東亜護謨会社は、明治32年創業で社長は小林六三郎という人でした。工場は、東京府下南葛飾郡亀戸村字柳島四百十九番地にありました。彼は元薬剤師で、ある薬問屋に勤めていました。ある日、雑誌読んでいた小林はゴム製造に興味を持ち、自分でもやってみようという気になりました。明治32年12月から本や雑誌などを見ながら、実験を繰り返していました。おそらく薬を調合するような具合で実験を重ねたと思います。そして、明治33年8月にようやくゴムというものが概ねどういうものか分かってきたようです。この時期まだ日本で自転車用のタイヤを製造する会社はありませんでしたので、彼はこれを専門にやってみようと思い、手始めに廃物になったタイヤを安く買い入れ、この古タイヤに上からゴムをかけて造ったようですが、この方法はうかくいかなかったようです。その後も試行錯誤を続けながら研究を続け、明治34年10月になって、初めて実用になりそうなタイヤを製造することができるようになりました。
その後、この会社がどうなったかは分かりません。この会社は自転車用タイヤの他に足袋底、草履裏、ゴムマリ、消しゴム、医療器械用のゴムなども製造したようです。