2009年8月20日木曜日

中村春吉(11)

 日本を出発した中村春吉の自転車世界無銭旅行の行程は、次のとおりです。
 日付が若干資料により2,3日ずれていますが、これは彼の記憶違いか印刷ミス等ではないでしょうか。
 例えば先にも書きましたが押川春浪の冒険小説では、横浜港の出発日は明治35年2月25日ですが、雑誌「輪友」第5号では明治35年2月22日になっています。 
 なお目的の都市への到着日と出発日の日付が書かれていない箇所が多々あり、詳細な行程はわかりません。

1902年(明治35)02月25日 横浜港を汽船”丹波丸”にて出発
1902年(明治35)02月27日 下関に寄港
1902年(明治35)02月28日 下関港を出発して上海に向かう
1902年(明治35)03月03日 上海到着、一時上陸して市街地を見学する  
1902年(明治35)03月08日 香港到着、東洋館に宿泊、豪州行きを考えていたが諦めて再び丹波丸に乗船してシンガポールへ向かう、シンガポール到着後陸路自転車でラングーンに向かうが急峻な山稜に阻まれ断念、またシンガポールに引き返す
1902年(明治35)03月18日 英国汽船ツー・バンド・ファナー号でシンガポールを出発し、ラングーンへ向かう、ラングーンからは陸路自転車でカルカッタに向かう、
1902年(明治35)04月01日 カルカッタ到着、ブッダガヤへ向かう
1902年(明治35)04月02日 ボードワン到着、翌日ラジャバンドへ向かう
1902年(明治35)04月04日 カツラガハー到着
1902年(明治35)04月16日 ブッダンガヤ(ブッダガヤ)に到着し二日滞在する、その後ガンジス河の支流クドロー河の岸に達し、水牛の背に跨り渡河する、砂漠を横断しマンキポールという町へ、その後ミルザポール~アロハバッド~ジャバポール~ボンベイ~アグラー~タヂ~デレー~ボンベイへ
1902年(明治35)10月10日 イタリアの汽船に乗船しボンベイ(ムンバイ)を出発~アデンへ
1902年(明治35)10月16日 アデン到着
1902年(明治35)10月17日 アデン出発
1902年(明治35)10月20日 スエズ到着
1902年(明治35)10月28日 ポーセット(ポートサイド)出発
1902年(明治35)10月30日 イタリアのナープル(ナポリ?)到着
1902年(明治35)11月01日 ローマ村到着~ローマへ
1902年(明治35)11月09日 ローマを出発しゼノア(ジェノヴァ)へ、途中スペンヂャからアルプス越え~キャプレー
1902年(明治35)11月15日 ジェノヴァ到着~マルセイユからリヨンまでは汽車に乗る~パリへ
1903年(明治36)01月07日 ロンドン到着~リヴァプールへ
1903年(明治36)01月22日 汽船ブレーデン号でリヴァプール出発しボストンに向かう~時化に遭い1ヶ月間大西洋を漂流
1903年(明治36)02月21日 無事ボストン到着~ニューヨーク~フィラデルフィア~ワシントン~シカゴ~北米大陸を横断しサンフランシスコへ
1903年(明治36)04月10日 サンフランシスコ到着~汽船香港丸で日本へ
1903年(明治36)04月30日 ハワイ寄航
1903年(明治36)05月10日 横浜港到着

2009年5月30日土曜日

中村春吉(10)

 明治35年2月22日、汽船丹波丸にて横浜を出向した中村春吉は、同年の3月15日に香港に到着しています。 
 香港在住の日本人である梅谷正人氏の世話になり、領事館などを訪ねています。領事館での話によるとオーストラリア政府は規則を変更して東洋人の上陸を禁じることになった由で、彼はオーストラリア行を諦めシンガポールへ向かうことになりました。

その後の消息は、明治35年5月16日頃にカルカッタに到着しています。

以上の記録は、雑誌「輪友」第6号及び第8号に載っています。

 押川春浪編述「中村春吉自転車世界無銭旅行」(明治42年8月14日博文館発行)には、明治35年2月27日下関着、3月3日上海着、3月8日香港着などとありますが、小説ゆえかそれとも記憶違いか、実際とは若干のずれがあるようです。
 自転車での走行の記録も極めて不鮮明です。印度まだは殆んど船での移動のように思われます。当時の治安や道路状況を考えれば、当然の結果なのでしょう。

2009年5月21日木曜日

東亜護謨会社

 東亜護謨会社は、明治32年創業で社長は小林六三郎という人でした。工場は、東京府下南葛飾郡亀戸村字柳島四百十九番地にありました。彼は元薬剤師で、ある薬問屋に勤めていました。ある日、雑誌読んでいた小林はゴム製造に興味を持ち、自分でもやってみようという気になりました。明治32年12月から本や雑誌などを見ながら、実験を繰り返していました。おそらく薬を調合するような具合で実験を重ねたと思います。そして、明治33年8月にようやくゴムというものが概ねどういうものか分かってきたようです。この時期まだ日本で自転車用のタイヤを製造する会社はありませんでしたので、彼はこれを専門にやってみようと思い、手始めに廃物になったタイヤを安く買い入れ、この古タイヤに上からゴムをかけて造ったようですが、この方法はうかくいかなかったようです。その後も試行錯誤を続けながら研究を続け、明治34年10月になって、初めて実用になりそうなタイヤを製造することができるようになりました。 
 その後、この会社がどうなったかは分かりません。この会社は自転車用タイヤの他に足袋底、草履裏、ゴムマリ、消しゴム、医療器械用のゴムなども製造したようです。

2009年5月19日火曜日

タイヤ

 自転車の部品の中で国産化が遅れたものの一つにタイヤをあげることができます。
 明治後期に自転車用タイヤを製造していた企業は、次の4社です。

東亜護謨会社 
 東京府下南葛飾郡亀戸村字柳島四百十九番地 明治32年創業

合資会社明治護謨製造所
 東京府豊多摩郡大久保村大字西大久保 明治33年創業

ダンロップ護謨(極東)株式会社 
 神戸市 明治42年創業

三田土ゴム製造合名会社
 東京 明治19年創業

ただし、この4社にしても自転車用タイヤの製造は遅く、明治42年頃からです。

梶野

 梶野が日本で最初にセーフティー型自転車を製造したのはほぼ間違いないと思われますが、その詳細については殆んど分かっていません。断片的な資料があるのみです。

次の記事もその一つです。

日本で自転車を一番初めに造ったのは横浜高島町の梶野自転車合名会社であるが、空気入りの自転車を製造しはじめたのは確か明治二十五、六年の頃だと考える。私もその頃同社に特に一台を注文して試乗した事もあるが併し遂に好結果を得なかった。其後彼是れ四年程後にまたまた梶野自転車合名会社の手に於いて金日本、銀日本等の自転車が製造された。是は主に舶来の原料を以て唯だ其組立てを梶野でやったと云う位に止まって居ったが、之も矢張り余り思わしくない結果に終わったのである。(明治35年5月8日発行の雑誌「輪友」より)

 梶野といえども、国産自転車製造の当時の状況はこの程度のものであったようです。国産といっても殆んどの部品は外国製品が使用され、単に組み立てた所謂アッセンブル方式による製造だったのです。宮田の創業時(明治26年)もこのような状況でした。
 梶野の創業は明治12年と伝えられていますが、当初(明治21年~明治26年頃)はコロンビアやビクターなどのアメリカ車を輸入販売していました。創業期から明治20年までの状況は殆んど分かりませんが、恐らく木製のミショー型か三輪車を製造していたものと思われます。

2009年5月16日土曜日

ジェラール自転車(4)

 明治35年に日本陸軍はジェラール折畳自転車を50台程購入しています。

◎ジェラール式自転車
今回陸軍兵器監部にては曾て仏国海軍大尉ジェラール氏が発明されたる折畳自転車五十余台を購入し軍用として各師団に配布したる由なり其詳細なる説明は次号に詳記して読者の前に提供すべし(明治35年5月8日付けの雑誌「輪友」第7号より)

