2009年3月30日月曜日

コロンビア・エキスパート

 このオーディナリーは、1884年4月発行のコロンビアのカタログから転載したものです。
 私は1991年にオハイオ州フィンドレーで、このコロンビアのエキスパートに乗り、サイクリングを楽しみました。サイズも同じ50インチでした。
 あの自転車で世界一周を成し遂げたトーマス・スティーブンス(1854-1935)も、このコロンビア・エキスパート(Model "Expert Columbia")で、やはり50インチでした。彼は、1884年4月22日にサンフランシスコのオークランドを出発し、世界一周へ旅立ちました。

2009年3月29日日曜日

輪々雑誌

 この写真は大正期の輪界誌であります「輪々」の創刊号の表紙です。発行年は、大正11年で輪輪社が出版しました。この雑誌がその後何年ごろまで続いたのかはいまのところ不明です。
 第一次世界大戦が1914年(大正3)に勃発してからは、欧米からの自転車及び部品の輸入が激減し、国産車の量産体制化が進んだ時代でありました。

アイバンホー

 当時、三浦 環が乗っていました自転車は、いったいどのような銘柄の自転車だったのでしょうか。
 明治36年(1903年)2月~9月まで読売新聞に連載されました小説「魔風恋風」は、次のような文章からはじまります。「鈴(ベル)の音高く、見(あら)はれたのはすらりとした肩の滑り、デードン色の自転車に海老茶の袴、髪は結流しにして白いリボン清く、着物は矢絣の風通、袖長ければ風に靡いて、色美しく品高き十八九の令嬢である。」
 この小説のヒロイン萩野初野は、当時、上野の音楽学校に通っていたころの三浦 環がモデルになったと言われています。このようなことから三浦 環が乗っていた自転車はアメリカ製のデートンではないかというイメージもありますが、私は下記の理由からカナダ製のアイバンホーであると思っています。
 明治33年11月25日に日本ではじめての女性だけの自転車倶楽部である「女子嗜輪会」が誕生しています。このクラブの本部はスポンサーである京橋の四七商会にありました。女子嗜輪会の発足当日に、近くの写真館でメンバー全員が記念撮影した写真が残っていまが、この写真の中央に三浦 環と自転車が写っています。三浦 環の前に置かれたこの自転車はアイバンホーであることも分かっています。
 四七商店は、石川商会の代理店であり、当時デートンを扱っていませんでした。その後も取り扱った形跡がありません。デートンは双輪商会が一手販売していました。 「魔風恋風」が新聞掲載された明治36年頃は、確かにデートンが人気でした。
 三浦 環がその後もデートンに乗ったという形跡もみあたりません。女史嗜輪会に所属していれば、スポンサーである四七商会で扱っていない自転車にわざわざ乗る必要もありません。三浦環が乗っていた自転車は、アイバンホーなのです。

参考資料:
「佐藤半山の遺稿 輪界追憶録抄 明治中期の自転車事情」高橋 達
日本自転車史研究会 会報”自轉車”№67 平成4年11月15日発行

アイバンホー (IVANHOE Canada Cycle and Motor Company, Toronto)
デートン (Davis Sewing Machine Company, Dayton オハイオ州)

2009年3月23日月曜日

輪界誌

 大正期から昭和初期までに発行されていた自転車関係の雑誌、新聞などをあげますと、次のようなものがあります。

(雑誌)
「自転車」   自転車雑誌社(明治期は快進社) 明治35年8月~大正?
「輪業世界」  輪業雑誌社 大正9年から大正14年
「輪友雑誌」  大阪輪友雑誌社  大正元年~大正11年?
「輪界」    輪界雑誌社 明治41年9月~大正?
「實業之輪界」  實業之輪界社 大正期
「ゴム新報」  ゴム新報社   大正期
「輪界興信新報」 輪界興信新報  大正期
「オール輪界」 オール輪界社  大正7年~昭和15年?
「輪々」    輪輪社  大正11年から大正?
「扶桑」    大正12年から?

(新聞)
「名古屋輪界新聞」 明治41年1月「輪界タイムス」として創刊
「輪界新聞」  大正8年頃
「日本輪界新聞」  大正9年創刊?
「輪界商工新聞」 大正12年創刊その後「東亜サイクル通信」と改名
「西部輪界新聞」 西部輪界新聞社 昭和初期
「北海輪界タイムス社」 昭和初期

参考資料:
「日本輪界名鑑」  輪界雑誌社 大正8年6月25日発行
「名古屋自転車商工業便覧」名古屋自転車新聞社 昭和13年8月発行
「日本輪界名鑑に見る大正中期の輪界関係出版社」真船高年 日本自転車史研究会 会報”自轉車”№27 1986年5月15日発行
「北海道樺太輪界興信銘鑑」昭和10年度版 北海輪界タイムス社編 札幌 北海輪界タイムス社

明治期については下記を参照願います。
http://www.eva.hi-ho.ne.jp/ordinary/JP/rekishi/rekishi39.html

2009年3月22日日曜日

オール輪界

 この写真は以前深谷市のサイクルショップ・コンドー店主であります近藤 元二さんからいただいた表紙部分のコピーです。
 日本の戦前、特に昭和初期は明治30年代の流行期と比べますと、月刊雑誌や輪界新聞或は販売店の商報(定期刊行カタログ、月報を含む)などの発行が少ないように思えます。それは、関東大震災の影響や満州事変勃発、そして太平洋戦争突入へと続く、まさに昭和の激動期をむかえたからでしょう。
 近藤さんのお店は大正時代の創業で、既に90年以上の歴史があります。古いものを大切にされる近藤さんは明治25年頃のハンバーをはじめ古い看板類や資料も多数保管されています。この「オール輪界」もその一つです。
 「オール輪界」は、この号の号数と発行年月日から推察して、昭和7年9月の創刊と思われます。この雑誌がはたして何年ごろまで刊行されたのか分かりませんが、先程も述べましたように、昭和の激動期をむかえていますので、おそらく昭和15年ぐらいには廃刊になったのではないかと思います。

2009年3月21日土曜日

ハンバー (2)


