2026年5月6日水曜日

ホイール誌

 ホイール誌

第8巻第1号

ニューヨーク、1891年8月28日発行

先週、ゴルマリー&ジェフリー社の新型ダイヤモンドフレーム・ランブラーを徹底的にテストする機会に恵まれた。クッションタイヤが装着され、乗り心地は極めて快適で、振動は最小限に抑えられていた。また、石畳ではスプリングフレームの軽快な旋回が印象的だった。ハンドル操作は素晴らしく、軽いステアリングも大きなメリットである。ステアリングは非常に安定しており、ほぼ自動運転のようでもある。初心者でもハンズフリーで問題なく走行できる。下り坂では、ベアリングが惰性走行で力を発揮し、上り坂では優れた登坂性能を発揮され、全体として、この自転車は嬉しい驚きであった。購入を検討される方は、一度試乗すれば、これ以上のもので満足することはないはずである。私たちが提案できる唯一の改善点は、同じモデル(これは非常に優れたモデルで、新しいダイヤモンド・フレームが完璧に支えている)の軽量化である。これは、優れたライディングエリアに恵まれた、より軽量で経験豊富なライダー向けである。そのような自転車はまさに究極のものとなるだろう。しかし、アメリカの田舎道を毎日走り回る平均的なライダーにとって、この自転車はその価値を証明するだろう。ランブラーのようなスプリングフレーム、クッションタイヤの自転車が手に入るのであれば、空気圧式ホイールを頭に思い浮かべる必要はない。

ゴーマリー&ジェフェリー・マニュファクチャリング・カンパニー


表紙

図はツーリスト号


広告、「ツーリスト」輸入業者
シンプルな構造、安定したステアリング、クッションタイヤ、ボウンボールベアリング
英国バーミンガムのWM. BOWM社製
ジオ・R・ビッドウェル・サイクル社

自転車競技案内、ロードアイランド・ホイールメンズ
第3回トーナメント 1891年9月5日開催
ロードアイランド州プロビデンス、ナラガンセット公園にて

2026年5月5日火曜日

スティーブンス関連

 スティーブンス関連

下の資料にトーマス・スティ-ブンスと日本に関する記事があったので紹介する。

ザ・ホイールメン・ガゼット誌 1888年8月号


127
THE WHEELMEN'S GAZETTE.
August 1888

日本では、物乞いに嫌悪感を抱くようなことはない。物乞いは、他のいくつかの国々と同様に、ここでは立派な職業として認められている。日本の物乞いは、礼儀正しく誠実かつ模範的である。店主をはじめとする人々は、物乞いの掛け声にいちいち対応する手間を省くため、店の前に小さな銅貨を何枚か吊るしておくのが習慣である。壁の釘一本一本に銅貨を掛けておくのである。物乞いがやって来ると、その銅貨を見て、何のためにそこにあるのかを理解し、近づいて一枚を財布に入れる。慈悲深い店主が自分に寄せてくれた信頼を裏切って、二枚以上受け取るようなことは決してない。
トーマス・スティーブンス

2026年5月4日月曜日

スプリングフィールド・ホイールメンズ・ガゼット 誌

 スプリングフィールド・ホイールメンズ・ガゼット誌

月刊・サイクリング専門誌

第11巻 第1号

マサチューセッツ州スプリングフィールド、1884年5月号


ストッダード、ラヴァリング&カンパニー
ミルクストリート10番地
マサチューセッツ州ボストン
ブリティッシュ・チャレンジの米国総代理店
ラッヂ・ライト・ロードスター
コーリー・ヒルを登り切った唯一のダルマ自転車。
52インチ、走行準備完了時の重量は34ポンド。1883年のリーグ選手権はこの自転車で優勝し、1マイルを2分53秒で走破した。
仕様:両輪に調整式ボールベアリング、丸型バックボーン。中空楕円形フロントフォーク、セミチューブラーリアフォーク、湾曲中空ハンドルバー、クレメント中空フェロー、接線方向スポーク、ボールペダル、標準仕上げ。バックボーン、フォーク、フェロー、スポークはエナメル塗装、その他のパーツはニッケルメッキ。
価格:50インチ、140.00ドル。


スプリングフィールド・ホイールメンズ・ガゼット 誌
1884年5月号

註、『THE SPRINGFIELD WHEELMEN’S GAZETTE』は、1880年代前半のアメリカ・マサチューセッツ州スプリングフィールドで発行された、地域密着型の月刊自転車雑誌で、レース結果・技術情報・クラブ活動・業界ニュースを中心に扱った刊行物。
創刊は、1883年  

2026年5月3日日曜日

自転車世界一周 - 11

自転車世界一周 - 11  

「自転車世界一周」ジョン・フォスター・フレイザー著

 1899年発行

註、『Round the World on a Wheel』(1899) は、 John Foster Fraser、 S. Edward Lunn、 F. H. Lowe の3人が、1896〜1898年にかけて世界一周を自転車で走破した記録。以下は日本旅行の部分、その11。

