2026年5月21日木曜日

デジタル・ライブラリー(更新)

 デジタル・ライブラリー(更新)

  日本自転車史研究会デジタル・ライブラリー 

現在、日本自転車史研究会では会報などに掲載された投稿記事のデジタル化を進めている。

今後、デジタル編集が終わったものから逐次ネットにUPを予定。

(他のサイトからの記事もあり)

 20261月18日現在、

1、知られざる銀輪の”わだち 大津幸雄

2、日本の自転車史と鑑札 高橋 勇

3、歴史を大事にしたい 今井彬彦

4、カレンダーに見る山王とロン・キッチンそして鳥山新一 渋谷良二

5、ドライジーネとミショー型の歴史 小林恵三

6、梶野仁之助伝(改訂版) 大津幸雄

7、日本の自転車史・その疑問点(改訂版) 大津幸雄

8、日本における自転車の製造・ 販売の始め 齊藤俊彦

9、自転車の歴史探訪 大津幸雄

10、「自転車学」の提唱 佐野裕二

11、日本のオーディナリー型自転車の歴史 大津幸雄

12、資料で読む中村春吉 大津幸雄

13、NCTCの分派 渋谷良二

14、自転車産業技術の変遷に関する一考察 渡邉喜久

15、「第三フランス通信」について 渋谷良二

16、彦根藩士「人力自走車」創製の記録 大須賀和美

17、自転車全書 松居松葉

18、ロンドン・ペダリング 大津幸雄

19、アンチック自転車 高橋 勇

20、創立20周年を迎えて 石原政雄

21、日本の自転車製造業の歴史 大津幸雄

22、パリの古本屋をたずねて 瀧川美佐緒

23、初めてのサイクリング 大津幸雄 

24、日本の自転車灯火 梶原利夫

25、オーディナリー自転車について 大津幸雄

26、江戸中期の自転車「陸舩車」  真船高年

27、日本の自転車の歴史(遺稿) 佐野裕二

28、History of The Ordinary in Japan Yukio Ootsu

29、歴史は繰返す”スポークの折損より 井上重則

30、お寺にあったダルマ自転車 大津幸雄

31、旅と自転車史 植原 郭

32、日本輪友会について 大津幸雄

33、自転車発展の途をたどる 高木六弥

34、日本自転車史の脇役たち 高橋 達

35、自転車はどこを走ればよいのか? 大津幸雄

36、Around the world on a bicycle  ThomasStevens

37、自轉車利用論 金澤来藏

38、Bicycles & tricycles  Archibald Sharp

39、Across Asia on aBicycle Allen and Sachtleben

40、各地の自転車小史 須賀繁雄

1The Modern Bicycle  Charles Spencer

2Round the World on a Wheel John Foster Fraser

43、自転車発明の始祖に思う 奈良重幸

44、自転車術 渡辺修二郎

45、名古屋デザイン博の自転車イベント 大津幸雄

46、「 自転車」のスポーツ史的考察 奈良重幸

47、日本の自転車製造業の歴史(改訂版) 大津幸雄

48、遠いフィンドレー 大津幸雄

49、ドライジーネの原書コピー 八神史郎

50、郵便と自転車 斧 隆夫

51、自転車史研究ノート 稲垣正浩

52、明治12年と自転車 齊藤俊彦

53、人力飛行の夢を追って 稲垣正浩

54、明治末の鳥取における自転車競走 大熊広明

55、ジャパンパンチ・ワーグマン 高橋 勇

56、ニュースレター・バックナンバー 大津幸雄

57、娯楽俱楽部 民友社

58、日本の自転車製造業の歴史(改訂新版) 大津幸雄

59、郵便と自転車 大津幸雄

60、明治期の埼玉における自転車事情 佐竹慎太郎

61、名車 "Rene・HERSE" 上野修一

62、スティーブンスの自転車世界一周 大津幸雄

63、簡易写真術 扶桑商会

64、1985年版資料目録 日本自転車史研究会

65、Velocipedes  Bicycles and Tricycles  1869 Velox

66、日本で最初の自転車旅行 大津幸雄

67,輪界追憶録 佐藤半山遺稿

68、輪界追憶録について 高橋 達

69,佐藤半山の遺稿 高橋 達

70、スティーブンスの日本での旅程 大津幸雄

71、アメリカン・スターについて 大津幸雄

72、堺の自転車 堺輪業協会

73、外装変速機のすべて 前田鉄工所

74、簡易自転車修繕法 佐藤喜四郎

75、ホルストマンの日本滞在記 大津幸雄

76、フランク・レンツとビクター号 大津幸雄

77、陸奔車の中川泉三  大津幸雄

78、正田門弥の千里行車について 大津幸雄

79、ヴェロシペードの時代 大津幸雄

80、ラントーン(RANTOONE)について 大津幸雄

81、「提督の物語」のヴェロシペード 大津幸雄

82、ヴェロシペードの時代(増補版) 大津幸雄

83、「ジャパン・パンチの自転車」-1 真船高年

84、自転車の復権 大津幸雄

85、千里行車と陸奔舟車の駆動方式 大津幸雄

86、自転車の切手について 大津幸雄

87、日本最初のサイクリング? 小林恵三

88、やはり明治の自転車リロイ号 大津幸雄

89、ジャパン・パンチの自転車 -2 真船高年

90、ジャパン・パンチの自転車 続編 真船高年

91、埴 亀齢の三輪車 大津幸雄

92、郵便と自転車の出会い 大津幸雄

93、足柄・箱根サイクリング 大津幸雄

94、南アルプススーパー林道サイクリング 渋谷良二

95、世附サイクリング 大津幸雄

96、第1回ポリージャポン 大津幸雄

97、門弥が先か? 大津幸雄

98、ラレーの思い出 山中唯裕

99、自転車年表 大津幸雄

100、サンビームのレストア記録 小池一介

101、リンゲのボーンシェーカー 大津幸雄

102、日本の自転車史 大津幸雄

103、会報「自轉車」創刊号 日本自転車史研究会

104、自転車の起源はどこにあるのか 小池一介

105、モトゥス 陸奔舟車  日本自転車史研究会

106、レンツの日本自転車旅行 大津幸雄 編

107、自転車店の老舗探訪 大津幸雄

108、スティーブンスの日本旅行記 大津幸雄 編

109、続・スティーブンスの日本旅行 大津幸雄 編

110、石川商会について 大津幸雄

111、自転車世界一周 大津幸雄 編


2026年5月20日水曜日

自転車世界一周 - 最終回

 自転車世界一周 - 最終回

「自転車世界一周」ジョン・フォスター・フレイザー著

註、『Round the World on a Wheel』(1899) は、 John Foster Fraser、 S. Edward Lunn、 F. H. Lowe の3人が、1896〜1898年にかけて世界一周を自転車で走破した記録。以下は日本旅行の部分、最終回