とあります。ジェラール自転車を日本陸軍が使用していたことは分かっていましたが、いったい何台ぐらい入っていたのかはよく分かりませんでした。この記事から凡その見当がつくかと思われます。

このブログでのジェラール自転車関係は、下記のとおりです。
2009年5月5日梅津大尉
2009年4月4日ジェラール自転車(3)
2009年4月1日ジェラール自転車 (2)
2009年3月16日ジェラール自転車

を参照願います。

2009年5月13日水曜日

愛輪号

 これは愛輪号の保証書です。愛輪という名前は3社ほどが採用していますが、この愛輪号は東京神田の愛輪自転車製作所が製造した自転車です。車体番号は2033で、保証書の日付は昭和11年1月11日とあります。良く見ますと透かしのようなトレードマークも中央に見えます。

木村商店

 明治37年6月2日付けの新愛知新聞の号外第1号です。日露戦争がこの年の2月6日に始まり、その戦況をいち早く伝えることをこの号外で宣伝しています。その裏面にこの木村商店の広告がありました。前輪に寄せ書き風でピアス、アイバンホー、ラシクル、コロンビア、アイバージョンソン、デートンなどの名前が見えます。後輪にその輸入元である石川商会、角自転車商会、双輪商会などの店名が見えます。

 新愛知新聞は、その後、名古屋新聞と合併して、現在の中日新聞になっています。

2009年5月10日日曜日

中村春吉(9)

 馬関から東京まで無銭により長距離サイクリングをした中村春吉は、いよいよ世界へ旅立つことになりました。それは翌年の2月におとずれました。

雑誌「輪友」第5号、明治35年3月10日発行に次のようにあります。

世界周遊者の見送り
世界周遊の自転車乗り中村春吉は去る2月22日正午横浜出帆の汽船丹波丸にていよいよ香港へ向け出発したければ那珂会長はわざわざ東京より来り、曽我部幹事長と共に本船まで見送りたり

明治35年2月22日に横浜を発ったとありますが、押川春浪編述「中村春吉自転車世界無銭旅行」(明治42年8月14日博文館発行)では、

汽船は日本郵船会社の丹波丸、時は明治35年2月25日の午後1時、いよいよ無銭冒険自転車世界一周の目的を抱いて、日本横浜港を出発することになりました。

とあり、3日のズレがあります。馬関出発の日付でも明治34年11月15日と明治34年11月14日と1日ズレています。それぞれどちらが正しいのか今となっては分かりませんが、とりあえず私は明治35年2月22日横浜港出発と明治35年11月14日馬関出発を採用したいと思います。理由は単にそれらが記述されている資料の古い年月からです。

2009年5月8日金曜日

中村春吉(8)

 中村春吉の無銭旅行について、当時もいろいろな意見があったようです。

松田歴山という人は、
無銭旅行、言い換えれば乞食旅行だ。紳士として好ましくない。なぜ金を貯えてから旅に出ないのか。湯本の福住などへよくずうずうしく只で泊めてくれと言えたものだ。天竜川でも橋銭を払わずに渡ろうとした。教育者としていかがなものか。ベルやポンプが3日と経たないうちに壊れるとは、世界を周遊しようとする人の用意とは思われない。縁もゆかりもない宿屋などは気の毒である。このような旅行は中止した方がよい。

と手厳しい批判もありました。

明治35年2月13日発行の雑誌「輪友」第4号より。

ミシュラン

    雑誌「輪界」第11号 明治42年7月25日発行に掲載された広告

 この時期ダンロップのように多く雑誌や新聞に広告を載せていませんが、時々見かけます。

 ミシュラン(Michelin )は、世界的なタイヤメーカーで有名ですが、同社の発行する「三つ星」ランク付け旅行ガイドブック(レッドガイドブック)の方が、最近では日本での知名度は高いかも知れません。

中村春吉(7)

 馬関を出発した中村春吉のその後の足取り(その3)

明治34年12月8日、朝8時に浜松を発ち、天竜川の橋に着く。ここの渡守は無銭では通させぬということになり、仕方なく小夜の中山経由で静岡に向かった。何という名前の旅館か忘れましたが、こころよく無銭で泊めてくれた。

明治34年12月9日、7時30分に宿を発ち、なにごとも無く沼津に着く。松本和平という大きな旅舎へ行き、宿泊を依頼したらすぐに快諾してくれた。

明治34年12月10日、朝警察署を尋ねる。署長さんから無銭では手紙を出すのも不自由するだろうと言って、切手をいただく。また宿屋に戻り、箱根のくだりで使用する自転車の背負子を作る。9時20分に宿を発ち、箱根を上る。箱根を越すときに一滴の水もなくなり苦労する。茶店に着き渇きを癒す。下り坂は自転車を背負って下る。ところがその途中空腹に耐えられなくなり、一軒の茅屋を尋ねる。無銭旅行を説明したところ、こころよく食事を提供してくれた。この親切な人は、神奈川県足柄下郡湯本村字須雲川の安藤寅吉という人だった。元気になったところで、湯本へ下る。福住という旅館を訪ね宿泊を依頼したら、主人は留守で、取込んでいるからという理由で断られる。しかたなく駐在所を尋ねる。ところが後から追ってきた福住旅館の若者が来て、いま主人が帰って来て、なぜ断ったと叱られ、おつれもうしてこいということで来たという。しかし、婚礼があり取込中のことだからと私は辞退した。そして、小田原へ向けて湯本を発つ。小田原に着いたのは22時頃になっていた。旅館片野屋を尋ねて宿泊を依頼したところ、混雑しているのにもかかわらずこころよく歓待してくれた。

明治34年12月11日8時に旅館を発ち、無事に神奈川に着く。自転車の油がきれたので、近くの貸し自転車屋に立ち寄り油をさしてもらう。東京に向かう途中で平岡宗之助という人に会って同行する。13時に双輪商会の練習所に到着する。この旅行の経験で8時から16時までに25里走ることは容易と分かる。そして長途の旅には必要の物以外は携帯しないことである。

終わり

 この自転車無銭旅行の旅は、明治34年11月15日12時に下関を出発して、明治34年12月11日13時に東京に到着しています。この長い助走期間と準備があればこそ世界一周も成功することができたのではないでしょうか。

注、如何いう訳か明治34年12月8日の天竜川から1日ずれてきています。中村春吉氏直話ではこの日は7日になっています。錯誤と思われます。

(雑誌「輪友」第3号、明治35年1月1日発行 中村春吉氏直話より)

2009年5月7日木曜日

ケンブリッジ・タイヤ


    雑誌「輪界」第11号 明治42年7月25日発行に掲載された公告

 ケンブリッジ・タイヤとは余り聞かない名前です。
 ダンロップやミシュランはこの当時から頻繁に新聞や雑誌に広告を載せています。
 このタイヤどうやら神戸の橋本商会が輸入元のようです。
 日本では、三田土ゴムが明治19年に創業していますが、実用になる自転車用のタイヤを生産できるようになったのは遅く、明治41年頃からでした。

ポインター号

 本日、アメリカのある人から写真添付つきのメールが届きました。
 昭和20年頃に日本に滞在していた伯父が所有している自転車の照会でした。
 写真を見ますと、ポインター号と光号でした。これらは、戦後まもないころに製造された自転車で、ポインター号は1951年頃のものです。セントラル日本自転車が製造した自転車で、ポインター犬の顔がトレードマークです。光号は、大日本機械工業が製造した自転車で、1950年頃のものと思われます。

2009年5月6日水曜日

中村春吉(6)

 馬関を出発した中村春吉のその後の足取り(その2)

