自転車文化が花開いたころ
「自転車文化が花開いたころ」アーヴィング A. レナード著 1969年発行
「When Bikehood was in Flower」 by I. A. Leonard ,1969
日本にも関係が深いフランク・レンツの部分を抄訳、
自転車文化が花開いたころ
「自転車文化が花開いたころ」アーヴィング A. レナード著 1969年発行
「When Bikehood was in Flower」 by I. A. Leonard ,1969
日本にも関係が深いフランク・レンツの部分を抄訳、
アレックス・サンジェ関連
「オン・ザ・ホイール」 第7号 1999年2月 - 3月
ON THE WHEEL
Magazine for the Classic Cyclist №7 Feb-Mar 1999
フランスのサイクルツーリングは、国を超えて有名なルネ・エルス、ジョー・ルーテンス、アレックス・サンジェの3社のサイクル メーカーによって繁栄した。
レイモンド・ヘンリーが、1999年8月にカナダのオタワで開催された第9回国際自転車歴史会議の論文の中で、アレックス・サンジェの生い立ちと彼の会社の沿革などを紹介。
アレックス・サンジェは1905年にハンガリーのブダペストに生まれた。彼は1923年にフランスに移住し、自転車競技選手として練習やレースを積極的に行っていた。1938年に自転車メーカーとして起業。
その後は自転車レースから離れ、サイクルツーリングに専念 ・・・
スプリングフィールド・ ロードスター
下の写真は30年ほど前に売るに出ていたスプリングフィールド ・ロードスター 。
1887 年頃の 50 インチ スプリングフィールド・ ロードスター ラチェット ドライブ ハイホイール セーフティの写真。価格は 4,500 ドル。
岡山と自転車
「岡山の交通」藤沢 晋 著 1972年5月1日発行
自転車は明治のはじめ錦絵に画かれているものもあるが、それは三輪の前輪につらなる棒を 手で前後に動かすことによって前進する型で、 実用にはならなかった。これとはちがって、明治3年ごろから二輪で前輪にハンドルとペダルをつけたものが、西洋人使用の自転車からつくられた。当時この種の自転車について記してい るところをみると、「ガラガラゴロゴロ四衢二馳駆シ八街二奔走、(中略)之二乗ル者ハ大率ネ下等人ノ剔返野郎二属シ、未ダ上等人ノ乗ル者有ルヲ見ザルナリ。初メ之二乗ル者ハ未ダ之ニ慣レザルニ由テ皆怪我有リ、一転一倒、再転再倒」(石井研堂『明治事物起原』)とあり、 あまり実用化されなかった。明治10年代の後半から前輪のみ大きい「達磨」自転車があらわれ、これはかなり普及していった。はじめは全部鉄製であったが、そののち輪にゴムをつけ、明治30年ごろからは前後輪とも同じ大きさで空気入りゴムをつけたので、乗り心地もよく、人力車とちがって他人の労働によらないから安あがりで往来できるので、都会にも田舎にも重宝がられて普及していった。 岡山に自転車がはじめてあらわれたのは明治18年であったが、実用に使われだしたのは日露戦争ごろからのようで、市内の自転車数も明治37年302台、同42年1,068台、大正2年2、026台とふえ、庶民の近距離交通機関として今日まで重用されている。
メヤム自転車の栞
以下は、メヤム自転車の栞 1962年
見にくいが栞の両面を広げてコピー
栞の挨拶文
挨拶
今回は数多き自転車の中より特に弊社製品を御撰択御買上げ賜り哀心より有難く御礼申上げます
弊社製品は五十年の古い歴史を持ち国際自転車研究室に於いて常に新しい自転車を研究し東洋一を誇る優秀な設備によりオートメーションで二分半に一台の割で生産されアムスラー型万能試験機、荷重試験機、振動試験機等十数台の試験機によって厳重に検査された製品で品質は絶体に保証されて居り、その優秀性は広く海外へ知られ輸出高も我が国第一を誇って居ります。
その上弊社が世界中で初めて全車種に盗難及び火災保証付とし何時でも何処でも最も安心して乗っていただける自転車に致しました。
何卒今後共弊社製品を御愛乗賜りますと共に友人、知人の方にも自信をもって御推薦下さいます様御願い申上げます。
JISマーク表示許可工場
日帝工業株式会社
「輪界」第1号
「輪界」第1号 輪界雑誌社 1908年(明治41年)9月25日発行
清輪 - 10
「清輪」清輪社 1905年(明治38年)3月10日発行
◎自轉車輸入の趨勢
自轉車の輸入は二十九年度にありては拾萬圓に過ぎざりしが遂年増進の趨勢を呈し三十六年に至ては九十七萬五千圓に上れり是れ同品が近年都鄙一般に流行し來りて使用者の増加せるに拘らず内地に於ける製造業の振はざるに基因するが如し而して之れが産地は英米なれども其大部分は米國なり
平石久平次関連 - 11
下記の試験に平石久平次の問題が、
第3回 彦根城下町検定試験 問題と解答
平成19年9月23日(日)施行
