ダンディー・ホース
下の図は有名なダンディー・ホースの風刺画。手彩色エッチング。
ダンディ・チャージャーは快調だ、時速10ノットで疾走する。群衆が呆然と笑っている間を通り過ぎる・・・
「この忌々しい船乗りめ、仕立て屋をコケにしたな!」
ダンディ・チャージャーに乗るジャック。
ラドゲート・ヒル、フェアバーン・ブロードウェイにて。
日本自転車史研究会のブログ Copyright © Yukio Ootsu
ダンディー・ホース
下の図は有名なダンディー・ホースの風刺画。手彩色エッチング。
ダンディ・チャージャーは快調だ、時速10ノットで疾走する。群衆が呆然と笑っている間を通り過ぎる・・・
「この忌々しい船乗りめ、仕立て屋をコケにしたな!」
ダンディ・チャージャーに乗るジャック。
ラドゲート・ヒル、フェアバーン・ブロードウェイにて。
スティーブンスの日本旅行記 パート2-12
小倉からは狭い海峡を挟んで日本本土の下関が見える。これまでは九州を横断してきた。下関は幅数百ヤードの海峡を挟んで本土と隔てられている。
小倉から人力車道はさらに数里進むと大里(だいり)に至り、そこから小道は丘陵地帯とハゼノキ林を横切り、さらに2マイルの門司村まで続く。ここで私は小さな渡し船に乗って下関に渡り、午後2時頃に到着した。
雨天のため下関で24時間過ごした。宿屋の女将はヨーロッパ料理に精通しており、とても美味しいビーフステーキとコーヒーを用意してくれた。下関はヨーロッパの品物とその巧妙な模倣品で溢れている。通りを1時間ほど散歩すれば、日本人が外国の物にどれほど魅了されているかが分かる。ほとんどすべての店が、外国から輸入された商品、あるいはその偽造品を専門に扱っている。輸入品を単にコピーするだけでは満足せず、日本の職人は一般的にオリジナルに何らかの改良を加える。例えば、石油ランプの正確な模倣品を作った後、日本の職人は使用していないときにそれを置くための小さな漆塗りのキャビネットを作る。宿屋でコーヒーを入れるコーヒーポットは、3つの空間を持つ独創的な装置で、明らかにアメリカ人の創意工夫を再現したものである。
近くの小さな丘の頂上には大きな神社があり、本殿まで石段が続いている。階段の入り口、そして斜面を登る途中にも、独特の鳥居、いわゆる「鳥の止まり木」があり、神道の象徴となっている。境内には数多くの社が鎮座している。社は主に木造で、それぞれが祀られている様々な神々の像が納められている。社の前には、金銭を入れるための閂付きの賽銭箱がある。日本の信者は社の前で一分間、頭を下げて両手を合わせ、小さな硬貨を一、二枚賽銭箱に投げ入れ、次に参拝したい社へと向かう。本堂には、数多くの絵画、弓矢、刀、そして明らかに奉納物と思われる様々な品々が飾られている。漁師の運命を司る神社は、巨大な銀紙の魚と無数の三叉の魚槍で特徴づけられている。
ツール・ド・フランス
今年のツールも2025年7月5日から開催される。
誰がマイヨ・ジョーヌを着て走るのか、いまから楽しみである。
下の写真は50年前のツールの場面。当時の役者がそろっている。
スティーブンスの日本旅行記 パート2-11
夕食後には、急須のお茶と火鉢が用意される。