明治34年12月1日、難波にある鉄工所の飾秀の親戚に昨日の夜から二日滞在する。

明治34年12月3日、朝飯に雑煮をたくさん食べ9時に出発する。餅と饅頭をたくさんいただき自転車のカバンに詰める。再度、大阪の橋本商会の支店に立ち寄る。非常に歓迎してくれる。支店長の高谷さんが二里程送ってくれる。京都には14時頃に着く。京都輪友倶楽部の人々の歓迎を受ける。この倶楽部の配慮により、高級旅館に泊ることができた。

明治34年12月4日、朝京都を発ち四日市に向かう。途中、大津から鈴鹿峠までは自転車に帆をかけて走る。かなりのスピードが出る。水口というところの警察署に立ち寄って小休止をする。12時20分、警察署を出発する。出発の間際に署長さんからたくさんのビスケットを貰う。15時に鈴鹿峠を自転車で一気に下る。四日市新町には19時に着く。本日の宿泊場所を探す。当てが無いので警察署や市役所を尋ねたが断られる。市役所の当直員からピンヘッドのタバコを貰う。思案の末、知人宅があることを思い出す。私立三重唖学院の高松清作院長である。そこで、この家を訪ねたところ歓待される。風呂に入ってから遅い夕飯を食べる。0時30分に就寝。

明治34年12月5日、朝、高松さんの案内で、この学院の教授方法を参観する。行き届いた教育法に感心する。9時に学院を出発する。11時に木曽川の渡し場に到着する。無銭旅行の旨を渡し守に説明して快諾を得る。木曽川を舟で渡った後、最寄の警察署に寄る。お茶を一杯ご馳走になり、飲料水も貰う。15時40分に無事名古屋に到着。それから電気諸機械製造及輸入金物木材雑貨商の角田福次郎の紹介で、アンドリュース・ジョージ商会名古屋支店を訪問する。非常に歓待してくれて、旅館までとってくれる。その晩は洋食をご馳走になる。

明治34年12月6日、早朝に自転車を清掃・整備する。その後、憲兵屯署に向かう。そこで近藤代三郎という人が来て、私の自転車を点検してくれた。スポークが悪いと言って、修繕までしてくれた。その上、ランプの油や機械油の提供までしてくれた。山中鍋太郎という人からは、タバコを貰う。11時30分にここを発ち、鳴海に向かう。三里ほど走り鳴海に着く。着いたころにサドルのネジが折れたので補修をする。そして岡崎に向かう。岡崎では飛輪会副会長の千賀千太郎氏方を訪問する。そこにちょうど会長と幹事諸君が来て、近くの料理店でご馳走になる。飛輪会の好意により岡崎一の旅館に泊めて貰う。

明治34年12月7日、出発に際し、岡崎飛輪会のメンバーと記念の写真を撮る。8時40分に岡崎を発つ。副会長の千賀君、幹事の牛田君ら4名が、会を代表して二里程送ってくれる。その後、御油に到着。警察署に立ち寄り小休止する。昼飯を食って行けと言われたが辞退する。11時に警察署を出発。豊橋には、ちょうど12時ごろに着く。双輪会の会長宅を尋ねるが生憎留守であった。警察署へ行って、名刺を置き発とうとすると参陽新報記者の河合弘毅氏が来て、自宅へ寄って行けと言われる。河合氏と歓談し、昼食までご馳走になる。15時に河合氏宅を出る。遠州浜松へ向かう。途中、浜名湖を舟で渡るとき強風のため、岩に舟の舵が引っかかる。急遽、私は帆を下ろして櫓を一生懸命に漕ぐ。そして無事に渡ることができた。その時にたまたま沖商会の林五十三という人が同舟していて「君のお陰で助かった」と礼を言われた。浜松に着いたのは、17時30分頃であった。警察署に行き宿の手配を頼んだが、断られる。そこで、同舟した林五十三の宿所を尋ねる。よく来てくれたとばかり、歓待してくれる。そして同宿する。(雑誌「輪友」第3号、明治35年1月1日発行 中村春吉氏直話より)

つづく

ジープ・サイクル

  この資料は、1998年1月頃に信州小諸在住の中堀さんから送っていただいたものです。
 戦後のものと思いますがいまのところ不明です。ジープという名称から進駐軍を連想します。
 名古屋市北区城北新町3丁目7番地の高橋JS商会が製造発売元となっています。資料によりますと自転車用強力変速機とあり、どんな坂でも楽々登れる、どんな重荷も軽々運べるとあります。当時の定価は3,800円。
 新品未使用箱入りの現物が中堀さんのところにあるそうです。

 昭和6年頃に、神戸の林家商店がジープ号という銘柄の自転車を販売していましたが、それとは関係がありません。

2009年5月5日火曜日

中村春吉(5)

 馬関を出発した中村春吉のその後の足取りを追ってみますと。
(雑誌「輪友」第3号、明治35年1月1日発行 中村春吉氏直話より)

明治34年11月15日12時に下関を出発し、18時40分に三田尻に着。その後、久賀郡の知人宅で一泊。(久賀郡で二泊か?)

明治34年11月17日8時に久賀郡を出発して、広島に向かう。13時に広島着。大手町の鳥飼繁三郎の家で自転車のベルを修理してもらう。それから赤谷という人から空気入れのポンプを入手。この日は深越村の大下龍之進の家に泊る。

明治34年11月18日7時30分深越村の大下龍之進宅を出発。生まれ故郷の御手洗へ向かう。その途中の四日市西條というところに急坂があり、向こうから牛飼いが牛を牽いてのぼってくる。ベルを鳴らしたところ牛が驚いて暴れ出し、自転車にぶつかる。その瞬間に泥除けがはずれ、車輪に巻き込まれたため横転する。田圃の中に投げ出されて顔面を打つ。痛さをこらえながら再び自転車に乗って出発する。竹原町の警察署に寄り、旅の話などをする。それから写真屋を尋ね記念の写真を撮ってもらう。明神の鼻から便船に乗船し御手洗へ向かう。故郷の御手洗で10日程滞在する。

明治34年11月27日7時30分御手洗を出発し尾道へ。尾道では十四日町の鉄砲屋児玉という人の家に泊る。

明治34年11月28日早朝、尾道を発つ。福山の親類を尋ねる。その後、岡山に向け出発する。途中、笠岡の手前で犬にほえられる。空砲を撃って追っ払うがなかなか逃げない。全部で4発撃ってやっと追い払うことができた。ところが近くの家から人が出てきて、鉄砲の弾が当ったという。空砲だと言うと、砂が顔に命中した勘弁できぬと騒ぐ、そこで笠岡の警察署に同道して事情を説明する。その男は警官に説得され帰る。その騒動の後、署長と歓談し、昼飯をご馳走になる。13時30分、警察署を出発する。岡山には17時に着く。その晩は、双輪会で歓迎会を催してくれた。このクラブに一泊する。

明治34年11月29日早朝、自転車の損傷箇所を修理する。11時40分に双輪会のメンバーに謝意を述べ、出発して姫路に向かう。19時30分姫路着。大工町の須貝潜の英語学校を訪ね一泊を請う。当初断られたが理解され、泊めてもらうことになった。その学校の生徒や教師の前で、2時間ほど英語でいろいろな話をする。

明治34年11月30日7時20分、須貝氏や学校の人々に謝意と別れをつげ出発、神戸に向かう。途中、猟犬を連れた猟師とトラブルがあったが、無事に神戸へ着く。元町の長尾商店で夏用の帽子をもらう。その後、橋本商会を尋ねる。店の小僧とトラブル。外国帰りの少年で英語で応対したため。当初、日本語ができないことを知らなかったため、生意気な小僧と中村は判断した。橋本商会では昼飯をご馳走になる。13時に橋本商会を出発。14時30分に大阪着。大阪朝日新聞社に立ち寄り、自転車世界旅行の話をする。橋本商会大阪出張所にも寄る。20時に難波の親戚の家に行き、泊る。

つづく

中村春吉(4)

