2026年3月2日月曜日

自轉車瓦版 第89号

 自轉車瓦版 第89号 

昭和60年11月19日発行

★自転車の元祖については、いろいろと説があるが、 最近では、ドライジーネを元祖とする説が有力である。しかし、人間が自らの力で駆動させる乗り物が自転車であると定義づけるならば、ドライジーネは該当しないかもしれない。むしろそれは二輪車ではなく、三輪車か四輪車に求められよう。

1418年、ブルネレスキ(Filippo Brunelleschi) が革新的な巻上げ機を発明。

1420年、プーリを回転する四輪車を作った人があるとのる記録あり、(manu motive vehicles)マニュは手、モーティヴは動かすことで、手動式の意味を表わしている。
ジョヴァンニ・フォンタナ(Giovanni Fontana)。

1690年、ラ・ロッシェルの医師リチャードが、ペダルで動かす二人乗り四輪車を発明したと伝えられている。前方に乗った者は前輪を操舵し、後方へ乗った者は足踏みを上下して、ラチェットギャにより後輪を駆動する機構になっている。

ジョヴァンニ・フォンタナの歩行器
『ベリコルム・インストゥルトゥルム・リベル』
約1420年から1430年刊からの挿絵

ブルネレスキによるスケッチ
1430年

エリー・リチャードの四輪車
1690年

2026年3月1日日曜日

トーマス・スティーブンス

 トーマス・スティーブンス

下の図は、世界で初めて自転車で世界一周を成し遂げたトーマス・スティーブンス(Thomas Stevens)が、ペニー・ファージング(Penny-farthing)と呼ばれるダルマ自転車に乗っている様子。

彼は、1884年から1886年にかけて、このダルマ自転車で世界一周の快挙を達成した。

 この図版は、1888年の「バイシクリング・ワールド(Bicycling World)」という刊行物。 


Thomas Stevens
「Bicycling World」 print
1888年

2026年2月28日土曜日

ドライジーネ

 ドライジーネ関連

下の図は先般メタのサイトにアップされたもの。

あまり見かけないタイプのドライジーネである。

往年の医師たち(ドライジーネで往診する医師)

若きドライス男爵の発明により、当時の医師はスピードと献身性を兼ね備え、1 日のうちに、気を失った 30 人の女性と、倦怠感や偏頭痛に苦しむ同数の女性を診察できるようになった。


ドライジーネで往診する医師
年代は不詳
註、1820年頃のイラストか?

2026年2月27日金曜日

自轉車瓦版 第88号

 自轉車瓦版 第88号

昭和60年11月13日発行

★アンティーク自転車の斡旋(外国製)。

①ハーレー・ダビドソン 1920年 、オートバイで有名なハーレー社の自転車。ただしタイヤ欠損、 2.650ドル。
② シュイン1950年(男性用 ) 2.275ドル。
⓷シュイン1950年(女性用)  1.675ドル。
④シルバー・キング1936年 アルミニューム・フレーム  1750ドル。
⑤ ロイヤル・スウィング・マシン社 1883年 前輪50インチ、オーディナリー、 タイヤを除きすべてオリジナル、 価格応談、問い合わせ先、 (株)八神商会 (自転車の価格には、送料・手数料・その他の費用は含まれていない。)

★瓦版86号に鉄砲鍛治についての記事があったが、堺の鉄砲研究合の会長・澤田氏とは懇意であり、自転車との関係については色々と異論を出し合っている仲である。ネジについても鉄砲 からという説もあるが、私はやはり自転車関係から「始まり」を重視したいと考えている。しかし、日本の自転車の発展も製銃技術をぬきには語れない。外国でもBSA等以前は製銃会社であった例は多い。世界の自転車で、 外国名→自転車を始める前→自転車製造 →以降の製品といった流れも一つの研究課題と思っている。(大阪・ 高橋 勇氏)

1900年のカタログより

註、The Birmingham Small Arms Company Limited、1861年、バーミンガムのGun Quarterにて創業。

2026年2月26日木曜日

ホイールマン誌

 ホイールマン誌

第1巻 1882年10月~1883年3月

地図、

自転車乗りによる描画

1879年9月11日~12日 2日間の走行記録

この記事の目的は、馬の現代のライバルである自転車を賞賛したり非難したりすることではなく、約40人ほどの二輪車の所有者が、アーティストの言葉を借りれば、どのように楽しんだかを明らかにし、2日間の走行の出来事のいくつかを記録することである。

