2023年3月31日金曜日

スティーブンス琵琶湖を巡る

 スティーブンス琵琶湖を巡る

岡山~姫路~神戸~大阪~京都~大津を経由して、スティーブンスは琵琶湖の畔に着く。

註、下の画は、琵琶湖の湖畔を走るスティーブンスである。右には琵琶湖に浮かぶ和船が三艘停泊している。飛脚のような人物も見える。左端では女性が道を清掃している。それとも落ち葉拾いか。袋を持った女性も見える。

462頁
「AROUND THE WORLD ON A BICYCLE」の挿絵
スティーブンス琵琶湖を巡る

(一部抄訳)
京都からは、日本で最も有名な街道である東海道が始まる。
それは何世紀にもわたって今日まで続いている。京都から東京までは、325マイル(約470㎞)の距離である。
中山道と呼ばれるもう 1つの道は、東海道と同様に京都と新しい首都を結んでいる。中山道は坂道が多く、東海道ほど簡便なルートではない。 
京都の街を出ると道は、琵琶湖として知られる美しい湖を見ながら大津への峠を越えて行く。
この湖はジュネーブの湖とほぼ同じ大きさで、その美しさはスイスの宝石に匹敵する。
自然の美しさへの深い感謝とともに、琵琶湖の景色は恍惚にさせてくれる。
その景色は「琵琶湖八景」(近江八景)として知られている。

八景とは次のとおり、石山の秋の月、比良山の暮雪、瀬田の夕照、三井寺の晩鐘、矢橋の帰帆 、粟津の晴嵐、 唐崎の夜雨、堅田の落雁である。

 琵琶湖には、さまざまな伝説やロマンティックな物語がある。
この伝説の起源は、西暦の数世紀前(紀元前 286 年)に起こった大地震によると言われている。
富士山は琵琶湖が形成された同時代に駿河の平野から急に雄大な高さにそびえ立ったと伝えられている。

湖の周辺には多くの寺院や神社があり、巡礼者が遠く離れた場所から参拝に訪れ、その美しさを堪能する。

観光客にとって特別な好奇心の対象の 1つに、見事な枝ぶりのよい松(唐崎の松)がある。

「近江八景」の一つ
石山の秋の月
葛飾北斎筆
東京国立博物館所蔵

唐崎の松
滋賀県大津市阪本町
撮影年月日不詳
日下部 金兵衛 撮影
長崎大学付属図書館所蔵

現在の唐崎の松
グーグルマップより

スティーブンスが携帯した
「マレーのハンドブック」
1884年版

80頁
近江八景などの内容は
「マレーのハンドブック」の
このあたりの記事を
スティーブンスは
参考にしている


註、この後、スティーブンスは大津から四日市方面に向かってダルマ自転車を走らせて行く。


2023年3月30日木曜日

スティーブンス岡山に到着

 スティーブンス岡山に到着

下関~広島~そして岡山に到着。

註、下の画は、スティーブンスが岡山で初めて知り合いになったアメリカ人宣教師らと別れる場面。二人の人力車夫とその奥に人力車も見える。

456頁
「AROUND THE WORLD ON A BICYCLE」の挿絵
スティーブンス岡山を離れる

(一部抄訳)

1886年12月4日の土曜日に日本の主要な都市のひとつである岡山に着く、私はのんびりと自転車を走らせながらこの街を見物した。

長崎を離れて以来、日本人を除いて誰も私の前を横切った外国人はいなかった。ここでも同様であると思っていた。
しかし、嬉しい驚きが私を待っていた。商店街の大通りを行くと一つの角に2人のアメリカ人宣教師が現れたからである。 
自己紹介をしたら彼らはキャリー氏とローランド氏であった。そして、宣教師の3家族もこの街に住んでいることを私に知らせてくれた。
日曜日には彼らの家に招待すると云ってくれた。

翌日に彼らの親切なもてなしを受けることが出来たのは本当に喜ばしいことであった。
私が下関からたどってきた道を地図や旅程表を見ながら説明をし、日々自分の居場所については漠然とした考えだけで旅をして来たと伝えた。
 外国人に初めて出会った街が岡山であり、神戸から100マイル以内にいることを「マレーのハンドブック」で知ることができた。
小さな宣教師の屋敷は、東から街を見下ろす松で覆われた丘の上の魅力的な場所にあった。アメリカ人の数人の女性宣教師も他の場所から訪れ、予期せぬ楽しいパーティーを催してくれた。
日曜日の朝、私はキャリー氏に同行し、この街の教会へ行った。
この新しい教会は二千円をかけて自力で建設したとのことであった。 
ほとんどの国では、改宗者は伝道部から提供される物質的な援助を通じてキリスト教のよさを理解するようになるが、ここでは、改宗者自身が自分たちの集会所を建設し、外部の援助なしに布教を支援してくれた。・・・・

