2023年7月30日日曜日

自転車関係資料 - 260

  自転車関係資料 - 260

少年園 第95號 1892年(明治25年)10月3日発行

これも「少年園」の記事、

参考までに明治25年9月22日付けの読売新聞及び明治25年9月20日付けの信濃新聞の記事も下に載せる。

このレンルと云う青年は誰なのか、そのスペルは、現在調査中である。


29頁
国会図書館所蔵資料

自轉車旅行の少年。
米人レンル氏は、二十歳未満の青年なるが、去年一月其本國を自轉車にて出發し、去る三月東京に着し、それより所々を歴遊し、此頃信州上田に到り、引き続き長野松本其他同縣下の名所舊跡を探り、専ら旅行記を編輯する材料の集輯中なりといふ。鳴呼万里の異郷に来りて山河を跋渉し、優悠是等の事を為す、其胆力の勇以て思ふべし。


明治25年9月22日付け読売新聞

1892年(明治25)9月20日付、信濃毎日新聞


〇米国少年の自轉車旅行
米人レンル氏は本年一月其本国を自轉車にて出発し去る三月日本東京に着暫く滞在の上此頃信州內地の旅行を思立ち軽井沢に来遊し一昨々日旧軽井澤より携帯するところの自転車に乗り同日午後三時三十分上田に向け出発し同七時六分上田停車場に到着せり氏の自轉車は米国に於て二百弗內外の價值なる良好なるものなれども追分より小諸迄の道路非常にあしき為車輪に損傷を生じ修繕のため途中三十分間を空過したれば旧軽井沢より上田停車場迄即ち二十七里の里程を都合三時間と六分にて到着したり氏は本年二十歲未満の少年なるが尚此週間中に長野・松本其他本縣各地を旅行し名所舊跡を探り風色山水を尋ね其旅行記を編輯する由又同氏は目下上田松尾館に滞在中なるが聞く所によれば氏の自轉車は平地ならば一時間に十八哩を走るよしにてかって三河の豊橋より岡崎迄十里間を二時間二十分にて達し得たりと云う。

註、関連の当ブログは → こちら
ここでは名前をシレルと読んだ。

2023年7月29日土曜日

自転車関係資料 - 259

 自転車関係資料 - 259

少年園 第99號 1892年(明治25年)12月4日発行

この「少年園」の記事は既にこのブログでもお馴染みの、フランク・レンツ(Frank G. Lenz)及びアレンとサフトレーベン(Thomas Gaskell Allen and William Lewis Sachtleben)の自転車世界一周である。


29頁

30頁


自轉車世界漫遊者。
米國紐育自轉車倶楽部會員レンジ氏は、自轉車にて世界漫遊を思ひ立ち、此程我が東京に来りしが、是より陸路長崎に至り、香港に航し、印度を經て、歐羅巴を巡廻する目的なりといふ。然るに今一層壮快なる報道は、同國人アレン及びサクトベンの両氏は、去秋自轉車にて土京コンスタンチノブルを出発して、中央亞細亞を通過し、近頃支那に達したりとなり両氏が此企は、實に危険なるを以て、之を止めしもの多かりしに、両氏は、物の数ともせず、言語不通不知案内の地に入込み、種々の艱難に打勝ち、其目的を遂げたりといふ。
乗馬と乗車の差はあれども、我が福島少佐の遠征と一対の壮図といふべし。

2023年7月28日金曜日

東野の自転車旅行 - 5

 東野の自転車旅行 - 5

雑誌「今世少年」第1巻第7号 春陽堂 1900年(明治33年)9月5日発行

日本全国 自転車旅行(五)東野学士

自転車旅行(五)の行程、

筑紫潟~不知火。

不知火とは、八代海や有明海で旧暦8月1日前後に現れる蜃気楼の一種である。
風の弱い新月の夜などに、海の上に赤い火がゆらゆら揺れているように見えるのが特徴。
不知火の正体は、まだ解明されていない。地元の人々は、不知火は海底の龍が吐き出す火だとか、亡くなった人の霊が現れたものだなど、様々な伝説がある。

