2021年6月30日水曜日

昭和初期の写真②

 昭和初期の写真②

下の写真は北海道・樺太輪界興信銘鑑(昭和10年度版)の広告にあった写真を切り取ったもの。

①②、自転車・付属品卸商 宇野自転車店、渚滑線(しょこつせん)北見瀧ノ上
合名会社 三治製作所、北海道地方総代理店
取扱い自転車は、白菊號、軍馬號、愛商號

とある。

店舗前の写真を見ると、人物が7名、左の二人が店長とその夫人であろうか、その右に乳母車に乗った幼児も見える。後ろの職人は4人、自転車は20台以上ある。オートバイが2台、左隅にオート三輪もある。中央のオートバイは英国製トライアンフ (Triumph)のようである。

この店構えと店員の人数からしてかなり繁盛していたことが伺える。

註、渚滑線(しょこつせん)は1985年(昭和6年)に全線が廃止されている。
北見瀧ノ上は、現在の北海道紋別郡滝上町である。因みに宇野自転車店はいまも宇野電気自転車商会と店名改称して営業を続けている。創業は昭和3年(1928年)であり、かれこれ90年以上になる老舗である。

Googleストリートビューの写真を見ると、一見普通の電気店であるが、自転車も右側と店内にも見える。創業時の自転車店をいまでも継承しているのがいい。

①店舗前

②広告全体のページ
は北海道・樺太輪界興信銘鑑
(昭和10年度版)
国会図書館所蔵資料

③宇野電気自転車商会
Googleストリートビューより

2021年6月29日火曜日

自転車関係資料㉖

 自転車関係資料㉖

下の資料は戦時下の「重要物資ノ配給統制」である。

戦時中は輸入が途絶え、原材料の乏しい品目については、このように配給統制が実施された。

特に原油や生ゴムの欠乏は顕著で、自転車の場合は特にタイヤとチューブなどのゴム製品が深刻であった。そのため一時期はタイヤ・チューブの粗悪品も出回り、タイヤのひび割れやパンクが頻発した。タイヤの代用として藁や縄をリムに巻いて使用したとも聞くが、真偽のほどは分からない。

以下は自轉車タイヤ及チューブの統制要綱である。

重要物資ノ配給統制、 昭和15年6月19日発行

商工省総務局 編 内閣印刷局
自轉車タイヤ及チューブ
原料生ゴム輸入制限二伴フ自轉車タイヤ、チューブ配給量ノ減少ハ單二現品ノ偏在二依ル闇取引ヲ誘發スルノミナラズ、自轉車タイヤ、チューブガ日常生活ノ必需品タル關係上國民生活ノ各方面二及ボス影響モ極メテ大ナルモノアルヲ以テ昭和十四年九月二日附一四化局第四五九號化學局長振興部長連名通牒ヲ以テ配給機關トシテ各道府県ノ卸業者ヲシテ道府県單位ノ卸商業組合ヲ結成セシメ、之ヲシテ道府県內ノ配給ヲ為サシメ其ノ配給二當リテハ各道府県ノ指示に従ヒ小売商業組合又ハ其ノ組合員ヲ通ズルコトトシタリ。

配給統制大綱次ノ如シ
自轉車タイヤ、チューブ配給統制要綱

一、自轉車タイヤ、チューブノ製造業者ハ自轉車タイヤ、チューブ ヲ自轉車タイヤ、チューブ共販会社以外二販売スルコトヲ得ザルコト。

二、自轉車タイヤ、チューブ共販會社ハ自轉車タイヤ、チューブノ販売ニ付商工省ノ指示ニ從フコト。

三、新造車用自轉車タイヤ、チューブニ付テハ商工省之ヲ日本自轉車工業組合聯合會ニ割當ツルコト。

四、補充用自轉車タイヤ、チューブニ付テハ商工省之ヲ各都道府県每ニ設立セラレタル自轉車タイヤ、チューブ卸商業組合ニ割當ツルコト。

五、自轉車タイヤ、チューブ卸商業組合ハ自轉車タイヤ、チューブニ付共同購入、共同販賣ヲ為シ其ノ販賣ニ付道府県庁ノ指示ニ從フコト。

六、各道府県庁ハ必要ニ應ジ市町村毎ニ自轉車タイヤ、チューブ小賣商業組合ヲ設立シ之ニ對シ自轉車タイヤ、チューブヲ割當ツルコト。

七、各道府県庁ハ自轉車タイヤ、チューブ小売商業組合組合員ノ自轉車タイヤ、チューブノ販賣ニ付其ノ適正ヲ期スル爲必要ニ應ジ市町村ヲシテ切符制、新舊品引換制等ノ方法ヲトラシムルコト。