 中村春吉の名が最初に自転車雑誌に登場したのは「輪友」ではないでしょうか。
 雑誌「輪友」(第2号、明治34年11月25日発行)に小さく次のように掲載されています。

◎自転車世界周遊 11月馬関の中村春吉なる人自転車世界周遊を思い立ち本月14日横浜に向け発程せりと云う

 馬関とは、山口県下関のことで、古くは赤間関(あかまがせき)と呼ばれ、赤馬関とも書きました。これを略して馬関(ばかん)と呼びました。地理的には下関港の辺りです。
 中村春吉は、この馬関で明治31年に「馬関忍耐青年外国語研究会」という英語塾を開いていました。ここから明治34年11月14日に自転車による世界一周の旅をスタートさせたことになります。

梅津大尉

 自転車大尉として知られていた梅津元晴は、雑誌「自転車」にたびたび登場して自転車談議をしています。これもその一つで、ジェラール折畳自転車について詳しく解説しています。(雑誌「自転車」明治37年7月1日発行)
 彼は、軍人を中心に組織された自転車クラブ「勇輪義会」のメンバーの一人で、このクラブ結成にあたり尽力しました。国家に一大事あらば自転車をもって国にご奉公することを目的として明治34年に組織されました。当時この会に共鳴する人達が全国にいまして、盛岡、仙台、福島、水戸、土浦、結城、鹿沼、横浜、徳島など各地に支部がつくられ、会員数は400名を超えていました。会長は、海軍少将の新井有貫、副会長は陸軍戸山学校の鵜沢総司少佐でした。
 自転車軍事教練のテキスト「自転車指針」(厚生堂、明治35年)の著書でもあります。なお、明治34年4月1日発行の雑誌「自転車」で、自転車十傑(部門別の博識家で)の一人にも選ばれています。

2009年5月3日日曜日

宮田製作所

 これは宮田製作所が明治34年にアメリカのクリーブランド103型を見本に製作した自転車の一台です。
 写真の説明書きには「クリブランド一〇三型自転車明治三十四年自転車製作所として初めて三台製作せしうちの一輌」(『宮田栄助追悼録』昭和7年9月9日発行)とあります。
 ところが、雑誌「輪界」に掲載されている「日本自転車の由来(二)」には次のように書いてあります。

二十、見本の作製
宮田工業にて明治三十四年始めて自転車の製造をなさんとせし頃、其見本の製造に意を注げり、然れども僅か二台の自転車を作るに其日数実に六ヶ月を要せり。(『輪界』第2号 明治41年10月25日発行)

 どうでもよいことなのですが、3台が2台になっています。どちらが正しいのか分かりませんが、説得力は2台の方にあるような気がします。

中村春吉(3)

      雑誌「輪界」明治41年9月25日発行にも掲載されたお馴染みの写真

 世界自転車旅行者中村氏の新嘉坡の滑稽業
 雑誌「輪界」明治41年9月25日発行より抜書き

中村春吉氏と云えば苟くも輪界に事をなすもの其名を知らぬものなし、故に此処に中村氏を紹介するは寧ろ無用に似たり。・・・(明治41年にもなれば、彼の名を知らないものはいません。明治36年の時の中村某と比べるとえらい違いです)

2009年5月2日土曜日

中村春吉(2)

                イギリスのリバプールにて

 世界一週の自転車乗(下関市の一青年倫敦に入る)
 雑誌「自転車」第31号、明治36年2月28日発行より抜書き

倫敦エキスプレスの記者に語れる所によれば彼は日本山口県馬関の者にて中村某といい自転車の世界一周を思い立ちて既に其一半を終わり先ず日本を発足して支那、印度、露西亜、白耳義、仏蘭西国を縦断し伊太利、土耳古をも訪いたり・・・
(この頃まだ日本国内では中村春吉の自転車世界一周旅行について、それほど話題になっていなかったのでしょうか。中村某とあるところを見ると、関心の度合いも分かるような気もします。明治37年に押川春浪の冒険小説「中村春吉自転車世界無銭旅行」が『中学世界』に発表されてから彼の知名度が上がったようです。

中村春吉(1)

                  ボストンに於ける中村春吉

 自転車世界無銭旅行者の中村春吉については、押川春浪の冒険小説『中村春吉自転車世界無銭旅行』や横田順彌の『幻綺行 中村春吉秘境探検記』、『大聖神 中村春吉秘境探検記』、『日露戦争秘話 西郷隆盛を救出せよ』、『明治バンカラ快人伝』など多数出版されています。いまさら同じようなことを書く必要もありませんが、当時の雑誌などに掲載された記事を中心に紹介したいと思います。

ニューヨークに於ける中村(雑誌「自転車」第33号、明治36年5月10日発行より抜書)

米国の「自転車世界」という雑誌にニューヨークに到着したことを報じているとあります。

去る土曜日にニューヨークに現れたり、彼は発熱のため・・・(どうやら風邪をひいたらしい)
中村は1901年11月に東京を出て世界旅行の途に上れり、・・・(横浜港を1902年2月25日に出帆したと思っていましたが、スタートは東京だったのでしょうか)

故郷山口県にては彼は六百人の生徒を有する慈善学校の教師なり、・・・(馬関忍耐青年外国語研究会のことのようです)

我が用いたるアメリカ製自転車は充分満足を与えたり、・・・(彼がこの世界一周旅行に使用した自転車はアメリカ製のランブラーです。あの志賀直哉も乗っていた自転車です)

略歴は下記のとおりです。
1872年(明治5)広島県豊田郡豊町御手洗に生まれる。
1893年(明治26)ハワイへ移住。
1897年(明治30)ハワイより帰国。
1898年(明治31)下関で「馬関忍耐青年外国語研究会」という英語塾を開く。
1902年(明治35)2月25日 自転車世界一周のため横浜港を出帆。
1903年(明治36)5月10日 世界旅行から無事帰還。
1904年(明治37)『中学世界』(春期増刊号)に「無銭冒険自転車世界一周」(押川春浪編述)が掲載される。
1912年(大正元)『快男児快挙録』河岡潮風作 東京堂で出版。
1925年(大正14)東京市四谷に「中村霊道治療所」を開設。
1928年(昭和3年)同治療所を弟子に任せ故郷の御手洗町へ帰る。
1945年(昭和20)2月 死去。

2009年4月30日木曜日

日米商店(2)

 日米商店の履歴の中で、1903年(明治36)3月に、本店を京橋から銀座三丁目九番地に移転、としましたが、これは同年4月2日付け時事新報に既に所在地が東京銀座三丁目となっていたからです。といいますのは「日米富士自転車八十年史稿」(昭和57年12月21日発行)では、明治37年3月と1年後になっています。
 一時資料を優先することから新聞記事の年月を採用しました。

友の会だより

 すでに会員の方には届いていると思いますが、4月20日発行の「自転車文化センター 友の会だより」第10号が出ています。おそらく近いうちには、同センターのHPにもアップされると思います。
 内容は、催事の案内と「資料から知る自転車の歴史9」、所蔵資料の紹介などです。
 明治43年発行の金輪社のカタログも一部掲載されていますので、当ブログの2009年4月23日付け、金輪社1~3と合わせて参考になると思います。

28吋

 これは大正14年1月23日付けの見積書兼領収書のようです。
 28吋のチューブ、ラーヂペダル、ラーヂ・二ツ山リム、ラーヂ左クランクなどが記入されています。合計金額は、金五拾壱円二拾銭とあります。自転車店の名前は、星自転車店で会津高田町にあったよう です。
 現在でも星自転車店をグーグルで検索しますと出てきますが、はたして同じ店であるかどうかは確認していません。
 車輪のサイズですが、今日では26インチが一般的ですが、この当時はむしろ28インチでした。戦後も小田原でこの頃のラーヂに乗っていた老人がいましたが、やはりタイヤサイズは28インチでした。

