2022年2月28日月曜日

バックナンバー 126

 バックナンバー 126

ニュースレター(NEWSLETTER)NO.126

2003年11月29日作成 日本自転車史研究会

●最軽量の電動自転車
FujiSankei Business i. 2007/11/28
自転車用ABS(横滑り防止装置)などの研究開発を手掛けるバイク技術研究所(東京都八王子市)は、重さが11・9キログラムと業界最軽量を実現した電動アシスト自転車「YS-11ハイブリッド」を開発し、12月15日から発売する。同社のインターネットショップや自転車販売店などで取り扱い、年間600台の販売を目指す。

  電動自転車の欠点は、バッテリーの問題と重量にある。軽量化ができたことは、一つの関門をクリアーしたことになり、普及につながると思う。

●国会図書館近代デジタルライブラリー
  国会図書館近代デジタルライブラリーで自転車を検索
以下がその検索結果

1. 秋田沿革史大成 / 橋本宗彦著,橋本宗一, 明29,31
2. 如何にして生活すべき乎 / 開拓社編,開拓社, 明33.4
3. 英和応用会話指針 / 島田豊他,博文館, 明30.11
4. 英和日用会話 / 林弘之著,松雲堂, 明39.1
5. 欧洲之風俗 / 西滸答案他,大庭和助, 明20.7 6. 大阪外国貿易調. 明治26,31-43年,大阪府内務部, 明28-44
7. 小川温泉誌 / 伊藤祐賢編,伊藤祐賢, 明37.6
8. 女哲学 / 笹の屋主人著,嵩山房, 明38.10
9. 甲斐繁昌記 / 佐野通正編,甲斐繁昌記編纂所, 明36.6
10. 家庭新話 / 樋口二葉(新六)著,読売新聞社, 明39.9
11. 家庭体操 / 永井道明著,文昌閣, 明44.5
12. 簡易自転車修繕法 / 佐藤喜四郎著,快進社, 明35.5
13. 簡易自転車修繕法 / 佐藤喜四郎著,快進社, 明38.1
14. 学校衛生概論 / 北豊吉著,右文館, 大正9
15. 教育ポンチ新案絵ばなし,加藤耕書堂, 明27.4
16. 京都実業界 / 佐藤純吉他,博信社, 明45.5
17. 京都府税務提要 / 中西勝太郎編,中西勝太郎, 明44.10
18. 警察要務. 下巻,警視庁第一部, 明32.6
19. 警察要務目録. 明27年度,警視庁第二部, 明28.2
20. 県民必須諸願届式大全 / 斎藤義利編,杉本平七, 明21.12
21. 神戸市統計書. 大正元-4,6,7・8,9年 第1-9編,第16回 第1-9編,第17回 第1,2,5,7-9編 / 神戸市編,神戸市, 大正3-15
22. 神戸市要鑑,神戸市要鑑編纂事務所, 明42.5
23. 公用文式 / 巻菱潭編・書,温故堂, 明8.2
24. 国民必読法律の友 / 弘松操著他,榎本書店, 明42.1
25. 滑稽笑話 / 大笑子著,文陽堂, 明40.1
26. 娯楽倶楽部,民友社, 明28.8. - (社会叢書 ; 第3巻)
27. 最新実業界の成功者 / 鈴木貞次郎編,精華堂, 明41.10
28. 最新柳井町市街図 / 富士秀太郎編,富士秀太郎, 明44.4
29. 小波洋行土産 / 巌谷小波著,博文館, 明36.5
30. 滋賀県法規類纂 / 小松栄他,帝国地方行政学会, 明42.3
31. 志士の恋 / 中村兵衛著,大学館, 明41.2
32. 主要工場就業規則集 / 協調会編,協調会, 大正14
33. 春夏秋冬興味の旅行 / 谷口政徳著,盛林堂, 明治35
34. 小学新作文 / 磯野秋渚著,生成舎, 明37.1
35. 商業作文資料 / 鎌内庄太郎著,教育書房, 明35.9
36. 少年会話 / 星野久成著,東華堂, 明43.1
37. 少年教育遊戯 / 嚶々亭主人著,求光閣, 明28.2
38. 新案英和会話六十日間速成 / 林弘之著,松雲堂, 明32.9
39. 新看護婦 / 河越輝子著,大学館, 明41.12
40. 新式自転車独修 / 岩田可盛訳,叢書閣, 明33.3. - (遊戯叢書 ; 第1)
41. 新事業発見法 / 岩崎徂堂著,大学館, 明36.6
42. 新撰実用英語会話 / エッチ・エ-・コックス他,内外出版協会, 明38.11
43. 新題詠歌捷径 / 下田歌子著,三省堂, 明34.10
44. 新聞記者之十年間 / 平田久著,民友社, 明35.7
45. 実用英語対話 / 斯波貞吉著,言文社, 明36.4
46. 実用静岡県財務全書 / 水野富三郎編,水野富三郎, 明36.10
47. 自転車お玉. 前,中編 / 伊原青々園(敏郎)著,金槙堂, 明34.1
48. 自転車術 / 渡辺修二郎著,少年園, 明29.2
49. 自転車乗用速成術 / 村松武一郎著,内外商事週報社, 明32.4
50. 自転車全書 / 松居松葉(真玄)著,内外出版社, 明35.7
51. 自転車の傷 / 浪廼家著,野村銀次郎〔ほか〕, 明28.12
52. 重要輸入品要覧,農商務省商務局, 明42
53. 吹風琴独習 / 津田峰子編,修学堂, 明42.5. - (音楽独習全書)
54. 吹風琴独習 / 津田峰子編,久保田書店〔ほか〕, 明44.5. - (音楽独習全書)
55. 西班牙語独修 / 岡崎屋書店編,岡崎屋, 明40.8
56. 西洋一笑一話 / 和田卍子編,文会堂, 明43.12
57. 西洋風俗記 / 西滸著他,駸々堂, 明20.5
58. 西洋風俗記 / 西滸著他,駸々堂, 明20.5
59. 世界百珍. 人間の巻 上巻 / 有文館出版部編,高田有文館, 明45.6
60. 仙台開設三百年記念祭誌 / 友部伸吉他,仙台開設三百年記念祭事務所, 明32.12
61. 仙台市案内 / 大内励三著,大内励三, 明44.10
62. 体育運動衛生 / 吉田章信著,右文館, 大正11
63. 体育運動概論 / 北豊吉著,右文館, 大正11
64. 通俗教育講演資料 / 通俗教育研究会編,明誠館, 明44.8
65. 鉄道貨物運輸要鑑 / 小野泰司編,鉄道貨物運輸要鑑発行所, 明37.9
66. 東京一覧 / 井上道甫編,須原屋茂兵衛, 明8.2
67. 東京市統計図表 / 東京市編,東京市, 大正3
68. 独逸会話教科書 / 辻高衡他,独逸語学雑誌社, 明32.8
69. 独逸会話教科書 / 辻高衡他. - 5版,独逸語学雑誌社, 明43.12
70. 独逸野外要務令訳解 / 東条英教訳,兵事雑誌社, 明41-42
71. 道楽百種 / 凌翠漫士著,黎光堂, 明36.9
72. 中村春吉自転車世界無銭旅行 / 押川春浪編,博文館, 明42.8
73. 長野県布達月報. 明治8年4月,明治16年5月-17年8月 / 城殿賢編,西沢喜太郎, 明16-17
74. 名古屋便覧 / 長江〓太郎編,柳城社, 明42.8
75. 饒津神社三百年祭典記録 / 林保登(静処)編,饒津神社社務所, 明43.11
76. 二十世紀新落語 / 雷笑子著,松陽堂〔ほか〕, 明38.3
77. 日清英語学教科書 / 川田鉄弥著,川田鉄弥, 明40.9
78. 日文教程 / 成城学校編,成城学校, 明36.2
79. 日清開戦おどけ文庫 / 痩々亭骨皮道人著,扶桑堂, 明27.9
80. ハモニカ独習 / 野田山人著,立川文明堂, 明43.6. - (音曲全書 ; 第2編)
81. 福井商工人名録 / 斎藤真一郎編,福井商業会議所, 明44.7
82. 複式英語会話 / A・W・メドレ-他,博文館, 明45.2
83. フ-トボ-ルと自転車 / 三井末彦著,博文館, 明33.12. - (内外遊戯全書 ; 第15編)
84. 不老長生之秘訣 / 平田久著,平田久, 明45.1
85. 米国の家庭及社会 / 森次太郎著,金港堂, 明41.1
86. 法規顧問 / 警察講法会編,警察講法会, 明43.8
87. 保護政策調査資料. 第1,2集,東京商業会議所, 明37序
88. みしん裁縫ひとりまなび / 秦利舞子著,シンガ-ミシン裁縫女学院実業部, 明42.7
89. 名士の嗜好 / 中央新聞社編,文武堂, 明33.3
90. 名士の片影 / 毛内牛空著,文成社, 明45.5
91. 明治事物起原 / 石井研堂著,橋南堂, 明41.1
92. 明治聖徳録 / 帝国弘道館編,帝国弘道館, 明45-大1
93. 落語大全 / 山谷鶯鳴編,博多成象堂, 明44.12

