「自轉車瓦版」 第17号
昭60年5月12日発行
☆前号の瓦版16号で「サイクリング文化室」のことを書いたが、この程、同室からパンフレット等の資料を入手した。この施設は、財団法人富山県民福祉公園に所属し、先にも紹介したとおり、「自転車の発達史や保健上の効用及び科学など、自転車に関する知識の啓蒙普及を通して、青少年の健全な育成を目指す」を目的として開設されたもの。館内には、ヴェロシフェール、マクミランの自転車をはじめ、ギルメやオーディナリー等の模型、1916年頃のラーヂなどが展示されている。
「自轉車瓦版」 第17号
昭60年5月12日発行
☆前号の瓦版16号で「サイクリング文化室」のことを書いたが、この程、同室からパンフレット等の資料を入手した。この施設は、財団法人富山県民福祉公園に所属し、先にも紹介したとおり、「自転車の発達史や保健上の効用及び科学など、自転車に関する知識の啓蒙普及を通して、青少年の健全な育成を目指す」を目的として開設されたもの。館内には、ヴェロシフェール、マクミランの自転車をはじめ、ギルメやオーディナリー等の模型、1916年頃のラーヂなどが展示されている。
日本自転車史研究会デジタル・ライブラリー
現在、日本自転車史研究会では会報などに掲載された投稿記事のデジタル化を進めている。
今後、デジタル編集が終わったものから逐次ネットにUPを予定。
(他のサイトからの記事もあり)
2025年8月11日現在、
1、知られざる銀輪の”わだち” 大津幸雄
2、日本の自転車史と鑑札 高橋 勇
3、歴史を大事にしたい 今井彬彦
4、カレンダーに見る山王とロン・キッチンそして鳥山新一 渋谷良二
5、ドライジーネとミショー型の歴史 小林恵三
6、梶野仁之助伝(改訂版) 大津幸雄
7、日本の自転車史・その疑問点(改訂版) 大津幸雄
8、日本における自転車の製造・ 販売の始め 齊藤俊彦
9、自転車の歴史探訪 大津幸雄
10、「自転車学」の提唱 佐野裕二
11、日本のオーディナリー型自転車の歴史 大津幸雄
12、資料で読む中村春吉 大津幸雄
13、NCTCの分派 渋谷良二
14、自転車産業技術の変遷に関する一考察 渡邉喜久
15、「第三フランス通信」について 渋谷良二
16、彦根藩士「人力自走車」創製の記録 大須賀和美
17、自転車全書 松居松葉
18、ロンドン・ペダリング 大津幸雄
19、アンチック自転車 高橋 勇
20、創立20周年を迎えて 石原政雄
21、日本の自転車製造業の歴史 大津幸雄
22、パリの古本屋をたずねて 瀧川美佐緒
23、初めてのサイクリング 大津幸雄
24、日本の自転車灯火 梶原利夫
25、オーディナリー自転車について 大津幸雄
26、江戸中期の自転車「陸舩車」 真船高年
27、日本の自転車の歴史(遺稿) 佐野裕二
28、History
of The Ordinary in Japan Yukio Ootsu
29、”歴史は繰返す”スポークの折損より 井上重則
30、お寺にあったダルマ自転車 大津幸雄
31、旅と自転車史 植原 郭
32、日本輪友会について 大津幸雄
33、自転車発展の途をたどる 高木六弥
34、日本自転車史の脇役たち 高橋 達
35、自転車はどこを走ればよいのか? 大津幸雄
36、Around the world
on a bicycle Thomas・Stevens
37、自轉車利用論 金澤来藏
38、Bicycles
& tricycles Archibald Sharp
39、Across
Asia on aBicycle Allen and Sachtleben
40、各地の自転車小史 須賀繁雄
41、The
Modern Bicycle Charles Spencer
42、Round the World on a Wheel John Foster Fraser
43、自転車発明の始祖に思う 奈良重幸
44、自転車術 渡辺修二郎
45、名古屋デザイン博の自転車イベント 大津幸雄