①132、133頁

②表紙 全150頁
サイズ147×221 

③奥付

2021年6月28日月曜日

自転車関係資料㉕

自転車関係資料㉕

下の資料は昭和29年3月26日発行の「小田原案内」長谷川晴康編である。

特に自転車資料といったものではないが、自転車商の鈴作、鈴甲が載っていたので紹介したい。現在は、緑町の鈴作も鈴甲も既に廃業しているが、小田原市穴部にある鈴作商店(卸)はいまでも営業を続けている。
特にこの鈴作商店は老舗で大正初期から始めている。

①に鈴作商店、小田原唯一の自転車・オートバイ卸商で最近新玉に分店を設けた。
とあるが、この分店の方は既に店を閉めている。

右隣に「丸う田代商店」とあるが、この店はコロナ禍の昨年に倒産してし、創業151年の歴史を閉じてしまった。

②鈴甲自転車店の広告、富士自転車、ヒドリ自転車代理店とある。
富士もヒドリも今では懐かしい過去の銘柄である。

①鈴作商店 52頁

②鈴甲自転車店

③表紙 全112頁
この本のサイズ115×183

④奥付

2021年6月27日日曜日

昭和初期の写真

 昭和初期の写真

下の写真は北海道・樺太輪界興信銘鑑(昭和10年度版)の広告にあった写真を切り取ったもの。

①吉澤商会の当時の住所は札幌市南四條東三丁目、

店舗前の写真を見ると人物が12人、自転車が17台ほどある。左側にはスキーの板も立てかけてある。看板には各種自転車スキー付属品卸とあり、自転車以外にもスキーやビリヤード、麻雀なども扱っていたことも分かる。自転車とスキーの取り合わせは北海道ならではの商品、それにビリヤード、麻雀も長い冬期での室内娯楽として頷ける。

現在もこの店があるかどうか検索したが見当たらなかった。どうやら既に廃業したようである。

①吉澤商会

②この広告ページの全体
北海道・樺太輪界興信銘鑑
北海輪界タイムス社
(昭和10年度版)
国会図書館所蔵資料

2021年6月26日土曜日

自転車関係資料㉔

 自転車関係資料㉔

この資料については、以前紹介している。(沖縄の自転車第1号

たまたま資料を整理していたら出てきたので、原本を載せる。

これは“琉球”第11号 琉球史料研究会、1959年12月28日発行、波座真氏記録(八)、三島 格(ホ)諸事の始り、である。

沖縄の自転車第1号について書かれたものであるが、明治40年というと、本土ではこのころ既に保有台数が12~13万台あったので、かなり遅いような気がする。しかし、八重山警第1号という具体的な登録番号は、いかにも信ぴょう性があり、おもしろい。また、質流れの自転車を20円で買ったとあるが、当時の新車は50円~150円であったので妥当な値段であるよに思える。

ついでに「飛行機の始め」という興味深い記事もあったのでこれも載せる。

自転車の始め
字大川の石垣信雄氏は、日露戦争に従軍中支那天津で自転車をおぼえ、明治四十年(一九〇七年) 八重山警第一号の自転車を買った、これは熊本県人池田某の所持品であったが、流質し、代金二十円であったという。(石垣氏は金し勲章功七級、軍曹である。)

飛行機の始め
大正十年(一九二一年)五月十日、海軍大尉上野敬三氏塔乗機が、大川の海岸に不時着した。私は、執務中であったが、飛出して海中で握手した。同日多良間に不時着した一機が、翌々日当地に飛来、十四日二機とも台湾へむかった。当時宿泊された丸屋旅舘では、同氏は「空中より石垣を尋る」と書いた。

