2020年11月29日日曜日

銀輪のわだち その17

「知られざる銀輪のわだち」その17 

自転車と文化、日本と欧米

 この連載ももう17回目になった。よくお読みくださる方にはおわかりかと思うが、毎号の内容は時系列的な物語ではなく、私たち日本自転車史研究会のメンバーの調査活動と併行したものになっている。
 三元車の発掘もそうであったし、自転車のわが国への渡来が慶応期であったことの発見も、また「自転車」という呼称が当初はブランド名であったことも、すべてわれわれの研究進行と期を一にして本誌にレポートしてきている。まとまった歴史を時系列的に綴ってはいないので、記述される年代が前後することが多いのだが、手前味噌をいわせてもらえば、自転車史研究の中のもっともホットな情報をお伝えしているつもりでいる。
 このため、時には早とちりで誤りを載せ、後で訂正をするという失態も一、二あって汗顔ものだが、これも新しい資料の発掘がなせる業とご寛容をいただきたい。とくに前回までの「佐藤半山と雑誌・自転車」では、調査後半期に新資料と所事実が会へ寄せられて、われわれのそれまでの推論をくつがえすことになった。

自転車史研究に意味はあるのか?
 ところで、こういう調査や研究をわが会のメンバーが何のためにやっているのか?
という質問を受けることがある。私自身もそうだし、メンバーもそうである。これに答えることはかんたんなようでいて、実際にはむずかしい。
 なぜなら、私たちが意図をじゅうぶん時間をかけて説明しても、その後で「それでどういう利益があるのか?」と問われると答に窮してしまう。けっこう楽しい利益は享受しているが、経済上や名声などでの実利はまったくない。こういう問をされる方には、われわれがなけなしのカネとヒマを割いて資料収集していることが不思議らしく、調査することの楽しさを説いてもわかっていただけないのである。
 そこで、今回はいつもと趣きを変えて、この問題についてのべてみたい。
最初に言っておきたいことは、われわれ、のような活動は、ヨーロッパやアメリカであったらほとんどの人から理解される、ということである。このことは後で実例で紹介しよう。
 さて、わが国は経済大国だといわれて久しい。そしてヨーロッパやアメリカの衰退ぶりが数多く伝えられるこのごろである。
だがこれは一面的で”英国病”といわれるイギリスでも、また最近ある雑誌が”バカ世界一”と書いて問題になったイタリアでも、国の収支は別にして国民一人ひとりは、わが国よりも格段の多様性を持って心豊かに暮している。勤勉精神一本槍の画一性で世界からツマハジキされているどこかの国とはちがう。
 日経新聞にこの間、最近はわが国でも企業の社長の中に「早く後進に椅子を譲って、いままでに失った家族、友人、人生をもう一度とり返したい」というタイプが増えた、という記事があった。大企業の社長といわれる人も仕事、実利で一生をすり減らしている向きが多いようである。

婦人解放運動と自転車
着るものを変えていく

 この記事で長年ヨーロッパに住んでいる友人から聞かされたことが思い浮かんだ。
「ヨーロッパではビジネスマンでも仕事以外に一つや二つのほかの分野の趣味研究テーマを持っている人が多い。とくにトップクラスになると中世史の研究家、美術の研究家、音楽から博物まで人それぞれに仕事以外のライフワークを持ち、専門家に近い人までいるが、日本から来る社長たちはパーティでも仕事の話以外はできないのがほとんどだ」というのがそれ。
 わが国には文化人、という実に奇妙な形容詞があって、それは作家とか画家とかに冠せられているのだが、それは生計のための職業であって、もしも”文化人”ということばが使われてよいなら、私は”自分の仕事以外に文化的な問題に取組んでいる人”だと思っている。
 こんな前提で話を進めると、あたかもわれわれが”文化人”のはしくれのような感じになってしまうが、こうでも書かないと日本の自転車史にわれわれがこだわっている理由が説明しにくいからなのである。だからご容赦いただきたい。
 わが研究会のメンバーを一人ずつ見ると入会の動機も、研究のテーマも、職業 (自転車界の人は意外と少ない)まちまちであり、共通するのは「自転車が好き」ということである。
 たとえば、交通発達史の中での自転車部分が資料不足なので調べたいという人、日本の技術史の中での自転車に興味を持つ人、世相・風俗の中に時代ごとに自転車がどう反映されているか、外国文化を日本人がどう受容していったかというようにかなり多岐にわたっている。もちろん、クラシックな自転車をコレクターとして研究している人もいる。
 スポーツ史学の上から自転車の歴史を研究している人もある。「女性のスポーツ参加という問題を歴史的に見ると、19世紀末からのヨーロッパの婦人解放運動の展開を切りはなしては考えられない。この運動の中で自転車に乗る女性が増え、それにつれて服装が活動しやすいものに変化してくる。それがさらに女性を他のスポーツへかりたててくる」。こういう観点から見ると自転車の研究は避けられない、というのである。
 こう書いてくると、何か専門の学者だけの集りのように思われるが、けっしてそうではない。

絵画による史実の分析
楽しみは枝葉を広げる
 一つの例だが明治の初期に日本で活躍したイギリスの画家ワーグマン(「自転車を見て驚く江戸市民」の絵はすでに本誌で紹介)の絵を自転車史の資料として目にしたメンバーが、それを契機にワーグマンその人に興味を持ってワーグマンの活動を調べはじめると、幕末ごろの日本人と外国人の交渉がどのようなものであったかがわかってきて(これはアーネスト・サトウの「一外交官の見た明治維新」岩波文庫にある)、こんどは興味が「ワーグマン=自転車」という構図から「幕末期の日英市民感覚比較」という構図へ広がり、かなり面白がっている人もいる。
 逆の場合もある。文字による文献よりも絵によって事物を調べたほうが新しい発見ができると考え、錦絵や絵草紙から自転車を調べる研究である。最近、わが国でもようやく絵画を読む、という歴史研究方法が学問的に成立しかかっており「洛中洛外屏風」だの絵巻物から史実を探し出す研究が学問的業績をあげているが、この連載の第11回にも錦絵から自転車史の新事実を探し当てた齊藤俊彦氏の事例が紹介されている。
 郷土の明治期の自転車普及状況を調べるうちに郷土史そのものに関心を広げていく人、自転車税の変遷を調べるうちに明治の地方行政のあり方がわかってきたという人など、何かを知るということは人生を楽しく豊かにするものなのである。そして知り得た事実を知らせ合ううちに、自転車の歴史も空白部分が埋まっていく。
 こういう楽しさがわれわれが享受している利益であり、文化だと思っているわけである。
 私たちの会も発足して6年になる。(1961年6月1日発足、来年でちょうど40年になる)まだ会員は少数だが、機関誌を介して個々に文通したり訪ね合ったり、マイナーなグループながら今日まできた。この会を今後どう発展させるかを考えるのがことしの課題になっている。自転車を軸にしてもっと幅広い分野の人が交流できる機関にしたいと想を練っているこのごろだ。

欧米には実車が残っている
社会的に認知された研究
 ここで、海外の自転車史研究グループの様子を紹介してみよう。
 私の知っている範囲はヨーロッパとアメリカに限られるが、この場合、ささやかなわが会にくらべて歴史が長く、そして組織も大きい。これらの国々にはわが国とは異なる背景があるからである。
 一つには、クラシック自転車の実物が各地にかなり豊富に保存されているため、実物に触れての研究ができるし、また細部にわたっての忠実な復元、あるいは復刻ができるという事情がある。
 もう一つには、趣味として自転車のコレクションをする人、愛着をもって研究をする人の層が厚い、ということがある。
 わが国の新聞やテレビでも、ときおり海外トピックスとして、クラシック自転車のパレードや、それをコレクターが持ち寄っての展示会の模様が報じられることがあり、ご覧になった方も多いと思うが、乗り手も見物人もお祭り騒ぎでこれを楽しんでいる。
 わが国でも「自転車月間」などの催しのときに、これに近い光景が見られないことはないが、そのクラシック車は復元というより模造品に近く、乗り手もモデルが雇われている。誇らしげに自分の車に乗って参加するコレクターはいない。自転車に対する価値観がちがうのである。
 イギリスにはSVCC(Southern Veteran-Cycle Club、現在はVCCに名称変更)というクラシック車の研究者やコレクターを中心にする研究会がある。1955年に発足し、現在は約1.000名のメンバーが集っている。イギリス人が圧倒的に多いが、アメリカ人、フランス人、イタリア人も入っている。私もこのメンバーの一員だが、最近はイギリス人以外の参加を拒絶しているらしく、他国からの入会はむずかしくなっていると聞くが?
 活動としてはクラシック車を発掘したり古い文献やカタログを収集して、会員相互がそれぞれの角度で楽しみつつ情報交換をおこなっている。
 この会は機関誌を年2回発行し、そのほかに情報紙を年4回のわりで出している。
 このSVCCが創立される前から研究者はイギリス各地に多かったが、そのきっかけをつくったのはH・W・バートレットである。彼はもともとレーサーであったが、のち1930年代に入って自転車のコレクター、自転車史の研究家となり私設の博物館をつくった。当時彼が出した「バートレットの自転車の本」は、自転車史の書籍として既に古典的な重みを持つ。
 現在、世界各国で出されている自転車関係の出版物に見られるクラシック車のパターンはほとんどこの本に収録され、役立てられているのだが、SVCCの現会長ジョン・ピンカートン氏によって4年前に復刻出版され、高く再評価されている。
 また、ドイツにはVFUとよぶ古典的乗物の総合研究グループがあって、自動車、オートバイ、自転車の研究をおこなっている。ここも機関誌を出している。
 フランスにはUVBEという自転車史だけの研究会がある。オランダの事情はよくわからないが、わが国の「自転車文化センター」のような機関が中心になってつくった研究会が存在する。
 ところでアメリカだが、ここには全米をまとめるホイールメンというクラシック車の研究グループが1967年に組織されている。機関誌や情報紙の内容や発行回数はSVCCと酷似しており、おそらくイギリスのそれに刺激されてつくられたのであろう。一つの特色をいえば、情報紙のクラシック車など自転車関係コレクションの「売ります」、「買います」の伝言板的告知が非常に多いことである。

