2020年8月29日土曜日

不二越

 不二越鋼材工業㈱が一時自転車を製造していたことは、あまり知られていない。

以前に梶原氏から頂いた「日本工場大観」日刊工業新聞 1950年8月1日発行のコピーの一部に不二越鋼材工業㈱の広告があり、ベアリングと自転車の写真が載っている。

不二越の沿革を同社のHPで見ると次のようにある。(抜粋)

沿革 
1925年(大正14) 井村荒喜(1889年長崎県島原生まれ)、技術開発指向の企業を興す。
1928年(昭和3年)富山市に不二越鋼材工業を創立。初代社長 井村荒喜(1928~64年)
1929年(昭和4年) - 昭和天皇が近畿地方を訪れた折り、天皇が不二越の製品である金切鋸刃を見学。不二越は、このとき天皇が座乗した重巡洋艦「那智」の名をとり商標とした。
1941年(昭和16年) - 海軍用の高角砲、機銃の部品生産を開始。
1944年(昭和19年) - 軍需会社法による軍需会社に指定。
1946年(昭和21年) - 自転車や民生品などの製造開始。
1950年(昭和25年) - 自転車製造中止。
1963年(昭和38年) - 株式会社不二越に商号を変更。

この沿革から分かるとおり、昭和21年~25年と短い期間であったが、確かに自転車を製造していたことが分かる。自転車の銘柄は商標から採用した「NACHI 号」であった。

この辺の事情については、下記の資料が参考になる。

その後は自転車づくりです。不二越の自転車はつくりかたが少し変わっていて,普通は継手にパイプを差し込んでろう付けしてフレームをつくるのですが,当社のはパイプを直接溶接する「フラッシュバット」という方法なのです。この技術は,当時としては最先端だったのですが,たまに折れることもあってあまり評判は良くなかった(笑)。
私が担当したのは,リムとチェーン,泥よけですが,元々機械加工が専門なのに,どちらかといえば塑性加工をやることになってしまった。これがまた大変で,たとえば泥よけは,断面が半円状の板で,これを曲げると曲率半径の違いからどうしても両側にヒダができてしまうのです。
そこで,フープ材(帯鋼)の真ん中だけを圧延することを考えて,圧延と曲げの関係を利用して,次第にヒダのない泥よけをつくれるようになりました。それとリムにスポークを組み込む穴,あれは 36 本だったと思いますが,あの穴を一度にあけてしまう装置をつくったこともあります。つまり,リムを置いて 36 か所から一気にパンチして,穴をあけてしまうのです。とにかく,自転車製造機なんてどこにもないですから,全部自力で開発しなければならない。とくにチェーンをつくる自動機には苦労しました。板をひょうたん形に抜いて穴をあけ,リボン状の板を巻いてつくったブシュを差し込み,ローラを付ける。このローラも板を絞ってつくるわけですが,自動組駒機でつくった 1 個1 個の駒を,自動組立機でチェーンにつないでいくのです。こうしてリムと泥よけはどうにか成功したのですが,チェーンの自動組駒機と自動組立機だけはよく故障して,まさに“チョコ停”(部品や材料が機械に詰まり,チョコチョコ停止すること)でしたね(笑)。
当時も部品ごとに専門メーカーがあって,自転車メーカーはそれらを集めて完成車に組み立てていたのですが,不二越はこのような専門部品まで自社でつくろうとしたのですからね。だから,切削加工や塑性加工,熱処理,材料,塗装,自動機の設計まで,全部自分たちでやったのです。でも,いろいろな製造方法を学ぶことができて,私にとっては大変良い勉強になりました。
1950(昭和25)年には,いろいろな事情から自転車の生産を止めてしまったのですが,でも最終的には6 万台以上つくりましたかね。ブランドはもちろん,「NACHI 号」でした。

昨今、韓国では不二越も徴用工問題(元朝鮮女子勤労挺身隊員の訴え)で新日鉄住金、三菱重工業とともに韓国内資産の仮差し押さえが韓国裁判所により決定され、マスコミなどで不二越も注目されている。

不二越の広告
「日本工場大観」日刊工業新聞
1950年8月1日発行より