明治32年8月15日付け東京朝日新聞の広告
志賀直哉が短編小説「自転車」の中で、ランブラー自転車を衝動的に買ってしまったという話があります。次のような文章です。
錦町から美土代町へ出て、神田橋の方へ歩いて帰って来た。不図、それまで知らなかった自転車の店のあるのを見た。ショーウインドウにランブラーという車が飾ってある。これはクリーヴランドやデイトンより品は少し劣るが、今までのランブラーとちがって、横と斜めのフレームは黒、縦は朱に塗った、見た目に美しい車だった。それが急に欲しくなった。早速、店へ入って値を訊くと、現在持っている金に九十円程足せばいいので、直ぐに決めて、その金を渡し、足らぬ分は自家で渡す事にして、小僧を連れ、その新しい自転車に乗って麻布三河台の家へ帰って来た。古くなったデイトンよりは遥かに軽く、乗心地がよかった。叱言を云われた記憶もないから、祖父がその金を払ってくれたものと見える。
この文章にある「それまで知らなかった自転車の店」とはいったい何処の何という店なのでしょうか。というのは当時ランブラーを扱っていた店は限られていたからです。それは神田区錦町一丁目神田橋外にあった濱田自転車店です。文章の「錦町から美土代町へ出て、神田橋の方へ」と一致していることが分かります。間違いなく濱田自転車店なのです。
志賀直哉以外で当時ランブラーを愛用していた人に那珂通世がいました。彼は「奥州転輪記」(明治34年4月1日発行の『自転車』所収)の中で次のように書いています。
余が乗れるは、ランブラーなり、世間に余りはやらぬ旧式の車なり。然れども此車は、余が為には実に善く忠勤を励みたり。
ランブラーの意味は「「ぶらぶら歩く人」でゴーマリー&ジェフリー社製の銘柄車です。日本では濱田自転車店が一手販売していました。