「バートレットの自転車の本」

SVCCの機関誌

ホイールメンの機関誌

米国にはクラシック車の
復元マニュアルもある
 研究者もコレクターも、アメリカ人らしい凝りようで、往時のサイクリストのファッション (帽子やボタンまで)、催事を復元したりして楽しんでいる。この追求ぶりは「アンチック・バイシクル」という部厚い本によくあらわれている。この本はフォード博物館に勤めていたドナルド・アダムス氏が著したもので、クラシック車を復元製作するためのマニュアルである。あらゆる自転車のタイプ別、年代別に、写真と絵入りでそれぞれの部品から使うべき工具を教えてくれるのだ。そしてアメリカにはこれを手引書としてつくられた復元車が売買されている。

「アンチック・バイシクル」
ドナルド・アダムス著

 ホンモノのクラシック車が多く現存している国はちがう。そして、こういう趣味に遊ぶ人の多いことも……。
 文化の厚みがわが国とは大いにちがうことを痛感させられるのである。

季刊「サイクルビジネス」№29 陽春号、1987年4月13日、ブリヂストン株式会社発行、「知られざる銀輪のわだち」より(一部修正加筆)


2020年11月27日金曜日

あるサイクリストのメモ帳より

 1974年8月27日(火)曇りのち時々雨
金沢文庫より家(茅ケ崎)まで、購入したばかりのルジュンをサイクリングを兼ねて運ぶ。
逗子まで来たところ、雨に降られる。
全行程の所要時間は1時間40分であった。
このルジュンの気に入らない点について、
低価格の三流品であるため、やむを得ないが、以下の通り。
購入時は気が付かなかったが、乗り出してから気になる箇所が多く出てきた。
今後、調整が必要である。

①前フォークの曲がり具合、イタリア車のような美しいカーブではない。ハブに近いところの曲がりが不自然である。クロームメッキでないところは良いが。
②バーテープが布製で既に黒く汚れている。この点ビニール製であれば汗をかくと滑るが、掃除がしやすく、いつもきれいだ。
③ブレーキケーブルの”こし”が弱い。クリップで止めないと、でれっと下がってしまう。
④シートピラーが鉄というのは気に入らない。14万円のグレードはこの程度か?
⑤後輪ハブの玉押しが強い所為か、いやな雑音がする。回転も悪い。分解して玉押しの調整が必要である。玉は適正に入っているか?
➅チューブラーがリムに正確にはまっていない。
回転させるとタイヤが横に振れる。リムの振れがとれていない感じである。
リムテープはこういうところに欠陥があるのであまり使われないのでは。
⑦フォークの部分に少しへこみがあり、塗装も剥げている。
⑧ルジュンのマークがヘッドを含め全てシールで気に入らない。
⑨サドルが安物でよくない。硬い。長時間は尻が痛くなり、さらにむれる。
⑩価格17万でレイノルズの3本セットはいただけない。それにバテッド管ではない。
⑪ブレーキはマファック・レーサーなのでよい。できればコンペティションが欲しい。
⑫チェーンにグリスが塗ってあるのでゴミが付きやすい。
⑬前輪にトゥークリップがすこしあたる。
⑭ケーブルの先端が止めてなく、少しほつれている。
⑮チェーンホイールがTAのスリーアームなので、耐久性がない。
⑯リアディレーラーはカンパの鉄なので、これは気に入る。
⑰全般的に塗装が悪い。細部のバリがとれていない。鉄粉もついている。バフ仕上げが悪い。

家に帰ってから調整した箇所。
①前輪リムの横ブレ、後輪は更に調整が必要。
②リアデイレーラーの調整、これはかなりうまくいった。
③後輪のセンター調整、チェーンステーの間隔を微妙に見ながら行う。
④シートピラーを少し下げる。将来的には交換したい。
⑤ハンドルが少しずれていたので、ステムを微調整。
➅タイヤの振れを直そうとしたが、リムテープがしっりついていて、結局あきらめる。後ほど取り外して、リムセメントだけにしたい。
⑦ストラップの調整。

安物を購入すると、いろいろ手間がかかるが、ある面勉強になり楽しい部分もある。
(注、この記事はメーカーや販売店に対するクレームではない。衝動買いをした自分に対するものである。念のため)

構成パーツは以下の通り、
●タイヤ、WOLBER "SPECIAL COURSES"
●リム、Super Champion Competition 36穴 27×1/8
●スポーク、不明
●ハブ、カンパ・レコード L-36H
●ブレーキ、MAFAC "RACER" 
●ハンドルバー、PIVO
●ステム、PIVO 外径22ミリ、突き出し90ミリ
●フロント及びリアデイレーラー、カンパレコード 鉄
●フレーム、3角のみ、REYNOLDS 531 プレーン菅
●インフレーター、REG
●インフレーター・ホルダー 不明
●シートピラー、不明、鉄製の安物 26.2ミリ
●サドル、不明、安物、イタリア製?
●チェーンホイール、TA 52-42
●ペダル、レオタード
●トゥークリップ、PATURVD
●ストラップ、Lejeune
●チェーン、SEDIS
●フリー、シクロ 72 14-22
以上 

Lejeune

チェーンホイール、TA 52-42

MAFAC "RACER" 


REYNOLDS 531 プレーン菅

REYNOLDS 531のグレード

フロント及びリアデイレーラー、カンパレコード 鉄


ハンドル、PIVO

ステム、PIVO

ハブ、カンパ・レコード L-36H

2020年11月26日木曜日

ラレーとB.S.A

 先日、資料を整理していたら、1923年のB.S.Aのカタログと1937年のラレーのカタログ、それぞれのコピーが出てきた。
 このコピーには、手紙も添えられていて、1992年12月28日の日付である。
受領日は12月30日、「新田氏からコピーが届く、礼状を出す」と私のメモにも書いてあった。
以下がその手紙、

前略、
鶴巻温泉「大和旅館」における合同おさめ会、大変お世話様でした。おさめ会の席上でお話しいたしました、RALEIGHの1937年版のカタログとB.S.Aの1923年版カタログのコピーを作成いたしましたので、送付いたします。
 なお、RALEIGHの方はB5判で同寸法、B.S.Aの方はA5判変形をB5判に拡大してあります。また、B.S.Aのカタログは、傷みが激しく、7~8頁が欠落しておりましたので、その分は入っておりません。
 これらのカタログは、埼玉県・県北部の自転車店向けの卸業を営んでいた、吉田自転車商会(埼玉県鴻巣市:現在は廃業し、その子供は私の居る関東自転車競技会に勤務している)から出土?したものですが、殆どの資料は、家を建て替えた際に処分してしまったそうで、めぼしい物は残っていないそうです。
 戦前に日本へ輸入された、外国車に関する資料として、ご参考になれば幸いです。
草々
Dec.28, 1992
新田 眞志

とある。
まず、この年のおさめ会について調べたところ、1992年12月27日(日)曇り、鶴巻温泉の大和旅館(秦野市鶴巻北2丁目7−7)で開催された、クラシック自転車保存会と日本自転車史研究会との合同忘年会であったことが、当時の記録から判明した。参加者は全部で21名と記録があるが、2名は都合が悪く欠席している。
 当日出席していたS氏にメッセンジャーで電話したところ、宴会場の舞台でスワップミートも行われ、S氏はレジナのグランスポルト4段のフリーを出品したところ、1万円で売れたとのこと、こういう嬉しい記憶は鮮明に覚えているようである。私はフリマが行われたことすら記憶から消えている。
 新田氏の手紙を見ていると、彼の几帳面な性格が垣間見える。
ご存知の方もいると思うが、彼は自転車専門雑誌「ニューサイ」 (月刊誌、New Cycling)の常連投稿者であった。
 彼の著書である「美しき自転車 魔物たち―SPECIAL MADE CYCLE – 1993」や「自転車メンテナンス – 1995」は、今も私の書棚に行けば会える。

ラレー・ジュビリー・ブック

スポーツモデル31

ダウン・スパーセーフティー

タンデム・モデル

スターメイ・アーチャー

B.S.Aのトレードマーク
バーミンガムスモールアームズ株式会社


レーサータイプと軍用モデル

B.S.A 3スピードハブ


銀輪のわだち その16

 「知られざる銀輪のわだち」その16 

佐藤半山と雑誌「自転車」㊦

 (承前)なにしろ明治30年代においては、人びとは自転車に対して多くの可能性を夢見ていたのである。だから先進国の技術情報はその夢を現実に近づけてくれるものとして歓迎されたのであろう。

坂道をのぼれる自転車
第33号(明治36年)

 前号でふれた折りたたみ式自転車の記事以前、第33号(明治36年)には「坂道をのぼれる自転車」が紹介されている。スウェーデンの発明で、ペダルによらずレバーを交互に踏むことによって駆動力を休みなしに後輪に伝達する方式である。
 ヨーロッパやアメリカの自転車を使ったサーカスの演技や、その仕掛けまでが興味の対象だったらしく、図入りで報じられている。

頭上につく電燈

 中にはここに掲げたようなものまで、「頭上につく電燈」として外国ダネがニュースになった。今日から見ればお笑い草だが「サンフランシスコのダンハム・ヘーデン社の製品で同社のカタログに掲載された。だがまだ日本には輸入されていない」と注釈がついている。

 雑誌『自転車』は明治35年8月に創刊25号記念を祝う。祝辞を寄せる人たちの中には著名な東洋史学者・那珂通世博士や松井康義子爵をはじめ、中央、地方の名士が多い。わが国の自転車文化高揚期を迎えていたのである。

明治40年代以後は
誌面に活力がなくなる
 いままでのべてきたように明治30年代の『自転車』は、当時の自転車事情を反映して、珍奇談をふくみながらも活気にあふれた誌面を提供しつづけていた。
 しかし、その様相は明治40年代から大正期に入るとしだいに変化する。活気が衰え、誌面づくりにも苦悶しているかのようになる。
 実は、この連載と併行して進められていた、佐藤半山と『自転車』の調査がかなりはかどり、いままで発見できなかった明治40年代と大正初年の同雑誌がまとめて発見された。このため『自転車』が歩んだ軌跡がある程度たどれるようになったわけであるが、そこからわかることは自転車文化の衰退である。
 その変化をのべる前に、新しく発掘された資料によって判明した事実をかんたんに紹介しておきたい。
一、雑誌『自転車』は関東大震災まで発行されつづけ、最後は『自転車月報』という業界新聞に切り替えられる。この業界紙は半山の死後も継続して発行され、昭和9年ごろまで出されていた。
二、佐藤半山は自転車商を営んでいない。
連載の㊤で引用した「福島誌上県人会」の記載は誤りである。
三、同じくの㊤で、鈴木三元と同郷であるところから半山への三元車の影響を推測したが、これも誤りである。後で触れるが、半山が『自転車』に取組んだのには別の背景が存在していた。

