2025年7月2日水曜日

自轉車瓦版 №5

 自轉車瓦版 №5

「自轉車瓦版」第5号

昭和60年4月11日発行

☆瓦版の2号で紹介した羽田のある倉庫にあったという木製自転車の件は、その後調べたところ自転車メーカーである新家工業のものということが分った。なんでも20年ぐらい前にそこに勤めていた人が見たとのことである。

☆“錦絵幕末明治の歴史”(NO.5 明治の新政、講談社 昭52.6. 25発行)には、いろいろな錦絵が掲載されているが、その中で「東京高輪風凉図)という画がある。ひげをはやした西洋人風の男が「 一人車」という自転車に乗っている。この自転車はかなり大きく描かれ、 前輪のペダルクランクで走るようすが分かる。しかし、ミショー型とはすこし違った形になっており、フレームの形状にも不自然さがみえる。この本には他に、三輪車などの画がある。

 ☆“横浜鉄橋之図”という五雲亭貞秀画(明治3年)の錦絵に出て来る三輪車は、例の“横浜開港見聞誌”の三輪車と同じもののようだ。 やはり前輪に巻いた組ひもを引っぱっているように見える。作者が同じ五雲亭だから当然かもしれない。貴婦人が乗っているところも同じだ。


「東京高輪風凉図)
豊原国周 明治3年(1870)

「横浜鉄橋之図」
五雲亭貞秀
1870年(明治3年)

2025年7月1日火曜日

スティーブンスの日本旅行記 パート2-13

 スティーブンスの日本旅行記 パート2-13

日本の神話でも解明されていないような他の奇妙な物は、少なくとも3フィート(91センチ)の長さの鼻を持ち、まったく不釣り合いな怪物的な人間の顔である。(註、天狗の顔)

雨の昼下がり、散歩をしていると、大声で暗唱する子供たちでいっぱいな大きな校舎の前を通った。下駄や和傘は、玄関先にある専用の棚にしまってある。大声で叫ぶ陽気さは、生徒が楽しみながら遊びを続けているように思える。野菜や果物を売る女性たちは、まるでノルマンディーの酪農家のように容姿端麗で、おしゃべりしたり、笑顔でお辞儀をしたりして「野菜売りごっこ」をしながら歩きまわる。私が骨董屋の品物を見るために少し立ち止まっている間、その店主は火鉢のそばに座り、煙草を吸いながら丁寧にお辞儀をし、甲冑を着た精悍な姿の武将の鎧を楽しそうに笑いながら指差していた。彼の行動には明らかに、私に何かを売りつけるつもりはまったくない。ただ、この鎧に私の注意を喚起したいだけである。何かを売ろうとしているわけではないが、もし求められれば、間違いなく彼の善良さから商売するであろう。 

2 台の小さな昔ながらの消防車が市庁舎の横に無造作に置かれている。火を消す遊びに飽きて、おもちゃを捨ててしまったように見える。私は海辺まで歩き回り、そこからホテルを見つけようとした。船頭たちは藤の花の防水コートを着てくつろいでいる。彼らは私を自分たちのボートに乗せて目的地まで連れて行きたいように望んでいるが、彼らの態度から見て、それは単なる楽しみのためであることがよくわかる。誰もが笑顔で都会的で、真剣そうに見えない。心配そうな顔も見られず、素晴らしい人たちである。彼らは他のどの国よりも幸せに生きるという感じである。托鉢僧でさえ、貧困を面白がっているようで、人生は単なるユーモアの実験であり、真剣に考えるに値しないものであるかのようだ。

昼には天気も晴れ、強い北風の中、下関に別れを告げた。

道路は瀬戸内海の海岸に沿って数マイル続いており、丘のふもとを曲がりくねって下って行く。


447頁

天狗
小田原市板橋 量覚院秋葉寺
2023年8月12日撮影
サイクリングの途中に寄る


2025年6月30日月曜日

ダンディー・ホース

 ダンディー・ホース

下の図は有名なダンディー・ホースの風刺画。手彩色エッチング。

ダンディ・チャージャーは快調だ、時速10ノットで疾走する。群衆が呆然と笑っている間を通り過ぎる・・・

「この忌々しい船乗りめ、仕立て屋をコケにしたな!」

ダンディ・チャージャーに乗るジャック。

ラドゲート・ヒル、フェアバーン・ブロードウェイにて。


ダンディ・チャージャー 1819年
手彩色エッチング
大英博物館所蔵

註、大きな船乗りの三角帽子をかぶり、剣を携えた海軍士官がダンディー・ホースに乗っている。その後には、紳士が地面に倒れ、片腕で体を支え、房飾りのついた棍棒を持ち、片足を宙に上げている。巻尺から仕立て屋と分かる。

