2026年5月3日日曜日

自転車世界一周 - 11

自転車世界一周 - 11  

「自転車世界一周」ジョン・フォスター・フレイザー著

 1899年発行

註、『Round the World on a Wheel』(1899) は、 John Foster Fraser、 S. Edward Lunn、 F. H. Lowe の3人が、1896〜1898年にかけて世界一周を自転車で走破した記録。以下は日本旅行の部分、その11。

 ペースメーカーのおかげで、時速16マイルで走った。古き良き奈良を出発し、2時間ちょっとで、古い街並みが広がる京都に到着した。

1868年、天皇が京都から新都の東京へ向かう際、先祖代々の装束を身にまとっていた。絹の衣をまとい、冠(立纓)は漆塗りの硬いものであった。数百人の神官たちが、俗人の目に触れないよう常に閉じられた金箔張りの鳳輦で移動した。周囲の武士たちは古風な鎧を身に着け、高く掲げた巨大な両手剣を携えていた。侍従たちは錦織の衣装をまとっていた。

10年後、天皇は京都に戻った。日本は文明を身にまとい、天皇は列車で旅をし、フロックコートと絹の帽子を身に着け、普通の人間のように歩き、宮殿へ行くときは、2頭の栗毛の馬に引かれた立派な馬車に乗っていた。このようにして日本は進歩したのである。

私たちは京都で3日間を過ごし、駆け回り、無数の神々などを見物した。その3日間で見た
神々や龍、寺院の数は、他の場所で2週間かけて見た数よりも多い。

しかし、私たちの中に、神々について互いに熱狂する人はいなかった。神々に関しては、私たちはすっかり飽きてしまっていた。

書斎に神像を置くのは素晴らしいことである。それを寒山、鬼子母神、須佐之、六部天など、好きなように呼んで構わない。しかし、その名前を知らない確率は100分の1である。あなたの友人が知らない確率は100万分の1で、彼らはあなたが知っていると思っている。だからそれでいいのである。

神像には確かに利点がある。奥様は植物標本を吸取紙に押し付ける際の重石として使えるかもしれないし、1歳の息子は神像の耳をかじって歯が生えるのを助けることができるかもしれない。

最悪の場合でも、温室にあるいつものシダや白塗りの石の中にあっても、それほど悪くは見えないだろう。温室では、シャツの袖口を汚し、自分がアマチュア園芸家であるという心地よい錯覚の中で居られる。

私たちは何千もの京都の神像を見た。それらは面白くなく、あまりにも混雑していた。そして、混雑した神像は威厳に見えない。私たちは千手観音立像を祀る三十三間堂に行った。その建物はアールズ・コートの大劇場を思い出させた。そこには何千もの神々が、何段にも並んでいた。皆、高さ5フィート、金色で、皆同じよう並んでいる。これほど多くの神々が集まったことはかつてなかった。中央には、巨大な観音像が鎮座していた。

観音菩薩が神か女神かは、あなたの好み次第である。ここでは、観音菩薩は、くすんだ金色の人物像で、頭は一つだけである。場所によっては、観音菩薩は多くの頭を持ち、時には馬の頭であり、千手でもある。千手とは、もちろん四十本の腕のことで、これらの腕には、法輪、蓮華、数珠・浄瓶・剣・宝珠・弓矢・羂索などが握られている。この観音像の頭部には、本物の頭蓋骨が入っていると云われる。700年前、ある天皇が重度の慢性頭痛に悩まされていた。当時は薬やホメオパシー療法などなく、天皇は当時の慣習に従って社寺巡礼を行い、痛みの緩和を求めた。ある夜、天皇が熱心に祈っていると、幻影が現れた。幻影は、天皇が前世で敬虔な僧侶であり、その善行によって天皇の位に昇ったと告げた。しかし、不幸にも前世の頭蓋骨は川底に沈んでおり、そこから柳の木が生え、風が吹くと木が揺れ、それが頭痛の原因となっていたのである。そこで翌朝、天皇は頭蓋骨を探しに行き、見つけると観音像の頭部に納めた。それが今、そこにある。私は実際に見たわけではないが、この話は信じたいと思う。
私たちは三光神の門を持つ天神様に行き、奇想天外で詩的な名前を持つ曲がった木々を見た。また、大徳寺の彫刻を見学し、狩野 探幽など、聞いたこともない画家たちが描いた絵画を鑑賞した。

