自轉車 第9号 - 1
快進社 明治34年4月1日発行
口絵 東西曲乗家、ピーアイ会員、石川商會米國支店員、同商店神戸支店
自転車百話(其7)
奥州轉輪記
女子嗜輪會に臨みて
自轉車乗として吾人の眼に映したる北米の道路と我道路の比較
遠乘會の午餐に就て
自轉車 第9号 - 1
快進社 明治34年4月1日発行
「ホイール」誌 - 8
サイクリング・トレード・レビュー
第2巻 第1号
ニューヨーク、1888年8月31日
キング・オブ・ザ・ロード・サイクルランプの広告(一部抜粋)
今はサイクリングに最も楽しい季節だ。しかし、夜は早く訪れ、9月の涼しい夜には、明るい光を放つ良質なランプがなければ、サイクリングを楽しむことはできない。
キング・オブ・ザ・ロードに匹敵するランプはない。
激しい競争にもかかわらず、有名なキング・オブ・ザ・ロード・サイクルランプは優位性を保ち、世界中のすべてのサイクリストから、最高のランプであると評されている。
その優秀さは、徹底した職人技による製造方法、最高級の錫のみの使用、すべての部品がしっかりとリベット留めされていること、ホイールへの取り付けやすさ、大きなオイル保持能力、揺らぎにくい輝きと安定性、そして以下の改良点。
米国総代理店 クラークサイクル社 メリーランド州ボルチモア
自轉車瓦版 第39号
昭和60年6月24日発行
☆(前号からのつづき) “BSA”
かくして自転車の生産計画はスタートした。当面200台の自転車の組立てが決まり、この評判を見て、更に生産計画は拡大されることになった。兵器メーカーの作った自転車と言えば、 ロイアル・エンフィールドがそうであるし、我国でも宮田製作所がその代表的な例である。製品の品質は街工場の自転車メーカーに比べて、格段の差があったと言われている。材料ひとつを取上げても、銃器の生産によって得たノウハウが大きくモノを言ったのである。BSAの自転車生産は、数年の内に1000台を記録していた。企業化は軌道に乗り自転車メーカーとしてのBSAの名は次第に知られるようになっていった。しかし、BSAの首脳陣は自転車生産に見切りをつけ、 1888年にはこの分野からの撤退を決定するのである。次にBSAが自転車を手がけるのは、5年後の1893年のことである。この時は完成車の組立てには手を出さず、部品の供給メーカーとしての再スタートであった。
(”クラッシックMCファンダム”第21号、1980.8.1 日本二輪史研究会より)
自轉車瓦版 第38号
昭和60年6月24日発行
★前号からのつづき "BSA"、
BSAはこの当時、バーミンガムのSmall Heathに大エ場を建設する準備を着々と進めていた。手始めに工場用地が確保され、実に10万平方メートル(101.170m²)にも及ぶ用地の買収を終えていたのである。兵器メーカーとしてスタートしたBSAは、国家の保護の元に生産設備を拡張し大規模兵器会社へと発展を続けていた。領土拡張を狙い、貪欲に利権をあさる当時のイギリス国家にとって、兵器の生産は目的達成への不可欠の要素だったのである。この時代のイギリスは、1882年11月のアフガニスタンへの侵略戦争。翌年1月に勃発したズール戦争(英軍のズールランドへの侵入)などに見られるように、世界各地で侵略戦争に明けくれており、大量の武器弾薬を必要としていた。BSAにとっては企業拡大のまたとないチャンスだったわけである。しかし、こうした状況もそれほど長くは続かなかった。1880年頃には戦争も一段落を見せ、兵器の需要は次第に頭打ちとなりはじめていた。この1880年という年は、BSAにとって、記憶せねばならない年とあった。同社のトレードマークであり、白転車のエンブレムともなった、“三丁の小銃”のマークが、この年正式に採用されることになったのである。
