2011年4月30日土曜日

万清

 最近、岩波文庫の「一外交官の見た明治維新」(上)アーネスト・サトウを読んでいましたら、次の記事が目にとまりました。

ここでは、数ヶ月の間全然日本食で過ごしたのだが、食事は、われわれの友人である薩摩の人々が繁く通っている、万清という料理屋から三度ずつ運ばせていた。(249頁)

 この万清(マンセイ)という料理屋は、チャールズ・ワーグマンのジャパン・パンチ(オープニング・オブ江戸 1869年)という画にある料理屋です。
 サトウは、このころイギリス公使館が横浜から高輪泉岳寺前に移転しますと、近くの門良院に二等書記官のアルジャーノン・ミットフォードと同居していました。
 サトウは、当時、ワーグマンとも親交がありました。

2011年4月29日金曜日

水上自転車-2

 元の絵は、どうやらこれのようです。
「RIDING HIGH」the story of the bicycle 1956年発行の133ページに載っていました。

水上自転車

 これも水陸両用自転車のようです。(此自転車が陸行に用ゆべきは勿論なり)と書いてありますが、陸上での走行はどうみても非効率です。水上専用車と言ってよいでしょう。
 明治16年(1883)に特許を得たともあります。

2011年4月28日木曜日

水陸両用自転車-2

 これが、「小国民」の元ネタでしょうか。
 1892年(明治25)10月8日発行の「サイエンティフック・アメリカン」誌にありました。
 ソア・J・オルセンが考案した水陸両用自転車です。

水陸両用自転車

 これは、明治27年4月18日発行の「小国民」 第6年8号に載っていた挿絵です。
 水陸両用自転車です。実用のほどは疑わしいですが、その発想は夢があり、楽しいと思います。

2011年4月27日水曜日

周延3枚目の挿絵


 これも周延の挿絵です。
 改進新聞の連載小説「新粧之佳人」の3枚目の挿絵です。この度、松島靖幸氏が見つけてくれました。
 後ろ向きの自転車が描かれていますが、この自転車が安全型なのかダルマ型なのか判然としません。松島氏によりますと、橋本(揚州)周延は実物の自転車を見ていないので、このような簡略化されたものになったのではないかと述べています。私もそのように思料します。
 この挿絵は、明治19年11月23日付けの改進新聞に載っています。

2011年4月26日火曜日

遊輪倶楽部-2

これも遊輪倶楽部の広告です。
たびたび雑誌「運動界」に載せています。明治32年1月5日発行
資料提供:野田克弘氏

2011年4月24日日曜日

遊輪倶楽部



 これも自転車練習所の広告です。
 大日本双輪倶楽部が開設した練習場のようです。場所は、神田駿河台御茶ノ水橋西紅梅町とあります。
 幹事が大日本双輪倶楽部員の篠 佐吉と書いてありますから、遊輪倶楽部の母体は大日本双輪倶楽部ということになります。
 大日本双輪倶楽部は、ニ六新報社長の秋山定輔が中心になり発足した倶楽部で、明治28年に12、13人の有志が集まり組織されました。上野・不忍池で開催された自転車競走会はこの倶楽部が主催しました。明治30年頃には50~60人の会員数を擁する大きな組織になっています。主なメンバーをあげますと、秋山定輔、那珂道世、鶴田勝三、小林作太郎、岩谷松平、小柳津要太、室町公大伯爵、奥平昌恭伯爵などがいました。

この広告は、明治31年12月6日発行の「運動界」に載っていました。

スティーブンスの記事

 これは、雑誌「運動界」明治31年2月5日発行に掲載された、トーマス・スティーブンスの記事です。自転車の利便性や将来性などを論じています。この中で自転車の練習方法も述べていますが、自身のことも次のように書いています。