 これはハンバーのカタログの一部分です。1901年(明治34)とありますから、日本にハンバーが輸入される1~2年前のものです。ハンバーは前にもこのブログに書きましたが、1903年~1910年頃に坂田自転車店、仁藤商店、橋本商会(神戸)などで販売されていました。 
 深谷市のサイクルショップコンドーに現存するハンバーのセーフティーは形状からして、このカタログにある自転車よりも古く、恐らく明治25年頃のものと思っています。使用されているタイヤはソリッドタイヤであり、フレームやハンドルなどをみるかぎり
、明治25年頃の特徴を現していると思います。
 ハンバーはこのカタログにも書いてあるとおり創業は古く、1868年(明治元年)です。
 今でもハンバーは、ベイリス・トーマス同様マニアの間で人気のある銘柄です。

2009年3月20日金曜日

ラレー・ロードスター

 私の自転車歴史探求のはじまりは、この1台のラレー・ロードスターからといっても過言でありません。
 昭和46年の秋頃の新聞にこのラレーの広告が載ってからでした。それはホンダが英国からラレー自転車を大量に輸入した年でした。そのシンプルな形は、自転車の原点を見たような強い衝撃を受けました。それ以来、私の自転車の歴史も始まったといえます。 
 自転車は、小学校の2年生のときに所謂三角乗りで乗れるようになりました。その後、中学2年生の時に父から買ってもらった丸石のスポーツ車に始まりますが、自転車の歴史に興味を持つようになったのは、このラレー・ロードスターの影響でした。
 ホンダがなぜラレーを大量に輸入したのでしょうか。当時の噂では、ホンダが英国に自社のバイクを売るための見返りといわれていましたが、その真意は分かりません。当時、ヤマハも同じようにプジョーを輸入していました。ホンダは、関連会社のアクト・トレーディング(東京都中央区八重洲6-7ます美ビル)を通じて、大量に輸入したのでした。ですからいまでもホンダの販売店に時々デッドストックされたラレーの掘り出しものが出るようです。

ベイリス・トーマス

 最近でも時々オークションに1883年-1885年のベイリス・トーマスのオーディナリーが登場しています。いまでもこの英国製のオーディナリーはマニアの間で人気のあるブランドです。 
 ベイリス・トーマスのオーディナリーの写真は、自転車文化センターのHPにありますので、そちらを見てください。
http://www.cycle-info.bpaj.or.jp/japanese/history/nenpyo/nenp12.htm

 ベイリス・トーマスのオーディナリーが、日本に輸入された形跡はいまのところどこにもありません。オーディナリーが輸入されるのは明治21年頃からで、英国製ではなくアメリカのコロンビアやゴーマリー&ジェフリーなどでした。コロンビアは梶野が明治22年に輸入したと思われますし、ゴーマリー&ジェフリーは森村開作と兄の明六などが明治26年頃に乗っていました。
 日本にベイリス・トーマスが輸入されたのは、明治27年です。この自転車はオーディナリー(ダルマ型)ではなくセーフティー(安全型)でした。

参考資料:
明治27年12月1日付け中央新聞 東京市京橋区南小田原町三丁目九番地
テ・ライヂン・グリイン ベイリス・トーマス安全車

「サイクル・その歴史的評論」C.F.カウンター著 P.25  昭和55年3月15日発行

水茶屋の写真

 長崎大学附属図書館の幕末・明治期日本古写真を見ていましたら、例の上野公園の水茶屋の写真が5枚でていました。
 撮影者は玉村康三郎(1856~?)で横浜の弁天通一丁目に玉村写真店をかまえていたようです。
 水茶屋の写真については、当ブログ、2009年3月14日水茶屋を参照してください。それにしても、この長崎大学のデータは素晴らしいと思います。これからもこのような資料があらゆる大学の書庫から公開されることを願っています。

幕末・明治期日本古写真 :
http://naosite.lb.nagasaki-u.ac.jp/dspace/handle/10069/9240

2009年3月19日木曜日

オーモンド

 オーモンドという名前はあまり聞きません。
 英国車と言えば、スターレー&サットン、ハンバー、シンガー、ラレー、ラッジ、BSA、ベイリス・トーマス、スイフト、リーフランシス、サンビームなどが有名です。
 なぜオーモンドなのかといいますと、如何わけかたまたま1888年版のカタログを持っているからです。いまのところオーモンドが日本にこの時期輸入されていたという形跡はありません。1888年といいますと日英同盟(1902年)の前ですから、このカタログに載っているような、自転車や三輪車は、日本に入っていないと思います。
 オーモンドがどのようなメーカーで、創業は何年ごろなのか、今後機会があれば調べたいと思っています。いまのところ詳しいデータは持ち合わせていません。
 アメリカにもオーモンドというブランドの自転車がありましたが、このメーカーとの関係はあるのか、或はないのかも判然としません。オーストラリアでも1890年頃に名前が出てきますが、やはりこのメーカーとの関係も不明です。
 いずれにしましても、オーモンドは、日本ではあまり馴染みのうすい名前です。

資料:ザ・ホイールメンHP
American Ormonde-(M) American Ormonde Cycle Company, New York, NY, 1892-1893.
1888年版カタログ PRICE LIST THE ORMOND BICYCLES AND TRICYCLES.

