2023年10月31日火曜日

清輪 - 3

清輪 - 3

 「清輪」第7号 清輪社 1905年9月15日発行

本誌顧問子爵 松井康義氏 號如連

松井 康義(まつい やすよし、1871年7月5日 - 1915年10月15日)は、旧川越藩藩主・松井松平家14代当主。

帝国陸軍では、ドイツで導入されていた自転車の軍事使用について研究、これを「慶應義塾自転車倶楽部」が聞きつけて演習に参加した。陸軍歩兵大尉・梅津元晴、歩兵曹長・古屋精造、歩兵曹長・江頭正治の3名が参加し予想以上の好成績を挙げた。

註、不鮮明だが写真をよく見ると、自転車はXフレームである。フォークもシートチューブも変わっている。舶来と思われるがメーカー名や銘柄は分からない。如連號も先に紹介した雷鳴號同様に愛称であろう。

松井康義 如連號
国会図書館所蔵資料

2023年10月30日月曜日

中村春吉自転車世界一周無浅旅行記

 中村春吉自転車世界一周無浅旅行記

下の資料は、NCTC 双輪旅行 №4 昭和26年12月20日発行
である。
先般、瀧川美佐緒氏からこの資料を入手。
 
中村春吉自転車世界一周無銭旅行記
菅沼達太郎

表題の旅行については恐らく知らぬ人が多い事と思ふし、我々のサイクリングとまんざら縁遠いものでもないので、貴重な紙面であるが昔の記憶を呼起して其大要を記す事としやう。
此の旅行記は明治四十五年頃博文館から出版された四六判五〇〇頁くらいの単行本で、表紙の絵は小杉未酔(放庵)画伯筆の漫画風の絵で、ヤシの木が茂り遠景に印度寺院の屋根が見える、四十度位の急斜面を自転車で下っている構図である。
巻頭に四・五枚の写真がある。
明治四十年代は自転車が一般には実用と娯楽との半々位の時で、当時の青年雑誌「探検世界」には時々自転車旅行法などといふ記事も出て、自転車旅行に関する興味は知識階級へ相当普及していたやうである。登山よりも徒歩旅行と称して山岳高原を歩く事が学生層に流行し、それと兼ねて無銭旅行と云ふ方式も採用された。無銭旅行と云っても乞食式の旅行ではなく、今日の登山に似たもので、自炊し野営しつつ旅行するものが多かった。
中村春吉氏は何も自転車愛好家と言ふ訳ではなく将来貿易を業として大いに活躍する為には一と通り世界各国の状況を一見する必要ありと感じたが、その旅費が無いので道々労働しつつ旅行する所謂無銭旅行の形式をとり、最初は徒歩旅行と考へたが、歩いていたのでは無暗に時日を要するので、当時流行の自転車を使用する事に決めた。
横浜の生糸貿易商某氏が中村氏の壮挙を知って後援する事となり、自転車一台と横浜カルカッタ間の切符を寄贈した。その車は私の記憶ではランブラーと云った。巻頭挿入の写真では英車か米車か独車か判断がつかない。しかし当時の車ゆえ舶来品に相違あるまいか・・・。
浅い曲りのノースロード型のハンドルバー、 前車ブレーキは前輪タイヤを押して制動す式で後車にはブレーキが無いので固定ギヤであろう。チェーンホイールは四十四枚らしい、泥除けはあるがギヤケースは無くペダルはラットトラップ、頑丈そうに見へぬが中村氏考案の荷掛けが付いているがスタンドは無い。当時我が国には荷掛けやスタンドは販売されていなかった。
ランプについては面白い事が書いてある、当時はダイナモランプは無く、石油ランプかアセチレンガスであったので中村氏は珍考案をしている。プリキ缶へ高野豆腐を石油に浸したものを入れてこれに点火する。火持ちも良く普通の石油ランプよりも明るいと云ふのである。 無論ブリキ缶と簡単に書いてあったが自転車用ランプとしての型式は揃っている訳で、自転車に取付けてある所を見ると普通の石油ランプと大差ない型である。
然し長い旅行中高野豆腐を何処で補充するかは明記されていない。
出発当時の荷物は後車上の荷掛けのみに一括して付けてあるのみで余り嵩張っていないが、内容は天幕、毛布、炊事用具、修理用具、応急食料、急救医薬品、其の他現在我々がキャンピングに行く時に携行する程度の備品名が掲げられている。
中村氏の発出当時の服装は明治時代のニュールックで、耳覆付のハンチング、黒っぽい四つ釦シングルの上衣とネズミ色のズボン、白ズックのレッギング(日露戦争当時の軍用ゲートル)に編上・・・・

