2021年7月31日土曜日

老舗さんぽ㊻

 老舗さんぽ㊻

昨日、ホイールメンのFacebookを見ていたら下の興味深い写真が目に留まる。
この写真のキャプションに住所があったので、Googleマップとストリートビューで早速イギリスに飛んでみた。

ストリートビューの写真を見ると何處にでもあるような街並みだが、①の写真と比べるとやはり隔世の感がある。

ついでにブライトンにある自転車店もストリートビューで散歩しながら探したら、その一つに聞き覚えのあるエバンズ・サイクル(4 Air St, Brighton BN1 3FB Evans Cycles)にたどり着いた。
ロンドンのF.Wエバンスを思い浮かべる。このブライトンの店も同じチェーン店である。
F.Wエバンスは今年で創業100周年になる老舗だ。私は1975年11月にこの店を訪ねている。

①について、
写真のキャプションに
Penny Farthing Repair Shop in Brighton. The shop was run by J.W. Waldron at 5 Gardner Street Brighton from 1874 to 1903.
Photo: Royal Pavillion and Museums Trust.

とある。
写真をよく見ると、2階にもダルマ自転車が5台ほど見える。
その下に不鮮明だが  Waldrons、SMITH & BICYCLE WORKS と書いてある。
鍛冶屋と自転車製作所とあるが、元は鍛冶屋であったはずである。決して大きな工場とは言えない。仕事の内容は殆どが修理であったに相違ない。
1874年~1903年の間に営業とあるから、約30年近く続いたことになる。

左側に顧客のものかコベントリー・レバー三輪車に似た車も見える。この辺りからこの写真の撮影年もある程度絞れそうである。ジェームズ・スターレー(James Starley)のコベントリー・レバー三輪車は1876年に特許を取得。このタイプ最初の三輪車であった。後継の三輪車に1879年のコベントリー・ロータリー三輪車がある。

この工場の従業員はおそらく3、4人と小規模だろう。2階へは左側の外階段で上がるようで、確かに丈のあるダルマ自転車を2階に上げるには外階段がよさそうである。
建物は狭隘で、やはり修理が専門の作業場といった雰囲気である。
私を含めダルマ自転車のファンにとって、この写真はノスタルジックで本当に素晴らしい。

① Waldrons、SMITH & BICYCLE WORKS
5 Gardner Street Brighton
J.W.ウォルドロンの鍛冶屋と自転車製作所
5ガードナー・ストリート・ブライトン

②現在のようす
全くその面影はない
ガードナー・ストリート
Googleストリートビューより

③裏通り オレンジ・ロウ(Orange Row)
Googleストリートビューより

④グーグルマップより

⑤コベントリー・レバー三輪車 1876年
King of the Road 
(An Illustrated History of Cycling)
1975年 by Andrew Ritchie 105頁

2021年7月30日金曜日

自転車関係資料㉛

 自転車関係資料㉛

昨日の「水陸両用の自轉車」の記事で、写真やイラストもないと、伝えたが本日同じ雑誌の別な号を眺めていたら、下の記事が出てきた。やはり文章だけではよくわからなかったが、この2枚の写真を見れば一目瞭然である。記事の内容は全く同じである。

読者の要望があったかどうか分からないが、編集部も気を利かしてくれたようだ。

下の資料は「科学世界」第6巻第6号、大正2年2月1日発行の水陸両用自動自転車の記事である。


水陸両用自動自転車水上進行の景
とある

水陸両用自動自転車が陸上進行の景

74、75頁

表紙

裏表紙

2021年7月29日木曜日

自転車関係資料㉚

  自転車関係資料㉚

下の資料は「科学世界」第6巻第2号、大正元年10月1日発行の水陸両用自転車の記事である。

●水陸両用の自轉車
米国カリフォルニア州オークランドの一發明家は近頃自ら水上自動自轉車と命名せし一種の新水陸両用自轉車を發明したが、發明家の言に依れば此自轉車は陸上を一時間二十哩、水上を一時間十五哩の速力にて走ると云ふ、自轉車には二個の独木舟型の金属製浮す (各長さ十四尺幅十六吋)が設備せられ、此浮子は各三個の空気の漏れざる室より成るのであって、軽き鋼鉄管の骨を以て車体に連結されてある、陸上を走る時は二個の浮子は互に平衡を保っ様に二っに折畳んで車体の両側に吊されたる儘車輛の力によって動くのであるが、自轉車を水上にて用ひんとする時は、二個の浮子は畳み目より左右に開かれ、簡単なる方法に依って水上に浮ぶ樣に車の台となり車輪は不要となるのである又使用の必要なき時座席の後部に置かるる推進機は車体を動かす為めに水上に下ろされる、推進機は三個の十二寸刄をもっている、浮子の両側には一個づつの楫があって、各楫は車のハンドルによって操縦される、此自轉車の總重量は五十一貫目、其內二十七貫目は浮子、發動機等其他の車体附屬品の重量である、此自轉車の完成あらば偉大なる近世の発明と云うべきである。