日本のもてなし

日本の子供たちが最も心待ちにする祭りが終わると、人形は梱包され、翌年の祭りまでしまっておかれる。

東京と横浜、イギリス人も日本人も、私たちを大いに歓迎してくれ、多くの称賛の言葉をいただいた。恥ずかしくて顔が赤くなっていただろう。日本の伊藤首相は、ある晩、東京の私邸で私たちのために晩餐会を開いてくれた。多くの閣僚が出席し、私たちは20か月ぶりに(借りた)黒いコートを着て、(これも借りた)糊のきいた硬いシャツを着た。首相は魅力的な方であった。

ある日の午後、私は日本アジア協会の会員の方々に、中国西部の部族、交易、地形について、長々と講演した。英国公使のアーネスト・サトウ卿が議長を務めていた。しかし、私にはもっと興味深い経験があった。東京大学の学生千人を前に、現代イギリスのジャーナリズムについて講義した時のことである。教授の一人が議長を務め、講堂は着物を着た若い日本人で満員、皆が1時間の講義に真剣に耳を傾けていた。特筆すべきは、東京大学にこれほど多くの英語を理解できる若者がいるということであった。

また別の夜には、横浜リライアンス・ホイールメンによる賑やかなコンサートがあり、私たちは招待された。さらに別の夜には、横浜アンリライアブル・ホイールメンに夕食会を催してもらった。このアンリライアブル・クラブはスコットランド人とユーモア作家で構成されている。入会資格は、50ヤードごとに自転車で転倒すること。合言葉は「ダミモフ」で、会費を支払っていることが発覚すると即座に会員資格を剥奪される。

それは楽しいディナーパーティーで、私たちは名誉会員に任命され、バッジを授与された。メニューカードはなかなか凝ったものだった。それぞれ日本人アーティストによって手描きされたものであった。表には「アンリライアブルズ」のバッジ。壊れた車輪、牛乳瓶、そして世界一周自転車旅行者たちの伝説が描かれた盾。裏面には絵が描かれていた。片隅から富士山がそびえ立ち、その上には世界が広がっていた。大陸は茶色、海は青く塗られ、その頂上を3人の自転車乗りが走っていた。カードの裏面には、赤いひげを生やしたスコットランド人がキルト姿で柱の頂上に座っている。「アンリライアブルズ」は、これは「我々3人の中で謙虚な男へのさりげない賛辞だ」と付け加えた。

しかし、祝宴と陽気な騒ぎはついに終わった。日本に別れを告げる夜がやってきた。どんよりとした、みぞれ混じりの雨の夜だった。私たちは仲間の「自転車」たちと小さな蒸気船に身を寄せ合い、横浜湾の暗闇へと蒸気を噴き出しながら進み、別の大陸へと運んでくれる巨大な太平洋汽船、ビクトリア号の黒い船体に乗船した。夜明けとともにエンジンが唸りを上げ、船は出航した。私たちは甲板に出て、愛する日本に別れを告げた。中国を後にした時は喜びでいっぱいだったが、日本を去る時は悲しかった。楽しい時間をたくさん過ごしたからだ。

私たちは太平洋を横断し、北極圏へ向かって航行した。カムチャツカの雪と氷のような風が吹き荒れる場所、そしてはるか北の荒波が荒れ狂う海へと向かい、アリューシャン列島の風下側にたどり着いた。西経180度線を越えると、ちょうど地球の反対側、グリニッジ子午線のちょうど反対側、西経180度線を越えたところで、1日分の航海時間を稼いだ。暦の日付より1日遅れて寄港する。こうして、1898年3月11日金曜日、イギリス領のバンクーバー島に寄港し、ビクトリアという小さな町はまさにイギリスの雰囲気に満ちていた。船を乗り換え、海岸沿いを800マイル南下し、ゴールデンゲートをくぐってサンフランシスコに到着した。サンフランシスコ!私たちはこれまでずっと東に向かって旅をしてきたのに、今や極西にいることに気づいた。これまでは常にイギリスから遠ざかっていたのに、今や私たちの顔はイギリスに向かっているように感じた。


461頁

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日本アジア協会
フレイザー氏による講演
Internet Archiveより


The transactions of the Asiatic Society of Japan 26;1898
日本アジア協会
ビルマ北部と中国西部を巡って
水曜日の午後、東京の教区会館で、ジョン・フォスター・フレイザー氏によるビルマと中国を巡る最近の旅についての講演を聞くため、日本アジア協会の会合が開かれた。英国公使のアーネスト・サトウ卿(K.C.M.G.)が議長を務め、協会の会員が多数出席した。
アーネスト・サトウ卿はすぐに旅行者に講演を依頼した。
フレイザー氏は講演の中で次のように述べた。「日本アジア協会のような学識ある団体の会員の皆様に講演を依頼されることは、最も立派な人物でさえ誇りに思うでしょう。私は本日、皆様の注意を引く必要は全くありません。」確かに、私が馬ではなく自転車でいくつかのあまり知られていない国々を旅したという事実だけでも、賢明な人なら立ち止まって「この人は一体どんな変わり者で、地形や風俗、交易などについて一体何を知っていて、何を語れるというのか?」と疑問に思うでしょう。ですから、私のような謙虚な人間でさえ意識している、ささやかなスポーツの栄光という重荷は、このような機会には助けになるどころか邪魔になる傾向があることを認めざるを得ません。しかし、私がこれから話す国々を旅したのは、まさに自転車乗りとして、2人の仲間と共に、ビルマ語を2語しか知らないままビルマを旅し、中国を5ヶ月かけて横断した後も、知識は僅かでした。気圧計とコンパス以外には、計器類は何も持っていません。私が道中で得た情報は、あくまでも観察と、その土地について多かれ少なかれ知識のある人々との会話から得たもので、私が権威者を装うつもりは一切ないことを断っておきます。・・・

2026年5月19日火曜日

自転車世界一周 - 18

 自転車世界一周 - 18    

「自転車世界一周」ジョン・フォスター・フレイザー著

註、『Round the World on a Wheel』(1899) は、 John Foster Fraser、 S. Edward Lunn、 F. H. Lowe の3人が、1896〜1898年にかけて世界一周を自転車で走破した記録。以下は日本旅行の部分、その18。

真の東京

彼は、並外れた礼儀正しさの持ち主だった。そして、日本の自転車界の重鎮、カービー氏。彼はミカドの国で初めてダルマ自転車を走らせ、最初のセーフティ、最初のクッションタイヤ、最初の空気入りタイヤ装着の自転車に乗った人物だ。彼らと共に、他にも紳士たちがいた。間もなく、私たちは東京の途方もなく広い通りに出た。東京は、直径8マイル(約13キロ)、人口200万人近い大都市だ。私たちはここで数日間滞在し、そして横浜に戻り、再び東京へ行き、この二つの都市を3週間近く往復した。