2009年4月28日火曜日

ホーライ号

 昨日のこのブログの「月賦販売」の中で、ホーライ号自転車製作所とありましたが、はたしてホーライ号と言う名の自転車だけをこの会社は製造していたのでしょうか。調べて見ますとこの会社は2,3年の間に会社名をたびたび変更しています。
 ホーライ号はこの会社の主力商品で所謂看板自転車でした。

大正10年のときは「小林商店」でした。所在地も東京市下谷区西町三番地にありました。ホーライ号自転車・ホーライタイヤ発売元とあります。(「輪業世界」第35号 大正10年1月号)

大正11年には「ホーライ号自転車製作所」 小林勇蔵とあります。所在地は同じ下谷区西町三番地です。(「輪業世界」第47号 大正11年1月号)

大正12年には「小林製作所」 小林勇蔵で、所在地は浅草区七軒町八番地に移転しています。(「輪業世界」第59号 大正12年1月号)

大正13年には、また「ホーライ号自転車製作所」に会社名がもどっています。所在地は浅草区七軒町八番地です。

 このようにたびたび数年の間に会社名を変更しています。「小林ホーライ製作所」と名のった時期もありました。銘柄車としては、蓬莱号、ヒフミ号、セント号などがありす。

 月賦販売の受領証に書いてありました販売店の「淺川自転車店 浅川政治」は、新潟県村松町にありました。ホーライ号の代理店は、大正12年1月現在で全国に22店舗ありました。

2009年4月27日月曜日

月賦販売

 これは自転車の月賦販売の受領証です。大正時代に入っても、まだ自転車は高価なものでした。現在でもローンで車を買う人は多いと思います。この時代も同じように自転車をローンで購入しました。ホーライ号は126円で現在に換算しますと40万円ぐらいになります。

 ホーライ号は、ホーライ号自転車製作所が製造した自転車です。この製作所の所在地は、東京市浅草区七軒町八番地にありました。

2009年4月26日日曜日

石版画

 これは明治38年の「上野」というタイトルの石版画で、あとから彩色が施されています。作者は延重です。
 明治38年といいますと既にこの絵にあるダルマ自転車は、巷から消えようとしていました。ダルマ自転車が流行した時期はだいたい明治23年から明治30年頃までです。それ以降はアメリカ製のセーフティー型(安全車)自転車が主流となります。
 「上野」と書いたタイトルの次に「「樹木繁茂して花あり 四季の散策によし」と書かれています。上野公園の桜はまさに満開です。

この石版画は、国立歴史民俗博物館所蔵のものです。

日米商店

 右の広告は、明治43年8月26日付け「やまと」新聞のものです。
 ラッジとホイットワースは、 1894年10月9日に合併したイギリスの自転車メーカーです。
 日米商店との直輸入販売契約は、1906年(明治39)1月に締結され、それ以来、日米商店の主力銘柄になりました。
 もともと日米商店は、その会社名でも分かるとおり、米国製品の輸入販売から始まりました。

この間の履歴は次のとおりです。

1899年(明治32)11月、創業者の岡崎久次郎は、店名を日米商店として、京橋区竹河岸で米国製懐中電灯の輸入販売を始める。
1903年(明治36)3月に、本店を京橋から銀座三丁目九番地に移転。
同年4月2日付け時事新報に祝博覧会開設非常大割引、写真器及び自転車界へ大突貫 日米商店として広告を載せる。
同年4月5日付けの毎日新聞にも同様の広告を載せる。
同年8月14日発行の日米商店商品目録に取り扱い銘柄車として、スターリング、ウルフアメリカン、スタンホード、アメリカンを掲載。
1904年(明治37)8月23日付け東京朝日新聞に、陸軍御用スターリング自転車の広告 東京銀座三丁目 日米商店とある。
1905年(明治38)4月大阪東区大川町に大阪支店を開店。
同年9月28日付け時事新報の広告に、1905年最新形スターリング自転車とある。
1907年(明治40)日米商店ラーヂ・ホイットワースのカタログを発行。

2009年4月25日土曜日

横浜鉄道図

 ミショー型自転車がフランスで発明されたのはいつ頃なのか、いろいろと説がありますが、いまのところの有力説は、1861年と言われています。それでは、このミショー型自転車がいつ頃日本に現れたのかについては、まったく分かっていません。
 明治初年頃にたくさんの自転車を描いた錦絵がありますが、三輪車を除きどれも忠実に描かれた二輪車(ミショー型自転車)はありません。唯一、正確に描かれていますのは明治10年頃の「東京府下自漫競 江戸橋石造」三代広重画です。私はこの錦絵を基準として、ミショー型自転車の日本到来は早くても明治8年以降と推定しました。ただし、これも当座の推定年であることは勿論です。他に有力な資料が現れれば、変更されるものです。
 上掲の錦絵は、極めて重要な情報を提供していると思います。なぜなら、かなり正確にミショー型自転車を描いているからです。この錦絵の発行年は、正確ではありませんが、どうやら1872年(明治5年)頃のようです。ミショーの発明から約10年後ということになります。場所も横浜で、しかも外国人商館の前のようです。コートを羽織りブーツを履いた外国人風の男がミショー型自転車に乗っています。この自転車を珍しそうにまわりの人々も見ています。二人連れの日本人女性も横目で見ています。この絵が確実に明治5年に描かれたものとすれば、ミショー型自転車の日本渡来説も早まることになります。可能性としては明治5年も充分考えられる年代です。

この錦絵は、国立歴史民俗博物館所蔵のものです。
しん板車づくし 横浜鉄道図 豊重画 版元、綱島亀吉 明治5年頃

自転車ぶし



 これは、1910年(明治43)10月10日発行の「今流行自転車ぶしと博多ぶし」(編集兼発行者 大淵 浪 発行元:駸々堂)の小冊子です。
 明治30年前後までは一部富裕層の乗物であった自転車も、この明治40年代に入りますと、多くの一般大衆も貸し自転車などを利用するようになりました。自然発生的にこのような「大流行ハイカラ自転車ぶし」まで謡われるようになりました。
 自転車乗りの中には目立とうとして曲乗りに興ずる者も現れました。皮肉と滑稽さの中にも明治庶民の大らかさを感じさせてくれます。

機関誌「銀輪」

 昭和23年8月1日に西日本自転車労働組合文化部が発行しました機関誌「銀輪」第2号の表紙です。 戦後、新憲法により労働三権(団結権、団体交渉権、団体行動権)が保障され、各産業別に労働組合が結成されました。これもその中の一つの組織が発行した機関誌です。
 この組合の所在地は、福岡市住吉平田町にありました。

2009年4月23日木曜日

東洋商会

    「輪界」第11号 明治42年7月25日発行に掲載された公告

 東洋商会の創業者は松下常吉氏です。彼は、1855年(安政2)5月には石川県の能登半島七尾町で生まれました。明治16年に上京し、石川島造船所で機械工として働きました。その頃、石川島造船所にキングーという米国人の技術者がいて、最新の機械技術等の教育を受けています。
 その後、東京小石川陸軍砲兵工廠や田中機械工場で働きました。明治22年の頃に田中機械工場の事務員であった庄司という人が、米国製の自転車に乗っているのを見かけ、たいへん興味を持ちました。この頃より自転車の利便性と将来性を強く意識するようになったようです。
 明治30年の春にはその頃勤めていた芝浦製作所を辞職して、芝区三田四国町二番地十六号に貸自転車及び修理業の店を開業しました。この頃の出来事として次のような事件が起っています。
 明治32年3月21日付けの東京朝日新聞に
「一昨夕芝区三田四国町二番地十七号の貸自転車業愛輪会松下常吉方へ十七八の男来たり僕は三田三丁目の洋服裁縫職宮田宇吉と申す者だが三十分程貸して貰いたいとて定価二十六七円の自転車一輌借り受けヒラリと飛び乗って駆け行きしまま帰り来ずさては乗り逃げと心付きて訴たへたり・・・」
とあります。 
 その後、長男である幸作氏と親子共同で自転車製作を開始し、精力的に取り組むようになりました。 明治42年には、上野で開催された第1回発明品博覧会で、出品した自転車が高く評価され、銀牌を受賞しています。
 事業は順調に推移し、販売部として芝区芝口一丁目十六番地に置き、更に第二工場として田町三丁目八番地に建設し、年間に1,500台を生産するという規模になりました。そして、東洋商会製の自転車はジャワ、スマトラ、朝鮮、樺太などにも輸出されるようになりました。
 「輪業世界」1922年(大正11)1月号に幸作氏の名前で喪中とあり、恐らく大正10年に松下常吉氏は逝去したと思われます。
 大正11年12月10日には三田四国町から大崎町居木橋四八八の大崎駅付近に住宅と工場のすべてを移転しています。