445頁

446頁

2026年5月2日土曜日

自轉車瓦版 第108号

 自轉車瓦版 第108号

昭和61年2月13日発行

★E、バウアー氏からの手紙、拝啓 ライン河の増水で河沿の木々も水の下になる程一時は寒さがゆるみましたが、ここのところ又青空があおげ、代わりに真冬の寒さに戻ったボンです。大変興味深く絵入りの年賀状を有難うございました。 又、追って多くの日本の資料が届きました。どれも興味ある大変参考になる資料で喜んでおります。さて、以前のお手紙にありました質問にお答えします。西ドイツには個人的に自転車史等研究する人は居てもグループやクラブはありません。従って会報誌、機関誌もありません。自転車コレクションにつきましては個人の収集家はいないらしく、「二輸車博物館(ZWEI RAD MUSEUM)」に集められ、その所有の台数は70台にのぼります。この博物館のカタログももらいましたので、それをその町の案内図・ハガキ、又は先日偶然スイスで見っけた自転車工場の古いポスターのハガキと共に別便でお送りします。もしドイツにいらっしゃる機会がございましたら、その地図を持って是非訪ねてみて下さい。 なお、カタログには自転車以外の二輪車も載っています。昨年開かれた自転車発明家DRAIS (ドライス)の展示会の目録を手に入れましたので、昨年末にお送りしました。又、私の知人ラウク (RAUCK) が、日本滞在中に書いた小論文のコピーを上記のものと一緒にお送りします。彼はマスター論文でこのドライスの生涯を扱っていますので、その論文も手に入り次第お送りしたいと思います。二輪車博物館の情報から他の博物館又は古乗物協会という存在がわかって、その中の自転車担当の方に私は問い合わせの手紙を出しました。返事が来るまで暫くお待ち下さい。

敬具 1986.2.6、Dr. Erich Pauer ,  Japanologisches Seminar der Universität Bonn

ドイツのBrennabor-Werke
資料提供:E、バウアー氏

〇ドイツのBrennabor-Werke(ブレンナボア製作所)の1920年代自転車カタログ。
 創業: 1871年にライヒシュタイン兄弟によって設立。ドイツのブランデンブルク・アン・デア・ハーフェル。かつては欧州最大の自転車メーカーの一つであった。
 Brennabor 3 Neues leichtes Turenrad(新型軽量ツーリング車)。
価格: 全3サイズ一律 150マルク。70インチのギア比、楕円形スチール製クランク、空気圧タイヤ(Pneumatiks)などを装備。
Brennabor 7 Neues feines leichtes Turenrad(新型上質軽量ツーリング車)。
 価格: 全3サイズ一律 180マルク。「Brennabor 3」より上位の豪華モデル。ニッケル仕様のリムや最高級のサドルが使われ、15マルクの追加で木製リムへの変更も可能。

自転車文化センター45周年

 自転車文化センター45周年

自転車文化センターの開館45周年を記念して、交通ルールに関する企画が開催されている。イベント内容: 「自転車青切符制度」に関するクイズに挑戦し、展示を見ながら参加すると、抽選で記念品が当たる企画。
開催期間: 2026年5月1日から開始され、記念品がなくなり次第終了。
会場: 自転車文化センターのギャラリー・ライブラリーにて。

