2026年5月1日金曜日

「オーストラリアン・サイクリスト」誌

 「オーストラリアン・サイクリスト」誌

 「Australian Cyclist」(オーストラリアン・サイクリスト)誌は、1890年代からのオーストラリアの自転車界にとって中心的な情報源であった。

内容は、レース結果・クラブニュース・自転車広告・業界動向など。

サイクリング・ジャーナリズムの分野に参入するにあたり、少し説明をすると、その使命は、ビクトリア州だけでなく、南十字星の下にあるすべての土地で、レース、ツーリング、そしてサイクリングを促進することである。この植民地では以前にもサイクリング雑誌が発行されていた。最初に発行されたのは「ザ・バイシクル」で、10年以上前に数ヶ月間発行された。その後、「バイシクリング・ニュース」が18ヶ月で廃刊となり、さらに「オーストラリアン・サイクリング・ニュース」が1889年まで。その後、「オーストラリアン・ホイールメン」が、わずかな期間に登場した。

西オーストラリア州パースからニュージーランドのクライストチャーチ、タスマニア州ホバートからポートダーウィンまで、この広大な地域にサイクリングを普及させることで、自転車愛好家の心を結びつける。・・・


「オーストラリアン・サイクリスト」
メルボルン、1893年9月7日発行
創刊号

「オーストラリアン・サイクリスト」
1898年12月1日号
アッシャーの「トライアド」チェーンレス3段変速自転車
現代における最大の発明
50インチ、70インチ、116インチの3段変速ギア。走行中でも、衝撃、摩擦、騒音なしに瞬時に切り替え可能。最小限の動力で最大限の速度を実現。快適さ、優雅さ、経済性を兼ね備えているため、大きなメリットとなる。
この機構は、あらゆる自転車に適用可能である。

註、『Australian Cyclist』誌の創刊は、1893年9月7日である。

ビクトリア州のメルボルンで誕生したこの雑誌は、当初は週刊誌として発行され、瞬く間にオーストラリアを代表する自転車専門誌となった。
その後、1905年頃まで発行されたが、自転車ブームの終焉とともに、雑誌の内容も徐々に自動車やモターバイクの普及を支持する内容へと変遷した。

2026年4月30日木曜日

自転車世界一周 - 10

 自転車世界一周 - 10    

「自転車世界一周」ジョン・フォスター・フレイザー著

註、『Round the World on a Wheel』(1899) は、 John Foster Fraser、 S. Edward Lunn、 F. H. Lowe の3人が、1896〜1898年にかけて世界一周を自転車で走破した記録。以下は日本旅行の部分、その10。

奈良の森にて

私たちが訪れた日は神道の聖なる日で、その日に生まれた子供は、前日や翌日に生まれた子供よりも1歳年上と数えられた。何千人もの巡礼者が神社を訪れていた。八角形の帽子をかぶり、長い灰色の絹の衣をまとった、頬のやつれた老人が、杖を振りながら寺から寺へとよろよろと歩いていた。剃髪し、黄色の袈裟をまとった僧侶が、静まり返った参道を厳粛な表情で歩いていた。

愛らしい日本の乙女たちが、下駄を履いて、互いの肩に寄り添いながら腕を組んで歩いていた。木々は長い枝を小道の上にアーチ状に伸ばし、膝まで埋まるシダの中から鹿が飛び出してきた。長い角を持つ雄鹿と優しい目の雌鹿が、恐れることなく走り回り、鼻を人の手に押し付けて餌の匂いを嗅いでいた。鹿は人間と友好的に暮らしている。昼間は森や小道を歩き回り、日没時にはラッパの音が響き、軽快な跳躍で夕食と柵の中の避難場所を求めてやってくる。

杉並木が、松林に囲まれた寺院へと向かっている。幹は赤褐色で、緑の葉が優しくささやき、霜で赤くなったつる植物が頭上で揺れる。苔むした水盤に流れ落ちる水の音が聞こえる。古風で、はるか昔を思わせる静寂な地衣類に覆われた石灯籠が、道沿いに2、3列並んでいる。今夜は灯籠にろうそくが灯され、和紙の覆いが風を防ぎ、木々の間には美しい影が舞い、きっと妖精たちが陽気に過ごすだろう。

