バイシクリング・タイムズ誌
ザ・バイシクリング・タイムズ・アンド・ツーリング・ガゼット。
自転車関連のイベント、話題、発明、通信、および関連事項に関する週刊記録。
1877年6月7日号
註、『The Bicycling Times and Touring Gazette』は、1870年代後半から1880年代前半のヴィクトリア朝のイギリス(ロンドン)で発行されていた初期の週刊自転車専門雑誌。
日本自転車史研究会のブログ Copyright © Yukio Ootsu
バイシクリング・タイムズ誌
ザ・バイシクリング・タイムズ・アンド・ツーリング・ガゼット。
自転車関連のイベント、話題、発明、通信、および関連事項に関する週刊記録。
1877年6月7日号
註、『The Bicycling Times and Touring Gazette』は、1870年代後半から1880年代前半のヴィクトリア朝のイギリス(ロンドン)で発行されていた初期の週刊自転車専門雑誌。
ホイール誌
下の資料は、1893年2月24日発行の自転車業界誌『The Wheel and Cycling Trade Review』
The Wheel and Cycling Trade Review
1893年2月24日(第11巻 第1号)
広告の中央には「RAMBLER(ランブラー)」のクロスワードパズル風のロゴが配置されている。ランブラーは当時、シカゴを拠点としていたGormully & Jeffery Mfg. Co.が製造していた人気の自転車ブランドであった。
ヴェロシペディスト誌
The Velocipedist.
「THE HUB」誌
「ザ・ハブ」誌 1897年5月8日号
J・A・ロバートソン
ピーターバラのJ・A・ロバートソンの名は、自転車界でその名声を十分に認められている。レーサーたちは彼を畏敬の念をもって見ており、トラック設計者たちも頻繁に彼の助言を求めている。何よりも、ロバートソンは紳士であり、レースウェアを着てトラックにいる時も、日常生活における数々の社交の場にいる時も、等しく好人物である。
数日前、この国への短い訪問中に、ハンマンが彼を訪ねたとき、彼はクラブ会員や友人たちが集まっている場所で紹介されると、静かな隅へと案内されたロバートソンは椅子に深く腰掛け、次々と投げかけられる質問に答えた。
ロバートソンを表現する最良の方法は、彼がフランク・ショアランドを彷彿とさせると言うことである。同じように細身で引き締まった体型、それほど広くない肩幅、そして力強い下肢を持っている。また、夜には静かで陽気な輝きがあり、「良い冗談を聞けばわかる」という表情、そして落ち着いた決意と覚悟の表情がある。
無駄話に時間を費やすことはほとんどない。
「いつから乗り始めたのか?」とのハブマンの質問にロバートソンは、「最初にレースを始めたのは1891年です。もちろん、それよりもずっと前に自転車の乗り方を学びました。趣味として乗り始めたのは、11歳くらいの頃だったと思います。」
「私が覚えたのは普通の40インチの自転車でした。ですから、私が幼い頃はそれほど大きな少年ではなかったことは、判断していただけるでしょう。安全装置付きの自転車が流行し、誰もがそれに乗っていた時でさえ、私は古い自転車に乗り続けました。自転車を交換するまでには何年もかかりましたが、もちろん、一度安全装置付きの自転車に乗ってしまえば、そのタイプの自転車を使い続けることに疑問はありませんでした。」
最初のレースは、ミッドランドの競馬会の一つで行われました。1マイルのハンディキャップレースに出走しました。何のハンディキャップだったかは覚えていませんが、いずれにせよ、優勝はできませんでした。しかし、次のレースではずっと良い成績を収めました。ノッティンガムでノッツフォレストスポーツに出場し、2つか3つの賞を獲得しました。1891年には、いくつかのロードレースに出場し、25マイルのレースで優勝しました。」・・・
ヴィクター号関連