2009年3月18日水曜日

自転車ビール

 サイクル・タバコ同様、このビールも自転車の流行にあやかって登場した商品です。ビールも自転車と同じように横浜が発祥の地のようですが、最近は東京の品川であるとか、大阪であるという異説もでてきているようです。定説では、1869年(明治2)に横浜の外国人居留地で醸造をはじめたジャパン・ヨコハマ・ブルワリーが最初であるといわれています。明治2年といえば、まさに自転車の登場と一致しています。チャールズ・ワーグマンが描いたジャパン・パンチの挿絵に「江戸の開市1869年1月1日」としてラントン三輪車が登場しています。
 このビールに貼られたラベルをよく見ますと、ダルマ自転車の絵が描かれています。明治21年と言えば、まだこの時期日本に安産型自転車は現れていません。このラベルの自転車からも当時の自転車がどのようなタイプのものが存在していたのかを示しています。
 ですからこのラベルも一の判断材料を提供していることになります。明治21年頃の自転車はダルマ型が主流だったのです。

2009年3月17日火曜日

ブロンコ自転車

 先般、ブロンコ自転車の写真がありますかというメールでの問い合わせがありまして、整理の悪い書庫を探していましたら、やっと今日出てきました。
 この写真は、前にもこのブログで書きましたが、アメリカのミシガン州デァボーン郊外にあるゲーリー・ウッドワード邸を尋ねたときに撮ったものです。完璧にレストアされていて、特徴ある後輪のハブが銀色に輝いていました。写真の撮影日は1991年7月1日です。
 ブロンコ自転車は、前にも書きましたがアメリカのメーカーで、マサチューセッツ州ウエストバロにあったホワイトサイクル会社が1890年に製造した自転車です。

参考資料:ザ・ホイールメンHP
Broncho-(M) White Cycle Company, Westboro MA, 1890
Collecting and Restoring Antique Bicycles (ペーパーバック)
G. Donald Adams著 135頁-136頁

自転車学校

 自転車はすぐには乗れませんので、当然ながら練習が必要です。明治25年ぐらいになりますと、各地に乗り方の練習場が現れました。ある新聞記事によりますと、初心者は3日間で乗車できるように教授するとあります。
 梶野は東京の支店で、明治26年に夜間でも練習ができる施設を開設しています。朝6時から夜は照明をつけナイターで10時まで練習できました。場所は、東京の神田橋筋錦町界隈でした。
 明治35年には、専門学校まで誕生してます。乗り方をはじめ、修繕から健康や衛生面までも網羅したカリキュラムが組まれ、授業を行っていす。自転車学校は、東京の牛込区河田町にあり、校長は貴族院議員の大原重朝伯爵が就任しています。大原重朝は、公家の出で、三男に柳原家の養子になった柳原博光伯爵などがいます。
 学科は、普通科、特別科と2科別れ、普通科は1週間で乗法、修理、保全を学びます。特別科は、2週間で卒業し、普通科の授業内容の他に、下車法、車体分解、結合、衛生注意等を学びます。
 自転車が民衆に受け入れられ、学校まで設立されたのです。

参考資料:明治35年8月26日付け時事新報、明治26年2月26日付け毎日新聞、明治25年10月13日付け福島民報

2009年3月16日月曜日

ジェラール自転車


 ジェラールの自転車については、既にこのブログでも書きましたが、1895年にフランス陸軍第87歩兵連隊のジェラール大尉が考案して、プジョーが製造しまいた。

 4月5日まで自転車文化センター(科学技術館2階情報室)で特別展として「戦争から平和利用へ導いた自転車展」を開催中です。ここにジェラール考案のプジョーの自転車が展示されています。是非御覧になってください。他に英国軍の空挺部隊が使用したBSAの折畳自転車(1944年)や日本の三菱十字号Ⅰ型(1947年)などが展示されています。

写真提供:自転車文化センター

モンブラン自転車

 本日、未読メールを調べましたら、1通届いていました。アメリカのドンさんという方からのものです。

 質問の内容は、

 私は、古いモンブラン(Monbran)という自転車を何年も前から所有してます。製造年月は、1920年代ではないかと思っていますが、正確な年代は不明です。このモンブランという自転車はどのような歴史があるのでしょうか。私は、日本の立川基地で生まれました。私の父は非常に高齢で、このモンドランを若い頃に日本で購入しました。

 以上のような内容です。

 すぐに調べましたところ、次のようなことが分かりました。モンブランという銘柄の自転車は当時2社が製造していました。

1、名古屋の岩田自転車商会 1956年

2、東京市下谷区の伊藤製作所 1924年

 これら製造会社の社史までは分かりませんが、自転車の製作年代をある程度まで特定できます。
 これらを調べるにあたりまして、「日本で製作・販売された自転車のブランド名に関する調査研究報告書」(平成17年3月 自転車文化センター発行)が大変役に立ちました。
 これは素晴らしい資料です。私はいつもこの資料を座右に置いて眺めています。

ハンバー

 この写真は1989年(平成元)頃に埼玉県深谷市のサイクルショップコンドー店主である近藤 元二さんから送っていただいたものです。いままで国内に現存する明治期の輸入自転車をいろいろと見てきましたが、この英国製ハンバーは、特に古いものと思っています。そらく明治26年頃に銀座にあった大倉組銃砲店か日本橋の丸善あたりが輸入したものではないかと思われます。
 英国のコベントリーにあったハンバーは歴史が古く1868年の創業です。
 1902年(明治35)の日英同盟以降、日本に多くの英国車が輸入されるようになりました。
 当時、ハンバーを取扱っていた販売店に、坂田自転車店(東京南伝馬町)、仁藤商店(東京神田)、橋本商会(神戸三宮)などがありました。

2009年3月15日日曜日

内国勧業博覧会

 内国勧業博覧会に出品された自転車の状況について、ふれたいと思います。

 内国勧業博覧会は、明治の近代国家建設にあたり科学技術や文化などを民衆に知らしめ、啓発することを目的として開催されました。

 第1回は、1877年(明治10)に上野公園で開催されています。この博覧会には自転車は1点も出品されませんでした。すでに前のブログ(水茶屋)でも書きましたように明治10年以前はミショー型自転車やダルマ自転車は日本に殆んど無かったからです。あるといえば竹内寅次郎がラントンを手本にして製作 した木製のラントン型三輪車のみでした。すでに最初の製作から7年も経ってしまった陳腐化したラントン型三輪車を勧業博覧会に出品する理由もみあたりません。いずれにしても日本国内の自転車の状況はその程度でありました。