しかし今は午後で、光は薄紫色に染まっている。私たちは巡礼者たちの間を散策し、神社の赤い鳥居をくぐって本殿へと向かう。春日大社には、何百もの彫刻が施された緑青の灯籠が静かに揺れている。他にもたくさんの寺院がある。若宮神社では、黒髪をほどいた若い娘たちが、藤の花で飾られた薄絹の衣装をまとい、厳粛な舞を踊る。彼女たちは緋色の椿の枝を優雅に振り回す。老僧たちは鐘を鳴らし、経を唱える。
近くには、雑草が生い茂る静かな池がある。娘たちは手をつないで、黒い水面を悲しげに見つめる。何百年も昔、ここで美しい乙女が、身を投げたと伝わる。彼女は天皇の息子を愛していた。彼女は日本のオフィーリアだ。

森の薄暗い奥まった場所に、忘れ去られたような神社がある。大きく広がる軒と素晴らしい持ち送りは、芸術的に朽ち果てつつある。信仰が、寺院を神秘と詩情で包み込んでいる。鐘の響き、僧侶たちの声明、シダの間を歩く鹿のざわめき、少女たちの軽やかな笑い声が聞こえる。自転車のシューッという音が長い並木道に歌い、ロンドンの自転車乗りの「気をつけろ!」という叫び声が、静寂を破る。

またしても素晴らしい一日、澄み渡り、穏やかで幸せな朝が私たちを迎えてくれた。わずか35マイル離れた古都、京都へと出発した。

443頁
挿絵、神社の入り口

444頁

2026年4月29日水曜日

自轉車瓦版 第107号

 自轉車瓦版 第107号

昭和61年2月13日発行

★現代版ペダーセンはいかが?

Dursley Pedersenは今でも人気のあるクラシック自転車であるが、この程、現代風にアレンジされたペダーセンが入手出来る。価格は$1175とやや高価だが、乗り心地は Dursley Pedersen以上とか、希望者、八神商会へ。

★三元車に似た自転車は、「キング・オブ・ロード」という本に出ている シンガー・トライシクルであるが、 1880年の『THE CHALLENGE』というシンガーのカタログの中にも、同型の三輪車が出ている。ハンドルのグリップの形状を除いて、他は殆ど同じである。

★自転車と女性と言うと、すぐ思い出すのは、三浦 環である。しかし、それ以前に自転車と関係があった女性は意外と知られていない。その一人「自転車のお玉」は裏面史の彼方に、今にも消えようとしている。彼女が登場する時代は、自転車史そのものもよくわからない、明治8年頃である。だからどのような自転車に乗ったかもわかっていない。ダルマ自転車と言う人もあれば、ボーンシェーカーあるいは三輪車とも云う。まだまだ、自転車史は未知の部分が多いのである。

◎情報等をお待ちしております。


シンガー模造三元車 1883年(明治16年)頃

イギリスのシンガー社製三輪車 1879年
「キング・オブ・ロード」より

シンガー・チャレンジ三輪車 第1号
(折りたたみ式)1880年

2026年4月28日火曜日

ル・ヴェロセマン誌

 ル・ヴェロセマン誌

「アウティング」誌の中に『LE VELOCEMAN』誌の記事を引用して、フランスには良い自転車競技場がないことを嘆いている。

1886年9月15日付の、フランスの『LE VELOCEMAN』は、フランス国内に良質なトラックがないことを嘆き、イギリスで記録を打ち立てた優秀な選手たちがフランスで成功できなかった理由として、海外のトラックの方が国内のトラックよりも優れていることを挙げている。記事の結びはこうだ。「この重大な問題に真剣に取り組むべきだ。ためらうことなく、恒久的なトラックを建設しなければ、フランスにとって自転車競技は破滅してしまうだろう。」

とある。


263頁
「アウティング」誌
第10巻
1886年12月号

「ル・ヴェロセマン」誌
1885年2月15日

註、1885年2月15日に発行されたフランスの月刊自転車雑誌 『Le Véloceman』(ル・ヴェロセマン)の第1巻・第2号の表紙。
イギリスのコヴェントリーに拠点を置いていた D. Rudge & Co(D. ラッジ社)の広告。

2026年4月27日月曜日

自転車世界一周 - 9

 自転車世界一周 - 9    

「自転車世界一周」ジョン・フォスター・フレイザー著

註、『Round the World on a Wheel』(1899) は、 John Foster Fraser、 S. Edward Lunn、 F. H. Lowe の3人が、1896〜1898年にかけて世界一周を自転車で走破した記録。以下は日本旅行の部分、その9。

