先のカービーの記事、松島さんから次のような訳文がメールで届きました。
ジャパンメールの編集者へ
拝啓、近頃試みられた東京発の自転車旅行に関し土曜日発行号にて貴社の大阪特派員の報告書を訂正させて下さい。二人ではなく三人の紳士が自転車旅行を完走していて三人目がMr.Kirbyです。更に他の一行は余力は充分でしたが重要な事情により東京へ戻ることを余儀なくされました。彼ら頑健な自転車乗りの名誉のために間違いのないように訂正させて下さい。
2012年3月28日水曜日
これも陸船車?
先般、司馬遼太郎の「酔って候」(文春文庫)を読んでいましたら、ちょっと気になる文章がありました。
225ページに、
「旦那は、その箱をしさいに見た。高さ二尺五寸、横一尺、深さ七寸ほどの箱で、箱には車輪が四つついていた。箱の内部には轆轤から着想した大小の歯車がいくつかついている。その中の心棒を一回転させると、車輪が三回転するという仕掛けで、旦那がこころみに心棒のはしをつまんでまわすと、歯車がさあっと走り出した。」
宇和島藩でも黒船をつくろうということになり、城下の裡町四丁目、平兵衛店という裏借家に住む平人の嘉蔵に長者の清家市郎左衛門から話が持ち込まれたのでした。そこで、何でも器用に作る嘉蔵が黒船を動かす模型のような動力を製作したのです。嘉永七年(安政元年・1854年)頃の話のようです。
これも陸船車の一つのように思われました。
225ページに、
「旦那は、その箱をしさいに見た。高さ二尺五寸、横一尺、深さ七寸ほどの箱で、箱には車輪が四つついていた。箱の内部には轆轤から着想した大小の歯車がいくつかついている。その中の心棒を一回転させると、車輪が三回転するという仕掛けで、旦那がこころみに心棒のはしをつまんでまわすと、歯車がさあっと走り出した。」
宇和島藩でも黒船をつくろうということになり、城下の裡町四丁目、平兵衛店という裏借家に住む平人の嘉蔵に長者の清家市郎左衛門から話が持ち込まれたのでした。そこで、何でも器用に作る嘉蔵が黒船を動かす模型のような動力を製作したのです。嘉永七年(安政元年・1854年)頃の話のようです。
これも陸船車の一つのように思われました。
2012年3月22日木曜日
Lucien Van Impe
Lucien Van Impe 1976年(YouTube)
2012年3月21日水曜日
Mr.R.J.Kirby
これは、The Japan Weekly Mail、April 23, 1892(ジャパン・ウィークリー・メイル紙 明治25年4月23日)の記事です。
カービー( Mr.R.J.Kirby)とは、東海道をサイクリングした人物です。彼は、大倉組のお雇い外国人で、当時の自転車通として本国のイギリスと日本で知られていました。
次の国内各紙にも時々登場してます。
1892年(明治25年)6月8日 東京日々新聞
英人キルベ、東京~広島間を自転車で往復
内外用達会社雇い英国人リチャード・キルベ氏はこのほど一輌の自転車にて広島まで往復五百里の旅行をなせり氏は英国にても自転車に名ある人なりという
1893年(明治26年)4月6日 横浜貿易新聞 自転車速力を汽車と争ふ 大倉組の雇英人カービー
1893年(明治26年)4月16日 東京日々新聞 カービーの自転車旅行
リチャード・キルベとも書いてありますが、これは、Kirbyをキルベと発音したようです。
資料提供:松島靖幸氏
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