土曜と日曜が楽しく過ぎ去り、私は月曜の朝に岡山から自転車でまた出発した。
田んぼと無数の村々が広がる何キロもの道を過ぎ、その後、景色は小さな湖と松に覆われた美しい丘の場所に変わった。この景色はちょうどマサチューセッツ州バークシャーヒルズを思い起こさせた。ちょうど53マイルの道を自転車で走ったことになる。もうすぐ姫路である。

スティーブンスが携帯した
「マレーのハンドブック」
1884年版

2023年3月29日水曜日

スティーブンス広島に

 スティーブンス広島に

下関を発ったスティーブンスは、右側に瀬戸内海を眺めながらダルマ自転車で走る。そして、広島に到着する。

註、下の画は漁村のある宿屋に寄ったスティーブンスである。手前の女性は卑屈にも土下座をして挨拶している。縁側の若い娘はスティーブンスにお茶の接待をしている。よく見ると火鉢と土瓶も描かれている。右に置いてある鉢植えはソテツのようである。

452頁
宿屋に寄る
「AROUND THE WORLD ON A BICYCLE」の挿絵


(一部抄訳)
宿屋からそう遠くないところに、イタリック体で書かれた「ヨーロッパ料理、亀屋」という看板が目を引く。
夕食時なのでビーフステーキとビールの絵を見て、その店に入る。
店の若い男性はホテルかと尋ねた。愛想笑いを浮かべていたが、私の言っていることが分からないようだった。

翌朝は霜が降り、低い雲が流れていて、これからの不安定な天候を暗示していた。しかし、私は旅を再開した。道はほとんど海岸に沿っており、砂浜の曲がりくねった道をたどることもあった。海岸近くの低地のほとんどは、湿原を埋め立てたように見え、何マイルにもわたり頑丈な堤防と岩の壁によって高波から保護されていた。海岸沿いには多くの漁村があり、最近の台風によって海水が内陸にまで押しよせ、道路も流されてしまった。何千人もの男女が損傷した箇所を麓近くにある花崗岩などを利用して復旧の作業をしていた。

この辺は何よりも魚が安く豊富で、漁村の宿屋の老婦人は、夕食に大きな魚料理を作ってくれた。彼女は普段から料理に使っている黒い悪臭のするソースをかけていたが、味は一流であった。この部屋には素晴らしい真鍮張りの仏壇があり偶像を崇拝していた。夕方、私は思い切ってこの仏壇の扉を開けて中をぞいてしまった。許しがたい好奇心を満たすためである。仏壇の中には装飾品と何か書いた紙切れがあり、その奥に仏像が安置されていた。手前には小さな磁器の器に米、酒、干物を供えていた。

翌朝もまた霜が降りていたが、道路状況はよかった。

9時頃には広島で軍隊の演習を見ることができた。演習は、低い土手と溝で囲まれた大きな広場で行われていた。好奇心旺盛な野次馬が、新兵の騎兵隊の演習を見物していた。ずんぐりした小さな馬に乗っていた。兵士が馬から投げ飛ばされるたびに、見物人はくすくすと笑っていた。兵士と馬の両方が小さいため、うまく機能しているようにも見えた。 騎兵隊の制服は青で、縁取りは黄色であった。・・・


2023年3月28日火曜日

スティーブンス下関へ渡る

 スティーブンス下関へ渡る

スティーブンス、佐賀~福岡~若松~小倉を経由して、いよいよ九州から本州へ渡る。

註、下の「AROUND THE WORLD ON A BICYCLE」の挿絵は、関門海峡を和船で渡るスチーブンスと彼のダルマ自転車”コロンビア”、舳先には日よけ用に番傘をさした夫人が同船している。船頭は無心に櫓をこぐ。

立っているスティーブンスは前方の帆掛け船を眺めている。向かう下関の方は、大きな山(火の山?)がこの海峡を睥睨しているかのようである。右寄りの山の中腹には神社か寺と思われる建物が見える。港に並ぶ建物はどこか中国風である。

