オーディナリー(ダルマ自転車)の乗り方について、かなり正確な文章が志賀直哉の短編小説「自転車」にあります。次のような文章です。
学習院の仏蘭西語の教師に庄司という背の高い先生がいて、この人が乗っていたのは又一ト時代前のもので、前輪は径五尺程の大きな車、後輪は一尺もない小さなものだった。近頃は自転車変遷史の絵などで見かける以外、実物は跡を絶ったが、乗るには片足を前輪と後輪とをつなぐ弓なりのフレームについている小さなステップにかけ、もう一つの足で地面を蹴って車を押し、惰性のついたところで、二段目のステップから、悠然と鞍に跨がり、道行く人を眼下に見ながら走って行く。チェインはなく、足の一回転と共に前輪も一回転するのだから、今から考えると、そう早い乗物ではないのだが、総てが悠長な時代で、早い乗物と思われていた。庄司先生がこの自転車で今よりも急な九段坂を下りたという噂を聞いて、私達は感服した。
更に詳細に書くとすれば次のようになると思います。
先ずダルマ自転車の後輪の後ろに立ち、ハンドルのグリップを両手でもちます。次に左足を後輪の少し上部にあるステップに置きます。このステップは弓なりのバックボーンのフレームに取り付けられています。右足で地面を蹴りながら助走します。ある程度スピードが出て直進性が増し安定したところで、右足を地面から離し、サドルにまたがる姿勢に移ります。サドルに腰掛けたら両足を回転する前輪のペダルに回転に合わせて置きます。これで完了です。後はペダルを踏み速度を上げていきます。降りる方法は、乗る場合の逆になります。スピードをじょじょに落とし、ペダルから左足を離して、後方のステップを探ります。ステップに左足がついたら、腰をサドルから離し右足も下げていきます。スピードがなくなったところで、右足を地面につけ着地します。左足もステップから離し地面に着地します。
慣れてきましたら次のような下車方法ができるようになります。スピードを落して、左足がペダルとともに時計の針(左回りで)で言えば50分から45分にきたときに右足をペダルから離し、左側に飛び降りるような形で降ります。この際、左足も45分ぐらいで速やかにペダルから離してほぼ同時に飛び降ります。この時に一番注意する点は、左足をいつまでもペダルに置かないことです。50分から45分までの回転時にすばやく行います。いつまでも置くとペダルが下がりすぎバランスを崩して転倒してしまいます。
ダルマ自転車で一番つらいのは上り坂と下り坂です。特に下り坂は怖いです。前輪のスプーン型ブレーキを急にかけますと前に体が投げ出されて非常に危険です。ブレーキを少しかけ、あとは所謂ペダルでバックを踏むようにします。急坂では降りた方が無難です。庄司先生は九段坂を下りたといいましから、度胸もさることながら、自信があったのでしょう。
2009年4月9日木曜日
ウイリー
先のブログ(2009年4月5日 曲乗り)で「日本の自転車曲乗りのはじまりはどうやらこのボーンとシッ ド・ブラック一座の影響と思われます」と書きましたが、これを裏付けるような文章が志賀直哉の短編小説「自転車」の中にありました。次のような文章です。
どれだけかして、往来での競走にも余り興味がなくなると、今度は曲乗りに興味を持つようになった。ある時、仲間のニ三人が横浜でバーンという曲乗りの上手な男が、前輪を高くあげ、後輪だけで走っているのを見て来て、驚いて私達に話した。暫くして、松旭斎天一の奇術の興行の中で、バーンの曲乗りを見、それから私達の間にも急に曲乗り熱が高まった。
バーンとはボーン(William .C.Vaughn)のことで、前輪を高くあげ、後輪だけで走っているとは、まさにウイリー走法(Wheelie)です。
どれだけかして、往来での競走にも余り興味がなくなると、今度は曲乗りに興味を持つようになった。ある時、仲間のニ三人が横浜でバーンという曲乗りの上手な男が、前輪を高くあげ、後輪だけで走っているのを見て来て、驚いて私達に話した。暫くして、松旭斎天一の奇術の興行の中で、バーンの曲乗りを見、それから私達の間にも急に曲乗り熱が高まった。
バーンとはボーン(William .C.Vaughn)のことで、前輪を高くあげ、後輪だけで走っているとは、まさにウイリー走法(Wheelie)です。
2009年4月8日水曜日
雑誌「サイクリング」
自転車文化センター研究報告書
この度、自転車文化センターでは研究報告書の第2号を刊行しました。