陸船車 で検索
1. 新潟逓信管理局管内航通運輸ニ関スル報告. 第1回(43年),逓信省, 明45.6

自行車 で検索
1. 百工器械新書. 巻之1,2 / 宮崎柳条編,清風閣, 明7.11

●ニュースレターの再開
 約4年間中断していたニュースレターを再開します。


2022年2月27日日曜日

自転車関連資料-87

 自転車関連資料-87

この資料は、雑誌「サイクル」1953年8月号である。

日本で發行された自転車雑誌の記事があったので紹介する。

日本で發行された自転車雑誌

◇…自転車が輸入されると共に、自転車の雑誌が発行されるようになった。これ等の雑誌は昭和の始めには殆ど姿を見なくなり、新聞が発行される様になった。

日本にも沢山来ている英国の週間雑誌、「サイクリング」が発刊五十年、又アメリカで発行されている「アメリカンサイクリスト」が七十五年の歴史を持つて居ると云うが、日本の自転車雑誌も、発行以来のものが続いて居れば、六十年位の歴史を持つ事になるが、昭和の始め頃には殆んど雑誌は姿を消し、新聞に代る時代となった。

◇…日本で始めて発行されたのは、「輪友」でこれは双輪商会の吉田真太郎氏が自ら編集して、第一号が明治三十一年の一月に発行されている。次で「自転車雑誌」と云うのが発行された。これは東宮和歌丸氏の主宰するもので、東宮氏と云うのは石川商会のかくれた資本家であった。

◇…「双輪」は愛輪家の趣味の言及が目的で、業者の宣伝機関で無く、従ってその記事もそれに従って編集してある。当時文筆の大家であった、矢野龍渓氏が相談役となり、速記者を頼んで、当時の愛輪家、後藤新平、広沢金次郎伯、佐々木文一博士、那珂通世博士、松本幸四郎、市川左団次、常陸山、大刀山等を訪問して毎号その感想を載せ、読者の感興をそそったものである。

◇…この「輪友」は双輪商会が大阪へ支店を出すようになってから、発行が大阪に移り、小田垣哲次郎氏が引き受け、「大阪輪友雑誌」と称して居たが、小田垣氏の没後、有田氏が継承したものである。

又「自転車雑誌」の方は東宮氏の後を、佐藤半山氏が引き継ぎ、又双輪の編集を手伝って居た、清水 卓氏は、明治三十四年に独立して、「輪業世界」を出した。

◇…名古屋に、子安と云う人の発行した「愛輪時報」というのがあり。又、奥田喜明氏が「名古屋輪界」を発行した。奥田氏は現在八十余才の高齢であるが、「名古屋輪界」は新聞型にはなったが、今日でも続いて居る。金沢では牧野と云う人が「愛輸」を発行し又東京で井野氏が「輪界」を発行していたが、之等の雑誌は、いずれも主宰者の死亡、戦時言論統制によつて、いずれも姿を没するに至った事は淋しい。

註、参考までに以前調査した明治期発行の自転車雑誌一覧を載せる。日本で最初に発行された雑誌は「輪友」ではなく、倶楽部誌の日本輪友会発行「自転車」であった。

明治期発行の自転車雑誌  

 雑誌名   発行所    発行年

1、自転車  日本輪友会  明治26年~5号で廃刊

2、自転車  快進社    明治35年8月~大正?