① 波座真氏記録(八) 21頁

② 自転車の始め 23、24頁

③ 飛行機の始め 24頁

“琉球”第11号  全36頁
琉球史料研究会
1959年12月28日発行
この本のサイズ 156×218

2021年6月25日金曜日

自転車関係資料㉓

 自転車関係資料㉓

下の資料は、発行年が書いていないので正確には分からないがその内容からして昭和25年11月3日と思われる。内容は二井宿村の統計調査研究で二井宿村中学校の教諭と在校生徒が中心になりその成果をまとめたものである。

研究は多岐にわたり、地形・気候からはじまり、職業と人口、婚姻・出生・死亡、農業、木炭、酪農、商業工、交通、正史、文化となっている。所謂この村の村勢要覧といえる。

先ず、二井宿村の位置関係を見ると、山形県東置賜郡にあった村で、昭和29年10月1日 の町村合併により現在は高畠町二井宿になっている。

①は、本題の交通調査、

当時の郵便局から県道を一町ほど下った農協前で実施とある。昭和25年9月30日の午前6時から午後6時まで間を調査。

車類で自転車はこの日の合計で547台とけた外れに多い。次が荷車の69台、リヤカー56台、馬車49台、トラック39台と続く。そして歩行者は936人とある。自動車はトラックだけで普通の乗用車はカウントされていない。ということはこの日は1台も通らなかったか、そもそもこの時代の地方では乗用車は極めて少なかったからである。トラックにはオート三輪も含まれていたはずである。

この資料から地方における自転車の普及と利用状況を垣間見ることが出来そうである。

参考までに、全国輪界興信名鑑(昭和12年版)の東置賜郡にあった自転車商を載せる。
いまでも続いている老舗は、青柳自転車店(山形県東置賜郡高畠町大字高畠)と武田輪店
(東置賜郡高畠町大字竹森)の2店舗である。二井宿にあった佐藤自転車店と島津自転車店はいまは無い。

これらの店で購入した自転車も当時走っていたに違いない。547台にもその自転車がカウントされたはずである。

なお、35頁の村の正史編には義民で知られる高梨利右衛門(出羽置賜郡屋代郷二井宿村)が出てくる。名主であった利右衛門は米沢藩の苛政に苦しむ屋代郷の農民を救うために幕府に直訴した。その後、元禄元年(1688年)12月3日に越訴の罪で磔刑となる。二井宿村を代表する歴史的人物であった。
現在も高畠町立二井宿小学校の校庭内には利右衛門の酬恩碑が建っている。

③の地図にある郵便局は現在と場所が違っている、二井宿中学校もいまは無い。現在は統合され高畠中学校の1校だけになっている。

⑤の写真は、1頁目にはりっけてあった写真、ある1軒の農家を写している。白く見えるのは当初ネコかと思ったが、どうやら放し飼いの鶏のようである。どうしてこの家が選ばれたのか分からないが、おそらく建屋も大きく、地主の家屋か何かであろう。この写真の説明書きは見当たらない。

⑧の青柳自転車店が二井宿小学校に一番近い。それでも6㎞ほど離れている。
他に遊輪舎(東置賜郡高畠町大字高畠)という自転車店もある。

①交通調査
昭和25年9月30日

②交通調査 32、33頁

③地図 38頁

④表紙 全40頁
本のサイズ 164×220㎜

⑤1頁目の唯一の写真

⑥全国輪界興信名鑑 昭和12年版
国会図書館所蔵資料

⑦全国輪界興信名鑑 昭和12年版
国会図書館所蔵資料

⑧青柳自転車店
山形県東置賜郡高畠町大字高畠
Googleストリートビューより

⑨武田輪店
東置賜郡高畠町大字竹森
Googleストリートビューより

二井宿郵便局
Googleストリートビューより

2021年6月24日木曜日

自転車関係資料㉒

 自転車関係資料㉒

下の資料は、昭和17年11月11日発行の「写真週報」第246号である。

まさにこの時期は戦時色一色の内容で、戦線や敵艦隊撃滅などの文字が並ぶ。

①は昭和17年10月29日から6日間にわたって明治神宮外苑競技場で開催された第13回明治神宮国民練成大会の一コマを拡大したもので、軍事訓練を兼ねた自転車障害物競争である。この写真のキャプションに「マレーの進撃もさこそとばかり自転車訓練の激戦はつづく」とある。マレーの進撃には銀輪部隊が大いに活躍したことが、この時期国民に喧伝されていたからである

