日本の部分を抄訳、(268頁~278頁)
1896年(明治29年)10月24日早朝、日本の海岸と山脈は朝日に輝いていた。
6時ごろ、汽船は岬を回って長い湾に入った。10時頃、他の国の船が停泊する横浜港に入港した。すぐにたくさんの手漕ぎボートが汽船の周りに群がり、旅行者たちを上陸させようとしていた。 私はそのうちの1隻に自転車を持ち上げながら乗り込み、数分後には横浜の岸壁に立った。
ドイツ領事館の税関職員に英語で尋ねた。国際的には英語が最も一般的な言語だからである。 "ドイツ語を話せるか?"と云った。その返事は「はい」と答えた。その20歳ぐらいの役人は上手なドイツ語でいろいろな情報を教えてくれた。
その後、国から届いた手紙が旅館に届く。
この極東の島は一つの王国であり、魅力的で、魔法のような詩的な情景に囲まれていた。
日本人はこの国を「日出ずる国」ニッポンと呼んでいる。
カリフォルニアが西のスイスと呼ばれるにふさわしいのと同様に、豊かな自然の美しさはまさに極東のスイスである。いくつかの大きな島と小さな島で構成されている。
まわりは広くて果てしない海に囲まれている。雪に覆われた雄大な山脈が国の端から端まで伸び、広大な平地はどこにもなく、雄大な富士山がその頂点として聳えている。
到着した日の夜明けに見た姿は雪に覆われ、おそらく標高12,000フィートの高さであり、その裾野は遠くまで伸びている。夕日がその巨大な輪郭を照らしていた。地球の東にある、原生の山々の頂上は夕日を浴び黄金色に輝いていた。
東洋では眠りに就き、西洋では新しい日が明ける。
私はホテルの窓に座って夕方の景色を見つめ、遠く離れた故郷を思い出していた。
夕方、通りを徘徊する盲目のマッサージ師の単調な笛の音でびっくりし、現実に引き戻された。日本にいるとおとぎ話の国のように思えた。
この国の神話によると、イザナギとイザナミという一対の神が天の橋の上に座り、夢見心地で下界の青い海を見つめていた。イザナギは押し寄せる大海に槍を突き立てた。そして槍の穂先から水滴が落ち、それぞれの島が誕生したとされている。
ここで彼らの子供たちが生まれ、最愛の娘である太陽神の天照大御神が生まれた。
日本の天皇は、紀元前 660 年に神武天皇の名で最初に即位したと神話は語っている。
しかし現実には、日本の過去は深い闇に包まれている。
現在の日本人も原住民であるのか、それともその故郷がどこにあったのかは誰にも分からない。
仏教が中国や韓国からこの国に渡来し、それとともに文化が入ってきて新しい時代が始まった。
天皇とその民は、太陽の子が顔を見せることを許されたと告げ、精神的な支配者として君臨した。その後、天皇に代わり将軍と呼ばれる世俗の統治者が国を治めることになった。
16世紀半ば頃、フランシスコ会とイエズス会の信者は数十年以内に数十万人に達した。
当初は世俗の支配者たちに支持されていたが、後には残酷な迫害を受けた。
それにもかかわらず、信者の数は増え続けた。そして、この国の統治者はキリスト教徒の撲滅を決め、1637年には島原の乱が勃発し、キリスト教徒は敗北した。
日本は、外国との貿易の為に長崎の出島に上陸することだけを許可した。だが内地への立ち入りは禁止された。
ヨーロッパにとって、日本はおとぎの国で、眠れる森の美女が王子の目覚めのキスを待っているような国になっていた。 そしてこの救世主は二世紀以上の時を経て現れた。
1853年、アメリカのペリーが4隻の黒船で現在の首都である東京沖に現れ、米国政府を代表して通商条約を要求した。彼の出現は大きな衝撃を引き起こし、これまで自分たちを世界で最も優れた文明国であると信じていた日本人に、西洋人の優位性を認識させ、驚異的な印象を与えた。日本は不本意ながら一部の港を外国人に開放し、その後、すぐに勤勉さと熟練をもって多様な知識と技能を驚くべき速さで習得した。 ここでも詩人の言葉が現実となり、春が訪れ、廃墟から新たな命が芽吹いたといえる。そして江戸城の門は開かれ、将軍は統治を放棄しなければならなかった。天皇自らが政権を掌握し、日本国民はヨーロッパをモデルに芸術、科学、技術、政治など目覚ましい進歩を遂げ、新たな時代の幕を開けた。この時期を「明治維新」と云った。