米屋、炭屋の配達用車
輪界も実用量産へ傾斜
 さて、『自転車』はどのように変貌していったのか? 明治40年代から大正期のものに目を通してみよう。
 自転車での旅行記やレース結果などの記事はあるものの、明治30年代のそれが一つ一ついきいきした各方面からの投書、通信でつくられていたのにくらべ、通信を寄せる人も少ないらしく生彩を欠いている。
 逆に輪界内の企業情報のようなものが増え”業界誌”に近い感じになってしまっている。
 なぜか? 自転車はもう人びとに夢を抱かせてくれる乗物ではなくなりつつあったからである。自転車に乗る人はどんどん増えた。明治40年には東京市内の自転車保有台数6.743台、それが42年には10.000台を超している。
 この普及が「商家にても主人、番頭はこれを乗用とするを恥ずる傾向あり。主人、番頭という立場にてこれを使用するは米屋、薪屋の類のみ(時事新報)」という状況をつくり出してしまう。自転車の用途は”遊び”から”実用”へと急傾斜しつつあった。雑誌『自転車』が生彩を失い出したのもこのためである。
 その例をいくつか挙げよう。この雑誌は大正4年に創刊15年を迎えるが、そこへ寄せられた論文も、記念行事に参加した人の顔ぶれや祝辞も、前出の25号記念のものとはかなりちがっている。
 輪界外の名士は姿を消し、輪業関係者や半山と同業の出版社と業界紙の関係者、そして招かれた市会議員などが集まり「自転車は欠くべからざる実用品」、「実用品としての利用範囲の拡大」、「輸出の拡大」などを唱えている。
 乗物に速さ、便利さだけを求めていたわが国民性は、電車、そしてやがて登場する自動車に優位性を求め、業界はそれに軽便な実用性で対抗しようとしていることが感じられる。そして輸出である。
 これを今日の眼で批判するのは酷であろう。サイクルスポーツを発展させるほど自転車の機能はまだ向上していなかったのだ。
 もっとも大正期の記事を読んでいると”自動車崇拝”に警告を発するような論文も見える。「自動車は時間の節約はなし得るが、神経を使い、精神の休息を奪う。目的地に直進するあまり世の変化にふれ合うことができない。故にこれに慣れてスピード万能主義の人間がつくり出される」などは今日から見ても面白い。だがこの雑誌は、こういう論文を掲げながらも自動車愛好家をも読者に獲得しようとするのである(後述)。

紙数の大半占める広告
記事も業界内向けに
 後期の『自転車』の誌面を多く占めるのは広告である。その多さを量ではかるなら全体で80ページほどの雑誌中、三分の二は広告ページが占めてしまう。この点でも今日の業界誌・紙に近い。
 明治30年代の同誌の広告は前にものべたようにピアス、デートンなど米国製自転車の輸入元、大卸が一定のスペースをおさえていたが、明治の後期から大正へかけては小型の販売代理店が数多く顔を出す。
 大きな変化は英国製のスイフト号を扱っていたスイフト商会がピアス、デートンにかわって大広告主になっていること。これはピアスの輸入元だった石川商会が丸石商会(現丸石自転車)に併合され、同商会が英国製トライアンフ、プリミヤに力を入れはじめたからであろう。丸石商会の広告もかなり多くなっている。さらにアサヒ号、パーソン号など宮田製作所の国産車の広告が目立つ。
 とくにスイフト号は毎号にわたってすべてのページの両袖に「世界最良、スイフト号自転車、ルーカス付属品」の文字を入れた上え、別紙刷りの広告を数ページとじ込んでいる。
 かつての誌面のかがやきは失われている。
 誌代は一貫して定価10銭を守っているものの、一般読者は減りこそせよ増えることはなかったろう。雑誌を継続して発行するには輸界内部からの協賛広告を多く仰がなければならない。読者にとって興味のない広告主の提灯記事も載せることになり、それが誌面をさらに荒廃させる。

苦心のあと残る副題
だが時流適応できず

 半山はこういう状況に苦しんでいたようである。彼はすでに明治36年の末ごろから雑誌の表紙に「写真」というサブタイトルを入れた(㊤参照)。自転車以外の遊びの要素を雑誌に採り入れ富裕階層の読者をひきつけておこうとしたのである。これはピアスの輸入元だった石川商会がセンチュリーというカメラを輸入していたので、その意を受けたものかもしれないが……。
 しかし、その「写真」のサブタイトルも関係記事も明治40年に入ると消え、42年から「絵葉書」というサブタイトルが入るが、これも半年ほどで消える。なぜ「絵葉書」なのかわからないが、推測を加えると私製はがきが認可され当時「滑稽新聞」の宮武外骨が「絵葉書世界」という特集をしばしば組んで人気を博していた時代と、このサブタイトルを掲げた時代が重なる。
 外骨にならうことで雑誌に新局面を開こうとしたが果せなかったのではなかろうか。
 「写真」のサブタイトルがはずされ、表紙はもとのままの『自転車』に戻るが、大正元年10月号から新しいサブタイトル「自動車」が登場する。
 もはや自動車を無視することはできなくなっていた。この時期東京市内には280台が走っている。自転車の効用を強調していた輪界もスイフト商会をはじめバイクの輸入をはじめていたし、輪界の一部には日本自動車自転車会社をつくって国産化をはかろうとする動きもあった。
 サブタイトルの「自動車」はその後消えることはなかったが、それに関する記事はきわめて断片的で、自動車需要層を読者に獲得したとは思えない。
 毎号の編集も話題づくりに苦労したらしく、半山は自転車同業組合のあり方を説いたり、国際自転車競技規則の邦訳を載せたりしている。また第一次世界大戦の余波で輸出が伸びたのを幸い、不良品輸出をする傾向に警告を発したりもしているが、もはや自転車は実用品、大衆の心をとらえる雑誌には復活させようがなかった。
 やがて雑誌に半山自身の広告が載りはじめる。大正5年5月号からで、それは法律問題、特許相談、債権取立て事業の開業である。この雑誌ははっきり”冬の時代”に入っていた。神田区議会議員になるのもこの翌年である。

わかった発刊の動機
仕掛人は東宮和歌丸
 わが国で最初の自転車専門誌として、今世紀の初頭に自転車文化を広めたこの雑誌の功績は大きい。各界の著名士が読み、投稿し、全国に自転車愛好家を増やした。これにならってその後いくつもの自転車専門誌が生まれている。
 なぜ半山がこれに着手したか? それはさきに推測したような鈴木三元の影響ではなかった。そのことが、今回発掘された雑誌の中で明かにされている。
 半山は大正4年、創刊15周年の誌上でつぎのようなことを書いている。
 明治33年の春、ピアス輸入元の石川商会の支配人であり、その代理店四七商店の経営者でもあった東宮和歌丸という人物から呼ばれ「輪界の機関誌になるような雑誌をつくってくれ」と頼まれた。自分は自転車についてまったくの門外漢だったが妻子を抱え浪々の身だったので断わる余裕なく、必死に勉強をして雑誌づくりをはじめたのである――と。
 そしてさらに「東宮和歌丸はやがて四七商店を手ばなし本誌とは経済関係を絶つことになるが、その後も雑誌を育成するために、各方面に資金援助の斡旋の労をとってくれた」とし「まったくこれは東宮氏の輪界発展のために私財を散らされた任俠のたまもの。後世、輪界史を編むものはこの東宮氏の功を忘却してはならない」と強調している。
 たしかにこの雑誌を中心に大日本双輪倶楽部、帝国輪友会の有力者が論陣をはり那珂博士ほか著名士が寄稿したのだからまさに東宮和歌丸のいう機関誌の役割りを果したのである。 
 東宮一家は夫人も子女もサイクリストで女子嗜輪会(本誌25号参照)の有力メンバーだったという。
 佐藤半山と東宮和歌丸の提携が『自転車』を誕生させたのである。

 本稿に貴重な収集資料を寄せられた真船高年氏に感謝してこの項を終わる。

季刊「サイクルビジネス」№28 新春号、1987年1月10日、ブリヂストン株式会社発行、「知られざる銀輪のわだち」より(一部修正加筆)

2020年11月25日水曜日

再度、宮田の試作車について

 再度、宮田の第1号車(試作車)について

 何度も述べているが、宮田の第1号車(試作車)は明治23年ではない。
さらにこれを裏付ける資料として、『輪友』第6号、明治35年4月4日発行、
「宮田工場主 宮田栄助氏の談話」がある。
 これを見ても、明治23年説は誤りであることが分かる。
宮田栄助、本人が直接取材に応じて語っているのである。
試作車の製作から、まだ10年も経っていない時期の取材であるから、記憶違いや勘違いもなさそうである。
 「宮田製作所70年史」昭和34年4月1日発行の編纂者もこれらを調べたと思われるが、あえて明治23年に修正したことは理解に苦しむところである。勘ぐれば1年でも早く第1号の試作車を完成させたということを誇示するためで、恣意的に修正したのではないかということになる。
 『宮田栄助追悼録』 昭和7年9月9日発行(非売品)では明治25年であった。
 このようなことは調べればすぐに分かってしまうことなのだが。
 何度も言うように些細なことかもしれないが、この70年史がその後に孫引き、ひ孫引きされ、歴史の事実として、継承されていくことである。事実継承された本を何点か見かけている。
 やはり、70年史が恣意的に編集したとは言いたくないが、どこかで訂正されなければいけないと感じているからである。
 どうでもよい小さなことかもしれないが、あえて再三述べる次第である。
 最近では、一次資料である原書や原典にあたらず、単に孫引きやひ孫引きをして著述された本が多く、当然そのような本は買わないことにしている。おそらくそのような本の中身は殆どが、原典にあたらず、その後に刊行された本や雑誌の孫引きやひ孫引きで全体が出来上がっていると思われるからである。翻訳物などの本に特に多いような気がする。
 現代のようなネット社会であれば、ブログやツイッターをそのままコピペして引用するようなものである。

