2022年5月31日火曜日

自転車関係資料-106

 自転車関係資料-106

この資料は、荒川サイクリングクラブ創立20周年記念誌(2002年6月27日発行)である。
緒言の部分を抜粋、

創立20周年を迎えて

荒川サイクリングクラブ会長 石原政雄

はじめに
自転車税(廃案)や自転車運転免許制度などで一躍有名になった荒川区ですが、かつては大阪の堺市と並び自転車産業で栄えた町です。しかし、メーカーや関連企業の区外への流出、事業者の業種の転換などにより、現在ではあまり元気がありません。こうしたことを知ってか知らずか荒川区は“自転車”には熱心なようで、試行錯誤を続けています。
こうした複雑な土壌を背景に、 荒川サイクリングクラブ (略称・ACC) 及び、荒川レーシングクラブ(略称・ARC)は誕生しました。
20余年前、後藤(中岡)君と君と知り合ったこと(クラブ員名簿 入会した動機参照)かから、近くの自転車好きが集まって「クラブ設立準備会」を発足。実体は飲み会だったように覚えています。
そこで、 LEVELの松田さんに相談したところ賛同をいただき、氏のご厚意で自転車工場をクラブ事務所に快く提供していただきました。何回かの準備会でクラブの骨格がまとまり、1年間の準備期間を経ていよいよクラブ設立の運びとなったのです。
発起人は次の各氏です。
後藤孝尚、盛合博美(ビチスポーツ・モリアイ) 黒田松太郎、成相雅美、石原政雄、松田純夫(LEVEL)。 

名前について
クラブの名称は「かな」 でも 「アルファベット」でも最初の方が気分が良いということから「あらかわ」が浮上。甲武信岳を分水嶺とする“あばれ川・荒川”と定義付け、活動の拠点を荒川流域に置いたのは自然でした。
遊び半分から始まったクラブ活動も、20年も続くと地域とのかかわりができてきて、今では “荒川区”とは、関係がないとは言えなくなってきたのも仕方のないところです。

クラブ活動20年
1982年(昭和57年)に活動を開始した頃はレーシングブームで、ARCが主導権を握っていました。その後、レースにも (ARCの場合) 秋風が吹き始め、1990年代に入ると勢力が逆転しACCが元気を取り戻しました。もともとACCはツーリングを目的として活動を続けてきましたが、20年という歳月がツーリング世代を迎える環境を整えていたということになったのでしょう。
前述した通り、クラブにはサイクリングクラブとレーシングクラブとが同居していますが、いつの間にか一緒になってしまったようです。従って、サイクリングに出掛けるときは“ACC"。 レースの申し込みは “ARC" といった具合です。

【恒例行事】
[1月] 初詣でラン: TCAやNC誌の新春ランに便乗し、終了後は新年会です。
[2月] 早春1拍ラン: 常磐沿線へあんこう鍋を食べに。南房総へ春の足音を求めて。
〔3月〕 荒川区産業展: 1996年よりサイクリング普及のためのイベントなどを企画。
[4月] お花見会ラン: お昼頃から日没までモツの煮込みで・・ 幹事のお手並みを拝見。
[5月] ゴールデンウィークラン: 数年続いた「いわき」が終わり、次はどの地域を・・・
ツアーオブジャパン警備:終了後、大井埠頭周回コースへ移動し昼食。応援。
[6月] タケノコ掘りラン:秋ヶ瀬公園の竹ヤブで、採ったタケノコは刺身に、みそ汁に。
[7月] 花火大会見物ラン: 足立花火大会、 隅田川、 いたばし (8月初め) と続きます。
[8月] 夏合宿: 秩父浦山 (水浴)⇒万場町 (花火大会)が恒例となりましたが、「何も
わざわざ暑い所へ行かなくても」と困った意見も。 夏合宿って、何?
[9月] 秋の1拍ラン:ひと汗ぬぐえば青い海、峠を越えれば鉱泉宿。ビールがうまい!
[10月 11月] 対外行事: 協会主催の大会、クラブラリーなどに参加。
[12月] 忘年会: 尾久、 どん平でオークション。 売れ残ったものは福引の景品に。
年末年始ラン: あわただしい年の瀬に出掛けるのが“ゆとり” ですが、寒いです。

【ミーティング】
クラブ規約では隔月となっていますが、いつの間にか年3回になってしまいまし
た。 遠くから毎回参加する人もいれば、近くに住んでいるのに全く顔を出さない人もいます。 「出てこい」 とは言いませんが、自分たちがクラブを創っていることを自覚してください。 クラブ事務所で開催していますが、かつては日暮里ひろば館に集まっていました。

【会報 「あらかわ」 】
タイトルなどは初代編集長の成相さんがデザインしたもので「あらかわ」 も2002年9月現在で165号を数えます。 月間が理想ですが現実は厳しいものがあります。
編集も手書きからワープロへ、そしてパソコンへと進化してきましたが、書式やまとめの“切り貼り方式”は当時のまま変わっていません。 編集も成相さんから後藤さん、石原がしばらくやって菅沼先生に。 現在は小川さんへと受け継がれています。
足でかせいだものがすべてのサイクリングにとって、 会報 「あらかわ」は、かいた汗のしみ込んだ、かけがえのないクラブの財産なのです。

[朝練]
私(石原)が体をこわし、皆なに追いつくために私的に始めたことでクラブ行事ではありません。 1998年6月から走っていますから丸4年ということになります。
夏はいくら暑くても早朝ですから何とかなるのですが、 荒川土手に霜がおり、河川敷に氷が張っているような日は家を出るのに抵抗があります。相棒の根本さんもよく頑張ヨ。
原則として、クラブ行事のない日曜日。
西新井橋 (町屋側、6:00出発) ~板橋運動場(朝食、雑談) ~朝霞水門 ※往復
※冬季は7:00出発。 すがすがしい空気を吸いたくなったらご参加ください。

【 広報活動】
以下は、ニューサイクリング誌463号(2002年9月号) に掲載していただいたクラブ紹介の“くだり" の部分です。
<現在では、 ACCのようにツーリングを主体としたクラブは珍しい部類に入るのだそうだ。 だとすると、私のような保守的なサイクリストは絶滅危惧種に指定されても不思議ではない。 困った時代になった。
しかし、あきらめてはいけない。 不景気、 高齢化社会、地球温暖化問題と、サイクリングブームを起こすのに十分な条件は揃っている。 恐らく最後のチャンスであろう。「何とかしようよ、 仲間たち!」 >

