2020年12月31日木曜日
自転車日記①
空中自転車と水上自転車①
当時の自転車専門書として知られる「自転車術」(明治29年)には次のようにある。
近事又水上自転車、或は空中自転車の発明ありと外国新聞に散見したれども、此等は果して成功すべきものなりや否や、甚だ疑はしきものなり。
自転車の形状がある程度確立される時期になると、これをベースに色々な改良や工夫がなされていった。特にミショー型自転車が定着し、その効率よいペダルクランクによる駆動方法は、人々の夢を広げた。
人類永年の夢はなんであったか、それは自由に空を飛ぶこと、海上を歩くように移動することであった。この夢を自転車を使って実現できないか、当時の好奇心旺盛な発明家達は考えたのである。
これから紹介する自転車は、ほんの一例であるにすぎない。他の多くのものは話題にもならず消えていったのである。
・水上自転車
2020年12月30日水曜日
2020年12月29日火曜日
自転車が登場する小説
明治期の自転車が登場する小説などを調べてみた。
有名なところではこの①と②である。
①「自転車日記」夏目漱石
②「自転車」志賀直哉
③「 日清開戦おどけ文庫」 痩々亭骨皮道人著 扶桑堂, 明27.9
④「自転車の傷」野村銀次郎・磯部太郎兵衛 明治28年
⑤「魔風恋風」小杉天外作 春陽堂 明治37年
➅「一顰一笑 新粧之佳人」須藤光暉(南翠外史)著 正文堂、明治20年5月
⑦「異国漫遊 瓜太郎物語」明治27年1月
⑧「女の顔切」江見水蔭・関戸浩園著、 明治28年10月
⑨「自転車お玉」伊原青々園著 金槙堂 明治34年
⑩「中村春吉自転車世界無銭旅行」押川春波編 博文館 明治42年
⑪「教育ポンチ新案絵ばなし」加藤耕書堂、 明治27年
⑫「風流的自転車(松葉)」雑誌”新小説”P.168 明治35年8月
⑬萩原朔太郎の「自転車日記」 ←これは大正期
「自転車」という言葉が一行でも出ている小説などを今後も探索したいと思っている。
2020年12月28日月曜日
老舗さんぽ㉒
昨日の「老舗さんぽ」は、また山北の井山サイクル。
この店の最盛期(昭和30年~50年代)には、山北で3軒の店を構えていたと聞いている。
この日は谷ケにあった(有)マルシン自動車の場所を見に行った。この情報元は、知人の山崎さんで、12月14日のFacebookの私の投稿に際して、「井山サイクルの二代目店主の信次さんは谷峨で・・・」とコメントをいただいた。
現在は井山さんではなく。別の人が経営しているが、店の名称はそのまま引き継がれている。この谷ケ店は、山崎さんの話によると「マルシン自動車は、井山信次さんが自転車店とは別につくった自動車販売修理会社だと思います。谷峨では自転車はやってなかったと思います。」とのこと。
名称のマルシンは信次さんの「信」の字から由来しているようである。昭和54年発行の明細地図をみると、山北店の方もマルシン自動車整備工場になっている、この頃は自転車よリも自動車の販売に力をいれていたことが分かる。谷ケの(有)マルシン自動車の場所は県道76号線沿いの清水橋寄りである。
場所を確認後、清水橋のガソリンスタンドに寄り、休憩。そこでまた新しい情報を得た。ガソリンスタンドの隣の井上さんも一時、自転車店をやっていたとのこと。山崎さんの話では「昭和30年代初めごろから十数年間でしょうか。ご本人は昼間会社勤めをしていて、奥さんが店番という副業でした」という。
その後、谷ケの吊橋を経由して、帰路につく。
2020年12月27日日曜日
老舗さんぽ㉑
先日はまた、開成町の老舗探訪である。
下曽我にあった一石自転車店と延沢の同店との関係、そして松田町惣領にあった本美自転車の調査である。
先ず開成町の本美自転車店を尋ねる。以前、松田町にあった本美自転車店との関係を四代目に当たる店主にお伺いした。おそらくこの店の関係者であったかの確認である。結果、まったく分からないとのことであった。先代の時代であれば、明瞭に判明したと思われるが今となってはやむおえない。
本美自転車店の初代は嘉重(かじゅう)さんで、二代目は繁三さん、そして三代目が嘉一さんである。現在の店主は嘉一さんの奥さんとのことであった。
次に一石自転車店を訪ねる。ちょうど三代目の店主がバイクの前輪の修理をしていて、傍にお客さんもいた。話し中であったが失礼して、下曽我の一石自転車店との関係をお聞きした。すると、親戚の叔父さんとのこと、名前は確か「リョウヘイ」さんと云っていた。メモをとらなかったのであいまいになってしまったが。
一石自転車店は、当時手広く営業をしていて、山北にも店をだしていたし、下曽我にもあったのである。当時は相当繁盛していたに違いない。
