2024年4月27日土曜日

陸奔舟車関連 - 6

陸奔舟車関連 - 6

 「乗合自動車」 加藤盛次郎 著 工業図書㈱ 昭和11年4月23日発行

この本の9頁に陸奔舟車関連の記事あり、

3. 我が國に於ける自動車の沿革

我が國に於ける自動車に関する資料は極めて少い様であるが、滋賀縣彥根町史編纂中、昭和8年5月、同町長松院境内の鐵塔内より徳川時代の天文曆學者彥根藩士平石久平治の古文書を掘出し研究中のところ、計らずも最近に至り平石久平治の發明せる新製船奔車と云ふ乗合の自動車の如き木製乘用車の設計図が發見せられた。之に依ると桐材で造った長さ9尺の小船型、前後と左右に車輪を附けた四輪車で、ハンドルを持ってカラクリを運轉すれば音もなく走り出し、速さは一刻7哩(時速約14㎞)にして、享保18年と記され、今より凡そ200年前に當り、ニコラ=ジョゼフ・キュニョーの蒸汽自動車や、ジェームス・ワットの蒸汽機關が生れよるよりも以前の事であるが、遺憾ながら、カラクリの構造は秘密として發表せられず、當時に於ても此の發明は確かに世人を驚かせ便利なるものであったらうが、流行しなかつた處を見ると、乗用を禁止されたのではないかとも思はれる。

註、新製船奔車は、陸奔舟車のこと。平石久平次は平石久平治ともあり、資料によりまちまちである。

9頁
「乗合自動車」昭和11年4月23日発行
国会図書館所蔵資料

2024年4月26日金曜日

陸奔舟車関連 - 5

 陸奔舟車関連 - 5

「時代文化記録集成」4月分 20号 時代文化研究会 1935年5月15日発行

これも陸奔舟車の記事、


139頁
「時代文化記録集成」
国会図書館所蔵資料


二百年も前に自動車に似た「陸奔車」
(昭和10年4月23日 火曜日 大阪朝日新聞発行 19210號所載)
天文學者の彦根藩士が創製、遺書中から原書發見

江州彦根藩士平石久平治時光は享保年間におる天文學者として知られた人であるが彥根町史編纂史科蒐集中の史蹟研究家中川泉三氏は二十一日時光の子息彌右衛門重實が同町長松院境内の鐵塔中に埋めていた時光の遺書類中からはからずも陸奔車創製の原書を發見した、
陸奔車とは現在の自動車と同じ乗物で享保十八年に完成試乗に成功したもので、大正初期に舶来の自動車をわが國に輸入し騒いだがそれより二百年前に邦人の発明した木製自動車のあることを知つては一驚せざるをえない愉快事で、当の中川氏は「全く今日まで隠れてゐた發明で邦人の誇りである」と雀躍して喜んでゐる。
木製自動車の陸奔車は桐材を使って作られた小舟型の長さ九尺、外面は黒塗、中央に楫を立て、運轉者が自らその楫を執って前進する、舟型の下には四輪車があり二輪は中央の左右に現はれ、二輪は前後につけ車を隠し、その前車、後車を奔車、左右二輪を遊行車と名づけ車は大小ある、速力は一刻に七里を走ると記されてゐるからいまの時間で一時間三里半のスピードが出るわけで進止屈曲も楫によつて自由でその原書の賛辞を訳読すると「手に舞し足にて踏む、實にこの器あり行かんとするものは足下にて住き止まらんと欲せば直に止り、曲らんと欲すれば掌中にて曲る鳴呼奇なる哉」と賛し、機關部は簡単なれど秘して図とせずと斷つてゐるがこの新考案發明品も頑迷な常時の権勢者に容れられず「人間には足がある危險の伴ふ乗物まかりならん」と叩き壊され漸く文書によってのみその会心の創製を鐵塔下に埋め遺したものである。