【肩書など】
□ACC:日本サイクリング協会 (JCA) 公認クラブ。 東京支部 (TCA) に所属。
□ARC:日本サイクルレーシングクラブ協会(JCRC) にクラブ加盟。
□全国サイクリングクラブ連絡協議会にクラブ加盟。
□荒川区社会教育関係団体及び、同スポーツ団体に登録。
□荒川区みなせんまちづくり塾 (自転車とまちづくりワーキンググループ) に参画。

おわりに
20年間の活動記録をまとめていて、もう少し整理をしていたらと反省しています。 皆さんに手伝っていただいても混乱するに違いありません。 そのような理由で一人で創ってしまい、偏った編集になってしまったことをお詫びします。
我々が、先輩たちから脈々と受け継がれてきたサイクリングという遊びを、正しい形で継承し、守っていくのもクラブの使命だと考えています。
「自転車の街・荒川」をスローガンに、 自転車が安心して走ることのできる生活環境を
取り戻し、住みよい町づくりに参画するのもクラブの役割だと思っています。
ACC及び、ARCをあらゆる面でご指導、応援していただいた先輩諸兄の皆さま、友好クラブ、団体の方々に誌上をかりてお礼申し上げるとともに、 今後ともご支援、お付き合いを賜りますようお願い申し上げます。

編集者註、荒川サイクリングクラブ創立20周年記念誌(2002年発行)より。
同クラブは20年前(1982年)の6月に荒川周辺に居住する熱心なサイクリストが中心になり発足したクラブ。
 会長の石原政雄氏は日本自転車史研究会の会員でもあり、会報「あらかわ」をいつも送っていただいた。

表紙
荒川サイクリングクラブ創立20周年記念誌
2002年6月27日発行

2022年5月29日日曜日

自転車関係資料-105

 自転車関係資料-105

この資料は「’68ニューサイクルショー、実施報告書」から、

このサイクルショーは1968年2月10日~19日まで、静岡市産業会館で開催された。

主催は日本自転車製造卸協同組合連合会

開催の目的は、

68年最新のスポーツ車、軽快車ならびに部品、附属品等を一堂に展示し、新しいタイプの自転車に対する興味と関心を高めて新需要層を開発し、また新製品の色彩、 デザイン、生産技術等の改善向上に資することを目的とする。

出品社名及出陳品名一覧表(一部掲載)

出品業者数98社、出品数206台、部品42小間

片野自転車㈱ #39ランデブー折畳車、#9オリンピアDXB型、#55ロマンシイ軽快婦人車、
#21青春スポーツ車DX、#9オリンピアスポーツ車

三輝自転車㈱ ツァービート号5段、ツァービート号10段、スクールビート号、レデービート号

大島工業㈱ #350プリンスカスタム10段、#360キングフツアー車5段、#320フレッシュボーイ5段、#350プリンスカスタムレデー4段、#73サニー婦人用軽快車、24吋ツアータイプ子供車、22吋2本パイプ子供車

㈱清水自転車製作所 ST5外装5段式デラックス、SPT4外装4段式、SLLロイヤルバイオレット、CLLワイングレープ、ST5外装5段デラックス

㈱深谷産業 月星シャインスター24吋3段変速付、月星ヴィナスメイト、月星スポーツヤングスター、月星ジュピターメイト、月星ロードレーサー、月星キャンピング車

㈱英輪社 #7200外装5段変速27型、#3200外装変速付10段、#1200外装5段変速付、#1200外装4段変速婦人用、#3200標準型婦人用、24型標準型、22型標準型

ツノダ自転車㈱ TUキングレーサー、TUオーソドックス15、TUオーソドックス10、TUスーパー4デラックス、TUセニア5ロング、TUスーパーロード、TUスーパー10キャンピング、TUペット、TUロッキングタンアム、ヤングレデーTU

㈱田中自転車製作所 TG号22吋子供車(以下略)

表紙

目次

出品社名及出陳品名一覧表

当日展示されたダルマ自転車

●だるま自転車の陳列
会期中、入口正面にだるま自転車を飾り昔の自転車と、現代の出品自転車と比較され非常に参観者の興味を与えた。

とある。

2022年5月28日土曜日

自転車関係資料-104

 自転車関係資料-104

この資料は、日本自転車史研究会が発足(1981年6月1日)して、間もない頃に大阪の高橋さんから送られてきたもの。高橋さんの店の広告(同封の切り抜き)にも当研究会発足のことが触れられている。

「アンチック自転車」高橋 勇著 全30頁(財)自転車産業振興協会 1978年3月発行

以下に解説部分を抜粋、

解説

自転車

だれが、自転車を考え、発明したのか?

 自転車は世界の中でだれが考え、そして原形をつくったのか、実はイギリス・ドイツ・フランス・ソ連と各国が、発明の本家争いをいまもなお続けていて、まだほんとうの決着がついていないのです。

 5000年以上の昔から”自分の力で、地上を自由に走り回りたい”という夢の上に、地球上で「人間のりものの第1号」として誕生をした自転車なのですが、どんな形になったのを”自転車”として認めるのか、という定義も必要かも知れませんし、自転車の愛好家にとってはロマンへの夢であるとも言えそうです。

 卓抜な才能・偉大な天才としての有名なレオナルド・ダビンチ(1452年~1519年)が、自転車と縁の深いチェーンの図を残していることは、早くから知られていましたが、1965年に発見された、アトランティコの遺稿の中に、自転車のそれもチェーンのついた図が発見され、大さわぎになりましたが、スケッチが幼稚なところから、真偽が疑われています。

 ともあれ、自転車の原形は1790年に、フランスの貴族ド・シヴラック伯爵が、前後輪を支え上に乗って、両脚で地面をけって走る全木製自転車を発明したという記録が、かなり有力でした。ところが1976年に発行されたCYCLISME MAGAZINE誌にJacques SARAYという人が発表した論文で、ド・シヴラック伯爵はこのころの実在しない人物であったという、ショッキングな証明がなされ、フランスの誇りとして、100年以上も信じられてきたものが、フランス人自身によって否定されることになったのです。

 でも、この両脚で、地面をける木馬は、人類の長年の夢と願いでもある、地上を自由に走り回る動物に、やっと追いつくことができた乗りものとして、直線しか走れないこの木馬が拍手かっさいを浴びたことは想像にかたくない事実でした。

 そして動物に追いついた喜びと感激は、木馬の頭にライオンとか馬・蛇・犬といった動物がマスコットになったことでも、おわかりいただけることでしょう。

 この直線しか走れない自転車の元祖に、ハンドルが考え出されました。この人がドイツ人のドライス男爵で1813年といわれています。そして発明者の名をとってドライジーネと名づけられました。