イベントのポスター
自転車文化センター

2026年5月1日金曜日

「オーストラリアン・サイクリスト」誌

 「オーストラリアン・サイクリスト」誌

 「Australian Cyclist」(オーストラリアン・サイクリスト)誌は、1890年代からのオーストラリアの自転車界にとって中心的な情報源であった。

内容は、レース結果・クラブニュース・自転車広告・業界動向など。

サイクリング・ジャーナリズムの分野に参入するにあたり、少し説明をすると、その使命は、ビクトリア州だけでなく、南十字星の下にあるすべての土地で、レース、ツーリング、そしてサイクリングを促進することである。この植民地では以前にもサイクリング雑誌が発行されていた。最初に発行されたのは「ザ・バイシクル」で、10年以上前に数ヶ月間発行された。その後、「バイシクリング・ニュース」が18ヶ月で廃刊となり、さらに「オーストラリアン・サイクリング・ニュース」が1889年まで。その後、「オーストラリアン・ホイールメン」が、わずかな期間に登場した。

西オーストラリア州パースからニュージーランドのクライストチャーチ、タスマニア州ホバートからポートダーウィンまで、この広大な地域にサイクリングを普及させることで、自転車愛好家の心を結びつける。・・・


「オーストラリアン・サイクリスト」
メルボルン、1893年9月7日発行
創刊号

「オーストラリアン・サイクリスト」
1898年12月1日号
アッシャーの「トライアド」チェーンレス3段変速自転車
現代における最大の発明
50インチ、70インチ、116インチの3段変速ギア。走行中でも、衝撃、摩擦、騒音なしに瞬時に切り替え可能。最小限の動力で最大限の速度を実現。快適さ、優雅さ、経済性を兼ね備えているため、大きなメリットとなる。
この機構は、あらゆる自転車に適用可能である。

註、『Australian Cyclist』誌の創刊は、1893年9月7日である。

ビクトリア州のメルボルンで誕生したこの雑誌は、当初は週刊誌として発行され、瞬く間にオーストラリアを代表する自転車専門誌となった。
その後、1905年頃まで発行されたが、自転車ブームの終焉とともに、雑誌の内容も徐々に自動車やモターバイクの普及を支持する内容へと変遷した。

2026年4月30日木曜日

自転車世界一周 - 10

 自転車世界一周 - 10    

「自転車世界一周」ジョン・フォスター・フレイザー著

註、『Round the World on a Wheel』(1899) は、 John Foster Fraser、 S. Edward Lunn、 F. H. Lowe の3人が、1896〜1898年にかけて世界一周を自転車で走破した記録。以下は日本旅行の部分、その10。

奈良の森にて

私たちが訪れた日は神道の聖なる日で、その日に生まれた子供は、前日や翌日に生まれた子供よりも1歳年上と数えられた。何千人もの巡礼者が神社を訪れていた。八角形の帽子をかぶり、長い灰色の絹の衣をまとった、頬のやつれた老人が、杖を振りながら寺から寺へとよろよろと歩いていた。剃髪し、黄色の袈裟をまとった僧侶が、静まり返った参道を厳粛な表情で歩いていた。

愛らしい日本の乙女たちが、下駄を履いて、互いの肩に寄り添いながら腕を組んで歩いていた。木々は長い枝を小道の上にアーチ状に伸ばし、膝まで埋まるシダの中から鹿が飛び出してきた。長い角を持つ雄鹿と優しい目の雌鹿が、恐れることなく走り回り、鼻を人の手に押し付けて餌の匂いを嗅いでいた。鹿は人間と友好的に暮らしている。昼間は森や小道を歩き回り、日没時にはラッパの音が響き、軽快な跳躍で夕食と柵の中の避難場所を求めてやってくる。

杉並木が、松林に囲まれた寺院へと向かっている。幹は赤褐色で、緑の葉が優しくささやき、霜で赤くなったつる植物が頭上で揺れる。苔むした水盤に流れ落ちる水の音が聞こえる。古風で、はるか昔を思わせる静寂な地衣類に覆われた石灯籠が、道沿いに2、3列並んでいる。今夜は灯籠にろうそくが灯され、和紙の覆いが風を防ぎ、木々の間には美しい影が舞い、きっと妖精たちが陽気に過ごすだろう。