翌朝下関に向けて出発した。松林に覆われた丘陵地帯を数マイル横断すると、小さな河口にある芦屋に着いた。ここ芦屋で、私は初めての日本式の髭剃りを楽しむ。通りすがりのにわか雨を避けながら、村の床屋を利用した。日本の髭剃り師は石鹸を使わず、指を温かいお湯の入ったボウルに浸して顔を濡らすだけで髭を剃る。髭を剃っている間、彼は頻繁に油石でカミソリを研ぐ。彼は顔全体と首を剃り、耳たぶ、額、鼻も忘れずに剃る。もしヨーロッパの旅行者が日本の村の理髪店の椅子に座っている間、冷静さを保っていなければ、顔や首の産毛はすべて剃り落とされ、口ひげや髭はそのままで、眉毛もかなり短くなっていることに気づくだろう。
芦屋から道は小さな運河に沿って若松まで続き、田圃を横断する。何十隻もの石炭運搬船が運河に沿って浮かんでおり、潮の流れだけで進んでいる。潮が変わるまで漂い、その後係留され、再び干満するまで辛抱強く待っている。長年の経験から、彼らは間違いなく、1回、2回、または3回の潮汐を計算し、特定の船着場や村まで運搬船を運ぶ。
若松の通りは活気があり、絵のように美しい光景である。華やかな衣装をまとった田舎の人々で賑わっていた。屋台は、食欲をそそる食べ物、おもちゃ、衣類、提灯、紙製の花、そして想像できるあらゆる日本の品々が並んでいる。人々は珍品を展示することで、小さな群衆を集めている。私がしばらく立ち止まって見ていると、ある老人が小さな色紙のロールを売っていて、水を入れたボウルにそれを入れると、花、船、家、鳥、動物に展開した。
税関の制服を着た若い男性は、英語を少し話せるので、「日本の神様」について説明した。笑顔で、おしゃべりし、お辞儀をし、滑稽な顔をした群衆が、明らかに楽しんでいるのは、何らかの宗教的な祭りなのである。
若松から小倉にかけては、丘陵地帯が広がっている。
ヴェロシペードの本
下の写真は最近メタに投稿されたもの。
当時この本を購入した人物のメモ書きがある。
次のように書いてある。
スティーブンスの日本旅行記 パート2-10
村の粋な人は皆、ヨーロッパの服に憧れるものだ。そのためか、道を行くと、ダービーハットをかぶり、赤い毛布を羽織り、ぴったりとした白いズボンを着て、わらじを履いた男たちによく出会う。ヨーロッパの帽子やコートを羽織った村人は、まるで私がそれを気に入っていることを内心で意識しているかのような、愉快な自己満足の表情を浮かべて私の居る宿屋にやって来る。一方、ヨーロッパからの旅行者は皆、和服から洋服に変わることを嘆く。
大きな運河沿いをしばらく進むと、今夜泊まる福間村に着いた。ここの宿屋は隅から隅までピカピカである。しかし、宿屋の主人がどうやって商売をし、これほど清潔な部屋を維持しているのかは、不思議でならない。宿屋の決まりは、到着した客がまず湯に浸かり、その後、小さな火鉢のそばにしゃがみ込み、夕食の時間まで煙草を吸いながらおしゃべりすることだ。日本人は他のどの国の人々よりも湯浴みに熱中している。彼らは45度(華氏140℃?)に温められたお湯に浸かる。これは「イギリス人」や「アメリカ人」にとっては全く耐えられない温度だが、徐々に慣れていく。男女ともに毎晩、定期的に熱い風呂に浸かる。日本人はヨーロッパ人との付き合いからまだそれほど多くの「mauvaise honte(正気の沙汰ではない)」を吸収していないので、男女問わず浴槽に頻繁に入り、まるで皆が小さな子供のように互いに気を配らない。「浴槽の波間に戯れるビーナス」は、日本の旅館の日常風景だ。ヨーロッパ人の観光客が、服を脱いで浴槽に入っていくのを見ようと日本人が群がることに、なぜ反対するのか、彼らには全く理解できない。彼らはただ、肌の白さ、独特の脱衣の仕方、そして一般的な好奇心からだ。彼らは入浴を見守ることに、何の抵抗も感じていない。では、なぜ心の中で萎縮し、彼らを追い払わなければならないのか?