 「蓋し余は、自転車に乗り始めてより、二時間の後には最早これに馴れ、其後二三月を経て、終に世界一周を企つるに至れり」

資料提供:野田克弘氏

2011年4月23日土曜日

アニーとスターリング

 これはスターリング自転車のポスターです。
 アニー・オークレイ(1860-1926)が、自転車に乗って銃をかまえています。
 アニーロンドンデリー(1870–1947) もスターリングに乗っていましたので、二人のアニーが乗っていたことになります。アニー・オークレイは、年配の方なら一度は映画やテレビドラマで「アニーよ銃をとれ」を見たのではないでしょうか。私も子供の頃、テレビで見た記憶があります。

ビクターのオーディナリー

 これもオーバーマンホイール会社製のビクターです。
 1888年製ですから、先のスプリング・フォーク(ロッキングビーム)の安全型と同じ年に製作されたものです。ハンドルもよく見ると鐙形握りがついています。
 洗練された後期のオーディナリー型自転車です。

2011年4月20日水曜日

1888年製ビクター




 上は、1888年のカタログです。福沢桃介のビクターと同じモデルです。下の写真はコペークオークションに出品されたビクターです。まさに同じモデルです。

福沢のビクター


 これは、福沢桃介とビクターの写真です。「22歳頃ノ桃介」と写真に書入れがあります。背景は写真館の絵で右側に富士山も写っています。ビクターと共に自転車用ファッションで身をかためた得意げな様子が伝わって来ます。このビクターは1888年製のモデルで、サドルの取り付け位置がトップチューブの三分の二ほど後方についています。ハンドルのグリップ(stirrup grip 鐙形握り)にも特徴があります。このタイプのグリップはオーディナリー型でも使われていました。

和田のビクター

 この自転車は明治21年に米国に留学していた和田義睦が持ち帰ったと伝えられるビクター号です。
 安全型のビクター号は、1887年(明治20年)にオバーマン・ホイール株式会社(1885-1900、マサチューセッツ州チコピーフォールス)が製造した自転車で、英国のローバーをベースに独特なスプリング・フォーク(ロッキングビーム)を取り付けた自転車でした。このビクターはおそらく1888年モデルではないかと思います。そうなると明治21年に持ち帰ったという話には信憑性があります。持ち帰るまでもなく、この年代のモデルに相違ないということです。
 福沢桃介も明治22年にビクター号を持ち帰っていますが、これも1888年製のモデルのようです。ただし、和田よりも少し新しいモデルと思います。和田との違いはサドルの取り付け位置やハンドルの形状、タイヤの種類などです。タイヤは和田の方がハードタイヤ(ソリッド)で福沢はクッションタイヤに見えます。これらのタイヤは、それぞれ空気入りタイヤが出回る以前のものです。空気入りタイヤが主流になると、ビクターの特徴であったスプリング・フォークの必要性もそれほど重要ではなくなりました。
 ビクターは当初、オーディナリー型自転車を製造していましたが、1887年にスプリング・フォークの安全型のモデルを開発しました。この時のフレーム構造は十字型(クロスフレーム)でした。

2011年4月18日月曜日

屋内練習場

 この新聞広告は、明治30年12月26日付けの毎日新聞に載っていたものです。
 濱田自転車店については、既にこのブログでも紹介しています。志賀直哉の短編小説「自転車」に出てくるランブラー自転車を扱っていた店です。屋内の自転車練習場まで完備していたところをみますと、かなり大きな施設であったことが伺えます。神田橋には梶野の自転車練習場もありましたが、この時期まで営業していたかどうかは、分かりません。梶野はすでに明治26年から自転車練習場を開設していました。また仁藤商店も近くにありましたから、この界隈は自転車街を形成していたことになります。

一名馬鹿車


 これは明治18年4月23日付けの「日出新聞」の記事です。
 大津市街で流行した貸し自転車ははたしてどのようなタイプであったのでしょうか。
 明治9年頃の貸し自転車は木製のラントン型であると推定しましたが、この年代でのタイプも難しい問題です。ダルマ型はトーマス・スティーブンス来日以降に流行しましたので、ここで一番可能性のあるタイプはミショー型です。ミショー型が日本に入ったのが何時頃なのかはっきりしませんが、恐らく明治10年頃ではないかと思っています。現存するミショー型からもそれは推定できます。具体的な根拠資料はいまのところありませんが、そうのように感じています。
 この新聞では単に自転車(一名馬鹿車)と書いてありますので、三輪車ではないはずです。一名馬鹿車とは、非常に差別的な呼称ですが、それほど乗り手を熱狂させたのでしょう。
 「日出新聞」は明治18年4月に浜岡光哲(1853-1936)により京都で創刊された新聞です。明治30(1897)年7月に「京都日出新聞」と改題されています。

