2022年2月26日土曜日

自転車資料関係-86

 自転車資料関係-86

この資料は、雑誌「サイクル」1953年7月号である。

丸石の山口佐助氏と宮田の大場惣太郎氏の対談の中で梶野仁之助について触れているので紹介する。

「輪界今昔清談」の梶野の部分

パンク直し一円五十銭

大場 横浜で梶野(仁太郎)が、自轉車を作り始たのが二十二、三年でしょう。その前宮田は木挽町で鉄砲を作っていたが、明治二十三年に本所の工場で、外国の自轉車の修理を頼まれた。それを真似して作ったのが宮田の自転車の始まりです。製作には相当苦労したらしい。何から何まで全部自分の所で作るんだから。

山口 ああそうか。僕は梶野と宮田とゴチャにしていたどうして神奈川のことを記憶していたかと云えば、それにはこんな話があるんだ。その僕の所へ見本に入した自轉車なんだが、「こんなもの売れるのか」と思いながらも、売るんだから自分で乗れなくては困る。そこで毎日乗る練習をしたんだ。

大場 神戸でね。

山口 そう、そうして乗っている中にスーと空気が抜けちまった。これは大変だ「山口は大事な自轉車を壊しちゃった」と云われた。早速神奈川へ持って行って直して来いと言はれた。そこではるばる汽車に乗せて神戸から神奈川までパンクした自轉車を持っていった。(笑声)それが神奈川の 梶野だ。 その梶野へ持って行ったら「直ぐにはなおらぬから二、三日置いて行け」ということだ。「修繕料はいくらか」と云うと「一円五十銭だ」という。それで三日ばかり宿屋で泊って一円五十銭持って行って自轉車をもらって来た。

大場 明治三十一年頃ですか。

山口 そうかな?、何しろ人を馬鹿にしている話さ。しかしその頃自轉車を買った人は、床の間に飾って置いた程だからね。


以下は24頁の別枠で囲まれた部分、

梶野仁太郎氏

 山口佐助氏と大場惣太郎氏との対談に登場する、当時日本でも唯一の自轉車修理の出来る梶野氏は、其頃神奈川に居た。氏は早く米国に渡って、自轉車工場を観て、自轉車の製作を日本でやりたいと云う希望があった。

 しかし何分米国の工業と日本のそれとは、規模が非常に異うところから、到底米国の自轉車製造は日本ではやれないと、諦めて帰り、当時誰にも出来ないと云われて居た、自轉車の修理をやった。

 山口氏もパンク一つを神戸から、ワザワザ梶野氏のところへ持って来て、修繕して貰ったと云うから今から考えればウソの様な話である。

 其後横浜高島町に移って、スチールボールを製造し、相当よい物を造って居たと云う事である。

 昭和十七、八年横浜の空襲前迄は確かに健在であって、会った人もあるが、戦後その消息を知る人はない。若し現在健在とすれば既に九十何才かになって居る筈で、我国輪界草々期の忘れられない人である。

 梶野氏の弟子で泥除などを作った人、その又孫弟子に当る人など現存して居る筈である。

註、それにしても梶野仁之助を梶野仁太郎とはどこでどう間違えたのか、「横浜成功名誉鑑」では梶野甚之助と誤っていたが、どうもこの対談のように年寄りの話は当てにならない。年寄りに限らず昔の記憶は誰でも曖昧になる。それとも編集部のミスなのか。一度このように活字になるとそれが歴史になる恐れもある。

尚、この中でスチールボールのことも触れている。梶野が鋼球を製造したのは1907 年(明治 40年)で、東京勧業博覧会(1907年に上野公園で開催)にも出品している。


☆梶野仁之助伝(改訂版、2022年2月25日更新) → こちら 


雑誌「サイクル」1953年7月号 22頁
資料提供:渋谷良二氏

23頁

24頁

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