2024年4月25日木曜日

鉄道博物館

 鉄道博物館

鉄道博物館では企画展「 驚・収蔵展」を開催中。

会 期 2024 年3月9日(土)~6月 17 日(月)まで

鉄道博物館の所在地:〒330-0852 埼玉県さいたま市大宮区大成町3丁目47番

以下は展示品の一部、

丸石のプレミヤ號自動自転車
写真提供:武 邦彦氏
以下同じ




カンガルーのプリミヤのマークが見える

丸石プリミヤ号 1925(大正14)年 案内板より
大正時代の末頃から日本でもオートバイの普及が始まった。このプリミヤ号は、1925 (大正14)年に丸石商会(現在の丸石サイク ル)が販売を開始したもので、製造は神戸の日英自転車製造が担当した。空冷の2サイクルエンジンを備え、ベルト駆動で動くところ が特徴的である。








特殊自転車 (皇太子御成婚記念品) 1959(昭和34)年 案内板より
1959(昭和34)年4月10日、皇太子殿下。 皇太子妃殿下(現在の上皇・上皇后さま)が御成婚される際、日本自転車業界からのお祝いとして、自転車産業の技術の粋を結集して当時の日本で作ることのできる最高の自転車を製作し、両殿下へ献上することになった。皇太子殿下用に1台、皇太子妃殿下用に1台を献上し、それと同型のものが7セット作られ、全国のデパートなどで巡回展示された。これはそのうち皇太子殿下用と同型のもので、自転車産業振興会からのちに交通博物館へ寄贈された。


プリミヤ自動自転車
当時の丸石プリミヤのカタログより



プリミヤ自転車の略歴、

プリミヤは、英国の自転車メーカーで世界的な企業に発展したメーカーの一つ。(Premier プレミアとも表記)

1875年、ウィリアム・ヒルマンとウィリアム・ハーバートが自転車メーカーとして英国のコベントリーで創業、社名はヒルマン&ハーバート・サイクル社。

1876年、この年にジョージ・クーパーも参加し、社名をヒルマン、ハーバート&クーパー株式会社と改名。

1902年、プレミアサイクル株式会社と改名。

1914年、プレミアサイクル株式会社をコベントリープレミア株式会社に変更。

1920年、シンガー社に売却、コベントリープレミアの商標は、その後もシンガー社が引き続き使用し、1927年まで製造を続ける。

日本で初めて販売したのは大阪の角商会で、1911年(明治44)にはプリミヤのカタログも発行している。

日本で丸石商会が一手販売したプリミヤは、神戸市筒井町の日英自転車製造株式会社が製作した日本製のプリミア自転車である。

2024年4月24日水曜日

陸奔舟車関連 - 4

 陸奔舟車関連 - 4

「大分県警察史」 2/2 大分県警察部 昭和18年7月30日発行

これも陸奔舟車関連の記事、


1290頁
「大分県警察史」 
国会図書館所蔵資料


驚ク勿レ自動車ノ元祖ハ我日本二在?

標題を一見した丈では誰しも驚くであらうが實は今を去る二百年も前に今や交通機関の寵兒たる自動車に似た「陸奔車」なるものを創製した話、之は大正十三年四月二十五日付大阪朝日新聞に掲載されたものであるが自動車に対する一の智識でもあり又面白くもあるので其の記事を茲に紹介することにした。

「二百年も前に、自動車に似た”陸奔車”、天文學者の彦根藩士が創製」

江州彦根藩士平石久平治時光は享保年間に於ける天文學者として知られた人であるが彦根町史編纂史料蒐集中の史蹟研究家中川泉三氏はこのほど時光の子息彌右門重實が同町長松院境内の鉄塔中に埋めていた時光の遺書類中からはからずも陸奔車創製の原書を發見した、陸奔車とは現在の自動車と同じ代物で享保十八年に完成試乗に成功したもので大正初期に舶来の自動車を我国に輸入し騒いだが、すでにそれより二百年前に邦人の發明した木製自動車のある事を知つては一驚せざるを得ない愉快事で、当の中川氏 は「全く今日迄隠れて居た發明で邦人の誇りである」と雀躍して喜んで居る、木製自動車の陸奔車は桐材を使って作られた小舟型に長さ九尺で外面は黒塗、中央に楫を立て、運転者が自ら其楫棒を執って前進する、舟型の下には四輪車があり、二輪は中央の左右に現はれ、二輪は前後につけ車を隠し、その前車、後車を奔車、左右二輪を遊行車と名づけ車は大小ある、速力は一刻に七里を走ると記されているからいまの時間で一時間三里半のスピードが出るわけで進止屈曲も楫によつて自由でその原書の賛辞を訳すると 「手に舞し足にて踏む、實にこの器ありて行かんと欲するものは足下にて往き、止まらんと欲せば直ぐに止まり、曲らんと欲せば掌中にて曲る鳴呼奇たる哉」と賛し機関部は簡單なれど秘して図とせずと断って居るが。