私の意見では、形容詞を多用する作家たちによって、東京について世の中に多くの熱狂的なナンセンスが広められてきた。確かに日本には美しいものがたくさんあり、作家がトルコ絨毯のような文体で書き綴りたくなるような魅力がある。しかし、「日本的」という言葉は美しさと同義ではなく、東京は大衆的に見ればむしろ醜い場所でもある。確かに、古い城を守る巨大な石造りの城壁、木々に縁取られた長く静かな堀、門の上に建つ奇妙な白塗りの中国風の家々には独特の趣がある。桜が満開の頃には、上野公園はさぞかし美しいだろうし、東京の皇室霊廟である芝公園には、神社や神道の社、時を経て緑化した大きな青銅の灯籠があり、金漆塗りの素晴らしい石棺を見ることができる。そして、街路には数多くの美しい光景が見られる。寺院の周りでは、様々な人々が行き交う様子に魅了されるだろう。しかし、これらは東京の姿ではない。実際、6月の午後のロッテン・ロウ、土曜の夜の妖精の灯りが輝くアールズ・コート、リッチモンド・ヒルから見たテムズ川の描写がロンドンの描写にならないのと同じように、これらは東京の姿ではない。

東京は陰鬱な空間が広がる場所だ。その新しい文明は粗末に見え、キノコのようなアメリカの都市を彷彿とさせる。赤レンガ造りのまぶしい公共建築物は、まるでどこにでも建てられているかのように無造作に建てられている。統一性は皆無だ。高くてケバケバしい大邸宅の周りには、みすぼらしい小屋がいくつも建っている。官公庁は安っぽく、粗雑な造りだ。仮設の国会議事堂(塗装された木製の正面と小さな扉を持つ)は、まるでイギリスの競馬場の観客席の裏口を彷彿とさせる。道の向こうには、両院の議長公邸、端には2つ別荘が建っている。

道路状況は最悪で、雨上がりの銀座を走るのは忘れられない経験となるだろう。架線の数で言えば、アメリカのどの都市も東京にはかなわない。空気は電線で震えている。ある大通り沿いには、1本の電柱に240本の電話線が張り巡らされ、道路の反対側や横断する方向にも、至る所に電信線や電灯線が張り巡らされている。路面電車が何百台もガタガタと走っている。店の前には大きな梱包箱が山積みになっていて、どこもかしこも埃っぽく、活気に満ちている。

しかし、3月初旬でも、目を楽しませてくれるものはいくつかある。浅草の金龍山の近くには、一年中続くとても面白くて楽しい縁日がある。浅草寺には、隅田川から網で引き上げられた金色の観音像が安置されているが、今ではあまりにも貴重なため、人目に触れることはない。娘たちは皆、美しい肌を手に入れるために、そこへお参りにやって来る。寺院の近くには縁日が開かれ、無数の劇場、芸をするカナリアや太った女性、六本足の豚、太鼓やトランペット、そして子供たちの心を喜びで満たす無数の玩具が並んでいる。

私たちが訪れた時は、人形祭りが真っ盛りだった。東京中の女の子、小さな幼児から、自分を大人だと思っているメイドまで、皆が人形のために一週間まるまる遊ぶ。人形は美しく、精巧に作られており、しばしば日本の古風な宮廷衣装を身にまとっている。しかし、人形と人形の持ち主である7歳くらいの少女たち(髪を「お団子」にして花飾りをつけ、長くて幻想的な色の着物を着て、生意気な態度と威厳を装って歩き回る)のどちらが面白いかは、判断しがたい。ある少女の人形が別の少女の人形を宴に招待し、すべてが礼儀正しく荘厳に行われる。そして、今度は反対側から招待される。一日中、人形たちは他の人形たちを訪ねて回る。この魅力的な人形の宴は、丸7日間続く。

459頁

460頁

浅草寺の本堂内部
南無観世音: 金竜山縁起正伝
明治45年発行
国会図書館所蔵

2026年5月18日月曜日

雑誌『ドイツ』

 雑誌『ドイツ』

下の資料は雑誌『ドイツ』より

自転車の歴史

自轉車は今日では、最も普及している交通機関である。ドイツで現在動いている自轉車は18萬ないし20萬臺と見積もられている。人々は自轉車を早くから、『小市民の自動車』と名付けて憚からなかったのである。

さて自轉車の普及は、道路の改装に負ふものであり、また空氣入りの弾性タイヤとブレーキがついていて、しかもペタルを踏まなくても獨りで進む装置、 これらを共に備へた技術的に申分のない自轉車それ自體の構造に負ふものである。注目に値するのは、戦前のドイツの大都市における自轉車利用者の数が、 その全都民と關聯させて考へると、田舎におけると同様、都民のやっと半分にすぎなかったといふ事實であった。その理由は、田舎では公の交通機関を安価に利用することが思ふやうに出来ないからであった。

自轉車もまた他の技術上の発明と同様の経歴をふんで来た。 即ち人々は最初のうちは、自轉車に偉大な成功を豫期していなかったのだ。

男爵フォン・ドレイオの脚輪機をもつて今日の自轉車の濫觸と見做すならば、自轉車の年齢は今年で百二十五歳といふことになる。ドイツ、フランス、イギリスの発明家たちは、自轉車の發展にそれぞれ貢献した。ドイツとフランスでは、クランクの推進力に関する色々の發明があった。兎に角一八六八年から七九年には、自轉車は獨・佛・英三國で相當の発展を見た。一八八八年にスコットランド人ダンロップが空氣入りタイヤに對する特許を獲得したとはいへ、 それは既に一八四五年にトムソンによって溌明されていたのである。一八九八年フイヒテル・ ザッハ會社が自動推進機のボスを市場に出したが、暫く時を経るうちに本質的な改良を加へられて、自轉車の一般的改良に非常に貢献したのであった。今日ではもはや完全と見られている自轉車も、日々改良が加へられて止まるところを知らない有様である。

ドイツ国防軍においても、自轉車は廣く用いられている。その發端となったのは、一八七〇年ペルフォールの防禦戦でフランス軍が利用した時のことである。一八八六年にドイツ國防軍が自轉車を採用し、それ以来、 この方面でもまたドイツが断然先頭をきっているのである。油といふ燃料の節約が至上命令となっている戦時下の今日、古くから利用されている自轉車が、 輸送機關の花形として大いに活躍しているのはけだし當然のことである。


ドイツ 6(1月下旬號)(2)日独出版協会
1945-01 9koma
国会図書館所蔵

註、日独出版協会が発行した雑誌『ドイツ』は、昭和15年(1940)〜昭和20年(1945)頃にかけて刊行された、日独協力期の対独宣伝・文化紹介雑誌である。

2026年5月17日日曜日

自転車世界一周 - 17

 自転車世界一周 - 17    

「自転車世界一周」ジョン・フォスター・フレイザー著

註、『Round the World on a Wheel』(1899) は、 John Foster Fraser、 S. Edward Lunn、 F. H. Lowe の3人が、1896〜1898年にかけて世界一周を自転車で走破した記録。以下は日本旅行の部分、その17。

1日に4回の地震

太平洋は深い青色で静寂に包まれていた。7、8マイル先には伊豆大島が見え、三原山の噴火口からはかすかな煙がゆっくりと立ち昇っていた。はるか水平線の向こうには、横浜港へ向かう船が浮かんでいた。