下関へ渡る
「AROUND THE WORLD ON A BICYCLE」の挿絵

(一部抄訳)
若松から小倉までは起伏の多い道であり、小倉からは狭い海峡をはさんで下関を見ることができる。
本州と九州はこの海峡で隔てられている。
小倉から人力車道を通って行き、木立の小道と丘を横切り、門司の村までさらに 2マイルを走る。
 ここで小さな和船の渡し船に乗り込み下関へ向かう。下関には午後2時頃に到着した。
雨天のため、下関で24時間休むことになる。
宿屋の女将は、ヨーロッパの料理をよく知っていて、とてもおいしいビーフステーキとホット・コーヒーを用意してくれた。 
下関はヨーロッパの商品がたくさんある。目抜き通りを1時間散歩すると、日本人が外国の商品をどれだけ高く評価しているかがわかる。
他のすべての店もほとんどの場合、他の国からの商品またはその偽物で商いをしているようである。
日本の職人は、単に輸入品を模造するだけでは満足せず、オリジナル品を改良しようと努めている。たとえば、石油ランプを正確に模倣した後、日本の職人は、使用していないときに置く小さなラッカー・キャビネットを作る。
宿屋で出されるコーヒーを淹れるコーヒーポットは、3つのチャンバーを備えた独創的な仕掛けで、明らかにヤンキーの創意工夫を再現している。
近くの小さな丘の上に大きな神社があり、石段が本殿の入口まで続いている。
階段の入り口には、独特の鳥居がある。この鳥居は神社の特徴的なシンボルであり「鳥の止まり木」を表現している。
 多くの神社が寺院の中庭を占めている。神社はほとんどが木造で、さまざまな神々を崇拝している。
各神社の前には、かならず賽銭箱がある。
日本人の信者は神社の前で 1分間ポーズをとり、頭を下げて手のひらを合わせる。
それから小銭を 1枚か 2枚、賽銭箱に投げ入れる。
本堂には数多くの絵画、弓、矢、剣など、さまざまな品物が奉納されている。
漁師が信仰する神社では、巨大なシルバー・ペーパー・フィッシュ(魚拓?)と無数の三叉魚槍が奉納されているのが特徴である。
日本の神話に精通していない旅行者は、他の奇妙なオブジェクトの中に、3フィートほどの長さの不釣り合いな鼻を持つ巨大な人間の顔(大天狗)を見ることもある。

関門海峡と亀山八幡宮
明治5年(1872) 内田九一撮影
長崎大学付属図書館所蔵資料

註、スティーブンスが訪れた下関の神社は赤間神社か上の写真にある亀山八幡宮と思われる。あるいは両方訪れたか。

スティーブンスも乗っていた
コロンビア自転車

私も乗ったことがある
コロンビア自転車 50インチ
オハイオ州フィンドレー
1991年6月29日撮影

2023年3月26日日曜日

スティーブンス佐賀に入る

 スティーブンス佐賀に入る

スティーブンスは長崎を出発して難所の日見峠をダルマ自転車で越え、その後、矢上~大村~嬉野~武雄~牛津を経てようやく佐賀に入る。

註、この画は佐賀の街をダルマ自転車で走るスティーブンスを描いている。人力車などが多く行きかい賑わいを見せている。番傘をさした女性、手前の子供は一見独楽を回しているように見えたが、よく見ると何か小動物のようなものを紐で繋いでいる。右端は下駄をはいた侍の様で二本差しを帯びている。1876年(明治9年)の廃刀令で軍人や警察官吏以外は所持できないはずだが、日本人の人物像を強く印象付けるためにあえてこの侍を描いたのであろうか。

令嬢を乗せて人力車を曳く車夫は大股でかけている。手で持つ梶棒も長く肩の上まで伸びている。この構図も画家の脚色であろう。

人力車が多くなる
「AROUND THE WORLD ON A BICYCLE」の挿絵


(一部抄訳)
佐賀に入ると平坦で連続した1マイル以上の走りやすい道になる。
何百人もの人々が住む村の大きな学校を過ぎると、青銅の大仏の前で子どもたちが大合唱していた。
佐賀で有名な通りは、やや起伏のある特徴的な杉並木の道である。
雄牛を先頭に荷車の農民に出合う。彼らは身分の低い人のようである。
日本の馬は、陽気で空想的な装身具に飾られている。
私と自転車を見ると後ろ足で立ち上がってキーキーと声をあげ、近づいてきて私を噛むようなしぐさをした。
このような百姓の一団が通り過ぎるときはいつも用心深くなる。

車夫の頑丈な手足に曳かれて、人力車がかなり頻繁に行きかうようになる。
半裸のような恰好で小走りする男たちは、二輪車の前にある梶棒をつかみ時速6マイルの速さで走って行く。
田舎の工場から街までをタイルを積んだ重い手押し車を曳く労働者もいる。
中国人ほどではないが、どの町や村でも重労働のほとんどはこのような人々により行われている。

ヨーロッパ商品の取り扱いに於いてコミカルな人の名前や商標及び完全な模倣が行われ、呆れた間違いが多く見受けられた。今日も昼食をとっている食堂で、ギンガム生地の傘を製造している多くの傘職人がいて、すべての傘に、会社名「ジョン・ダグラス、マンチェスター」とプリントしていた。普通のタバコにも「葉巻」というラベルが大胆に貼られていた。