日本人は平均して小柄で繊細である。肌の色はまばゆい白から濃い茶色まであり、モンゴル民族の切れ長の目は日本人の特徴でもある。
できるだけ早くヨーロッパ化するために活発な努力がなされているが、軍人、公務員、及び「上流階級の1万人」を除いては、ヨーロッパの服装が一般的になることはなかった。リネンの靴下で靴を履くが、天気が悪くなると木製の下駄に早変わりした。下駄は長さ約6インチの2枚の直立した板を備えたソールで、それを履き土の上を歩く。
ヨーロッパ人が住んでいる港の居留地では、ヨーロッパの靴や帽子、衣服をよく見かけるが、他の村ではほとんど見ない。
日本の家を訪ねてみると、小さくて低い引き戸の玄関があり、そこで靴を脱いで帽子と杖を置く。家の中では上履きか、ストッキングを履いて歩く。
木枠に紙を貼った障子の二番目の引き戸を通って家の内部に入り、そこで最初に挨拶を交わす。日本の習慣によれば、膝をついて、二三回お辞儀をし、額が床につくようにして、朝の挨拶は、おはよう 、昼は、 こんにちは、夕方は、こんばんは、と挨拶する。
尋ねる場合は「ですか」を付けて表現する。 日本人には椅子がないので、膝を曲げて正座し、その姿勢を何時間も続ける。
私も努力したが、無駄な努力であった。正座はできない。
宿屋の主人は私たちの不快な状況を見て微笑み、メイドにクッションと枕をいくつか持ってこさせ、それを勧めた。部屋は殺風景であるが、一方の隅には花瓶が、もう一方の壁には絵が飾られ、さらにチェストのようなものが置かれ、床は厚さ数インチの畳で覆われている。
壁には引き戸がいくつかあり、その後ろにはさまざまな部屋が隠されており、そこには家庭で必要なあらゆる種類の物や衣類が保管されている。 残りの部屋もこの部屋と同じように家具が置かれている。メイドが木箱を持ってくる。その木箱には灰の中に炭が入っていて、真ん中で燃えている。これは日本のストーブである。 小さな煙管を数本渡され、タバコをひとつまみ入れ、炭で火をつけて吸う。お茶は、絵付けされた上質な磁器で作られたミニカップに入っていて、おしゃべりをしながら飲む。
いよいよ食事の準備が整いテーブルにつく。日本料理がヨーロッパ人の味覚に受け入れられることはめったにないが、日本のスープとご飯料理は素晴らしいと感じた。
カブ、野菜、魚などは喉に詰まらせないように注意する。料理は小さな鍋ですすり、野菜や肉などは2本の箸で口に運ぶ必要があり、最初は慣れない。食事が終わると立ち上がって、賞賛と感謝の言葉を持って宿の主人に別れを告げる。
女中が襖の向こうの部屋から毛布や枕を取り出して床に敷く様子を見ている。それは日本のベッドである。
東洋と西洋の人々の生活様式の違いに思いを馳せる。私たちは間違いなく西の方が好きであるが、東洋と論争するつもりはない。
全国の道路は非常に良好な状態であるが、起伏が多く、幅がわずか 1.5 メートルしかない狭い山道が多い。 残念ながら、雨が降る日が多かったので、自転車旅行を横浜近郊から東京までに限定せざるを得なかった。
約3か月の日本滞在中、日本人の生活や行動を最大限に観察するのに十分な時間があった。