 写真術の父ニエプスは、ウォーターロー戦後の1816年にドライジーネと同じような自転車を発明したといわれていますが、はっきりしたことは分っていません。

地上から足の離れた自転車

 1839年イギリスの鍛冶屋マクミランが最初のペダル駆動式の自転車を発明し、運転する人の足が地面から離れて走れたという、まことに意味の深い発明でしたが、残念ながら目方が重いために、あまり使われませんでした。

 次に1861年、パリ市の馬車製造業ミショーが前輪の軸に、ロータリークランクをつけ、ペダルで駆動をする装置を発明しました(ミショー工場の機械工ランマンが本当の発明者だったのに認められなかったので、アメリカに渡って同国の特許をとったといわれています)

 このミショー型は、フランスではベロシペードと呼ばれ盛んな評判をとり、1861年には2台を試作したのが、翌年には142台そして65年には400台も作られた記録があります。

 このミショーの車は、英国ではボーンシェーカーと呼ばれ(骨のすり)名のとおり、余り乗り心地はよくなかったようです。でもこのミショーの発明によって、自転車量産のはじまりとなり、明治開国のころ、わが国にもこの型の自転車が入っていたようです。

 ボーンシェーカーはいろいろな改良がされ、1868年にはパリ市で世界最初の自転車競走も行われました。

1870年ごろ オーディナリー ペニー・ファージング(英国) ダルマ車(日本)

 地面をけって走っていたその足が離れ、やっと乗りものらしい姿になったとたんに、速く走りたいという人間の欲望は、クランクの付いた前輪を大きくするという、一回転でもより遠くに走る知恵が、30インチ、50インチと次第に大きく60インチのオーディナリーまで生れたという記録が残っています。

 木製のスポーク・リムに鉄のタイヤを巻いたこのオーディナリーは明治の初期に、日本にも持ち込まれ、人々を驚かしました。そしてイギリスでは、1872年に1ペニーと、1/4ペニー銅貨が発行され、この大きさの対比がよく似ていたことから、ペニー・ファージングと呼ばれました。そして日本ではダルマ車というニックネームがつけられました。オーディナリーは最も普及をした車でもあり、また改良車も数え切れませんし、当時の話題も豊富で、1886 年(明治19年)この車でアメリカのトーマス、スチーブンスという青年が、前輪50インチのダルマ車で世界一周自転車旅行を試み、12 月17日に横浜に到着したという、自転車旅行第一号の記録が残っています。

日本の自転車

 ガタクリ車、一人車、のっきり車、一輪半、自在車・ふんころばし、

 さて、日本での歴史的な一号は、いつ、どこで、誰が、どんな型の、どうしてという五つのHに答える資料が、残念ながらありません。

 これまでの編年辞典や年表などで、1870年(明治3年)に、佐藤アイザックという人が、アメリカから輸入をした自転車がさいしょ、と書かれているのですが、同じ年の大阪編年史の大阪府令に「八月五日自転車行人の妨害少なからざるにつき、途上運転を禁ず」という条文が残されていまして、自転車という文字もそのままで、雑誌や記録に出てくる方言的な名称の、のっきり車とか一人車、自在車といったものではなく、自転車と明確に記されていますので、もっとさかのぼるものと考えられるのです。

 ともあれ四民の斬髪脱刀勝手たるべしの法令が1871年(明治4年)ですし、廃刀令は1876年(明治9年)と考え合せてきますと、丁髷げに帯刀の武士のそばを、木の輪にタイヤを巻いた自転車が、ガラゴロと音を立て、すれちがう光景が見られたことでしょう。

 明治12年の法令に、ガラゴロガラゴロの騒音防止で、自転車乗用規制のご詮議中、というものや、夜分に走る自転車に、うしろにさげるちょうちんを、前に付けるよう要望……などの、まことにほほえましい記事に、当時の風俗姿を想い出させるものがありますし、同じ年に神田佐久間町の秋葉の原に、自転車屋が開業し、線香一本燃える時間を金二錢也として繁昌したとあり、今日で言うレンタサイクル第一号でもありましょう。

 江戸時代には、馬車を禁じられ、侍以外は馬に乗ることも許されなかったのですから、自転車の発明や、その発展の歴史が欧米諸国によってなされたのは、やむを得ないことでもあったようです。

 明治30年の”新聞資料明治話題辞典”によりますと、妙齢の娘に、どんな男性のところにお嫁に行きたいかとの問に、”将来、自転車と電話が持てる人”と答えたとあり、当時の自転車のあこがれを現す一文でありましょう。

自転車のテクノロジー

 「サイエンス」(1973年5月日本版・日本経済新聞社)に、S・ウイルソン氏は”自転車の発達とテクノロジー”と題し、次のように述べています。

 「自転車は、構造的・機械的に非常に効率のよいものであり、人間を運ぶために大量生産された最初の機械である。その発達の途上で採用されたボールベアリング、空気タイヤ、管構造などの技術は自動車や航空機に受け継がれており、近代技術への貢献は計り知れない。」

 わが国には約4500万台の自転車が保有されており、これは一世帯あたり1.35台と換算できます。これほど見慣れ、使い慣れ、身近な乗りものは他にないと思います。

 それだけに、われわれは、自転車が近代技術の発展において果してきた役割をほとんど忘れてしまっているのではないでしょうか。

 人間が一定距離をうごくときの消費量は1㎞、0.75カロリー/グラムといわれますが、自転車の助けがあれば五分の一に減少します。これは自転車が人間工学的に最適設計となるように発展してきたためです。

 ある意味では発達しすぎた世界に生きる現代人は、自転車という、材料も工ネルギー源も少なくてすみ、公害の発生も伴わない乗りものを見なおすためにも、まだ不完全な発展の足跡を仔細に研究してみたいものです。

註、最近の自転車史から見ると多少疑問な個所もあるが、これは1970年代の最新の情報と認識であったはずである。

表紙

表紙の裏に挟まれていた広告

目次

10頁

11頁

奥付に著者の略歴が貼付

2022年5月26日木曜日

世界最軽量自転車

 世界最軽量自転車

自転車はいったいどこまで軽量化できるのであろうか?