旅館の通常の食事は、ご飯、様々な魚、カリカリの生カブの小片、漬物、ケチャップのようなソース(醤油)で構成されている。肉は、特別に注文しない限りほとんど出ない。もちろん、その場合は追加料金がかかる。日本酒も購入する必要がある。
自轉車瓦版 №4
昭和60年4月2日発行
★名古屋のクラシックオートバイを扱っている店に、アメリカのヘンダーソン(1938 年製? オートバイファンには有名なメーカー)という自転車があるとのこと。価格は15万円とちょっと高い。詳しくは事務局まで照会ください。
☆横浜の楽文堂という文房具店の前を通りかかった時、そのショーウィンドに「自転車ライト」と称して、ダルマ自転車の電気スタンドが飾られていた。緑色のフレーム、前輪の大きな車輪部分がライトになっているらしい。値段を見ると¥9800-とかなり高価。
☆兵庫県立図書館より、“中村春吉 世界無錢旅行”(当研究会復刻)の寄贈依頼があり、この度発送した。
☆この瓦版は、2ヵ月に1回以上情報等の提供がある会員との連絡用(メモ)として使用しております。したがいまして、全会員には配布されませんのでご了承下さい。 当研究会のコミュニケーションの中心はあくまでも機関誌“自轉車” ですから、瓦版で扱った重要な情報等は総て機関誌上にて再度とりあげます。なお、瓦版のバックナンバーを希望される会員はハガキでご依頼下さい。
◎いつものように情報等お待ちしております。
スティーブンスの日本旅行記 パート2-9
雨のため、筑紫(Futshishiとあるが?)で一日休まざるを得ないが、我慢できないほどではない。店主は盲人で、三味線を弾き、娘たちに芸者ごっこをさせて私を喜ばせた。筑紫では牛肉も鶏肉も美味しく、日本のほとんどの町と同じように、魚料理も非常に美味しい。
雨上がりの天気は晴れ渡り、霜が降り、福岡への道はまさに快晴だった。田舎は相変わらず魅力的で、人々は礼儀正しく感じが良い。朝のダルマ自転車に乗っていて目にした珍しい光景は、道路で作業する大勢の囚人達だった。彼らは軽い鎖で繋がれ、きちんとした茶色の制服を着ており、自分たちの仲間ではない、罪のない人間の世界を、まるで申し訳なさそうに見つめているかのようだった。彼らの真剣さと滑稽さが交錯する顔を見ていると、彼らが冗談を言う以外に何か悪いことをしたとは想像しがたい。実際、鎖で繋がれ、刑務官に厳重に監視されていること自体が、深刻な出来事とは程遠いように思える。
福岡には、小柄でスマートな軍人風の騎兵隊員が黄色い紐の制服を着て現れ、学校や警察、電信技師と同じようにアジア人らしくない格好をしている。人力車との衝突で頭を打ったこと、小柄な日本人との衝突でひっくり返されたこと、そしてボブテールの猫(短い尻尾の猫)との衝突で猫の尊厳を傷つけたことなどが、福岡の思い出に刻み込まれている。人力車の数と人々の独特な習慣を考えると、一日中、衝突を防ぐために、猫のように注意深く見張っていなければならない。平均的な日本人は、家のドアを後ろ向きに出て、お辞儀をし、道路の真ん中に出て、訪問してきた友人や、贔屓にしていた店主にさえ別れの挨拶をする。村を通過するとすぐに、誰かがドアから後ろ向きに出て、ダルマ自転車のすぐ前を通り過ぎる。
道沿いでよく見かける奇妙な光景は、1エーカーか2エーカーの土地に紙製の日傘(和傘・番傘)が敷き詰められていることである。糊付けされ、糊で固定され、色付けされた後、市場に出荷される前に天日干しされている。傘と提灯は、日本の旅行者にとって衣服と同じくらい重要な装いの一部となっている。最近では、衣服は和服とヨーロッパの衣装が奇妙に混ざり合ったものも見られる。外国の革新的なものへの憧れはあらゆる階層に浸透している。