2023年3月24日金曜日

自転車関係資料 - 226

 自転車関係資料 - 226

この資料は「簡易写真術」明治39年9月19日発行

明治39年の自転車銘柄が載っている。まだ圧倒的にデートン、ピアス、スネルのアメリカ車が多い。

巻末に「輪友銃猟写真雑誌」の広告あり。


表紙

25頁
デートン

26頁
ピアス

27頁
スネル

28頁

29頁

30頁

奥付

国会図書館所蔵資料より

2023年3月23日木曜日

スティーブンスが通った日見峠

 スティーブンスが通った日見峠

1886年11月23日、自転車世界一周旅行で来日したトーマス・スティーブンスは、長崎から横浜への800マイル(約1200㎞、直線距離で950㎞)の道のりを例のダルマ自転車でスタートした。

長崎を出発して長崎街道(228Km)を小倉に向かって行く。途中には最初の難所である日見峠があり、スティーブンスはこれをダルマ自転車で越えなければならなかった。この日見峠の道は1882年に開通し、当時は建設費用を補填するための有料道路であった。峠には通行料金の徴収する小屋があり、通行料は、馬車5銭、荷車3銭、人力車2銭(地域の住民は無料)と云われ、当然ながらスティーブンスも人力車並みの2銭を払ったはずである。ところが、日本語が分からない彼は誤って往復料金を払ってしまい、帰りの通行切符の木札をもらっている。或いは一般的に往復料金が基本で片道だけの利用を伝えないと往復料金を徴収されることになるのであろう。

本「AROUND THE WORLD ON A BICYCLE」の挿絵を見ると、料金徴収所に和服を着た年増の女性とスティーブンスがいるのがわかる。丁度通行料を払っているところで、ここで女性から通行手形のような木札をもらっている。

手前には珍しそうに男女がその光景を後方から眺めている。画の奥には人力車も見える。

峠の頂上付近は山を切り崩し、ちょうど切通しのような形状になっており、この山の尾根を通り抜けて行く。峠を越えると道はカーブが連続して下って行き、日見川沿いの道になる。この川に沿って行くと時々石や木でつくられた橋を渡る。夕刻近くには矢上という小さな宿場町に到着した。ここの茶屋で早めの夕食をとる。魚料理と日本酒で腹ごしらえ。給仕に出てきた女性は鉄漿をしていた。この日の宿泊場所は更にダルマ自転車で走り日没近くに長崎街道の宿場町である大村に泊まる。この日の走行距離は凡そ20㎞であった。

日見峠の料金所
「AROUND THE WORLD ON A BICYCLE」の挿絵

明治中期の日見峠
長崎大学付属図書館所蔵

現在の日見峠
何となく当時の面影を残している
Googleストリートビューより

トーマス・スティーブンス
「自転車世界一周」の挿絵より


註、日本の自転車文化の発祥の地は長崎とこの日見峠である。
ここから日本での自転車(二輪車)とサイクリングの歴史が始まったと云っても過言ではない。
どなたか企画してサイクリング発祥の地「日見峠」を喧伝したらいかがであろうか。
1886年11月23日は記念すべき好日である。また11月23日は「勤労感謝の日」でもある。

参考資料、
長崎市が日見峠に設置した案内板よると、

日見新道(明治新道)
明治時代になり、日見峠の道路改修が計画され、新たに設立された日見峠新道会社によって、 新道の建設が行われました。 約1年4か月の工期と、当時の金額で約4万7000円という莫大な工費をかけた新道の開通によって、天下の難所といわれた日見峠を、人力車や馬車などが通行できるようになりました。
なかでも最大の工事が、峠を33メートル切り下げた切通しで、 約1年をかけて明治15年(1882) に開通しました。
会社は工事費を償還するために、一人5厘、人力車2銭、 馬車5銭の通行料をとることにしました。 これが、わが国の有料道路の始まりといわれており、明治17年(1884)から22年(1889) まで徴収が行われました。 長崎市

日見峠
日見峠では、江戸時代から昭和初期まで、毎年旧暦の八月一日、すなわち八朔に日拝みをする習慣があり、多くの人で賑わったそうです。 
 日を見る峠ということで、日見という地名がつけられたと伝えられています。
 また、 天正6年(1578) 長崎甚左衛門と深堀純賛が当地で戦った際、 深堀氏側は大軍勢で押し寄せていることを装って、さかんに火を焚いてみせたといわれており、火を見る峠で火見と称し、後に日見と改められたという説もあります。 
 長崎奉行の送迎の際は、 地役人は立山奉行所からこの峠まで出迎え、見送りをするのが慣例でした。
  なお、 明治時代に日見新道(明治新道) の切通しを開削したことに伴って、「新茶屋」が一時的にここに移されました。 長崎市

2023年3月22日水曜日

ラルマンのヴェロシペード

 ラルマンのヴェロシペード

お馴染みのピエール・ラルマンの特許状である。

P. LALLEMENT. VELOCIPEDE. 

Patented Nov. 20, 1866.