下に『輪友』第6号、明治35年4月4日発行に掲載された、宮田栄助氏の談話、全文を載せる。

宮田工場主 宮田栄助氏の談話
( 東京市本所区菊川町2丁目 52番地)
能くお訪ね下さいました。私が此處へ猟銃製造の工場を建てましたのは明治23年の4月で、丁度25年の末でしたがソロソロ今の安全車が日本に輸入仕始めた時に、ドウかして自転車を自分の手で造って見たいと考まして、夫れから26年に猟銃を造ります傍ら自転車を1台造り掛けて見たのです所が其時分はまだ自転車は極く栄誉品と見られて居って、実用的の必要品とは世間が認めて居りませず、又自分もホンの猟銃を拵える相間にポツポツ掛って居ったので、まだ本当に出来上らぬ内に早くも27年となって、端なくも東洋の平和が破れて彼の日清戦争が起りました。
スルと此鉄砲製造の方は陸海軍から沢山な御用を仰付せられまして、少しも他の事には手を出す暇がなく、引続いて戦後には銃猟熱が盛んになったもので、此の猟銃が非常に売れまして、平均私の工場のみで1ヶ月400挺からも造るそばから売れて往く有様で丁度昨年までやって来たのですが、昨年の彼の狩猟法改正の結果で全く此の猟銃の方は売行が止って仕舞ったと云っても宜い位になりました。ソコで之だけの工場を持ち職人も大勢使って居りますし、前にやった経験も幾らかありますから、自転車製造と云う事に思立って、昨年の10月から始めましたが、偖てやって見ますとナカナカ六ヶ敷いもので、迚も机の上で考へた様には往きませんと云うものは、何しろ自転車製造用の機械と云うものが無いのです。又た斯う云う所は斯う云う機械を使うと云う事も會て見た事も無いのですから、先づ始めに自分の脳漿を絞って其機械からして考出さなければ成りません。マア色々に苦心を重ねまして漸く本年の1月になって1台見本品ともいうべき自転車が出来ました。
早速それを戸山学校の梅津大尉に願いまして、試験のために乗って戴きましたが、案外にも大変結果は好いと云う話で既に先日も各官立学校有志者の遠乗会へ、梅津大尉は私の所で拵えた車へ乗って、川崎まで遠乗をなさいましたが車に少しも異状がないのみならず、車の出来も大層宜いと云う御好評を受けました。
夫から本月に入りましてから出来ましたのは警視庁へ1台、九段の偕行社へ1台、下谷上車坂町の中上さんへ1台、名古屋の警察署長さんへ1台、都合4台納めましたが、幸に今以て何処からも此處が悪いと云うた話は承わりませんから、先ず好結果であると窃かに悦んで居ります。
モウ今日では「タイヤー」「リム」「スポーク」「ボール」此の4品丈けはまだ外国のを使いますが、他は全部私の工場で製造することが出来るように成りました。アト本月中に丁度30台は仕上りますが、1台は1台より種々な点に就いて研究改良して往きますから、追っては之で申分が無いと云うものを造り得らるるだろうと思って居ります。
夫から製造の事に就いて少しお話致しましょう「フレーム」になります「パイプ」ですが、亜米利加あたりでは詰りガス管を造ります様に、鋼鉄の「パイプ」が其まま出来る機械があるのです。所が日本にはそう云う機械がありませんから、私は従来の猟銃にやり来った繰抜き機械で、「パイプ」を繰抜いてやって居りますが、比点に就いては従来の経験がありますから左のみ困難を感じません。且つアチラの会社の定価表も参って居ますが、ドウも算盤を取って比較して見るとコチラで1本1本抜いて拵えて往っても其方が安く上るように思われます。夫れですから態々資本を余計掛けてそう云う「パイプ」を造る機械を取寄せる必要もないと思って居ますが併し是は非常に盛んに製造する場合は別段のお話で、唯今の所では猟銃の機械をみなそのまま使っ居りますから、幾分かは不完全な所もあるかは知りませんが、ともかくも品物は相当に出来て居ります。唯一番六ケ敷いのは「チェーン」で、是は舶来品を見ましても何れもキチっと極って出来て居るのがありませんから、ドレが果して、宣いのやら分りませんが、先づ今日では日本へ一番最初に輸入した「クリブランド」の「チェーン」が宜いと云う評判ですから、其通りに真似て造って居ります。それから「シャフト」へ焼を入れる事ですが、是は私共の考ではドウも「チェーン」の「シャフト」へ焼き入れると云う事は非常に心配な事で、ドウしても之に焼を入れれば折れなければならいと考えて居りましたが、之もやって見ましたら好いあん梅に折れもしませんでうまく出来ました。先づ今日では皆大概出来るように成りまして、「スポーク」も「ボール」も其うちに造る積りですし、「リム」も私の手でやって見ようと考えて、ポツポツ其研究に取掛っております。「タイヤー」は是は又一種別なものですが、既に東亜護謨会社で研究中ですから、其方でやって戴く考です。是が悉皆出来ますと、モウ威張ったものですがまだ其処までには少し間がありましょう。
 要するに外国では総てが機械的で、どれもこれも機械でキチンと出来て居りますから、各々車に就て長所もあれば短所もある。それを今私共がやって居りますのは、詰り機械が揃って居らない為もありますが、多く機械に依りませんで手で致しますから、是迄日本へ輸入になって居る各種の車から各々長所とする所を選びまして、何でも善いという部分を拾い合って造りますから、追って成功した暁には舶来品に負けない車が出来るだろうと思います。それと唯今の所ではまだ漸く1ヶ月に20台か30台しか造りませんから、ヒドク安く出来ると云う訳に往きませんが、之が私共の工場位でも1ヶ月に100台以上も造るように成りますと、工費がズーッと安く上る勘定になります。と申すのは唯今現にやって居ります機械などは、1人の職工で2台も3台も機械を使うことが出来るのです。一つ品物を100個以上も一時に作る事になると、是迄1台の機械でやって居ったのは3台の機械に掛けられる。1台の機械を動かして1人の職工に1日50銭の手間賃を払うものならば、3台の機械を動かさして75銭の手間賃で済む、それで職人は左のみ苦しくは無いのですから是まで50銭取れなかった者が75銭取れて、ソウして品物は倍以上出来るから工費は丁度従来の半額位で上ります。斯う云ふ時代になって来ますると近頃随分安い車が輸入さますが、第一舶来品には原価の2割5分と云う海関税が課せられて居りますが、内国製品にはソウ云う負担がありませず、且つ一般の手間賃も外国に較べると我国は低廉でありますから屹度舶来品より安く出来るだろうと思いますを尚ほ輸入を防ぎますから聊か国益の一端でもあろうと考えて居ります。
夫れから欧羅巴亜米利加辺りでは自転車の時代が去って、自動車の世の中に遷って来たようですが、此の「オートモビル」に就いても尚を私は進んでやって見たいと云う考を懐いて居ります。其のうちに又経験した所がありましたらお話しますが、今日は之で御免を蒙ります。
(『輪友』第6号、明治35年4月4日より転載)

これを読むとどうも明治25年説もあやしくなる。
宮田栄助の話では、
「夫れから26年に猟銃を造ります傍ら自転車を1台造り掛けて見たのです所が其時分はまだ自転車は極く栄誉品と見られて居って、実用的の必要品とは世間が認めて居りませず、又自分もホンの猟銃を拵える相間にポツポツ掛って居ったので、まだ本当に出来上らぬ内に早くも27年となって、端なくも東洋の平和が破れて彼の日清戦争が起りました。」
 とあり、早く見積もっても第1号の試作車は明治26年ということになる。

問題の「宮田製作所70年史」の説明書き
明治23年製銃所時代に試作とある
鋼玉、スポーク等すべて自製品の説明もあやしい

『輪友』の復刻版 全10冊
日本二輪史研究会 1993年6月1日復刻

『輪友』第6号 明治35年4月4日発行

「宮田工場主 宮田栄助氏の談話」の部分
『輪友』第6号、53頁

『輪友』第6号 54、55頁

『輪友』第6号 56、57頁

2020年11月24日火曜日

銀輪のわだち その15

「知られざる銀輪のわだち」その15 

佐藤半山と雑誌「自転車」㊥

写真も墓地も発見
少しずつ実像判明

前回に引きつづいて自転車史研究家の真船高年氏の調査をもとにしてのべていく。
まずは、その後に発見された佐藤半山の写真を下に掲げよう。この夏の間、半山の郷里福島県から活躍地の東京を調査してまわって、戸籍簿を頼りにようやくあるところから探し当てたものである。没年もわかり墓地もたずねあてた。

佐藤半山
写真提供:真船高年氏

 墓地は東京・谷中の西光寺にあった。昭和7年9月27日に64歳で没、戒名は覚浄院秋山自徳居士。昭和初期まで東京で暮らしていたのである。
 ほかに明らかになったことを記しておくと神田区(現在の千代田区)区議会議員をつとめていたのは大正6年11月から大正10年の同期までの4年間で、これは千代田区史に記録されている。同区史には「福島県出身、現住所神田区北神保町13」とあり「職業欄」は空白になっている。このころは雑誌『自転車』は廃刊になっていたのかもしれない。立候補名は本名の喜四郎を使わず、佐藤半山であった。
 もう一つわかったことは、この神田の住居は関東大地震で焼失し、その後の半山(家は本郷区、現文京区)千駄木町に移り、ここで晩年まで過ごしていること。以上である。そこで、前回のあとを引継いで『自転車』の内容に立入ることにする。

初期の広告は米国車
デートン、ピアスが主流

 この雑誌への興味は20世紀初頭のわが国自転車事情を知ることにある。明治期も30年代以降の輪界史はすでにかなりととのっており、自転車産業振興協会編集の「自転車の一世紀」、佐野裕二氏の「自転車の文化史」がある。
 だから、ここでは、それらを正史とするなら外史――つまり『自転車』に掲載された記事、広告の断片から自転車事情をのぞいてみたい。
 まず、その広告から――。
 自転車の広告は明治35年あたりまではすべて輸入車のもので、それも圧倒的に米国製である。ピアス、デートン、クリーブランド、エルク等々――そしてカナダのアイバンホーが目立つ。中でもピアスの広告が多い。ピアスは横浜の石川商会が独占輸入し東京の四七商店が代理店をしていたのだが、石川商会、四七商店、そして米国のジョージ・N・ピアス社までが揃って出稿している。
 同誌の第9号(明治34年4月)には巻頭の写真のページに石川商会の米国支店員がせい揃いした記念写真や、同商会の神戸支店の全景を載せている。発見されている『自転車』のすべてに、石川商会=ピアスの広告がいいスペースを占めているが、同誌にとってかなりいい広告主だったのだろう。
 ピアスについで出稿量の多いのはデートンである。デートンは東京の双輪商会がひんぱんに広告を出しているが、双輪商会とは明治時代の代表的な自転車選手・鶴田勝三の兄・吉田銈次郎が慶応義塾に在学中、学生仲間とともに興した会社である(本稿第10回参照)。デートンはピアスのように独占輸入ではなかったが、鶴田選手の名声でここがいちばん売ったようだ。