 自転車は第2回の内国勧業博覧会(1881年明治14)に登場します。出品者はいずれも福島県人で福島県磐城国東白川郡関岡村の斉藤長太郎、福島県磐城国玉山村の坂口清之進、福島県岩代国伊達郡谷地村の鈴木三元の3名です。
 なぜ福島県人なのでしょうか。私は鈴木三元が中心になって製作した三輪車を他の二人が協力し或は何らかの交流があったものと見ています。鈴木三元は地元の資産家ですから三輪車を開発する資金は充分に持っていたはずです。鍛冶屋をはじめ多くの職人を使っていたと思われます。
 この3人の出品した自転車はどのようなものだったのでしょうか。現存する三元車から判断して、何れも同様な三輪車であったと思われます。英国のシンガーを参考に製作したはずです。ですから自転車といってもすべて三輪車を出品したのでしょう。

 第3回内国勧業博覧会は、1890年(明治23)にやはり上野で開催されました。自転車の出品者は、東京府京橋本湊町の山崎治兵衛、東京府浅草区北三筋町の向山嘉代三郎の2名です。山崎治兵衛は販売者及び資金援助者で実際に製作したのは、横浜高島町の梶野仁之助でした。向山嘉代三郎は、浅草にあった帝国自転車諸機械製造所です。
 それではこの両名はどのような自転車を出品したのでしょうか。明治23年ですからまだこの時期、セーフティー型自転車(安全車)は輸入されていません。恐らくオーディナリー自転車(ダルマ型)であったと思います。それを象徴するかのようにこの第3回内国勧業博覧会の錦絵がありますが、ここにもダルマ自転車が描かれています。両名ともダルマ自転車を出品したのです。アメリカ製のコロンビアなどを参考に製作したものと思われます。

 第4回内国勧業博覧会になりますといよいよセーフティー自転車(安全型)の登場になります。1895年(明治28)に東京から京都に会場を移し開催されました。出品者は3名です。東京府本所菊川町2-52の宮田栄助、神奈川県横浜市高島町5丁目の梶野仁之助、宮城県仙台市東三番町の橋本峰松です。
 この時期(明治26年頃から)になりますとアメリカと英国から多くの安全型自転車が輸入されるようになりました。名前をあげますとアメリカのビクターや英国のハンバーなどです。ですからこれらを参考に安全型を製作したはずです。殆んどのパーツはまだ国産化になっていませんので、完全な形での国産車ではありませんでした。現在まで名前が残っている老舗の宮田自転車がやっと顔を見せています。

 第5回内国勧業博覧会は、1903年(明治36)に大阪で開催されました。20世紀を迎えてのは博覧会でした。自転車関係の出品者は9名に増えています。名前だけあげますと、宮田栄助、梶野仁之助、角利吉、眞島安兵衛、宮林操三、(以下自転車部品の出品者)梅村鎌吉、大石峰次郎、平野光三郎、 岡実康です。
 この時期になりますと、いよいよ本格的な国産化が始まり、殆んどのパーツを国内で製造・調達できるようになりました。(チェーンが一番遅かったのではないでしょうか)

 それでは、この内国勧業博覧会からどのようなことが見えてくるのでしょうか。大雑把にいって、次のように結論付けることができます。

明治3年~明治10年 自転車は殆んどすべてラントン型の三輪車であった。

明治14年頃 自転車はシンガー型の三輪車であった。(英国のスターレー&サットン製メテオ三輪車も輸入されていた)

明治20年~明治23年 自転車の主流はダルマ型の二輪車であった。

明治26年~明治28年 ハンバーやビクターのような安全型であった。

明治30年~明治36年 一部のパーツを除き国産化が本格的にはじまる。

この内国勧業博覧会からも自転車の変遷を垣間見ることができます。

写真提供:自転車文化センター

2009年3月14日土曜日

水茶屋

 1876年(明治9)3月5日(日曜日)付け 花の都女新聞 第44号に次のような記事があります。

 下谷広小路の山本と云える水茶屋にて三輪の自転車を借(貸し)しますが、広小路を一返乗廻す賃は、一銭五厘だと申しました。

この記事で注目したい点は

水茶屋にて貸し自転車業をしていたということ

自転車は三輪車であったこと

賃料は一銭五厘だったということ

 下谷広小路は、現在の台東区上野3丁目で、いまは上野広小路と呼ばれています。松坂屋から上野公園入口あたりです。このあたりは江戸時代から寛永寺と不忍池を中心に栄えた場所で、料理茶屋、水茶屋、出会茶屋、芝居茶屋などの歓楽街を形成していました。水茶屋はいまでいう喫茶店のようなものです。貸し自転車業までやるほどですから、山本という水茶屋は大きな店を構えていたと思われます。写真は上野の水茶屋を写したものですが、撮影した年月は、恐らく明治25年の4月上旬ではなかったかと思えます。理由は、オーディナリー(ダルマ自転車)が右側隅にあることと、季節は桜が満開のようですから4月上旬でしょう。
 自転車がなぜ三輪車なのか。そして三輪車はどのようなタイプか。当時の資料等で推定ししますと、自転車とは一般的に三輪車を指します。なぜなら明治10年以前にミショー型自転車は、日本になかった可能性があるからです。恐らくあったとしても横浜居留地に住む外国人が持ち込んでいた程度で、その台数は数台だったと思います。しかし、ミショー型自転車が横浜にあったという具体的資料はいまのところ皆無です。ですから水茶屋の貸し自転車は三輪車なのです。
 それでは、この三輪車のタイプはといいますと、当時の錦絵に描かれた三輪車を見ますとどれもラントン型です。現在見るような子供用の三輪車のような形は見ません。このような三輪車が現れるのは、明治20年代に入ってからです。そのような形を描いた錦絵やイラスト、写真を見ないからです。早く見積もっても現在見るような形の三輪車は明治15年あたりからでしょう。

 賃料の一銭五厘が、現在の貨幣価値からしてどのくらいなのか分かりませんが、一般庶民大衆を相手の商売ですから、500円以下ではないでしょうか。米の値段から換算しますと、米1表(60キロ)が明治9年ごろですと1円18銭ですから10キロ20銭になります。現在のお米の値段が10キロ4,000円ぐらいですから1銭は200円になります。そうすると300円ぐらいでしょうか。