№59915

註、この特許状については自転車史関係の多くの書籍等で引用されている。


図1~3

仕様書

一部を抄訳、
P.ラルマン、ヴェロシペード

特許番号59915番 1866年11月20日

関係するすべての人へ:
私、パリのピエール・ラルマンは、コネチカット州のニューヘブンに一時的に住んでいて、ヴェロシペードの新しい改良を発明した。
ここに、添付の図面、およびそこに記された参照文字に関連してた完全、明確、かつ正確な説明であり、上記の図面が本明細書の一部を構成、
図1は、側面図、
図2は、上面図、
図3は、フロントエンド図である。
私の発明は、車輪を駆動するためのメカニズムとガイドのために配置をした2つの車輪で構成されている。
この配置でライダーはバランスをとることができる。
他の人が私のヴェロシペードを構築して操作できるようにするために、添付の図面に示されていることを説明する。

AとBは共通の構造の1つの車輪であり、それぞれが前後に配置されている。図1および図2に見られるように、車軸を分離し、一方を他方の真正面に配置し、 図1と図2は、図1に見られるように、2つの上を通過するバーC によって接続されている。
アーム付き c、の図下に伸び、各ホイールの軸で支えられている。 
前輪Aのアームは、バーcのピボット上に配置されているため、ハンドルD Dによって、前輪を右または左に回転させることができる。(図2)。

フォワードの車軸にホイールA、クランクEを固定する。
ロッキングトレッドル、F、同じトレッドルがクランクピンの下でバランスが取れているため、図3に示すように、平らな面は常に最上部になる。
図1および図2に示すように、バネIの上にサドルシートHを配置・・・・。

ピエール・ラルマン(PIERRE LALLEMENT)

証人:
ジョン・E・アール(JOHN. E. EARL)
アルツィー・J・タービッツ(ALTSLE. J. TRBBITS)

2023年3月21日火曜日

スターの続き -50

 スターの続き -50(最終回)

「自転車のデザイン:図解された歴史 2014年発行

トニー・ハドランド、ハンス・エアハルト・レッシング共著

BICYCLE DESIGN An Illustrated History 2014/3/21

TONY HADLAND AND HANS-ERHARD LESSING


159頁



図 5.2 左: アメリカン・スターの最初のバージョン (特許図面)。 右: 大幅に改良された後のバージョン (R. John Way)。

ハイホイーラーの影響は、より新しく、より安全なデザインの一部に引き継がれた。
たとえば、アメリカン・スターは基本的に、小さな前輪を直接操舵し、大きな後輪をレバーで操作する後輪駆動のハイホイーラーだった。
その発明者は、ニュージャージー州ハモントンのジョージ・プレッシー。 (1880 年の米国特許 233.640)

ニュージャージー州の製造会社は、後ろ向きのハイホイーラーのように見えるアメリカン・スターを製造。 

ライダーは、下り坂でのコースティングには優れているが、ペダルを強く踏みすぎると前輪が地面から浮き上がる「後方へのヘッダー」になる傾向があるため、上り坂では慎重に乗らなければならない。

アメリカン・スターは、1890 年代に至るまで、ドレスデンのエルステ・ドイチェ・スター・バイシクル・E・クレッチマール・カンパニー
(Erste Deutsche Star Bicycle E.Kretzschmar Company) によってドイツでライセンスを受け製造されていた。

駆動チェーンの端はコイルスプリングでしっかりと固定され、ライダーがペダルを踏むと、レバーがチェーンを引っ張り、スプロケットと駆動輪を回転させた。そしてライダーは、コイル・スプリングの作用でペダルを静止位置にもどした。
アメリカン・スターの 2 番目のバージョンは、ニューヨーク州スミスビルのウィリアム ・ケリー (William Kelley) によって設計され、チェーンの代わりに革のストラップを備えた足踏み駆動となった。(1885 年の米国特許 321.819)


2023年3月20日現在で、まだヤフオクに残っていた。
このヤフオクの写真がきっかけで、50回にわたりアメリカン・スターについて紹介したわけである。

2023年3月20日月曜日

スターの続き -49

 スターの続き -49

「ホイールとサイクリング、トレード・レビュー」1888年4月13日号

The Wheel and Cycling Trade Review -1888


133頁
スターの広告



修理! 修理! 修理!
ニューヨークのスター本社。
前輪の小さな車輪の友人へ。
支店併設の新店舗・115 リバティ ストリートで迅速・安価・丁寧に修理
設備の整ったショップと有能な職人により、ホイールの修理を行うことができる。