私たちは長椅子にゆったりと腰掛け、ミカン畑で葉巻をふかし、波の音に耳を傾け、陽気に過ごしに来た大勢の日本人を眺める以外に、特にすることがなかった。彼らの中には、私たちと同じホテルに泊まり、ヨーロッパ風の生活を送っている者もいた。少しぎこちない様子だった。フィンガーボウルで運ばれてきた水を飲む一方で、食卓の小さな瓶に爪楊枝を戻すなど、礼儀正しい振る舞いを見せていた。

熱海は、地球上で最も地獄に近い場所の一つと言えるだろう。1日に4回も地震があり、滞在2日目の夜、私はぐっすり眠っていたところを、ものすごい揺れで起こされた。

宮ノ下山麓の丘陵地帯の向こうには、「大涌谷」と呼ばれる、荒涼として陰鬱な谷が広がっている。そこは岩が炎で紫色に染まり、硫黄で壊疽を起こし、大地には地獄の黄色い煙が立ち込める大きな亀裂がいくつも存在する。一歩間違えれば、沸騰する泥沼に落ちてしまうのだ。

熱海の地殻は、知られている限り最も薄い。伊豆大島の火山は安全弁のような役割を果たしており、それが機能しなくなれば、熱海と早雲山は空中に吹き飛ばされてしまうだろう。

しかし、現在の熱海で最も有名なのは、25もの温泉があり、そのうちの一つは巨大なものである。この巨大な間欠泉には、驚くべき特徴があり、1日に6回、実に4時間半ごとに、とてつもない量の湯が噴き出す。そのため、噴出の時間は日を追うごとに遅くなる。熱湯は、毎回1時間ほど噴出し続ける。しかし、10日ごとに12時間連続で沸騰し、その後12時間休止する。熱海の温泉の一つは私たちのホテルに併設されており、冥界の釜で温められたお湯に浸かるのは新鮮な体験だった。

相模湾を囲む岩だらけの海岸線を、起伏に富んだ魅力的な地域をサイクリングで行くと、国府津にたどり着いた。
陽気で気さくな二人の自転車仲間、ベイン氏とスミス氏に迎えられた。彼らは横浜リライアンス・クラブの会長と書記である。

私たちはスピードを上げて走り、他の自転車乗りたちも追いついてきて、かなりの人数になった。二列縦隊を組んでペースを上げると、日本の港湾都市を覆う煙が見えてきた。私たちは街路を走り抜け、やがて外国人居留地の大通りに入り、横浜に到着した。

横浜には一泊し、翌日の午後には再び自転車に乗り、20マイル離れた首都東京へと向かった。私たちはまだ東海道を走っていたが、何百マイルも私たちを迎えてくれた松並木は、今ではまばらで大きな隙間ができていた。

横浜と東京の中間地点で、首都在住の自転車に乗るイギリス人数名に出会った。その中には、大手日刊紙の編集長であるブリンクリー大尉も含まれており、彼は日本人よりも日本について詳しい人物だった。

457頁

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挿絵:海沿いの道

熱海を語る 明治・大正・昭和写真史
1987年発行
国会図書館所蔵

2026年5月16日土曜日

国際自転車歴史会議など

 国際自転車歴史会議など

2026年国際自転車歴史会議などが、インドネシアのクラテンで開催。

Klaten International Cycling Festival 2026 

開催地:インドネシア共和国 中部ジャワ州 クラテン県(Kabupaten Klaten)  

期間:2026年5月17日〜24日(8日間)

主要イベント、

• ICHC – 国際自転車史会議(2026年5月17日~20日)、ペンドポ・クラテン

• IVCAラリー2026(2026年5月20日~24日)、プランバナン寺院(クラテン)

• オールバイククラシック・デイアウト(2026年5月23日~24日)、チャンディ・セウ広場(プランバナン)

国際学術会議、コスチュームパレード、バイクキャンプ、ヴィンテージマーケット、フードバザール、ソーシャルライド、音楽&文化公演、展示会、クラシック自転車競技会(ヴィンテージロードバイク、レトロMTB、クラシック折りたたみ自転車、BMXオールドスクール、ローライダーコンテスト)など。

クラテン国際サイクリングフェスティバル

サイクリング誌 - 3

 週刊『サイクリング』誌 - 3

1893年7月22日に発行されたイラスト入り週刊誌『Cycling』の表紙。

表紙のタイトル: 『Cycling: An Illustrated Weekly』

 1808年代から1893年代にかけての自転車の歴史や、当時のサイクリングの様子を描いた挿絵がコラージュされている。

註、『Cycling: An Illustrated Weekly』は、1891年に創刊された英国の自転車専門週刊誌『Cycling』(後の *Cycling Weekly*)の初期タイトルである。
Dangerfield 印刷会社、Temple Press によって刊行された図版入り週刊誌。

1893年7月22日号の表紙

6頁
挿絵は、フェスティバルからの帰路 - II
教授。「右の向こうの景色は実に素晴らしい、この下る道もなんて素晴しいのでしょう。」


記事の一部、
ロードレース用のラレー。
アイルランドのロードクラブは、8月のバンクホリデーに100マイルのオープン・スクラッチレースを開催する。ノッティンガムのラレー・サイクル・カンパニーが、賞品としてロードレース用自転車を提供。レースはダブリンから約26マイルの小さな村、エンフィールドの近くでスタートし、同じ場所にゴールする。

註、(1893年の英国サイクリング文化)
このページは、1890年代の英国サイクリング雑誌らしく、ニュース・コラム・技術話題・事件・ユーモアが混在する構成。  
当時の「安全型自転車(Safety Bicycle)」が普及し、クラブ活動・長距離走・技術革新が盛んだった時代の雰囲気がよく出ている。

2026年5月15日金曜日

自転車世界一周 - 16

 自転車世界一周 - 16    

「自転車世界一周」ジョン・フォスター・フレイザー著

註、『Round the World on a Wheel』(1899) は、 John Foster Fraser、 S. Edward Lunn、 F. H. Lowe の3人が、1896〜1898年にかけて世界一周を自転車で走破した記録。以下は日本旅行の部分、その16。

富士山を望む

そして静岡に到着し、龍で有名な神社を目にした時、あの暑さへの償いと感じた。静岡では、ヨーロッパ風のこぎれいな小さな宿を見つけ、夕食には世界一美味しいビーフステーキと最高に美味しいビールを堪能した。ウェイターは笑顔の素敵な老人だった。

また別の素晴らしい日、駿河湾沿いを長距離走り、山々を見下ろすように、いつまでも称賛されるべき雄大な富士山を眺めた。円錐形の山頂を持ち、銀色の雪に覆われたその巨大な山は、近づくにつれて大きくなり、やがて私たちの頭上にそびえ立った。そして畏敬の念を抱いた。雪解け前の早春、晴れ渡った美しい日に、その雄大な姿を目の当たりにした。私たちは尾根を迂回し、麦畑、葦原、松林、木陰に咲く牡丹、そして至る所に咲く菊が広がる吉原平野を走り抜けた。