十字号
下の写真は三菱十字号初期型のハンドル上部である。
最近写真を整理していたら出てきた。この十字号については再三このブログでも取り上げている。このブログの左上の検索欄に十字号と入力すれば、過去の記事と写真が数多く出てくるので参照願いたい。
この十字号を購入(1983年頃)してから既に40年以上もなる。当初はどこにも十字号のマーク等が無いので、不審に思っていたが、このハンドル部分の刻印を見て、領解した次第である。この十字号も今は手元にない。クリーブランド39と同様、現在はシマノ自転車博物館の所蔵になっている。
スティーブンスの日本旅行記 パート2-8
丁寧に作られ、他の国のものとあらゆる点で遜色ないタバコが、大胆にも「葉巻」と、ラベルが付いている。こうして、奇抜な模倣者たちは間違いを犯す。シェイクスピアが日本人を見れば、「この世は舞台であり、男も女もみな役者に過ぎない」(註、シェイクスピアの戯曲『お気に召すまま』二幕七場のセリフ)という彼の言葉の意味をより深く理解できただろう。他のほとんどの国では生活が深刻な問題であるのに、日本人だけが「生計を立てるふりをしている」ように見えるのだ。彼らはいつも、世に出て数年間生計を立てるという行為自体が、大きな冗談に過ぎないのだ。楽天的な道化師のように私には思える。
ジェソップの日本一周
ジェソップの日本一周自転車旅行
以下の記事は、「サイクリング」1898年(明治31年)2月29日号
自転車で日本一周、
ルイス・ジュリアン・ジェソップ、ロンドン州ポートマン・スクエア在住は、イギリスの自転車乗りで、写真、顕微鏡、そして今や人気の芸術や科学の多くに興味を持っている人物である。
自転車乗りとして、数少ないレースでの勝利以上の名声を誇り、ひどい事故に巻き込まれても、多かれ少なかれ無傷でいるという特技を持っている。
自転車での日本一周の旅を通して、目にするすべての光景と驚異を、サイクリストの目、そして旅慣れた視点から見つめ、日の出ずる国での体験を、カメラで撮影したスナップ写真とともに、『GYCLING』誌の多くの読者に伝えたい意向である。
ジョン・マーストン商会が特別に製作した、「サンビーム」を2台持参する。丈夫なクリンチャータイヤを装着し、あらゆる点で、最高の作りと装備を備えたマシンである。荷物を運ぶためのアクセサリーに加え、コーンヒルのR.&J.ベック社製の装置も取り付けて、カメラを安全かつ振動なく運ぶようにしている。カメラも2台用意。
装備の基本的な部分は以上であるが、その他、ディクシー・アンド・サンズ製の双眼鏡、気圧計、温度計、コンパス、44口径のコルト連発ライフルなどを準備。
今週イギリスを出発して日本に向かう予定。
註、他の資料を調べたが、実際に彼が日本に来て自転車で一周したと云う事績は今のところ確認できていない。
スティーブンスの日本旅行記 パート2-7
佐賀の道は平坦で、どこまでもダルマ自転車で走れる道が1マイル以上続く。何百人もの子供たちが合唱で歌っている大きな校舎を通り過ぎ、地元佐賀の名物である大きな青銅の仏像を過ぎると、道はやや起伏のある田園地帯を抜ける。概ね全行程をダルマ自転車で走れた。道中には、杉の並木が点在する。荷馬や牛を連れた農民の群れに出会う。馬は、まるで凶暴な小悪党のようで、従者というよりは、むしろ主人のように思われる。