3、輪友   輪友社    明治34年10月~大正?

4、輪界   輪界雑誌社  明治41年9月~明治45年?

5、猟輪雑誌 大阪、猟輪倶楽部 明治35年9月~明治35年12月

6、三友雑誌 自転車銃猟写真の友 明治36年1月~明治40年?

7、関西自転車 大阪 創刊年月日など不明

8、自転車世界 大阪、自転車世界社 明治35年10月~明治35年12月

9、愛輪時報  名古屋  創刊年月日など不明

10、清輪  清輪時報社  明治38年~?

11、信越輪界 信越輪界 明治43年?

12、自転車  日本輪友会 明治27年2月~5号まで発行

13、愛輪  金沢愛輪クラブ  明治36年10月~?

14、周防愛輪月報  周防愛輪同志会  明治37年6月~?

15、日米タイムス  日米商店  明治42年6月~?

  それにしても明治時代に既にこれだけの自転車専門雑誌が発行されていたとは驚きである。

「サイクル」1953年8月号 20頁

同上 21頁

「サイクル」1953年8月号 目次
資料提供:渋谷良二氏

2022年2月26日土曜日

自転車資料関係-86

 自転車資料関係-86

この資料は、雑誌「サイクル」1953年7月号である。

丸石の山口佐助氏と宮田の大場惣太郎氏の対談の中で梶野仁之助について触れているので紹介する。

「輪界今昔清談」の梶野の部分

パンク直し一円五十銭

大場 横浜で梶野(仁太郎)が、自轉車を作り始たのが二十二、三年でしょう。その前宮田は木挽町で鉄砲を作っていたが、明治二十三年に本所の工場で、外国の自轉車の修理を頼まれた。それを真似して作ったのが宮田の自転車の始まりです。製作には相当苦労したらしい。何から何まで全部自分の所で作るんだから。

山口 ああそうか。僕は梶野と宮田とゴチャにしていたどうして神奈川のことを記憶していたかと云えば、それにはこんな話があるんだ。その僕の所へ見本に入した自轉車なんだが、「こんなもの売れるのか」と思いながらも、売るんだから自分で乗れなくては困る。そこで毎日乗る練習をしたんだ。

大場 神戸でね。

山口 そう、そうして乗っている中にスーと空気が抜けちまった。これは大変だ「山口は大事な自轉車を壊しちゃった」と云われた。早速神奈川へ持って行って直して来いと言はれた。そこではるばる汽車に乗せて神戸から神奈川までパンクした自轉車を持っていった。(笑声)それが神奈川の 梶野だ。 その梶野へ持って行ったら「直ぐにはなおらぬから二、三日置いて行け」ということだ。「修繕料はいくらか」と云うと「一円五十銭だ」という。それで三日ばかり宿屋で泊って一円五十銭持って行って自轉車をもらって来た。

大場 明治三十一年頃ですか。

山口 そうかな?、何しろ人を馬鹿にしている話さ。しかしその頃自轉車を買った人は、床の間に飾って置いた程だからね。


以下は24頁の別枠で囲まれた部分、

梶野仁太郎氏

 山口佐助氏と大場惣太郎氏との対談に登場する、当時日本でも唯一の自轉車修理の出来る梶野氏は、其頃神奈川に居た。氏は早く米国に渡って、自轉車工場を観て、自轉車の製作を日本でやりたいと云う希望があった。

 しかし何分米国の工業と日本のそれとは、規模が非常に異うところから、到底米国の自轉車製造は日本ではやれないと、諦めて帰り、当時誰にも出来ないと云われて居た、自轉車の修理をやった。

 山口氏もパンク一つを神戸から、ワザワザ梶野氏のところへ持って来て、修繕して貰ったと云うから今から考えればウソの様な話である。

 其後横浜高島町に移って、スチールボールを製造し、相当よい物を造って居たと云う事である。

 昭和十七、八年横浜の空襲前迄は確かに健在であって、会った人もあるが、戦後その消息を知る人はない。若し現在健在とすれば既に九十何才かになって居る筈で、我国輪界草々期の忘れられない人である。

 梶野氏の弟子で泥除などを作った人、その又孫弟子に当る人など現存して居る筈である。

註、それにしても梶野仁之助を梶野仁太郎とはどこでどう間違えたのか、「横浜成功名誉鑑」では梶野甚之助と誤っていたが、どうもこの対談のように年寄りの話は当てにならない。年寄りに限らず昔の記憶は誰でも曖昧になる。それとも編集部のミスなのか。一度このように活字になるとそれが歴史になる恐れもある。

尚、この中でスチールボールのことも触れている。梶野が鋼球を製造したのは1907 年(明治 40年)で、東京勧業博覧会(1907年に上野公園で開催)にも出品している。


☆梶野仁之助伝(改訂版、2022年2月25日更新) → こちら 


雑誌「サイクル」1953年7月号 22頁
資料提供:渋谷良二氏

23頁

24頁

目次

2022年2月25日金曜日

老舗さんぽ-54

 老舗さんぽ-54

先日、何気なくTVを見ていたら、NHK総合で「ゾノヒデ自転車しこく旅」を放送していた。

テレビは普段からあまり見ないが、偶々映像が流れていたのである。

その映像のなかで、大洲市(おおずし)の酒屋「酒乃さわだ 小倉邸」でのシーンの時に古風な店と共にショーウインドーに自転車オートバイが飾ってあるのが目に留まった。ゲストとこの店の人の会話は全く耳に入らなかったが、その自転車オートバイに釘付けとなった。