 ご愛顧を賜りますようお願い申し上げます。

ジャージーマンとブルックリンの住人は簡単にアクセスできる。

H. B. スミス
工場と本社、ニュージャージー州・スミスビル

2023年3月19日日曜日

スターの続き -48

 スターの続き -48

「自転車科学」第 3 版 2004年発行
デヴィッド・ゴードン・ウィルソン著

「Bicycling Science」 third edition 
David Gordon Wilson · 2004

94頁

(一部抄訳)
アメリカン・スターのハイホイーラー (図 1.19) の駆動装置は足踏み式だが、ギヤは可変ではなかった。

図 1.19
1880年の足踏み式自転車、アメリカン スター。 (1892年のボードリー・ド・ソニエより)

2023年3月18日土曜日

スターの続き -47

 スターの続き -47

「ホイールとホイーリング」

サイクリスト必携のハンドブック、 2016発行(復刻版)

ルーサー・H・ポーター著

「Wheels and Wheeling」

An Indispensable Handbook for Cyclists, 2016 issue (reprint)

by Luther H. Porter

註、スターではないがよく似たタイプの自転車があったので紹介する。



モナ・セイフティ

(一部抄訳)
1890年にはモナ・セイフティと呼ばれる大輪タイプのレバー・アクション後輪駆動自転車が製造された。
「全体的な外観は、英国のどのパターンよりもアメリカン・スターに似ている。前輪は後輪の約半分のサイズである。
ステアリングは傾斜したステアリング・ポストによって操作し、アメリカン スターと非常によく似ている。
ライダーはハンドルのすぐ後部にすわり、図のようにレバーによって駆動する。
マシンの両側にある水平フレームは、レバーの支点を支えている。・・・

2023年3月17日金曜日

スターの続き -46

 スターの続き -46

雑誌「鉄の時代」1890年発行

Magazine「The Iron Age」 1890.


スターの広告


スター
最高の万能自転車
完全に安全。 スピーディー。「ヘッダー」はない。 
最高のヒルクライマーとツーリングマシン。
ニューヨークのセールス・ルーム、
カタログ無料進呈
住所、H.B.スミスマシン株式会社 115リバティ・ストリート
ニュージャージー州スミスビル

註、「ヘッダー」とは、オーディナリー型自転車に乗車中に障害物に突き当たったり、または急ブレーキをかけることによって前方へ投げ出され、落下時に頭部を打つ事故のこと。
オーディナリー型自転車のことを別名「ヘッダー」と呼ばれたこともある。

2023年3月16日木曜日

スターの続き -45

  スターの続き -45

「L.A.W.速報とグッド・ロード」1887年発行

「L. A. W. BULLETIN AND GOOD ROADS」1887.

280頁


(一部抄訳)
自転車の進化
女性の車輪.1880-1886.
前回の記事で説明した自転車は女性用に特別に作られたものたが、その目的にはほとんど適合しておらず、実際に適したマシンが製造されるまではさらに実験が行われた。
次に登場したハイホイールの後輪駆動タイプは女性が乗っていたかもしれない。
それは、1880年10月26日にG.W.プレッシーが特許を取得したアメリカン・スターである。 
当初の設計では、前輪と長いステアリング・ステムの間は女性のドレスに十分なスペースがあった。
大きな駆動輪はガードで保護され、フレームにピボットされた長いロッドが、ライダーが乗っている間、マシンを直立に保持した。
しかし、女性が乗ったことがあるかどうかは疑わしい。

スターの続き -44

  スターの続き -44

「バザール・エクスチェンジとマート」1881年1月14日号

「The Bazaar Exchange and Mart」 Issue January 14, 1881

48頁

(一部抄訳)

アメリカン・スター自転車

年の瀬に、自転車製造に於いてこれまでにない最も根本的な変化が起こった。

英国のメーカーは、標準的パターンで満足しており、その改善に全力を注いでいた。

あるメーカーはセーフテ・ チャレンジで人気を博したが、その試みは失敗に終わった。 

ニュージャージー州ハマートンの G.W. プレッシーは、米国紙によると、小さな車輪を大きな車輪の前に置くことによって革命を起こした。

外観は非常に印象的で、通常のマシンのライダーには奇妙に見える。 

詳細はアメリカの新聞からだが、この国では新しいマシンが登場するのを心待ちにしている。おそらく自転車ライダーにとって興味深いものになるだろう。

前述のように、このマシンは小さな車輪がドライバーの前に配置されているため、通常のペダル操作はできない。・・・・


2023年3月14日火曜日

スターの続き -43

 スターの続き -43

ジェリー・ノエラガーと1888年のアメリカン・スター自転車の写真

Photo、 JERRY NOERAGER AND 1888 AMERICAN STAR BICYCLE 



ジェリー・ノエラガーと1888年のアメリカン・スター自転車
ルイス・ニュース・ニュースレターの記事より
2009年8月27日

提供写真:米航空宇宙局  

2023年3月13日月曜日

スターの続き -42

 スターの続き -42

「自転車」ビジュアル・ ヒストリー決定版 イラスト付き、2016年発行 DK (出版社)

