スプリングフィールド・ホイールメンズ・ガゼット誌
月刊・サイクリング専門誌
第11巻 第1号
マサチューセッツ州スプリングフィールド、1884年5月号
日本自転車史研究会のブログ Copyright © Yukio Ootsu
スプリングフィールド・ホイールメンズ・ガゼット誌
月刊・サイクリング専門誌
第11巻 第1号
マサチューセッツ州スプリングフィールド、1884年5月号
自転車世界一周 - 11
「自転車世界一周」ジョン・フォスター・フレイザー著
1899年発行
註、『Round the World on a Wheel』(1899) は、 John Foster Fraser、 S. Edward Lunn、 F. H. Lowe の3人が、1896〜1898年にかけて世界一周を自転車で走破した記録。以下は日本旅行の部分、その11。
ペースメーカーのおかげで、時速16マイルで走った。古き良き奈良を出発し、2時間ちょっとで、古い街並みが広がる京都に到着した。
1868年、天皇が京都から新都の東京へ向かう際、先祖代々の装束を身にまとっていた。絹の衣をまとい、冠(立纓)は漆塗りの硬いものであった。数百人の神官たちが、俗人の目に触れないよう常に閉じられた金箔張りの鳳輦で移動した。周囲の武士たちは古風な鎧を身に着け、高く掲げた巨大な両手剣を携えていた。侍従たちは錦織の衣装をまとっていた。
10年後、天皇は京都に戻った。日本は文明を身にまとい、天皇は列車で旅をし、フロックコートと絹の帽子を身に着け、普通の人間のように歩き、宮殿へ行くときは、2頭の栗毛の馬に引かれた立派な馬車に乗っていた。このようにして日本は進歩したのである。
しかし、私たちの中に、神々について互いに熱狂する人はいなかった。神々に関しては、私たちはすっかり飽きてしまっていた。
書斎に神像を置くのは素晴らしいことである。それを寒山、鬼子母神、須佐之、六部天など、好きなように呼んで構わない。しかし、その名前を知らない確率は100分の1である。あなたの友人が知らない確率は100万分の1で、彼らはあなたが知っていると思っている。だからそれでいいのである。
神像には確かに利点がある。奥様は植物標本を吸取紙に押し付ける際の重石として使えるかもしれないし、1歳の息子は神像の耳をかじって歯が生えるのを助けることができるかもしれない。
最悪の場合でも、温室にあるいつものシダや白塗りの石の中にあっても、それほど悪くは見えないだろう。温室では、シャツの袖口を汚し、自分がアマチュア園芸家であるという心地よい錯覚の中で居られる。
私たちは何千もの京都の神像を見た。それらは面白くなく、あまりにも混雑していた。そして、混雑した神像は威厳に見えない。私たちは千手観音立像を祀る三十三間堂に行った。その建物はアールズ・コートの大劇場を思い出させた。そこには何千もの神々が、何段にも並んでいた。皆、高さ5フィート、金色で、皆同じよう並んでいる。これほど多くの神々が集まったことはかつてなかった。中央には、巨大な観音像が鎮座していた。
自轉車瓦版 第108号
昭和61年2月13日発行
★E、バウアー氏からの手紙、拝啓 ライン河の増水で河沿の木々も水の下になる程一時は寒さがゆるみましたが、ここのところ又青空があおげ、代わりに真冬の寒さに戻ったボンです。大変興味深く絵入りの年賀状を有難うございました。 又、追って多くの日本の資料が届きました。どれも興味ある大変参考になる資料で喜んでおります。さて、以前のお手紙にありました質問にお答えします。西ドイツには個人的に自転車史等研究する人は居てもグループやクラブはありません。従って会報誌、機関誌もありません。自転車コレクションにつきましては個人の収集家はいないらしく、「二輸車博物館(ZWEI RAD MUSEUM)」に集められ、その所有の台数は70台にのぼります。この博物館のカタログももらいましたので、それをその町の案内図・ハガキ、又は先日偶然スイスで見っけた自転車工場の古いポスターのハガキと共に別便でお送りします。もしドイツにいらっしゃる機会がございましたら、その地図を持って是非訪ねてみて下さい。 なお、カタログには自転車以外の二輪車も載っています。昨年開かれた自転車発明家DRAIS (ドライス)の展示会の目録を手に入れましたので、昨年末にお送りしました。又、私の知人ラウク (RAUCK) が、日本滞在中に書いた小論文のコピーを上記のものと一緒にお送りします。彼はマスター論文でこのドライスの生涯を扱っていますので、その論文も手に入り次第お送りしたいと思います。二輪車博物館の情報から他の博物館又は古乗物協会という存在がわかって、その中の自転車担当の方に私は問い合わせの手紙を出しました。返事が来るまで暫くお待ち下さい。