註、自転車はランブラーで間違いない。押川春浪の冒険小説『中村春吉自転車世界無銭旅行』にある写真のチェーンホイールの模様と本文にもランブラーとの記載がある。


表紙
資料提供:瀧川美佐緒氏
以下同じ

40頁

41頁

42頁

43頁

44頁

2023年10月29日日曜日

清輪 - 2

 清輪 - 2

「清輪」第2号 明治38年4月15日発行

札幌輪士 岩根 寛 君と雷鳴号

註、当時、北海道の牧場主(日高沙流郡波恵牧場)に岩根 寛と云う人物がいたが、同一人であろうか。

號雷鳴は初めて聞く銘柄である。どこのメーカーのブランド名か。それとも単なるこの自転車だけの愛称か、明治38年では舶来車の可能性あり。

背景からしてどこかの写真館で撮影。この写真を拡大して見ると前後ブレーキが見当たらない。或いはコースターブレーキかそれとも固定ギヤか。トップチューブ後方の三角形カバンが洒落ている。


岩根 寛と號雷鳴
国会図書館所蔵資料

2023年10月28日土曜日

清輪 - 1

 清輪 - 1

下の写真は明治期の自転車専門雑誌「清輪」の創刊号から、

写真のキャプションに、

(10年前の輪友)明治30年11月3日、向島松島園に於いて撮影

京濱内外の輪士の遠乗会

とある。

「清輪」清輪社 1905年(明治38年)3月10日発行

ざっと数えて100人近いサイクリストが集合している。


明治30年11月3日、向島松島園
国会図書館所蔵資料

42、43頁
自転車便覧

2023年10月27日金曜日

アサートンの三輪車

 アサートンの三輪車

下の図はアサートンの三輪車の特許である。

その構造や駆動方法を注意して見るとなかなかユニークで楽しい。

あらゆる形式の自転車の仕組みがこの中にすべて包含されているように思える。

米国特許庁、ヴェロシペードの改良。

ダニエル・W・アサートン、ミシガン州デトロイト在住。

特許状 第 92,689 号、1869 年 7 月 20 日付け

United States Patent Office.

IMPROVEMENT IN VELOCIPEDES.

DANIEL W. ATHERTON, OF DETROIT, MICHIGAN.

Letters Patent No. 92,689, dated July 20, 1869.


特許図面

特許状 第 92,689 号
1869 年 7 月 20 日付け

2023年10月26日木曜日

137年後のスティーブンス - 6

 137年後のスティーブンス - 6

2023年9月24日に長崎をスタートした、エリック・ナイトさんとマイク・ケネディーさんは、昨日(10月25日)に無事横浜に到着したことは、既にこのブログで紹介したが、このニュースは朝日新聞をはじめNHKでも報道された。