鈴川で宿をとると、部屋の窓から永遠の美しさを誇る富士山が姿を現した。富士山は聖なる山であり、夏には白い衣をまとった巡礼者たちが持つ鈴の音が山腹に響き渡る。毎年約2万人の巡礼者が山頂まで登り、祈りを捧げる。山全体が伝説に包まれている。2000年前、富士山は一夜にして姿を現したと云われる。

女神である富士山は女性を憎み、機会があれば女性の髪をつかんで連れ去ってしまう。そのため、日本の女性は登山をする前に、十分に女性らしさを磨かなければならない。富士山の塵は非常に神聖なもので、巡礼者が草履に塵を付着させて持ち帰ると、夜になると奇跡的に戻ってくると言われている。

富士山は本当に美しい。1500年までは活火山で、毎世紀に激しい噴火を繰り返していた。最後の噴火は1707年で、1ヶ月間続き、火山灰は50マイル(約80キロ)先まで飛散し、山の麓は6フィート(約1.8メートル)もの深さの火山灰に覆われた。しかし今では、静かにそびえ立ち、山々の女神のように堂々と佇んでいる。

私たちは雪に覆われた火口に背を向け、名残惜しくも旅を続けた。途中、小さな宿屋に立ち寄った。干し柿をたらふく食べ、人々はまるで屏風から出てきたかのように、「おはようございます」と声をかけて私たちを迎えてくれた。すべてが礼儀正しく、お腹が空いたと言うと、「お腹」を気遣ってくれた。とても丁寧な人たちであった。彼らは悪態をつかないと聞いたが、いずれ文明化されれば分かることだろう。

箱根山地と呼ばれる、大きな山は、自転車では通れない山並みが行く手を阻んでいた。私たちは山地を迂回し、ルートを外れて熱海という小さな集落に数日滞在することを考えた。私たちは伊豆半島へと進路を変えたが、それは容易なことではなかった。この国の悪路の厳しさに身をもって知る前に、その地を去ることを許さなかったかのようだ。結局、山を越えなければならず、道はひどく荒れていた。土は黒く粘り気があり、道は急勾配だった。自転車は泥の塊を巻き上げ、車輪が回らなくなるまで進み、時々座り込んでポケットナイフでチェーンについた泥を取り除かなければならなかった。自転車を担いで進もうとしたが、油っぽい泥の上を滑るように進んだ。

太陽がシトロン色とサフラン色の雲の向こうに沈むと、恐ろしく荒涼とした景色に変わり、風は不気味なうめき声を上げながら吹き荒れた。気温は容赦なく下がり、自転車についた泥は5分も経たないうちに鋼鉄のように硬くなった。私たちは指を温めようと息を吹きかけ、足を踏み鳴らし、雪の中を進んだ。登りは果てしなく続いた。山頂にたどり着いたものの、反対側は500もの曲がりくねった崖だった。疲れ果てて熱海の小さなホテルに入り込んだのは午後8時。15マイルの道のりを5時間かけてやって来たのである。

熱海はなんて素敵な場所だろう。そして、そこで過ごした日曜日は、なんとものんびりとした素晴らしい時間だった。そこには気取ったところは何一つなかった。ただの小さな村で、古く不揃いな建物が並んでいたが、温泉地として非常に有名だった。


455頁

456頁

鈴川付近から見た富士山
Googleストリートビューより

2026年5月14日木曜日

自轉車瓦版 第112号

自轉車瓦版 第112号

この号が最終回

昭和62年10月20日

☆先日ぶらりと本屋に行ったら、自転車ターボブックと云う本があった。内容はこれといって目新しいものではなかったが、自転車の単行本は余り発行されないので買っておいた。自転車史の関連記事は、たったの2 ページ、それでも無いよりは増しである。自転車文化センターのドライジーネの写真が載っていた。

1987年9月16日発行  ナッメ社 1200円。

☆大阪の斧氏より錦絵及び引札のコビーを多数いただいた。

*東京名所之内・吾妻ばし風景(明治22年)

*東京名所吾妻橋(明治28年5月10日)

*当世くるまづくし(壱人車の画あり)

*合資会社愛知物産組織工場之図 (明治32年1月、オーディナリ一の画あり)

*東京名所・吾妻橋ノ真景(明治2 6年1月20日)

*東京名勝づくし・日本橋御高札場 - (幌つき三輪車の画あり)

*団扇画?(中国・朝鮮の上に日章旗を持った自転車乗りの画)

*引札機関車と自転車(セーフティー) 2葉

*引札 自転車店のもの、(大黒様の顔をした男が自転車に乗っている画)

*引札 12干支が自転車に乗っている画、etc.

参考文献、樋口 弘『幕末明治開花期の錦絵版画』・『幕末明治の浮世絵集成』、端山 孝『幕末明治文明開化』その他。

☆新刊英語版、自転車の本

On Your Bicycle

ジェイムス・マクガーン著 208 ページ、挿絵125図、内容はイラストで見る自転車の歴史。

☆イギリスのクラッシク自転車研究クラブ、SVCC (サザーン・ベテラン・サイクル・クラブ)は、名称をVCC(ベテラン・サイクル・クラブ)と改称、名実ともに全国組織に、いや世界的組織になりつつある。


「東京名所之内吾妻ばし風景」 国利画
明治22年(1889)  
この画は、大阪の斧氏が所蔵
右端にダルマ自転車が見える

SVCC (サザーン・ベテラン・サイクル・クラブ)
100号 1982年夏号

2026年5月13日水曜日

自転車世界一周 - 15

 自転車世界一周 - 15    

「自転車世界一周」ジョン・フォスター・フレイザー著

註、『Round the World on a Wheel』(1899) は、 John Foster Fraser、 S. Edward Lunn、 F. H. Lowe の3人が、1896〜1898年にかけて世界一周を自転車で走破した記録。以下は日本旅行の部分、その15。

私たちは立ち止まることなく、雨と泥の中をガタガタと揺れながら、軽快なペースで進んだ。午後、暮れるにつれ雨は止み、素晴らしい夕焼けになった。薄明かりの中、私たちはシダに覆われた荒涼とした湿原を横切った。静寂を破るのは野鳥の鳴き声だけだった。遠くには山脈が連なり、雪を頂いた山頂は、もはや見えない太陽の光を受けて、美しいピンク色に染まっていた。道は徐々に高くなり、丘の頂上に着くと、目の前には鉛色の太平洋が広がっていた。黒く広大な海は、波一つなく、その憂鬱さを破るものはなく、白い波の帯が海岸に沿って音を立てて寄せているだけだった。

私たちは暗くなるまで、海沿いの道を走り続けた。浜名湖と呼ばれる広くて厄介な潟湖を渡らなければならなかった。激しい突風が吹き荒れ、月明かりは厚い雲に遮られていた。私たちは急いで走った。ランプもつけずに、土手の陰に隠れて進んだ。それから、小さなガタガタの木橋を渡った。何マイルも続く潟湖。幅は約6フィート(約1.8メートル)で、決して水平ではなく、板が何枚か欠落していて、どれもガタガタと音を立てていた。高さ30センチほどの橋桁も長い部分が折れていた。湾の上を風が唸り、ぐらつく橋は海に吹き飛ばされそうだった。私たちは慎重に、風を受け止めるように大きく体を傾けながら、長い距離を自転車で進んだ。しかし、板が欠落しているせいで不気味な揺れが起こり、自転車から降りる必要性を感じた。風は轟音を立て、橋は揺れ、そして、もろい橋が片側に傾いた時の恐怖は、どれほどのものだったことか!