46、「 自転車」のスポーツ史的考察 奈良重幸
47、日本の自転車製造業の歴史(改訂版) 大津幸雄
48、遠いフィンドレー 大津幸雄
49、ドライジーネの原書コピー 八神史郎
50、郵便と自転車 斧 隆夫
51、自転車史研究ノート 稲垣正浩
52、明治12年と自転車 齊藤俊彦
53、人力飛行の夢を追って 稲垣正浩
54、明治末の鳥取における自転車競走 大熊広明
55、ジャパンパンチ・ワーグマン 高橋 勇
56、ニュースレター・バックナンバー 大津幸雄
57、娯楽俱楽部 民友社
58、日本の自転車製造業の歴史(改訂新版) 大津幸雄
59、郵便と自転車 大津幸雄
60、明治期の埼玉における自転車事情 佐竹慎太郎
61、名車 "Rene・HERSE" 上野修一
62、スティーブンスの自転車世界一周 大津幸雄
63、簡易写真術 扶桑商会
64、1985年版資料目録 日本自転車史研究会
65、Velocipedes Bicycles
and Tricycles 1869 Velox
66、日本で最初の自転車旅行 大津幸雄
67,輪界追憶録 佐藤半山遺稿
68、輪界追憶録について 高橋 達
69,佐藤半山の遺稿 高橋 達
70、スティーブンスの日本での旅程 大津幸雄
71、アメリカン・スターについて 大津幸雄
72、堺の自転車 堺輪業協会
73、外装変速機のすべて 前田鉄工所
74、簡易自転車修繕法 佐藤喜四郎
75、ホルストマンの日本滞在記 大津幸雄
76、フランク・レンツとビクター号 大津幸雄
77、陸奔車の中川泉三 説 大津幸雄
78、正田門弥の千里行車について 大津幸雄
79、ヴェロシペードの時代 大津幸雄
80、ラントーン(RANTOONE)について 大津幸雄
81、「提督の物語」のヴェロシペード 大津幸雄
82、ヴェロシペードの時代(増補版) 大津幸雄
83、「ジャパン・パンチの自転車」-1 真船高年
84、自転車の復権 大津幸雄
85、千里行車と陸奔舟車の駆動方式 大津幸雄
86、自転車の切手について 大津幸雄
87、日本最初のサイクリング? 小林恵三
88、やはり明治の自転車リロイ号 大津幸雄
89、ジャパン・パンチの自転車 -2 真船高年
90、ジャパン・パンチの自転車 続編 真船高年
91、埴 亀齢の三輪車 大津幸雄
92、郵便と自転車の出会い 大津幸雄
93、足柄・箱根サイクリング 大津幸雄
94、南アルプススーパー林道サイクリング 渋谷良二
95、世附サイクリング 大津幸雄
96、第1回ポリージャポン 大津幸雄
97、門弥が先か? 大津幸雄
98、ラレーの思い出 山中唯裕
99、自転車年表 大津幸雄
100、サンビームのレストア記録 小池一介
101、リンゲのボーンシェーカー 大津幸雄
102、日本の自転車史 大津幸雄
103、会報「自轉車」創刊号 日本自転車史研究会
104、自転車の起源はどこにあるのか 小池一介
105、モトゥス 陸奔舟車 日本自転車史研究会
106、レンツの日本自転車旅行 大津幸雄 編
107、自転車店の老舗探訪 大津幸雄
108、スティーブンスの日本旅行記 大津幸雄 編
109、続・スティーブンスの日本旅行 大津幸雄 編
スティーブンスの日本旅行記 パート2-最終回
日本での旅程は以下の通り、
1886 年11月19日-20日、上海から日本の汽船「横浜丸」で長崎に向かう
11 月21 日、22日、 長崎滞在、これからの日本国内旅行の準備
11月23日、火曜日の朝スタート、横浜までの800マイルの旅が始まる
23 日、長崎を出発し、日見峠を越え矢上~大村泊
24 日、左は大村湾~嬉野~武雄~牛津
25 日、26日、牛津~佐賀~福岡~福間
27 日、芦屋~若松
28 日、若松~小倉~下関、 小倉から和船で下関に渡る
29 日、14時に下関着、雨のため24時間休憩、神社や寺を見学
30 日、正午には晴れ下関スタート~瀬戸内海沿いを走る
12月1日、下関~防府
2 日、防府~広島
3 日、広島~福山
4 日・5日、岡山で二日滞在、宣教師宅で歓迎パーティー