この新考案發明品も常時の権勢者に容れられず「人間には足がある、危険の伴う乗物まかりならん」と叩き壊され漸く文書によってのみその會心の創製を鉄塔下に埋め遣したものである。

註、大阪朝日新聞は、1935 年(昭和 10年) 4 月 23 日付である。
平石久平治は平石久平次。


2024年4月23日火曜日

陸奔舟車関連 - 3

 陸奔舟車関連 - 3

「憲友」第29巻6号 軍警会 1935年6月10日発行

この「憲友」の121・122頁に陸奔舟車の以下の記事あり、

陸奔車に関する記錄發見

自動車の發明は日本が最初か

段々研究して行くと世界の科學的發明の最初がどれもこれも日本らしい、たゞどれもこれも 完成しないのが遺憾だが著想だけは確かにいい、大毎紙(大阪毎日新聞)の報道によると自動車の發明が日本が最初らしい記録が出現したといふのである。

江州彦根藩士平石久平治時光は享保年間に於ける天文學者として知られた人だが、彦根町史編纂資料蒐集中の史蹟研究家中川泉三氏は四月二十一日時光の子息彌右衛門 重實が同町長松院境内の鐵塔中に埋めてゐた時光の遺書類中からはからずも陸奔車創製の原書を發見した、陸奔車とは現在の自動車と同じ乗物で享保十八年に完成試乗に成功したもので、それは今から二百年前の事である。

木製自動車の陸奔車は桐材を使って作られた小舟型の長さ九尺、外面に黒塗、中央に揖を立 て、運轉者が自らその揖を執て前進する、舟型の下に四輪車があり、二輪は中央の左右に現われ、二輪は前後につけ車を隠し、その艗車、後車を奔車、左右二輪を遊行車と名づけ、車に大小ある、速力は一刻に七里を走ると記されてゐるから、いまの時間で一時間三里半のスピードが出るわけで、進止屈曲も揖によつて自由で、その原書の讃辭を訳すると、「手に舞し足にて踏む、實にこの器ありて行かんと欲するものに足下にて往き、止まらんと欲せば直に止り、曲らんと欲すれば掌中にて曲る嗚呼奇なる哉」と賛し、機關部は簡単なれど秘して図とせずと斷つて居るが、この新考案發明品も、頑冥な當時の權勢者に容れられず、「人間には足がある、危險の伴ふ乗物まかりならん」と叩き壊にされ、文書によつてのみ會心の創作品を鐵塔下に埋め遺して置いたのである。


2024年4月22日月曜日

仙臺新報 - 7

 仙臺新報 - 7

「仙臺新報」第21号 仙臺新報社 1908年4月号

以下に自轉車大競走會の記事、


16頁
自轉車大競走會
「仙臺新報」第21号
国会図書館所蔵資料

17頁
同上



●自轉車大競走會
來月下旬を期し志田郡古川町輪友曾の主催にて大崎廣土に於て自轉車大競走會を開催する筈なるが元来此壮挙は昨春中の計画にかかり本月末或ひは五月初め開催の筈なりしも青森其他二三縣の撰手は積雪の爲め來曾する能はざるより巳なく來月下旬に日延したる由なるが當日は斯道曲乗の名手津嶋氏も來會し餘興として例の妙技を演ずる筈にて催主等は僅々一日にては見物人に充分の満足を興へ難かるべしと日限を二日間として賞品の如きも一等百五十圓の巨額を呈する事ゆへ各撰手の勇氣も一層振ふべく特に此競走トラックは古川町に接近し居るを以て宿屋の便宜もあり旁々當日の大崎廣土は非常の盛観を呈するなるべし