大会の名称も国民体育大会ではなく国民錬成大会に変更されている。競技内容もすべて軍事訓練といったところである。

③は、まだあどけない少年である。一見少女にも見える。「少年戦車兵学校一日入営」とあり、戦車帽と訓練服に身を固めているが、どう見ても服装と童顔が一致していない。ある面悲哀さえも感じてくる。訓練は10月25日に富士山麓の上井出村の少年戦車兵学校で行われた。

このように戦争は、すべての善良な国民が狂気に近い状況を強いられてしまうのである。

①4頁下の自転車障害物競争

②ページ全体、4.5頁
第13回明治神宮国民錬成大会

③表紙
写真週報」昭和17年11月11日発行 第246号

2021年6月23日水曜日

老舗さんぽ㊵

 老舗さんぽ㊵

昨日、たまたま小田原市浜町(旧新玉)にある旧岡本自転車店(現在は一般的な住宅に)の前を自転車で通過したら、その家の傍に人がいたので、自転車店のその後について尋ねてみた。すると自転車店は廃業したが、中町の方で二代目に当たる人が自動車店を経営しているとのこと、自転車店ではないがその後も暖簾は受け継がれていたことが分かる。名称は岡本自転車店から「岡本モータース」に変わっている。

自転車店からオートバイ屋になったり、自動車の販売店や修理工場に転向した店は多い。このブログでもそのような自転車店を何度も紹介している。

早速、近くなのでその「岡本モータース」を尋ねることにした。尋ねると言ってもただ店の前を自転車で通過するだけで場所と店構えを確認した。

下がその写真である。

営業内容は、自動車車検、定期点検、板金塗装、自動車保険と看板に書いてある。

岡本モータースも自転車店から含めると既に70年にもなる立派な老舗である。

そして、その先には小田原で唯一の昔ながらの銭湯があるので、ついでに写真におさめる。ここも創業80年以上になる老舗と聞いている。銭湯ファンには必見の場所といえる。風呂場の壁面には昔ながらの銭湯によくある富士山の絵、それに当然ながら番台もある。屋根の上には高い煙突も見えている。まさに銭湯の風情100%といった感じである。小田原の文化財の一つと言っていい。

㈲岡本モータース
小田原市中町

小田原唯一の老舗銭湯 中嶋湯
小田原市中町

2021年6月22日火曜日

大正期の絵葉書③

 大正期の絵葉書③

下も大正期の絵葉書である。

この絵葉書は、横浜開港資料館所蔵でキャプションに横浜本町通り郵便局及び生糸検査所とある。
右が郵便局で左の建物が生糸検査所である。やや左奥に横浜のシンボルである開港記念会館が見える。
関東大震災後は生糸検査所は弁天橋寄りに移転している。

①の説明、
先ず乗り物に注目した。
自転車が6台、人力車が2台、幌付き馬車が1台見える。自転車は一見4台に見えるが、よく見ると全部で6台である。探してほしい。
左の人力車には紳士(背広姿の外国人風)と思われる人物が乗っていて、弁天橋方面に向かっている。右の人力車は客待ちのようだ。

この絵葉書の撮影年を絞ってみると、先ず大正期でも大正12年の震災前であること、そして開港記念会館は大正6年に建設されているので、その間の6年間ということになる。大雑把に自転車の台数や電線柱の数の多さから判断して、大正8年頃と推定したい。自転車の後輪部が分かればもう少し迫ることが出来るのだが、どれも前向きで荷台やスタンドが見えない。左から2台目の自転車は後ろに荷物のようなものが見えるので、大正10年に近いかも知れない。自転車の後輪にスタンドや荷台が自転車に一般的に取り付けられるようになったのは大正10年前後からである。