この記事には見ての通り写真やイラストはない。参考までに日本自転車史研究会の会報の記事を下に載せる。これらの写真を眺めながらどのような水陸両用自転車であったのか想像して欲しい。

「科学世界」大正元年10月1日発行
105頁

頁全体

表紙

会報”自轉車”№27 1986年5月15日発行
「空とぶ自転車と水上自転車」より

同上

2021年7月28日水曜日

森村翁の旅行譚③

 森村翁の旅行譚③

今回で最終である。

森村翁の旅行譚「ダルマ自転車で東海道を大旅行」の下記の記事について傍証する。

④「アメリカ製のなンとかいう車で銀座のナカジマとかナカムラとかいう店で買ったものだ」

⑤「土地ではみなれない車なんで停まると子供達がわっと寄ってきました。前に一度西洋人が通ったことがあるといっていましたから、はじめて自転車で鈴鹿を越えたというわけではないようですな」

④について調べたが、銀座のナカジマとかナカムラはいまのところ見当たらなかった。
帝国自転車製作所や梶野自転車製造所或いは山崎商店(東京神田橋)あたりが有力と思ったのだが、分からず。梶野はアメリカのゴーマリー&ジェフリー社と取引があったことは分かっている。

⑤については、世界一周した米国人のトーマス・スチィーブンスではと思ったが、年代的に8年の開きがあるので別人かも知れない。それと、その自転車はダルマ自転車だったのか安全型自転車なのかも判然としない。明治25年に来日したフランク・G・レンツの可能性も否定できない。彼の自転車はゴーマリー&ジェフリー社製の安全型のビクター号であった。
東海道を旅行中に彼が休憩なので立ち止まると好奇心旺盛な群衆が集まり取り囲まれた。
鈴鹿峠を通過したかは定かではないが同じような光景であったはずである。先進的なアメリカ製コロンビアのダルマ自転車や安全型のビクター号が通れば驚嘆の目でその自転車を取り囲み観察したのである。特に子供は近づいてきて自転車にも触れたり或いは乗せてもらったかもしれない。

A crowd observes him as he stops on the national highway.
東海道を旅行中、好奇心旺盛な群衆に取り囲まれる
The Lost Cyclist、 by David Herlihy
2011年発行 214~215頁

何れにしても森村開作(七代目森村市左衛門)は、日本の自転車史の明治10年代から大正、昭和の時代までその変遷を実際に体験したし、見てきたのである。


2021年7月27日火曜日

十字号のヘッドマーク

 十字号のヘッドマーク

昨日、知人から十字号のヘッドマークのみが、コレクションアイテムとして、ヤフオクに出品されている、との連絡をいただいた。

この品物の説明等によると、

たいへん希少な三菱十字号自転車 最終4型?シルバークロス号の中古フレームヘッドマーク。古い部品ですから塗装劣化、傷、汚れ 歪などあり。ガレージ観賞用、欠品車両取付用、スペア用等に。

とある。

このヘッドマークには、鳥の画と丸に✖十字、SILVER CROSS  NAGOYA ENGINEERING WORKS  MITSUBISHI が見える。
 
私は初期型は丹念にみてきたが、いまだ4型は見ていないので何とも言えない。或いはマーク製作所が輸出用に作った可能性も否定できない。本物であればそれなりの価値は認めてよいと思う。

初期型にはマークなど全く無く、唯一ハンドル上部にDUJEEと刻印があっただけである。

三菱十字号はプロトタイプから4型まで製造されたとされるが、朝鮮戦争が始まったころから、三菱が本来の重工業へ移行したことにより十字号の生産も中止になった。

いずれにしても三菱十字号は日本の自転車史の一つのエポックといっても過言ではない。
歴史的な名車である。

ヤフオクに出品されたヘッドマーク
情報提供:MTさん

昭和59年頃に入手した三菱十字号Ⅰ型

2021年7月26日月曜日

自転車関係資料㉙

 自転車関係資料㉙

下の写真はイタリア版更生車である。(昭和14年11月22日発行の「寫眞週報」第92號より)