 ペースメーカーのおかげで、時速16マイルで走った。古き良き奈良を出発し、2時間ちょっとで、古い街並みが広がる京都に到着した。

1868年、天皇が京都から新都の東京へ向かう際、先祖代々の装束を身にまとっていた。絹の衣をまとい、冠(立纓)は漆塗りの硬いものであった。数百人の神官たちが、俗人の目に触れないよう常に閉じられた金箔張りの鳳輦で移動した。周囲の武士たちは古風な鎧を身に着け、高く掲げた巨大な両手剣を携えていた。侍従たちは錦織の衣装をまとっていた。

10年後、天皇は京都に戻った。日本は文明を身にまとい、天皇は列車で旅をし、フロックコートと絹の帽子を身に着け、普通の人間のように歩き、宮殿へ行くときは、2頭の栗毛の馬に引かれた立派な馬車に乗っていた。このようにして日本は進歩したのである。

私たちは京都で3日間を過ごし、駆け回り、無数の神々などを見物した。その3日間で見た
神々や龍、寺院の数は、他の場所で2週間かけて見た数よりも多い。

しかし、私たちの中に、神々について互いに熱狂する人はいなかった。神々に関しては、私たちはすっかり飽きてしまっていた。

書斎に神像を置くのは素晴らしいことである。それを寒山、鬼子母神、須佐之、六部天など、好きなように呼んで構わない。しかし、その名前を知らない確率は100分の1である。あなたの友人が知らない確率は100万分の1で、彼らはあなたが知っていると思っている。だからそれでいいのである。

神像には確かに利点がある。奥様は植物標本を吸取紙に押し付ける際の重石として使えるかもしれないし、1歳の息子は神像の耳をかじって歯が生えるのを助けることができるかもしれない。

最悪の場合でも、温室にあるいつものシダや白塗りの石の中にあっても、それほど悪くは見えないだろう。温室では、シャツの袖口を汚し、自分がアマチュア園芸家であるという心地よい錯覚の中で居られる。

私たちは何千もの京都の神像を見た。それらは面白くなく、あまりにも混雑していた。そして、混雑した神像は威厳に見えない。私たちは千手観音立像を祀る三十三間堂に行った。その建物はアールズ・コートの大劇場を思い出させた。そこには何千もの神々が、何段にも並んでいた。皆、高さ5フィート、金色で、皆同じよう並んでいる。これほど多くの神々が集まったことはかつてなかった。中央には、巨大な観音像が鎮座していた。

観音菩薩が神か女神かは、あなたの好み次第である。ここでは、観音菩薩は、くすんだ金色の人物像で、頭は一つだけである。場所によっては、観音菩薩は多くの頭を持ち、時には馬の頭であり、千手でもある。千手とは、もちろん四十本の腕のことで、これらの腕には、法輪、蓮華、数珠・浄瓶・剣・宝珠・弓矢・羂索などが握られている。この観音像の頭部には、本物の頭蓋骨が入っていると云われる。700年前、ある天皇が重度の慢性頭痛に悩まされていた。当時は薬やホメオパシー療法などなく、天皇は当時の慣習に従って社寺巡礼を行い、痛みの緩和を求めた。ある夜、天皇が熱心に祈っていると、幻影が現れた。幻影は、天皇が前世で敬虔な僧侶であり、その善行によって天皇の位に昇ったと告げた。しかし、不幸にも前世の頭蓋骨は川底に沈んでおり、そこから柳の木が生え、風が吹くと木が揺れ、それが頭痛の原因となっていたのである。そこで翌朝、天皇は頭蓋骨を探しに行き、見つけると観音像の頭部に納めた。それが今、そこにある。私は実際に見たわけではないが、この話は信じたいと思う。
私たちは三光神の門を持つ天神様に行き、奇想天外で詩的な名前を持つ曲がった木々を見た。また、大徳寺の彫刻を見学し、狩野 探幽など、聞いたこともない画家たちが描いた絵画を鑑賞した。