現在では2.7kgが最軽量(Fair wheel Bikes社)と承知しているが、はたしてこの重量で実用に耐えるのかは疑問である。

しかし、この軽量化に対する挑戦が新しい素材の開発とともに今後も継続されるであろう。

ちなみに、過去の記録でも同じように2.7kgであったことが興味深い。偶然の一致か。

過去の記録は下の表が参考になる。

この表は、「自転車生産技術」第14号、昭和30年9月30日発行、日本自転車工業会

の「軽合金の自転車への利用」鳥山研究所、鳥山新一、4頁の第2表 軽い自転車の歴史

からである。

一部抜粋、

たとえば、 第2表に、 現在までに市販された、あるいは展示会等に出品された試作の軽い車の一覧を掲げてあるが、 これで知られるように、 車の重量は必ずしも自転車の進歩と同一とはいえないのである。

実用に供された車で、 現在までにもっとも重量の軽いものは、 写真1のイギリスの Dursley Pedersen の車 (1893年) であり、 じつに62年昔のもので、軽合金を全然使用せず、 3スピードのハブギヤを装備して、 なおわずかに 5.9kg という驚異的な軽さである。

この他軽合金をまったく使用しない車では写真2のイギリス Raleigh 社の R.R.A. 号 (1937年)がある。 これはロードレース用の装備でブレーキをつけて 8.8kg でありながら、軽合金はまったく使用していない。

戦後これと同じ車が、 同じくR.R.A. の名で.ダブルバテッドチューブとできる限りの軽合金部品を装備して売り出されているが、その重量は第2表の最下段に示すように、 18年前の軽合金部品を全然使用していない1937年の車と同一の 8.8kgである。

このへんのことをよく考えあわせると、軽合金の自転車への利用の真の狙いがわかることと思う。 またかって作られた車で、乗車に耐えるものでもっとも軽いものは、 写真3のフランスのRochet社のトラック用車 (1949年) 、 わずかに 2.77kgという信じられないくらいの、 大体普通のレース用車のフレームだけの重量と同じ軽さであるが、この車もフレームは特殊鋼製である。

これに対して、 全軽合金製の車は大体 5.5kg程度から8kg、 旅行車で10kg 前後の重量である。

これからでも知られるように、 軽合金の採用が必ずしも本当の乗り良い車で軽いものというわけにはいかないので、 現在の軽合金ではおのずからそこに限度があるわけである。

第2表 4頁

 写真3のフランスのRochet社のトラック用車 
(1949年) 5頁

2022年5月23日月曜日

自転車関係資料-103

 自転車関係資料-103

この資料は、ウィリアム・リード&サンズ社のカタログより、

この会社は、1826年にウィリアム・リードとエドワード・レーンがボストンのドック・スクエアに「銃器店」をオープンしたのが始まり。レーンの死後、1849年にウィリアム・リードが事業を引き継ぎ、1854年に会社名をウィリアム・リード・アンド・サンズに変更した。主に軍用武器とスポーツ用品を専門とする店。後に自転車や三輪車も販売した。

表紙にある解説の一部、
車輪の重量について
ロード・スターのホイールの耐久性のための適切な重量については多くの議論がある。 1892年12月2日の審判からの抜粋に続いて、有名な自転車メーカーであるスターリーブラザーズのスターリー氏の意見を引用することは貴重な権威の1つでもある。 ・・・・・。

表紙
車輪の重量について解説

女性用三輪車 18頁
タイヤは鉄とゴムで6車種

テンプラー号(騎士) 1893年型 17頁

2022年5月22日日曜日

自転車関係資料-102

 自転車関係資料-102

この資料はウエスタン・ホイール・ワークスのカタログ(1890年)。

美しい小型三輪車が目に留まったので掲載する。

車種は8種類、ホイールのサイズとタイヤがスチールとラバーに分かれている。

カタログの記事の一部に、

このマシンは、改良を加えた新しいタイプの三輪車である。それはギヤのシンプルさと軽量化にある。エレガントで快適なシートは、丸鋼で作られた新しいスタイルのスプリングで支えられており、レンチを使用せずに随時上下の調整が可能である。そのために、スクリューのハンドルが付いている。

とある。
ウェスタン・ホイール・ワークスは、1866年にアドルフ・シェーニンガーによって創設されたシカゴの自転車会社である。当時はアメリカの大手の自転車メーカーの一つであった。日本にもセーフティ型自転車が輸入され、クレセント号(1903年・明治36年頃)の銘柄で人気があった。

サイクリング・カタログの表紙
1890年

シンプルで美しい小型三輪車

2022年5月20日金曜日

老舗さんぽ-55

 老舗さんぽ-55

久々の老舗さんぽ、昨日、大井町上大井にあった宇佐美自転車店(大正期)の場所が確定した。

以前からその場所を絞り込んでいたが、この日は子孫の方からその場所を確認できた。現在の宇佐美さんは別な場所で床屋を営業している。

「子供の頃、祖父から自転車店であったことは聞いている。今でも探せば自転車工具があるはず。当時は自転車店を本家筋にあたる鶴五郎さんがやっていた。祖父はそれを手伝っていたようだ。」とのこと。

大正期に宇佐美自転車店があった場所

宇佐美自転車店
大正14年発行 
日本輪界興信名鑑
国会図書館所蔵資料
コマ番号378

2022年5月17日火曜日

自轉車瓦版ー1

 自轉車瓦版ー1

この「自轉車瓦版」は以前発行していた日本自転車史研究会のニュースレーダーである。

復刻版として、順次掲載する。

「自轉車瓦版」創刊号 1985年(昭和60年)3月20日発行

発行所 日本自転車史研究会 発行日 不定期(無料配布)

※この度”自轉車瓦版”と題して情報誌を発行することにした。

当研究会の会報”自轉車”が隔月刊のため、ややもするとその情報が遅れ、話題が新鮮なものでなくなるからである。

内容はかた苦しいものではなく単なるメモのような形式にした。

尚、自転車史の分野だけでなく、全般的な情報も扱うことにした。

※岐阜の鬼岩という所に私設の博物館があり、そこに木製のダルマ自転車があると云う。未確認なので詳しいことは分からない。

※「今週の日本」と云う総理府の広報誌(3/4号)に”自転車のルールとマナー"の記事あり、クイズ形式で自転車交通安全を学ぶ。

※(財)中部自転車振興協会では「20年の記録」と云う協会史を出した。
B6判本文77P、設立の経緯、事業の概要等がその内容。

※自転車広報センターでは“あなたも今から乗れる・自転車練習法”というリーフレットを出した。1部100円。

カット

※3/20に「85’自転車大全科」ベストバイク社、講談社980円が発行される。

◎自転車に関する情報等何でも結構ですから、ハガキ等でご連絡ください。

自轉車瓦版 創刊号
 1985年(昭和60年)3月20日発行

2022年5月16日月曜日

雨の高速

 雨の高速

1994年9月17日、渋谷氏と信州の高遠方面へサイクリングにでかける。秋雨前線が本州の真ん中を横断していて、天気予報ではこの土日、雨だと言っていた。ホテルを予約してなければ延期したいところであるが、一部の望みを託し出発。