日本の馬は、きつい腹帯や過積載、そして他の国の馬がおとなしく我慢している様々な屈辱を嫌う。彼らの要求に応えるため、20フィートの紐の先で気ままにのんびりと歩くことが許され、馬体は華やかな装飾で飾られている。馬の独特な性格は、他の国の馬のオーソドックスな方法に倣って怖がらせるのではなく、見た目が気に入らないものには何でも闘志を燃やすことだ。この特異性は、私にとって非常に興味深いものとなる。馬が私や自転車に腹を立てるときの通常の動作は、後ろ足で立ち上がり、キーキーと鳴きながら鼻息気を吐き、同時に私に近づいて噛みつきたいという態度を示すことだ。このため、農民の一団とすれ違うときは、私は常に用心深くなければならない。というのは、農民たちは、馬の行動によって絶対に必要になるまでは、馬を拘束することを考えていないからである。
人力車は今ではかなり頻繁に見られるようになった。逞しい手足の男たちが引く人力車は、生まれたときとほとんど変わらない裸体で、時速6マイル(約9.6キロメートル)の速さで駆け抜ける。瓦を積んだ重い手押し車を田舎の工場から街まで曳いている男たちも見かける。中国ほどではないにせよ、重労働のほとんどは人間が担っているようだ。
どの町や村でも、ヨーロッパ製品の様々な模倣品に驚かされる。真面目で滑稽なこの人々が、名前、商標、そしてあらゆるものまでも模倣しようと試みた結果、滑稽な錯誤が至る所で見受けられる。本日、昼食をとった食堂の一角には、ギンガムチェックの傘を製造している傘職人が数人いる。どの傘にも「ジョン・ダグラス、マンチェスター」という社名がしるされている。
クリーブランド39
先日、写真を整理していたらクリーブランドが出てきた。
既にこの自転車は手元にないが、懐かしい思い出はまだ残っている。
日比谷公園で行われたサイクル・ギャザリング(1994年)である人に試し乗りをさせたところ、だいぶ劣化していたサドルが割れてしまった。私が乗る分には軽量なので問題はなかったのだが、後の祭りであった。ある人の好意により、何とかサドルの修復をしてもらう。
下がクリーブランド39の写真である。
スティーブンスの日本旅行記 パート2-6
牛津のメインストリートを通り過ぎ、一番いい宿屋を探していたら、中年の女性が「もしもし!ワンチの部屋?ワンチのチャウチャウ?」と声をかけてきた。彼女の母親が宿屋を経営しているそうで、道すがらずっとピジョンイングリッシュ(中国語訛り)で陽気におしゃべりしながら案内してくれた。彼女は片言の英語を披露する機会にとても喜んでいるようで、上海でイギリス人の家庭に数年間住んでいた時に覚えたのだと言う。彼女の名前はオハナ(お花)だが、イギリス人の友人たちは接頭辞なしでハナと呼んでいたそうだ。経験から私が夕食に何を求めているかを知っている彼女は、手際よく美味しい魚、たっぷりの嬉野茶、砂糖、菓子パン、薄切りのポモロを用意してくれた。これとご飯が、牛津の現在のグルメの限界だった。
翌朝は白い霜が降り、道は平坦で快適だった。宿屋の人たちは、この季節にふさわしい、しっかりとした朝食が用意されているのを見て満足していた。ブーツはきれいに磨かれていた。雑巾で拭かれ、オハナはピジョンイングリッシュで「靴ブラシと靴墨がないことを詫びる。”Brusi no have got”と言った。
中国とは対照的に、ここでは「カントニエ(道路人足)」の集団が道路の清掃にあたる。大きな白い「ブルズアイ」のついた青い制服を着た男たちや、天上の友であるヤメニ・ランナーのような人物たちだ。学校へ向かう子供たちの集団が、本やソロバンを脇に抱えて道路を行き交う。彼らは時折、道路脇に列をなし、私が通り過ぎると、一斉に膝まで頭を下げて「オ・ア・ロ」(おはよう)と丁寧に挨拶する。