①主に自転車を拡大

②元の絵葉書
横浜開港資料館所蔵

③明治期の「横浜写真」より
右は郵便局
人力車と荷車だけで自転車は見当たらない
電線柱も非常に少ない

④現在の様子
右は神奈川県庁
横浜港郵便局はこの写真では見えていないが
手前の日本大通りの四つ角右にある
Googleストリートビューより

2021年6月21日月曜日

三菱十字号

 三菱十字号

昨日、知人から、雑誌「科學朝日」昭和22年1月号に三菱十字號のプロトタイプの写真が掲載されていた、との情報をいただいた。

雑誌「科學朝日」朝日新聞社刊は、既に廃刊になっているが、1941年11月号から1996年3月号まで発行された月刊科学雑誌である。

写真の右下に三菱重工業名古屋機器製作所、本庄技師苦心、十字號、デュラルミンなどの語句が見える。写真をよく見るとハンドル部にカバーのようなものが取り付けられていて、何となく航空機の翼のようなものを連想させてくれる。それともカバーではなくこれがハンドル本体なのか。いずれにしてもこの形状のハンドルは珍しいし、斬新的なデザインだと思う。

三菱十字号は、戦後まもなく航空機の技術者であつた本庄季郎技師により開発され、そのフレーム構造は精緻な強度計算からうまれた画期的な自転車であった。

本庄 季郎(ほんじょう きろう 1901年-1990年)、九六式陸上攻撃機や一式陸上攻撃機を設計。

「科學朝日」に掲載された十字號のプロトタイプ
写真提供:MTさん

「科學朝日」昭和22年1月号の表紙
本日、MTさんから入手

三菱十字号Ⅰ型

2021年6月20日日曜日

片野の自転車②

 片野の自転車②

以前このブログで片野の自転車を紹介した。(2021年5月10日)

先日、何気なく「自転車産業の歩み」日本輪界新聞社、1957年(昭和32)発行を眺めていたら、下の広告が目に留まった。

風切りに KATANO.WORKSと書いてあった自転車を思い出して欲しい。(下の写真)
そして、名古屋の片野商会の自転車ではないかと推定した。
片野商会であれば次のような銘柄があると紹介した。

伊吹号、オートケーテー号、加茂鶴号、菊帝号、ギヤK号、ケーテー(KT)号、ナイター号、ニューケーテー(KT)号、ベビーナイター号など。

下の広告を見ると、名称も片野商会から片野自転車株式会社に変わっているが、その銘柄をみると同じ会社であることが分かる。或いは、片野商会が販売店で片野自転車株㈱は製造工場かもしれない。

住所は、名古屋市中村区広井町1-103 とある。

「自転車産業の歩み」の広告
日本輪界新聞社、1957年(昭和32)発行

KATANOをアレンジした風切り

2021年6月19日土曜日

自転車関係資料㉑

 自転車関係資料㉑

下の資料は少年向け科学雑誌「科学読売」昭和25年5月号である。

現在は既に廃刊になっている。
1949 年(昭24.4)から1966年 (昭41.1)まで刊行された。
この号も既に発行されてから70年以上になる。

下のページは1頁目で折り込みになっていて開くと約2頁分のサイズになる。
自転車の歴史とその種類が一目でわかるようになっている。

先ず①を見ると中央に現在の自転車、左上から左下まで歴史的自転車が年代順に並んでいある。一番始めがシブラック伯爵の木製二輪車ではなく、いまでは通説のドライジーネになっているところがいい。ただし次はマクミランである。当時はマクミランも歴史的自転車の仲間入りをしていたが、現在では否定され、歴史の舞台から消えていく運命にある。
歴史的自転車以外は面白自転車や変わり種自転車といったところである。中央の下あたりに女性が持つ志村精機のロード・パピー号とその下に三菱十字号も見える。
表題の下には自転車検査協会の野添 域の名前もある。
野添 域 の本では「自転車の科学」元宇館 昭和18年発行が名著といえる。
いまでも時々ヤフオクなどに登場する。先般、知人も購入したと聞いている。私もどういうわけかこの本を3冊も所蔵している。
画の前谷 惟光は、当時の漫画家で「少年画報」や「少年倶楽部」で彼の作品が連載されていた。特にロボット三等兵シリーズ(少年倶楽部)は、人気があった。

②はそのページの裏面で、自転車の構造などが分かりやすく絵入りで解説されている。
当時の一般的な実用車の構造で、すべての部品を細部に至るまで分解し説明している。下の囲みの中の解説も当を得ている。あらためてよく見るといまでもたいへん参考になる。