註、この東野の自転車旅行はこの不知火で突然終わっている。九州だけの自転車旅行のようで何となく物足りない。


38、39頁
「今世少年」第1巻第7号
国会図書館所蔵資料
以下同じ

40、41頁

2023年7月27日木曜日

東野の自転車旅行 - 4

 東野の自転車旅行 - 4

雑誌「今世少年」第1巻第6号 春陽堂 1900年(明治33年)8月20日発行

日本全国 自転車旅行(四)東野学士

自転車旅行(四)の行程、

長崎・高野平~お盆の話~大徳寺~精霊流し、など。


30、31頁
雑誌「今世少年」第1巻第6号
国会図書館所蔵資料
以下同じ

32、33頁

34頁

2023年7月26日水曜日

東野の自転車旅行 - 3

 東野の自転車旅行 - 3

雑誌「今世少年」第1巻第4号 春陽堂 1900年(明治33年)7月23日発行

日本全国 自転車旅行(三)東野学士

自転車旅行(三)の行程、

韓国岳などの話~花岡山~龍田村の宮本武蔵の墓~佐賀~鹿島~「スボ」という魚、など。


27頁
雑誌「今世少年」第1巻第4号 
国会図書館所蔵資料
以下同じ

28、29頁

30頁

2023年7月25日火曜日

東野の自転車旅行 - 2

 東野の自転車旅行 - 2

雑誌「今世少年」第1巻第3号 春陽堂 1900年(明治33年)7月5日発行

日本全国 自転車旅行(二)東野学士

自転車旅行(二)の行程、

苗代川の焼物所(薩摩焼)~蒲生城山~広瀬川~湯屋の話~阿久根切通~八代~宇土郡花園村字立園の安徳天皇「御陵未定地」~熊本城~田原坂

29頁
雑誌「今世少年」第1巻第3号
国会図書館所蔵資料
以下同じ

30、31頁

32、33頁

「御陵未定地」
挿絵を拡大
自転車も描かれている
花園陵墓参考地(はなぞのりょうぼさんこうち)

2023年7月24日月曜日

東野の自転車旅行 - 1

東野の自転車旅行 - 1

雑誌「今世少年」第1巻第2号 春陽堂 1900年(明治33年)6月20日発行

28頁に自転車旅行に記事あり。

日本全国 自転車旅行 東野学士

野宿山伏を甘んじて、自転車旅行を始めた。

鹿児島市に着いたのは、本年(1900年)の2月1日であったが無類に暖かい・・・

註、この自転車旅行記は鹿児島から書き始めている。(東野は大阪付近に在住)

29頁の挿絵は老人と石敢當(いしがんとう、いしがんどう、せきかんとう、せっかんとう)は魔よけの石碑や石標のこと。


28.29頁
雑誌「今世少年」
国会図書館所蔵資料
以下同じ

30.31頁

32.33頁

表紙

奥付

2023年7月21日金曜日

自転車関係資料 - 258

 自転車関係資料 - 258

「自転車運動綱要」昭和13年6月15日発行

以下は写真のキャプション

戦場と自転車

燃料いらず、操作簡単な自転車はクリークも幅員1mの小径をも突破できる

自転車体育運動はまた戦場への日常訓練である

写真は上海戦線スナップ

とある。

表紙の一部
国会図書館所蔵資料(以下同じ)

表紙全体

奥付


1938年(昭和13年)と云えばこの年に日中戦争が始まる。
この本の表紙も軍事色が濃厚である。

2023年7月20日木曜日

神竜車

 神竜車

斗南無雙神龍車之圖説 深海 立助 1851年(嘉永4年)刊

斗南無双 神竜車全形真図 

丹波州亀山隠士 国華山人 深海 立助 創意

工匠 太郎兵衛 造之  

自転車とは直接関係ないが、踏車や竜骨車と同様に何らかの形で千里行車、陸舩車及び陸奔舟車に影響を与えたはずである。

この図を見ていると何となくギヤやチェーンホイールそしてチェーンの構造を思い浮かべる。


神竜車之図説
国会図書館所蔵資料

神竜車で麦や米を舂く(つく)、碓(からうす)