2011年4月16日土曜日

有害無益



 自転車の効用を述べる人もいれば、反面、その有害無益を論ずる人もいました。これはその代表的な意見です。
 論者は、野口勝一で、大衆誌「風俗画報」第168号、明治31年7月10日発行に載りました。
 野口勝一(1848-1905)は、嘉永元年10月の生まれで、自由民権運動家として政界に入り、茨城県会議員を経て、明治25年に衆議院議員(当選3回、自由党)になっています。地方紙である茨城日日新聞の社長でもありました。作詞家の野口雨情は甥にあたります。

2011年4月15日金曜日

絵入東海新聞

 これは「絵入東海新聞」に掲載された挿絵ですが、正確な年月日は未調査です。
 「絵入東海新聞」の創刊は、明治20年4月4日で、明治21年11月1日に「東海日報」と改題されています。いずれにしても明治20年頃の挿絵であることは間違いありません。
 左下に絵師のサインもありますが、不鮮明でよく分かりません。清のような文字にも見え、小林清親とも思われますが、下の字が親には見えません。一体誰でしょうか。
 この三輪車はスターレー&サットン社製のロイヤル・メテオに似ています。恐らく絵師は雑誌か本を見て、この画を描いたのでしょう。
 「 絵入東海新聞」 全2巻(明治20年4月4日~明治21年3月31日・復刻版)は、静岡県明治新聞刊行会により既に出版されています。
 今後確認したいと思います。

別タイプのラキン

 これも2008年のコペークオークションのカタログに載っていたものですが、新聞の広告なのか雑誌の広告なのか、解説がないので分かりません。それに年代も特定できません。それでもラキンの走行計から判断して1887年から数年経った広告ではないかと思われます。前のラキンス走行計はオーディナリーの前輪ハブに取り付けるタイプでしたが、これはサドルに近い場所に取り付けるようです。この図からはどの位置に取り付けるものなのか判然としません。計測する車輪との関係もよく分かりません。今後、この辺の調査をしたいと思っています。

2011年4月14日木曜日

ヴィーダー・サイクロメーター

 これはヴィーダーのサイクロメーターのポスターです。
 1895年、アメリカのカーティス・ハッセー・ヴィーダーは、新しい走行計を考案しました。この走行計はシンプルな構造で、車輪の回転数をケーブルでアナログ走行計に送り、それをマイル数に変換するという方式でした。
 ラキンスの走行計よりも小型で軽量化を図ることができました。

2011年4月13日水曜日

周延の挿絵

 これは、改進新聞の連載小説「新粧之佳人」の挿絵で、明治19年11月21日に掲載されたものです。前日の挿絵は安全型自転車でしたが、この日は、少し違うようです。一見、ミショー型にも見えますが、よく見るとダルマ型のようです。サドルなどが略されていますが、明治19年ということを考えますとダルマ型であると思います。絵師は、左下のサインにもあるとおり橋本(揚州)周延 (はしもと ちかのぶ  1838~1912)です。(資料提供:松島靖幸氏)

ラキンス標準走行計

 これは以前にもこのブログで紹介したラキンスの走行計(1887年)です。2008年のコペークオークションに出品されたものです。
 オーディナリー自転車専用の走行計で前輪のハブに取り付けるタイプです。前輪のサイズによって計測が異なりますので、そのサイズに適合したものをオーダーする必要があります。50インチなら50インチ適用のものです。この写真の走行計は54インチ用です。走行距離は、2,500マイルまで計測が可能です。
 落札相場は、3,000ドル~4,000ドルとありますから、極めてレアなものであることが分かります。(写真は同オークションサイト提供)