暗闇の中を急いでいたため、二人が土手から田んぼに転落し、牡蠣の殻で補修された道を2マイルも歩かなければならなかったが、ようやくたどり着いたのは嬉しい限りだった。浜松の町に到着したのは午後8時半だった。

翌朝、私たちは再び出発した。この日は二つの厳しい登りが待ち受けていた。一つ目は金谷で、曲がりくねった道をゆっくりと登った。山頂の松林の下には、大きな黒い岩が垂直にそびえ立っており、リンゴのような顔をした十数人の日本人女性が、その岩を敬うように通り過ぎていった。伝説によると、この岩は夜になると子供のように泣いていたという(註、小夜の中山夜泣石)。しかし、「いろはにほへと」の発明者である弘法大師がそこに経文を刻んだため、それ以来、岩は泣くことはなくなった。
下山後、質素な米と魚の昼食を済ませ、バースロードによく似た魅力的な道を走り、その後、木々に覆われた長い谷間、そして、宇津ノ谷峠をジグザグに登った。そこには、切り立った赤い岩山、轟音を立てて流れる小川、そして小さな村々が点在していた。その後、再び登り始め、景色を眺めるために何度も立ち止まった。

かつては丘を貫く長さ600フィートのトンネルがあったが、数年前に崩落してしまい、今では歩行者も自転車も峠を越えなければならない。下山はそれほど長くはなかった。小屋に住む親切な女性から琥珀色の紅茶をほんの少し分けてもらい、その後1時間ほど、この上なく素晴らしいサイクリングを楽しんだ。道は谷間を緩やかに曲がりくねりながら下り、その脇には濁流が泡立ち流れていた。

道はまるで線路のようだ。日焼けで汗だくになった。


453頁
挿絵、二人の乙女

454頁

2026年5月12日火曜日

自轉車瓦版 第111号

 自轉車瓦版 第111号

昭和62年9月26日

☆この度、横田順弥氏(古典SF 作家)から中村春吉関係の資料をいただいた。

1 「現代のドンキホーテ五賃将軍世界横行記」大正2年10月~大正2年12月発行  雑誌( 冒険世界)より。

2 「俺は笑って死刑の宣告を受けた 五賃将軍 中村春吉」明治45年1月発行 雑誌(冒険世界)より。

3 「愛国的弥次馬譚 五賃将軍中村春吉」大正2年6月発行 雑誌(冒険世界)より。

以上の3点。

☆「秋のみさきフェア むかしの自転車〜スーパーサイクル」展が開催されている。期間9月23 日から11月23日まで、場所はみさき公園(南海電鉄線みさき公園駅下車) 主催 読売新聞大阪本社・読売テレビ放送・報知新聞社、クラシック自転車は、自転車文化センターから出展されている。
 以上は、高橋 勇氏からの情報

☆八神史郎氏より、

「第32回国民体育大会記念切手の通信販売申込用チラシを探究していますので、もしスペアーがありましたらお分け下さい。」

八神氏は、自転車の、切手・小型記念日付印・初日カバー等を蒐集している。スペアーのある方は、ご一報して下さい。

☆雑誌「モーター」大正14年2月発行に、自転車の起原と発達と題して、 自転車史の記事がある。ページ数としては半ページだが、次ページには、自転車変遷のイラストがあり一目で発達の歴史が分かるようになっている。当時のオートバイ関係の雑誌にも時々この様な記事が散見される。

☆会報「自轉車」の臨時増刊号が、 10月15日付けで発行される。特集記事として、植原 郭氏の「旅と自転車史」がある。ベテラン・サイクリストの植原氏が、旅先で発見したクラシック自転車の話題などを楽しく語っている。


「旅と自転車史」
植原 郭 著
当研究会のデジタルライブラリー参照

2026年5月11日月曜日

自転車世界一周 - 14

 自転車世界一周 - 14    

「自転車世界一周」ジョン・フォスター・フレイザー著

註、『Round the World on a Wheel』(1899) は、 John Foster Fraser、 S. Edward Lunn、 F. H. Lowe の3人が、1896〜1898年にかけて世界一周を自転車で走破した記録。以下は日本旅行の部分、その14。

日本人の自転車乗りたち

自転車が何でできているのか、私には想像もつかない。名古屋の自転車は、形こそ昔ながらの自転車に似ていた。大きな車輪はたいてい使い古しの荷車の車輪を鉄帯で巻、重い木製のスポークが2本ほど欠けている程度であった。フレームは大抵木でできており、時には鉄の棒が使われていたこともあった。後輪は例外なく、昔の荷車を運ぶのに使われていたものである。サドルはフレームに縛り付けた袋状で、半分ほどずり落ちそうな感じであった。腰に着物を巻き、大きな下駄を履いたまま乗り手は、ハンドルを握り、大きく後ろに体重をかけることで、見事に自転車を漕ぐ。確かに、その男は道路を独り占めしたかったのだろう。というのも、駆動輪のハブ・ベアリングがやや緩んでいて、ぐらついていたからだ。こうした自転車が近づいてくるのを見ると、私たちは降りて通り過ぎるまで待った。追い越そうとすれば、私たちの評判を落とすだけの価値しかなかった。それに、あの騒音ときたら!馬が暴走した荷馬車を想像してみてほしい。まさにそんな感じだった。しかも、名古屋にはこうした自転車が何十台、何百台、何千台も走り回っていたのだ。役人たちは事故統計を提供してくれない。

名古屋は素晴らしい街で、あらゆることで有名だ。その夜はひどい夕食だった。一口食べるごとに、法外な値段を請求する木彫り職人と口論していたからだ。彼らは荷車いっぱいの品物を運び込み、床に広げていた。美しい彫刻で、どれも素晴らしく繊細で、百もの趣向が凝らされた絶妙な作品だった。

名古屋が本当に名高いのは磁器だと知った。特に淡い灰緑色の磁器が人気であった。私たちは卵立てを買った。

次に聞いたのは、もちろん名古屋の磁器も素晴らしいが、名古屋の名産品は七宝焼きだとのこと。七宝焼きはまさに世界最高峰である。私たちは値切ることはせず、ただじっと待つことにした。