検定試験問題は100問、各1点、100点満点です。
制限時間は60分です。
43問、江戸時代中期の彦根藩士で、天文学・暦学などを学び、世界初の自転車といえる三輪車を製作した人物を次の中から選びなさい。
A.石居元政
B.平石久平次
C.山口喜平
正解:B. 平石久平次
モトゥス 自動車の前史
Motus The prehistory of the automobile 2022年発行
陸奔舟車の部分を抄訳、78頁から81頁
8. 陸奔舟車 彦根(日本)、1732年
素材:木材(松、ポプラ、イチイ)、鍛造鉄、真鍮シート、鋳造青銅、銅、ジュート繊維、天然接着剤、装飾シルク、煮亜麻仁油、着色顔料
寸法:長さ237cm、幅102cm、高さ123cm、重量48kg
カール
フォン ドライスが 1817 年に自転車を発明したと云う説は世界中の学者が認めている。しかし、日本ではその 85 年前にすでに自転車を走らせていたことを知る人はほとんどいない。
1732 年に、彦根藩の奉行で、天文学者、数学者であった平石久平次時光
(1696 ~ 1771 年)
は、ボートの形をした陸上の乗り物である陸奔舟車と呼ばれる奇妙な乗り物を発明した。 これは私たちの目には非常に珍しいことであるが、18世紀の日本には整備された道路はほとんど存在せず、交通手段として船が一般的に使われていた。 中でも小型の田舟は、農民が水田で作業するために使用した。
神々(七福神と宝船)さえも船に乗って描かれていた文化的背景においては、陸上の乗り物が船の形をしていても不思議ではない。
1729 年には、埼玉本庄の百姓、正田門弥が一種の四輪陸上ボートを発明した。
この車両は、かなり大きな歯車に取り付けられたプラットフォームに立って足を踏み込むことによって操作され、その回転の動きは小さな歯車から車軸に伝達され、車輪を回転させて推進した。
この発明は、私たちの物語に何の痕跡も残していない。なぜなら、それは将軍に献上されたものであり、将軍はそれを保管し、決して公開しなかったからである。
四輪陸船車のことを知ったとき、平石は将軍が所蔵していた絵図しか見ることができなかった。
ある意味、これは幸運な偶然であった。なぜなら、彼は独自の発想で自由に設計できた。前輪は一輪にしてステアリングが容易になった。 彼の車両には、より重要な利点があった。それは、今日の自転車のように連続的にペダルをこぐように設計されているのに対し、正田門弥の車両では、ライダーは階段を登るときのように両足で交互に踏んでいたからである。
つまり、平石は、直立姿勢で乗り、脚を推進力として使用することで、より少ない筋肉エネルギーで体の重量を活用することができたため、珍しいながらも非常に合理的な形状のヴェロシペードを設計した(図15)。
日本人が自転車発明の優位性を主張するのは、まさにこの特徴のためである。ペダルを備えた1732 年制作の陸上ボートは、ダンディホースよりもはるかに近代的だ。
ペダル使用の優位性に疑問の余地がないとすれば、陸上ボートには、将来の自転車を特徴づけ、世界的な成功を決定づける基本的な要素を欠けていた。 平石の多大な価値は、モビリティの歴史にマイルストーンを打ち立てたことにある。 このあまり知られていない出来事は、近年になって明るみに出て、平石の故郷である彦根城文化会館の入り口には記念碑が設置された。
平石の陸奔舟車は、エレガントでかつ極めて前衛的な三輪車である。
精緻な装飾は、船や荷車がしばしば明るいデザインや色で装飾されていた東洋の世界を思い出させる。 ハンドルバーは陸上ボートの中央にあり、その下部は車両に固定されており、前輪に接続された 2 本のロープによって操縦される。 ステアリング角度を示す銅製のダイヤルは、今日の飛行機や船舶と同様に、ハンドルバーの下部に配置されている (図 16)。これは、正しい方向を示す道路がない場合に非常に便利な装置である。
文字盤のデザインは珍しい。陸上車両としては不便だが、存在理由がある。それは、動物を任意の方向に動かして進む従来の馬車とは異なり、ドライバー自身がステアリングを制御する史上初の車両の一つと云える。
平石のような正確な学者にとって、典型的な方位の矢印と天空のマークで示されるステアリング角度を測定する装置は、この問題を克服するために必要な装置であった。 ペダルは日本の下駄と同様に足を固定するシステムを採用している。 フットペグのストラップは、足の滑りを防ぐために太い溝のあるパッド入りの綿膜で包まれている。(下駄の鼻緒)
陸上ボートの上部は赤い絹の布で覆われている。 麻の葉模様(吉祥文様)は日本人にとってお守りとされている。伝説によると、それに触れた人を守る力があり、悪霊を追い払う力があるからだ。 また、平石の車両を献上する井伊家藩主(家紋の丸に橘)へのオマージュとしてオレンジの葉も描かれている。
C.F.