貸し自転車-4

 この画は、明治3年頃から明治10年頃までに描かれた各種錦絵に登場する自転車を掲載したものです。二輪車を見ますと、構造的に走行するには実に不自然な形態をしています。手前の二輪車は一見するとミショー型にも見えますが、構造的に無理があります。絵師は何を見て描いたのでしょうか。本当に不可解な構造をしています。三輪車の方は、二人乗りと一人乗りですが、明らかにイギリスのラントン車の影響を感じます。構造的にも走行は可能でしょうが、如何にもその動きは鈍重に思えます。恐らく明治9年の貸し自転車は、このような一人乗りのラントン型三輪車であったと思われます。この程度のものであれば当時の日本の技術でも製作は可能であったはずです。

 「明治奇聞」は、宮武外骨により当時の新聞雑誌などから珍奇な記事を蒐集し、出版されたものです。

2011年4月11日月曜日

貸し自転車-3

 この新聞記事のことは、たびたび述べていますが、少し整理したいと思います。
 記事の内容は次のとおりです。

1876年(明治9) 3月5日 花の都女新聞
下谷広小路の山本と云える水茶屋にて三輪の自転車を貸しますが広小路を一辺乗廻す賃は一銭五厘だと申します

 下谷広小路は、現在の台東区上野3丁目で、いまは上野広小路と呼ばれています。松坂屋から上野公園入口あたりです。このあたりは江戸時代から寛永寺と不忍池を中心に栄えた場所で、料理茶屋、水茶屋、出会茶屋、芝居茶屋などの歓楽街を形成していました。水茶屋はいまでいう喫茶店のようなものです。貸し自転車業までやるほどですから、山本という水茶屋は大きな店を構えていたと思われます。
 なぜ三輪車の自転車なのでしょうか。そして三輪車はどのような形なのでしょうか。この頃は、自転車とは一般的に三輪車のことでした。なぜなら明治10年以前にミショー型自転車は、日本に存在しなかったか、あったとしても横浜居留地に住む外国人が持ち込んでいた程度で、その数は数台だったと思います。しかし、今のところミショー型自転車が横浜に存在したという具体的資料はありません。水茶屋の貸し自転車は三輪車なのです。
 それでは、この三輪車の形はどうなのでしょうか。当時の錦絵に描かれた三輪車を見ますとどれもラントン型です。現在見るような子供用の三輪車のタイプはありませんでした。このような三輪車が現れるのは、明治20年代に入ってからです。ですからここで言う三輪車は国産のラントン型の可能性があります。挿絵がないのが残念です。
 賃料の一銭五厘が、現在の貨幣価値からしてどのくらいなのか分かりませんが、一般庶民大衆を相手の商売ですから、500円以下ではないでしょうか。米の値段から換算しますと、米1表(60キロ)が明治9年ごろですと1円18銭ですから10キロ20銭になります。現在のお米の値段が10キロ4,000円ぐらいですから1銭は200円になります。そうすると300円ぐらいでしょうか。

貸し自転車-2

      ジョルジュ・フェルディナン・ビゴー(1860-1927)の風刺画

 これは皆さんも一度は何処かで見たイラストではないでしょうか。貸し自転車に興じる若者を描いたものです。先の貸し自転車の絵と何となく似たような感じを受けます。これも三輪車やダルマ型自転車に丁稚風の若者が乗っています。明治26年なのに安全型自転車は一台も描かれていません。既にこの時期、高価な安全型自転車は梶野、大倉組などが輸入販売していました。ですが、一般庶民はこのような粗製の国産自転車で遊んでいたのです。この時期、安全型自転車は、一部の富裕層のもので、まだ巷ではほとんど見かけませんでした。
 「小国民」(明治27年5月15日発行)での賃料は、”損金1時間2銭5厘~3銭なり”とありましたが、ここでは1時間2銭となっています。