一つだけ言っておきたいのは、「酒」のことで日本の国民的飲み物であり、ホットで飲むライスブランデーの一種である。このような味はいままでどこでも出会ったことはない。その味は スピリッツを混ぜて煮たものに一番近いかもしれないが、それも味わったことがないので断定はできない。 私の知る限り、ここには飲みやすいビールを生産する醸造所が 3か所ある。 もちろん横浜のキリンビール工場にも訪問し、二代目マン氏が出迎えてくれた。ビールの都ミュンヘンで崇高な醸造技術を学んだマスター・ブルワーが、とても親切に案内してくれた。キリンビール工場は 1886 年に東アジア初のビール工場として建設され、現在では年間約 35,000 ヘクトリットルのビールを生産している。従業員は120名、セラーマスターからビールワゴンの運転手まですべて優秀な日本人である。
日本の自転車について少し調べた。アメリカの新聞で東洋の自転車の安価な生産について読んだ。特に大統領選挙の時にアメリカでは、ある政党が日本の「12ドル自転車」で大騒動を起こした。それは、保護関税が導入されなかった場合、つまりマッキンリーが選出されなかった場合は、すべての地元の自転車製造業者は破滅すると予測した。
日本の自転車は12ドル(約50マルク)で輸出できるというナンセンスは別として、これが単なる政治的トリックだったと付け加える必要はない。 その間、マッキンリーが大統領に就任し、安物の自転車についてはそれ以上何も言われなくなった。
いくつかのイギリスとドイツの新聞報道を見つけたが、その記事には次のようにあった。
日本の自転車はおそらくヨーロッパではまだ紹介されていないが、ニューヨークではその驚くべき低価格のため、売れ行きが好調である。 「頑丈に作られ、最新の設計に基づいて製造されている」 というのは全くのナンセンスである。日本に住むヨーロッパ人がこれを読むと笑止する。 私は「頑丈」という言葉を使ったが、ニューヨークの巨大なビルの屋上から物を放り投げても、修理のために立ち止まることなく走り続けることができることになる。 日本でそのようなものが近づいてくるのを聞くと、私はロードローラーを思わずにはいられない。ロードローラーはとても大きな音を立て、不器用な構造をしている。 このような自転車の価格は約130マルクである。欧米のメーカーは日本を敵として恐れる必要はなく、むしろ良い買い手である。イギリスとアメリカの自転車は何千台も輸入されているが、他のメーカーの自転車は見かけない。
自転車の競技は、そこに住むヨーロッパ人、日本人、中国人によって活発に行われている。
主に前者によって運営されているが、多くの日本人も見られ、民族衣装を着て、腰に三つ編みを巻いて自転車に乗っている中国人の姿は、私を笑わせてくれた。
横浜にも自転車クラブがあったが、意見の相違により2つのパターンに分かれていた。現在ではどちらも非常に強い。 市の中心部には長さ約 300 メートルの小さな競馬場(註、旧根岸競馬場)があり、同時に他のすべてのスポーツにも使用される。私の滞在中、ランニングやフットボールの試合に関連したさまざまなクラブレースが開催されていた。
私の日本滞在は終わりに近づいていた。極東の島の王国との別れである。
1897年 1月 22 日、北ドイツのロイド汽船「ホーエンツォレルン」が私を香港まで運んでくれる。何人かの知人が私に別れを告げるために岸壁に集まってきた。おそらく二度と会うことはないであろう。汽船は12時に出発し、ゆっくりと向きを変え、港の岸壁の狭い開口部に向かって走り出した。私はもう一度タオルを振って別れを告げた。
横浜港が背後に見え、突き出た岬から隠れようとしていた。汽船が湾内にあり、左右に陸地がある限り、海は穏やかであった。しかし、要塞を通過するやいなや、強い風が吹き出し、汽船は上下に揺れた。轟音はどんどん高くなり、午後5時以降、甲板は常に水に浸かりはじめた。 デッキに留まるのは不可能だったので、私は夕方早く寝台にもぐり込んだ。嵐は、私に子守歌を聞かせてくれた。打ち寄せる波が私を眠りに誘った。外は嵐で荒れ狂い、轟音を立てている間、すぐに私は最高に甘い夢を見ていた。