女性には神々しさがあった。聖アントニウスは、きっと日本の茶屋には行ったことがないだろう。

「これは日本の流行、熱狂と呼ぶかもしれない。それは弱い心の表れだと言うかもしれない。しかし、日本に行って、オユチャさんを見れば、残りの人生ずっとオユチャさんに夢中になるでしょう。」

そして、恋に落ちた海軍士官が「ロザリー」の美しいメロディーにのせて書いたこの「オユチャさん」の歌を、私たちイギリス人は、妖精のランプと月明かりに照らされた幻想的な街並みを人力車でガタガタと走りながら歌った。空気は芳しく、私たちはロマンスの世界にいた。

日本語が堪能な神戸地区のベルギー領事、レンオー氏と、モンゴルで金を探して7ヶ月間馬に乗っていたスルマン氏という興味深い二人が数日間の休暇を取り、タンデム自転車で私たちを先導してくれた。道は良好で、奈良の森への道を知っているレンオー氏は、私たちを軽快に走らせてくれた。

「君たちの経験が羨ましいよ」と、松並木をスムーズに走り抜けながら彼は言った。「2年間も、あらゆる国を旅するなんて!素晴らしい!」
私たちは小さな村々を走り抜けた。「レンオーさん、道は合っていますか?」と私は尋ねました。「昨日、南の丘陵地帯を迂回するように言われたのですが。」
「まあ、その通りだ。前にも来たことがある。2年間も自転車で旅するなんて!私も一緒に行きたい。」
「中国にはこんな道はなかった。」
「そうなのか?」
私たちは断崖絶壁の山脈に向かっていたが、道は突然狭くなり、荒れていて走行不可能になった。
「やっぱり、これは間違っているんじゃないか!」とレンホールは言った。
「ああ、君は素晴らしいね」と私は答えた。「もし私たちだけで来ていたら、たった6つの日本語だけで道を見つけられただろうか。」

しかし、田舎の人々は峡谷を通る道があると言い、結局私たちは幹線道路に出られるだろうと言った。登り始めたが、道は険しく、腰が痛くなり、滑りやすく、20ヤードごとに「ふう!」と息を切らして立ち止まった。30分後、ルノーは切り株に座り、額の汗を拭いながら言った。「これは本当に大変だ。毎日こんなのは嫌だな。君は旅でこんな経験をしたことがあるのか​​?」
「たいしたことないよ」と私たちは彼に言った。「中国西部では、これよりひどい状態が2週間も続いたものだ!」
私たちは再び歩き始めた。うなり声と、喉の渇き、そして罵り声もあった。
「素晴らしいでしょう、ルノー?」と私は思い切って言った。「数ヶ月こんな旅をしたらいいのに。私たちの中国横断旅行を体験したくなかったのかい?」
「ああ、お前と中国を飛ばしただろう!」と、息を切らしたベルギー人は言った。「お金をもらっても、二度とこんな経験はしたくない。岩をよじ登って自転車を押すなんて馬鹿げたことだ。ビールが飲みたかったよ。」
ようやく頂上に着き、谷底には本来通るべきだった道があり、暗い森の向こうには奈良の甍や仏塔がそびえていた。さらに20分ほど走ると、よい道に出て、ものすごいスピードで村や集落を駆け抜けた。そして一気に奈良の広い通りに出て、素朴な宿屋の前に着くと、バラ色の顔をした6人ほどの娘たちが、パタパタと音を立てるサンダルを履いて、飲み物とスリッパと昼食を持ってきてくれた。
午後遅く、私たちは奈良を通り抜けた。1000年前には日本の首都だった美しい古都だが、今は眠れる大聖堂の街のように、のどかで静かな雰囲気に包まれている。
世界中のあらゆる場所は、同じように、個性を持っている。奈良の個性は、世の煩わしさに悩まされることなく、尼僧の皺の寄った顔は、いつも穏やかな微笑みを浮かべている。美しい魂を持つ尼僧のようである。それが奈良である。文明化によってありきたりで粗末なものにはなっておらず、そこには、古き良き日本の美しさが残っている。


441頁

442頁

2026年4月26日日曜日

バイシクリング・ワールド誌 - 5

 バイシクリング・ワールド誌 - 5  

この雑誌に何か所か、トーマス・スティ-ブンスの記事が散見されるので、何回かに分けて紹介する。

THE BICYCLING WORLD 1887(創刊は1878年)