内容は、「昭和30年代における女性の自転車乗車率の上昇原因」谷田貝一男氏と「ドライジーネとミショー型小史(1817年~1870年)」パリ在住の小林恵三氏の研究報告です。
前回の報告書は「日本で製作・販売された自転車のブランド名に関する調査報告書(黎明期から昭和30年代まで」(平成17年3月発行)でした。
内容は、「昭和30年代における女性の自転車乗車率の上昇原因」谷田貝一男氏と「ドライジーネとミショー型小史(1817年~1870年)」パリ在住の小林恵三氏の研究報告です。
前回の報告書は「日本で製作・販売された自転車のブランド名に関する調査報告書(黎明期から昭和30年代まで」(平成17年3月発行)でした。
ランブラー(2)
1891年発行のゴーマリー&ジェフリー製造会社のカタログよりこの自転車はゴーマリー&ジェフリー社製のランブラーです。この自転車の特徴としては、サドル下のコイル状バネとトップチューブの軽量化にあります。ビクターは前フォークにあるスプリングが特徴でしたが、このランブラーはシートステイの形状にあります。一目でその特徴が分かります。
志賀直哉や那珂通世がどのタイプのランブラーに乗っていたのか、いまのところ定かではありませんが、横向きの写真などがあればすぐわかると思います。ただここで注意したいのはランブラーという銘柄は次の4社が名付けています。アメリカン自転車会社、アメリカン・サイクル製造会社、ゴーマリー&ジェフリー製造会社、ポープ製造会社です。このうち最初にネーミングをしたのはゴーマリー&ジェフリー社です。年代的に見て可能性の高いのはやはりこのゴーマリー&ジェフリー社製のランブラーだと思います。
参考資料:ザ・ホイールメンHP
Rambler-(M) American Bicycle Company, Rambler Sales Department, Chicago IL, 1901
Rambler-(M) American Cycle Manufacturing Company, Western Sales Department, Chicago IL, 1903
Rambler-(M) Gormully & Jeffery Manufacturing Company, Chicago IL, (1879) 1888-1900
Rambler-(M) Pope Manufacturing Company, Chicago IL, 1904
Rambler-(M) Pope Manufacturing Company, Hartford CT, 1908
2009年4月7日火曜日
ランブラー
明治32年8月15日付け東京朝日新聞の広告志賀直哉が短編小説「自転車」の中で、ランブラー自転車を衝動的に買ってしまったという話があります。次のような文章です。
錦町から美土代町へ出て、神田橋の方へ歩いて帰って来た。不図、それまで知らなかった自転車の店のあるのを見た。ショーウインドウにランブラーという車が飾ってある。これはクリーヴランドやデイトンより品は少し劣るが、今までのランブラーとちがって、横と斜めのフレームは黒、縦は朱に塗った、見た目に美しい車だった。それが急に欲しくなった。早速、店へ入って値を訊くと、現在持っている金に九十円程足せばいいので、直ぐに決めて、その金を渡し、足らぬ分は自家で渡す事にして、小僧を連れ、その新しい自転車に乗って麻布三河台の家へ帰って来た。古くなったデイトンよりは遥かに軽く、乗心地がよかった。叱言を云われた記憶もないから、祖父がその金を払ってくれたものと見える。
この文章にある「それまで知らなかった自転車の店」とはいったい何処の何という店なのでしょうか。というのは当時ランブラーを扱っていた店は限られていたからです。それは神田区錦町一丁目神田橋外にあった濱田自転車店です。文章の「錦町から美土代町へ出て、神田橋の方へ」と一致していることが分かります。間違いなく濱田自転車店なのです。
志賀直哉以外で当時ランブラーを愛用していた人に那珂通世がいました。彼は「奥州転輪記」(明治34年4月1日発行の『自転車』所収)の中で次のように書いています。
余が乗れるは、ランブラーなり、世間に余りはやらぬ旧式の車なり。然れども此車は、余が為には実に善く忠勤を励みたり。
ランブラーの意味は「「ぶらぶら歩く人」でゴーマリー&ジェフリー社製の銘柄車です。日本では濱田自転車店が一手販売していました。
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