平石久平次 - 1

 平石久平次 - 1

「彦根市史 」中冊 彦根市 1962年発行

同書の575・576頁に陸奔舟車の考案者である平石久平次に関する記事があるので紹介する。

・・・平石久平次時光の業績に触れておきたい。久平次は弥右弥門繁清の子である。繁清の父の重好は井伊直興に仕え、直定を生んだ大光院の弟に当る。久平次は幼少の頃から、学問を好み、京にでて中根元珪の門に入り、天文暦数を研究した。江戸中期以降にはいくぶん西洋天文学が輸入されたが、はじめは中国で漢訳された西洋天文学を通じて研究される程度であった。その後、徳川吉宗の時代になって、暦学が奨励され、建部賢弘の推挙によって、中根元珪は清の梅文鼎の著書「暦算全書」を研究し、訓点を施して吉宗に献上した。衆知のように寛永禁書令ののち、漢訳西洋天文学書も多く禁書の厄を蒙っていたのだが、元珪は暦学研究のためにこの種の書物の禁をゆるめる必要を建議した。これがもとで、蘭学発展に拍車をかけ、ひいては寛政改暦を実施することができたのだとさえ考えられる。こうした時代の空気を吸って、久平次は元珪から天文暦数を学んだのである。幕府においてもこの方面の関心を示しはじめた時であるから、他藩においても当然天文暦数に対する関心が強まったの は事実であるが、久平次はその先駆者の一人であることにまちがいがない。久平次は馬術もよくしたため、享保九(一七二四)年に、騎馬徒士として召され、玄米四十俵四人扶持を与えられたが、寛保二(一七四二)年には父の隠居にともなって家督を相続し家禄二〇〇石の知行取となった。その後、大津御蔵目付役御蔵奉行等を歴任したが、つねに天文暦数の学を好み、研究を怠らなかった。なかでも、享保九年に彦根で天体を観測し「新製日本天文分野図」を作っている。これによると、彦根の位置を三五度半強としているが、それから、一〇〇年後の文政年間に伊能忠敬が朝鮮人街道を測定した時、彦根伝馬町の位置を三五度一六分とした。このことはいかに久平次の測定技能がすぐれていたかを物語るものである。

享保十七(一七三二)年には陸奔車を作ってもいる。彼はまた多くの公卿に暦学・天文学等を教授したほか、算数・馬術・医術・軍書などに関する著書を五二四部著わした。なかでも「皇極運暦一巻」「大陽大陰授時暦経立成」「井田明疑本朝考」などは有名である。

なお、直弼や長野主膳らも天文学に深い関心を示したが、これは国学の方面から天地自然の原理を究明しようという立場もあったけれど、じつは軍事上必要な着弾距離などの測定に応用すべく、この方面に関心が注がれたといえる。こうした研究があったから、後日、ペリー来航に際し、相州警備の役にも立ったのである。 彦根藩の斯学に対する関心の深さは現に「反射望遠鏡」や「天体儀」が残っており、また天体観測の記録や、天体日月に関する記録を現存していることからも、容易に想像できる。


2024年4月21日日曜日

義塾での初レース

 義塾での初レース

「慶應義塾學報」第4号 慶應義塾學報發行所 1898年(明治31年)6月発行

慶應義塾で初の自転車競技、

「慶應義塾學報」80頁に、

自転車競技 1等賞 鶴田勝三、2等賞 伊東吉二


81頁
「慶應義塾學報」第4号
国会図書館所蔵資料


●自轉車競争
はじめての競技とて中々に目新らしく又乘手皆練習の功を積みて甚た巧みに其運動場を乗り 廻したるときは觀者却て眩する計りなりき又曲乗は大に衆の喝采を博せり

●技事珍報
塾友記者玉田廣氏服部貞郎氏等の思ひつ きにて當日技事珍報と名け名の示す如く競技中の奇事珍事を早ずり器械にて印刷し場内に之を發賣せり其報導の迅速にして機敏に、且つ趣味津々たるには一般の賞する所となれり