研究報告書第3号

 このほど財団法人日本自転車普及協会 自転車文化センター(東京都千代田区北の丸公園2-1 科学技術館内)では、自転車文化センター研究報告書第3号を発刊しました。

内容は、
〇シティサイクルの誕生発展と社会文化との関わりの歴史・・・谷田貝一男
女性の利用状況を主眼に置きながら、それに伴う自転車の形態、生産、販売の変化を基に解説。
下記で関連の動画も見ることができます。
http://www.bpaj.or.jp/douga/douga10.htm

〇自転車で安全に楽しく走るために・・・村山五郎
自転車を利用するにあたり、安全かつ快適に走るための心がけなど。

これまでに発行された報告書は、
第1号 (平成17年3月)
「日本で製作・販売された自転車のブランド名に関する調査研究報告」 黎明期から昭和30年代まで ・・・谷田貝一男

第2号 (平成21年3月)
「昭和30年代における女性の自転車乗車率の上昇原因」 ・・・谷田貝一男
「ドライジーネとミショー型小史」 1817年(文化14年)~1870年(明治3年)・・・小林恵三

2011年4月9日土曜日

貸し自転車

 これは雑誌「小国民」明治27年5月15日発行第6年10号にある挿絵です。
 解説文には次のように書いてあります。

 自転車 
 都下の自転車流行熱は、日一日より甚し。大通りより小路小路に至るまで自転車貸を業とするもの多く、生徒も丁稚もおとなも、膝頭あらわにガラガラ然たり。夜間は、小提灯を腰又は背に挟み、更に一層の繁昌を見る。損金1時間2銭5厘~3銭なり。

 この時期、自家用の自転車を所有しているのは一部の富裕層に過ぎませんでした。殆どの一般庶民は、このような貸し自転車を利用して遊びました。三輪車に乗る者は初心者で、慣れてくると二輪車に挑戦しました。この絵の二輪車は一見しますと、ミショー型に見えますが、区分としてはダルマ型になります。前輪のサイズが日本人向けに小さく作られています。もちろん国産車でした。

メテオ三輪車

 この東京横浜毎日新聞に掲載された広告は、横浜のブラット商会のものですが、よく見ますと上のマークが逆さまになっています。当時このようなミスはたびたびあったようです。写真の裏焼きもその一例です。
 このスターレー&サットン社製のメテオ(Meteor)三輪車は、いったい日本で何台売れたのでしょうか、相当高額であったはずです。1884年のメテオが載っているスターレー・サットンのカタログを見ますと17~18ポンドとあります。日本円に換算するとどのくらいになるか分かりませんが、現在のスーパーカー以上の値段であったはずです。一般庶民にはまったく無縁な乗り物でした。

2011年4月8日金曜日

仁藤商店

 この新聞広告は、なかなかよいデザインだと思います。
 仁藤商店(東京市神田区錦町)は、仁藤安二郎が起業した店で、明治28年頃の創業です。自転車業界としては老舗の一つです。初期の頃は、アメリカ製のクリーブランドやウエストフィールドなどの自転車を輸入販売していましたが、この広告を出す頃にはイギリスのハンバーを中心に販売するようになりました。右上のトレードマークはハンバーのものです。
 仁藤商店は、その後の大震災や戦争などの浮き沈みの多い時代を経験しましたが、昭和20年頃までその暖簾を降ろすことはありませんでした。

ミショー自転車150年展

              写真提供:自転車文化センター

 東京の自転車文化センターでは、平成23年4月2日(土)~平成23年7月10日(日)までの間、 ”世界で最初にペダルが付いた「ミショー自転車」誕生150年展 ”を開催しています。

 ちょうどいまから150年前の1861年にフランス人のピエール・ミショーが世界で最初にペダルの付いた自転車を考案しました。この自転車は、たちまち欧米を中心に広がっていきました。この形は、後にスタンダードとなり、彼の名にちなみ「ミショー型自転車」と一般的に呼称されるようになりました。