そこで、いつものようにGoogleストリートビューによる「老舗さんぽ」になる。

この界隈は小倉邸を含め古風な街並みが続く。店のHPには次のようにある。

「ふるくて新しい」をコンセプトにおよそ100年前の古民家を改装し、どこか故郷のように懐かしい、それでいてモダンな雰囲気のお店を目指しました。

この「酒乃さわだ 小倉邸」では、ワインの量り売りをメインに、ワインのボトル販売のほか日本酒やジュースの販売をしています。

とある。

目に焼き付けた自転車オートバイは何かと言えば、スズキが1953年に発売した2サイクル60cc2段ギア付きダイヤモンドフリー号であった。

「酒乃さわだ 小倉邸」
Googleストリートビューより

同上の店内に自転車オートバイが
微かに前輪の部分が見える

ダイヤモンドフリー号

2022年2月24日木曜日

自転車関係資料-85

  自転車関係資料-85

この資料は雑誌「ニューサイクリング」1969年10月号である。

この号の記事の中に名工(自転車フレーム製作)と云われている梶原氏の投稿記事があったので以下に紹介する。

美しいロードレーサーフレームへの追及(一部抜粋)
梶原利夫
自転車の持つ美しさの秘密
ヨーロッパには名車といわれるものがある。私が自転車に興味を持ち始めて以来実際にそのいくつかを見て、多くの秘密を知り、次第に名車の工芸品としての作品の深みや、それを支える考え方や、土性骨のようなものに興味を持ちはじめ、次第にそれにとらえられたような気がする。そしてこれらの作品から得た知識を素に作り上げたのが、此処に紹介する自転車だが、とくに私がもっとも関心の深いフレームは約一年余りの歳月を掛け、構想を練り、作り上げた。
その点で以下の写真や資料から、工芸品としての風貌なり、パーソナリティなどを感じ取って戴ければ幸いである。
欧州の名車と言われるフレームは、まず堅実で、地味でオーソドックスで有り、洗練とキメ細さを私達に物語ってくれる。
或る作品では隅々まで細かい計算と神経が行き届いており、或る作品はふくよかな円みや軽やかな幼想に含んでおり、又或る作品は使いこなしたサドルの様な、古風で柔軟な感触さえ感じさせるのである。それはこれらのフレームのラグが、あたかも本物の貝殻の如く薄くて奇麗である。そして例外なくと言って良い程「ねじれた平行四辺形」であるか「ゆがんだ壔面」である。即ち「ハイボリック・パラボロイド(HP)」である。必ず2方向に曲線を持った「馬の鞍形」が基調となっている。(第1図)そして或る部分に於いてはその原形を殆ど感じさせない程消化され変装され、巧みに組合わされているのである。これがフレームに於いて造形美を遺憾なく発揮するのである。

以下は資料提供してくれた渋谷氏のコメント(Facebookより)、
NC誌を読み始めた頃60年代後半が懐かしい。昨日69年10月号は印象深い記事が多い。その中で梶原利夫氏「美しいロードレーサーフレーム」の記事は書いてある文は理解しにくいけど5枚の写真にくぎ付けになった。この記事後当時26歳の梶原氏は選手や好事家の間で名人と言われるようになった。
 またミヤタの沼勉氏も梶原氏を訪ねレーシングチームのマシンの製作を依頼した。その後コガミヤタチームのフレーム製作してピーター・ビネン(Peter Winnen) が81年ツール新人賞を獲得した。美しさだけでなく実戦での成果を示した。

下の2枚の写真はミヤタレーシング・チームのキャプテンでもあった森 幸春選手が1980年代に使用したミヤタ・ロードレーサーで、フレームを製作したのは梶原利夫氏。

表紙
資料提供:渋谷良二氏

30頁

31頁

32頁

33頁

森 幸春選手の使用したロードレーサー
写真提供:渋谷良二氏

同上

2022年2月23日水曜日

バックナンバー 125

 バックナンバー 125

ニュースレター(NEWSLETTER)NO.125

2003年7月11日作成 日本自転車史研究会

●日本人が自転車発明?
産業考古学会総会で、 梶原利夫氏が「1728 ~ 1732年のわが国における自転車の発明」と題し発表。
要旨は下記の毎日新聞の記事を参照。

自転車に初めて乗ったのは日本人だった?――。1861年にフランス人のミショーが発明したとされるペダル式自転車が、それより129年早い享保17(1732)年に日本で誕生していたことを示す史料を、東京の研究家が分析し、模型を復元した。当時の日本の技術水準の高さを示すものと注目される。  彦根藩士、平石久平次時光(ひらいしくへいじときみつ)(1696~1771年)の「新製陸舟奔車之記」(滋賀県彦根市立図書館所蔵)という文書で、元自転車メーカー技術顧問の梶原利夫さん(60)=東京都北区=が、同文書と添付されていた設計図を分析した。

 文書によると、武州児玉郡(現埼玉県本庄市)で農民が作った「陸船車」と呼ばれる乗り物が江戸で評判となった。坂道も上れる車だったという。江戸屋敷詰めだった彦根藩士が、天文学などで業績を上げていた平石久平次にそれを報告。「陸船車」の動力システムは不明だったため久平次は独自に設計し、享保17年に「新製陸舟車」として完成したとされる。

 「新製陸舟車」は、木枠の舟形で前輪1個、後輪2個の三輪車型。動力は、フライホイール状の円板に、クランクシャフト状の鉄棒を組み込み、ペダル(げた)をこいで進む。文書には「一時に七里(時速約14キロ)走り候」とある。

 この史料は、約20年前に中日本自動車短期大学の教授だった大須賀和美さん(故人)が「自動車前史」として発表したが注目されず、今回梶原さんが自転車としての視点から改めて分析した。

 梶原さんは「1730年代にペダル機構の自転車が日本に存在していたことで、自転車史が塗り替わる」と話している。

 梶原さんは、所属する産業考古学会理事長の川上顕治郎・多摩美術大学教授(生産デザイン)に依頼し「新製陸舟車」の5分の1(全長30センチ)の模型を復元させた。

 川上教授は「『新製陸舟車』のペダル機構はまさに自転車そのもの。安定性から三輪にしたのは当然と思われる。しかし整地が少ない当時の道路事情もあって、普及しなかったのではないか」と話している。【木村知勇】