ところが雨は益々ひどくなる一方で、中央高速の小淵沢辺りでは車のワイパーが追い付かないほどのどしゃ降りになってしまった。ますます視界も悪くなり、ライトを点けていない車が後ろからくると分からないほどであった。

杖突峠は景色の良いところと聞いていたが、雨とガスでほとんど視界はゼ口。たまにぼんやりと諏訪湖辺りの町並みが見えたが、すぐに厚い雲にかき消されてしまった。見晴らしの良さそうな喫茶店に入ったのだが、結局視界は悪く展望無し。

午後、天気は回復するだろうと、長谷村に向かう。長谷村の仙流荘まで来たが、雨は一向にやみそうにない。遂に諦めることにした。

サイクリングが駄目になったので、二人の知人を尋ねることにした。一人は伊那市の駒村氏。尚古堂という骨董屋の若主人である。この人はクラシック自転車にも興味をもっており、名刺にもダルマ自転車のマークを入れているほど。

「なかなか明治頃の自転車を探しているのだが、見付からない」とのこと。「岡谷の古い蔵にあるかも知れない」とも言っていたが、恐らく難しいだろう。

明治期には岡谷から横浜へ生糸商人が多く行っているので、可能性としてまったく無い訳ではないが。

帰りにもう一人「みすず」というところで自転車店を経営する御子柴氏を尋ねる。ここには古い自転車やパーツがあるわけではないが、フィールドの情報等を聞けると思って立ち寄った。

他に客が二人いたので、長居は失礼と判断し、早々に引き上げた。杖突街道の長藤あたりを通過した時、マルキン自転車のホーロー看板が目に留まり、写真におさめてきた。看板の張ってある小屋の中を、微かな期待を込めて覗いたが、残念ながら自転車とはまったく関係のない、ただの粉挽小屋であった。

雨に散々祟られた高遠行きであった。この高遠行きでの収穫は、駒村氏と御子柴氏、そして、このホーロー看板だろうか。(オ)

註、この記事は日本自転車史研究会の会報「自轉車」第79号、1994年11月15日発行より。

こまむら尚古堂の名刺
提供:渋谷良二氏

Googleストリートビューより 以下同じ
現在は営業をしていないようである

長藤郵便局付近の風景

杖突峠

2022年5月13日金曜日

古い自転車

 古い自転車

下の写真の自転車、古いといっても戦後である。全体から判断しておそらく昭和20年代の後半である。

細部を見てみると、前部には大きなライトとフェンダーの風切りが目立つ。この風切りの形状から山口自転車を思い浮かべる。不鮮明で銘柄までは良く分からないが、この風切りが目安となる。サドルは大きなハンモックサドル。後部から見ると、まず目に入るのは後ろ泥除け下に付いている自転車鑑札、或いは車籍標である。これが鑑札なら昭和30年前と判断できる。鑑札は1958年(昭和33年)に廃止。荷台と両立スタンドは頑丈なものが付いている。後輪のブレーキはドラムブレーキを使用している。鍵とダイナモも見える。

この写真は誰から提供されたかいまは記憶にない。あしからず。

前部の写真

後部の写真
リフレクターの上に鑑札

後部の全体写真


2022年5月12日木曜日

自転車関係資料-101

 自転車関係資料-101

この資料も「別冊・旅とサイクリスト」昭和46年4月20日発行から

28頁の一部を抜粋、

日本に始めて自転車が輸入されたのはいつのころか、明確な記録はない。幕末に渡来したという説もあるが、歴史書に残っているものでは、明治2年に横浜で外人が乗り回して日本人を驚かした、というのが最古らしい。明治3年に発行された「当世車づくし」に自転車が絵入りで紹介されているので、そのころには自転車が渡来していたことは確かである。台数も少なく、金持ちの高級なオモチャであったらしい。国産の第1号車は明治22年ころにできたようだが、以来80年間、日本の自転車産業は長い西洋のものまね時代を経て、自主技術開発の現在に至り、世界に君臨するところまでに成長したわけである。

註、この序文の記事は適切である。ただし「国産の第1号車は明治22年」については疑問が残る。

「別冊 旅とサイクリスト」
昭和46年4月20日発行
28.29頁

30.31頁

32頁

2022年5月11日水曜日

自転車関係資料-100

 自転車関係資料-100

別冊「旅とサイクリスト」昭和46年4月20日発行に杉野鉄工所(現、株式会社スギノエンジニアリング)の沿革が少し書かれていたので紹介する。
創業者は杉野佐太郎、二代目が杉野貞雄、三代目が杉野 安、四代目が杉野耕造(2010年現在)
創業は1910年(明治43年)と古い。今年で既に112年になる老舗である。

以下抜粋、
社名:株式会社杉野鉄工所
本社:大阪市東成区大今里1-10-7 
設立:昭和23年9月11日
役員:取締役社長 杉野 安
取締役 杉野朗子、取締役部長 永井敏彦、取締役工場長 進藤保郎、取締役 河合淳三
営業輸出担当者 村井永一
主要製品:自転車用各種ギヤクランク生産販売、ハンドルポストプレスフレーム製作、自転車用ハブ・ウィングナット・スピードメーター・ボトル等輸入販売
会社概況:当社は明治43年9月、杉野佐太郎が大阪でギヤクランクの製造したことに始まる。
昭和6年、2代目杉野貞雄が現在地に、当時としては珍しい鉄骨の工場を新築しドイツからクロームメッキ法を導入して近代的製法を開発、規格統一の運動を展開した。
昭和23年、時代の要求に応じて近代経営に出発するため株式会社に組織を変更、初代社長として杉野 安が就任した。
昭和35年、社長の第1回欧州視察の結論をもとに、自転車のスポーツ化が進められると確信し、スポーツ部品としてのギャクランク開発に力を集中した。
昭和40年、第1次合理化3ヶ年計画をスタートさせ、メッキ工場、組立工場の新設、冷間フラッシュ方式の実用化、鍛造工場の改良、ギヤ加工大型プレス・ホピングマシンの購入により着々と業績を高める成果を納めた。引き続き第2次合理化3カ年計画を実施し、八尾工場の新設、アメリカ製転造機の導入、1本クランクの生産ラインの完成などにより、年率25%の高度成長を示して、ギヤメーカーとして業界のトップの座を占めるまでに至る。
当社の創業の精神は「努力・創造・会社への貢献」です。そのため、パーフェクトC.Q.D生産を通じて社会に奉仕することを目標にしている。Cは原価、Qは品質、Dは納期のことで、これを完全に管理するのがパーフェクトC.Q.Dで、他よりも安く、良い製品をつくり、納期に間に合わすことが企業の本質であると信じて、従業員一同努力している。
当社の製品は、国内の主要完成車メーカーはもとより、アメリカ、イギリス、フランス、西ドイツ、ベルギー、オランダ、南ア連邦、アフリカ諸国、インドネシア・マレーシア、ブラジル、東南アジア、メキシコ、オーストラリアなどの世界諸国に輸出され、好評を博している。