農事参考書解題
農商務省農務局 編
博文館
明治24年7月発行
国会図書館所蔵資料


嘉永4年丹波亀山の人深海立助が案造せる水車の図説にして其の効用たる人力を労せずして自在に高所に灌漑し得るにあり・・・


2023年7月19日水曜日

自転車関係資料 - 257

 自転車関係資料 - 257

中サコ商事の商品目録 大正15年発行 全46頁

自転車及び附属品直輸出入卸商

中サコ商事株式会社 神戸市三宮町壱丁目

表紙
日本自転車史研究会所蔵

ピーコック号自転車
The Peacock Cycles

裏表紙

136頁
中サコ商事株式会社 右上段
日本自転車宝鑑 輪界新報社
大正14年7月20日発行
国会図書館所蔵資料

2023年7月18日火曜日

古い絵葉書-34

 古い絵葉書-34

絵葉書、遠州奥山半蔵坊 半蔵坊の入り口 大正後期

この絵葉書に10台以上の自転車が見える。門の右隅にはオート三輪のような乗り物が微かに見える。

私はこの奥山方広寺へは、数回訪れている。当時(1980年頃)は仕事の関係で2年間浜松市内の広沢に住んでいた。いまでは懐かしい思い出となっている。

そのころに利用していた自転車店は、ミソノイ、小栗自転車店など。


絵葉書、遠州奥山半蔵坊

自転車の部分を拡大

現在の奥山半蔵坊
Googleストリートビューより

御園井自転車店
創業は明治38年(1905)頃

御園井で購入したラレーロードスター

2023年7月17日月曜日

梶野関係

 梶野関係

「北朝鮮誌」山田天山、 安藤北洋 著 博通社 大正2年発行

これは梶野関係の資料であるが、文中の梶野徳太郎と云う名前が気になるところである。

梶野徳次郎の名は以前から承知しているがこの徳太郎は初めて聞く名前である。

単なる誤記なのか。確か徳次郎以外の兄弟はいないはずである。

一番下の資料の「東亜商工人名録」ではやはり梶野徳次郎になっている。

149頁
「北朝鮮誌」大正2年
国会図書館所蔵資料


梶野商店、海上より遥かに目することの出来る城津十二の大家屋で本町通りに位置して屋根の上には大なる方向尖を樹て在のが此の店である営業品は朝鮮貿易を主として却々手広くやって居る本店は横浜にあって各官衙の用達並びに自転車の大販売店で本支店通じて確実な商店経営者は梶野徳太郎君にて新進若手の鋒々たるもの覇気亦旺盛なるものである。

東亜商工人名録
商工社
大正3年発行
国会図書館所蔵資料

2023年7月16日日曜日

ドローンの原型

 ドローンの原型

昨日、1865年発行のサイエンティフィック・アメリカン誌でラントーンの記事を見ていたら、次のページに衝撃的な図が目に飛び込んできた。まさにこれはドローンの原型である。荒唐無稽に思われるが既にこの時代にこのようなことを夢見ていた人物がいたのである。

現代のドローンはこの鳥がプロペラに変わっただけである。人類の夢であった空を自由に飛ぶと云う挑戦がいろいろな発想のもとに実現化されたのである。この図を見てそのように感じる。単なる空想として捉えるか、科学として捉えるかの差は大きい。この装置を考案した人物は下の解説を読むと真剣に考えていたことが分かる。戯言として一蹴することは出来ない気がする。それが科学である。

下の図が、「ドローンの原型」

取りあえず名前を付けてみた。

Drone prototype, Scientific American、SEPTEMBER 23, 1865.


195頁の図

図を拡大

195頁



天然飛行機(抄訳)
編集者: あなたは最近、飛行機械をテーマにしたいくつかの記事を発表しており、したがって、人間が空を支配する時代が来ると疑いなく信じ、この問題についての議論を誘うつもりであると推測される。

私は、何年も前に思いついたものの、実験を行う機会を見つけられなかった、一見単純で実行可能に見える計画を提出することにした。 それは人間が地上で既に行ったことを実行すること、つまり人間に与えられた野鳥の力を利用することである。
まず、この目的を達成するために鳥を訓練すること。 翼の強さと飛行の持久力で知られる鳥はたくさんいる。 特に、茶色のワシとアメリカの白鳥は、それ自体を暗示している。 私はそのような鳥を何羽か入手することを計画する(おそらく白鳥が最も罠にかかりやすいが、それは疑問かもしれない。夏の暑さに耐えられるかどうか)。 鳥の体の体重に加えて機体も上げて維持する能力を実験によって確認し、体に巻き付けたジャケットと紐で、人間が立っているのに十分な大きさのバスケットを支えるフレームを取り付ける。 または座って正確に、クロノメーターが全方向に自由に振れるのと同じように、鳥の体の大部分がバスケットよりも低い位置になるようにする。 フレームワークは中空である必要があり、カゴに乗っている人から装置につながるコードの通路を確保するために、最小限の重量で最大の強度を提供する必要がある。
各鳥の背中や翼に取り付けられ、それによって運転手は翼を閉じて降下を促したり、飛行のために翼を開いたりする。 コードの配置は、鳥の頭をどちらかの側に引き寄せることによって、飛行の方向を制御する。
計画のスケッチを提示するが、これは製図者には理解できるだろうし、彼によって改善されれば、説明付きで一般の人々に提示できるかもしれない。
ワシはしばしば爪で子羊や子供を運び去ると云われるので、私は10羽の鳥の使用する図を描き、それぞれが20ポンドを運ぶことができると推定した。 サークルはできるだけ簡単に拡大したり、外側に別の円を追加したりすることもでき、中央のカゴと同様に、各鳥がその円内であらゆる方向にスイングする可能性がある。
ボルチモア、1865年8月30日。