6 日、午後に姫路着
7 日・8日、 兵庫~神戸で二日滞在
9 日、大阪
10 日、淀川沿いの道を~京都へ、西本願寺、金閣寺、修学院離宮などを見学
11 日、大津~琵琶湖~石部~鈴鹿峠~坂ノ下で泊
12 日、坂ノ下~四日市~宮(熱田宿)
13 日、宮から浜松
14 日、安倍川を渡り静岡へ(徳川慶喜はスティーブンスが乗るダルマ自転車を見る)
15 日、三島、 三島大社と相撲を見学
16 日、三島~箱根越え~湯本~小田原~戸塚
1886 年12月17 日、戸塚~横浜港(太平洋郵便の北京号に乗船、日本を離れる)
註、「AROUND THE WORLD ON A BICYCLE」の巻末にある旅程に記載のない部分は距離などを勘案して適宜入れた。
「自轉車瓦版」 第16号
昭和60年5月10日発行
☆福島の真船氏からの情報によると、先日、月刊「サイクルスポーツ」誌のバックナンバーを眺めていたら、昭和55年10月号に「富山市にある自転車博物館」という記事が目に止まったそうである。この自転車博物館は、富山市鴨島字川原1850-1(TEL 0764-41-0411)の中央自転車センターの2階にあり、正式な施設の名称は「サイクリング文化室」と云う。80年4月1日に「自転車の発達史や保健上の効用及び科学など自転車に関する知識の啓蒙普及を通して、青少年の健全な育成を目指す」ことを目的として開設されたもの。日本における自転車博物館では、東京赤坂の自転車文化センターは確か、昭和56年5月にオープンしている。それよりも1年早く、昭和55年4月に自転車博物館として、名のりを上げたのであるから、なにはともあれ立派なことである。現在その活動はどうなっているのか分らないが、気になるところである。東京の自転車文化センター、富山のサイクリング文化室、そしてこの秋オープンを予定している堺の自転車博物館と、これで3施設が顔をそろえることになる。このことで日本における自転車文化も世界に通用するものになるだろう。しかし問題はりっぱな施設よりも中身の充実にある。そこで、この3施設に希望することは、単なる「歴史の紹介や展示だけではなく、そこから一歩出て、今、人々が自転車に対してなにを求めているか、あるいは、今後の自転車文化はいかにあるべきか、そして 博物館としてもっとも大切である正確な史実に基づいた日本の自転車史の解明をお願いしたい。我々も微力ながら協力するつもりである。
註、グーグルマップなどで「サイクリング文化室」を調べたが、現在それらしき施設は見当たらない。
スティーブンスの日本旅行記 パート2-32
岡部では強い風が吹いていたが、今朝もかなり風が強い。カンザスの自転車乗りを思い出す。彼はかつてコートの裾を広げ、ローレンスからカンザスシティまで3時間で走ったと云っていた。残念ながら、私が着ているコートの裾を帆として使うことはできない。そうでなければ、世界一周旅行の終盤戦は、この旅で私が遭遇した数々の出来事の中でも、最もユニークな出来事の一つとなったかもしれない。
神奈川の街路で、ドイツを出て以来最も精鋭な野砲の砲台に遭遇した。そこは横浜への道が東海道から分岐する地点である。私が京都から東京まで旅した東海道は、さらに17マイル先まで続いている。東京と神奈川の間に鉄道が開通して以来、首都から東海道を旅する旅行者は通常、神奈川まで汽車で行くため、今日では人力車の旅は神奈川から始まる。
神奈川は事実上、横浜の郊外にある。ここで見られる日本人所有の時計の1つは8時、もう1つは11時、そして3つ目は9時半を指していたが、横浜堤防にあるクラブホテルの時計はイギリス人の所有物で、まさに10時を打とうとしている。それは、私がこれまで多くの国を旅してきたダルマ自転車のサドルから降りる時である。こうして、1884年4月22日にカリフォルニア州サンフランシスコで始まったダルマ自転車世界一周旅行は、1886年12月17日に横浜で終わった。