兵器生産の停滞に直面したBSAの首脳陣は、新しい分野への進出を計って、積極的に多角経営に乗り出す決意を固めていた。発明家のE.Otto氏は、自身の考案した自転車をたずさえてBSAに乗込み、首脳陣を前に、この自転車のデモンストレーションをして見せたのである。結果は大成功だった。もともと新い事業を模索していたBSAは、この自転車生産に多大の期 待をかけることになった。自転車が当時有望な商品であったのはもちろんであるが、兵器メーカーであるBSAにとって、従来の生産設備の流用が可能である点も、大きな魅力のひとつであった。(次号につづく)
「ホイール」誌 - 7
サイクリング・トレード・レビュー
第2巻 第1号
ニューヨーク、1888年8月31日
クアドラント三輪車の広告
三輪車にクアドラントという名前がつくと、確かに多くの意味がある。
それは、すぐに「他とは一線を画すだけでなく、明らかに優れた」マシンである。大きなハンドル、主軸上の延長されたブリッジ、この軸に2つ以上のベアリングの使用、そして継ぎ目のない完全に剛性の高いフレームといった重要な特徴で流行を先導した。それは長年にわたり、完璧な職人技と誠実な素材、つまり満足のいく三輪車の保証を伴った名前である。
クアドラント・タンデム No. 15
1888年6月19日、ボルチモアで開催されたL.A.W.ミートレースの2マイルオープンハンディキャップ優勝。史上最速かつ最高のヒルクライムタンデム。
クアドラント三輪車 No.8。紳士専用。
1888年6月19日、ボルチモアで開催されたL.A.W. 1マイル選手権優勝。2分38秒で1マイルを走破。
クアドラント三輪車 No.14。女性用
全体的に軽量設計で、特に女性の使用に適している。また、軽装の男性にも適している。
イギリスで最近行われた軍事演習では、すべての自転車メーカーが、自転車の軍事用途への適応性を証明するために、有能なライダーを乗せた自転車を派遣し、部隊を編成するよう招待された。90台の自転車が強行軍に参加しましたが、完走したのはわずか15台であった。
最初に到着したのは8番のクアドラント三輪車で、セーフティ三輪車とオーディナリー三輪車をすべて打ち負かした。他のメーカーの三輪車はどれも完走できなかった。
クラーク・サイクル・カンパニー
メリーランド州ボルチモア、ハノーバー通り2番地と4番地
ワシントン支店、ペンシルベニア通り908番地
自轉車瓦版 第37号
昭和60年6月24日発行
★メーカー事始シリーズ NO.2 "BSA”
BSAという名前を知ったのは1965年頃である。あるスーパーマーケットの自転車置場で婦人用のBSAを見たのに始まる。始めのうちはその自転車を見て、なんと汚らしい地味な自転車と思った。しかし、まわりに置いてある自転車と比べると、なにか趣きが感じられた。サドルバックは、既に弾力はなく、後のマッドガードにへばりついている状態でかなり使い古された自転車であった。それから数年後、忘れかけていたBSAの思いがまたまた現われたのである。 そこで、なんとかこの自転車を手に入れようと、あちこちの自転車店を尋ね歩いた。遠いところは、電話で問い合わせBSAがあるかどうか確認した。しかし、すべて 無いという返事ばかりであった。それも当然である。 BSAは既に過去の自転車であったからだ。 ところが、浜松のシクロサロン戸塚という自転店にBSAがあるという情報を得た。そこで、はるばる 同店を尋ねた。「BSAがあるということを聴いて来ました。 もしあれば譲って欲しい」すると店主は「あれは売る訳には行かない私が長年親しんできた自転車だから」結果はある程度、予想されていたが、むなしさだけが残った。
今はBSAを欲しいという気持ちは全くなくなった。それは、戦前の国産車に興味の対象が移ってしまったからである。
BSAは、1692年、ウィリアムⅢ世の時代のイギリス・バーミンガムで鉄砲鍛治により創設されたのが、B・S・A (Birmingham Small Arms Company)の始まりであった。もっとも創立当時の呼名は、BSAではなく、この名称が正式に使われるようになるのは、1861年からのことである。(次号につづく)
註、The Birmingham Small Arms Company Limited、1861年、バーミンガムのGun Quarterにて創業。
