「輪界」第11号 明治42年7月25日発行に掲載された公告
東洋商会の創業者は松下常吉氏です。彼は、1855年(安政2)5月には石川県の能登半島七尾町で生まれました。明治16年に上京し、石川島造船所で機械工として働きました。その頃、石川島造船所にキングーという米国人の技術者がいて、最新の機械技術等の教育を受けています。
その後、東京小石川陸軍砲兵工廠や田中機械工場で働きました。明治22年の頃に田中機械工場の事務員であった庄司という人が、米国製の自転車に乗っているのを見かけ、たいへん興味を持ちました。この頃より自転車の利便性と将来性を強く意識するようになったようです。
明治30年の春にはその頃勤めていた芝浦製作所を辞職して、芝区三田四国町二番地十六号に貸自転車及び修理業の店を開業しました。この頃の出来事として次のような事件が起っています。
明治32年3月21日付けの東京朝日新聞に
「一昨夕芝区三田四国町二番地十七号の貸自転車業愛輪会松下常吉方へ十七八の男来たり僕は三田三丁目の洋服裁縫職宮田宇吉と申す者だが三十分程貸して貰いたいとて定価二十六七円の自転車一輌借り受けヒラリと飛び乗って駆け行きしまま帰り来ずさては乗り逃げと心付きて訴たへたり・・・」
とあります。
その後、長男である幸作氏と親子共同で自転車製作を開始し、精力的に取り組むようになりました。 明治42年には、上野で開催された第1回発明品博覧会で、出品した自転車が高く評価され、銀牌を受賞しています。
事業は順調に推移し、販売部として芝区芝口一丁目十六番地に置き、更に第二工場として田町三丁目八番地に建設し、年間に1,500台を生産するという規模になりました。そして、東洋商会製の自転車はジャワ、スマトラ、朝鮮、樺太などにも輸出されるようになりました。
「輪業世界」1922年(大正11)1月号に幸作氏の名前で喪中とあり、恐らく大正10年に松下常吉氏は逝去したと思われます。
大正11年12月10日には三田四国町から大崎町居木橋四八八の大崎駅付近に住宅と工場のすべてを移転しています。
東洋商会の銘柄車としては、東洋、ルビー、ヒーロー、クローフオルド、シャーマン、チビタル、松下製デートンなどがありました。