下の資料は、1889年5月3日に発行されたアメリカの雑誌『The Bicycling World & Bulletin』の表紙。中央に描かれているのは、オーバマン・ホイール・カンパニー(Overman Wheel Co.)が製造した「ヴィクター・セーフティ」自転車。このモデルは、当時革新的だった独自のスプリングフォークを備えているのが特徴。
『The Bicycling World & Bulletin』誌は1878年の創刊。
ヴィクター・セーフティは、市場で唯一効率的なスプリングフォークを搭載している。アメリカ製の唯一の「ダイヤモンドフレーム」セーフティである。
オーバーマンホイール社、ボストン
水上自轉車
「輪界」第11号 輪界雑誌社 1909年(明治42年)7月25日発行
名家の論説
水上自転車 発明談
「石山式水上航行器」の発明者である、埼玉県熊谷町48番地の平民・石山善太郎氏が、このたび当局の特許を取得した「水上自転車」について語った内容は以下の通り。
▲石山氏の経歴
石山氏は今年26歳になる青年で、熊谷町に生まれた。幼少期は熊谷小学校に学び、明治32年に熊谷中学校へ進学。同校を卒業した後は、主に商業で身を立てようと考えて上京し、早稲田大学商科で学ぶ。しかし、途中でやむを得ない事情があり郷里に戻って引きこもっていた。
一方、彼の厳格な父・新蔵氏は幼い頃から発明を好んでおり、家事一切を妻や家族に任せて、もっぱら様々な発明に心を砕いていた。これまでにも成功させた発明は少なくなかったと云う。新蔵氏は明治17~18年頃から「水上航行器」を発明しようと心掛け、色々と苦心していた。しかし、不幸にも最新の科学的素養がなかったため、この発明(理論化や地盤固め)を息子の善太郎氏に依頼した。
ところが、善太郎氏も中学校こそ卒業しているものの、工芸や科学に関する専門的な素養はなかったため、それ以来、独学でこれらの研究に従事した。専念し苦心した結果、ようやく一昨年の末になって、おおむね理論に合致する考案がまとまったため、再びこれを持って上京した。
▲実験の困難
石山氏はこの発明を友人たちにも固く秘密にし、「成功した暁に発表しよう」と考えていた。というのも、この実験は非常に難しく、もし世間に気づかれるようなことがあれば、せっかくの苦心が他人に横取りされてしまう恐れがあったからである。
また、自分自身は製図などに熟練していなかったため、やむを得ず一人の友人に頼んで図面を引いてもらう。そして、芝浦製作所の理事である石川角造氏が経営する「芝区三田四国町
特許模型製作所」を訪れ、石川氏に事情を打ち明けて模型の製作を依頼した。
しかし、どのような事情があったのか、石川氏は依頼を引き受けてから半年が過ぎても製作を完成させなかった。そのため、前年(明治40年)の夏に特許を取得しようと楽しみにしていた計画も水の泡となり、石山氏は焦りと不安から何度も催促を行う。そうしてようやく、昨年(明治41年)10月頃に、不完全ながらもなんとか製作が完了した。
▲実験の結果
芝浦製作所で製造されたその機器を使って品川湾で実験を行った。その結果、製作所での作りが雑だったために2~3の欠点はあったものの、理論上においては完全に成功を収めることができた。そのため、すぐに特許局へ申請して特許を求めたところ、幸いにも特許を取得することができた。
▲価格と製造
石山氏は熊谷町に自身の製造工場を持っているわけではないため、この水上自転車をすぐに製造・販売することは難しい。氏は現在、別の一生懸命な大発明に心を砕いている最中でもあるため、この水上自転車の特許権を(他社へ)譲渡したいという考えを持っていた。なお、製造費については、全部を鋼鉄製にした場合、130円から180円程度で製作できる見込みだという。
註、石山式水上航行器(石山式水上自転車)は、明治末期(明治41〜42年頃)に埼玉県熊谷町の発明家・石山善太郎が考案した水上自転車型の航行器具で、特許申請まで行われたものの、構造が複雑で実用化には至らなかった。現存図面は未確認で、一次史料は雑誌『輪界』(明治42年7月25日発行)の記事が現在のところ唯一の詳細な情報源である。
ザックス