別冊 旅とサイクリスト
178頁

表紙
別冊 旅とサイクリスト
昭和46年4月20日発行

2022年5月10日火曜日

有名な「ラントーン」⑤

 有名な「ラントーン」⑤ 最終回

イギリスの特許の侵害が関係しているかどうかにかかわらず、ラントーン・Rantooneの手と足の原理は、1860年代以降の多くのマシンで採用された。

1865年から1870年の間に、このタイプのベロシペードが少なくとも5つあり、「イングリッシュ・メカニック」のページに図解入りで説明されている。

タウンリー・ Townley dos-a-dos ベロシペード(1867年8月30日のイラストを参照)。

原型に非常に近く、実際、設計者は「ラントーンの構造」の使用を認めている。足踏み駆動の「レディース・パリジャン三輪車」には、「クランクアクスルに作用して速度を大幅に向上させるためにサイドレバーが取り付けられている」とある。

(「ベロシペード、自転車および三輪車」1869年、68ページ)。

ニーダム・タンデム三輪車イラストのリアライダー、1869年8月13日、「King of the Road」1975年、p100)は、現在クライストチャーチ三輪車博物館に貸し出されており、クランク付きリアアクスルで作動するハンドレバーと足踏みの組み合わせによって推進を向上させている。また、H.J.ローソンの1876年の特許(1876年の第2649号)では、手と足のレバーを別々に、またはその組み合わせで駆動するマシンも含まれていた。(上記のSammy Bartleetによる)完全を期すために、1880年代の最も有名な手動レバー推進機(元々は1869年に特許を取得)、チャーズリーの「ベロシマン」についても言及する必要があるが、ここでは、足の推進力は主要な駆動装置の補助的な役割である。

筆者はこれまで解決できなかったラントーンの関連した記事について、いくつかの疑問があった。 1869年にパンチの年鑑から複製された漫画「ラントーンの走り」は、その要点を明らかにしている。このマシンは、この記事で説明されているようなRantooneの特許取得済みの機能はないが、踏板駆動とティラー・ステアリングを備えた通常の三輪車であり、(例えば)Lisle's Ladies English Velocipede(「Velocipedes、Bicycles、andTricycles」p66)に似ている。パンチのイラストは、ビラリキーのデイブ・トゥイッチットが所有する2つのマグカップの装飾にも使用されている。 「サイクリスト・ツーリング・クラブのロマンス」では、1928年(p14)、J.T.ライトウッドは、「パンチ」を「かなり信頼できる史実」と云っている。ライトウッドは後に(p19)、1869年4月のマンチェスターの論文「The Sphinx」で言及し、当時の「ベロシペード・マニア」で論じている。ライトウッドは、「スフィンクス」で「一般的に”ラントーン”を明らかに使用していた」と云っている。この頃になるとこのマシンは非常によく知られるようになったため、あらゆる種類の自転車や三輪車は「ラントーン」と呼ばれるようにもなった。

またはパンチによって示されているように「Rantoone」も、筆者の見解では、一般的にある程度の妥当性はあるかもしれないが、正確な答えを提供しているわけではない。 「Rantoone」として知られている、パンチの漫画(およびDave Twitchettのマグカップ)に描かれているような特定のマシンが実際に製造され、かなりの数が使用されたことを示唆している。

それは、1896年8月15日の「The Hub」の「A Pioneer」による「Old Time」サイクリングに関する記事に登場する(p.65)。

その後、アメリカの発明である”Rantoone”と呼ばれるような偽情報もある。「ペダルの長さは約3フィートで、全体が薄い鉄ででき、靴のような黒い箱と同じくらいの大きさで、常に赤く塗られていた」とあり、次のページには、パンチの漫画とほぼ同じであるが、「ばかげたラントーン」(複製)というタイトルのイラストがある。このマシン(ジョセフ・グッドマンが特許を取得した以前のマシンよりも明らかに劣っている)は、アメリカと両方?、はたして誰が作ったか?、など謎である。

オリジナルの「Rantoone」との関係は何か(たぶん商標名の使用が許可されている)?

会員ならおそらくこれらの質問に対する答えを持っているだろう、それなら筆者は喜ばしい!

しかし、私たちのコメントをグッドマンのマシンだけに限定すると、ラントーンが1860年代、そして数年間イギリスでの三輪ベロシペードの開発に重要な役割を果たしたことは明らかである。

THE CELEBRATED "RANTOONE" by Roger Street
THE BONESHAKER、№122 SPRING 1990
19頁

21頁

22頁

完、

註、今後もラントーンに関する何らかの資料が出てきたら、また、このブログで紹介したい。
それに一つ付け加えれば、日本のラントーン型三輪車も忘れてはならない。ロジャー・ストリート氏が、日本の錦絵を見ていたら、この「有名なラントーン」の記事に付け加えたはずである。

2022年5月8日日曜日

有名な「ラントーン」④

 有名な「ラントーン」④

さまざまな現代の情報源から、ラントーン・Rantooneは、おそらく発明者からのライセンスの下で、或いは特許を取得して、少なくとも3つの英国企業によって販売されたことが分かっている。

その会社はチープサイドのチャールズ・ポメロイ・ボタン社( Charles Pomeroy Button)、エセックス・ストリート、ストランドのランサム社(Messrs. Ransome)、そしてバーミンガムのボーデスリー・ワークスのペイトン&ペイトン社(Peyton and Peyton) である。これらの会社は1869年頃に活動しており、当時のイラスト入り広告などの資料がある。

C.P.ボタンは早くも1865年には製品を製造販売していた。1865年9月23日付の「The Scientific American」の「Improved Velocipede」というタイトルの記事(イラスト付き)がある。「そのマシンはイギリスのどの州でも非常に人気があった」とある。