 「Bicycle」 The Definitive Visual History – Illustrated, May 24, 2016

by DK (Author)


19頁


マーシュ&クレッツマー、セーフティ・スター1887
ドイツ製
フレーム: スチール
ギア:2速
ホイール: フロント 18 インチ (45 cm)、後部 42 インチ (107 cm)

スターには、いくつかの新しい開発が含まれていた。 
後輪はバネ付きの革製ストラップで駆動し、ラチェットを調整してさまざまなギア比を得ることができた。
トレッドル(足踏みペダル)は、独立または一緒に操作され、身長の異なるライダーが同じマシンに乗ることができた。

足踏み機構
ペダルを交互に押すと、革製のドライブ・ストラップがホイールの両側のドラムから引き離される。フリーホイール付きのスプリングがストラップを巻き戻し、ペダルを上げる。

2023年3月12日日曜日

スターの続き -41

 スターの続き -41

「ハーパーズ・ニュー・マンスリー・マガジン」第28巻 1884年

「Harper's New Monthly Magazine 」vol.28. 1884.


418頁

スターの広告部分を拡大


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2023年3月11日土曜日

スターの続き -40

 スターの続き -40

「「ハーパーズ・ニュー・マンスリー・マガジン」第63巻 1881年

「Harper's New Monthly Magazine 」vol.63. 1881.

284頁

(一部を抄訳)
1880年に G. W. プレッシー氏によって特許を取得した新しい自転車。
発明者によってアメリカンスターと名付けられたこの自転車は、プレッシー氏により、その構造と操作方法の両方に根本的な変更をもたらした。

2023年3月10日金曜日

スターの続き -39

 スターの続き -39

「スタンフォード」ボニー・K・ブル著 2004発行

「Stamford」 by Bonnie K. Bull · 2004

96頁

左下: イーグル自転車(EAGLE BICYCLE)
1883 年、レナード・B・ゲイラー(Leonard B. Gaylor) は、この高輪安全自転車の設計で特許を取得した。
1888 年、Eagle Bicycle Manufacturing Company がスタンフォードで法人化された。 
ゲイラーのユニークなデザインは小さな車輪を前に置き、自転車をより制御しやすく、より速くした。この自転車は1892年まで製造された。

註、このキャプションは、アメリカン・スターとイーグルを混同しているようである。
参考までにゲイラーの特許であるイーグルを下に載せる。

レナード・B・ゲイラーの特許自転車
1887年4月19日付の特許状 第361.280号の一部
シリアル番号 217.472

2023年3月9日木曜日

スターの続き -38

 スターの続き -38

「ケネベック渓谷周辺」  ハーマン・ブライアント・コレクション

 ゲイ. M. グラント著 2022年8月29日発行

「Around the Kennebec Valley」 The Herman Bryant Collection 

by Gay M. Grant (Author)  August 29, 2022


115頁

(下の写真)
AMERICAN STAR BICYCLE、 C. 1890. このアメリカン・スター自転車は、1880 年代に人気のあったペニー・ファージング自転車とは車輪が逆で、前輪が小さく後輪が大きい。
 アメリカン・スターはH.B. スミスによって1881年に特許を取得。
 ニュージャージー州の Smith Machine Company は、安定性、速度、およびステアリングの容易さのために車輪を逆にした。

写真にはラベルが貼られていないため、撮影場所やライダーが誰であるかは不明である。

註、側面からの写真ではないので、スターなのかイーグルなのか判然としない。
このキャプションではスターとしている。

2023年3月8日水曜日

スターの続き -37

 スターの続き -37

「モーガン・カントリー」

ブライアン・マック、リンダ・ミッドキャップ共著 2016発行

「Morgan County」

Brian Mack and Linda Midcap · 2016



フォート・ モーガン(コロラド州)のメイン ストリート201 番地にあるクレイツ・ ドラッグ・ストアの前を自転車に乗っている人物の写真。
この自転車は、1881 年に特許を取得した American Star Safety Bicycle に似ている。

註、これはアメリカン・スターに似ているイーグルである。
ライダーの足元に注目。

2023年3月6日月曜日

スターの続き -36

 スターの続き -36

これも「スミスビル」の続き、

「スミスビル」デニス・マクドナルド著 2019年発行

「Smithville」 by Dennis McDonald 2019.