445頁

446頁

2026年5月2日土曜日

自轉車瓦版 第108号

 自轉車瓦版 第108号

昭和61年2月13日発行

★E、バウアー氏からの手紙、拝啓 ライン河の増水で河沿の木々も水の下になる程一時は寒さがゆるみましたが、ここのところ又青空があおげ、代わりに真冬の寒さに戻ったボンです。大変興味深く絵入りの年賀状を有難うございました。 又、追って多くの日本の資料が届きました。どれも興味ある大変参考になる資料で喜んでおります。さて、以前のお手紙にありました質問にお答えします。西ドイツには個人的に自転車史等研究する人は居てもグループやクラブはありません。従って会報誌、機関誌もありません。自転車コレクションにつきましては個人の収集家はいないらしく、「二輸車博物館(ZWEI RAD MUSEUM)」に集められ、その所有の台数は70台にのぼります。この博物館のカタログももらいましたので、それをその町の案内図・ハガキ、又は先日偶然スイスで見っけた自転車工場の古いポスターのハガキと共に別便でお送りします。もしドイツにいらっしゃる機会がございましたら、その地図を持って是非訪ねてみて下さい。 なお、カタログには自転車以外の二輪車も載っています。昨年開かれた自転車発明家DRAIS (ドライス)の展示会の目録を手に入れましたので、昨年末にお送りしました。又、私の知人ラウク (RAUCK) が、日本滞在中に書いた小論文のコピーを上記のものと一緒にお送りします。彼はマスター論文でこのドライスの生涯を扱っていますので、その論文も手に入り次第お送りしたいと思います。二輪車博物館の情報から他の博物館又は古乗物協会という存在がわかって、その中の自転車担当の方に私は問い合わせの手紙を出しました。返事が来るまで暫くお待ち下さい。

敬具 1986.2.6、Dr. Erich Pauer ,  Japanologisches Seminar der Universität Bonn

ドイツのBrennabor-Werke
資料提供:E、バウアー氏

〇ドイツのBrennabor-Werke(ブレンナボア製作所)の1920年代自転車カタログ。
 創業: 1871年にライヒシュタイン兄弟によって設立。ドイツのブランデンブルク・アン・デア・ハーフェル。かつては欧州最大の自転車メーカーの一つであった。
 Brennabor 3 Neues leichtes Turenrad(新型軽量ツーリング車)。
価格: 全3サイズ一律 150マルク。70インチのギア比、楕円形スチール製クランク、空気圧タイヤ(Pneumatiks)などを装備。
Brennabor 7 Neues feines leichtes Turenrad(新型上質軽量ツーリング車)。
 価格: 全3サイズ一律 180マルク。「Brennabor 3」より上位の豪華モデル。ニッケル仕様のリムや最高級のサドルが使われ、15マルクの追加で木製リムへの変更も可能。

自転車文化センター45周年

 自転車文化センター45周年

自転車文化センターの開館45周年を記念して、交通ルールに関する企画が開催されている。イベント内容: 「自転車青切符制度」に関するクイズに挑戦し、展示を見ながら参加すると、抽選で記念品が当たる企画。
開催期間: 2026年5月1日から開始され、記念品がなくなり次第終了。
会場: 自転車文化センターのギャラリー・ライブラリーにて。

イベントのポスター
自転車文化センター

2026年5月1日金曜日

「オーストラリアン・サイクリスト」誌

 「オーストラリアン・サイクリスト」誌

 「Australian Cyclist」(オーストラリアン・サイクリスト)誌は、1890年代からのオーストラリアの自転車界にとって中心的な情報源であった。

内容は、レース結果・クラブニュース・自転車広告・業界動向など。

サイクリング・ジャーナリズムの分野に参入するにあたり、少し説明をすると、その使命は、ビクトリア州だけでなく、南十字星の下にあるすべての土地で、レース、ツーリング、そしてサイクリングを促進することである。この植民地では以前にもサイクリング雑誌が発行されていた。最初に発行されたのは「ザ・バイシクル」で、10年以上前に数ヶ月間発行された。その後、「バイシクリング・ニュース」が18ヶ月で廃刊となり、さらに「オーストラリアン・サイクリング・ニュース」が1889年まで。その後、「オーストラリアン・ホイールメン」が、わずかな期間に登場した。

西オーストラリア州パースからニュージーランドのクライストチャーチ、タスマニア州ホバートからポートダーウィンまで、この広大な地域にサイクリングを普及させることで、自転車愛好家の心を結びつける。・・・


「オーストラリアン・サイクリスト」
メルボルン、1893年9月7日発行
創刊号

「オーストラリアン・サイクリスト」
1898年12月1日号
アッシャーの「トライアド」チェーンレス3段変速自転車
現代における最大の発明
50インチ、70インチ、116インチの3段変速ギア。走行中でも、衝撃、摩擦、騒音なしに瞬時に切り替え可能。最小限の動力で最大限の速度を実現。快適さ、優雅さ、経済性を兼ね備えているため、大きなメリットとなる。
この機構は、あらゆる自転車に適用可能である。

註、『Australian Cyclist』誌の創刊は、1893年9月7日である。

ビクトリア州のメルボルンで誕生したこの雑誌は、当初は週刊誌として発行され、瞬く間にオーストラリアを代表する自転車専門誌となった。
その後、1905年頃まで発行されたが、自転車ブームの終焉とともに、雑誌の内容も徐々に自動車やモターバイクの普及を支持する内容へと変遷した。