「技事珍報号外」
明治31年頃
日本自転車史研究会所蔵資料

石川商会の広告
「慶應義塾學報」第4号の巻末

明治31年式米國製自轉車
特約輸入廣告
米國シンシナチー市シルーター自轉車製造會社
米國シカゴ市ミード及びプレンチス商會

直輸出入業
橫濱市野毛町三丁目百四十七番地
石川商會

2024年4月20日土曜日

三光舍の広告

 三光舍の広告

下の写真は、三光舍の広告

「サイクリング・ハンドブック」サイクル時報社 1956年10月1日発行


三光舍の広告
国会図書館所蔵資料


工作の精密であること
扱易い機構であること
交換ギヤの豊富なこと
フリー・ハブ・変速機を一貫生産していること
三光舎製品はどの 条件でもトップクラス です。

三光舎製品はサイクリストと共に常に前進しております。

株式会社 三光舍
東京都板橋区志村中台町1 

たのしくのれるサンスターサイクリング車

「サイクル」表紙
1956年8月号
三光舎
資料提供:渋谷良二氏

サンスター自転車980型
「商工経済」第10巻 第9号 経済通信社
1957年(昭和32年)9月1日発行
国会図書館所蔵資料

2024年4月19日金曜日

慶應義塾自轉車規約

 慶應義塾自轉車規約

「慶應義塾學報」第54号 1902年(明治35年)7月15日発行


91頁
慶應義塾自轉車規約
国会図書館所蔵資料


○義塾自轉車規約(その一部)
義塾々員及び塾生中の有志者は、過般自轉車俱樂部を組織し、時々部員の遠乗を催し居りしが、今度左の如き規約を設け、且つ左の諸氏を役員に舉げたり。

役員、
福澤一太郎、清岡那之助、松井康義、石河幹明、吉田東洋、 田村彰一、山本昌弐、山道梅太郎、星井壽助、柿本利一、中島甚三郎、瓜生雪雄

註、部長の福澤 一太郎(ふくざわ いちたろう、1863年11月22日 -1938年6月4日)は、日本の教育家。慶應義塾創始者福澤諭吉と錦夫妻の長男である。


「技事珍報号外」
明治31年頃
日本自転車史研究会所蔵資料
「技事珍報」は当時の塾生によって発行された

「技事珍報号外」、
来賓諸君の眼を注記居たる双輪倶楽部自転車競走の勝利は遂に鶴田勝三君に帰したり
次の号外は六百ヤード競走の勝敗決したる時にいたすべし


「清輪」第7号 清輪社
 1905年9月15日発行
本誌顧問子爵 松井康義氏 如蓮號
国会図書館所蔵資料

註、松井 康義(まつい やすよし、1871年7月5日 - 1915年10月15日)は、旧川越藩藩主・松井松平家14代当主。

2024年4月18日木曜日

仙臺新報 - 6

 仙臺新報 - 6

「仙臺新報」第20号 仙臺新報社 1908年2月号

下は「自転車の売行」の記事。


「仙臺新報」第20号
国会図書館所蔵資料
以下同じ




●自轉車の賣行
美麗に装飾を施したる軟弱の和製品並びにフレームパイプ地金等を未成品稅率の下に輸入し内地に於て蠟吹き仕上げを加へたる車輛は昨年春頃一時賣行盛んなりしも實用に適せざる爲め昨今賣行滅切り少なく之に反しスヰフト號、ピアス號は 目下降雪の季節にも拘はらず賣行最とも盛んにて志田郡古川町の如きは一時に五臺のスヰフト號を購入し且つクラブエツキスフレームの如きもの賣行多く本縣警察署中古川佐沼等はスヰフト號を飯野川岩出山等にてはピアス號を買入れたりといふ。

2024年4月17日水曜日

見開き広告

 見開き広告

下は新聞の見開き広告。

新聞広告に大きく自転車が載っていたので、保存していたもの。

自転車は英国のパシュレーであろうか。

ウールで交際しませんか
やさしい、あたたかい、コンフォタブル
メリノ・コンフォート
新聞広告 16、17頁
1991年9月6日(金)朝日新聞

裏面には放置自転車の記事



放置自転車200台 横浜→ドミニカ
捨てられた私ですが
途上国で役立ちます

駅前などに置き去りにされた日本の中古自転車が、中南米やアフリカ、アジア諸国で役立っている。総務庁によると、沖縄を除く全国の市や区、大都市圏の町村の放置自転車は約八十万台。新品同様のものを含め、自治体が撤去した約三分の一は引き取り手のないまま処分される。そこでリサイクルと海外援助の一石二鳥を狙って、放置自転車を途上国に贈る自治体が少しずつ増えているのだ。この夏、横浜市から二百台を贈られた中米ドミニカ共和国の郵便局を訪ねた。(文・写真 三山 喬)