しかし今は午後で、光は薄紫色に染まっている。私たちは巡礼者たちの間を散策し、神社の赤い鳥居をくぐって本殿へと向かう。春日大社には、何百もの彫刻が施された緑青の灯籠が静かに揺れている。他にもたくさんの寺院がある。若宮神社では、黒髪をほどいた若い娘たちが、藤の花で飾られた薄絹の衣装をまとい、厳粛な舞を踊る。彼女たちは緋色の椿の枝を優雅に振り回す。老僧たちは鐘を鳴らし、経を唱える。
近くには、雑草が生い茂る静かな池がある。娘たちは手をつないで、黒い水面を悲しげに見つめる。何百年も昔、ここで美しい乙女が、身を投げたと伝わる。彼女は天皇の息子を愛していた。彼女は日本のオフィーリアだ。

森の薄暗い奥まった場所に、忘れ去られたような神社がある。大きく広がる軒と素晴らしい持ち送りは、芸術的に朽ち果てつつある。信仰が、寺院を神秘と詩情で包み込んでいる。鐘の響き、僧侶たちの声明、シダの間を歩く鹿のざわめき、少女たちの軽やかな笑い声が聞こえる。自転車のシューッという音が長い並木道に歌い、ロンドンの自転車乗りの「気をつけろ!」という叫び声が、静寂を破る。

またしても素晴らしい一日、澄み渡り、穏やかで幸せな朝が私たちを迎えてくれた。わずか35マイル離れた古都、京都へと出発した。

443頁
挿絵、神社の入り口

444頁

2026年4月29日水曜日

自轉車瓦版 第107号

 自轉車瓦版 第107号

昭和61年2月13日発行

★現代版ペダーセンはいかが?

Dursley Pedersenは今でも人気のあるクラシック自転車であるが、この程、現代風にアレンジされたペダーセンが入手出来る。価格は$1175とやや高価だが、乗り心地は Dursley Pedersen以上とか、希望者、八神商会へ。

★三元車に似た自転車は、「キング・オブ・ロード」という本に出ている シンガー・トライシクルであるが、 1880年の『THE CHALLENGE』というシンガーのカタログの中にも、同型の三輪車が出ている。ハンドルのグリップの形状を除いて、他は殆ど同じである。

★自転車と女性と言うと、すぐ思い出すのは、三浦 環である。しかし、それ以前に自転車と関係があった女性は意外と知られていない。その一人「自転車のお玉」は裏面史の彼方に、今にも消えようとしている。彼女が登場する時代は、自転車史そのものもよくわからない、明治8年頃である。だからどのような自転車に乗ったかもわかっていない。ダルマ自転車と言う人もあれば、ボーンシェーカーあるいは三輪車とも云う。まだまだ、自転車史は未知の部分が多いのである。

◎情報等をお待ちしております。


シンガー模造三元車 1883年(明治16年)頃

イギリスのシンガー社製三輪車 1879年
「キング・オブ・ロード」より

シンガー・チャレンジ三輪車 第1号
(折りたたみ式)1880年

2026年4月28日火曜日

ル・ヴェロセマン誌

 ル・ヴェロセマン誌

「アウティング」誌の中に『LE VELOCEMAN』誌の記事を引用して、フランスには良い自転車競技場がないことを嘆いている。

1886年9月15日付の、フランスの『LE VELOCEMAN』は、フランス国内に良質なトラックがないことを嘆き、イギリスで記録を打ち立てた優秀な選手たちがフランスで成功できなかった理由として、海外のトラックの方が国内のトラックよりも優れていることを挙げている。記事の結びはこうだ。「この重大な問題に真剣に取り組むべきだ。ためらうことなく、恒久的なトラックを建設しなければ、フランスにとって自転車競技は破滅してしまうだろう。」

とある。


263頁
「アウティング」誌
第10巻
1886年12月号

「ル・ヴェロセマン」誌
1885年2月15日

註、1885年2月15日に発行されたフランスの月刊自転車雑誌 『Le Véloceman』(ル・ヴェロセマン)の第1巻・第2号の表紙。
イギリスのコヴェントリーに拠点を置いていた D. Rudge & Co(D. ラッジ社)の広告。