「ホイール」誌 - 6
サイクリング・トレード・レビュー
第2巻 第1号
ニューヨーク、1888年8月31日
ニューラピッド・ダルマ自転車の広告
最高級のマシンに不可欠なすべての改良部品を搭載。
折れないトゥルータンジェントスポーク、座屈しない厚底中空リム、緩まない中空取り外し可能ハンドルバー、最高級の溶接なしの鋼管製のバックボーンとフォーク、時計のような精度で作られたボールベアリング。
ロードスター重量、40ポンド(すべて込み):ハンドルとサドルは選択可能。
ライトロードスター重量、36ポンド(すべて込み):ハンドルとサドルは選択可能。
クラーク・サイクル・カンパニー
メリーランド州ボルチモア、ハノーバー通り2番地と4番地
ワシントン支店、ペンシルベニア通り908番地
自轉車瓦版 第36号
昭60年6月21日発行
★前号からのつづき 『トライアンフ』
1886年にベットマンはブランド名を“トライアンフ”と改め、翌87年にはロンドンにトライアンフ・サイクル会社を設立した。自転車業界は時代の波に乗って大発展を遂げている時期であり、ベットマンはこのチャンスを逃がさず自転車メーカーとしての道を歩むことになったのである。1889年には技術者であるモーリス・ヨハン・シュルテを会社に迎え、いよいよ独自の自転車を生産することになった。この時期トライアンフ・サイクル会社には、 有力な出資者であるダンロップ社が現われ、 ともかくベットマンは好運なスタートを切ることかが出来た。 (”クラッシックMCファンダム”第30号、1982.2.1 日本二輪史研究会より)。 次回のメーカー事始シリーズでは“BSA”を予定。
自轉車瓦版 第35号
昭和60年6月21日発行
★メーカー事始シリーズ第1回、
『トライアンフ』 横浜の石川商会が明治40年頃、トライアンフを輸入したのが日本人とトライアンフとの最初のふれあいであった。トライアはむしろ自転車ファンよりもオートバイ 愛好者にその知名度は高く、“トラ”という愛称で親しまれた。現在でもそのファンは多い。 20年ぐらい前にはよくトライアンフのタイガーやボンネビルを走らせるライダーを見かけたものであった。
『トライアンフ』のブランドは、創立者であるジーグフリード・ベットマンが、1886年に自社の自転車に付けたのが最初と云われる。彼は、1884年にドイツからイギリスへ移住した人物で、故郷のバイエルンでは裕福な地主の息子として育ち、高い教育を受けていた。イギリスに渡った当時のベットマンは、まだ21才の若さであったが、優れた能力と語学の教養を武器に、たちまちの内にアメリカ資本のホワイト自動車会社で重要な職を得るまでになっていた。その後、彼は会社勤めの経験を生かして独立し、貿易会社を設立してミシンなどの商品を扱うようになった。1885年には自転車の分野にも手を広げ、“ベットマンマシン“のブランドで販売を始めたのである。この頃のベットマンは独自の自転車工場を持っていたわけではなく、バーミンガムのウィリアム・アンド・リュースが製造した自転車を買い、それに”ベットマン"のブランドを付けて販売していたのである。(次号につづく)
「ホイール」誌 - 4
サイクリング・トレード・レビュー
第2巻 第1号
ニューヨーク、1888年8月31日
以下はワーウィックのダルマ自転車の広告
ワーウィックは、完璧である。
アメリカやヨーロッパの市場のどの自転車よりも、改良が施されている。
これは長年、発明家たちの研究の成果である。ワーウィック・スプリングベアリングフレームは、この問題に対する最初で唯一の解決策だ。このスプリングベアリングは、あらゆる衝撃を吸収するように設計されており、振動のない唯一の自転車を生み出した。ベアリングフレームの内側、フォークの下には、スチールとゴムで作られたスプリングがある。スチールが歪みを、ゴムが振動を吸収することで、どんなに荒い乗り方をしても、ライダーはわずかな衝撃も感じない。これは高く評価されるべき点である。