表紙
Scientific American
SEPTEMBER 23, 1865.

194頁
ラントーンの記事

ラントーンの部分を抄訳、
改良されたベロシペード
この発明は、乗客またはライダー自身によって推進される乗り物であり、手と腕によって操作され、レバーと足踏みにより駆動。レバーはクランク付き後部車軸に接続されている。
この車は、昔ながらのベロシペードを完全に置き換えるように設計されている。
それははるかに高い速度を達成し、簡単に制御できる。時速8~12マイルで走ることができる。
この車は、イギリスで最初に発明され、その国で特許を取得。その後、アメリカでも特許を取得している。
各種のサイズとスタイルがあり、素材は錬鉄製で、若者や高齢者のために設計されている。
子供でも適応したサイズのマシンを操作し、補助なしで高速に推進することができる。
イギリスでは人気があり、体のほとんどの筋肉を動かすので、この車の所有者は体育館のミニチュアとも呼んでいる。
1864 年 9 月 13 日、ジョゼフ・グットマン(Joseph Goodman)は、サイエンティフィック・アメリカン特許庁(Scientific American Patent Agency) を通じて米国で特許を取得し、そして、ニューヨークのシー・ピー・ボタン( C. P. Button) に譲渡した。詳細については、ブロードウェイ、192番地の J. R. ポメロイへ。
または、キャナル・ストリートの248 番地でワーキング・モデルを見ることができる。米国での特許製品を販売している。

2023年7月14日金曜日

ポリアーギのカタログ

 ポリアーギのカタログ

これはイタリアのミラノにあった競技用自転車メーカーのカタログ。

年代がどこにも記入されていないが、自転車の構成部品を見ると、1960年代である。

構成部品の例、

ギア: カンパニョーロ・レコード

タイヤ:クレメント

ブレーキ: ユニバーサル

サドル:ユニカ、ブルックス

リム:ニジ

チェーン:レジーナ

ハンドルバー:チネリ

フレーム:コロンバス、レイノルド

リム: フィアンメ 

チェーン:ブランプトン


表紙
日本自転車史研究会所蔵

トラックレーサー


ロードレーサー


タンデムレーサー


ドミフォンレーサー

ポリアーギ(Pogliaghi)は、イタリアのミラノに拠点を置くレーシングバイクのメーカーでであった。1947年にサンテ・ポリアーギ(Sante Pogliaghi)によって設立された。ポリアーギはほとんどの作業を自分自身で行っていたが、1970年代後半には年間300台から800台に増加した生産に対応するために最大6人のスタッフを抱えていた。
パトリック・セルクやエディ・メルクスなどのサイクリストがポリアーギのフレームを使用していた。サンテ・ポリアーギの専門分野は、タンデム、ロード、トラックバイクであった。サンテ・ポリアーギは2000年に亡くなる。ポリアーギは1983年から1984年にかけて自分の名前で自転車を製造する権利を売却または譲渡した。彼の直接的な監督の下で作られたポリアーギとそうでないものとの違いは、シートラグに*PSM*という刻印があり、シートラグまたはヘッドラグに連続したシリアル番号があることである。このシリアル番号の順序は、サンテ・ポリアーギが働いていたおじのブランビラが店を所有していた時代までさかのぼる。ポリアーギは1940年代後半に引き継いだときにシリアル番号の順序を継続した。1983年に工房を閉鎖。PSM刻印とシリアル番号はマークの移転後に消える。