 東洋商会の銘柄車としては、東洋、ルビー、ヒーロー、クローフオルド、シャーマン、チビタル、松下製デートンなどがありました。

金輪社(3)

        明治42年10月6日付け上毛新聞の広告

 これも金輪社の新聞広告です。上毛新聞という地方紙に掲載されたものです。
 特約関東一手販売店 岩崎自転車商会(高崎市連雀町)とあります。ここでは、看板自転車のモノポール(Monopole Cycle & Carriage)ではなく、ピースとセントジョージの商標を載せて宣伝しています。

 『上毛新聞』は、明治20年11月1日に群馬日報と上野新報が合併して創刊された新聞です。

金輪社(2)

 この保証書には発行年月日が記入されていませんので分かりませんが、おそらく大正初期のものと思われます。ターヒー自転車とはあまり聞かない銘柄です。
 金輪社の看板自転車と云えばモノポールでした。モノポール号イコール金輪社というイメージが定着していました。

金輪社

  今年は、横浜が1859年(安政6年)に開港からしてから150周年を迎えます。
 この新聞広告には開港50年とあります。
 自転車も文明開化を象徴する一つで、開港してまもない明治元年には、この地にイギリスのラントン三輪車が現れています。そして開港から50年も経ちますと巷には自転車が多く行き交うようになりました。国産化も進み、人力車を駆逐して庶民の足として利用されるようになるのもこの時期です。
 金輪社は、元石川商会の社員であった松浦精一郎がはじめた会社です。彼は、明治時36年に独立して横浜の相生町五丁目に開業しました。その後、明治41年9月には業務も伸展し、尾上町四丁目に移転しています。尾上町と言えば石川商会(尾上町六丁目)があった場所です。金輪社が取扱った主な銘柄はイギリスのモノポールやピースでした。

参考資料:
明治42年7月3日付け横浜貿易新報
横浜成功名誉鑑 横濱商况新報社編 明治43年7月発行

2009年4月22日水曜日

商標偽造

 これは新聞に掲載された謝罪文です。ピアスの商標を偽造したことが発覚したことによるものです。どうやら商標変更後もこのような偽造が後を絶えなかったようです。言い換えればそれほどピアスは人気車種であったことが分かります。
 下の広告は、ハンバーのものです。当初、ハンバーはこの横浜の商館が輸入し、神戸の橋本と東京の仁藤が特約代理店となり販売されていました。その後、ハンバーは神戸の橋本商会が一手販売することになります。

2009年4月21日火曜日

センター号(2)

 この商標はセンター号のものです。明治43年の橋本商会のカタログから転載したものです。このマークをよく見ていれば「Center」と早とちりすることもなかったと思います。
 「Centaur」と、この絵があれば、直ぐにケンタウルス号であることが分かったはずです。「Centaur」の発音は、セントー、セントーア、セントアーでしょうか。センターとは読まないと思います。カタログにはセンター号と書いてあります。

資料提供:自転車文化センター

廃業の真意

 石川商会が明治42年に廃業した理由として、社主である石川賢治氏の病気であるとしていますが、本当にそうなのでしょうか。一般的に考えれば社主が病気療養中でも補佐役である他の役員や社員がいれば会社は存続していくはずです。個人商店であれば店主が病気になり廃業することもうなずけますが、どうも石川商会のような大きな組織では、それだけの理由で廃業することは考えられません。
 上掲の資料は、解散後の翌年に行われた新年会の招待状です。
 石川賢治氏から元社員であった石田源太郎氏へ宛てたものです。石田源太郎氏は石川商会を退社後、鎌倉の井桝家へ養子に入りこの地で自転車商を開業しました。現在でも井桝自転車商会(小町2丁目13-5)は営業しています。この資料は井桝新雄さんから提供していただきました。この招待状の日付は明治43年1月10日で新年会は16日の午後4時から横浜の相生町四丁目の八百政楼で行うとあります。
 この招待状から、快気祝いのようなことは一切感じられません。
 そして、雑誌「輪界」には次のような投稿があります。
 「石川商会の主人石川賢治氏同商店廃業に就いて」の中で、 

其主要取扱品米国車不振に陥り其挽回の目途立たず・・・

 とあります。やはり廃業の一番の原因はピアス車を中心とした米国車の販売不振にあったようです。この時期になりますともはや米車に人気はなく、主流は英国車に変わっています。安価な国産車の台頭も見逃せません。何れにしても時代の流れに乗遅れたような気がします。病気も一つの理由だったのかも知れませんが、営業不振が最大の理由のようです。

参考資料:
雑誌「輪界」(第11号 輪界雑誌社)明治42年7月25日発行

競輪舎

 これは競輪社ではなく競輪舎の広告です。この広告は明治42年7月25日発行の雑誌「輪界」(第11号 輪界雑誌社)から転載したものです。この競輪舎の所在地は、東京小石川第六天前(小日向水道端三ノ二八)とあります。先の競輪社の本店は、やはり小石川水道端町一ノ二八にありましたから、ことによると同じ会社かも知れません。競輪舎を競輪社に変更したのでしょうか。
 ここにあるキング号という銘柄は何処のメーカーでしょう。恐らくこの時期ですとイギリス製の可能性があります。1901年頃に確かにキングというメーカーがありますが、銘柄とメーカー名が同じとは限りません。むしろ違う場合が普通です。それにしてもキングとは、あまりにも一般的なネーミングです。アメリカだけでも、ザ・ホイールHPで調べますとキングとつくものが16銘柄もあります。

タビス号

 これも競輪社の広告です。大正9年10月3日付け読売新聞に掲載されたものです。
 低価格のタビス号は、58円とあります。当時の米価から換算しますと、それでも8万円ぐらいになります。

競輪社

 これは大正9年10月4日付けの東京毎日新聞に掲載された広告です。自転車製造卸商 ㈱ 競輪社と書いてあります。所在地は東京下谷区御徒町三(停留所前)とあります。
 ここで注目したいのは会社の名前です。競輪という言葉は誰が最初に考え、使用したのか分かりませんが、すでに大正期には一般的な名称だったのでしょうか。私はいままで昭和23年の競輪誕生のころから使われ始めたものと思っていました。
 現在「Keirin」は、国際語になっています。

2009年4月20日月曜日

三輪車

  前のブログ(2009年4月19日オールデース三輪車)で「以前見たこの頃の錦絵に似たような三輪車が描かれていたのを思い出します」と書きましたが、やっと思い出しました。その錦絵とは「東京名所 芝公園増上寺山門前之景 大正元年」です。

資料提供:自転車文化センター

2009年4月19日日曜日

オールデース三輪車

 これは、オールデースの英国ロンドン中央郵便局特別仕様の三輪車です。
 石川商会のカタログ(明治40年頃)に掲載されたものです。
 日本の逓信省あたりでも恐らくこのカタログを見たと思います。実際にこのような仕様の三輪車が利用されたかはいまのところ不明です。以前見たこの頃の錦絵に似たような三輪車が描かれていたのを思い出します。

Alldays(G.P.O service tricycle)