M.F.A.株式会社
マサチューセッツ州スプリングフィールド
自轉車瓦版 第34号
昭和60年6月20日発行
☆この瓦版も今年の3月20日に創刊し、既に3か月を経遇した。毎月少なくとも10回ぐらいは発行したいと考えていたが、どうにか皆様のおかげで当初の計画どおり10回ペースで来ることが出来た。いずれにしても会員諸氏からの情報によりこの瓦版は成り立っているので、今後もどうか自転車に関する情報等お寄せいただきたい。形式はぬきにしてメモで結構ですからハガキでお寄せ下されば幸いである。なお、バックNO. は常時用意しているので希望の方は気軽に申し出を。
☆この度、斉藤俊彦氏より、「交通史研究」NO.13の抜刷版を送っていただいた。これは同氏が学会に報告したレポートで、瓦版NO.24 で紹介したもの。論文名は、「日本における自転車の製造・販売の始め -(竹内)寅次郎の事績について-」(「交通史研究」第13号・昭和60年4月25日)、目次は次のとおり、一 序、二 明治維新のころの自転車状況、三 寅次郎(のち竹内姓)事績の史料及び彼の経歴、四 錦絵に見る「自転車」五 寅次郎事積の内容、六 まとめ。この論文の結論付けとして(1)寅次郎の考案、 製作にかかる一人乗り、二人乗りの三輪車「自転車は」国産自転車製造の始めである。(2)寅次郎が自転車という名称の命名者である。(3) 自転車取締規則は明治3年7月に日本で初めて制定された、など。 なお、この寅次郎の論文については、追って会報にて取り上げる予定である。
ホイールマン誌 - 3
第2巻 №1 1883年4月発行
"嫉妬"
チャーリー・リチャーズ・ダッジ作
Ⅰ デイジー、愛を、ブロンドの髪を、今夜はキスもなしに、薄暗い月明かりの中、私はどこへ自転車で去っていくの?まだ私を愛していると言ってくれる、キスもないのに、私が何をしたというの、そんなにひどい扱いを受けるの?
Ⅱ「他の人を愛する?」そんなはずはない、デイジー!私はあなた以外誰も愛したことがない!あなたは嫉妬深い!誰に?続きを教えて、私が弱り果てる前に?「自転車が一番好き?」
Ⅲ デイジー、愛よ、目を上げて私の目を見つめて、ニッケルプレートよりも明るく輝いて、最愛の人よ、もし自転車が一人で立っていられないなら、放して、ほら!あと一つだけ、ダーリン、デイジー、私のもの
自轉車 第6号 - 7
以下は興味ある記事を拾い読み。
最近米国学術雑誌に記載せられたる軍用自転車
(双輪商會寄稿)
今や自轉車は軍隊編成上欠く可らさる機關の一にして各國陸軍に大に其声価を認められ其發達の度の又極めて速かなりし事は實際驚くべき程なるが、數ヶ年以前になりて自轉車の未だ玩弄物視され其實用的運命を見る能はざりし時代にありては、是を軍事に使用して斯も著しき效果を収むべきものとは到底思も依らざりし所なりしが、近來漸く其名声を高め甞て一度は輕蔑の眼を以て之を度外視したる人士の今はなかなかに之を實戰に使用すべく説いて止まざるに至ては不思儀なる一現象とこそ云ふへけれ、實際自轉車は斥候或は傳令等の軍務に關しては他に比敵するの機関なしといふべし、盖し自轉車は軽快にして處理し易く、快速力を有して些少の音をも發せざる。馬上に於けるが如く敵の視線に触れ易き憂なき等の四点より之を論するに到底他に是と對等すべきものなきは明白なる事なり。近來英の陸軍に於ては種々試験の結果総員二千名よりなれる自轉車隊を編成せしが、これは斥侯傳令等の軍務に従事するにあらずして、今之を假に日本に譬へんに一個の敵軍横濱港より上陸なし鉄道を破砕しつつ、漸時東京へ進軍しつつある場合に際し、陸軍は先ず兼て準備したる此自轉車隊を發して神奈川附近に於て一時前進しつつある敵兵を喰止め、后本隊を發して之と替らしめなば、敵は其目的を達する事能はざるべしといふ軍務に備へられたりといへり、佛、獨、露等の諸強國の陸軍にして既に自轉車隊を編成せさるは殆どなきぼとの發達を見るに至りしが、其使用する自轉車は概ね外見は普通車の如く見ゆるも蝶つがひの作用によりて山岳等行通の不便なる路を進行するに際し・・・