写真提供:梶原利夫氏

2009年3月12日木曜日

金文字看板

  昭和初期の金文字看板です。金文字看板はよく薬屋のものが多いですが、たまに自転車のものもオークションに出てきます。
 琺瑯看板も最近は殆んど見なくなりましたが、地方の旧街道などを走りますと、まだ小屋の板壁などに琺瑯看板を見ることができます。
 ライコー自転車はどこのメーカーが製造した銘柄なのか分かりませんが、ライコーとは源頼光(みなもとの・よりみつ 948-1021)のことで、「らいこう」とも呼ばれていました。平安中期の武将で、大江山の酒呑童子をはじめ、土蜘蛛退治の伝説や鬼、妖怪、盗賊を征伐した武勇伝はよく知られています。

2009年3月11日水曜日

イーグル

 この写真にある自転車は、イーグル・ロードスターです。1886年にアメリカ、コネチカット州スタンフォードのL.B.ゲイローが考案し特許を取得しました。明らかにこの自転車はオーディナリー(ダルマ自転車)を前後逆にしたようなスタイルです。この形も実は安全型自転車への一つの試みから生まれました。スターのところでも述べましたが、オーディナリーは急ブレーキをかけたり、下り坂で石に躓いたりすると、前方へ飛ばされて頭を強く打つ危険性がありました。このような事故が多かったために、この自転車のことをヘッダーというあだ名まで付けられたほどでした。
 イーグルは、前のめりで倒れる事故はなくなりましたが、逆に仰向けに倒れる事故が多くなりました。どうしても重心が後輪側に来ますので、それだけ後ろに倒れる危険が増したわけです。
 イーグルは、乗っていて楽しい自転車ですが、乗るのにかなり練習が必要になります。オーディナリーの場合は、バックボーンの後輪上部に乗車時に使用するステップが後ろから見て、左側(右利き)にとりつけられていますが、イーグルにはありません。それではどのように乗るかといいますと、まず後輪の前に立ち、手を伸ばしてハンドルを手前に引きます。そうすると当然ながら前輪は上にあがり、ちょうど天井に向けられたような格好になります。そうすることによってサドル位置が体の前にきますから、この状態から一気にサドルに跨り、ハンドルを手前に強く押し出します。このときブレーキをかけていないと車輪が動いてしまい乗車に失敗します。慣れるまでかなり練習が必要です。たしかに難しい乗り方ですがこの辺がこの自転車の面白みの一つでもあります。まるで曲乗り(トリックライディング)のようです。乗車中はなるべく体を前にかがめます。上り坂は特に重心を前にもっていかないと後ろに転倒してしまいます。サドルから腰をうかせ前かがみになり力強くペダルを踏む必要があります。下車方法は、サドルからポンと飛び降りるか、乗るときと逆な方法で降ります。ハンドルを引き上げて、重心を後ろに移動させ、前輪が天井に向いたころあいでうまく降ります。
 いずれにしましてもイーグルは、楽しい反面、危険と不安が初心者につきまといます。私の場合は、慣れる前に帰国しましたので、怖かった記憶のみ残っております。
 ところで明治時代にこのイーグルやスターは、日本に輸入されたのでしょうか。いまのところ、この時代に日本人が乗っていたという形跡はありません。
 この写真は、1991年6月28日にオハイオ州のフィンドレー大学構内で撮影したものです。この大学を中心に、第11回国際ベテランサイクルラリーが開催されました。イーグルに乗っている男性はザ・ホイールメンのメンバーの一人です。

2009年3月10日火曜日

スター

 この自転車はポニー・スターと呼ばれ、アメリカン・スターの小型車です。名前のとおりポニーのような車輪径(後輪は約40インチ)の小さなスターです。一般的なスターは1881年にG.W.プリシーが考案し、特許を取得しています。製造したのはニュージャージー州スミスビルのH.B.スミスマシン株式会社でした。その後、1885年にはウイリアム・S・ケリーなどがスターに一部改良を加えています。
 スターは、よく見ますとオーディナリー(ダルマ自転車)を反対にしたような形でハンドルやサドルが付けられていますが、これも安全型自転車への一つの試みでした。しかし、前への転倒は確かに防げますが、逆に後ろに仰向けに落ちて後頭部を強打する危険性がありました。私はイーグルに乗ったことがありますが、常に意識的に前かがみに乗らないと後ろへ転倒する危険と不安がつきまといました。いずれにしても馴れないと怖い自転車です。イーグルとスターの区別は、駆動部の違いにあります。イーグルは、たんにオーディナリーを反対にした形の自転車で、後輪をペダルクランクで直接回転させる方式です。スターはペダルを上下に踏むことによって皮製のストラップを介してラチェット式の後輪ハブを回転させる方式です。ですからペダルを同時に踏み込むこともでき、力強い発進が可能になります。それとクランクペダルのように回転させる必要がないため、車輪径も股下の長さよりもやや大きめのサイズに乗ることができました。なぜなら回転させる場合はペ ダルが一番下がった状態になったとき膝が伸びますが、スターは少しペダルを踏むだけでよいのです。ペダルを回転させる必要がないからです。
 スターとイーグルは、アメリカでそれぞれ考案され、そして発展しました。まさにアメリカ人好みの自転車です。
 写真は1991年7月1日にミシガン州デァボーン近郊にあるゲーリー・ウッドワード邸で撮影しました。ゲーリー・ウッドワード氏は、元フォードのエンジニアで、ザ・ホイールメンの会長も経験した人です。自転車の修理やレストアも手がけていました。

2009年3月9日月曜日

ピンヘッド

 サイクルタバコについては、以前このブログでもとりあげました。この上の絵は、米国のピンヘッドという銘柄のタバコで、当時人気があったようです。同じ頃に流行していた自転車が、広告の図柄にも影響を与えています。ハイカラな自転車とハイカラなタバコといった感じでしょうか。

明治34年9月17日付け毎日新聞の広告

2009年3月8日日曜日

自転車とは?