日英同盟の締結後に
市場がガラッと変わる
 明治期の輸入車のブランドを拾うとおびただしい数になるが、現存している古老たちの記憶に強く残っているのはピアス、デートンのようである。「デートン色」などという呼称さえ残っているくらいだ。
 ところが、この米国製一辺倒の自転車広告の中へ、国産車、英国製の広告がしだいに加わってくる。明治36年ごろから銃砲自転車製造販売・宮田製作所が旭自転車の広告を出しはじめ、つづいて37年ごろから岡本自転車電機器店が「国内製自転車」として扶桑号の宣伝を開始する。
 同39年に入ると、オズモンド、トライアンフ、ハンバー、ローターキス、ラゼガゼル、インピスターなど英国製を扱う販売店の広告が目立ち、日・米・英の市場競争がはじまったことがわかる。
 米国製のピアスやデートンは健闘しているものの、英国製が追い上げをはかっている。これはその前年までの日露戦争と日英同盟・日英攻守同盟の関係がモノをいっていること、そして米国に国際市場を奪われつつあった英国の巻き返しによるものであろう。
 事実、統計によると明治39年、英国は日本市場でそれまで優位をつづけてきた米国製自転車をはるかに引きはなし、この後もつづけて市場を拡大している。

婦人専用の教習場開業
芸妓が各地で走り出す

 下に掲げたのは第36号(明治36年)巻頭の写真ページにあるもので、当時、自転車に乗ることで名高い各地の芸妓たちである。

名高い各地の芸妓たち

 中央がとくに人気の高かった東京・下谷の中川家の栄という芸妓で、この雑誌の投書欄にもときどき「栄といっしょに走りたい」というものが見える。そのまわりは山形・酒田、静岡・掛川の芸妓たちーー。
 この年は小杉天外が読売新聞に自転車に乗る女性を描いた「魔風恋風」を連載しているが、そのモデル三浦 環が自転車に乗りはじめたときから3年目なのである。
 女性と自転車の関係を他の号の誌面から見てみよう。第24号(明治35年)には「共楽園」という広告が出ている。場所は東京・本郷で「奇数日は男子、偶数は女子」と区分をし、実技指導や遠乗り、協議の催しをやるとしてある。会員制のクラブらしく甲種会員、乙種会員を設けている。女性の自転車願望が広がりつつあったのだろう。
 ところが、その翌年になると「東洋元祖婦人練習場」というライバルが登場してくる。 東京・麻布に開業したもので、その広告文にいわく「婦人部は一切男子の立入りを禁じ、熟練した女教師が親切な教授をおこなう」。
 男女の練習を分けたり、一切男子の立入りを禁じたりしているのは、男女関係がやかましかった当時の社会環境もあったのであろうが、そればかりではない事情もあったらしい。というのはーー、

教習中に芸妓につけ文
クラブも全国に生まれた

 そのころの同誌の投書欄につぎのような一文が載っている。
 「芸妓への自転車の指導に出かけた自転車店の店員が指導中に芸妓にラブレターを突っぱねられ赤恥をかいた例がある。自転車を売るための指導に行くのはいいが、こういうことをする奴は臨界を毒するものだ」。
 ほかにもこれに近い投書があるところを見ると、男女の練習日、練習場の区分は、営業上のセールスポイントであったのだろう。
 さて話を変える。第24号(35年7月)には日本帝国徽章商会の「徽章をつくりませんか」という趣旨の広告が載っている。
サンプルとして掲げられている徽章は日英同盟記念章や帝国大学運動会の記念章などである。「自転車も各地にクラブができたのだから、クラブ徽章をつくってもらえば商売になる」という広告主の読みであろう。毎号それをつづけていたが、それが効果をあげてくる。
 第33号 (36年5月) の広告にサンプルとして掲載されているのはすべて自転車クラブの徽章である。仙台、福島、横浜などのクラブ徽章だが、ほかにもかなりの地方から注文をとったと思われる。
 というのは、少なくとも明治30年代の『自転車』には毎号のように各地の自転車便りが載せられている。東京や大阪などの大都市には限られない。
 富山県の泊(現朝日町)では明治33年戸数1.000余に過ぎないが200台もの保有がある。中には一人で10台も持っているものがあり「近く北陸連合大会を催す計画」とか、同じころ高松市でも弁護士、医師、実業家、郡部の豪農などの使用が増え「大阪あたりより同好者を招き競走会を催す準備中」、水戸市でも「クラブを結成した」などの報告がおびただしく報じられている。
 その愛好者たちが当時の富裕層であるからこの徽章づくり広告はヒットしたのであろう。かなりのマーケティング力である。

軍事利用から生まれた
折りたたみ式自転車
 第33号(明治36年)にはたいへん興味ある広告が出ている。商品名は「時計入れ」とあるが、腕時計のような図が示されている。腕時計はこの前年にスイスでつくりはじめられたばかりでまだ出回ってはいない時代なのだ。よく読んでみると、左手首に巻きつけるベルトに懐中時計が入るようなポケットをつけ、文字盤と龍頭の部分が外へ出る仕掛けである。従って「時計入れ」ー。
 そのベルトの一部には方向磁石がついている。中田米松という人物の特許製品なのだが、特許の取得は明治28年とある。興味深いのはここだ。
 腕時計のおこりは1899年(明治32年)の南阿戦争のとき、英軍将校の一人が懐中時計を皮バンドで手首に巻きつけて戦ったことである。世界の時計史ではそうなっているのに、中田米松はそれよりも4年早く、同原理の商品開発をしている。
 この特許取得はまやかしではなく、当時の農商務大臣榎本武揚が押捺した証書がついている。
 磁石がつき、手首に装着できる「時計入れ」はサイクリストには人気を博したと思われるが、この広告は明治37年後半から以後の雑誌には出ていない。それはほんものの腕時計の普及が国内ではじまったからであろう。
 話を広告から記事のほうへ移すと、自転車の技術開発や輪行技術、各地競技会の情況、名士の自転車談、海外自転車事情が多いのだが、当時の社会情勢からして自転車の軍事利用の可能性がかなり論じられている。「梅津大尉自転車談」という佐藤半山の聞き書きがかなり長い期間連載されているが、この梅津大尉は半山とかなり親交が深かったようである。その中から興味ある事実を一つだけ紹介しておこう。

ジェラールの折畳自転車

 上の図は折りたたみ式の自転車である。いまなら珍しくもない携行型の一種だが、これは1895年(明治28年)にフランスの陸軍大尉ジェラールの発明によるもので、ジェラール大尉はフランス主戦自転車隊に属し、自転車を軍事利用に適するよう各種の改良を試みてきた人物らしい。
 その一考案として図の自転車が「梅津大尉自転車談」に紹介されている(第44号=明治37年)。わが国にも一台は渡来したようで閑院宮元師に贈られ陸軍戸山学校に下賜された、とある。フレームはプジョー、タイヤはミシュランで、フランスでは当時から市販されていたようだ。
 「天候不順にして道路地質ともに不良なる場合、旧自転車はその行進を妨害されしもジェーラル式に至りては車を折りたたみして背後に負担することができる」のが利点とされ、自転車に対する工学的なデータや自転車兵戦術についても詳しくふれている。日仏の軍部間で情報交換がおこなわれていたようである。
 重量12キロ、フレームパイプを連接桿で結合する方式だが、これが折りたたみ式自転車の元祖かもしれない。
 こういう新技術の紹介はほかにもかなりある。(つづく)

季刊「サイクルビジネス」№27 涼秋号、1986年10月15日、ブリヂストン株式会社発行、「知られざる銀輪のわだち」より(一部修正加筆)


2020年11月23日月曜日

老舗さんぽ ⑪

 先日、老舗である小田原のコスナサイクルをまた訪ねた。
店内に丁度修理中のラレーが置いてあった。
恐らくこのラレーはアラヤ製と思われる。

店内にあった修理中のラレー

 コスナサイクルは、老舗さんぽ⑩でも触れたとおり、昭和初期の創業で、初代が小砂理助さん、二代目が文二さんである。この日はリスケさんと、ブンジさんの漢字名の確認であった。
 忙しいにも関わらず三代目の恵三さんが、メモ帳に二人の名前を書いてくれた。
そして、11月18日にオルモの後輪スポークが1本折損し、19日にこの修理を依頼していたが、その修理が完了したという電話が入り、受け取りに出向いたのである。
リムの振れも1ミリ以内の誤差で完璧に調整されていた。

この日に後輪のスポークが1本折損
リムの振れが大きくなり
ブレーキパッドに当たる状態に
このオルモは1978年製である
彼方此方パーツを交換しているが
まだ現役である

2020年11月21日土曜日

銀輪のわだち その14

「知られざる銀輪のわだち」その14 

佐藤半山と雑誌「自転車」㊤

わが国最初の専門誌

 本誌前号の巻末に、わが国最初の自転車専門雑誌『自転車』の複刻版が出たことが掲載されていた。私たちの会(日本自転車史研究会)でも機関誌で告知する予定だったが、ひと足先の紹介である。
 自転車史に興味をもたない人にとってはこんな古めかしい雑誌を苦労してカネをかけて複刻することも、またそれを数千円も出して求める人の心理もわかりにくいことだろうと思われる。
 この雑誌の価値はきわめて高い。発掘されているものが少ないため全体像が明らかではないが、明治33年に創刊され、大正8年まで継続発行されていることは、いくつかの傍証で確認できる。大正8年以降のことが不明なのも、雑誌というものの性質上、保存されているものが見当らないからである。
 いま現存が確認されているのは、複刻版を出した福島県の真船氏が集めた9冊と、東京大学法学部明治新聞雑誌文庫所蔵の3冊で、別にもう一冊第9号がどこかにあるはず(かつてサイクルショーに展示されたことがある)だが、他には国立国会図書館にも存在していない。
(その後明治40年代と大正初年の同雑誌がまとめて発見されている)
 ただし、ただ存在が稀少だから価値があるというわけではない。前号で三浦 環のことでふれたように、わが国に自転車文化が広がろうとする19世紀の最後の年に創刊され、自転車が一般実用化する大正期まで雑誌の命脈を保ったことは、この雑誌につづいて創刊された「輪友」や「輪界」とくらべてかなり支持層が大きかったことを示している。
 全国各地でどのような人たちが、どのような関心で自転車を走らせていたか、いろいろな競技や遊び方がどのように普及していったかなどを時系列的に知ることができるのである。
 それは今日、スポーツ雑誌界の一角にサイクルスポーツ専門誌が市民権を得つつある状況の前史をなすものといえよう。