 自転車博物館(大阪府堺市)の中村博司学芸員の話
 自転車といえば二輪だが三輪は自転車の元祖といえるもの。ペダル機構での人力三輪車は世界的にも1800年代に登場したもの。1700年代に日本でそのような乗り物が誕生していたとすれば驚きだ。日本の技術水準の高さの証明にもなる。[毎日新聞7月5日]

●河口湖でモールトン・ミーティング
10月25日~26日の2日間、山梨県の河口湖で、モールトン・ミーティングが開催される。

●中国映画の中の自転車
( Shirai,Keisuke ) 白井 啓介 「モダンは自転車に乗って」、
中国映画の中の自転車
( Cycling in the Modern Mood : Bicycles in Chinese Movies )

2022年2月22日火曜日

自転車関係資料-84

 自転車関係資料-84

この資料は月刊雑誌の「サイクル」1958年7月号の裏表紙ある三光舎の広告。

東京で1958年に開催された第3回アジア競技大会の自転車ロードレースの写真と思われるが、広告用なので他の大会の写真かも知れない。

なお、第3回アジア競技大会のもようは、このブログの自転車関係資料-77を参照。

第3回アジア競技大会の自転車ロードレース
1958年

裏表紙

2022年2月21日月曜日

自転車関係資料-83

 自転車関係資料-83

以下の資料は、「サイクル」第3巻第5号、1955年(昭和30年)5月15日発行である。

興味ある記事があったので、その全文を紹介する。

現在は否定されている説も当時は定説になっていたことが分かる。
佐藤アイザックやド・シブラック等々。

日本に於ける自転車產業の黎明

井上 昌久

 桜からつつじへと移る快適の時候に、サイクルを播く皆さんへ送る今月の話題も、肩の凝らない思い出話的なほがらかなものにしたいと思いました。皆さんが、この文章を読まれる頃には、過ぎ去っているでしょうけれども、四月の十八日は特許制度施行七十周年の式典やら何やらで、賑やかな発明の日として記念されます。それは日本の発明史の七十年目の里程表として、訪れた記念の日であります。

 発明者は表彰され、発明の育成に努力した人人は祝福され、ラジオに新聞に今後の発明界の飛躍が祈られ、講演に発明展覧会に発明意欲の向上が叫ばれるに違いありません。

 自転車界にとっても、発明界の一部に足跡を残して来ており、華やかさはなくとも不断の精進を蓄積して今日の隆盛を導く一大原因を形成していることは間違いのないところで、自転車界はまた自転車界だけで、祝福すべき何物かに胸を圧せられる思いが致します。

 自転車の日本における歴史は、特許界の歴史の七十年に較べて果してどちらが長いのでしようか。日本の自転車の歴史を書いた人は数多いことであり、引用する資料は何度も引っ張り出されているものが多いようですけれども、そんな風な見方で考えて見ると面白いこともあるような気が致します。

 今から七十年前というと、明治十八年にさかのぼります。しかし、日本の自転車の歴史はそれから更に十数年をさかのぼることになるようです。私の手許にあるものから拾って見ますと、趣味の人社発行の趣味大観には

 明治三年、佐藤アイザック (後の命の親玉主人)が使用したことにはじまる。東京府が明治五年八月中諸税収納触示中に自転車一輛と見えるものは彼の使用せるものといはる。

とありますが、国際文化情報社の画報近代百年史第三集二百三十三頁には、その時代の自転車は、その構造が今日のと大いに異っていたし、木造で実用向きではなく遊戯用として用いられたらしいとして、例を上げている。

 これを見ると、その内の二、三例はなるほど輸入車らしいけれども、他の二、三例は日本臭の強いもので輸入車かどうかあやしまれるような構造のようにも思えます。この後者に入ると思われる他の一例が、同誌二百三十頁の開化風景の中にも見られ、その車の大略は第二図に示すようなものであります。

 前述の趣味大観には、アイザックの記録一輌の記事につづいて明治九年に六輌となり

とあって、前述の画報には明治十年頃には、それも一時の流行であって見られなくなった。

明治十四年頃現在のような鉄製二輪車が渡来した。と記載されています。趣味大観に明治十二年には練習を要しないのと乗用として危険なきところから喜ばれた三輪車の輸入となり、これを遊戯用貨自転車とするもの生じ、神田佐久間町秋葉ヶ原に始めて意外の繁盛を来した。

とあって、前の第一図や第二図の中に三輪車もあるところから、これらのいろいろの記跡には何か矛盾が感ぜられるようです。しかし三輪車の特殊なものが日本人の独創か模倣かは別としても早くから存在したとすれば、その辺の矛盾も何か解消するように思えるのです。特旨家の御研究を期待する次第です。

 或る記録によると、佛人の発明した自転車は、独佛英の三国人によってさらに考案工夫され、その後は欧州と米国で別々に改良工夫されたようで、明治の初期に現在の型より前の型式の自転車を外人が乗用輸入したと云われた宮田製作所の元技師長の須藤氏の見解も伺って見たいものです。次いで三省堂の図解現代百科辞典によりますと、明治十五、六年頃我国へ輸入され、二十年の頃から漸次その数を増したとありますが、前述の趣味大観には明治二十三年頃から追々乗用に用いられその型は俗に達磨型という二輪車であった。

 意味の記載が見られます。何れにしても自転車の基礎構造は主として欧州で進歩発達し、先づ日本へ一般に輸入されたのは、この欧州型であると須藤氏は言って居られます。そして、前述の辞典が、その頃の二輪車は、前輪大で後輪小なる普通式といひ、前後両輪同大なのを安全式というとある記事などからも、イギリス製オーデナリー型のものがその主流であったように思われます。

これは西歴一八七四年(明治七年)頃のもので、始めて針金のスポークを作って軽く作られており、西歴 一八八七年(明治二十年)頃のものは、さらに両輪の径の大小差が大きく、サドルは一層頂点に近い形になっているようです。