「ホイール」誌
サイクリング・トレード・レビュー
第2巻 第1号
ニューヨーク、1888年8月31日
1888 ニューメール
これ以上のグレードはない。これほど成功したダルマ自転車は市場に登場したことがない。
昨年、発売したアメリカ製のニューメールライトロードスター。
すべての部品はスチール鍛造で、完全に互換性がある。
当社が管理するトリグウェル(TRIGWELL)ボールベアリングヘッドの大幅な改良が施されている。過去2年半の実際の道路使用により、絶対的な成功が証明された。完璧に強化されたバックボーンとフォーク、そして厚くなったベースリム。自転車事業に携わって以来、昨年のNEW MAILで全国各地からこれほど多くのお褒めの言葉をいただいたことはない。これらは著名な、ライダーの意見であるため、ホイールのメリットを示すこれ以上の強力な証拠は提供できない。一部のディーラーがボールヘッドに何の利点もないと批判してきたため、トリグウェル特許の真のメリットを明確に理解していただくために、この事実を強調して言及せざるを得ない。
トリグウェルは私たちが管理しており、他社は使用できないこと。トリグウェルはボールを封じ込める唯一のボールヘッドであること。ボールヘッドを最初に採用したため、最も多くの経験を積んできた。そして、2年半使用してきたトリグウェルは大成功であると宣言する。事故の場合でも修理が簡単で、コーンよりも耐久性がある。この成功の最大の証拠は、来年、ヘッドの細部に至るまで一切変更しないと宣言していることである。すべての部品は完璧に機能しており、変更は必要ない。2月1日発売のNEW MAILの説明カタログを送るまで、新しい注文は控えください。今すぐお名前をお送りください。すべての町で優秀な代理店を募集している。以前の代理店は、継続を希望の場合はすぐに連絡していただき、早期納品のために注文してください。
WM. READ & SONS、ボストン、ワシントン通り107番地
自轉車 第6号 - 6
以下は興味ある記事を拾い読み。
ホイールマン誌 - 2
第2巻 №1 1883年4月発行
ピスカタクア川でペダルを漕ぐ。
常に休むことのない歴史ある川で・・・。
近年、彼らは夏に水辺や海岸で仲間を集め、健康を保つために見知らぬ人々が押し寄せる場所に注目している。しかし、その光景はあまりにも多く、それらを辿るには潮流が速すぎる。・・・
自轉車瓦版 第33号
昭和60年6月19日発行
☆第6回神鍋カップサンツアーロードが8/17~8/18 に兵庫県国定公園神鍋高原の一般公道で開催される。 今年のよびものは、あのスパースター、エディー・メルクスが来会するということだ。レースの前夜祭や当日にはサイン入りのオリジナルグッズの販売も行なわれる。 エディー・ メルクスについては、いまさら説明する必要もないが、一応そのプロフィールを紹介しておく、 ツール・ド・フランス5回、ジロデ・イタリア5回、世界選手権4回、インタ-ナショナルクラシック32回、6日間レース17回の他、 ロードレースで524回の優勝。72年メキシコで行われたアワーレコードでも49.431キロというすばらしい記録を出している。世界最高殊勲スポーツマン (ワールド・モースト・アウトスタンディングスポーツマン) 1969年,1971年,1974年という超人的サイクリスト。現在は一線を引退、自転車のメルクス工房を経営している。
★”8時だヨ!全員集合”にダルマ自転車が登場 (60.6.15 TBSテレビ放映)、いつもバカバカしいと思いながら、子供が見ていたのでなにげなく眺めていたら、ドリフの一人加藤茶がダルマ自転車に乗って現われた。一瞬だったのでその形状はよく分らなかったが、どうも“瓦版“NO.15で紹介したダルマ自転車のようであった。ブリジストンや山口で以前ダルマ自転車のデコを製作したことは知っているが、それではなかった。あるいはアメリカから輸入されたレプリカかもしれない。