森田の販売戦略

 この新聞広告は、明治29年11月26日付けの都新聞に掲載されたものです。
森田の社員を現地に派遣して販売強化を計りました。第1回目として、澤田重次郎と山田眞江の2人を関西方面へ向かわせています。ユニークな販売方法と言えます。また、当時としては長距離サイクリングの一つの記録的な事例でもあります。それから自社製自転車の耐久性を試験する目的もあったかと思われます。

資料提供:松島靖幸氏

2011年4月7日木曜日

森田自転車製造所

 森田自転車製造所は、明治20年代の早い時期から自転車製造をはじめた会社です。正確な創業の年月日はいまのところ不明ですが、この新聞広告が最初のものです。他にも新聞広告はあると思いますが、いまのところ未見です。
 その他の資料としては、「自転車術」の巻末にある広告と、明治29年11月26日の都新聞の広告及び明治30年7月24日の時事新報の記事です。この時事新報の記事には、国産自転車、清国へ初輸出として、 森田自転車製造所の名前が出てきます。国産自転車の初輸出は梶野ですが、ここでは森田になっています。梶野は、明治24年に中国へ、明治29年には、ロシア、シンガポールなどへ輸出しています。

2011年4月6日水曜日

上野水茶屋

 この写真は既にこのブログでも紹介済み(2009年4月15日)ですが、あらためてじっくりと見たいと思います。
 撮影場所は、上野の水茶屋で明治25年頃と思われます。撮影者は横浜の弁天通一丁目にあつた玉村写真館の玉村康三郎です。
  このダルマ自転車をよく見ますと、エナメルメッキされたアメリカ製のオーディナリーのようです。おそらくコロンビアのエキスパートモデルではないでしょうか。ハンドルはカウホーン型に見えます。洋装をしている男性は日本人で富裕層に属する人でしょう。左側に座っている女性と比較しますと、わりと小柄な男性であることが分かります。自転車のサイズも42インチから46インチといったところでしょうか。
 撮影年月を明治25年頃としましたが、コロンビア製ということになりますと、もうすこし時代をさかのぼり明治22年頃の可能性も否定できません。トーマス・スティーブンスの影響をまだ色濃く残している年代だと思います。

赤いダルマ自転車

    東京郵便電信局の服務心得の図 逓信総合博物館蔵

 現在でも郵便局で配達に使用する自転車は赤く塗装されています。これはいつ頃から赤色になったのでしょうか。日本で初めて郵便局で自転車が採用されたのは明治25年からです。明治25(1892)年5月に提出された東京郵便電信局の伺案「被服新調費増額之義ニ付稟中」に、「電報配達上自転車試用之件」という記述があります。
 上の図は、東京郵便電信局の服務心得にある図です。この画を見ますとダルマ自転車が赤く塗られています。自転車が郵便局で採用されるようになった明治25年から間もなくして車体を赤く塗装するようになったものと思われます。
 法令で正式に赤色が定められたのは、明治39年9月からです。
「電報配達用自転車設備規程」第6条に、
 一、二等局ニ設備スル自転車ハ構造堅牢ニシテ能ク実用ニ耐ユルモノヲ採択スヘシ
 前項自転車ハ赤色塗トシ別ニ定ムル位置並ニ様式ニ依リ徽章及番号ヲ附スヘシ
とあります。