現在は主に自転車とオートバイの販売と修理である。前回は気づかなかったが、店の奥にDSK(大東製機株式会社)のオートバイがあるのを見つける。このオートバイはドイツのBMWのコピーで、駆動はシャフトドライブ方式である。1950年代のオートバイで、その筋のマニアであれば垂涎のバイクであろう。当時、シャフトドライブで思い出すのはライラックである。私もそのオートバイを何度も見たし、独特のエンジン音を今でも覚えている。懐かしい時代であった。
2020年12月26日土曜日
新型発表会
先のブログで能沢の自転車を紹介したが、このころは丁度戦後のサイクリングブームが到来していた時期で、国内の自転車製造メーカーの数も多く、国産自転車製造の絶頂期を迎えていた。
1956年11月の「スポーツ用自転車新型発表会、出品明細」日本自転車産業協議会の小冊子をみても明らかである。
完成車メーカーでは、
安全自転車株式会社
新家工業株式会社
千鳥自転車株式会社
大日本機械工業株式会社
株式会社・栄興社
株式会社・城東輪業社
片倉自転車株式会社
株式会社・川登製作所
光風自転車株式会社
株式会社・近藤鉄商会
株式会社・桑原商会
株式会社・丸石商会
丸金自転車工業株式会社
丸都自転車株式会社
松下電器産業株式会社
三馬自転車工業株式会社
株式会社・宮田製作所
水谷輪業株式会社
株式会社・中村自転車工場
株式会社・中山太陽堂
日米富士自転車株式会社
日本スヰフト株式会社
日帝工業株式会社
株式会社・能沢製作所
サンスター自転車株式会社
株式会社・関根自転車工場
株式会社・沢井商会
株式会社・秀工舎サン号自転車工場
合資会社・土屋製作所
ツノダ自転車株式会社
株式会社・山口自転車工場
株式会社・山崎サンビー製作所
ゼブラ自転車株式会社
以上の33社がスポーツ用自転車の新車を発表している。
2020年12月25日金曜日
能澤の自転車
先日、開成町にある老舗の一石自転車店へ行ったときに、店主との話の中で、昭和30年頃に能澤の自転車も扱っていて、よく売れたと言っていた。
確か手持ち資料の中に能澤の小冊子(サイクリング読本)があることを思い出し、本日、探したところ先ほどやっと出てきた、下の資料がそれである。
能澤は宮田や山口などと比べ一流メイカーではなかったが、銘柄のNY号はデザインも良くモダンな感じで、一時人気のあった自転車である。2020年12月24日木曜日
老舗さんぽ⑳
昨日の「老舗さんぽ」は、また小田原市内である。
小田原郵便局前付近にあった太田自転車店のその後と遠藤自転車店(本町)のあった場所、中島自転車の二代目店主についての補足調査などである。まず、本町の遠藤自転車店のあった場所を探索する。この店には過去数回訪れているが、現在は廃業していて、まったくどこだか分からなくなっていた。心当たりの道路を行ったり来たりしていたが、どうしても分からない。そこで、周辺にある古そうなお店で聞いてみることにした。一軒の刃物屋に入ってみる。ちょうど店番の人がいて、教えてくれた。「この道路沿いの南寄りにある床屋さんあたりです」という。また少し戻って確認することにした。確かに床屋さんがあり、念のためにその店を覗き、丁度いた店主に聞いてみる。「ここが前遠藤自転車店です」と親切に教えてくれた。いつごろ廃業し、この店を転売したかは調べていないので分からないが、かれこれ20年前ぐらいと思っている。初代の店主は、アマチュア自転車競技の審判員などをやっていて、何回か平塚競輪場でお会いしている。二代目は、聞くところによると病気になり、店を閉めることになったそうである。
とりあえずその場所が確認できたことで、今日の一つの目的は達成した。
遠藤自転車店の次は、中島自転車店に向かう。その途中、岩瀬自転車店前を通過して、高野古書店を覗いてみる。丁度、店主がいて明細地図をながめていた。声をかけてみる。「自転車が写っている古い風景写真か絵葉書はないでしょうか?」と「あるかもしれないが、すぐには分からない」と言う返事。その他の話の中で、日本自転車史研究会を知っている、以前、横浜の中央図書館で会報「自轉車」をみたことがあると、意外な話の展開でびっくり、「その機関誌を出した人は小田原にいると聞いているが」と、そこまでも知っていて更に驚いた次第である。「私の二人の息子は自転車が好きで、いまでも二番目の息子は自転車関係の仕事をしている」と、ますます興味ある話に進展していった。
そう言えば、どこかで高野さんの息子さんもアマチュア自転車競技をやっていた、と聞いた記憶がある。後で分かったがファイスブックで友達になっている石井さん(2008年の北京パラリンピック、金メダリスト)である。
書棚に並んでいる古書の中に齊藤俊彦先生の「人力車の研究」があり、正面奥には分厚い「横浜成功名誉鑑」復刻本が目にとまる。