「自転車」第25号(復刻版)
真船氏により昭和61年に復刻されたもの

「自転車」第62号(復刻版)

鈴木三元と半山の縁?
 そういう『自転車』の内容と、果した役割りのほかに、たいへん興味をそそられるのは、この雑誌の主であり編集人である佐藤半山のことである。
 半山の郷里は福島県伊達郡桑折町である。読者はこの地名から何かを思い出さないであろうか?
2年前にこの誌上で紹介した、あの三元車の発明者、鈴木三元の居住地がこの桑折町である。鈴木三元は明治10年代にこの桑折町で自転車の試作と試走をくり返して、明治14年にここから三元車を東京の勧業博覧会に向けて出発させている。
話の途中だが、こんど『自転車』を複刻した真船高年氏のことにふれる。彼は自転史研究家で、鈴木三元の調査で桑折町へはかなり足を運んでいた。その彼が佐藤半山の出生地が鈴木三元と同じであることを発見したのだ。
 桑折町の調査で発見したのではなく、郡山市の明治期の自転車の使われ方を調べるため県立図書館に通ううち「福島誌上県人会」(大正11年刊)という本の中に佐藤半山の名を発見、鈴木三元と同郷であることをつきとめた。現在の桑折町には半山の記録も記憶もまったく残っていない。ただ、同町は佐藤姓が多いという事実のみが残っている。
 話を戻すが、今回の稿は資料も調査もすべて真船氏の労によっていることをお断りしておく。

「福島誌上県人会」大正12発行
国会図書館所蔵

二人の出会いは不明だが
影響はあったはず
佐藤半山は明治元年に現在の桑折町半田に生まれる。本名は喜四郎――ペンネームの半山は生家近くの半田山からとったものだろう。半田山とはかつて半田銀山として知られ、生野や佐渡とともに明治三大銀山の一つとして栄えたことがある。
 鈴木三元があの三元車を東京へ向けて出発させたのは67歳のときである。半山の喜四郎は13歳、老幼を分けたこの二人に交流があったとは考えられないが、進歩的な思想の持ち主で新しい文明に興味を持ちつづけた三元の影響が半山に及ばなかったことは考えられない。
 半山はやがて上京し学び、自由民権運動に興味を持ち、さらに自転車の雑誌を発行しながら神田区議会議員(現在の千代田区神田)になっている。
 三元の居住地は地名を谷地といい半田の隣りである。素封家であり文明開化好みであり、変った乗りものを試走して回る三元はじゅうぶんに半山の興味をとらえたであうう、三元車の東京への出発を13歳の少年が胸おどらせて見送ったことを想像するのは容易である。そしてペンネームの半山~半田銀山の経営に鈴木三元はタッチしてもいる。
(三元と半山の接触は年齢差から想像できないが、三元は地域での診療活動もしていたらしいことが残された日記でわかってきた。ぼう大な日記の解読が進めば、あるいは三元が少年半山を診療した記録が発見できるかもしれない)
 いずれにせよ、明治期にこの桑折町から自転車に深いかかわりを持つ二人が出たことは興味深い。
 その後の佐藤半山の経歴を現在わかっている資料でたどるとつぎのようになる。

・明治21年、上京、前出の「福島誌上県人会」には東京法学院(現在の中央大学)に学ぶとある。が、同校の設立は明治32年なので、その前身の英吉利法律学校に入学したのであろう。
・明治24年、同校を卒業。23歳である。
・明治26年、自由民権運動を掲げる立憲改進党本部に入り、党報局に3年間勤務し、機関誌等の編集に携わる。立憲改進党は明治29年に解党となるから、半山は最後の3年間これにかかわったことになる。
・明治30年、東京都神田区書記となる。
・明治33年7月に雑誌『自転車』を創刊、発行所名は快進社。編集人、発行人を兼務し、はじめて半山を名乗る。

発行は200号を超す?
後に区議、自転車商に
 ここから半山の自転車とのかかわりがはじまるのだが、快進社の所在地は、神田の小川町から下谷御徒町、ふたたび神田神保町へと何回か変転する。しかし『自転車』の発行は休まずにつづけられていく。
 確たる記録としては、今回複刻されたうちの一冊、第62号(明治39年1月)がそれで、それ以降の号がまだ発見されていないが、大正8年に輪界雑誌社が発行した「日本輪会名鑑」には「自転車雑誌社主幹・佐藤半山」という記録がある。従ってこのころは『自転車』が発行しつづけられていたようだ。
『自転車』は月刊であり、現存している各号を改めると、ときに発行月が翌月にかかることはあるが、定期的に出されている。
だからこのまま継続発行されていると仮すると、大正7年いっぱいで第218号まで号を重ねたと考えられる。
 大正8年までは雑誌にかかわった記録があるが、同11年、つまり前出の「福島誌上県人会」が編集されたときの記録には「現在は自転車商、神田区北神保町一二番地」と記されているから、この前後に『自転車』は廃刊されたと推測される。
 その前後、神田区議をやっているのだが、詳しいことはまだ調べがついていない。それと現在東京都千代田区神田神保町2-11という地番(半山が自転車商として記録されている地番に近い)に佐藤姓を名乗る人が住んでいることもわかったが、まだ接触できていない。
 いずれにせよ、大正12年には関東大震災がありその後の消息はまったくつかめていない。それはこれからの研究をまたねばならない。

自転車愛好層と重なる
民権運動と富裕階層
佐藤半山がイギリス系の法律学校に学び立憲改進党に加わり、やがて自転車雑誌に関与するのは、一見なんの脈絡もないように思う人がいるかもしれない。が、けっしてそうではない。
 日本が近代国家への歩みをはじめる明治の初期、自由民権運動の中核をなしたのは各地の中小ブルジョアジーで商人や小富農たちであった。彼らの運動は明治22年の大日本帝国憲法公布でやや下火になり、その後しだいに力を失っていく、改進党などの政党も離合しつつ大地主や大資本家のための政党に変じていった。
 近代法を学んだ半山が民権運動の一翼を担おうとしたころはそういう時期である。
しかし、面白いことは、明治30年代に自転車を積極的に迎え入れた人たちが同じく民権運動に関心を持つ都市や地方の富裕層だったということである。これらの富裕層は自転車からやがて猟銃、そしてカメラと新しい遊びにも目を向けるゆとりを持っていた。
 半山は改進党の解党後、党活動の基盤となったこれら富裕層の趣味、遊びの分野に目を向けたのではないだろうか。そして、その幼児からの記憶には鈴木三元と三元車 がある。
これがけっしてこじつけでないという証明をするなら、現在、各地で発掘されるオーディナリーなどは、かつて祖父や曾祖父が民権運動の流れをくむ政党活動に加わっていた旧家に多いことがあげられる。
 『自転車』の表紙の変化を見てほしい。フォーマットの変化は別にして、第42号には小さくてわかりにくいが「写真」という文字が入ってくる。第62号にはそれは大きな文字ではっきり見える。これは、自転車のことばかりでなく写真技術の情報も併載しているというサインである。写真関係の情報がこの雑誌に掲載されるようになるのは明治36年12月発行の第37号であって、この号はまだ発見されていないが第36号にその予告が見えている。
 つまり、半山は当時の進歩的な富裕層を対象にして自転車の普及をはかっている。このことは、かなり時流適応の才の所有者であったといっていいだろう。

実用時代の到来、大正期
ついに廃刊を迎える
大正期に入ると、自転車の普及が進み、それはスポーツや遊びの道具という範囲を超えて、いわゆる"丁稚”、小僧”の運搬用具”視されるようになってくる。
半山はそれを予測してか、写真技術を誌面にとり入れたりしているし、雑誌を通しての自転車の販売(いまの通信販売)や、用品類やウェア類の販売も手がけている。
その前からも自転車をあしらった絵ハガキの制作などを試みるなど、今日の輪界に近い動きを見せているが、雑誌は廃刊となる。
次号では『自転車』の内容に立ち入って、当時の自転車事情を紹介してみたい。

季刊「サイクルビジネス」№26 盛夏号、1986年7月24日、ブリヂストン株式会社発行、「知られざる銀輪のわだち」より(一部修正加筆)

2020年11月20日金曜日

門弥の陸船車

 先日、本庄市のHPを見ていたら、門弥の記事が2020年10月1日で更新されていた。

「このたび歴史民俗資料館の増田館長が、多くの研究者の協力を得て門弥の陸船車の構造を研究し、久平次の陸船車はあくまで”世界最古のクランクペダル式を採用した自転車機能”であり、門弥の陸船車こそが”世界最古の自転車機能”である、と結論づける学術論文を発表しました。」

とある。以前「本庄市歴史民俗資料館研究紀要第4号」平成20年3月発行は読んでいるが、この論文は見ていない。ぜひ一読したいものである。

既に門弥についてはご存知と思うが、ここで簡単に触れておく。
この話の端緒は中日本自動車短期大学論叢、第13号、1983年発行の日本自動車史の資料的研究 第7報、250年前、彦根藩士「人力自走車」創製の記録(1729年ー徳川吉宗の代)大須賀和美著

である。

この昭和58年の中日本自動車短期大学の大須賀先生が、久平次の古文書を解読した時から始まる。大須賀氏は「人力自走車」として自動車前史に特記されるべき貴重な資料という観点から調査研究をしていた。

新製陸舟奔車之記4頁より

ところが、2003年に自転車技術史研究家である梶原利夫氏が、産業考古学会総会で、「1728 ~ 1732年のわが国における自転車の発明」と題し発表した。

以下は以前私が書いた日本自転車史研究会のニュースレター第125号、2003年7月11日発行である。

日本人が自転車発明?
産業考古学会総会で、 梶原利夫氏が「1728 ~ 1732年のわが国における自転車の発明」と題し発表。
要旨は下記の毎日新聞の記事を参照。
自転車に初めて乗ったのは日本人だった?――。1861年にフランス人のミショーが発明したとされるペダル式自転車が、それより129年早い享保17(1732)年に日本で誕生していたことを示す史料を、東京の研究家が分析し、模型を復元した。当時の日本の技術水準の高さを示すものと注目される。
 彦根藩士、平石久平次時光(ひらいしくへいじときみつ)(1696~1771年)の「新製陸舟奔車之記」(滋賀県彦根市立図書館所蔵)という文書で、元自転車メーカー技術顧問の梶原利夫さん(60)=東京都北区=が、同文書と添付されていた設計図を分析した。