戦時下はどこの国でも軍需優先で、民間ではこのような代用品の車が考案されていた。

日本では国策としてこのような乗り物が奨励され「更生車」と呼ばれていた。特に昭和14年頃の新聞を見ると見出しに「更生車」や「国策タクシー」という記事が散見される。

写真のキャプションに、

イタリーの自動車代用品
イタリーでも國民生活の各方面に準戰時態制が強化されているが、民間自動車の相當數は強制徴用され、又ガソリンは極度に制限された。そこで最近ローマの街に登場してきたのは寫眞の通りのガソリンの要らない自動車、つまり大型のリヤカーと自轉車を一緒にしたような乘物で、六人乗、家族で仲よくペダルを踏み踏み日曜日など郊外へ時局向ドライヴと洒落込めるわけである。

昭和14年11月22日発行 「寫眞週報」第92號
掲載の写真

キャプションを含めた写真
海外通信 13頁

表紙

これは以前ブログで紹介した
「セレベス生まれの更生車に乗る兵隊さんたち」
昭和17年7月8日発行の「寫眞週報」第228号より

2021年7月25日日曜日

明治後期の写真

 明治後期の写真

下の写真は、明治40年6月発行の「東京模範商工品録」中山安太 編、東京模範商工品録編纂所からのもの。

店の概要を抜粋、

東京市芝區本芝二丁目十一番地
エナメル及ペンキ塗 間宮重次郎

君は今を距る三十年前より佛塔、佛具、堂宮の塗方を以て業とし習得する處甚だ多し、後ち業を轉じて人力車を製造して支那方面に輸出し、或は東京機械會社製造車の塗方を担当せり、其の間エナメル塗を我が國に於て創製することの必要を感じ、苦心に苦心を重ね、遂に能く之れを案出せり、今やエナメル塗を業とするもの各所に起れりと雖も、君は實に之れが創製を為せしものにして、我がエナメル塗の元祖たり・・・

・・・日露戰爭に際し砲兵工廠の御用命に接し一千台の軍用自轉車を一ヶ月に塗り上げ引き続き其の方法を同廠員に練習せしめしか如く。將た又た東宮御所御造営に就エナメル塗方一切の御用命を辱ふするの光榮を荷ひしか如き、君のエナメル塗が精巧にして他に抜きんするにあらざるよりは曷んぞ斯の如くなるを得んや、第五回內國勧業博覧会に於て自轉車エナメルに於て二等賞牌を受領せしがり如き豈に偶然ならんや・・・

今まエナメル塗の主なる用途を示せば左(下)の如し
一汽船
一車輛
一諸機械
一建築
一自轉車
一諸看板
一家具
一硝子金看板
一室內装飾用美術和洋画


註、一時は人力車も製造し、中国にも輸出したことや、日露戦争時には軍用自転車を1か月に1000台も塗装したとある。この写真を見ると確かに多数の自転車やそのフレームなどが置かれている、工場内も同様で、所狭しと塗装待ちの自転車のフレームなどが見える。
店前の写真には不鮮明だが塗装工など20人ほど写っている。2階のベランダにも注目。

①工場の前景

②ページ全体 98頁
掲載箇所のコマ番号 106番
国会図書館所蔵資料

2021年7月24日土曜日

今日のオリンピック

 今日のオリンピック

小山町で観戦、一瞬のうちに通過して終わる。

やはりテレビ観戦と違い五感で体験。

小山町役場

トップ集団
先頭はスロベニアの
ヤン・トラトニク(Jan Tratnik)選手

2番目 新城選手 オレンジのフレーム

金メダルのエクアドル、カラパス選手



左、増田選手

新城選手 35位はあっぱれ


自転車 男子ロードレース結果 距離・244km

順位   選手名    国名     タイム  

1位、リシャルド・カラパス エクアドル 6:05:26

2位、ヴォウト・バンアールト ベルギー 6:06:33

3位、タデイ・ポガチャル スロベニア 6:06:33

4位、バウケ・モレマ オランダ 6:06:33

5位、マイケル・ウッズ カナダ 6:06:33

6位、ブランドン・マクナルティ 米国 6:06:33

7位、ダビド・ゴデュ フランス 6:06:33

35位、新城 幸也 日本 6:15:38

84位、増田 成幸 日本 6:25:16


2021年7月23日金曜日

森村翁の旅行譚②

 森村翁の旅行譚②

今回の傍証は森村翁の旅行譚「ダルマ自転車で東海道を大旅行」の下記の記事についてである。

②「明治十四年にはじめて輸入された自転車を父上が買われ、小学生のころから親しんだのが、自転車に乗るようになったきっかけだという、もっともその頃の自転車は三輪車。大きな前輪が二輪、後輪は小さいのが一つで、もちろんチェンはないし、サドルは板の上にふとんをしいたといった風なものであった」