サミー・バートレット(バートレットの自転車の本、1931年発行、39頁)によると、ペイトン&ペイトンは1864年にラントーン車を製造していたとある、これは正しい記述と思われる。

価格はサイズによって異なるが、一般的には8〜14ギニーの範囲だった。(ただし、ボタンの広告はサイズと構造に応じて5〜25ギニーの範囲である)

このマシンには3つの標準サイズがあった。メインホイールの直径がそれぞれ30”(吋)のユースモデルと、ホイールの直径がそれぞれ36"と42"の2つの大人用モデルである。(Scientific American)

その他、より小さなサイズも製造された可能性がある。注:「幼い子供は、これらのマシンの1つを、そのサイズに合わせて、補助なしで操縦し、速い速度で推進することができる」とある。ブライドウェル博物館には、この3つの標準サイズがすべての現存されている。

ノリッジのバードウェル博物館(30'')、ボーリューの国立自動車博物館(36'')、クライストチャーチ三輪車博物館(42'')。 これら3台のマシンは写真を参照。残念ながら、これらを裏付ける正確な資料は残っていない。

ノリッジのマシン c.1860年は明らかに間違っているし、c.1865年の両方がリストアップされている、ボーリューのものは「Ransome's Rantoone Tricycle、1864年」としてカタログ化されているが、これらも裏付けがない。

ノリッジのマシンは、全体的に非常に良好な状態が保たれている。鉄のフレームは黒く塗られ、木製の車輪は黄色(青いハブ付き)、シートは黄色の青いフレームで塗られている。興味深い機能は、ハンドレバーを直角に伸ばし、ライダーに近いハンドル位置にある。これは、ユースマシンの特性であるか、特定のメーカーの一般的な変更の可能性がある。ボーリューのアイテムはかなり状態が悪い、クライストチャーチ三輪車博物館の展示品は、ハンドレバーと特許取得済みのステアリング配置が最も注目に値する。

ボーリューのマシンのハンドル部分は全体が変更され、ある段階でボーンシェーカータイプのハンドルバーに置き換えられている。

フルサイズのクライストチャーチマシンは、最近までヘアウッドの初期のものであり、事実優れたオリジナルの状態を保っている。フレームは赤と黒に塗り直されているが、コーチの裏地は(取得時に残っているいくつかのペイントの痕跡をたどる)、元のホイールはダークブラウンで、再び赤いコーチの裏地があり、ニスの保護コートを除いては手直しされていない。重さは約120ポンド。

他に車輪のないRantooneフレームの復元を待っているのは、ウォルサムストーのハロルド・ジョーンズ所有のもの。

 Rantooneは、イギリスだけでなくアメリカでも製造、販売されている可能性がある。米国特許には、保護を受ける資格のある個人を「英国サリー州ブラックフライアーズロードのジョセフグッドマン、ニューヨーク州ニューヨークのチャールズP.ボタンの譲渡人」とある。これには予期せぬ興味深い見出しが含まれている。 1860年代の後半を確認すると、ボタンは、1865年にグッドマンが馬車の車輪に関連して(1863年に英国の助成金を得る)など、英国の発明家によってアメリカで取得されたさまざまな特許の譲受人であったことがわかる。小さなアームハンドルアタッチメントなど、さまざまなアイテムをカバーし、ボーリングドリル、サンドポンプ、編み機、耐火金庫など。ボタンがアメリカに持ち込み、そこで特許を取得して販売した可能性がある。1865年の「Scientific American」のメモは「米国の特許は売りに出されている」で終わっているが、記者はその後のRantooneの米国での言及や発見を報告していない。おそらく購入者は見つからず、外国の製造業者もなかったはずである。

ノリッジのバードウェル博物館 17頁上

ボーリューの国立自動車博物館 17頁下

クライストチャーチ三輪車博物館 18頁


つづく、

2022年5月6日金曜日

自転車関連資料-99

 自転車関連資料-99

この資料はオバーマン・ホイール・カンパニーのカタログである。

ここに掲載されているビクター号は特に日本の自転車文化に影響を与えたブランドの一つである。福沢桃介、和田義睦らがこの自転車の熱心な乗用家であった。また、梶野仁之助もこの会社と取引があり、一時アッセンブル方式により、彼の工場で組立をしていた。

表紙 1892年(明治25年)発行

ビクター安全型自転車 Cモデル

サスペンションの仕組み 21頁

23頁

2022年5月3日火曜日

ポストカード-①

 ポストカード-①

下の画はポストカードから、

原画の年代は何時頃のものか分からない。

一見どことなくラントーン型の四輪車というところであるが、よく見るとその駆動方式は違っている。

レコードレーシングカー、フリーホイールチェーンと鋼歯車付き(Record Rennwagen mit Freilauf Ketten u.Stahlgetriebe)

とある。

註、この画を見る限り、手動式の後輪駆動である。足は使っていないようだ。フリーホイールのスチールギア付であるから年代的には1800年代の後半かも知れない。

レコードレーシングカー
のポストカード

宛名側

2022年5月2日月曜日

自転車関係資料-98

 自転車関係資料-98

現、株式会社スギノエンジニアリング の二代目にあたる杉野貞雄氏が書いた資料が出てきたので参考までに紹介する。

この本の一部を抜粋、

「自転車の話」杉野貞雄 著 昭和2年6月20日発行 杉野鉄工所


杉野貞雄氏は本校機械科卒業以来自轉車製造にして約十年計り没頭せられて居ますが今回本
著の原稿を示されましたので直ちに筆を執って内容索引に代へ個條書きして序文といたしました。
一、自轉車の各部は此頃やかましい規格の統一上最も其の必要を痛感する適例であると云ふ事が出版の根源と思ひます。
一、今日迄内外を通じて自轉車に関する良い著書が極めて少ないと云ふ事も一つの動機であります。
一、 本書の内容は平易で且つ学理をも合せて親切に記述されて居る事は何より結構と思ひます。
一、 本書は氏の経験を骨子として書かれたもので極めて適切で其の要を得て居られます。尚ほ次篇には自轉車の「フレーム」の構造、回轉部分に及び終りに電気メッキの一般まで書かれる筈であると云ふ事が親切な仕方と思ひます。
一、 一般卸商人は申すに及ばず修繕に従事される人は進んで本書を熟読なされば便益が非常に多からうと存じます。