 文書によると、武州児玉郡(現埼玉県本庄市)で農民が作った「陸船車」と呼ばれる乗り物が江戸で評判となった。坂道も上れる車だったという。江戸屋敷詰めだった彦根藩士が、天文学などで業績を上げていた平石久平次にそれを報告。「陸船車」の動力システムは不明だったため久平次は独自に設計し、享保17年に「新製陸舟車」として完成したとされる。

 「新製陸舟車」は、木枠の舟形で前輪1個、後輪2個の三輪車型。動力は、フライホイール状の円板に、クランクシャフト状の鉄棒を組み込み、ペダル(げた)をこいで進む。文書には「一時に七里(時速約14キロ)走り候」とある。

 この史料は、約20年前に中日本自動車短期大学の教授だった大須賀和美さん(故人)が「自動車前史」として発表したが注目されず、今回梶原さんが自転車としての視点から改めて分析した。
 梶原さんは「1730年代にペダル機構の自転車が日本に存在していたことで、自転車史が塗り替わる」と話している。
 梶原さんは、所属する産業考古学会理事長の川上顕治郎・多摩美術大学教授(生産デザイン)に依頼し「新製陸舟車」の5分の1(全長30センチ)の模型を復元させた。
 川上教授は「『新製陸舟車』のペダル機構はまさに自転車そのもの。安定性から三輪にしたのは当然と思われる。しかし整地が少ない当時の道路事情もあって、普及しなかったのではないか」と話している。【木村知勇】

 自転車博物館(大阪府堺市)の中村博司学芸員の話
 自転車といえば二輪だが三輪は自転車の元祖といえるもの。ペダル機構での人力三輪車は世界的にも1800年代に登場したもの。1700年代に日本でそのような乗り物が誕生していたとすれば驚きだ。日本の技術水準の高さの証明にもなる。[毎日新聞、2003年7月5日]

当時は、このように新聞各紙でも取り上げ話題を呼んだ。
私は以前からあえて自転車と関連付けることはなく、日本で最初の舟形の人力自走車でよいのではと思っている。自動車や自転車の元祖にするにはかなり無理があるのではと考えるからである。単に日本で最初の人力自走車でよく、それだけでも十分価値ある発見である。

 今年のオリンピックは中止になったが、地元の本庄市では2019年の暮れ辺りから、この門弥の自走車を使って、聖火リレーも企てたようだが、残念ながらコロナ禍の影響で中止になってしました。
 当初は、「本年7月9日の聖火リレーでは、この復元陸船車が製作から約10年の時を経て活用されます」

としていた。
しかし、また来年早々にもその企画が復活し実行されるのでないかと思う。
本庄市もそうだが鈴木三元の故郷でもある福島県の桑折町でも現存する最古の自転車と称して三元車を町おこしに利用している。
ある面、この自転車との関連づけにより、更に自転車のよさが見直され、利用者が増えることになれば喜ばしいし、ありがたいことでもある。
だが、門弥の陸船車や久平次の新製陸舟奔車を世界最古とか日本最古の自転車などと理論づけることは、いかがなものであろうか、世界の自転車歴史研究家にこの論理で説明説得し認知されるのは至難である。
いまだにどこの国でも似たような世界最古の自転車発見という話題はつきない。
中国では魯班が自転車を発明とか、印度の古い寺院で発見された自転車レリーフ等もある。
過去にもダヴィンチやイギリスのセント・ジャイルズ教会のステンドグラス、シブラック伯爵のセレリフェール、マクミランなどが話題になったが、いまでは自転車の歴史から消えさろうとしている。

2020年11月18日水曜日

再度、自転車の名称について

 この記事は、1982年(昭和57)1月15日発行の日本自転車史研究会の会報「自轉車」創刊号からである。

当時はまだ、自転車という言葉がどこから来たのか確定していなかったが、その後、交通史研究家の齊藤俊彦氏により調査が行われ、現在では明治3年の竹内寅次郎命名説が定着している。
それ以前にも「自転車」という名称が全くなかったということは断定できないが一応、寅次郎説で決着がついている。

ところで、私の友人であるSさんもそうだが、自転車の蔑称であるチャリという言葉が、いまだに広く使われていて、彼も憤慨している。
自転車を趣味とする人間にとっては、腹立たしい言葉である。
最近では公共放送までが、チャリダーという言葉を平気で使用しているし、ママチャリなどはいまや一般的な呼称になってしまった。
いずれにしても差別用語であることは変わりない。
チャリとはどこから来たのであろうか?いまだに疑問が残るところである。
諸説あるが、よい言葉でないことは確かである。
前置きが長くなったが、会報の記事を以下に載せる。(内容を全般的に見直した)

自転車という名称は、いつ、どこから?
錦絵に見る自転車

自転車という名称が果していつごろから使われたかというと、それは自転車がいつごろから日本に現われたか、と同様むずかしい問題で、現在のところこれといった有力な定説はないようである。
明治3年4月の「東京往来車尽」という芳虎の描いた錦絵には“一人車”という語が見えるし、明治3年7月の「往来車づくし」国政、国貞作の錦絵には"自転車"、"後押自転車”という語が見える。これらの画も見ると、その形は今日の自転車とは大分変わっており、前輪が小さな三輪車の形をして、ちょっとこの画を見ただけでは、その操縦方法がよくわからない。
増訂「明治事物起原」石井研堂著(大正15年)によると、この車について次のように記している。
錦絵に、「一人車」、「後押自転車」、「自転車」等の図を掲げたるを見れば、其形今日の形とは大に違ひ、手にて或る槓杆を進退して、車を進めたるものの如く、何れも三輪にて、実用になりさうもなきものなり
とある。しかし、私がこの画を見たところ、手と足を使って駆動させるように見える。

自在車は本物か
明治3年版「智恵の環」という刊行物には「自在車」という語があり、先の石井研堂氏は、実物を見ざるものの筆なるべし、と記している。確かに実物は見なかったかもしれないが、明らかにこれは黎明期の自転車で、1817 年にドイツ人のドライス男爵が発明したドライジーネである。
その後この型の自転車はイギリスに渡って、ホビー・ホース(Hobby - Horse)、ダンディ・ホース(Dandy-Horse)などと呼ばれた。
もしこの自在車の画が、日本で実物を見て描いたものであればたいへん重大なことになる。と言うのは日本に初めて渡来した自転車は、三輪車かミショー型自転車ということになっている。
もし日本でドライジーネ型の自転車が発見された場合、日本における自転車の歴史は書き替えなければならなくなる。西洋においてドライジーネ型自転車が流行したのは、1820年ごろで、日本では江戸時代の文政年間にあたる。未だ鎖国政策の厳しい時代であるから、日本に自転車が入って来ることは、ほとんど不可能に近い。しかし、このころより日本の沿岸には外国船が多く出没するようになり、なかには上陸した船もあるから、あるいは自転車も日本の土を初めて踏んだ可能性も否定できない。ここでちょっと、この時代の年表を見ると、

1820 年(文政3年)浦賀奉行に相模沿岸の警備を命ずる。
1822年(文政5年)イギリス船浦賀に入港、薪水を要求。
1823年(文政6年)ドイツ人シーボルト、蘭館医として着任。
1824年(文政7年) イギリス船員常陸大津浜に上陸、水戸藩これを逮捕。
1825年(文政8年) 異国船打払令を頒布。

という具合で、シーボルトのような知識人もいたから、たとえ自転車の実物は入ってこなかったとしても、話題にのぼったかもしれない。
だが、このころはまだ西洋でも自転車はめずらしい乗り物であったから、現在一般的に言われているように、やはり1860年以降に日本へ入ってきたとみるほうが無難である。
この自在車の画は、西洋人が持ち込んだ書物を見て描いたものと思われる。

自轉車と自在車

通俗的呼び名
明治3年版流行車尽くしに「のっきり車」というものがあり、粗雑な絵だが明らかにボーンシェーカー型の自転車だ。「のっきり」とはどう言う意味かといえば、「広辞苑」に、のっきる[乗り切る]ノリキリの音便。とあり、のりきる[乗り切る]①乗ったままで最後までゆく。②乗ってつっきる。乗り越える。転じて、難局を突破する。
とある。
今日でも自転車に乗れるようになるにはかなり骨の折れることである。
それこそ、夏目漱石の「自転車日記」にあるように大落五度小落は其の数知らず、或る時は石垣にぶっかって向脛を擦りむき、或る時は、立木に突き当って生爪を剥がす、其苦戦云う許りぶりなし、而して遂に物にならざるなり、
ということで夏目先生は、ついに自転車に乗れるようにはならなかった。
そのほかの呼び名としては、「ガタクリ車」というのがある。がたくりとは、やはり「広辞苑」で調べてみますと、がたがたとゆれ動くさま。「がたくり馬車」とある。イギリスではこの自転車のことをボーンシェーカー(Boneshaker、骨ゆすり)と呼び、これは1861年頃にフランス人のミショー親子が発明したものである。
車輪は前後同径か、あるいはやや前輪の大きい自転車で、初めて前輪にペダルクランクを取り付けたものである。
ガタクリ車の次に登場したのは、今日見ても美しい「だるま車」である。
この自転車は、イギリスではオーディナリー或はペニー・ファージングと呼ばれ、その後、アメリカに渡り、ハイ・ホイール・バイクなどと呼ばれた。
現在でもこの型の自転車は、デパートのディスプレーやいろいろなアクセサリー等の意匠に見ることができる。
「だるま車」という名称の由来は、いまさら説明するまでもなく、あのでんぐり返った、ダルマさんを思い起こせばよい。他に「一輪半」や「高輪車」もある。また地方によっては「ふんころばし」、「糸とり車」もあるようだ。