高野書店の次は、中島自転車店である。東京オリンピック時に撮影された写真の確認と二代目の名前の確認である。寿町の中島自転車店も少し分かりにくい場所に移転しているので、いつも迷ってしまう。
丁度、店の前で自転車をとめ様子をうかがっていたら、いつもは閉まっているシャッターが半開きになっいて、どなたかがいる気配を感じた。店の中を覗いて声を掛けたら丁度、三代目の店主がいて、さっそく東京オリンピック時の写真確認と二代目の名前を教えていただいた。名前は難しく、口頭の説明では分かりかねたので、メモ用紙に書いてもらった。中島价藏さんで、読めないうえに漢字検索でもなかなか出てこない。いつも使っているIMEパッドの手書き検索でなぞってみる。价藏(よしぞう)价の訓読みは、1.よし 2.おおきい、音読みは、カイ、ケである。意味は、よろう/鎧をつけた人/善いなど、とある。
次は太田自転車店の調査である。先の「老舗さんぽ➅」では、既にこの自転車店は無いと書いた。確かに郵便局前付近にあった店はないが、その後、自動車販売に転換していて、中島自転車店近くにある「ホンダ・カーズ」という店名で受け継がれていた。この店の現在の店長は太田利光さんのお孫さんが就任しているとのことであった。
2020年12月23日水曜日
歴史を大事にしたい
その反面、個々のサイクリストの中に古い物を大事にして保存しようとする人がいること、大きく言えば自転車文化の伝承のために良いことだと痛感します。この方向を今後とも続けばと思っています。
ただ、見る所何か一部に片寄っているような面が見られるのがちょっと気になります。
2020年12月22日火曜日
自轉車研究會設立の必要
長澤雄輪
数年前までは、娯楽品視せられ贅沢品視せられたる自転車も、輓近非常の速度を以て流行の範囲を広めつつありて、その目的は、或はこれを軍事上伝令又は偵察などに応用せんとし、或は馬に仮に代用し、日常の交通機関として之れを利用せんとし、或は体育の具となし、或は日常激務の人は少閑を得て乗輪一蹴、郊外の空気を呼吸して衛生の一助となさんとし、又は遊行に、或い競走に、その他種々の目的に応用せんとす、要するに自転車の効用は、軍事上に、実用上に、体育上に、衛生上に、娯楽上に及び、従って何々会、又は何々倶楽部等の自転車団体も亦少なからず、然れどもこれらの団体なるや多くは清遊的会合をなすか、又は実用的練習の会合をなすか、或は競走会を開くに止り、未だ一の自転車研究会としての団体あるを聞かず、余輩恒に以て憾とす、或人難して日く自転車団体は、多く同好有志の集合より成れるが故に、その職業も亦千差万別にして、研究会員の資格は錯雑なるが故に、研究方法一致せず、極めて不便なるべしと、余輩願うにこの心配は杞憂に属せん、会員の職業千差万別なるは、却つて興味深きものなり、軍人は軍事上研究したる自転車の効用を述べ、科学家は科学上その研究を発表し医師は衛生上その利害を考究し、その他、法律家、商業家、等各々専門的知識により之を解決して、或は学理的に、或は通俗的に、各所見を交換せば斯道の発達上利益少なからざるベしと信ず、尤も自転車に関する雑誌上、これらの事項も屡々散見することあれども、同好の士一堂の中に会し、談笑の知識を交換せば一層妙ならん、但し他の演説討論会と違い、遠乗りを兼ねて少し少しその休憩時間を長くし、その間に是等の事項を加ふること最も可ならんと信ず。
2020年12月21日月曜日
老舗さんぽ⑲
今日は丁度、バイクで店に帰ってきたところで、お会いできた。早速、一石自転車のあった場所をお聞きする。横浜銀行と風月堂の間にあったということで、ほぼその位置は分かる。
星野自転車店を出た後、一石自転車店のあった場所の探査に向かう。いまは空き地になっているところが、多分そうではないかと思ったが確証はない。前の肉屋さんで場所を聞いたが自転車屋があったことすら知らなかった。無理もない年齢が若すぎていた。おそらく八十代以上の年齢であればわかったはずなのだが、やむおえない。
丁度、近くの風月堂の店前に赤い地に団子と書いた幟が立っていたので、風月堂へ向かう。ここの店主も若いので、多分知らないと思ったが、一応声をかけてみた。すると戦前の商店街の地図が確かあると言って探してくれた。しばらくしたらその地図のコピーを持ってきてくれた。その地図が下の写真である。
間違いなく一石自転車店が載っていた。地図には一石自動車となっているが、その後自転車販売から自動車も販売するようになったものと思われる。オートバイや自動車への販売は他の多くの自転車店でも時代の流れで少しずつ転換してきている。
この地図により、間違いなく以前あった一石自転車店の位置が判明したのである。
話は少しそれるが、今季はじめて上曽我の田んぼでケリを8羽確認する。今日のような好日は久しぶりである。富士山もよく見えていた。