 この間外国ではどのように発達していたかというと、西歴一八七九年(明治十二年)英人口ーソン氏がチーエンギヤを組合せた前輪の大きいスーピード車が出ましたが、これも総称すると前のオーデナリー型に入っていたようです。西歴一八八二年コヴェントリーの発明家スターレーが前後輪のつり合いのとれたものを作ったそうですが、これはセーフティ型なのでしよう。またBSA社の変ったものや、W・セルマン氏のカンガルー型という珍しいのもありましたが、西歴一八八五年(明治十八年)になって現在の車に殆んど同様な車が英人のスターレー及びサットンという人によって作られ、西歴、一八八八年(明治二十一年)には英人ジヨンポイド氏が空気入タイヤを考え出したというような経緯を経ることになります。

 その頃、チェンが発明されて今の型に近くなったものが作られセーフティ型と呼ばれたイギリス車が西歴一八八五年(明治十八年)頃現われました。前述の安全式というのがこれに類するものでありましよう。

 ついでですから初期の婦人用自転車(第四図) と、西暦一八八五年(明治十八年) 西暦一八八九年 (明治二十二年)頃の競争用自転車とを併せて御紹介しておきましょう。

 何れにしても、この明治二十三年頃現在の型の自転車が輸入されたと見るのが最も正確のようで、その車を修理する必要から、日本の自転車業の黎明が訪れることになったことも確実のようです。

 そして明治二十三年本所菊川町に株式会社宮田製作所の前身である宮田銃製作所なる鉄砲鍛治工場を経営されていた宮田栄助氏がその修理を依頼されて奮起試作されたのが我国における現在型自転車製造の始めである。

というのが定説であります。さらに趣味大観の記録によると、明治三十年頃ゴム輪両輪同大のものが用ひられるに至った。しかし未だ実用的交通補助機関として将来重要な位置を占むべきことに考え至らなかった。当時往々自転車無用論を為す人もあった。然るに自転車の流行は何時しか実用的交通の補助機関として発達した。

とあり、次いで

明治三十三年六月歌舞伎座におけるシードブラック一座の自転車曲乗興行以来自転車乗の間に漸く曲乗を為すものを生じた。当局の注意を受くるに至った頃は自転車競技会も各所に行われ、自転車の流行は、明治の末期にかけて漸く都市を風靡するに至った。

と記載されています。年代順に言うと、この辺に入れるべきものでしようが、ある記事に

明治四十二年(西歴一九〇九年)東京の宮田製作所で、木製のものがはじめて試作された。とありますが、これは何かの誤りかとも思われます。

 自転車の国産のためには、その部品部品の製作に当っても、それぞれの苦心のあとが歴史を作っているにちがいありません。

日本自転車新聞の本年の三月十九日号に、大日本自転車の技師、伊東昇二氏の思い出話として、堺の人人が自転車用のパイプを、殆んど手製で作り上げたとか、それでも銀付パイプであったとか、加賀の漆器製造業者であった新家熊吉氏が自転車の木製リムを創造したし、英国からリムやチェンの機械を求めるための洋行苦心談などが語られていますが、なかなか興味があります。

 東京チェンや椿本チェンのカタログなどを見ると、この両社が国産チェンを作ることができたのは、何れも大正六年であったと記録されていますから、自転車用チェンの国産はこれより早くはありますまい。

 終りに臨んで外国の黎明期の記事をまとめて見ますと、世界最初の自転車の考案者は、フランス人のド・シブラクという人で西紀一六九○年という今から二百六十六年にパリで考え出したというのが定説でしよう。これは木馬のような極めて簡単なもので、二個の木製車輪と前後において垂直の棒で連結し、その上にまたがって大地を蹴って走るというようなものでした。次いで西歴一七八九年七月二十七日付のフランスのジュルナール・ド・パリ紙に、ブランシャールとコゲリエールという二人の人が、二輪車を共同で考案したという記事が出て、この時始めて自転車をバイシクルと呼ぶようになったようです。

表紙
資料提供:渋谷良二氏

目次

46頁、47頁

48頁

裏表紙

2022年2月20日日曜日

自転車関係資料-82

 自転車関係資料-82

この資料は、雑誌「旅とサイクリスト」通巻183号、1972年5月10日発行である。
当研究会の元会員であった㈱城東輪業社の社長の寺島常蔵氏のコレクションが掲載されていた。

日本にも出来る!! 自転車博物館が
フランスはパリーにある
BUISSET
の自転車コレクション の一部が、日本に買いとられて、近日到着致します。
台数は約五〇台で、その中からたのしそうなものをピックアップしてお知らせしましょう。
第一回目の発表は、大阪大丸デパートで六月一日より始まる自転車100年展に出品されます。
つづいて東京大丸でも行われるとのことです。
輸入されたのは城東輪業社の寺島さんです。

註、㈱城東輪業社は、寺島常蔵氏が1946年に創業した会社。

なお、この号には高橋 勇氏(当研究会の創設時の顧問)の投稿記事も掲載されているので、後ほど紹介したい。

表紙の画は、加藤 一氏作

目次

寺島氏のコレクション 4頁、5頁

同上 6頁、7頁

2022年2月19日土曜日

バックナンバー 124

 バックナンバー 124

ニュースレター(NEWSLETTER)NO.124

2003年2月8日作成 日本自転車史研究会

●「道路交通政策史概観」刊行
道路交通問題研究会では、この程その研究成果をまとめ「道路交通政策史概観」として刊行した。
第1編前史(明治元年~昭和20年)は、齊藤俊彦氏が執筆。

●第11回服部緑地シクロジャンブル
開催日:2003.3.30(日)10:00~15:00 雨天中止
場所:大阪府豊中市 服部緑地公園
詳細は下記ホームページで
http://cyclojum.hp.infoseek.co.jp/

●写真集・自転車泥棒
このほど映画の題名のような写真集が発行された。
なにげなくそこにある自転車。ダウンタウンに溶け込んだ自転車。 仕事をしている自転車。その自転車はみんな風景になじんでいる。 ゆっくり、のんびりと暮らそうではないかと主張している。
新風舎刊、写真撮影、町田 洋氏