NHKの動画は以下に、

神奈川 NEWS WEB
ダルマ自転車で長崎から1500キロ走破 ゴールの横浜に到着
10月25日 15時29分

https://www3.nhk.or.jp/lnews/yokohama/20231025/1050020253.html


2023年10月25日水曜日

137年後のスティーブンス - 5

  137年後のスティーブンス - 5

2023年9月24日午前10時に長崎水辺の森公園をスタートした、エリック・ナイトさんとマイク・ケネディーさんは、いよいよこの旅のフィナーレを迎えた。

今日は山下公園付近でダルマ自転車の車輪浸漬式という儀式が行われた。


Country Roads JapanのHPより

2023年10月24日火曜日

自転車曲乗り

 自転車曲乗り

下の写真は大正期頃の自転車曲乗り、サーカスの絵葉書などである。

いまでもこのような絵葉書は時々ヤフオクに出品される。

註、曲馬団(きょくばだん)とは、 

曲馬・軽業・奇術などを興行しながら、各地を回る芸人一座のこと。サーカス。


一輪車曲技

矢野大曲馬団スター
針金渡り

矢野大曲馬団
自転車曲乗り

自転車アップ

赤林曲馬団

日本アームストロング一行
木下愛子

一輪三人乗り
中京 赤林曲馬団

赤林曲馬団

自転車曲乗り興行チラシ


日本で最初に自転車の曲乗りをはじめた人物はだれか。私がすぐに思い出すのは、あの富士山を自転車で滑降した鶴田勝三とボーンである。
富士山頂での鶴田やボーンが曲乗りをしている写真が残っている。
 鶴田勝三は当時、自転車競技の一流選手であった。明治31年11月6日に東京上野の不忍池畔で開催された自転車大競走会の二十哩競走で、横浜バイシクル倶楽部のドラモンドとの一騎打ちで見事に優勝している。ボーンは、ウィリアム・C・ヴォーガン(William .C.Vaughn)というアメリカ人で、横浜商館のアンドリュース&ジョージ合名会社(横浜市山下町242番館)の社員であった。彼も自転車競技選手であり、曲乗りも得意としていた。
自転車曲乗りの流行のはじまりは、明治33年6月にパリの大博覧会に向かう途中に来日したアメリカのシッド・ブラック一座の興行からのようである。この一座は回向院や三崎町の東京座などで二週間ほど興行し、大盛況を博した。この興行にもボーンが一役買っていた。日本の自転車曲乗りのはじまりはどうやらこのボーンとシッド・ブラック一座の影響と思われる。
明治34年4月1日発行の雑誌「自轉車」に読者が部門別に十傑を投票で選んでいる。その投票結果が次のように掲載されている。投票は過去にこの誌上で2回行われ、今回が3回目の投票。部門は全部で十傑であるから10あり、名望家、博識家、競走家、曲乗家、旅行家、斡旋家、実験家、着実家、自転車商店、技術家となっている。
曲乗りの名人は次のような順位であった。
1位 1,560票 小林作太郎  芝浦製作所
2位 975票  鶴田勝三   芝区公園
3位 819票  岡田芳之助  大阪北区北道頓堀通
4位 654票  山崎健之極  京橋区八官町
5位 573票  池田 勗   大阪市本町一丁目
6位 348票  梅津元晴   牛込区若松町
以下略
この投票結果をみるかぎり、どうやら自転車曲乗りの名人は小林作太郎であることが分かる。それでも鶴田はやはり2位に入っている。もちろん競走家の1位は892票を集めた鶴田勝三であった。
以下十傑に決まった人物をあげると、伊東琴三(名望家)、梅津元晴(博識家)、鶴田勝三(競走家)、小林作太郎(曲乗家)、那珂通世(旅行家)、小池菊次郎(斡旋家)、北村友吉(実験家)、小柳津要人(着実家)、四七商店(自転車商店)、梶野商店(技術家)以上である。
やはりそうそうたる顔ぶれが選ばれている。伊東琴三、北村友吉、小池菊次郎は帝国輪友会の古参会員。梅津元晴は陸軍歩兵大尉で『自転車指針』(明治35年11月1日厚生堂発行)の著者でもある。小林作太郎は芝浦製作所(現・東芝)の工場長。那珂通世(なかみちよ)は歴史学者(東洋史)。小柳津要人(おやいずかなめ)は丸善社長で翻訳家であった。