センター号

 このブログでも書きましたが、ゼブラ自転車は、イギリスのセンター号を見本に製作したとありますが、以前からこのセンター号に疑問をもっていました。と言いますのは、イギリスで当時センターという銘柄が見当たらないからです。
 これは私の不注意でした。ゼブラ自転車のカタログにある商標をよく見ないで「センター Center」とばかり思い込んでいたからです。ラッジをラーヂと書いたり、自転車曲乗家のヴォーンをボーンとするのはかまわないのですが、センターと書いてあれば恐らく100人中100人の人が「センター Center」を想像すると思います。これを「セントーやセントーア Centaur」と直ぐに分かる人はよほど英語に堪能な方だと思います。
 Centaur は、ケンタウルスと言った方が馴染みがあると思いますし、意味も直ぐに分かります。
 当時、英国でCentaurというメーカーは、次の2社がありました。

Centaur Cycle Bicycle & Tricycle Manufacturing Co. (1879年頃)
Centaur Cycle Co. (1911年頃)

2009年4月18日土曜日

オールデース

  この写真は、明治40年頃の石川商会のカタログから転載したものです。
 石川商会と言えばアメリカ車であるピアス、アイバンホー、スネルの販売で有名でしたが、この時期になりますと英車が主流になっています。このカタログに掲載されている自転車も総て英車です。オールデースの他にトライアンフ、ラグランなどが載っています。
 これは、軍用自転車のオールデース228号で、価格は190円(米価換算で約150万円)です。オールデースはバーミンガムにあったメーカーで、創業は1650年と古いですが、自転車の製造は、1889年からです。社名は、オールデース&オニオンズ・ニューマチック・エンジニアリング株式会社といいました。

ビーストン・ハンバー

 この写真は明治40年頃の神戸・橋本商会のカタログから転載したものです。自転車は、橋本商会が一手販売していました英国のハンバーです。ビーストンは、ノッティンガム近郊にある町の名前です。この自転車はビーストンで造られたものなので、ビーストン・ハンバーと呼ばれました。
 ハンバーの歴史は古く1868年にトーマス・ハンバーにより、イギリスのシェフィールドでミショー型の自転車の製造から始まったと伝えられています。まもなくノッティンガムに移り、自転車製造を本格的に開始しました。その後、業務を拡大し、ビーストン、ウルバーハンプトン、コベントリーに工場を持つようになりました。

2009年4月17日金曜日

ピアスのマーク


 石川商会のカタログや正価表が時々オークションや古本屋から出ますが、発行年が記載されていないものが多くあります。
 そこで年代特定の判断材料の一つとしてピアスの商標をあげることができます。
 このブログでも書きましたが、明治36年7月に石川商会はピアスの商標をPの字から丸石に変更しています。ですからPのマークであれば、明治36年7月以前となり、丸石であれば明治36年7月から明治41年までということになります。
 それと、カタログや正価表をよく見ますと自転車の年式が書いてある場合があります。これらを参考に発行年を絞り込むことができます。

ゼブラ

 これは昭和10年7月発行のゼブラ・タイムス(夏の特大号)です。おそらく業界誌だと思います。
 ゼブラ自転車製作所の創業は、明治25年で、高橋長吉が浅草の聖天町で人力車製造を開始したのがはじまりです。明治30年頃から自転車用修理部品の生産を始めました。明治35年にはイギリスのセンター号を見本に自社ブランドのゼブラ号を販売しています。

2009年4月16日木曜日

石川商会大阪支店

 この写真は石川商会の大阪支店です。明治39年1月のカタログから転載しました。店の場所は、大阪市西区西横堀東上橋南詰にありました。石川商会はこのブログでもたびたび述べていますが、明治32年頃から自転車の輸入をはじめ、特にピアス自転車の販売で業務を拡張していきました。明治39年には横浜の本店をはじめ支店としてカナダのトロント、東京、大阪の4店舗になりました。最終的(明治41年の解散時)には、神戸出張所を含め全部で5店舗になっています。

2009年4月15日水曜日

丸石のマーク

 この写真は、石川商会の東京支店です。明治39年1月発行のカタログから転載しました。店の場所は、東京市京橋区南伝馬町三丁目にありました。屋根の上の塔に丸石のマーク(実はこれが新しいピアスのマーク)が見えます。このマークの使用は明治36年頃からです。銘柄車のピアスは石川商会の一手販売でしたが、別ルートで中古車などを輸入した業者がフレームを塗替え販売する悪質なケースなどがあとを絶ちませんでした。それに横浜のアンドリュース&ジョージ合名会社も似たようなマークの使用をはじめました。そこで石川商会は、やむなくピアスのマークを丸石に商標変更するという思い切った手段に出ました。明治36年7月31日付けの萬朝報に「輪界に警告す」というタイトルで、この商標変更のことを載せています。

石川商会本店(2)

 この写真も石川商会の本店です。撮影年月はカタログに書いてありませんが、取扱自転車が総て英国車になっていますので明治40年頃と思われます。明治41年には石川賢治社主の病気引退により丸石へ引き継がれますが、恐らくそれに近い年月に撮影されたものと思います。社屋も近代的な三階建てのビルに変わっています。所在地は同じ横浜の尾上町六丁目です。

裏焼き



 前のブログで写真の反転について書きましたが、よい例がありますので載せたいと思います。この二枚の写真は本来同じものですが、下の写真が現像の裏焼きになっています。この写真は上野水茶屋を撮影したもので明治25年頃のものと思われます。撮影者は横浜の弁天通一丁目にあつた玉村写真館の店玉、玉村康三郎です。
 右隅にあるダルマ自転車が、下の写真では左隅になっています。それと撮影場所を書いた下部のローマ字を見ると分かります。

石川商会本店

 この写真は石川商会のカタログから転載したものです。カタログの発行年は明治39年1月です。
 石川商会本店の住所は、明治33年に横浜市弁天通四丁目七十三番地にありましたが、明治39年には横浜市尾上町六丁目八十九番地になっています。業務拡張により弁天通から尾上町にこの間、移転したようです。また、住所は同じですが明治41年頃の写真を見ましと、近代的な三階建ての社屋になっています。
 写真をよく見ますと屋根の上にある看板の字が反転しています。この頃の写真に多く見られる現像時のミスと思われます。
 左側に写っています木枠は何なのでしょうか。自転車を格納するには厚みがないように思われます。この頃の自転車梱包もどのようなものであったか興味深いところです。
 自転車梱包の一つの資料としては、日本自転車史研究会の機関誌「自転車」第50号 1990年1月15日発行の(明治期の自転車梱包について)を参照願います。これは明治38年の農商務省商工局『海外輸入貨物包装調査報告第1回』の写真入り資料です。この資料は齊藤俊彦氏から提供されたものです。

橋本商会本店

 これは神戸の橋本商会本店の写真です。正確な撮影年月日は分かりませんが、早くとも明治40年頃か、或は大正期に入って撮影されたもの思われます。時代の先端を行く、自動車が2台も写っています。よく見るとハンバーの看板が中央右よりの窓ガラス付近にあります。

2009年4月14日火曜日

橋本商会(2)