この三輪車についてだが、「明治14年」と「大きな前輪が二輪、後輪は小さいのが一つ」
がどうもキーワードになりそうである。
明治14年といえば、当時の新聞によく出てくる広告が横浜のブラット商会の三輪車①である。
この三輪車はスターレー&サットン社製のメテオ(Meteor)で、価格は書いてないので分からないが相当高額であったはずである。

1884年のメテオが載っているスターレー・サットンのカタログを見ると17~18ポンドとある。当時のレートで日本円に換算するとどのくらいになるか分からないが、現在のスーパーカー以上の値段であったはずである。当然、一般庶民にはまったく無縁な乗り物であるが、森村財閥と言われた、森村組で六代目森村市左衛門あれば安い買い物とは言わないまでも購入できたはずである。

そして前輪が大きな2輪で後輪が小さい1輪となると、メテオのロイヤル・メテオの№1ということのなる。
横から見ると④の挿絵が参考になる。
この画は、絵入東海新聞(明治20年4月21日付け)に掲載された連載小説の挿絵で
「才士佳人 政海之奇観」の第13回である。作者は、東海散士(1853-1922)で、本名は柴 四郎である。主な著作に小説「佳人之奇遇」などがある。
 この挿絵は二代目歌川芳宗(1863-1941)で、当時の新聞や雑誌などに多くの挿絵を描いている。代表的な作品に「江戸栗毛 東海堂大河 作 鈍亭魯文校訂 一松斎芳宗 画」などがある。

横浜のブラット商会の新聞広告

1884年 スターレー・サットンのカタログ

③カタログの表紙

「才士佳人 政海之奇観」の挿絵


次に
「ダルマ自転車で東海道を大旅行」の③「明治二十一年、十六のとき木製の二輪車でけいこをし、」

を調べたが、この一行だけの記事からの傍証は難しい。
あえて言えば、小ぶりの国産の木製ダルマ自転車の可能性が強い。トーマス・スティーブンスが来日した明治19年以降、一時的だが国産の達磨自転車が流行した。国産の達磨自転車であれば小ぶりなので、練習用として最適だったはずである。
あるいはガタクリ車(国産のミショー型)とも考えられるが、ダルマより年代的にみても台数は稀であることを思えば、やはり小ぶりの国産ダルマ自転車としたい。

2021年7月22日木曜日

老舗さんぽ㊺

 老舗さんぽ㊺

昨日、創業100周年を迎えた片野自転車を尋ねた。

実は2017年8月18日発行の地域情報誌「タウンニュース」秦野版に、
片野自転車店、片町で92年 大正14年創業 3代目店主・片野宏美さん
という見出しで紹介されていたことを思い出す。

先日、昭和4年の輪界興信名鑑(東部日本)を眺めていたら、この片野商店の広告が出ていた。

それによると、開業年月のところに大正10年3月とあり、現店主から伺っていた震災後の大正14年ではないことが分かったのである。昨日はその件もあり尋ねたのだが、店主はまだ大正14年が創業であると言っていた。このような資料が出てきたのであるから、私は大手を振って主張したが、最後まで半信半疑の態であった。いずれにしても100年も続いたことは素晴らしいことで、「祝創業100周年」と改めて伝えた次第である。

当時の取扱自転車銘柄は同名鑑によると、
ホーネン號、ニュー豊富號、スルガ號、エスエスケー號、サガミ號、トモエ號、純英国製ラーヂ自転車特約
と車種が多い。

それから、この広告を見ると、支店所在地の欄に、中郡大根村守泉輪店ともあり、支店まであったことが分かる。いずれにしても当時は繁盛していたようで、このような広告もだしていたり、二代目の公平さんの時は自動車やオートバイも販売し、さらに大秦野駅前(現、秦野駅前)に駐輪所も構え経営していた。公平さんは、競輪選手でもあり、以前調査した「競輪10年史」の109頁の選手登録名簿に載ってることを確認している。