 明治8年2月8日発行の「御布告緊要録」というのがありますが、これは今でいう書式集や様式集のようなものです。
 この中に「自転車或ハ借馬賃貸之儀願」というものがあります。内容は簡単なもので、「私は何日から何日まで自転車を賃貸したい」というようなことが書いてあります。恐らく役所か、なにかの団体(貸し自転車屋?)へ提出する申請書のようです。
 私が気になる点は、ここでいう自転車とは、どのような形態のものかということです。というのは日本にミショー型自転車が現れるのは明治10年代に入ってからと考えているからです。ミショー型の存在を裏付ける確実な資料がいまのところないからです。三輪車は明治3年には間違いなくありました。それと自転車の名称がこの明治8年に既に定着していたことをこの要録は伝えているようです。
 それとも明治8年にミショー型が既に日本へ入っていたのでしょうか。私はいまのところここでいう自転車は三輪車でなかったかと思っています。

2009年3月7日土曜日

ヒッコリー

 ヒッコリーはクルミ科の落葉樹の名前ですが、1890年頃アメリカのマサチューセッツ州ニュートンのスターリング自転車会社が、このヒッコリー材を使って自転車を製造しました。ヒッコリーは主に泥除けやチェーンカバー、リムなどに利用されましたが、エリオット・ヒッコリーのようにフレームも含め殆んどがヒッコリー材を使っている自転車もあります。接合部のヘッドラグなどには装飾された美しい金具が付けれれています。

 私は以前あるアメリカのコレクターの家でエリオット・ヒッコリーを見たことがあります。ヒッコリーは樫のような硬さもあり、柔軟性もあります。自転車のパーツとして利用することができるほど耐久性にも富んでいます。

 いまでもアメリカのマニアの間で人気があり、オークションで高値で取引されています。本日見たイーベイのオークションにもヒッコリーが出ていて、初競値が3,000ドルもしていました。

2009年3月6日金曜日

ブロンコ

 本日ある人からブロンコ自転車の照会がありました。私は20年ぐらい前に何処かでその自転車を見ているのですが思い出せません。恐らくアメリカのコレクターの家に行ったときに見たのではないかと思いますが、分かりません。ブロンコよりもむしろヒッコリーの方をよく覚えています。ヒッコリーはいまでもマニアの間で、人気がありオークションでも高値で取引されているようです。
 ブロンコ自転車はアメリカのメーカーで、マサチューセッツ州ウエストバロにあったホワイトサイクル会社が1890年に製造した自転車です。この自転車の特徴としましては、サドルの位置とクランクペダルの位置がほぼ垂直の一線上にあります。見るからに乗りにくそうな自転車です。ですから重心は後輪側にあります。長時間の走行には不向きであったと思います。恐らく曲乗りに使用されたのではないでしょうか。
 それから駆動方式は、一般的なチェーンではなく、後輪のハブに取り付けられたクランクペダルとギヤにより車輪を回転させる方式です。1889年のイーグルに感じが似ています。
 イーグルはダルマ自転車を反対にしたような形状です。早く言えば後輪のハブにペダルクランクがついているタイプです。私は一度イーグルに乗りましたが、後ろに転倒しそうになりたいへん怖かったことを覚えています。

 ブロンコの意味は、じゃじゃ馬です。下記の本を参照願います。

Collecting and Restoring Antique Bicycles (ペーパーバック)
G. Donald Adams著 135頁-136頁

梶野甚之助?

 今日のある新聞記事に自転車の歴史に関する記事がありました。次のような内容です。

「・・・幕末から外国人が二輪や三輪のものを持ち込んでいたが、明治十二年梶野甚之助が蓬莱町に製造所を設立して開発に乗り出し、木工技術をいかした日本人ならではの木製自転車を売り出した。翌十三年には利用者が増えるのを見込んで元町の石川孫右衛門が貸し自転車を始めた。自転車のことは居留地三十一番地で鍛冶屋を営むキルドイルに教えてもらったという」

 以上がその内容ですが、梶野の名前の誤りや根拠の薄い内容が殆んどです。梶野甚之助は梶野仁之助が正しく、私は昭和58年に誤りであることを書いていますが、いまだに変わっていません。
 どこかの国の議員のようなあげあしとりに始終するようなことは言いたくありませんが、疑問点はあげておきたいと思います。

「幕末から外国人が二輪や三輪」とありますが、三輪はともかく二輪を幕末に持ち込んだという根拠はどこにもありません。具体的な資料があれば提示していただきたいと思います。

「梶野甚之助」これについては、昭和58年に私は梶野仁之助の甥、松本次郎吉の長男であります横浜に住む松本春之輔さんを尋ねています。そこで、梶野仁之助が明治28年5月6日にときの神奈川県知事中野健朙よりその功績を称えられ賞状と木杯を授与されていますが、その表彰状に梶野仁之助と書いてあります。このコピーを私は松本春之輔さんからいただきました。

「翌十三年・・・石川孫右衛門」が貸し自転車をはじめたとありますが、これも当時の具体的な資料はいまのところありません。どこから石川孫右衛門の話がでたのかさっぱりわかりません。この辺の出典は「横浜もののはじめ」(横浜郷土双書第一巻 改訂版 横浜市図書館 昭和49年発行)あたりから引用されたものだと思います。その本にはつぎのようなことが書いてあります。

・・・横浜元町の石川孫右衛門は、居留地にあるフランス商館チリドル商会へ行った際、チリドルが日本に着いたばかりの自転車を乗り回しているのを見ます。チリドルは、「自転車は汽車の次に早い乗り物で、練習すればどんな狭い道も走る事ができる便利なものだ」と説明しました。これを聞いた孫右衛門は、高価で誰もが簡単に手に入れる事の出来ない自転車を時間貸しする事を思いつきました。
当時、自転車は1台が銀16枚したと言われています。それを孫右衛門は16台購入して、1877年(明治10年)に横浜元町で貸自転車業を始めました。
物見高い人々は文明開花の香りを漂わせて走る曲芸的な乗り物に好奇心を寄せ、1時間25銭という高い賃料にもかかわらず、在庫の自転車が不足するほど繁盛したそうです。
1877年(明治10年)頃からは、輸入自転車に加えて、地元の鍛冶や車大工に作らせた国産の自転車も使用していたようです。
大繁盛した石川孫右衛門の貸し自転車屋も、1883年(明治16年)の大火により自転車を全て焼失し、廃業してしまいました・・・。