108頁

1880年代後半から 1890年代前半にかけて、H.B. Smith Machine Company は、市場の需要に対応するためにさまざまな自転車や三輪車の製造を開始した。
その生産に含まれるタンデム自転車(上)、三輪車(下)、女性用レバー安全自転車、空気入りタイヤを備えたダイヤモンド・フレームの男性用レバー安全自転車などであった。
1880年代後半にジョージ・プレッシーが起こした訴訟と、1887年のヒゼキア・スミスの死去により、会社の自転車への熱意は終焉を迎えた。
生産は 1890年代初頭に停止した。
 (資料:バーリントン郡選出自由保有者委員会、公園部門)

2023年3月5日日曜日

スターの続き -35

 スターの続き -35

これも「スミスビル」の続き、

「スミスビル」デニス・マクドナルド著 2019年発行

「Smithville」 by Dennis McDonald 2019.


104頁

(上の図)
1886年のアメリカン・スターの自転車カタログには、ポロをしている 2人の男性が描かれている。
マレットの代わりにスターの前輪を使ってボールを打つ。
このゲームは、スター自転車を宣伝するもう1つの方法であった。
前輪が小さいスターだけが、このスポーツをするために使用された。
 (資料:キムとウェイン・バッテン)

(下の写真)
雑誌、バイシクリング・ワールドは、1884年5月30日号でこの試合に関する記事を掲載した。 
”ワシントンとスミスビルのチームが演じるポロのゲームは、興味深い光景であり、非常にエキサイティングであった。4人が一丸となってボールに突進するとき、観客は息をのんだ。ライダーのマシン操作は驚きであった。的確なブレーキ操作で衝突事故は起きなかった"
 (資料:コロンビア地区公共図書館の特別コレクション)

2023年3月4日土曜日

スターの続き -34

 スターの続き -34

これも「スミスビル」の続き、

「スミスビル」デニス・マクドナルド著 2019年発行

「Smithville」 by Dennis McDonald 2019.

103頁

世界最高のスプリント・サイクリストの 1 人は、アーサー・オーガスタス・ジマーマンであった。
ニュージャージー州カムデンで生まれ、フリーホールドで育った彼は、「ジャージー・スキーター」の愛称で呼ばれた。

写真の右と下に見えるジマーマンは、1893年8月にシカゴで開催された第1回トラック ・サイクリング世界選手権でスターに乗って出場した。

  ザ・ベアリング誌によると、これがオーディナリー自転車とスターとのトラックでの最後の出場であった。 ジマーマンはレースに勝ち、その後もラレーの自転車でレースを続け、世界選手権で優勝した。
(資料:右、フランクリン研究所コレクション、下は著者のコレクション)

2023年3月3日金曜日

スターの続き -33

 スターの続き -33

これも「スミスビル」の続き、

「スミスビル」デニス・マクドナルド著 2019年発行

「Smithville」 by Dennis McDonald 2019.

102頁

(上の写真)
1885年9月8日から10日間のスプリングフィールド(マサチューセッツ州)バイ・クラブ・トーナメントの初日、アメリカン・ホイールメンの恒例の3マイルのアマチュアレースでジョージ・ウェーバー(左端)は、アメリカン・スター自転車に乗り、スタートラインに並んでいる。 
3日間のスプリングフィールド大会は、当時国内最大の自転車レースであった。
このレースでウェーバーは8分34.8秒のタイムで優勝した。 
(資料提供:バーリントン郡選出自由保有者委員会/公園部門)

(下の写真)
アメリカン・スター自転車のレーサー、チャールズ・フレイジャー(左)とジョージ・ヘンディーのスタート前の写真。1884年5月23日にワシントンDCで開催されたアメリカン・ホイールメン選手権大会の1マイルレース。

この競技は、スターの広告が主な財源であった。
H.B. スミス・マシン・カンパニーは、大会で最も権威のあるレースの勝者にはスター自転車を贈呈した。

サイクリング愛好家は、自転車の雑誌を読んで、最速の選手が誰であり、どの自転車に乗っていたかを確認した。
(資料提供:コロンビア地区公共図書館)

2023年3月2日木曜日

スターの続き -32

 スターの続き -32

これも「スミスビル」の続き、

「スミスビル」デニス・マクドナルド著 2019年発行

「Smithville」 by Dennis McDonald 2019.

101頁

世界的に有名なサイクリスト、ジョージ・ウェーバーが、写真スタジオでニッケルメッキのアメリカン・スター自転車でポーズをとっている。

ウェーバーは、1885年と1886年に世界で最も有名なサイクリストの 1 人だった。
1886年8月24日、21歳の若さで彼の輝かしいキャリアは、腸チフスで亡くなり途絶えてしまった。

「Bicycling World」誌の1886年8月27日号の記事には、「1 年半の間のレースで、彼は 40のレースで36回優勝した。彼は毎時20マイルを走った最初のアメリカ人だった」とある。

1885年のバーリントン市の名簿には、彼の職業が”自転車乗り”であることが記載されている。彼はおそらく、その職務内容を公言できる数少ない米国の1人であった。
(資料:バーリントン郡選出自由保有者委員会/公園部門)