現在の店舗
2021年7月21日撮影

「飛騨絵馬」
山桜神社(やまざくらじんじゃ)
岐阜県高山市

輪界興信名鑑. 昭和4年度 東部日本
掲載箇所のコマ番号-121
日本輪界新聞社
国会図書館所蔵資料

競輪十年史 日本自転車振興会
1960年発行

競輪十年史 109頁

登録番号 №2687 片野公平
競輪十年史

片野自転車店前 昭和30年頃 
初代の八郎さんと二代目の公平さん(右)
現在の店主は三代目の宏美さん

片野自転車店に集まった顧客
これからサイクリングだろうか

2021年7月21日水曜日

森村翁の旅行譚①

 森村翁の旅行譚①

先の森村翁の旅行譚「ダルマ自転車で東海道を大旅行」について、少し傍証を加えたいと思う。

まず、
① 「ここに牛車の問屋があったので、車町という町名がつけられた」
とあるが、

これは、東京、高輪牛町(現在の港区高輪)のことで、江戸時代に幕府が各所の普請のために京都四条車町の牛屋木村清兵衛ら人足を呼び寄せて、各普請場に必要な材木や石材などを運搬をさせた。その後、この場所に土地を与え定住させたといわれる。そこから「牛町」とか「車町」と呼ばれるようになったと伝えられている。

下の錦絵は、歌川広重の名所江戸百景の一つ「高輪うしまち」である。
江戸湾を背景に大きな荷車と牛や草鞋の紐をくわえている犬が描かれている。浜に落ちているのは西瓜の食べかすか、空には大きな輪の虹まで描かれている。虹も西瓜の食べかすも、車輪の一部をイメージしたはずである。

この車屋の中には木製の三輪車やガタクリ車を明治の代になり製作した店もあったはずである。明治12年の朝野新聞、「芝公園内旧御成門脇にて貸自転車行うものあり」や大教院山門前の三輪車の写真を思い浮かべる。
それに高輪と言えば例の『ジャパン・パンチ』のラントン車が描かれた場所でもある。
こじつけではないが自転車に縁が深い土地柄と言えそうである。

名所江戸百景「高輪うしまち」
歌川広重 安政4年
国会図書館所蔵資料

東京・芝の大教院山門前 1874年頃
(日本カメラ博物館所蔵)

『ジャパン・パンチ』C・ワーグマン編 、江戸開市
場所は高輪 1869年


次回から以下の記事も順次傍証したい。

②「明治十四年にはじめて輸入された自転車を父上が買われ、小学生のころから親しんだのが、自転車に乗るようになったきっかけだという、もっともその頃の自転車は三輪車。大きな前輪が二輪、後輪は小さいのが一つで、もちろんチェンはないし、サドルは板の上にふとんをしいたといった風なものであった」

③「明治二十一年、十六のとき木製の二輪車でけいこをし、」

④「アメリカ製のなンとかいう車で銀座のナカジマとかナカムラとかいう店で買ったものだ」

⑤「土地ではみなれない車なんで停まると子供達がわっと寄ってきました。前に一度西洋人が通ったことがあるといっていましたから、」


2021年7月20日火曜日

40周年

 日本自転車史研究会創設40周年

早いもので今年の6月にこの研究会が創設40周年を迎えた。

前にも触れたが、この日本自転車史研究会の名付け親は名古屋の三輪研史氏であった。当初は「輪史会」で、その後は一時「小田原輪史会」とした。確かサイクルスポーツ誌の1970年代の何月号かの読者欄の中に「小田原輪史会」の名前があるはずである。

創設時のメンバーは私を含め3名であった。
高橋 勇氏と三輪研史氏を顧問としてスタートしたのである。
今では懐かしい思い出になっている。現在の会員は退会の連絡がないので、まだ50名ほどは居るはずである。50名ほどとはずいぶんいい加減な数字であるが、それでよいと思っている。今でもFacebookやメールなどで繋がりを保っている。

何れ氏名だけでも、把握している全員の名簿をこのブログに載せたいと考えている。

会報の創刊号
1982年1月15日発行
~ 第86号 (1996.1.15)まで

同上 8、9頁

同上 10、11頁

ニュースレター「自転車瓦版」
昭和60年3月20日・1号~昭和62年10月20日・112号まで

自轉車 85年版資料目録
1985年4月1日発行
日本自転車史研究会

左頁 復刻本シリーズ

日本自転車史研究会 創立日、1981年06月01日
ネット公開日、1996年11月10日