 いずれにしても一度このような内容が印刷されますと、ほぼ永久にどこまでも伝えられ、更に引用や孫引き脚色などが加えられ、あたかも真実のようにそれが発展していきます。大胆に言えば歴史の記述などは殆んどが嘘か誤りで構成されているのでしょう。まあその辺が歴史の醍醐味や面白みであり事実よりも面白くしています。
 私はデジタル化した文章が好きです。なぜならいつでもデリートキーを1回押すだけで、きれいさっぱりと削除されるからです。誤りや嘘をいつまでも後世に晒すことがないからです。

2009年3月5日木曜日

ファニー・B・ワークマン

 アニーロンドンデーリーのところで、アトラス山脈を自転車で越えたファニー・ブロック・ワークマンについて書きましたが、彼女の略歴は次のとおりです。

 ファニー・ブロック・ワークマン(1859-1925) は、1859年1月8日にマサチューセッツ州ウスターで知事の娘として生まれました。学生時代は、フランスやドイツへ留学しています。1881年に地理学者、探検家であったウィリアム・ハンター・ワークマンと結婚しました。その後、夫妻は1890年から自転車を使っての世界旅行を開始しています。この旅行はその後10年間も続きました。1895年には、アルジェリアなどを旅行した後、その旅行記を出版しています。この旅行記に自転車でアトラス山脈の峠を越えサハラ砂漠へ至ったことが書かれています。その後も夫妻は精力的に自転車で世界各国をまわっています。

 1898年から1912年の間には8回もヒマラヤ遠征をしています。そしてピナクル山(標高5,766m)などの登頂にも成功しています。極東やアジア各国もサイクリングしているようですが、日本に立ち寄った形跡はいまのところ不明です。当時の新聞などをこまめに調べればでてくるかもしれません。

「A Bicycle Tour over the Atlas to the Sahara」
By Fanny Bullock Workman and William Hunter Workman
London, T. Fisher Unwin, Paternoster Square.1895

コンパクト自転車

 日本でのコンパクト自転車は、何時頃から造られたのでしょうか。私は明治20年代に入ってから、鉄砲鍛冶や刀鍛冶がダルマ自転車を作りはじめたころからではないかと思っています。小柄な日本人が前輪の大きなダルマ自転車に乗るにはたいへんな苦労があったと思います。ですから練習を積んで、これを乗りこなすことができるようになれば、さぞ達成感と満足感があったことでしょう。当時、初心者は安全な三輪車から習い始めたようですから、ダルマ自転車が乗れたときの気分は最高だったと思います。三輪車(大人用)がだんだんと姿を消していったのも、この明治20年代に入ったころからです。自転車に乗ることの楽しさは、三輪車では味わえないからでしょう。
 コンパクト自転車の元祖といえるのかどうか分かりませんが、昭和59年に東京赤坂の自転車文化センターで開催された明治自転車文化展に関町から登場した一台のダルマ自転車がありました。パンフレットの解説には次のようなことが書いてあります。「ミニサイクルスタイルで、クランクが弧をえがいている。サドル下のスプリング形式がたいへん進んでいる点に注目したい」とあります。車輪径は前輪46センチ、後輪33センチでした。スプリングをよく利かしているのは、小径車ゆえの工夫で、サスペンションの役割でしょう。このダルマ自転車は、大人と子供兼用のような形をしています。なぜこのような形になったのか分かりませんが、恐らく兼用の発想から作られたのではないかと思います。このダルマ自転車をコンパクト自転車の元祖などと言い立てるつもりはありませんが、一つはコンパクトへの試みではないでしょうか。
 国産のコンパクト自転車といえば、すぐに思い浮かべるのは志村精機が開発したロード・パピー号です。この自転車はいまでも米国のマニアの間で人気があります。ロード・パピー号は1950年の開発ですから、戦後生まれのコンパクト自転車です。それではそれ以前になかったのかといいますと、明治30年代から大正期は分かりませんが、1936年頃にモハン号が登場しています。この自転車を初めて見たのは、本に掲載されていた小さな不鮮明の写真でした。鳥山新一著「すばらしい自転車」(日本放送出版協会版、1975年01月発行)にありました。このモハン号は、鳥山さんが少年の頃に乗っていたものです。
 1993年(平成5)5月9日に東京上野公園で行われた第7回クラシック自転車コンテスト(梶原利夫氏主催)に現れた黒塗りの小径車がそのモハン号でした。当初、駆動部の珍しさとユニークな形状が目を引きましたが、メーカー名等まったく分かりませんでした。フレームに特許番号のようなものが微かに見えたのですが、それ以上のことは分かりませんでした。後日、それがモハン号であることが分かったのでが、残念ながらその自転車の所有者名をメモすることと肝心な写真を撮ることを忘れてしまいました。忘れたというよりも、モハン号であることも知りませんでしたので、軽く考えたのでしょう。以来、いまだにモハン号の現物は見ていません。あの自転車はどうなったのでしょうか。