2025年6月29日日曜日

スティーブンスの日本旅行記 パート2-12

 スティーブンスの日本旅行記 パート2-12

小倉からは狭い海峡を挟んで日本本土の下関が見える。これまでは九州を横断してきた。下関は幅数百ヤードの海峡を挟んで本土と隔てられている。

小倉から人力車道はさらに数里進むと大里(だいり)に至り、そこから小道は丘陵地帯とハゼノキ林を横切り、さらに2マイルの門司村まで続く。ここで私は小さな渡し船に乗って下関に渡り、午後2時頃に到着した。

雨天のため下関で24時間過ごした。宿屋の女将はヨーロッパ料理に精通しており、とても美味しいビーフステーキとコーヒーを用意してくれた。下関はヨーロッパの品物とその巧妙な模倣品で溢れている。通りを1時間ほど散歩すれば、日本人が外国の物にどれほど魅了されているかが分かる。ほとんどすべての店が、外国から輸入された商品、あるいはその偽造品を専門に扱っている。輸入品を単にコピーするだけでは満足せず、日本の職人は一般的にオリジナルに何らかの改良を加える。例えば、石油ランプの正確な模倣品を作った後、日本の職人は使用していないときにそれを置くための小さな漆塗りのキャビネットを作る。宿屋でコーヒーを入れるコーヒーポットは、3つの空間を持つ独創的な装置で、明らかにアメリカ人の創意工夫を再現したものである。

近くの小さな丘の頂上には大きな神社があり、本殿まで石段が続いている。階段の入り口、そして斜面を登る途中にも、独特の鳥居、いわゆる「鳥の止まり木」があり、神道の象徴となっている。境内には数多くの社が鎮座している。社は主に木造で、それぞれが祀られている様々な神々の像が納められている。社の前には、金銭を入れるための閂付きの賽銭箱がある。日本の信者は社の前で一分間、頭を下げて両手を合わせ、小さな硬貨を一、二枚賽銭箱に投げ入れ、次に参拝したい社へと向かう。本堂には、数多くの絵画、弓矢、刀、そして明らかに奉納物と思われる様々な品々が飾られている。漁師の運命を司る神社は、巨大な銀紙の魚と無数の三叉の魚槍で特徴づけられている。


445頁

下関へ小舟で渡る

赤間神宮
Googleストリートビュー

「赤間神宮」赤間神宮社務所 1978年発行
国会図書館所蔵資料

2025年6月28日土曜日

ツール・ド・フランス

 ツール・ド・フランス

今年のツールも2025年7月5日から開催される。

誰がマイヨ・ジョーヌを着て走るのか、いまから楽しみである。

下の写真は50年前のツールの場面。当時の役者がそろっている。

メルクスを猛追するテブネ
公式サイトより
以下同じ

左は山岳王のインプ

マイヨ・ジョーヌはテブネに


註、1975年の第62回ツール・ド・フランスは、1975年6月26日から7月22日まで全22ステージで開催された。
優勝は: ベルナール・テブネ(フランス)
彼は、5連覇中のメルクスを破り、見事総合優勝を果たした。

総合優勝: ベルナール・テブネ(プジョー・BP・ミシュラン)
2位: エディ・メルクス(モルテニ・RYC)
3位: ルシアン・ファンインプ(ジタン・カンパニョーロ)

ポイント賞: リック・ファンリンデン
山岳賞: ルシアン・ファンインプ
新人賞: フランチェスコ・モゼール

1975年のツール・ド・フランスは、エディ・メルクスの時代に終止符が打たれ、新しい時代の幕開けを告げる象徴的な大会となった。

2025年6月27日金曜日

スティーブンスの日本旅行記 パート2-11

 スティーブンスの日本旅行記 パート2-11

夕食後には、急須のお茶と火鉢が用意される。

翌朝下関に向けて出発した。松林に覆われた丘陵地帯を数マイル横断すると、小さな河口にある芦屋に着いた。ここ芦屋で、私は初めての日本式の髭剃りを楽しむ。通りすがりのにわか雨を避けながら、村の床屋を利用した。日本の髭剃り師は石鹸を使わず、指を温かいお湯の入ったボウルに浸して顔を濡らすだけで髭を剃る。髭を剃っている間、彼は頻繁に油石でカミソリを研ぐ。彼は顔全体と首を剃り、耳たぶ、額、鼻も忘れずに剃る。もしヨーロッパの旅行者が日本の村の理髪店の椅子に座っている間、冷静さを保っていなければ、顔や首の産毛はすべて剃り落とされ、口ひげや髭はそのままで、眉毛もかなり短くなっていることに気づくだろう。