蔑称では
現在でも地方によって色々と、自転車を馬鹿にした呼び名がある。
先ほどの「チャリ」や「チャリンコ」これに「ママチャリ」や「チャリダー」、「ランチャリ」も入れてもよい。「クリコ」、「ケッタクリ」、「ケッタ」、「ケッタマシーン」など。
チャリは朝鮮語やスリなどから由来しているという説もあるが定かではない。いずれにしてもよい言葉ではない。これはまさしく差別用語である。
明治初期には、新聞などに「馬鹿車」、「バカ車」、「アホ車」なども見える。
さらに酷いのになると、明治12年5月版「東京新誌」第147号には、
「然して之に乗る者はおおむね下等人の刎返り野郎に属し、未だ上等人の乗る者を見ざるなり」
とある。
現代であれば、SNS炎上しそうな過激で挑戦的な言葉が並ぶ。非常に見下した物言いである。

中国や東南アジアに目を向けたい
明治3年4月版「東京日本橋風景」という芳虎の描いた錦絵の中、「片羽自転車」というのがでてくる。これは二輪車で、前後の車輪の間に幼児の補助椅子のようなサドルがあり、これにちょうどスクーターでも乗るような格好で、すわっている。ハンドルも前輪の横あたり並行に出ていて、てこの原理で動くものなのか、地面を足で蹴って進むのか、その駆動方法がよく分からない不思議な自転車である。
日本で初期の自転車を研究する場合、これら一連の錦絵は重要な資料であるが、駆動方式がよく分からない画もある。
私が以前入手したわずかな資料の中に「新刻上海跔自行車」という中国の版画がある。この版画については、ドイツ本の「自転車の二百年史」にも同じものが掲載されているから、ご覧になった方もあるかと思う。
この本によると、1900年ごろの版画とある、上海あたりから明治元年前後の自転車を描いたものが出てくれば、おもしろい。おそらく錦絵と比較すれば何かわかることもありそうだ。
今までのように、ドイタ・フランス・イギリス、およびアメリカばかりに目を向けるのではなく、もっと中国や東南アジアに目を向けてもよいのではないか。
「自行車」という名前から「自在車」が生まれ、そして「自輪車」へ、さらに「自転車」になった可能性も否定できない。上海を経由して日本に自転車が来たという説も可能なのでは?

2020年11月17日火曜日

青春のサイクリング

先般の野地写真帳の中に、興味あるサイクリングの写真と日記があったので紹介したい。

終戦後間もない時期に自転車で富士五湖巡りをした時の写真帳である。
こまめに記録された日記入り写真帳で野地好幸さんの人柄が偲ばれる。
下がその日記入り写真帳である。

その日記によると、
1947年(昭和22)8月4日(月)~5日(火)に富士五湖周遊サイクリングをしている。

8月4日(月)晴れ、サイクル連盟の同志と富士五湖周りを計画し愈々吾の定休日を利用し小生と遠藤、中島、小松の三君と行動せることとせるも小松君病気の為3名にて4日午後零時半中島宅に集合し関本を経て地蔵堂聖天山に至り小山まで下る・・・。

と書きだしている。(一部判読できないところがあったが、適当な字をあてた)
この日記からルートを探ると、
小田原市内(井細田)~関本~足柄峠~紡績工場(富士紡)~一色~須走(茶店で一泊)~籠坂峠~山中湖~吉田~河口湖(当日は湖上祭)~長浜~鳴沢~西湖~氷穴~本栖湖~ここから帰路、精進湖~氷穴~河口湖~吉田~山中湖~籠坂峠~須走(昨日の茶屋で小休止)~山北~江戸川工場~小田原着

解説、(本当は全文を読み下ししたいところだが、ご容赦を)
日記には年号が書かれてなかったが、幸い曜日が入っていたので、これから調べて昭和22年と特定できた。前の方のページに確か昭和21年と書いてあった。
井細田を出発したとは、当時の中島君の自転車店は井細田にあったからである。
因みに中島、遠藤はレース仲間でもあり、それぞれの実家が自転車店であった。
普通であれば国道246号を利用するところだが、あえて困難な足柄峠経由を選んだのは、若さと競技で鍛えた足があるからだろう。当然日頃の練習も兼ねたはずである。帰路は山北経由のコースを選んでいる。
聖天さんから小山までは「酷暑の上道路は悪く特に聖天山より小山までは急坂にて且つ幅狭く小道の為輪行は困難を要せし・・・」
とある。何となくこの記述から情景が浮かぶようである。
「紡績工場の横を通り・・・」
これは駿河小山の富士紡(富士紡績株式会社、明治29年3月設立)のことである。当時は日本でも有数の大工場で、小山と言えば富士紡の時代である。
「須走に到着せるも既に暗くなり・・・茶店にて一泊す」
翌朝は4時半に起床して5時に出発、霊峰富士を左手に見ながら籠坂峠を越える。
8時半頃には河口湖に到着、この日は湖上祭が行われていて、舞台や花火も上がり人出も多く賑やかだったとある。
西湖のある山際を通り、氷穴に向かう。氷穴の中はランニングシャツでは寒く、震えるほどとも、帰路の精進湖付近で好幸さんの自転車の前輪がパンク、しかしパンクの修理はおてのものであったに違いない。
籠坂峠を下った後は前日泊まった茶店で休憩、帰路は下り坂の為楽だったよし、
江戸川工場の横を通り小田原へ。到着は夜の8時半であった。江戸川工場とは、現在の三菱ガス山北工場である。
使用した自転車はレーサータイプで、彼らは当時、アマチュア自転車競技選手であるから当然と思われるが、昭和22年の時代背景では、殆どが黒塗りの実用車であったことを思うと、ハイカラで先進性を感じさせる。当時の自転車店は終戦直後とはいえ徐々に景気もよくなり、その息子たちもある程度裕福だったことを伺わせる。
私が小学生の頃(昭和30年頃)は、近所にあった自転車と言えば、殆ど例外なく黒塗りの実用車であった。小学2年の時にこの大人用の実用車で三角乗りをはじめたのが最初である。周辺ではだれも子供用の自転車には乗っていなかった。
だが、一人だけ近所に居た、彼は医者の息子であった。
いまでは懐かしい思い出である。

日記入り写真帳の一部
1947年(昭和22)8月4日(月)晴れ

籠坂峠付近
後に見えるのが富士山

中島と遠藤
写真右の遠藤さんは競技役員をしていて
昭和50年頃に平塚競輪場でお会いしたことがある

左の写真は野地好幸さん(当時22歳)
河口湖にて

2020年11月16日月曜日

老舗さんぽ ⑩

 今日は自転車でぐるっと老舗散歩をしてきた。

通過も含め行った自転車屋さんは全部で6か所、
まずはいつものコスナサイクルへ。その後、星野、中島、木村、開成町の遠藤、竹田と廻る。
簡単に各店の来歴を書くと、
まずコスナサイクルだが、どういう訳か古い名鑑には載っていないが、恐らく昭和初期の創業でる。現在の店主である小砂恵三さんは三代目になる。初代はリスケさんで、二代目はブンジさんと聞いている。漢字の名前はまだ確認していない。今度訪ねた時にでも聞いてみたい。
三代目の恵三さんも、腕がよく難しい修理もこなしてしまう。私も3回ほど古いパーツの修理をお願いしたが、完璧になおしてくれた。先日もこのお店のブログを見ていたら、いまでは懐かしいBEタイヤの交換の模様をUPしていた。専用のバルブの穴開け工具もでていた。最近ではこの工具も含めBEタイヤの交換をしてくれる店も少なくなったと思う。
今日、小砂さんは出かけていて留守であった。

コスナサイクル
小田原市扇町4-7-3

次に向かったのはコスナサイクルからほど近い星野モーターサイクルである。このお店は戦後に創業したお店で、それでも既に半世紀以上は経っている。訪ね時は丁度店主の星野さんはパンクの修理をしていた。いまではオートバイの販売と修理がメインのようだが、当然自転車の販売と修理もしている。星野さんとの話の中で、先日、富士山ナンバーの車の客が訪ねてきて、「古いパーツか自転車は無いか?」と。丁度、少し古い自転車とパーツがあったので、それを購入して帰ったとのこと。時々、そのような客がいまでも来るようである。
先日の岩瀬谷五郎、岩瀬斧五郎さんのことを聞きましたら、知っていて斧五郎が正しいとのこと、これで先の名鑑の件は解決した。(老舗さんぽ ⑨を参照)
竹の花(小田原市栄町二丁目)にあった鈴甲、鈴作さんのことも聞いたが、どうやら廃業したようである。ただし穴部の方の(株)鈴作商店まだ営業しているとのことであった。

星野モーターサイクル
小田原市扇町2-3-4

次に訪ねたところは、寿町の中島自転車店である。以前は井細田にあったのだが、その後移転している。いまは小田原市下水管理センター近くにある。少しメイン道路から外れているので分かりにくいが、今日は隘路でも入れる自転車で探査しているから都合がよい。すぐにその店を突き止めた。店は閉まっていたが、中島モータースという看板が外壁の右側面にかかっていた。まだ自転車の販売と修理を行っているようである。中島の創業は古く大正期の名鑑にも載っている。

中島自転車店
小田原市寿町5-14-22

次に向かったのは、木村自転車(現在の店名は木村二輪センター)である。現在ではオートバイの販売と修理がメインのようだが、まだ自転車が置いてあるところを見ると、販売と修理も行っているようである。木村自転車店の創業も古くやはり大正5年の名鑑にも載っている。明治40年代後半からの創業の可能性もある。
店は開いていたが、忙しそうなので遠慮した。

木村二輪センター
この写真の店舗は現在使われていない
小田原市多古341

まだ時間が早いので、サイクリングを兼ね、開成町方面に向かう。
2013年に開店した(有)エンドウ商会の開成店を訪ねる。店の中に入るのは初めてである。
店内には最新のロードバイクやクロスバイクが並んでいた。どうも実用車やクラッシクタイプの自転車とは縁遠い(遠藤の洒落ではない)気がした。だがこれが昨今の流行であれば致し方ない。店のレイアウトや雰囲気は申し分ない。
最近の自転車はフロントフォークの形状に違和感がある。殆どがヘッドから伸びる線が斜め直線で、急な方向転換にはよいかもしれないが、危険も伴うように思えてならない。サイクリングでのんびりと長距離を走る場合などは疲れがでるのではと危惧する。昔の美しいブレードのような曲線を多く見ているものとして、なぜかまだなじめないでいる。

CYCLESHOP ENDO 開成店
開成町吉田島781−1

開成町役場の南側に竹田自転車店(竹田モーターサイクル)もあるはずなので、訪ねてみる。
今日はシャッターが閉まっていて、休みのようであった。竹田の創業は古い名鑑に出ていないので戦後であろうか。

竹田モーターサイクル
足柄上郡開成町延沢800