この港で太平洋郵便汽船「シティ・オブ・ペキン」に乗り、17日後にサンフランシスコに到着した。サンフランシスコ自転車クラブ、ベイシティ・ホイールマン、そして全米各地の様々なクラブから受けた熱烈な歓迎は、当時の新聞に詳しく掲載されている。この冒険はゴールデンゲートで始まり、そして終わる。読者の温かい厚意で、再び反響を呼ぶことを願っている。
「自轉車瓦版」 第15号
昭和60年5月7日発行
☆にせ物注意!会報「自轉車」第16号の「情報あれこれ」で磐城市内の骨董屋で売られているダルマ自転車の話しがあったが、先日、福島の真船氏からの情報によると、どうやらこのダルマ自転車は模造品ではないか、とのこと。と言うのは月刊のサイクルスポーツ誌、昭和51年4月号に「いま買える珍車」として、オーディナリーが出ている記事を見つけたからである。この複製のダルマ自転車はなんでもイギリスの小さな工場で作ったものを大阪のサイクルショップ「トモダ」が当時輸入販売していたもの。オール鉄製で、ちょっとみたところ、いかにも本物と言った感じである。前輪の直径は1280ミリ、総重量は25~26キロ、この時の値段は28万円であった。このダルマ自転車と磐城の骨董屋で売られていたものとがうりふたつとのことだ。磐城のダルマは確か48万円で売られていた。当時トモダが「何台輸入したか分からないが、そのうちの一台ではないだろうか。いまにこのような模造品がオリジナルとして売られることになるだろう。そうなると我々自転車史を研究するものにとって、このことは今後重要な意味をもつことになる。ニセ物と本物を見きわめる目を持たなければならない。
スティーブンスの日本旅行記 パート2-31
谷の斜面は、通り抜けられないほどの竹藪に縁取られている。ここから見る富士山は、壮大で不思議な光景である。風が強まり、円錐形の山頂は吹雪の雲にほとんど隠れており、遠くから見ると、まるで火山の噴煙と見間違えるようである。すぐ近くでは、風の精霊が竹の茂みを通り抜け、無数の霜で乾いた竹をこすり合わせ、独特のざわめき音を立てている。山の精霊のささやきである。
峠の頂上に到達すると、東海道は見事な松林の中を通り、酒匂川の谷へと続く急なジグザグの道を下って行く。この地域は極めて絵のように美しく、左手には小さな渓流が深い渓谷を流れ、反対側には山々がそびえ立ち、ところどころに数百フィートの高さから流れ落ちる滝が点在している。
午後1時までに湯本に到着し、人力車道が再開した。昼食には焼き魚と地元ビールを1本飲み、駕籠人足たちを解雇した。湯本からの道は、海岸沿いの人口約1万3000人の町、小田原まで4マイルにわたって緩やかな下り坂とる。道は平坦になり、これまでよりも広い。馬車が人力車や歩行者の群れに混じる。馬も馬車の御者も、まるで場違いな意識に圧倒されているかのようだった。
男たちが頑丈な手押し車を曳いており、東海道鉄道の建設資材を積んでいる。鉄道は急速に延長している。道のいたるところに活気が溢れている。日本の興味深い光景だ。湯本から30マイル、戸塚には居心地の良い宿屋があり、そこでは外国人の要求をすぐに理解してくれ、玉葱入りのビーフステーキを調理し、朝には東海道で初めて法外な料金を請求してきた。
戸塚は横浜の条約圏内にある。朝、横浜に向かって1マイルほど行ったところで、「ホワイトホース・タバーン」を通り過ぎる。そこは、横浜、あるいは東京から人力車でやって来る外国人のための宿屋として、ヨーロッパ風に建てられている。
南から吹く激しい風が、戸塚から横浜までの東海道の最後の11マイルを、私を吹き飛ばすように吹いていた。
サンライト
先日、片野自転車店からサンライトのガラス製灰皿の写真が届く。
おそらくこの灰皿は景品かなにかで、小売店に販売店の三輝工業から送られてきたものである。
スティーブンスの日本旅行記 パート2-30
彼は自分が非常に重要な人物であると感じているかのように振る舞い、観客に勝者の名前を告げる。