2024年4月16日火曜日

南洋號

 南洋號

「旅人の友」渋谷金次郎 大正11年11月15日発行

註、下記の記事にはちょっとした日本での黎明期の自転車史を垣間見ることが出来る。

「南洋號」の屋号は、当初この店で販売していた自転車のブランド名と思われる。

大正期になると南洋號商會は自転車からオート三輪の販売へと進化している。


75頁「旅人の友」
国会図書館所蔵資料
以下同じ

76、77頁


南洋號
(高松市西新通町)
南洋號商會は輪界模範卸商といふ金銘を打ち四國の雙輪王を任じて町に立派な商店を開ひてゐる
店主橋本秀太郎氏は若い時から輪界に入って多年研究を重ねた人であるが以前から阪神に於る雙輪商と連絡を取り現代的營業振りを發揮し盛んに取引をしてゐたがその後大阪西區新町と神戸市栄町に堂々たる店舗を張つてゐる株式會社石丸商會の株主となり同商會の四國、 九州の一手販賣擴張主任として非凡の手腕を揮ひつつあるが早くも香川縣の輪業界を壓し南洋號の威名は隆々旭日の如く揚りつつある
氏は元と香川郡安原村の出身にて幼時から神童と唄はれた俊才にて併かも眉目清秀にして溢るる許りの愛嬌と一種の商才を有してゐるから氏に接する者は何れも一層その親しみを感じ 且つ人格者たることを知るであらう
抑も自轉車の輸入されたのは明治十四五年頃印刷局に三輪車の到着したのが始めでこの頃頻りに行はれたのは三輪車又は椅子形三輪車で何れも木製であつたが外人中には俗に一輪車と稱する達摩形二輪車を用ゐたものもあつた、明治二十一・二年頃丸亀聯隊など陸軍方面では木製鐵輪の雙輪車を數輛伝令用に買入れたこともあつた、二十八・九年頃空氣入安全車輪が輸入されてから大に流行し東京では二十九年の天長節に自轉車俱樂部を設け競走、遠乗など行はれ陸軍では自轉車隊を設け警察、郵便電信局でもこれを實用するに至り斯くて全國一般に盛んになり香川縣でも九年前參圓の車税が壹圓五拾錢に減稅したので俄かに其数を増加し今日の盛大を来たした譯である、要するに尚ほ前途有望なる輪界に氏のやうな勇氣と誠意ある人が縱橫商才を振ひつつあるのは心強く感じる。

輪界興信名鑑 昭和3年度版 西部日本

2024年4月15日月曜日

仙臺新報 - 5

 仙臺新報 - 5

「仙臺新報」第20号 仙臺新報社 1908年2月号

下の記事は、河原崎権之助と自轉車の記事。

註、河原崎権之助(かわらさき ごんのすけ)は、 歌舞伎役者の名跡 。 屋号は山崎屋 。江戸河原崎座座元の名跡でもある。この記事の河原崎権之助は八代目と思われる。


「仙臺新報」第20号 
国会図書館所蔵資料

權之助と自轉車

俳優中での自轉車狂なる河原崎権之助が自轉車に乗る功徳の大なる事を稱賛し居るが其言ふ處に依れば五つの便益を具へ居れり

一、従来の柔弱怯懦なる俳優の精神を强健に且つ確固ならしむ

二、男地獄的の服装を一變して自然にその氣象をも改善せしむ

三、他の社會に見るを得ざる一種忌むべき門閥の陋習を破り上下平等の源を開くことを得べし

四、婦人に接近する場合を少くして悪しき遊びより遠ざからしむ

五、遠足を屢次する爲め種々の観察を廣くし藝道に裨益するに至るべし

斯く見來れば自轉車なるものは何れの社會にも通じて多大の便利と功徳とを有するものなる事を知るなり、とはまた遅し、之れ等は疾くに社會の凡てに認識せられたるものにして我が東北に於て始めて新らしき云ひ條なるべきか呵々。


