらず、ヘリコプターは一向に飛び上ろうとはしなかった。しかし稲田さんは悲観しない。世間のいろいろな批判にもめげず、彼のひたむきな大空への情熱はいよいよ燃えさかっている。(小倉市 清水久雄)

以下は英文のキャプション、
PHOTOS BY OUR READ-ERS-Takehiro Inada of Kokura City, is planning to “take a walk in the sky“ by using a helicopter made by himself. Utilizing an old by-
cycle, Mr. Inada produced a man-powered helicopter recently but the 80-kilogram
body was too heavy to fly by manpower. He is still studying to realize his dream with the assistance of his wife Chiyoko, 35.

読者からの写真、小倉市の稲田武弘さんは、自ら製作したヘリコプターを使って「空を散歩する」ことを計画している。 
古い自転車部品を利用し、稲田さんは最近人力ヘリコプターを製作したが、機体の重さは80kgと重く人力では飛べなかった。 彼はこれからも妻の千代子さん(35)の助けを借りて、夢を実現するために研究を続けて行く。

懸命にペダルを踏むが
主翼と回転比が大きいため
思うようには回らない

ページ全体 34,35頁

空中自転車
明治26年1月18日付の毎日新聞

2021年8月9日月曜日

鼠屋伝吉とミショー型自転車

鼠屋伝吉とミショー型自転車

下の画は木偶・鼠屋伝吉の石像楽圃の引き札である。

日本橋の人形師である鼠屋伝吉(ねずみやでんきち)が1873年(明治6年)にオーストリア・ウィーン(プラーター公園)万国博覧会(Weltausstellung 1873 Wien、1873年5月1日~11月1日)に職人として同行し、展示物であるの工芸品の配置や陳列などを担当した。
博覧会場の数ある展示物の中には人力車もあり、また日本庭園も人気のひとつであった。

その後に帰国して浅草奥山の見世物会場で、万国博で見た景観を野外石像彫刻の形で表現したのである。

この引き札の画をよく見ると、不鮮明だが左側に棒を持った子供とミショー型自転車乗った人物が描かれている。子供が悪戯をしたのか、自転車の男は怒った表情でその子供を見つめている。その右側には紳士淑女が日傘をさして我関せずと二人の世界を楽しんでいる態である。

ミショー型自転車が描かれたこのような資料は極めて珍しい。当時の錦絵にも三輪車は多いが、ミショー型は極めて少ない。日本はミショー型の普及は希薄であり、それだけに資料も少ない。ミショー型が流行したという事実も存在していない。日本の場合は三輪車から木製のダルマ自転車にそのまま移行したようにも思える。その間隙にわずかに存在した程度といえる。

「石像楽圃」 1875年
木偶・鼠屋伝吉
人形の吉德資料室所蔵

2021年8月8日日曜日

自転車関係資料㊱

 自転車関係資料㊱

下の資料は1937年(昭和12年)7月7日発行の「アサヒグラフ」第29巻第1号である。

戦前の自転車競技の写真が少ない中、この資料は貴重だ。それも第1回學生自轉車競技大會の写真である。確かこの年には日本学生自転車競技連盟が、日本サイクル競技連盟に包含され、日本自転車競技連盟が発足している。

このような資料は他にも探せば出てくると思うがそう簡単には現れてくれない。たまたま古い書棚に埋もれていたのを見つけ出した。

写真のキャプションの内容や旧漢字も時代を感じさせてくれる。

16頁

第一回學生自轉車大會
燦々と降り注ぐ陽光を浴びて、輕快に滑る二輪の渦 ー 日本學生自轉車競技聯盟主催第1回學生自轉車競技大會は、六月十九日午後芝公園競技場で華々しく開催された會は國旗掲揚・會長挨拶、審判長挨拶、選手宣誓等型の如くあった後競技に入った【寫眞は入場式】

註、ざっと数えて出場選手は40名ほど、誰もヘルメットやカスクも被っていない。サイクルキャップも少ない。カスクの歴史は知らないが、昭和30年(先のブログ、日豪交歓自転車競技会)の写真では被っている。観戦者がやや少ない感じがする。
当時の芝公園競技場周辺の木々が多いことも確認できる。

32頁

お茶の行商隊
【埼玉縣】豐岡實業學校では、生徒の製茶実習で精製した約四百貫の茶をいつもは大ロで販売していたが、今年は生徒に販売を實習させる為、五年生三十人に自轉車隊を組織させ、六月十五、六兩日東京市內各官署に訪問販売させた(寫眞は同校茶行商隊の出發)

註、豐岡實業學校は現在の埼玉県立豊岡高等学校である。創立は大正9年。
どこのメーカーの自転車か分からないがフェンダーの風切りも見える。ブレーキはロッド式、右の自転車にはスポークベルも付いている。ライトはない。
右端の自転車に付いている ヘッド部のランプ掛けの意匠を見るとYのようにも見える。すべてではないが山口自転車の可能性あり。

表紙