早朝に目が覚めると、海は滑らかで穏やかで、昨夜の嵐の痕跡はなかった。右側には、雪を頂いた山が朝日に白く輝いていた。一方左側には、揺れる波で地平線が踊り、遠くの景色が見えなくなった。絶え間なく変化する日本の沿岸は絵のように美しく緑豊かな風景で、言葉では言い表すことができない。舌とペンでも言葉を見つけることができないだろう。母なる自然の壮大な創造物をただ直立して静かに賞賛することしかできなかった。
午後、左に2つの島を通り過ぎた。2つの強力な要塞があり、大砲の威嚇的な銃口が巨大な山を見つめ、その背後には兵舎が横たわっている。 日本はあらゆる脆弱な場所は近代的な要塞によって守られており、緊急時に備えて常に新しい要塞を建設する努力を払っている。
2時間後に神戸港に入港しが、もう暗くなっていて岸には近づかなかった。汽船が着岸して貨物を積み上げたのは翌朝のことであった。私は自転車を陸に上げ、地元のドイツ人サイクリストと一緒にその地域を日帰り旅行した。きれいな通りといくつかの村を巡った。
午後はテックハウスに立ち寄って、リフレッシュ。 ここではドリンクを好きなだけ飲めた。
帰る道は、肥沃な野原や日陰の木立を通って、寺院やその他のあらゆる種類の記念碑のある独特な道を通った。小さな村や、子供や大人で賑わう通りを抜けて行く。日本人の名誉のために言っておくが、ここではヨーロッパの一部の地域に比べて自転車に乗る人に対する痴漢的な行為が少ないと思われた。誰もが避けたり、道を空けたりするが、私たちの後には常に大人たちの好奇の視線と若者の嬉しそうな叫び声があった。再び村を通った時、ちょうど日本人の一団がわき道から出てきた。私の同行者は不運にもそのうちの一人にハンドルの前から突っ込み、二人とも地面に放り出されてしまうという事故に見舞われた。転倒した男性は「不器用なサイクリスト」を困らせる代わりに、立ち上がって優しい言葉で謝罪し、非常に丁寧に同行者のケガの状態について尋ねた。そして私たちは大過なく良好な結果で無事に別れた。
神戸に着くと連れが自転車を持って帰ってきた。彼は妻を私に紹介した。洋装の日本人女性であった。 彼女は流暢な英語とドイツ語を少し話した。ここで30分ほどおしゃべりしてから私は船に戻った。 翌朝、瀬戸内海を通って長崎に向かう。絵のように美しい島々が交互に並ぶ無数の島々、赤茶色の岩が水面から浮かび上がり、汽船が回転するたびに色とりどりの景色に変化した。 それは幻灯のように変化するイメージで、最も魅力的な風景は絶えず私たちの前を通り過ぎ、その美しいさに魅了した。そして、後ろの地平線に消えていった。
夕方近く、私たちの汽船は狭い海路を通過した。 そして、二つの要塞に迎えられ、そのすぐ後ろの広い湾には下関の街があった。
真っ赤に燃えていた太陽はその後沈み、遥か西の空を茜色に染めていた。
そして、太陽が沈むと夜はすぐに訪れ星々が瞬きはじめ、日本の帆船がちょうど幽霊のように帆をはためかせて音もなく私たちの前を通り過ぎ、すぐに闇の中に消えた。
船内は静かになったので、私はプロペラによって巻き上げられる水面の音に邪魔されない静かな場所を探した。
翌朝、11時頃に長崎に到着した。
石炭を積み込み、そして香港へ向かう。 当時、長崎には各国の軍艦がたくさん来ていた。 ロシア勢は特に多く、その船体は青灰色の塗装で目立っていたが、どのペナントの下にも「白、青、赤」の国旗は見えなかった。
註、この日本での旅行記を読むと、ホルストマンは殆ど日本国内での自転車旅行をしていないことが分かる。横浜周辺と東京、それに神戸を少し走っただけである。彼の旅の目的がそもそも商業的な実態調査を主としていたので当然かもしれない。それでも3か月ほど日本に滞在したことになり、日本の文化や伝統に対して造詣を深めたはずである。