鶴田勝三 富士山山頂で曲乗り
自転車はアメリカ製デートン号
輸入元 双輪商会 東京市京橋区木挽町
明治33年8月21日

曲乗り名人 小林作太郎

2023年10月23日月曜日

ダルマ自転車旅行

 ダルマ自転車旅行

 今日は長崎から横浜までをダルマ自転車で旅行中のエリック・ナイトさんとマーク・ケネディーさんに小田原城で会う。

2023年9月24日午前10時に長崎をスタートし、本日は小田原に到着した。

お堀端の喫茶店で、137年前に同じルートを旅行したトーマス・ スティーブンスの話題で盛り上がる。

彼らは、そのスティーブンスの再現旅行である。


小田原城

エリック・ナイトさん

右はマーク・ケネディーさん

酒匂川左岸のサイクリング場

今日の富士山

彼らが作成したパンフレット

裏面

2023年10月22日日曜日

盗まれたトライアンフ自転車

 盗まれたトライアンフ自転車

下の写真は30年以上前に盗まれたトライアンフ自転車である。

当時、5分ほど郵便局の前に止めていて、戻ってみたら消えたようになくなっていた。

直ぐに家に帰りこの自転車の写真を何枚か持って、駅前の交番に盗難届を提出した。

だが、それ以来戻ることはなかった。自分の不注意であったことは認めるが、この自転車が気に入っていただけに残念でならない。

この自転車は浜松に単身赴任した時に入手したもので、安い買い物ではなかった。

当時のメモに、

1980年11月11日(火)晴れ

浜松市千才町の共栄モータースで、それぞれ1960年頃のラレー・ロードスターとトライアンフ軽快車を購入。

とある。


SOUBEITEZのダイナモ・ライトは
後で取り付け

浜松の官舎で撮影

同時に購入したラレーロードスター

137年後のスティーブンス - 3

 137年後のスティーブンス - 3

2023年9月24日午前10時に長崎水辺の森公園をスタートした、エリック・ナイトさんとマイク・ケネディーさんは、いよいよこの旅の大詰めを迎えている。

昨日、箱根に到着した彼らは、今日はサイクリングを休み、明神ヶ岳までのハイキングを行った。目的は明神ヶ岳から富士山を眺めることであったが、生憎雲に隠れていた。だが時より雲の間から雪を頂いた山頂付近を見ることが出来たようである。

明日は箱根宮城野のホテルを出発して小田原、平塚、茅ケ崎を経由して戸塚までサイクリングの予定。

プロジェクトダルマのサイトには次のようにある。

2023年10月22日、Day 29: Hiking in Hakone Yumoto (第29日目:箱根湯本のハイキング)

プロジェクトダルマのチームは 「休息日」に何をするか?

箱根湯本の山(明神ヶ岳、標高1,169m)にハイキングに行く。

標高900メートル以上へのハイキングはよかったが、予想より体力を消耗した。しかし、努力する価値は十分にあった。途中の竹林や浸食された登山道は、変化に富んだ経験をさせてくれた。

富士山は一日の大半雲に覆われていたが、雲の隙間から山頂を垣間見ることができた。

明日、どこに泊まるかはこのルートを走り判断する。トーマス・スティーブンスも通ったであろう東海道の宿場のひとつ、戸塚を目指すつもりだ。しかし、渋滞であまりに遅くなるようなら、茅ヶ崎近辺に立ち寄るかもしれない。


2023年10月21日土曜日

ラレーの思い出

 ラレーの思い出


日本自転車史研究会の会報「自轉車」第52号 1990年5月15日発行より



1984年3月22日 大阪城にて
左端が中山さん
オリジナルの写真
写真提供:山中唯裕氏






カワハラ・コレクション

 カワハラ・コレクション

下の写真も撮影してから既に30年ほどになる。
岡山の河原コレクション(3か所の店に保管)である。
一時、マスコミでも紹介され話題を呼んだ。
コレクションの中には岡山出身の名選手、出宮順一のユニフォームなどもあった。
このコレクションの中で特に興味を引いたのは、国産と思われるボーンシェーカーである。

これらのコレクションはその後に処分され現在見ることができない。

☆出宮選手のユニフォーム
我楽苦多二輪資料館では、出宮選手が1936年のベルリン・オリンピック大会に出場した際着用したユニホームを見せていただいた。この白いユニホームには、胸の部分に赤い字で「NIPPON」と書かれ、背中には千人針で刺繍された日の丸があった。 
 出宮順一選手は、当時の一流選手で、特にオリンピックの同年の1936年にスイスのチューリヒで開催された男子個人ロードレースに於いて日本人初の7位入賞をはたした。
 この7位の記録から既に90年近くになるが、未だにオリンピック、世界選手権大会の男子個人ロードレースでこの記録を上回る日本人選手は現れていない。

註、我楽苦多二輪資料館について
岡山駅近くに、私設の自転車博物館が2001年10月7日オープンした。
開設したのは岡山で50年以上自転車店を経営する河原 正氏、集めた自転車は300台以上。明治時代のボーンシェーカーをはじめ昭和30年頃までの実用車等を多数展示。現在は廃館。



重量運搬車

1950年代の実用車など

河原氏は若い頃アマチュアの自転車競技選手



これが注目の和製ボーンシェーカー

ユニフォームなど

知事賞 五哩で優勝
田中久吉選手還暦記念自転車競走大会
昭和23年10月24日

田中久吉選手還暦記念自転車競走大会
3番目が河原氏
この写真は河原氏提供

自転車オートバイとスクーター





アセチレンランプなど



河原氏とダルマ自転車
右側には和製ボーンシェーカー
写真提供:河原氏