①自転車の歴史と種類

②自転車はこんな部分でできてる

2021年6月18日金曜日

大正期の絵葉書②

 大正期の絵葉書②

下の写真は大正期の絵葉書である。

この絵葉書の撮影年を絞ってみたいと思う。

キーワードは先ず、藩祖祭である。盛大に挙行されているところを見ると、余程大がかりなイベントであったことがこの写真から伺える。

大正6年に初代藩主であった蜂須賀 小六(正勝)の子、蜂須賀 家政(はちすか いえまさ)の没後280年を記念して藩祖祭が盛大に挙行された。その祭りの余興の一つとして徳島公園西の丸に於いて自転車競争大会も開催されたのである。

「蓬庵公奉祭会誌」長尾覚 著 大正6年11月10日発行によると、その44頁に、
5月28日午前より 公園内運動場にて自転車競走

とある。
したがってこの年の藩祖祭であれば、大正6年5月28日に撮影されたことになる。
さらにこの写真をよく見るとアンデス号やラーヂ号といった幟も見える。

当時、ラーヂ号は大日本自転車株式会社の国産ラーヂ号で、アンデス号は神戸の㈱林屋商店(神戸市栄町六)が販売した銘柄車である。他に林屋ではカープ号も販売していた。

写真をよく見るとスタート直前のようで、審判員や補助者もいる。選手は4人、おそらく自転車はアンデスとラーヂに違いない。アンデスから奥の4番目の幟は不鮮明で良く分からないが、ラーヂかカープとも読めそうである。観客の中には日差しが強いせいか蝙蝠傘をさして観戦している。熱気と歓声がいまにも伝わってくるようである。

徳島公園西の丸に於ける自転車競争大会

蓬庵公奉祭会誌 長尾覚 著
大正6年11月10日発行
国会図書館所蔵資料

日本輪界興信名鑑 大正14年版
国会図書館所蔵資料

2021年6月17日木曜日

自転車関係資料⑳

 自転車関係資料⑳

下の資料は大正7年5月発行の山本タイムス、第24号 12・13頁である。

トレードマークとヘッド部、それに安全第一、雄飛号が目に留まる。

このトレードマークを見てすぐに嫌悪とアレルギー反応を感じるどこかの国民もいると思う。是非寛容的に見て欲しい。

ヘッド部を見ると確かにきれいな仕上がりで堅牢さも伝わってくる。ランプ掛けも既に標準のパーツとして付いている。この自転車の全体像は②の左上部にある。全体の形状はシンプルで美しい。荷掛けやスタンドが無いので尚更である。ブレーキはロッド式、シートチューブの裏側には空気入れも装着されている。サドルの後ろには小さな工具入れのバックも見える。チェーンケースは洒落たセルロイド製であるが鉄製ケースの選択もできるとある。ただしその下にあるチェーンホイールのヘッドマークと似た意匠をみると、やはりセルロイドの方にしたくなる感じだ。タイヤも黒ではなくアメ色と書いてある。この自転車をカラー写真で見れば更に美しいであろう。

①マークとヘッド部を拡大

12・13頁

③表紙

2021年6月16日水曜日

大正4年のアルバム⑦

 大正4年のアルバム⑦

また仙台アルバム 白崎民輔 編 白崎写真所 大正4年である。

①桜井漆器舗 仙台市大町三丁目
店主 桜井林作
於大正博覧会 賜宮内省御買上之光栄並に名誉銀杯受領
営業品目、美術蒔絵物 漆器家具類 賞品盃各種 神仏具仏壇 埋木細工類 漆原料一式
奉幣使制服及装束取次販売

とある。

店舗前の写真を見ると、人物は子供を含め8人、自転車は2台でやはり荷台もスタンドも無い、右端には自転車とその前に木製のサイクルスタンドが見える。真ん中の窓には盆栽のようなものが見えている。店主の趣味であろうか。

現在も有限会社大町櫻井漆器舗(仙台市青葉区大町1丁目)として営業している。

①店舗前を拡大

アルバムの155頁
仙台アルバム 白崎民輔 編 白崎写真所
大正4年
国会図書館所蔵資料