2025年10月7日火曜日

自轉車瓦版 第39号

 自轉車瓦版 第39号

昭和60年6月24日発行

☆(前号からのつづき) “BSA”

かくして自転車の生産計画はスタートした。当面200台の自転車の組立てが決まり、この評判を見て、更に生産計画は拡大されることになった。兵器メーカーの作った自転車と言えば、 ロイアル・エンフィールドがそうであるし、我国でも宮田製作所がその代表的な例である。製品の品質は街工場の自転車メーカーに比べて、格段の差があったと言われている。材料ひとつを取上げても、銃器の生産によって得たノウハウが大きくモノを言ったのである。BSAの自転車生産は、数年の内に1000台を記録していた。企業化は軌道に乗り自転車メーカーとしてのBSAの名は次第に知られるようになっていった。しかし、BSAの首脳陣は自転車生産に見切りをつけ、 1888年にはこの分野からの撤退を決定するのである。次にBSAが自転車を手がけるのは、5年後の1893年のことである。この時は完成車の組立てには手を出さず、部品の供給メーカーとしての再スタートであった。

(”クラッシックMCファンダム”第21号、1980.8.1 日本二輪史研究会より)


BSA空挺部隊用折り畳み自転車、1944年
国立陸軍博物館所蔵 英国