●ヨシダ製作所のオーディナリー
以前、ご連絡したヨシダ製作所所有のオーディナリーの所在がわかりました。 現在、さいたま市高鼻町にある埼玉県立博物館に寄託してあるそうです。 知人を通じて本人に確認取り、先ほど連絡が来ました。 博物館には確認していませんが・・・・・。
まずはご一報まで。
(大宮の井上さんからのメール)

●3割でもそれが残っていたら
私はそのままホテルのバーへ引きずっていかれ、ジョンはひとりでウイスキーを私のぶんまで注文した。
「今、若いアメリカ人と論争してきたところだ。実は、最近、その男にサンビームを売ったんだが、おろかにも塗装をやり直したんだ。8割以上もキレイに残っていたんだぞ。8割本物の塗装が残っているのに、なんだってわざわざ10割のニセ物にしなくちゃいけないんだ。古いサンビームの塗装は、ハケやスプレーガンでやったもんじゃないぞ。薄い溶剤に何回も浸け込んで、極めて薄い多層の塗装に仕上げているんだ。そんな技術も、工場での溶剤の配合や指示書も失われてしまった以上、半分でも、いや3割でも、それが残っていたら、それを生かすべきなんだ」
 ジョンの怒りは大変なものだった。
BIKERS STATION 2003-1「油微塵流双輪術」第36回、小池一介氏記述より転載。

●荒川サイクリングクラブ創立20周年記念誌発行
同クラブは20年前の6月に荒川周辺に居住するサイクリストが中心になり発足したクラブ。このほど記念誌を発行した。

●ニューサイ誌に「自転車の歴史」連載中
シマノの自転車博物館事務局長である中村博司氏が、分かりやすく自転車の歴史を解説。
新連載
・自転車の歴史(1)  中村博司
 自転車の誕生<ドライジーネとボーンシェーカー>
No.468 2003- 2月号
3月号は「オーディナリー」

●オイルボトル?
私はドイツ人のスベンです。質問があります。
日本製の古いオイルボトルで福岡のミツワと書いてある油さしの缶を持っています。何年頃のものか、その情報が欲しい。

事務局: それはミツワのオイルボトルで、1918年7月号の丸石商会のカタログに出ています。 そのカタログをスキャナーし、追って電子メールで送信します。

●オーディナリーについて
①オーディナリーという言葉は英和辞典にもオックスフォードの英英辞典にも自転車の意味は入っていませんが、語源はどこからきているのでしょうか?

②アメリカの本には当時オーディナリーとは呼ばれずペニーファージング等の名で呼ばれていたようです。この正確な意味は?

③オーディナリーの定義とは何でしょうか?鉄の車輪、パイプの車体の他に何かありますか?

④ベアリング、スポークはいつから誰が発明し採用したか?
02.12.21付FAX、N氏からの質問

事務局回答:
①オーディナリー・バイシクルです。 当時最盛期はこの自転車が一般的で普通車と呼ばれました。
②アメリカはハイ・バイシクルだと思います。背の高い自転車という意味です。 ペニーファージングは英国圏の俗称です。ペニー硬貨の大小から名づけられました。
③定義とは難しい問題です。車輪は大小で、ミショー形でないものです。 セーフティー以前の自転車です。車輪は木製でもオーディナリーです。
④「自転車技術便覧」及び「サイクル・その歴史的評論」などの本に出ています。

2022年2月18日金曜日

古い絵葉書-23

 古い絵葉書-23

この絵葉書は帝国大学の正門である。

帝国大学(本郷区)我国最高の学府で十数学科目あり約8000人の学生を有す

写真は正門からポプラ並樹を望む景

とある。

自転車がキャプションの上に見える。さらによく見ると真ん中の奥の方にも微かに自転車に乗った人物が見える。

手前の自転車、荷台は見えるが両立スタンドは見えない。だが年代は昭和初期である。

帝国大学の正門 昭和初期

現在の東京大学正門
Googleストリートビューより


2022年2月17日木曜日

老舗さんぽ-53

 老舗さんぽ-53

昨日、久しぶりに平塚の宮川サイクルスポーツ(神奈川県平塚市八千代町)を尋ねた。

この店には1970年代後半から何度か訪れている。前回は、2020年8月2日(日)である。

まだ13時には少し間があったので店の周りに置いてある自転車を眺めていた。1980年代の神金(神金自転車商会、調布市金子町1766)のペガサスが2台あり、1台はピンク色のミキストタイプでもう1台はランドナーである。店主である宮川 保さんは、以前に神金で修行していた関係で、前からペガサスを扱っていた。

13時前だが店の中を覗いたところ、店主がちょうどいたので店内に入る。挨拶もそこそこに自転車談義が始まる。ちょうど私のポケットに山王のハンカチがあったので、それを見せると、店頭の前にあるケースの中から山王のマークが入ったペパーナイフのようなものを見せてくれた。流石老舗である。古いものはパーツを含め何でも揃っている。

以前に店に飾ってあった日帝のメヤム号が無いので聞いてみると、いまは倉庫の方に置いてあるとか、店の中に置いてある自転車で気になったのは初期のワンタッチ・ピクニカとイギリスのパシュレー製のロードスターであった。パシュレーは価格を見ると136,000円とある。

その昔であれば、間違いなく直ぐに購入したはずである。

この宮川自転車店の歴史も古く、彼是100年近くになる。或いは既に100年は越えているかも知れない。初代の店主は祖父の宮川峰次郎さんで、昭和初期には既に店を開いている。

ことによると大正後期かもしれない。

それと、以前から気になっていることで、同じ平塚の須賀で宮川峯五郎さんが店を出していたが、はたしてこの峯五郎さんと峰次郎さんはどのような関係があるのか、それとも全く関係がないものか、今度尋ねたときにでも聞いてみたいと思っているが、何しろ大正期の事であるから分かるかどうか。昨日、宮川 保さんに聞けばよかったが、別な話で盛り上がり忘れてしまった。