トルピール ・ヴェロ
トルピール ・ヴェロ(TORPILLE VELO)
世界有数のサイクリスト、マルセル・ベルテは、若いエンジニア、エティエンヌ・プサン・ヴァリラとともに、興味深い実験を行った。
1913年にこの魚雷形のトルピール ・ヴェロは、空気抵抗を減らし、時速は 43.77 キロメートル (時速 27.20 マイル)の記録を達成した。
平石久平次関連 - 10
「中川泉三著作集」 第6巻 中川泉三著作集刊行会 編 川瀬泰山堂
1978年11月30日発行
久しく御ぶさた致し恐縮致します、 先日新聞紙上にて拝見致しましたが、貴台彦根史料御研究中、陸奔車を発明せし天文学者の存在を御発見の由、ついては小生是非拝眉の上詳細御話し御うかがひ申上げたく存じます。
御都合により何時にても参上致します。よろしく御指導願上ます。
五月十日
中川泉三先生
山本一清
註、山本 一清(やまもと いっせい、1889年5月27日 - 1959年1月16日)は、滋賀県出身の天文学者。
中川 泉三(なかがわ せんぞう、1869年5月25日 - 1939年12月27日)は、日本の歴史家、滋賀県内各郡志の編纂に携わる。
仙臺新報 - 11
「仙臺新報」第25號 仙臺新報社 1908年(明治41年)8月31日発行
自轉車の昨今
自轉車製造は漸次に好況を呈し、今や全國に内地製の自轉車は五六萬臺の多きに及ぶべし而して輸入自轉車にして現に使用されつつある者は少くとも三十万臺に下らざるべし抑もそも 自轉車の壽命は平均五ヶ年として過去四年間は年々五六萬臺の輸入ありしや疑無し、固より自轉車製品としての輸入は年二萬乃至三萬あるべきも税金を免がるる爲に未製品の形體にて輸入せられたるもの、三四萬臺に及びしは自轉車に関する種々の需要品修繕等によって推測し得る也昨今は自轉車の輸入大に減少せるも尙ほ月々二千五六百臺の輸入はあるべく内地製造の品も亦月一千乃至千五百臺に及ぶべし云々宮地福三郎氏の談として近刊の東洋經濟新報に見たり
平石久平次関連 - 9
「天界」第15巻 第172號 東亜天文学会 1935年7月25日発行
395頁に、
七月例會
7月13日夕、この日期待された納涼會も朝からの雨模様のため、來集した人々は顔馴染の會員約20名、多くは京都支部の會員達であったが大阪より臨席された熱心な方々もあった。三伏の暑さを忘れて涼風を入れながら、一同落付いた氣分で山本一清先生の平石時光の天文學を聴く、先生はつい最近彥根の城下で獨步の業績を遺した一天文學者平石時光(1696-1771)を發見されるに及び、屡々その遺業を尋ねて同地へ出張され、相繼いで莫大な且貴重な資料を發見され目下之等の資料につき分類と整理研究の途上であり、天文と數學、殊に曆術への偉業は實に驚異と敬服に値するもので、尙この外、多方面の學術的の手記・著作等が続々發見されてゐる由である。席上には精密な 天文分野之圖や、手記・年表等を並べられ、聴く者はこの深い興味と今後の先生の研究結果への盡きざる期待と關心とを持って、誇るべき碩學の遺業を偲び、夜更くるまで相語り合った。曇天のため觀測は中止する。(高城記)
シュタイアー ・ウェポンホイール
シュタイアー・ウェポンホイール:古い自転車の魅力
ヴァルター・ウルライヒ 著 2024年6月18日発行
Das Steyr-Waffenrad: Der junge Zauber eines alten Rades
Walter Ulreich
オーストリアでは、「ウェポンホイール・Waffenrad」というブランド名は、古くて黒塗の重い自転車の代名詞となっている。 何世代にもわたって使えるように作られた堅牢な自転車である。 この古い自転車には魅力を感じる。
ウェポンホイールを追跡し、その詳細を調べ、その年代を知ることが、この本の目的である。 100年以上にわたる自転車の興味深い歴史が明らかになる。