敬具 1986.2.6、Dr. Erich Pauer , Japanologisches Seminar der Universität Bonn
自転車文化センター45周年
「オーストラリアン・サイクリスト」誌
「Australian Cyclist」(オーストラリアン・サイクリスト)誌は、1890年代からのオーストラリアの自転車界にとって中心的な情報源であった。
内容は、レース結果・クラブニュース・自転車広告・業界動向など。
サイクリング・ジャーナリズムの分野に参入するにあたり、少し説明をすると、その使命は、ビクトリア州だけでなく、南十字星の下にあるすべての土地で、レース、ツーリング、そしてサイクリングを促進することである。この植民地では以前にもサイクリング雑誌が発行されていた。最初に発行されたのは「ザ・バイシクル」で、10年以上前に数ヶ月間発行された。その後、「バイシクリング・ニュース」が18ヶ月で廃刊となり、さらに「オーストラリアン・サイクリング・ニュース」が1889年まで。その後、「オーストラリアン・ホイールメン」が、わずかな期間に登場した。
西オーストラリア州パースからニュージーランドのクライストチャーチ、タスマニア州ホバートからポートダーウィンまで、この広大な地域にサイクリングを普及させることで、自転車愛好家の心を結びつける。・・・
註、『Australian Cyclist』誌の創刊は、1893年9月7日である。
自転車世界一周 - 10
「自転車世界一周」ジョン・フォスター・フレイザー著
註、『Round the World on a Wheel』(1899) は、 John Foster Fraser、 S. Edward Lunn、 F. H. Lowe の3人が、1896〜1898年にかけて世界一周を自転車で走破した記録。以下は日本旅行の部分、その10。
奈良の森にて
私たちが訪れた日は神道の聖なる日で、その日に生まれた子供は、前日や翌日に生まれた子供よりも1歳年上と数えられた。何千人もの巡礼者が神社を訪れていた。八角形の帽子をかぶり、長い灰色の絹の衣をまとった、頬のやつれた老人が、杖を振りながら寺から寺へとよろよろと歩いていた。剃髪し、黄色の袈裟をまとった僧侶が、静まり返った参道を厳粛な表情で歩いていた。
愛らしい日本の乙女たちが、下駄を履いて、互いの肩に寄り添いながら腕を組んで歩いていた。木々は長い枝を小道の上にアーチ状に伸ばし、膝まで埋まるシダの中から鹿が飛び出してきた。長い角を持つ雄鹿と優しい目の雌鹿が、恐れることなく走り回り、鼻を人の手に押し付けて餌の匂いを嗅いでいた。鹿は人間と友好的に暮らしている。昼間は森や小道を歩き回り、日没時にはラッパの音が響き、軽快な跳躍で夕食と柵の中の避難場所を求めてやってくる。
杉並木が、松林に囲まれた寺院へと向かっている。幹は赤褐色で、緑の葉が優しくささやき、霜で赤くなったつる植物が頭上で揺れる。苔むした水盤に流れ落ちる水の音が聞こえる。古風で、はるか昔を思わせる静寂な地衣類に覆われた石灯籠が、道沿いに2、3列並んでいる。今夜は灯籠にろうそくが灯され、和紙の覆いが風を防ぎ、木々の間には美しい影が舞い、きっと妖精たちが陽気に過ごすだろう。
自轉車瓦版 第107号
昭和61年2月13日発行
★現代版ペダーセンはいかが?
Dursley Pedersenは今でも人気のあるクラシック自転車であるが、この程、現代風にアレンジされたペダーセンが入手出来る。価格は$1175とやや高価だが、乗り心地は Dursley Pedersen以上とか、希望者、八神商会へ。
★三元車に似た自転車は、「キング・オブ・ロード」という本に出ている シンガー・トライシクルであるが、 1880年の『THE CHALLENGE』というシンガーのカタログの中にも、同型の三輪車が出ている。ハンドルのグリップの形状を除いて、他は殆ど同じである。
★自転車と女性と言うと、すぐ思い出すのは、三浦 環である。しかし、それ以前に自転車と関係があった女性は意外と知られていない。その一人「自転車のお玉」は裏面史の彼方に、今にも消えようとしている。彼女が登場する時代は、自転車史そのものもよくわからない、明治8年頃である。だからどのような自転車に乗ったかもわかっていない。ダルマ自転車と言う人もあれば、ボーンシェーカーあるいは三輪車とも云う。まだまだ、自転車史は未知の部分が多いのである。
◎情報等をお待ちしております。