2023年10月6日金曜日

門弥が先か?

 門弥が先か?

このタイトルは、以前から気になっていた。

江戸の享保期の人力自走車の年代順は、現在のところ門弥⇒竹田⇒久平次の順で、具体的な年号としては門弥が1729年、竹田が1730年、久平次が1732年とされている。

この年号を具体的に見ていくと、門弥の1729年は、「世説海談」などの資料により、1729年(享保14年)に製作されたとあり、竹田近江の興行用カラクリは、「璣訓蒙鏡草」多賀谷環中仙の1730年(享保15)の出版年からきている。久平次は、「新製陸奔舟車」の諸資料から1732年(享保17)としている。

ここで疑問が生ずるのは竹田の製作年を「璣訓蒙鏡草」の出版年としたことである。本の出版より当然このカラクリの製作年は数年前でなければならない。それと「陸舩車」という名称も既に門弥の時代に一般的に使用され、この名称は竹田近江が最初に付けた名前であると考えられる。その後、固有名詞から一般的な名前として定着した。それは門弥の時代であると思料している。門弥の「世説海談」にある図面を見ると「陸舩車」とも書いてあり、門弥はこの名前では竹田のカラクリを連想し、紛らわしいのであえて「千里行車」と自分が製作した人力自走車に名前を付けたのである。ようするに門弥の「千里行車」はおそらく、竹田のカラクリ興行を江戸かどこかで見て、自分なりに創意工夫して「千里行車」の製作を始めたのである。製作には5年も要したとあるから、竹田のカラクリを見学したのは、5年前の1724年ということにもなりそうである。

ここで結論として、

竹田近江の興行用カラクリの「陸舩車」は、1724年(享保9年)。(初代竹田近江の頃とすれば、これよりも更に古い可能性がある)

門弥の「千里行車」は、1729年(享保14年)。

久平次は、1732年(享保17年)。

初代、竹田近江は宝永元年〈1704年)に亡くなっているので、「陸舩車」の製作は二代目の竹田近江の時期かとも思われるが、或いは既に初代の時期に存在していたかも知れない。

いまのところ最古の人力自走車は竹田近江の「陸舩車」に軍配が上がりそうである。


陸舩車
璣訓蒙鏡草 3巻
多賀谷環中仙
1730年(享保15)発行
国会図書館所蔵

同上