2024年4月14日日曜日

仙臺新報 - 4

 仙臺新報 - 4

「仙臺新報」第20号 仙臺新報社 1908年2月号

下の記事は「自轉車撰擇の要訣」である。


「仙臺新報」第20号
国会図書館所蔵資料
以下同じ



●自轉車撰擇の要訣
英國倫敦体育會長セレリベル氏自轉車の選擇法を曰く「自転車は中古を買うべからず」、「自轉車の購入は最も有名なる會社を選べ」、「自轉車の撰擇は外観よりも實質を重んぜよ」、「自轉車の購入は必ず信用ある商人の手に於てせよ」の四條を挙げ之が注意事項として「クランクの堅牢」「ギャの精良」「チェインの善惡」「フレームの鋼質」「タイヤの良否」「把手の釣合等」を列舉せられたり。


2024年4月13日土曜日

輪業世界 - 6

 輪業世界 - 6

「輪業世界」第40号 大正10年6月15日発行

下は、「輪業世界」第40号の広告など、

トート號、レクセン號、ダビス號
 自轉車製造所
㈱競輪社
本社 東京市小石川區水道端一ノ二八

ニーホム號、セイロン號、ニュースワン號
松田商店
小林利三郎商店
疋田製作所
高野商店

トライアンフ自転車
トライアンフ自動自転車

二人乗り新型フライヤー 1921年式
スクーター
オートサンリン
中央貿易株式會社

みつびしアセチレン自転車ランプ
磯村合名会社

磯村合名は磯村産業に改組
ガスマントルの磯村合名會社として明治四十二年に産れ出た同社は其後工業薬品、アセチリン燈から進んで窒素、水素の製造装置等の製作に移り、近頃は瓦斯ストーヴ、瓦斯湯沸器で氣を吐いてゐられるが今回業務の發展と共に營業の擴張を行ふことになり、今般株式組織に改組したその方法は磯村產業株式會社資本金六十萬圓(拂込四分の一つ)を創立して磯村合名會社資本百八十萬圓(拂込百二十萬圓)を合併し、名稱は磯村產業株式會社となし營業をなすものであり、これが役員として社長は磯村乙巳(舊磯村合名會社代表社員)專務小田村有芳、取締役眞鍋十藏、磯村利水、磯村秀策、眞鍋左武助諸氏である、猶又芝區今入町三番地に堂々たる四階建のビルディングを建設し、十二月十四日完成と共に移轉し、同系の保土ヶ谷曹達、金星商会も二十日に移轉し磯村系の會社がここに全部集まる模様である。
(瓦斯の世界 、 瓦斯の世界社 1937年1月発行より)

最新理想的高級車
乃木號自轉車
製造發賣元
粂野領太郎商店
東京市深川區東森下町四〇

日本自転車宝鑑 輪界新報社
大正14年発行
国会図書館所蔵資料

2024年4月12日金曜日

輪業世界 - 5

 輪業世界 - 5

「輪業世界」第40号 大正10年6月15日発行

下は、「輪業世界」第40号の広告など、

東京輪士会選手10哩競走
羽田グランド
吉野仁一君(ノートン)
横川英喜君(トライアンフ自動自転車)
柳田弥吉君(ロッキー)
木村寅一君(サフヤ)など

スパークブルック號自轉車
スワロー號自轉車
スペシアル號自轉車
帝愛號自轉車
東京市日本橋區蠣殼町三丁目一番地
飯塚德藏商店

エムエスエー號
デムラー號
自轉車發賣元
東京市日本橋區新材木町八
小宮山長造商店

註、小宮山長造は当時の花形選手であった。東京では他に鶴田勝三、毛利 正、竹内仙之助、渡辺亀吉、佐藤彦吉、小坂又造、佐藤真平、荒磯次郎、大阪では石井大三郎、鈴鹿光一などがいた。
彼は石川商会のお抱え選手でもあり、毛利 正とともにピアス号に乗っていて、この自転車の販売に大きく貢献している。


2024年4月11日木曜日

仙臺新報 - 3

 仙臺新報 - 3

「仙臺新報」第19号 仙臺新報社 1908年(明治41年)1月号

下は「年賀と自転車」の記事。


「仙臺新報」第19号
国会図書館所蔵資料
以下同じ


●年賀と自轉車

那珂博士と田中館博士とは本年の元旦も相變らず自轉車年賀をやるであらうが、両博士は共に岩手縣出身の人であつて何れも大の愛輪家である。殊に田中館博士の如きは極めて邊幅を装らない洒脱な性質で、雨などが降ると油紙を赤毛布の様に被って自轉車へ乗つて廻ると云う始末、元旦の参内の時に那珂博士が乗輪して居るのを田中舘博士が見て、イヤ規則に參内を禁じてないから我も乗って行こうと云ふので乗り始めた。で、両博士は例年自転車で参内するので宮内省の小使は大に閉口する。他の人々は二人曳の人力車か又は馬車てあるから各自の車夫馬丁御者等が乗用車の始末をするが自轉車はさうはいかない。年賀の礼が済んで帰るまでは是非小使が姿勢を正して自轉車の番をさせらる、と云ふので小使部屋では大コボシを爲て居るさうである。

