自転車世界一周 - 3
「自転車世界一周」ジョン・フォスター・フレイザー著
1899年発行
註、『Round the World on a Wheel』(1899) は、 John Foster Fraser、 S. Edward Lunn、 F. H. Lowe の3人が、1896〜1898年にかけて世界一周を自転車で走破した記録。以下は日本旅行の部分、その3。
今では、天皇の布告により、誰もがゴム入りのブーツとフェルト帽を身に着け、現代的になることが許されている。
ある朝、私たちは道を間違え、博多に迷い込んだ。博多は左手に12マイルほど先にあると思っていた。博多は、私たちがこれまで見た中で最大の日本の街だった。人口は約6万人。綿紡績工場があり、16本の電線を張った電柱がメインストリートに立っている。大きな鉄道駅もある。大通りは活気に満ち、エネルギッシュにあふれている。こうして、新しい装いの日本を垣間見ることができた。絵のように美しい、骨董品が並ぶ日本ではなく、貿易で西洋諸国と競い合い、商売の巧みさでは西洋人をも凌駕し、鉛製のベアリングとはいえ自転車まで製造している。
私たちは森の広がる大地を走って行った。黄土色の山々が、暗いモミの木々に覆われ、私たちを取り囲んでいた。温かい光が斜面に降り注ぎ、緑の木々を浮かび上がらせていた。
名前のない小さな村で夜を過ごしたが、そこには快適な宿があり、食事も清潔で、女給は陽気で親切であった。しかし、激しい雨で気分は沈み、翌朝は何マイルにもわたる泥の中をずるずると滑りながら走った。正午、再び雷雲があらわれたので、福間(Ajama?)で一日を過ごすことにした。暖を取るために火鉢に足の指を押し付けた。
数時間の間、ビールと日本酒を混ぜて飲み、しゃがれた日本の歌を歌い、階段を飛び降りる技を見せつける、酔っ払った男のおしゃべりに耐えた。結局、彼を追い払うことにした。
朝、私たちは出発した。しかし、道はひどくぬかっていて、自転車のチェーンやタイヤは泥で詰まっており、歩くのも困難であった。しかも、私たちは道を間違えていた。村人に道を教えてほしいと頼むと、彼らは笑い、日本語で話し続けたが、私たちに道案内をしてくれなかった。
ある場所に小さな人だかりができた。
「おい、プーバー(Pooh-Bah)」と私たちは男に言った。「黒崎への道はどっちだ?」
「英語は話せない」と彼は答えた。
「ああ、でも少しは分かるんだな。何を話すんだ?」
「フランス語を話す。」
「フランス語が話せますか?黒崎への道を教えていただけますか?」
「英語か?私は英語を知らない。イタリア語を知っている。」
「ああ、イタリア語がわかるんですね。ええと、私たちは黒崎に行きたいのですが?」
「英語か?私は英語を話せない。」
"You're a fool. Let me speak to you in your own language. Kurosaki ye iku michi wa, dochira de gozaimasu?"
彼の目に光が宿った。「日本語を話すのか?」と彼は言った。
「まあ、それくらいは旅行会話集で覚えた。どっちの道だ?」
「まっすぐ出ていけ」。文字通りには「どうぞ、まっすぐ進んでください」という意味で、あるいは率直に言えば「まっすぐ行け」という意味だ。
「わかった、ありがとう。さようなら、プーバー。」
「英語は話せない。スペイン語を話す。」
「とにかく、鼻で話すのは悪い癖だ」と言って、私たちは再び出発した
私たちは森に分け入り、丘の麓を廻った。ここでは駐屯地を見つけ、通りはヨーロッパ風の服装をした小柄で威張った兵士たちで溢れていた。日本の軍人たちは小柄で、帽子を小粋にかぶり、細い胸をぴっちりとチュニックで包んでいる。彼らは滑稽である。陽気で、自分たちを真のアガメムノンだと思っており、皆うぬぼれている。将校たちは白い子羊革の手袋、大きなサーベル、そして小さなタバコを身につけている。海軍兵は私たちの青いジャケットのような服装をしており、20ヤード離れると違いが分からない。唯一の違いは、帽子のリボンに書かれている名前が英語ではなく日本語であることだけである。金色の編み紐をつけた小柄な将校たちは、気取った態度をとっていた。
ある朝、私たちが自転車を丘に押し上げていると、訓練に出ていた海軍兵たちが通りかかった。士官は身長6フィートの頭に70インチの帽子をかぶっていた。彼は私たちを見るのも嫌がり、私たちは土手を下りなければ道を譲ることができなかった。彼は攻撃的な態度で、道を譲れと言わんばかりにまっすぐ私たちに向かってきた。私は肘を突き出したが、彼はそれが気に入らなかったようである。私は悪に対して善で返すほどキリスト教徒ではない。それに、身長6フィートでそれなりの体重の男が、身長5フィートにも満たない、しかも軽い男のために道を譲ることに抵抗を感じるのは当然のことである。
迷惑でもあり、同時に面白かったのは、日本の警官だった。ハイドパークの警官など、彼らに比べればおとなしいものだ。日本の警官は刀を携え、常に白い手袋をはめ、ポケットには手帳が入っている。私たちはすぐにその手帳を覚えた。少なくとも1日に20回は目にした。私の見た限り、日本の警官のいつもの仕事は、その手帳に店主の名前を書き留めて小さな商店主を脅かし、人力車の車夫の番号を控え、学校の子供たちの前を通る時は威圧的な表情を浮かべ、子供たちは皆彼に頭を下げることだった。
村に外国人3人が到着したことは、権力を行使する絶好の機会であった。ミカンを6個ほど買いに行こうと自転車から降りるたびに、警官がやってきてパスポートの提示を求められた。宿で休んでいると、彼らは無遠慮にやって来て、ぶっきらぼうで無礼な態度を取り、あの手帳を取り出してパスポートの内容を写し、私たちが何者であるかを記した日本語の書類も写し取り、私たちの個人的な記述まで書き写した。実際、日本旅行中、私たちは役人の振る舞いを何度も目にし、彼らを嫌いになった。傲慢な態度をとることを楽しんでいるように見えた。
しかし、例外はあり、礼儀正しい日本の役人に出会えたことは嬉しかった。しかし、礼儀正しい役人たちは、英語を4語ほどしか知らず、私たちを歩き回る英語の教師と見なしていた。小柄な男が一人、儀礼的に私たちを迎えた。彼は一言も話さず、じっと前を見つめていた。
424頁
425頁
426頁