芦屋から道は小さな運河に沿って若松まで続き、田圃を横断する。何十隻もの石炭運搬船が運河に沿って浮かんでおり、潮の流れだけで進んでいる。潮が変わるまで漂い、その後係留され、再び干満するまで辛抱強く待っている。長年の経験から、彼らは間違いなく、1回、2回、または3回の潮汐を計算し、特定の船着場や村まで運搬船を運ぶ。

若松の通りは活気があり、絵のように美しい光景である。華やかな衣装をまとった田舎の人々で賑わっていた。屋台は、食欲をそそる食べ物、おもちゃ、衣類、提灯、紙製の花、そして想像できるあらゆる日本の品々が並んでいる。人々は珍品を展示することで、小さな群衆を集めている。私がしばらく立ち止まって見ていると、ある老人が小さな色紙のロールを売っていて、水を入れたボウルにそれを入れると、花、船、家、鳥、動物に展開した。

税関の制服を着た若い男性は、英語を少し話せるので、「日本の神様」について説明した。笑顔で、おしゃべりし、お辞儀をし、滑稽な顔をした群衆が、明らかに楽しんでいるのは、何らかの宗教的な祭りなのである。

若松から小倉にかけては、丘陵地帯が広がっている。


444頁

若松駅 大正期
Wikipediaより

2025年6月26日木曜日

ヴェロシペードの本

 ヴェロシペードの本

下の写真は最近メタに投稿されたもの。

当時この本を購入した人物のメモ書きがある。

次のように書いてある。

1869年8月1日
ブリストル駅で購入
自転車と三輪車
しかし、それらを持っていない
コーポラック・モーラー(このように読める?)

投稿者のコメント、
この本をオークションで買った。最初の所有者は、おそらくWHスミスの書店で購入したのであろう。WHスミスのスタンプが押されており、ロンドンの住所である186 The Strandが記されている。

註、WHスミスとは、
1792年、ヘンリー・ウォルトン・スミスと妻のアンナは、ロンドンのリトル・グロブナー・ストリートに小さな新聞配達店「ニュースウォーク」を開業。
しかし、数か月後、ヘンリーは急逝し、アンナが事業を継ぐことになった。彼女はザッカイアス・コーツと共同経営を行い、1812年に彼が亡くなるまでその仕事を続けた。1816年にアンナが亡くなると、H・W・スミスという名前で営業していた新聞販売店と文房具店の事業は、彼女の二人の息子、ヘンリー・エドワードとウィリアム・ヘンリー・スミスに引き継がれた。1828年に会社はW・H・スミスとして知られるようになった。


表紙

メモ書き

1843年頃のブリストル・テンプル・ミーズ駅
ジョン・クック・ボーンの版画

☆ヴェロシペード関連本一覧

①Velocipedes, Bicycles, and Tricycles; how to Make and how to Use Them
 VELOX 1869.  (1982年8月1日に 当研究会で復刻出版)

②The Velocipede: Its History and Practical Hints how to Use it.  
by Experienced velocipedist  1869.

③THE VELOCIPEDE, its past, its present & its future, by J. F. B 1869
 
④THE MODERN VELOCIPEDE; its history and construction, COMPILED
BY A WORKING MECHANIC.

⑤ THE VELOCIPEDE; how to use and how to choose it. 
by Simpkin, Marshall & Co. 1869.

⑥VELOCIPEDES, how to learn with-out a master 1869.

⑦THE VELOCIPEDE, and how to use it, 1868.

⑧THE VELOCIPEDE; its history and how to use it. 1869.

⑨THE VELOCIPEDE; its history varieties and practice, 1869.

⑩THE BICYCLE, its use and action by Charles Spencer, 1870.

⑪LE XÉLOCIPÈDE SE STRUCTURE SES ACCESSOIRES INDISPENSABLES  1868

⑫CADUCÈTRES OU JAMBES-ETRIÈRES BREVETÉES S. G. D. G.
POUR VÉLOCIPÈDESLE  1869

⑬ALMANACH DES VÉLOCIPEDIA ILLUSTRE 1869

当研究会で1982年8月1日に復刻出版