2011年4月4日月曜日

自転車の効用

 この資料は。明治26年6月発行の「猟の友」猟友社 第2巻21号の記事です。「自転車の効用」と題し、一ノ井顔花(猟夫)という人が書いています。恐らく名前はペンネームでしょう。十文字信介(1852-1908)が、この雑誌にたびたび寄稿していたことは分かっていますが、この記事を誰が書いたかいまのところ不明です。
 内容は、
(自転車の隆盛)
欧米自転車製造所にして千人以上の職工を有するもの数百ある
(通勤と健康)
朝に之に乗して出勤し夕べに之に駕して帰宅の間には身体に日々運動を与えたる
(軍用自転車など)
米国の如きは兵卒用の自転車あり(図を看られよ)消火用自転車あり
(会社等の利用)
其他郵便電信等の如き速達を要する者は皆之を利用せざるはなきに至る我が日本にても電信局、銀行、会社、大商店の如きは近日之を利用するに至るも決して偶然に非るべし
(タイヤの種類)
今や流行安全車輪製に3種の差あり、薄ゴム輪(ソリットタイヤー)、厚ゴム輪(クッションタイヤー)、空気入ゴム輪(ニューマチックタイヤー)にして第一は其ゴム薄きの故を以て其回転中ごつごつするの工合あり其速力随て遅し第二厚ゴム輪の方は回転するに際し円滑なれば其速力自ら早し第三空気入輪なれば砂上も水上も走り得べく是を最上等とすると雖ども途中物に触れ其輪を害損ぜば直に空気洩脱するの恐れあり且つ其修復の如きも未だ本邦に於て出来難しと云へば厚ゴム輪を選ぶ事可とす、ここに英人某横浜ガゼットに投寄せし自転車の記を読むに空気入と厚ゴム輪と京浜間を走試するに後車僅2分時間後るるのみと
(乗車方法)
前輪の踏金(後輪の車軸にあり)左足を掛け両手に梶棒を握り右足以て進行すれば・・・
(自転車稽古場)
本邦東京には錦町に梶野自転車稽古所あり一時間に拾銭を出せば乗法を習ぶ

(括弧の項目は便宜的に私が入れたものです)

 明治26年代の自転車情報としては、かなり早い時期にあたります。これは日本に安全型自転車が輸入されて間もない記事ということになります。

 「猟の友」猟友社発行は、明治24年の創刊です。その後、4年ほどで廃刊になった月刊雑誌です。
編集は、飯島魁(1861-1921)が担当し、十文字信介らが寄稿していました。明治24年に発行された「銃猟新書」は、十文字信介が書いています。

2011年4月2日土曜日

人力飛行

 鳥人間コンテストに出てきそうな人力飛行機です。人類はあらゆる道具を利用して、大空に飛び立つことを考えていました。その一つが自転車の利用でした。
 明治24年4月29日、日本人の二宮忠八は、玉虫型飛行器を発明し、香川県の丸亀練兵場で10メートルの飛行を成功させました。その12年後の明治36年(1903)12月17日に自転車店を営んでいたライト兄弟がライトフライヤー号を完成させ、ノースカロライナ州キティホークで世界初の有人動力飛行を成功させました。ライトフライヤー号には自転車のパーツが多数組み込まれていました。

2011年4月1日金曜日

自転車二ツ

 横浜毎日新聞は、日本で最初の日本語による日刊新聞です。創刊は、明治3年12月8日でした。創刊間もない明治4年8月20日付けの新聞に初めて「自転車」という文字が載りました。

外国商人輸出入 8月19日 両運上所輸入 〇自転車二ツ


とあります。はたして、この自転車はどのようなタイプの自転車だったのでしょうか。三輪車なのか、それともミショー型二輪車なのでしょうか。いまのところまったく分かっていません。あくまでも個人的な推論ですが、私は三輪車ではなかったかと思っています。その理由は、この時期にたくさん描かれている錦絵から判断しました。希望としては、ミショー型であって欲しいと思っておりますが、その可能性は低いように思えます。

横浜毎日新聞の変遷
『横浜毎日新聞』 明治3年12月8日~明治12年11月16日
『東京横浜毎日新聞』 明治12年11月18日~明治19年4月30日
『毎日新聞』 明治19年5月1日~明治39年6月30日

ちなみに現在の毎日新聞は、東京日日新聞がその前身です。

自転車靴

                     明治34年6月発行 雑誌「流行」第19号

 これも「流行」の記事です。草履よりもこちらの方が、現代人から見ると違和感がありません。価格も高めです。

一本紐ホック止め半靴(白ズック)  弐円より
同(白リンネル)             弐円半以上
二ツボタン化粧の半靴(白ズック)  弐円七拾銭
同(白リンネル)             参円より
同(白革製)               四円五拾銭
黒革窓明靴               四円より

と書いてあります。