註、ウェポンホイールはオーストリアのシュタイアーにある兵器工場会社(Waffenfabriks-Gesellschaft) によって製造された自転車のブランド名。
仙臺新報 - 10
自轉車旅行の注意(一部抜粋)
スヰフト商會 鈴木重行
自轉車旅行に就て、一般無經驗の人に参考となるべき點を左に述ぶれば。
一、何れ旅行するには、自轉車と否とは問はず、朝は早く出發して、途中濫りに湯水を飲まぬやうにせなければならぬ、食後には餘に疾走せず、三四十分から一時間位は休んで出發してからは、途中で休む事はつつみ十分に車の惰力を利用して、緩急餘りに烈しくしてはならぬ、殊に注意すべきは、あまり急であっても又全く緩であつても、両方同じく疲勞するといふ點である。
一 、携帯品は、凡て形の小さいものを選ぶべき事、命の親も邪魔になる腰辨當といふ句を味ふは、自轉車旅行で殊に痛切に感ぜられる。
一 、坂にかかるか、風に向つて進行する時には非常に妨げられる、この點は市内の乗輪とは大した差がある。荷物の大小、ギヤ(歯車)の大小に依っては、大分差のある事だから成可小さなものが宜い。
一、坂を降下するには、完全なるブレーキを豫め備へて置くのが安全である、但しブレーキがない時か、不完全な時には下車して歩るくに如かずである。
一、不案内の坂を下る時には、完全なるブレーキが備って居ても危険であるから、急降を慎まねばならぬ。
一、ギャケース及び泥除は雨路には必要であるが晴天なればない方が宜い、殊に向風も横に風をうける時などには非常な妨害になるが益は更にない。
一、サットルペダルの距離は、股下の寸尺より少なくとも二三时短くして、餘裕を作つて置く必要がある、ペダルを爪先にて踏むのは疲勞と危險の虞がある。
一 、可成常に使用して慣れた自轉車を使用る方が宜い。
一 、輸行中濫りに両手をハンドルから放したり又は左顧右眄するやうな事は慎まねばならぬ落車などの危険はこんな不注意から來るのである。・・・・
平石久平次関連 - 8
吉宗と「寶曆甲戌曆」
吉宗は延享元年(西暦一七四四年)に西川如見の子正休等を招いて貞享曆の改正を命じ、京都の安部、幸徳井諸家等と交渉を重ねて、遂には寶曆甲戌曆を制定した。當時、京都の天文博士のためには彦根の篤學者平石時光が大に観測と研究に力を盡したのであつて、甲戌曆は全く京都と江戸との合作になるものである。
寶曆暦は四十二年間行はれた。
仙臺新報 - 9
「仙臺新報」第23號 仙臺新報社 1908年(明治41年)7月3日発行
自轉車大競走會
當市東北新聞社主催の自轉車大競走會は既記の如く去月六日午前九時より市内澱橋の西舊講武所に於て舉行したり、何がさて久々にての催ふしとて会場の周圍恰も人波を打つ斗りの雑踏を極め見物人が競走毎の聲援は山岳も爲に搖ぐ許りなりき常日午前中の優勝者氏名は左の如し
▲第一回自轉車一哩二周 〇一着 小野寺嘉一 〇二着 幕田貞吉 ○三着 丹野 長太郎
第二回同二哩四周 〇一着 齋藤敬二郎 〇 二着 尾形勇之助 〇三着 高橋春吉
第三回徒競走〇一着 石川権之丞 〇二着 金田豊治 〇三着 遠藤正 〇四着 安嶋安之助 〇五着 宇松清助
第四回自轉車競走三哩六周 〇一着 菅原富吉 〇二着 針生長五郎 〇三着 中島兼治
▲第五回同二哩四周・・・・
平石久平次関連 - 7
「現代滋賀県人物史」 乾巻 施善次郎 編 暲竜社 大正8年10月発行
ミルクホール西洋料理業
平石佐源次君
橫濱市尾上町五丁目七十五番地 電話四六六二番
維新前後武家凋落の時代に人となれるもの、多くは苦楚慘澹の間に世路の艱險を踏破したるなり、 四民平等の潮流は滔々として其脚下を洗ふも、彼等は尙未だ格式の舊夢より醒めやらず、世祿の恩を離れては、恰も轍鮒の如く、自ら世に處し生を支ふる所以を知らざりしが、世と共に漸く醒めて、漸次社會上の優者を出すに至れり、平石君の如きも亦其一人なり、時代の端境期に生れ、幼にして家國の喪廢に遇ひ、轉々定りなき運命の一路に流轉して、尙能く今日の獨立を成せる、其意志の鞏固なりし、以て想見すべきなり。