写真提供:自転車文化センター

2009年3月3日火曜日

ビカートン

 ビカートン(Bickerton)という名前は、恐ろしいピカドンを連想しますが、この自転車は英国正統の流れをくむ折畳式のポータブル自転車です。例のロールスロイスの技術者が設計しました。車体はすべて軽合金で作られ、洒落たデザインの自転車です。先に私はこのブログで、折畳自転車を2台所有していますと書きましたが、実はこのビカートンを入れるのをすっかり忘れていました。ですから、ポーターシルク、ブロンプトンそしてこのビカートンの3台になります。この自転車を手に入れるきっかけとなったのは、昭和50年4月のある日でした。たまたま「サイクリング」(英国の週刊誌)を眺めていたとき、ビカートンの写真と記事が目にとまりました。それ以来、この自転車が気になり、いつまでも頭を離れませんでした。そして、昭和50年11月13日、ビカートンを求めて、羽田を飛び立ちました。当時は、シベリア上空を日本の旅客機は飛べませんでしたので、アンカレッジ経由の長旅となりました。コペンハーゲン、フランスを経由して、ヒースローに到着したのは、日本をたって26時間が過ぎていました。着いた当日は、夕食をホテルでとり、すぐに寝てしまいました。10時間以上寝たと思います。翌朝からビカートンをもとめて街にでました。最初にグレーズ・イン・ロードにあるコンドル自転車店を訪ねました。店内にはこの店のオリジナルのフレームがたくさん天井から下がっていました。他にラレー、イーグルなどの自転車もありましたが、お目当てのビカートンはありませんでした。この日は、その他の店もまわりましたが、結局どこにもありませんでした。翌日は、ケニングトン・ロードのF.W.エバンスを尋ねました。地下鉄を降りキョロキョロしながら探しましたが、すぐにその店は見つかりました。店に入るといきなりビカートンが目に飛び込んできました。私は英語が苦手なので、値引き交渉に手間取りましたが、どうにか商談もまとまり購入することができました。帰りはこの店から、ホテルがあるケンジントンまで、ビカートンでサイクリングを楽しみました。ビカートンに乗ってみてはじめて分かったことは、フレームの硬性がまったくなくたわみが大きいことでした。ペダルを踏むと力が抜けるような感じでした。これは軽合金とヘッ ド小物などにプラスチックを使用しているためです。それに簡便に折畳できるのはよいのですが、これらの脱着装置部分からも力が逃げていくようでした。でもコンパクトに畳めて、持ち運びの便利さを考えればこれらの欠点をカバーすると思い、なんとなく納得しました。

 ビカートンは、英国のハリー・ビカートンが設計したポータブル自転車です。1971年から1991年まで製造されました。ハリー・ビカートンは、ロールスロイスの技術者でもありました。

2009年3月2日月曜日

名取市ダルマ自転車-3

 また名取市サイクルスポーツセンターのダルマ自転車のことですが、この自転車はいままでマスコミに取り上げられたことがあったのでしょうか?と言いますのは、私の記憶では、過去に新聞報道など無かったように思えるからです。ダルマ自転車に関する新聞記事は、殆んどスクラップしているからです。地方紙まではなかなか及びませんが、3大紙(朝日、毎日、読売)の記事はだいたいあると思います。
 これらの新聞スクラップなどを参考に昭和59年に開催された、明治自転車文化展(自転車文化センター)は、全国から13台のダルマ自転車が集合しました。いまでもこのときに発行された小冊子「明治自転車文化展」(昭和59年3月9日自転車文化センター発行)が唯一、全国に現存するダルマ自転車を網羅した資料になっています。実は私も微力ながらこのイベントに協力いたしました。恐らく名取のダルマ車が昭和59年以前に発見され、新聞報道されていれば当然この展示会にも姿を見せたことでしょう。江戸東京博物館にある国友のダルマ自転車が、発見されたのは1988年(昭和63)でしたから、この展示会にはまにあいませんでした。
 ところでこの名取のダルマ自転車はどうような経路で、現在の場所に収まったのでしょうか。製作地が新潟県の新発田ですから、誰がこの自転車を購入したのかも、興味あるところです。いずれにしても、生産地と製作者それに製作年月が分かる明治の国産自転車は他にありません。極めて稀な自転車と言えます。それからこれを製作した者が刀匠であることも重要です。いままでは推定で、鉄砲鍛冶師
や刀鍛冶師ではないかと言われてきました。鉄砲鍛冶の方はすでに国友からでた江戸東京博物館のものがありますが刀鍛冶はこの名取が初めてなのです。刀鍛冶が作ったことをこの自転車は証明しています。
 刀鍛冶師特有の名前の添え名もあります。

明治ニ十五年七月吉日 相携共作之
北越新発田鍛冶町○○村  森川徳四郎兼寿
同沼村             坂井 元 康好

 ここでは、兼寿と康好(この康の字は不鮮明)にあたります。

 有名な日本の名刀の名前を列記しますと、
陸奥守吉行(土佐吉行)、相州五郎入道正宗、菊一文字則宗、備前国長船光忠、長曾祢輿里入道虎徹(古鉄・虎徹・乕鉄)、伊勢千子村正、和泉守藤原兼定、肥後同田貫正国、三日月三条宗近、大般若長光、大典太光世、童子切安綱、日光助眞、津田越前守助廣
などがあります。  

2009年3月1日日曜日

名取市のダルマ自転車

 昨日このブログでダルマ自転車を書きましたが、本日、名取市サイクルスポーツセンターの千葉様から7枚の写真を送っていただきました。千葉様はご親切にもダルマ自転車の細部まで撮ってくれました。これら送られてきた写真を見て驚いたことなのですが、ダルマ自転車の年月日と製作者の名前が書かれた当時の木札が自転車に付けられていたことです。現存するダルマ自転車では、江戸東京博物館にあるものが第一級品と言われています。これは国友鍛冶が製作したことと、製作年月が分かっているからです。ただ残念なことに誰が製作したかは分かりません。ところが、この名取のダルマ自転車には製作者が分かる木札がフレームに取り付けられています。恐らくこの木札も自転車と同時期に書かれたものと思われます。この木札と自転車がセットでたいへん価値を上げています。
 木札も既に100年以上経っていますから日焼けして一部判読が困難になっていますが、次のように書いてあります。判読できない部分は○にしました。

明治ニ十五年七月○○○○○○○
北越新発田鍛冶○○○ ○川○○○○○
○○村           ○○○○好

 以上ですが、あえてこの○の部分を推定して当てはめて見ますと、次のようになるのではないかと思います。

明治ニ十五年七月吉日 相携○作之
北越新発田鍛冶町○○村 森川徳四郎兼寿
同沼村             坂井 元 康好

 それから「北越新発田鍛冶○○○」も注目する点です。
 新潟の三条や新発田は、上杉謙信の時代から刀鍛冶などの職人が多くいた土地柄ですから、国友同様自転車を製作する技術は持っていました。
 何れにしましても、いまのところ製作年代と製作者が分かる国産ダルマ自転車は他にありません。たいへん貴重なダルマ自転車です。まさにこれは最高の一級品でしょう。

写真は、名取市サイクルスポーツセンターの千葉様から提供していただきました。