石川商会が明治42年に廃業した理由として、社主である石川賢治氏の病気であるとしていますが、本当にそうなのでしょうか。一般的に考えれば社主が病気療養中でも補佐役である他の役員や社員がいれば会社は存続していくはずです。個人商店であれば店主が病気になり廃業することもうなずけますが、どうも石川商会のような大きな組織では、それだけの理由で廃業することは考えられません。
上掲の資料は、解散後の翌年に行われた新年会の招待状です。
石川賢治氏から元社員であった石田源太郎氏へ宛てたものです。石田源太郎氏は石川商会を退社後、鎌倉の井桝家へ養子に入りこの地で自転車商を開業しました。現在でも井桝自転車商会(小町2丁目13-5)は営業しています。この資料は井桝新雄さんから提供していただきました。この招待状の日付は明治43年1月10日で新年会は16日の午後4時から横浜の相生町四丁目の八百政楼で行うとあります。
この招待状から、快気祝いのようなことは一切感じられません。
そして、雑誌「輪界」には次のような投稿があります。
「石川商会の主人石川賢治氏同商店廃業に就いて」の中で、
其主要取扱品米国車不振に陥り其挽回の目途立たず・・・
とあります。やはり廃業の一番の原因はピアス車を中心とした米国車の販売不振にあったようです。この時期になりますともはや米車に人気はなく、主流は英国車に変わっています。安価な国産車の台頭も見逃せません。何れにしても時代の流れに乗遅れたような気がします。病気も一つの理由だったのかも知れませんが、営業不振が最大の理由のようです。
参考資料:
雑誌「輪界」(第11号 輪界雑誌社)明治42年7月25日発行