そのうち、この店で待ち合わせをしていた知人の渋谷さんと石井さんが見えた。

石井さんは、つい最近この店で1980年代のペガサスのランドナーを購入している。この自転車を見ていると随所に店主のこだわりがあり興味深い。石井さんはいい買い物をしたと思う。

ところで、店主の宮川 保さんは神金譲りの職人気質で以前から妥協を許さない。仕事はきっちりである。そのせいか平塚競輪場を走るプロ選手からも絶大な信頼を得ている。1㎜の狂いや歪みも見逃さない。

店舗前

ペガサス・ランドナー

ミキスト型

パシュレー・ロードスター

ブリヂストンサイクルのワンタッチ・ピクニカ
チェーンドライブ・タイプ 
1981年

石井さんのぺガサス・ランドナー

日本輪界興信名鑑 大正14年版
国会図書館所蔵資料 コマ番号384

日本輪界興信名鑑 昭和4年版
国会図書館所蔵資料 コマ番号121

2022年2月16日水曜日

自転車関係資料-81

 自転車関係資料-81

この資料は月刊雑誌の「旅とサイクリスト」1970年5月号である。

全日本実業団レースの記事を抜粋

シーズンのトップを飾る
全日本実業団レース
一周抜かれると失格同時発走のジュニアーには辛い
通産大臣旗争だつの第3回全日本実業団対抗サイクルロードレース大会が春陽の3月8日午前8時より、三重県の鈴鹿サーキット国際レーシングコースで行われた。
 このコースもすでに3回目となると、コーステクニック、ギャレシオ等選手に十分に熟知され、それ丈に監督さん同志のシノギを削る冷戦模様が感じられた。
 前2回にかわって、すばらしくよい天気で、記録もぐんと上り、流れるようなレース運びだが、それ丈に山場、見せ場が少く盛り上りがもう一つ、といったところ。
 今年はジュニアも、ベテラン並みに同時発走で、5周90・6㎞のコースで、一周抜かれると失格というきびしさに、ベテラン64名、ジュニア50名の出走で、完走は46名。
勿論、パンクの故障もあったが、かわいそうなところも見受けられた。パンクしても予備も持たず、さっさと棄権する選手が多く、何かしらやる気があるのかとたよりない感じ。タイヤをとりかえてでも完走しようというファイトがないのだろうか。どうせ負けだというアキラメならば、何百人走ったって、勝っのは一人なんだから、始めからレースに出なきゃいいワケ。日本の自転車レースが、水準からぐんぐん下って行くのも当り前かも。
 移動監察などの自動車、レーシングをたのしんでか、警笛をならして選手を押しやって走り廻るのは、役員らしかぬ暴挙と危険も伴うとの評も耳にした。心されたい。

平均時速36㎞
もう一息のスピードが
ともあれタイムは第2回目の2時間30分14秒10を8分近くも短縮する好成績で、レーシングコースでのレーステクニックが旨くなった証拠だろう。
 レースの出来るコースがなくなった近頃のこと。もっとレースを面白く、白熱させる競技方法がないものだろうか。先頭周回賞も、ポイントみたいに義務づけると面白いかも知れない。
 ともあれ、今年のレース・シーズンもこれから始まる。

註、この記事には一部酷評も、
「パンクしても予備も持たず、さっさと棄権する選手が多く、何かしらやる気があるのかとたよりない感じ。」
確かにこのようなことでは、世界で戦えない。

レース結果は18頁を参照。
この中で斧 隆夫氏(ナショナル自)が2時間21分59秒1と個人の部で優勝している。
斧 隆夫氏は、当研究会の会員でもあった。自転車の切手と錦絵のコレクションは世界的にも有名。

表紙

目次

8頁

個人優勝の斧 隆夫選手
8頁

16頁、17頁

18頁

同上

2022年2月15日火曜日

古い絵葉書-22

 古い絵葉書-22

この絵葉書は塩原温泉の大網温泉場である。

塩原大網温泉の老舗旅館の一つ、 湯守田中屋の歴史

右下隅に1台の自転車が見える。荷台に両立スタンド、そして後ろ泥除けには鑑札も微かに見える。

一人の人物は、この旅館の店主であろうか。左の看板には大綱温泉の字も見える。

自転車からの年代推定は昭和昭和10年前後ということになる。

塩原名所 大網温泉場 昭和10年前後

現在の大網温泉
Googleストリートビューより

自転車関係資料-80

 自転車関係資料-80

この資料は「横浜成功名誉鑑」横浜商況新報社 明治43年7月7日発行の522頁の部分である。

横浜成功名誉鑑
和製自轉車の嚆矢
梶野甚之助君 (高島町五丁目10 電話1710番)

我國文明の門戸は横浜にあるだけ物質的輸入も隨て當地から開かれたものが多い、明治十四五年の頃已に木製自轉車を製造して盛んに営業した梶野甚之助君は、質屋から時計商になって非常に機械的の趣味を感じた、明治十二年初めて蓬莱町に自轉車工場を設け、廿一年に高島町に移った、明治二十八年頃米商ヴァンタイン社のコルトン氏の手によりて米国製の見本を得て益々奮励し、終に一切本邦製品を以て構造して米国に輸出した、明治丗五年渡米幾多の製造工場を視察して帰へり、大に得る處あり、以て今日の盛況を来した、和製自轉車の製造販賣は他に其類少なく、製品に對しては宮内省及参謀本部の御用達を蒙むりて居る、日露戦争當時には従軍して酒保を命ぜらしが、克平の後韓國城津に店舗を開きて雑貨類を鬻ぎ、高島町工場は老練なる管理人をして主宰せしめて居らるる、君は相州津久井郡の人、本年五十二歳を迎へられたのである。

註、梶野甚之助は誤り、正当は梶野仁之助
「鬻ぎ」の漢字が不鮮明で少し苦労した。「鬻ぎ」ひさぎ、商いをすること。

522頁

写真の部分を拡大
梶野仁之助 52歳

奥付



☆梶野仁之助伝(改訂版) → こちら