☆メーカー事始シリーズとして、瓦版第35号より、遂次特集する。始めのうちは、外国のメーカーの簡単な起源を紹介し、なれたところで本番である日本のメーカーに進んで行きたい。なにぶんにも資料がないのでどのようなものが出来るか不安であるが、なにはともあれスタートする。シリーズの第1回として、“トライアンフ”を予定。
自轉車 第6号 - 5
以下は興味ある記事を拾い読み。
ハツセーハンドル
(四七商店輸入)
此のハンドルは只一挺のスパナさへあれば天地縦横自在に變換し得るものにしてその變換数45通あると製造者は云へり圖は變換の模機を示したる處のものなり
一、ハッセー氏の發明にかかるを以てハッセーハンドルの名あり
一、圖の如く先へ把手の出て居るを以て如何に下げるとも決して膝頭に障る如き憂るし
一、變化多ければ破損し易からんと杞憂するものあらんが堅牢なること普通ハンドルに優るとも劣らないは米國輪界の實驗に於て保證する處なり
自轉車瓦版 第32号
昭和60年6月18日発行
☆先週の土曜日(昭60.6.15) リー・フランシスが見たくて、関戸自転車店(横浜市西区戸部)を尋ねた。この自転車のことは以前、雑誌、「サイクルスポーツ」(昭50.1.1発行)で紹介された。この自転車は、大正15年ごろ、既に関戸商店にあったというから、60年以上にもなる。恐らく日本では、この一台が唯一のものであろうか?リー・フランシスについては、まだ分からない部分が多い。イギリスには資料もかなり残っているだろうが、日本には殆どないと云った状況だ。ただし、自動車関係の本の中に、このリー・フランシスについて、書かれたものがあるので参考までに次に紹介したい。
リー・フランシス (Lea-Francis)もまた、ラレー・シンガー、ローヴァーなどと同じく、19世紀末のサイクル・ブーム期に自転車の製造によって身を起こした英国の小メーカーである。ただ、他の成功したメーカーとは異なり、リー・フランシスはこの揺籃期を脱するのに時間を要しただけでなく、絶えずつきまとう財政難のため、自動車生産を幾度か中断せざるをえなかった。・・・
リー・フランシスの歴史は、1895年、リチャード・ヘンリー・リーとグラハム・イングルスビー・フランシスが、コヴェントリーに高級自転車工場を開設したときに始まる。因みに、R・H・リーは独立するまでの17年間を、同じくコヴェントリーの自転車メーカー、シンガーで過ごし、最後の7年間は工場長を務めた。自転車製造が軌道に乗ると、リー・フランシスは御多分に漏れず自動車とオートバイの製造に関心を向ける。・・・
(世界の自動車№20、ラレー、E・R・A、リー・フランシス、ニ玄社 74.6.10より)
自動車の生産は、1962年まで続いたようだが、自転車については、よく分からない。今後調べたいところである。
ウィーン自転車新聞 -2
ミシンと自転車産業の振興を目的とした業界誌。
ウィーン、1895年7月 第10巻。
毎月25日発行。
すべての自転車メーカー、製造業者、販売業者、代理店。英国、ドイツ、イギリス、フランスなど。また、オーストリアの自転車クラブ、イタリアの自転車クラブ、ロシア、セルビア、ルーマニア、ブルガリア、トルコ、ギリシャ、エジプトなど、6000社以上の自転車メーカーがこの新聞に掲載されている。
下の挿絵は、「渇き」、ルイス・スタインの記念論文集より、
自轉車瓦版 第31号
昭和60年6月17日発行
☆須賀氏からの情報。合気道の開祖植芝盛平のエピソード、「終戦後、稽古場への行き帰りに先生を自転車のうしろにお乗せしたものだ。ところが五尺そこそこの小柄なかたなのに、自転車のハンドルが地上に浮くような重量感があるのでびっくりした」戦後まもなく教えをうけた弟子の思い出話より。
☆「週刊読売」の6月2日に、竹沢特許事務所の人のサイクリング人生が掲載されている。おそらく竹沢荘一氏のことではないかと思われる。竹沢氏は当研究会の会員でもある。高橋達氏からの情報。