君は明治元年二月十五日、彦根町字丸野木六番屋敷に生る、家元と井伊家の舊臣にして、其高祖を平石時光と云ひ、實に井伊直定の従兄なり、氏碩學にして算數暦術に精しく亦古今の事歴に通じ、著述する處多し、而して畏き邊りに御嘉納の栄を負ふものありと云ふ、氏明和八年七十六歳にして卒す、次を重實と云い、故人の遺著を愛蔵し彦根長松院境内に鐵塔を建立して此に收む、大正三年此塔を開くや、天文曆算書、馬術、軍學、日記、醫書、其他の雑書五百餘部を發見せりと云ふ、其學識の深遠亦知るべし、而して其著や目下學又は天文臺等に保管せらる。 ・・・
平石久平次関連 - 6
「 日本新聞集覧 ニューダイジェスト」 昭和10年度版 中巻 新聞資料研究所 編
昭和11年3月30日発行
『寶曆ごよみ』は平石時光が完成
滋賀縣犬上郡彥根町長松院境内鐵塔内に秘められた舊彦根藩士平石久平治時光の遺書遺品を天文學者の山本一清博士が今回綿密に調査したところ紙屑同様になってゐた遺書類によってはしなくも時光こそは約二百年間わが天文曆學史上に埋もれてゐた珍しい天文曆學の權威者であった。新事實が明らとなり、同博士はかかる偉大な學者を産んだことは彦根のみでなく湖國の名譽であり、わが國の大きな誇りだとのかがやかしい折紙をつけた。
日本では千何百年の永い間支那の暦をそのまま用ひたものだが今から二百五十年前に安井春海といふ學者が苦心作成した貞享歴が日本人の力ではじめてつくられた暦であった。ところがその貞享暦も四、五十年後になって天體の動きとは大きな食い違ひのあることが發見され、改暦要望の聲が各地にやかましく起ったため、幕府は全國の學者を動員して改歴を命じたのだが當時の有名な曆學者であり、改歴の責任者だった土御門陰陽頭泰邦と幸徳井陰陽助保高らはともにいろいろと苦心研究をかさねたが改歴し得なかったとき、すなはち寶曆四年に突然現れた無名の歴學研究家こそは平石久平治時光だった。
時光は武門に生れながら文武両道を極め、馬術の達人であるとともに發明家であり、數學、天文曆學に造詣深く殊に天文曆學は十數年前から獨創的研究をかさね、當時病氣保養のため京都にあったので同人をはじめて見出だした土御門、幸徳井兩公卿から切なる依頼をうけて時光獨の研究によつて改正されたところの寶曆暦を表面はあたかも土御門、幸徳井兩公卿が改曆したごとく發表して朝廷へ献上詔勅を賜はり全國へ頒布されたもので、わが国で最も完璧だといはれた寶歴の改正功績者は、約二百年後の今日まで土御門、幸德井兩者として曆學史上を飾ってゐるが 、その實は當時五十九歳の田舎武士時光の偉大な力だったのである。
さらに遺書類中から珍らしい天文分野圖が發見されたため山本博土は京大へ持ち歸へり研究したところ、その天文分野圖は時光が二十九歳の青年だった二百十二年前の享保九年九月四日に観測した天體圖で、日月および星座の位置も明瞭に現したものであり、それとともに日食、月食の觀測はもちろんわが国では未だ觀測したことがないといはれるオーロラらしい現象を觀測した記録もあり、また約二百年前における彦根の連日の天候を日記してあるなど天文氣象學上に得難い貴重な資料がのこされたため大喜びの山本博士は調査研究をまとめた上近く學界へ發表することとなった。
なほ時光は明和八年八月十二日に七十六歳で他界し、長松院境内の鐵塔内に埋藏した遺書類のうち書籍その他主なるものは大正十二年に子孫が横濱へ持ち歸り震災で焼失したため鐵塔内に殘ってゐたものは全く紙屑のようなものばかりだつたが、その中からかかる貴重な資料が現れたことは誰しも豫期しないところだった。
(昭和十年六月廿四日 近江新報所載)