昭和弐年六月
大阪市立都島工業學校長 杉田  稔 識

はしがき
一定の規準なくして製作さる物は魂なき人間に等しく何等価値の存在を認めざるなり。故に予は我等の製作する自轉車にも魂ある規準正しきものを造られん事を望む。然るに未だ我国には統一せる規格なく偶々嘗て全国自轉車業組合聯合大会に於いて諸氏の批判を乞はんとせしも大阪案として提出を許されず廃案の悲境に遭ひ其の賛否を得る能はざりしは甚だ遺憾とする所なり。
併し来るべき日諸氏の賛同を得る自信を以て努力を重ね此処に其の一端を発表して「自轉車の話」を刊行す。 幸に諸氏の忌憚なき御批判を得ば幸甚なり。
尚終りに臨んで今回の愚挙に対し御多忙なる製造家諸氏の熱烈な御同情御指導を賜りたることを深く感謝す。
昭和貳年六月
著者 識

目次
一、自轉車の沿革・・・・・・・・1頁
二、自轉車の構造・・・・・・・・4頁

一、クランクシャフトに就いて・・4頁
二、クランクピンに就て・・・・・5頁
三、チェンに就て・・・・・・・・6頁
四、ギャクランクに就て・・・・・12頁
五、 ペタルに就て・・・・・・・・17頁
六、ネジ山角度に就て・・・・・・19頁

一、自轉車の沿革
自轉車と云ふ名称は千八百七十年頃よりの呼称であると推定されますが自轉車 (CYCLE) は希臘語の (KUKXOS) ククロス (輪) と云ふのが語源となって居ります、 そこで自轉車の類似のものとしては紀元前千五百年(即ち今より約三千五百年前) 古代文明の源であるエジプトのバビロンの時代に既にあったので、有名なポンペーの壁画に歴然と書かれてあります。故に尤も確實な証左とする事が出来ます。
紀元後は十六世紀迄記録がありませぬ、それは西暦一六九五年の仏国雑誌「カリッジ」に掲載されてありますが一六六六年仏国の医師でロッシエルのエリーリチャルト氏によつて発明されました、其れは第一図の様な今から考へると誠に児戯に等しい様な幼稚なもので、木製の輪に太い木を固く接合してその木に跨って足で地上を蹴って飛び廻ったもので名称はホッピーホース (HOPPY-HORSE) と云つて現在英国の博物館に保存されてあります。
次に西暦一七六六年仏国ダブリン学校教授が四輪車を発明しその改良したものを一七七九年路易十六世メリーアントネフトの面前で試乗して非常に賞賛を博したと云ふ記録があります、一八一六年同じく巴里の写真の元祖でニュピース氏がセレリーピースと称する二輪車を発明されました。

一八五五年巴里でエルンストミンショウと云ふ十三歳の少年がクランクとベタルを発明致しました、 元来此少年の父は鍛冶屋で父が常に使用する回轉砥石のハンドルから思付いたと云ふ事です、次で一八六五年改良を加へ第二図のベロシピード (VELOCIPEDE) と云ふ車が出来まして漸く実用に供せられる様になったのです、 此名称の訳は飛脚車と云ふのでありまして未だ此時代には自轉車の名称はありませんでした、千八百六十八年項英国コベントリ市の一ミシン会社の技師トーナー氏が仏国から此ペロンピードを取寄せまして製作にかかりましたが英国では非常に斬新で便利なものとして推奨されました、同市がそれ以来今日隆盛な基を為したものと云ふ事が出来ます。

この車の輪は木製で今のタイャーの代りに鋼鉄を巻き付けてサドルは木の上に薄い皮を張ってありました、車体はスプリングの長い平たいもので鋼鉄板と鉄棒とに依って作られてありまして迚も重いものであります、此時代に前後して米国に於ても旺に製作されまして一八七〇年には五十の自轉車学校が出来、 二ヶ月に三百人の卒業生を出して居ります。

一八六九年頃、巴里で前車輪六〇吋後輪十八吋と云ふ前車輪の突飛に大きい奇妙なものが出来ました、米国ではこれをスターマシン第三図 (Star Machin)と云ひましたがこれは日本に来てダルマと称しました、明治三十四五年頃名古屋では旺に小僧車として使用されましたが金輪で騒々しい事をいたら名古屋名物の一つでありました。

一八七五年に英国の牧師チャレス氏が発明されました手動式と云ふものがあります、三輪車で腰掛て両手でバーを動かしてスタンドの様なもので地上を蹴るので一時間二十二哩と云ふ快速力を出したのでありまして、足の不具な人等に賞賛されたとの事です。
それから一八七八年頃米国ボストン市及びハートフォート市で前導式の安全車が出来ました、その年に前後して英国サセックス州オスボン市の機械師ゼームススターレー氏が初めて後導チェン式の丸ゴム輪、股柱、球受の現代式のものが発明されました。 (第四図) 此人は尤も輪界に著名な人で一八八三年六月故人になりました、遺骸は生前因縁深きコベントリー市に埋葬され尚氏の銅像が同地に建てられて居ます。先年名古屋の岡本氏が渡英の際この銅像の写真を持ち帰られたとの事です。
一八八八年ブルファストの獣医ダンロップ氏が空気入のタイャーを発明した。
其の後一八九三年にダンロップ会社が設立されました。同氏は前記スターレー氏と共に輪界の二大恩人としても過賞でありますまい。

我国では明治十四年米国から矢野次郎、中村泰興、 市村市左衛門氏の清壮年諸氏が輸入せられまして旺にハイカラ宣伝をせられました、明治十九年にスチーブンス氏が初めて自轉車で世界一周を完成し日本へも来朝したとの事です。又その頃現今の著名の劇作家松居松翁氏が著作した自転車の一小冊子があります。俳優左団次は毎日明治座に自轉車を利用して出勤して居るとか人力車と自轉車とドチラガ早いか等と云ふ面白い奇問奇答がありました。その後明治廿九年には自轉車倶楽部が出来き競争会が各地に盛んになり東京も不忍池等に時々開催されまして三十年頃より内地で弗々製造も創り三十五年には東京、名古屋に於て稍大規模の製造会社が設立せられました。今日では全国至る所に製造工場があり有力な事業と認められる様に成りました。(青木氏稿より)

昭和貳年六月十五日印刷
昭和貳年六月二十日發行
杉野鐵工所發行

註、この記事を読むとかなり首をかしげたくなるような部分もあるが、これが当時の自転車の歴史認識であることを思えば致し方無い。
杉野鉄工所は、明治43年9月創業の老舗である。現在の会社所在地は奈良県奈良市東九条町であるが当時は大阪市東区清堀町にあった。

表紙

序とまえがき

目次

自転車の沿革


奥付