この辺りの土地は豊かで人口も多く、人々は裕福そうに見える。茶屋、農家、そして小さな稲わらでさえ、芸術的な効果を狙って建てられているようだ。西洋の改良された機械が徐々に浸透してきているのがここでもわかる。今朝、ヨーロッパを出て以来、初めて両手持ちの鋤を目にした。しかしその横では、先祖伝来のような日本の農具を使う男たちがいる。男女ともに上半身裸で、杵で臼搗き、米を脱穀している。しかし、賢明な日本人が古くて不器用な方法をすべて捨て去り、西洋の最新の農業改良を自国に導入するのは、ほんの数年だろう。
自轉車瓦版 №3
「自轉車瓦版」第3号
昭和60年3月30日発行
☆ 福島の真船氏からの情報、「東京の古本屋から送られて来た目録に梅津大尉の“自転車指針”(快進社)が載っていた、早速注文したところ抽選にはずれ残念ながら入手することが出来なかった。」よし。
☆ 東京の青雲堂書店(武蔵村山市店、武蔵村山市大南1-77-19)に、”魔風恋風”(小杉天外作・縮冊合本版 大正3年発行 ¥6500-)がある。購入希望の会員は同古書店に至急問合せて下さい。
☆ 明治自転車関係文献所在調査にご協力ありがとうございました。同調査は1月18日から実施され、今日までの回答件数は13件です。調査依頼した件数が約20件ですから回収率は約20%になりま す、まずまずの成果ではないでしょうか。後日、この調査結果は、機関誌上にて報告致します。
☆ 最近届きました大阪の高橋 勇氏からの手紙によりますと、同氏は現在錦絵の目録を作成中とのこと。
◎自転車に関する情報何んでも結構ですからハガキ等でご連絡下さい。機関誌に載せる原稿も募集しております。
スティーブンスの日本旅行記 パート2-5
丘陵地帯を抜け、谷間を下ると嬉野へと続く街道である。鉱泉と温泉で有名な場所だ。途中、苔むした断崖の斜面から小さな滝が流れ落ち、魅力的な小さな渓谷を通り過ぎる。そこには、茅葺き屋根の家々、寺院、森、そして小川が点在している。
小川には、水流を利用して稼働する無数の水車が並んでいる。小さな小屋の中には、米を入れた臼がありる。支点に長い梁が取り付けられており、その片端には杵が、もう片端には桶が付いている。臼の外にある桶に水を満たし、自動的に水を抜くことで、杵は臼の中の米に落下する。水を満たした桶は自重で落下し、水を抜くと、反対側の端も落下する。この動作は一日中、約2秒ごとに繰り返される。
嬉野周辺の丘陵地帯は茶の栽培に利用されており、緑豊かな茶園は、うねりのある均一な低木が連なり、岩肌がむき出しになった崖の麓まで続く、実に美しい景観を呈している。嬉野とその温泉街は下関への幹線道路から少し離れているため、特にそこへ行く気はなかったので、武雄村へと向かった。そこでは雨のため数時間足止めを食った。中国と比べて、すべてが素晴らしく優れているため、日本の村の宿屋は、私が初めて訪れたこの数日間は、まさに楽園のように思えた。中国の宿屋で一週間暮らしたら、平均的なアングロサクソン人の理性は打ち砕かれるだろうが、日本の田舎の宿屋なら、同じ時間をとても快適に過ごせるだろう。武雄のすぐ周囲の地域は、自然の美しさだけではなく、小さな人工湖、島、洞窟、そして、さまざまな珍しい景観で飾られている。
武雄から牛津まで、8本の電信柱が街路を縫うように走り、数多くの村々を通り抜け、町から町へとほぼ一続きの街路を形成している。こうした街には、ヨーロッパ風の制服を着た警察官や電信官がきちんとした事務所に居り、壁には必ずアメリカ製の時計がかけられていること、そして人々が皆親切であることなどを考えると、30年前には中国を旅するよりも危険だったとは想像しがたい。