1888年2月17日

248頁、

トーマス・スティーブンス氏は昨日16日、ハドソン郡の自転車愛好家たちの前に姿を現し、世界一周旅行についての講演を行った。


248頁

2026年4月25日土曜日

自転車世界一周 - 8

 自転車世界一周 - 8    

「自転車世界一周」ジョン・フォスター・フレイザー著

註、『Round the World on a Wheel』(1899) は、 John Foster Fraser、 S. Edward Lunn、 F. H. Lowe の3人が、1896〜1898年にかけて世界一周を自転車で走破した記録。以下は日本旅行の部分、その8。

それから私たちは陽気な群衆の中を、大阪までの道のりの半分ほどを、タンデム自転車に乗ったベルギー人とスイス人に先導されて向かった。大阪は日本の大商業中心地で、誰もが金儲けに熱心の街である。貿易においてはシカゴ、立地においてはベニスといったところだろうか。運河と橋が中心の街である。清潔な半ヨーロッパ風の宿で昼食をいただき、コーヒーと葉巻を楽しんだ後、自転車に乗って観光に出かけた。その日の午後、私たちは混雑した通りを13マイル(約21キロ)走り抜けた。

私たちは大阪城へ案内された。それはバールベック産のような石で造られた巨大な石垣で、中には長さ46フィート、高さ12フィートもある石もあった。小さな兵隊が私たちの後を小走りでついて行き、大砲が持ち去られていないか確認していた。それから私たちは自転車で市場を巡り、金持ちになったような想像した。上質な陶器や凝った彫刻、柔らかな絹織物、精巧な型押しが施された革製品を見た。そして、劇場通りを通り抜けた。そこはまさに色鮮やかな旗がはためく賑やかな光景であった。1マイルにわたって劇場が立ち並び、それぞれの劇場の前には、お気に入りの女優の20種類の最もエキサイティングな場面を描いた大きな手描きのポスターが飾られていた。

通りは午後の散歩客で賑わっており、私たち12人はベルを鳴らしながら、その中を通り抜けた。私たちは、堂々とした構造物である大きな塔に行き、登るように勧められた。しかし、その眺めを当然のことと思い、下に居た。

塔の中央には、巨大な梁の振り子が揺れていた。日本は地震の国であり、平均して1日に2回発生する。大きな地震であれば、あの高さの塔は倒壊するだろう。しかし、地震が起こると、その振り子が揺れ始める。それは建物にも容易な揺れを与えるため、地震は回避される。

ガタガタと音を立てながら、私たちはさらに何マイルも賑やかな通りを走り抜けてた。

大阪で唯一のイギリス人女性にアフタヌーンティーを頼むために30分ほど自転車を止め休憩し、また走り出した。5日間でヨーロッパを「回った」アメリカ人は、私たちが3時間で大阪を回ったのに比べれば、遅いと思う。

同行してくれた神戸の友人たちと、大阪で知り合ったばかりの人々は、もてなしてくれ、夕食は盛大であった。その後、皆で人力車に乗り込み、水面に月光が揺らめく運河沿いを走った。何千もの灯籠がゆらゆらと揺れる薄暗い路地を進んだ。その光景は素晴らしく芸術的で、まるで妖精の世界のようであった。陽気な人々の歌声、三味線の響き、そして人形の家のような格子窓から漏れる少女たちの笑い声が、辺りを満たしていた。そして、まばゆいばかりの茶屋の入り口にたどり着いた。

豪華な日本の宴が催された。私たちは絹の敷物に座り、炭火の火鉢で手を温めた。小さな娘たちが、食事を携えて、静かに歩いてきた。くすくす笑う芸妓たちが、鮮やかで上品な衣装をまとって現れた。サテンの着物は胸元で美しく交差し、後ろには大きな金糸の帯が巻かれていた。これらは日本の女性の服装の特徴である。芸妓たちは柔らかい絹の帯をいじりながら、手鏡に映るえくぼのある小さな顔を眺めていた。彼女たちは頬に麝香の粉をはたき、美しい歯を見せて微笑んだ。
彼女は芸者だが、清潔さ、優雅さ、礼儀正しさの真髄であり、魅力的だった。たくさんの歌を歌い踊った。その踊りは、ベルグラビアのおしゃれな若い女性が私たちを楽しませてくれるような、ハイキックやスカートをくるくる回すようなものではなかった。それは長い一連のポーズだった。顔は静止し、目は穏やかだった。手首の動きや頭の傾きの一つ一つが研究されている。着物は足元に美しい曲線を描いて流れ、それは夢のようであった。


437頁

438頁

439頁
挿絵 午後に芸者と