10分後、ハンドルに萬古焼茶壺を括り付けずに名古屋を去るつもりなら、そもそも名古屋に来た意味がないと言われた。

「ええ、そうです」と店主は言った。「萬古茶壺のない家なんて、家とは言えません。家を本当の家とするために必要な唯一のものです。」

私は彼に、私たちには家などなく、放浪者であり、これまで家に一番近づいたのは独身男性のアパートだったと伝えた。独身男性のアパートでお茶を飲む人なんて聞いたことがないだろう、と彼は言った。すると、彼の作戦は変わった。「日本中で名古屋ほど安くて良い珍品が買えるところは他にありませんよ。刀や絹織物はいかがですか?僧侶の袈裟、武士の鎧、燭台、傷のある聖人像2体(珍しい)、仏像4体、そして茶壺までありますよ!」全部でいくらなら払えるか?
仏像はもう買わないと誓ったこと、絹織物を贈れる知り合いもいないこと、僧侶になる見込みはほとんどないこと、刀剣には長年良心的な反対の念を抱いていること、そして傷んだ聖像や燭台、茶壺などは私たちの趣味ではないことを説明した。
好奇心旺盛な骨董品屋たちに、私たちは全くお金がなく、ホテル代を払うために翌朝には時計を質に入れなければならないかもしれないと納得させるのに1時間半もかかった。彼らは信じようとしなかったが、やがて立ち去った。

それから私たちは帽子をかぶり、名古屋の街をあてもなくぶらぶらと歩き出した。月明かりが輝く夜で、薄い羊毛のような雲が深い紺碧の空を漂っていた。小さな木造家屋は実に奇妙だった。障子戸に影が揺らめき、どこからともなく三味線の不思議な響きを伴う物悲しい歌が聞こえ、通りは人で溢れかえり、皆が笑い、幻想的なランプが道を照らしていた。まるで舞台劇のようだった。揺れるランプは明るく輝くが、人々や家々は薄明かりに包まれ、詩的でロマンチックだった。日本の夜の町は実に魅惑的だ。
翌日、私たちは海岸を目指して南へ向かった。


451頁

452頁

2026年5月10日日曜日

自轉車瓦版 第110号

 自轉車瓦版 第110号

昭和62年9月25日発行

☆長い間休刊していました、自轉車瓦版を本号より再刊いたします。

まる一年半以上の空白がありましたので、既に忘れた方もおられると思いますが、この自轉車瓦版は、 昭和60年3月20日創刊され、 昭和61年2月19日まで刊行されました。号数としては、第109号まで発行されました。

この程ワープロを導入しましたので、読み易い紙面で再登場と言うことになりました。

☆この瓦版は、1ヵ月に1回以上情報等の提供がある会員との連絡用(メモ)として使用しております。従いまして、全会員には配布されませんのでご了承下さい。

当研究会のコミュニケーションの中心はあくまでも会報「自轉車」ですから、瓦版で扱った重要な情報等は総べて会報誌上にて再度取り上げます。

なお、瓦版のバックナンバーを希望される会員は葉書(送料は実費)でご依頼下さい。

☆先般、自転車文化センターから錦絵のコピーをいただきました。 探景の東京小網町鎧橋通り吾妻亭や芳虎の東京二本橋風景等が入っていました。このコピーは、「錦絵 幕末明治の歴史」講談社刊からのもので、他にも自転車が載っている錦絵がありました。

錦絵は、美術品としても貴重な遺産でありますが、我々自転車史を研究する者にとっても重要な資料でもあります。

今後の課題として、これら錦絵に現れた自転車を一つ一つ解明していき、体系づけていくことではないでしょうか。

☆当会員の岩立氏から、ドライジ一ネ型の自転車が写っているコピーをいただきました。このコピーは、雑誌「モーター」 (大正9年 11月発行第88号)から撮ったもので、説明には次のように書いてあります。

「この写真中に見える二輪車は世界最初の自転車にして何人が作ったか製作者は不明であるが1720年時代に製作されたることだけは明らかである。現にフランスのバーヤータン・クラマンテン博物館に珍物として蔵してある。」

1720年は、疑問ですが、かなり古いことは確かでしょう。

東京小網町鎧橋通吾妻亭
井上探景
明治21年(1888)

雑誌「モーター」(大正9年11月号 第88号)
の表紙に掲載

2026年5月9日土曜日

自転車世界一周 - 13

 自転車世界一周 - 13 

「自転車世界一周」ジョン・フォスター・フレイザー著

註、『Round the World on a Wheel』(1899) は、 John Foster Fraser、 S. Edward Lunn、 F. H. Lowe の3人が、1896〜1898年にかけて世界一周を自転車で走破した記録。以下は日本旅行の部分、その13。

飢えた三人組

詩人たちは、石山から見るロマンチックな秋の月、比良に降る雪の美しさ、勢多の夕焼けの輝きなど、琵琶湖の無数の美しさを歌い上げてきた。唐崎に夜降る雨を愛で、堅田に飛来する雁の群れは外国人以外なら誰しも涙を誘うと云う詩を詠んだ。

日本で扇子を百枚も買えば、そのうち九十枚には琵琶湖の風景が描かれているだろう。掛け軸がお好きなら、ナポリからヴェスヴィオ山が見えるはずがないのと同じように、琵琶湖の絵が描かれていないはずがない。もしあなたの居間に繊細な日本の屏風があるなら、スポーツ新聞の言い回しを借りれば、「間違いなく」琵琶湖が8枚の屏風に描かれているだろう。

時速15マイル(約24キロ)以下で移動していたら、琵琶湖の景色にうんざりしていたかもしれない。

琵琶湖は美しい。壮麗な琵琶湖。魅力的な琵琶湖。日本人は琵琶湖を絶賛する。京都にいた時も、琵琶湖の海岸にいた時も、琵琶湖について散々聞かされ、その後も何度も琵琶湖について尋ねられたので、私たちは身を守るために無礼な態度を取らざるを得なかった。琵琶湖のことは忘れてしまったのである。

数日間、旅は平穏無事であった。日本食にも慣れたが、いつも「量が足りない」と不満を漏らしていた。3人分の昼食が運ばれてくると、まず1人が全部取って、それが自分の分だと示し、他の2人にはその倍の量を持ってくるように要求する。給女たちは驚いた様子で深々と頭を下げ、「はい」と言った。日本の「はい」は鼻にかかった鋭い声で発音された。彼女たちはくすくす笑いながら慌てて立ち去り、騒ぎが収まると、さらに食べ物を持って戻ってきた。おそらく、役場の職員の昼食を満足させるのに十分な量だったのだろう。私たちは「もっと、もっと!もっと持ってきて!」と叫び、村中の食べ物が集められると、村人たちが私たちの食事を見にやって来た。そして、いくつかの食事は魅力的だった。

ある日、私たちは田舎の静かな谷間に立ち寄り、宿屋に入ると、礼儀正しい老人に招き入れられ、暗い通路を通って庭へと案内された。そこは平均的な郊外の裏庭ほどの大きさで、幅約3メートル、奥行き約2.4メートルほどだった。しかし、その小さな空間には、障子の付いた東屋、小石が敷き詰められたせせらぎ、そこに架かる素敵な小さな石橋、そして松や桜、ミカンなど、あらゆる種類の木々があった。どれも小さいサイズだったが、愛らしいほど均整が取れていた。ミカンはビー玉ほどの大きさで、木はゼラニウムほどの大きさだった。小川は簡単にまたげるほどで、趣のある岩はどれも洗濯かごに収まりそうなほどだった。私たち自身を除いて、すべてが優美だった。私たちは身だしなみを整えるために髪を梳かした。