自転車クラブのメンバーと、役員を持たず「無所属」のアマチュア数名が集まった。9月の朝、彼らは1人か2人ずつすれ違いながら会合場所へと向かった。そこは、現在はボストン市の一部となっている。かつてのロクスベリーにある。広く曲がりくねった大通りの入り口だった。ロクスベリーはこれまでにも多くの自転車を目にしてきたが、これほど多くの自転車を一度に目にしたことはない。服装の多様性、ナップザックやコンパクトな「マルチム・イン・パルボ」バッグといった装備には、何か目新しいものがあり、これからの旅を予感させていた。

ボストン自転車クラブとマサチューセッツ自転車クラブのユニフォームは馴染み深かったが、ウースター自転車クラブの上品なグレーの衣装、ハートフォード家の白いフランネルシャツと明るい色のストッキング、そして「E. Bi. C.」と記された青いポロキャップ、そしてニューヨーク、ワシントン、セーラムの男たちの奇妙な服装は、街へ向かう早朝のビジネスマンたちの目に留まった。・・・


5頁

「ザ・ホイールマン」
サイクリングに関する文学とニュース
イラスト入り雑誌
第1巻
1882年10月~1883年3月

2026年2月25日水曜日

自轉車瓦版 第87号

 自轉車瓦版 第87号

昭和60年11月9日発行

★社団法人 横浜市観光協会から出ている「横浜のたより」というタウン誌の11月号に、次のよう記事が載っていた。『石川孫右衛門は、横浜居留地のチリドル商会で、はじめて自転車に乗った外国人を見て「自転車は汽車につぐ速さで、どんな道でも練習すれば走ることができる機械」と説明され、乗り方を教えてもらいました。彼は、まだ貸自転車をやってるものは誰もいないから、この便利な自転車を時間貸しすればもうかる」と考え、翌日に16台の自転車を注文。元町に輪乗場を作り、指導員に外国人を雇って石川商会を開業したのは、明治10年(1877)でした。仕事に役立てる生糸商人やふるさとへの土産話に借りる奉公人が多く、一年でモト金をかせぐことかできたそうです。』

ところで、この記事については出典が書かれていないので、どの資料から引用したのか分らない。確か『横浜もののはじめ』という本にも同じような文章があったと記憶するが、内容がちょっと違っている。 それは、「輪乗場」とか「指導員に外国人を雇って石川商会を開業」など、どうもなかったような気がするからだ。もう一度『横浜もののはじめ』を探し出して読んでみることにしたい。しかし、『横浜もののはじめ』もかなり内容が根拠不明で出典のないものが多い。一時資料に当たっていないし、古老の話などを採用している可能性もある。

下記の絵は、同記事にあった插絵である。どういう訳か明治30年代の空気入りタイヤの安全型自転車である。 「明治10年と言えば、まだミショー型か三輪車の時代である。ミショー型にしても、根拠資料は希薄であり、錦絵の一部に描かれている程度にすぎない。


不自然な挿絵

しん板車づくし 横浜鉄道図 豊重画 版元
綱島亀吉 明治5年頃
国立歴史民俗博物館所蔵

2026年2月24日火曜日

橋本商会 - 2

 橋本商会 - 2

  以下は明治40年ごろの橋本商会の正価表、

ハンバー會社の二重作用ハンドブレーキは今や非常の成效を以て各地に現はれ最とも完全せりとの賞賛を博せしが、殊に自由輪則ちフリホィルに用いて著しき其有效なるを證せり、此のハンドブレーキに於ける二要點は之を車に適用せし時絶へず後車の中央輪を握り亦取り外づす時通常の車体となるなり、バンドは鞍と脚に附せる飾釘内部螺狀彈力機に依て支持せられ、別に固着せし個所あるにあらずバンドの動作は同時に此の螺狀弾力機を緊壓せしめ足部の壓力は中央前よりバンドを離れしめて再び通常の位地に之を迎へず、バンド高く離れざるため且つ共底部を中央輪に觸れざらしめん爲め之を防ぐ制楔あり常に注意して革ハンドを滑らかならしむるは肝要なることなれども此場合には宜しく黒鉛を使用すべし共機械油を使用するには優れるはハンバー會社の多年試験せし慮なり・・・

3頁

4頁

5頁
ハンバー社インペリアル號
220円