馬関を出発した中村春吉のその後の足取り(その2)
明治34年12月1日、難波にある鉄工所の飾秀の親戚に昨日の夜から二日滞在する。
明治34年12月3日、朝飯に雑煮をたくさん食べ9時に出発する。餅と饅頭をたくさんいただき自転車のカバンに詰める。再度、大阪の橋本商会の支店に立ち寄る。非常に歓迎してくれる。支店長の高谷さんが二里程送ってくれる。京都には14時頃に着く。京都輪友倶楽部の人々の歓迎を受ける。この倶楽部の配慮により、高級旅館に泊ることができた。
明治34年12月4日、朝京都を発ち四日市に向かう。途中、大津から鈴鹿峠までは自転車に帆をかけて走る。かなりのスピードが出る。水口というところの警察署に立ち寄って小休止をする。12時20分、警察署を出発する。出発の間際に署長さんからたくさんのビスケットを貰う。15時に鈴鹿峠を自転車で一気に下る。四日市新町には19時に着く。本日の宿泊場所を探す。当てが無いので警察署や市役所を尋ねたが断られる。市役所の当直員からピンヘッドのタバコを貰う。思案の末、知人宅があることを思い出す。私立三重唖学院の高松清作院長である。そこで、この家を訪ねたところ歓待される。風呂に入ってから遅い夕飯を食べる。0時30分に就寝。
明治34年12月5日、朝、高松さんの案内で、この学院の教授方法を参観する。行き届いた教育法に感心する。9時に学院を出発する。11時に木曽川の渡し場に到着する。無銭旅行の旨を渡し守に説明して快諾を得る。木曽川を舟で渡った後、最寄の警察署に寄る。お茶を一杯ご馳走になり、飲料水も貰う。15時40分に無事名古屋に到着。それから電気諸機械製造及輸入金物木材雑貨商の角田福次郎の紹介で、アンドリュース・ジョージ商会名古屋支店を訪問する。非常に歓待してくれて、旅館までとってくれる。その晩は洋食をご馳走になる。
明治34年12月6日、早朝に自転車を清掃・整備する。その後、憲兵屯署に向かう。そこで近藤代三郎という人が来て、私の自転車を点検してくれた。スポークが悪いと言って、修繕までしてくれた。その上、ランプの油や機械油の提供までしてくれた。山中鍋太郎という人からは、タバコを貰う。11時30分にここを発ち、鳴海に向かう。三里ほど走り鳴海に着く。着いたころにサドルのネジが折れたので補修をする。そして岡崎に向かう。岡崎では飛輪会副会長の千賀千太郎氏方を訪問する。そこにちょうど会長と幹事諸君が来て、近くの料理店でご馳走になる。飛輪会の好意により岡崎一の旅館に泊めて貰う。
明治34年12月7日、出発に際し、岡崎飛輪会のメンバーと記念の写真を撮る。8時40分に岡崎を発つ。副会長の千賀君、幹事の牛田君ら4名が、会を代表して二里程送ってくれる。その後、御油に到着。警察署に立ち寄り小休止する。昼飯を食って行けと言われたが辞退する。11時に警察署を出発。豊橋には、ちょうど12時ごろに着く。双輪会の会長宅を尋ねるが生憎留守であった。警察署へ行って、名刺を置き発とうとすると参陽新報記者の河合弘毅氏が来て、自宅へ寄って行けと言われる。河合氏と歓談し、昼食までご馳走になる。15時に河合氏宅を出る。遠州浜松へ向かう。途中、浜名湖を舟で渡るとき強風のため、岩に舟の舵が引っかかる。急遽、私は帆を下ろして櫓を一生懸命に漕ぐ。そして無事に渡ることができた。その時にたまたま沖商会の林五十三という人が同舟していて「君のお陰で助かった」と礼を言われた。浜松に着いたのは、17時30分頃であった。警察署に行き宿の手配を頼んだが、断られる。そこで、同舟した林五十三の宿所を尋ねる。よく来てくれたとばかり、歓待してくれる。そして同宿する。(雑誌「輪友」第3号、明治35年1月1日発行 中村春吉氏直話より)
つづく