この東海道に於いてダルマ自転車で走行できない唯一の区間は、有名な箱根峠であり、この三島から始まる。そこは16マイルにわたって、険しい岩だらけの道が続く。三島の駕籠かき人足は、箱根峠を越えて物資や乗客を運ぶことで生計を立てている。ダルマ自転車を運ぶ男を数人雇い、肌寒い天候は、駕籠に乗るよりも彼らの後を歩いて行くことである。この道は荷馬車が通れるほど広く、間違いなく軍事輸送を目的として建設されたものである。長く急な坂道は、人や馬のすり減った草鞋で文字通り敷き詰められている。
箱根峠の高台から眺める景色は実に美しく、雄大な富士山の白い頂きが、まるで支配するように、すべてを見下ろしている。山中集落の近くには、「富士見平」(富士を眺める台地)と呼ばれる有名な場所がある。箱根の村と湖へと続く南斜面の広い石畳の道には、大きな杉並木が日陰を作っている。
箱根は非常に美しく興味深い地域で、現在では東京と横浜に住むヨーロッパ人のお気に入りの夏のリゾート地となっている。横浜から芦ノ湖まではわずか80キロほどで、人力車と駕籠を使えば1日で行くことができる。湖は実に魅力的な小さな水域で、まるで山の宝石のようである。澄み切った水晶のような深みに、周囲の松に覆われた斜面が映り、まるで鏡のようである。日本神話は、国の歴史が始まった頃、辺り一面が茂みや道のない森で、この地域を超自然的な存在で満たしていた。
1868年の明治維新でこれらの古い封建的な慣習がすべて廃止されるまで、ここの東海道は「関所」の一つで遮断されており、通行手形なしでは誰もそこを通り抜けることができなかった。これらの関所は封建領地の境界に設置されており、通常、旅人が他に選択肢のない地点にある。
箱根村から少し離れた東海道には、見事な杉並木が日陰を作っている。左手には大きな政府の保養所がある。それは、現在の天皇の進歩的で啓蒙的な政策を雄弁に物語る壮麗で近代的な建物の一つである。道はその後、急な山を登って行く。
ルジュンのカタログ
以下はルジュンのカタログの一部、
1975年10月号
このカタログは子供車、女性用、タンデムなど全車種が掲載されている。
1950年代から1980年代にかけて、ツール・ド・フランスなどのレースでも活躍した名門ブランド。
ルジュン(Lejeune)サイクルは、プジョーやモトベカン、ジタン、メルシェなどと並ぶフランスの自転車黄金期を支えた。
スティーブンスの日本旅行記 パート2-29
私の宿の近くの板張りの囲いの中で、12人の力士が入場料2銭を払った群衆を前に相撲の興行を行っている。日本の力士は、長年の慣習によって一般社会から隔離された独自の階級、あるいは身分を形成しており、同業者の娘以外との結婚には偏見を持っている。力士の階級には常に最も勇ましい筋肉質な男が居るため、この排他性と身体的に劣る者との混血がないので、まるで別の人種であるかのように区別された人々が形成されている。日本の力士は、同胞の平均よりも頭一つ分背が高く、体重は2倍ほど重い。彼らは、時折提唱されてきたマルサスの計画によって人類の身体的改良において何が達成されるかを示す興味深い例となっている。
12フィートの土俵で、屈強なアスリートたちが制覇を目指し、持てる力と技のすべてを注ぎ込む。裸一貫で、褐色の体の筋肉が不規則に隆起し、彼らは互いに投げ合う。侍の紋章が入った完璧な灰色の衣装をまとった威厳のある行司が傍らに立ち、漆塗り軍配を振りかざし、威厳のある声で勝敗を決する。
力士たちは土俵の周りにしゃがみ込み、寒さに震えながら、行司に呼ばれるまでじっと座っている。呼ばれた二人は、柱に吊るされた塩の入った籠から塩を一つかみ取り、互いに撒く。そして土俵に進み出て、さらに素足で地面を踏み鳴らし、優れた筋力を見せつけるように相手に挑戦する。軍配を持った行司からの指示で、力士たちは激しく突進し、相撲を始める。これは通常、30秒も経たないうちに、どちらかが決定的な勝利を収める。行司は二人を土俵から下がらせ、姿勢を正し、傲慢な表情を浮かべている。
ピアスのカタログ
以下はピアスのカタログ、1898年( 明治31年)
ジョージ・N・ピアース社