 資料を整理していましたら、橋本商会の正価表と石川商会のカタログが出てきましたので、逐次このブログで画像などを紹介したいと思います。
 橋本自転車商会の大阪出張店の写真は、2009年4月8日付けのこのブログにありますが、コピー転写のため画質が悪いです。そこで再度、原本からのものを掲載いたします。大きいサイズを希望の方は、下記のメールアドレスへ申し込みください。無料にて送信いたします。

newsbuna@yahoo.co.jp

ラシクル

 このチラシは、発行年がどこにも書いていないので分かりませんが、恐らく明治36年頃のものと思われます。
 明治36年8月28日付けの大阪毎日新聞の広告にもアイバージョンソンとラシクルがあり、東洋総代理店角自転車商会とあります。
 このチラシをみますと角自転車商会は、全国に3店舗あったことが分かります。本店は大阪市本町一丁目、東京支店は東京市神田三崎町二ノ三、九州支店は筑前博多蔵本町とあります。
 またラシクルはアメリカのメジャーテーラーと日本の石井大三郎選手が乗用していたとも書いてありま す。
 メジャーテーラーは、アメリカの黒人選手でマーシャル・ウォルター・テイラー(1878年11月26日-1932年6月21日)です。通称、メジャーテーラーと呼ばれていました。1899年の世界選手権大会の1マイル・トラック競技でみごと優勝した選手です。人種差別の激しい時代の中で活躍した選手でした。
 石井大三郎選手は、東西の横綱級の一流選手の一人で、東の鶴田勝三、西の石井大三郎とも言われていました。 角自転車商会の所謂お抱え選手の一人です。
 ラシクルは、オハイオ州ミドルタウンにありましたマイアミ・サイクル&製造会社の銘柄車です。製造年は1894年~1918年です。
アイバー・ジョンソンは、マサチューセッツ州フィッチバーグのアイバー・ジョンソンズ・アームズ&サイクル・ワークスの銘柄車で、1896年~1918年まで製造されました。アイバー・ジョンソンは、イギリスのBSA同様兵器も製造していた会社でした。

2009年4月13日月曜日

競輪

  この「サイクルファン」は、小倉で競輪が発祥してまもない1949年4月3日の発行です。
 第1回西宮市主催 西宮競輪予想表とあります。
 自転車の銘柄を見ますと時代を感じさせる名前が並んでいます。

サンスター、白菊、日帝、マルシン、BBB、333、ウガイ、富士フェザー、プリミア、富士、エバレスト、ミツウロコなどが見えます。

 競輪は、地方財政の寄与、戦災都市復興及び自転車産業振興を目的として開催されるようになりました。法律も整備され「自転車競技法」は、昭和23年7月に国会で可決成立しました。
 第1回の競輪は1948年(昭和23)11月20日~23日に北九州の小倉で開催されました。なぜ小倉かといいますとちょうどこの年の10月に福岡県で第3回の国民体育大会が開催され整備された競技場をそのまま利用することができたからです。

三菱十字号

  戦後まもなく航空機の技術者であつた本庄季郎技師が製作した三菱十字号は精緻な強度計算からうまれた自転車でした。
 十字号のコンセプトは次のような考えから発想されました。

一、戦時中大量に航空機用材として生産されたアルミニューム合金材を平和産業に転用し、これを有効に利用する。
一、すでに定着したダイヤモンド型フレームはもはや改良の余地がないのか。
一、鋼材の溶接作業にかわり、できるだけプレス作業を利用する。(航空機のプレス作業用機械が遊休中のため)
一、機能を向上させながら工作の合理化、簡便化さらには材料の節約など。
一、分解、組立、手入、取扱の簡易化。
一、精密な構造及び強度計算による安全率の確保。特にアルミ軽合金材の撓みを考慮する。

 こうして、三菱十字号は1947年(昭和22)に生産を開始しました。その後、Ⅰ型からⅣ型まで進化して行きました。 
 1950年6月に勃発した朝鮮戦争の特需景気とともに三菱は本来の重工業へと戻って行き、十字号の生産も中止となりました。

写真提供:自転車文化センター この三菱十字号はⅠ型です。

参考資料:
雑誌「自然」3号 1947年発行(自転車の強度 本庄季郎)

「三菱重工業技術部報告」第62号 1947年 同技術部発行

2009年4月12日日曜日

モハン号

 このブログでも前に取り上げましたが、モハン号について少し書いてみたいと思います。
 鳥山新一氏の書いた本や雑誌の記事にありますモハン号の写真を拡大鏡でよく見ますと、同じものではないことが分かります。モハン号の特徴としましては、チェーンホイールの伝達構造と折畳小径車であることです。特にこのチェーンホイールの位置は若干ずれていますが左右それぞれに付いていることです。細部の構造は写真でよく分かりませんが、ギヤ比による変速か、或はギヤ比の拡張のために左右にそれぞれ付いているのではないかと思われます。
 この仕組みなどは書いてありませんが、雑誌「工芸ニュース」所収の文中に簡単ですが次のようにあります。

唯戦後一時騒がれた折畳式の自転車は8年ごろ前輪14in、後輪16inのモハン号(図8)が鈴木商会から市販され、後に改良型をだしたが筆者も長年2種類共使用した。

 どうやらモハン号のⅡ型とその改良型の2種類を鳥山氏は所有していたようです。旧型(Ⅰ型)は婦人車をそのまま小さくした形と図8の注書きにあります。ですからモハン号は全部で3種類製造販売されたことになります。 
 昭和8年から昭和9年頃にかけて鈴木商会で製作されたようです。鈴木商会の履歴や所在地はいまのところ不明です。

参考資料:
「すばらしい自転車」鳥山新一著(日本放送出版協会版、1975年01月発行

「工芸ニュース」5月号 第23号 昭和30年5月5日発行
 (わが国自転車のデザインとその変遷 鳥山新一)

当ブログ 2009年3月5日 コンパクト自転車

スイツ工業

 スイツ工業とはあまり聞かないメーカーです。銘柄車は、国立号 スイツ号です。写真を見るかぎりかなり大きな工場に見えます。東京の国立に工場があったのでしょうか。詳しいことはこれから調べたいと思います。このメーカーは「平成16年度 日本で製作・販売された自転車のブランド名に関する調査報告書(黎明期から昭和30年代まで」(平成17年3月発行)にも載っていません。
 1936年といえばスイス・チューリヒの世界選手権の個人ロードで、出宮順一選手が7位と大健闘した年です。

2009年4月11日土曜日

セレリフェール

 この写真は雑誌「モーター」(大正9年11月号 第88号)の表紙に掲載されているものです。
 そしてキャプションには次のように書いてあります。

この写真中に見える二輪車は世界最初の自転車にして何人が作ったか製作者は不明であるが1720年時代に製作されたることだけは明かである。現にフランスのバーヤータン・クラマンテン博物館に珍物として蔵したる。

 ドイツのカール・フォン・ドライス男爵が考案したドライジーネは1817年ですから、それよりも古いことになります。どこから1720年という年号が出てきたのか分かりませんが、極めて怪しげな年代設定です。それに写真にある自転車もこれまた怪しげな自転車です。時々似たような自転車を本や雑誌で見ますが、恐らくドライジーネを模倣して木馬のように動物の顔を先端につけた玩具的乗物の一種ではないでしょうか、以前セレリフェール(現在、この説はジャック・スレーによって否定されています)と呼ばれていた自転車の一つだと思います。

オーウェン・ピラミッド

  私がはじめてエーバイク(A-bike)を見たのは2年ぐらい前でした。国道1号線の歩道をエーバイクに乗った一人の男性がゆっくりと走っていました。
 デザインはたしかにユニークですが、長距離走行には向かないと思いました。このエーバイクのデザインですが何処かで見たような形でした。最近たまたま雑誌を整理していましたら、上掲のイラストが目にとまりました。車輪径は極端に違いますが、何となく似ているように思います。
 エーバイクは、2006年7月ごろ英国の発明家でありますサー・クライブ・シンクレア氏が開発した新型のフォールディングバイク(折りたたみ自転車)です。重量も約5.7kgという超軽量化を実現しています。所謂ちょい乗りにはもってこいの自転車だと思います。私も1台欲しくなりましたが、まだ手に入れていません。
 オーウェンの自転車は1896年に製造されました。名前はオーウェン・ピラミッドといいます。この会社は1878年の創業で1898年ごろまで製造したようです。他の銘柄にはオーウェンブラックビューティーやオーウェンなどがあり、オーウェン製造会社の工場はコネチカット州のニューロンドンにありました。
 私が見るところ、Aーバイクよりもむしろこのオーウェン・ピラミッドの方がよほどAーバイクの命名に適していると思います。