☆ぼくの父は、若いころ、自転車乗りだったらしい。らしいと書いたのは亡くなってからかなり月日が 経ってしまったし、その話を父から僕は直接聞いていないからだ。父の故郷は愛知県の瀬戸だ。明治生まれだから、青年のころ、田舎の町で自転車に出会うことは西洋人に会ったような感覚だったと思う。彼は三つ揃いの背広に山高帽で自転車に乗っていた。自転車に乗ることはモダーンだったのである。浅井慎平、昭60.6.10付朝日新聞(夕刊)より
☆古本屋(株)アドニスで雑誌「自転車競技」①~㉝号揃いで売られている。価格は、全部で4千円、希望者は、下記へ連絡を。
〒104 東京都中央区八丁堀2-18-8
ウィーン自転車新聞
広告、
シュタイアー兵器工場のスイフト軍用自転車
オーストリアのシュタイアー兵器工場は、英国の一流企業に倣い、自転車の製造を開始し、最高品質の自転車を手頃な価格で一般の人々に提供することを目指している。素材は厳選され、それぞれの用途に応じて綿密にテストされている。鍛造から始まるすべての部品は、自社工場で極めて精密に製造され、完全な互換性を確保している。光沢のある部品はすべて銅メッキが施され、錆びを極限まで防ぐ。他の部品は、非常に高温で3回ホーロー加工されている。この厳格な製造工程により、高品質で耐久性のある自転車を製造しており、皆様に自信を持ってお勧めできる。1895年モデルには、自転車業界のあらゆる最新技術が取り入れられている。
書籍案内
風に描く : 自転車と絵画 加藤一 著 文芸春秋
1987年3月1日発行
一部抜粋、
21 少年の夢
屋外での楽しい遊びは家の商売用の自転車を持出して、三角乗りをすることだった。子供用の自転車などはなかなか買ってもらえないのだ。今の子供にはわからないだろうが、三角乗りというのは、大人用の26インチの自転車では子供の足が届かない、そこで三角のフレームに足をつっこんで反対側のペダルをまわす、というより踏んで自転車を動かす乗り方である。
ニコライ堂脇の坂を上り下りするのはすばらしく楽しい遊びだった。Sの字にゆっくりカーヴする坂はたいしてきつくはない。それでも三角乗りで上まで登りきるのはかなり大変なのだ。途中から自転車を下りて押して上がらなければならないこともあった。しかし二階建ての自転車に乗ったような気持で、一気に下降するときの爽快なスピード感はこたえられず、二度、三度と性懲りもなく重い自転車を坂の上まであげたものだ。・・・
自轉車瓦版 第30号
昭和60年6月16日発行
☆須賀氏からの情報。①瓦版の第26号で中国の自転車記事にあったが、自転車技術同好会発行のBiaニュース(85年3月号)に海外自転車情報として中国の自転車工業の現状リポートがある。②「世界の国民スポーツ」(上巻、木味堂新書、昭和52年5月)のP.303に中国の自転車記事あり。③「中国新しい風」(NHK取材班編、日本放送出版協会、昭59.12発行)P.129~152に自転車物語という記事があり、かなり詳しく書かれている。④「値段の明治、大正、昭和風俗史」(週刊朝日編、昭56年刊)P.128~P.132には、自転車の値段とちょっとした記事あり。同じ「値段の明治、大正、昭和風俗史」週刊朝日編(昭59年刊)のP.144-148には、三輪車の記事がある。⑤「アサヒグラフに見る昭和前史」Ⅱ(大正13~15年)のP.213、P.228、P.229、P.170、P.69に自転車のグラビアと記事あり。⑥京浜急行の広報誌「なぎさ」は月1回発行されるが、4号にサイクリング特集。「なぎさ」は京急の主な駅で無料配布されている。⑦「われらの世界」(4月号、外務省発行)には、「オランダ王国のくらしと文化と題し、自転車が国民の足であることが書かれている。⑧「東京風俗志」(復刻版、昭58.3発行、平出鏗二郎、初版は明治32年)P.100.P.116.P.102に不忍池での競争の模様が書かれている。
(誌面の関係で今日はこの辺にする)
自轉車 第6号 その4、
女子嗜輪會月報
◎明治三十三年十一月二十五日午後一時より日本橋區吳服町高橋方に於て發起會を開く會者八人規約十條内規五ヶ條を左の如く議決す
女子嗜輪會規約