註、●田中舘 愛橘(たなかだて あいきつ、1856年10月16日~1952年5月21日)

地球物理学者、東京帝国大学名誉教授、帝国学士院会員、文化勲章受章。

●那珂 通世(なか みちよ、1851年2月6日~1908年3月2日)
南部藩出身の明治時代の歴史学者、「東洋史」創唱者、文学博士。

2024年4月10日水曜日

トーマス・スティ-ブンスの記事

 トーマス・スティ-ブンスの記事

「娯楽倶楽部」 (社会叢書 第3巻) 明治28年8月発行

にトーマス・スティ-ブンスの世界旅行についての記事あり。


82.83頁
「娯楽倶楽部」 (社会叢書 第3巻) 
国会図書館所蔵資料


自轉車旅行、
米國には現に六萬人の自轉車乘者あり米人の中には、千八百八十七年(1887年)一年中に八千哩を走れる者ありまた七千哩を走れる者あり更に驚く可きは米人トーマス、ステヴンスは千八百八十四年(1884年)四月自轉車乗じて桑港(サンフランシスコ)を出發し米大陸を横断して波士敦(ボストン)に到り海を越へて英國に着し日耳曼(ドイツ)、奥地利(オーストリア)、小亞細亞、アルメニア、波斯(ペルシャ)、亞富汗(アフガニスタン)、印度、支那を経てまた米國に帰り自轉車にて世界一週をなせる者の嚆矢となれるなり、其後自轉車世界一週者の数次第に増加し来れり、兎に角自轉車の發達の速やかなる流布の廣き實に驚く可き一現象と云はざる可からず。 

2024年4月9日火曜日

自動自轉車で鎌倉大仏

自動自轉車で鎌倉大仏

「自動車」 第1巻 第3号 日本自動車倶楽部横浜支部 1913年(大正2年)2月15日発行

自動自轉車俱樂部のメンバーが、鎌倉大仏の前で記念撮影。

註、一番下にあるフランク・レンツの写真(1892年撮影)を思い出す。


「自動車」 第1巻 第3号
国会図書館所蔵資料

自動自転車の部分を拡大

自動自転車の銘柄は不鮮明で判然としないが、当時人気のあったトライアンフ、エクセルシャー、ヘンダーソン、ロイヤル エンフィールドあたりであろうか。

自動自轉車愛輪家の大佛見物

自動自轉車俱樂部中に於ても特に元氣旺盛なる會員は、 過日鎌倉に遠乗し彼の有名なる古跡大佛前に於て撮影したるものなり、今左より其の姓名を列記すれば、「エッチ・エフ・バウアー」氏、「ジー・イー・エングストローム」氏、「エー・ダーリン」氏、「ジー・チャールズワース」氏、及び「ティー・ギルバート」氏なり、

MOTOR-CYCLISTS PAYING A VISIT TO DAIBUTSU.

The most enterprising Members of the contemplated Motor-Cycle Club recently went to Kamakura on their machines and at the feet of the thousand year old, venerable statue of Buddha the party had their picture taken. They are from left to right: H. F. Bauer, G. E. Engstrom, A. Dahlin, G. Charlesworth and T. Gilbert.

大仏を訪れたバイク乗り達、

最近、モーターサイクルクラブの最も進取的なメンバーは、バイクで鎌倉に行き、千年前の由緒ある大仏の前で写真を撮った。

左から: H. F. バウアー、G. E. エングストローム、A. ダーリン、G. チャールズワース、T. ギルバート。


鎌倉の大仏
 中央にフランク・レンツとビクター号が見える
1892 年 11 月 19日
「The Lost Cyclist」 by David Herlihy 2011 年発行 220 頁