まるでガリバーのように、私たちの足は広大な土地を歩き、木を通り過ぎ、川を渡り、山の途中まで登った。 1時間ほど寝転がってタバコを吸ったが、寝床はまだ何十マイルも先だった。

午後になると雨が降り出し、小さな町で雨宿りをした。細い道は土砂降りだった。自転車を宿に預け、傘を借りて散歩に出かけた。巨大な竹製の傘で、それぞれに3つずつ大きな漢字の文字が書かれていた。水たまりを飛び越えながら、あの異国風の傘をさし小道をのんびりと歩く私たちの姿は滑稽な光景だった。小さな村娘たちがベランダに出てきて、3人の外国人を見て大笑いした。村中の娘たちにお菓子を買ってあげなければならなかった。

その夜、私たちは名古屋で一夜を過ごした。14世紀のお城がある、穏やかな古い町だった。フランス軍の制服を着た兵士たちが走り回り、マキシム機関銃が街路を行き、明らかに初期の自転車が、乗り手の意思などお構いなしに猛スピードで走り回っていた。ロンドンの自転車ブームなど、名古屋の熱狂ぶりに比べれば取るに足らない。何百台、いや何千台もの自転車を目にした。私は街全体を逆走するレースに挑むと宣言したが、誰も応じなかった。
名古屋に一週間滞在して、もっと多くのことを学べたらよかったのにと思う。


449頁

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2026年5月8日金曜日

自轉車瓦版 第109号

 自轉車瓦版 第109号

昭和61年2月19日発行

★ SVCC 及びホイールメンの売買欄より、
「売り」① B.S.Aロードスター (紳士用)28インチ
②ダーズレー・ペデルセン 1901年、1500ポンド
③ラレー紳士用、1930年、15ポンド
④ ヘラクレス紳士用、1930年、 15ポンド
⑤ スウィフト 女性用 22インチ、ループフレーム、1920年、 20ポンド
⑥サンビーム、22インチ フレーム 1922年 、15ポンド
⑦「ボーンシェーカー」誌のパック№、各2ポンド
⑧コロンビア紳士用チェーンレス 400ドル
⑨52インチ、オーディナリー(レプリカ) 700ドル
⑩ハンパー・オーティナリー 1880年、2000ドル
⑪ 56インチ、ラーヂ・ライトロードスター・オーディナリー 1100ドル
⑫52インチ、コロンビア・オーディナリー 、1850ドル、
⑬ラーヂ女性用トライシクル・1874年
SVCCの情報誌 ニュース&ビュース NO.190、1985.12~1986.1及びホイールメンの情報誌、ニュースレター1986 年1月号から
日本も何時になればクラシック自転車の売買がこのように出来るようになるだろうか?

【61年度】の会員名簿を作成したいと思いますので、恐縮ですが下記について ハガキでご連絡下さい。
1、 住所氏名
 2,研究テーマ(例・ドライス、鈴木三元、明治の自転車史、 特になし等)
3、コレクション(例・自転車切手、マッチ・ラベル、絵葉書、ポスター・アンティック自転車 etc.)
4,自転車関係図書の蔵書数、主な本の題名
5、研究会に対する要望
6、その他

The Encyclopedia of Sport & Games - 第 2 巻 - 37 ページ 1911年
図3:Dursley-Pedersen カンチレバーバイク  
  独特の吊り橋状カンチレバー構造を持つモデル

2026年5月7日木曜日

自転車世界一周 - 12

 自転車世界一周 - 12 

「自転車世界一周」ジョン・フォスター・フレイザー著

註、『Round the World on a Wheel』(1899) は、 John Foster Fraser、 S. Edward Lunn、 F. H. Lowe の3人が、1896〜1898年にかけて世界一周を自転車で走破した記録。以下は日本旅行の部分、その12。

しかし、まだ数十の寺院があり、京都を訪れるなら絶対に見逃せない場所もある。
しかし3日目、まだ見ていない寺院がいくつもあるのに、私は気だるそうに言った。

「今朝は出かけないでおこう。手紙を書きたいんだ」

「自転車の調子が悪いから、整備しようと思う」とロウが言った。

「そうだね」とルンが言った。

「一人で寺院巡りをするのは気が進まない」

しばらく沈黙が続いた。

「何マイルも続く神々の間を巡るのは、ちょっと退屈だしね」

「それに昨日、冷たい板張りのところを歩いたせいで風邪を引いてしまったよ」

「神々の不振が起こっているのかな」

「本当に!」

そして私たちは、この1年で十分すぎるほど神々を見てきたという点で意見が一致した。もうこれ以上は見ないという約束を交わした。

「でも、アメリカで見る自由の女神は当てはまらないね」

「もちろん当てはまらないわ」

 「了解しました。」

こうして私たちは、手紙を書くのは後回しでいいこと、そして調子の良い自転車は整備するまであと100マイルか200マイルは走れることがわかった。

午後は絹織物店で過ごし、敷物に腰掛けて琥珀色の茶をすすりながら、目の前の美しい織物を眺めた。艶やかなクレープ、美しい花柄の着物、繊細な彩色が施されたベルベット、高貴な赤の錦織、そして夢のような刺繍。どれも牡丹や桜の花、そして天皇の菊の花で飾られていた。私たちは何も買わなかった。しかし、もし私たちが女性だったら、トランクに詰め込んだまばゆいばかりの着物のことを考えただけで、一週間も眠れなかっただろう。しかも、どれもこれもお買い得品ばかりで、1ヤードたったの2シリング11ペンス3ファージングだったのだ!

丘陵地帯を長く上ったところで、私たちは自転車を停めた。京都を出発した朝、私たちはジャケットとセーターを着ていた。今、私たちは東海道を走っている。古都京都と新都の東京を結ぶ、木陰に覆われた壮大な街道である。

鉄道も自転車もなかった時代、東海道は帝国の路であった。大名たちは豪華な装束を身にまとい、両手剣を携えた屈強な武士たちを従えてこの道を旅した。イギリス人でさえ、その行列の豪華絢爛さを鮮明に覚えている。それは荘厳で、中世的で、まるで古き良き時代の絵画のように幻想的であった。――日本の大名たちはもはや豪華な装束を身にまとって旅をすることはない。彼らは轟音を立てる郵便列車で都市から都市へと移動する。宿場では、かつてのような華やかな大名たちの到着と出発の万華鏡のような光景は見られなくなった。

しかし、自転車の音はしばしば聞こえている。外国人も日本人も、自転車に乗る人々は東海道を旅行する。休暇にはうってつけの場所だ。昔ながらの絹織物や小さな漆器、彫刻が施された箱などが、まるでドールハウスのような奇妙な店で売られている代わりに、瓶ビールの山、アメリカ製の目覚まし時計、地元産の「メルトン・モウブレイ・ソーセージ」の缶詰、模造品の「リーディング・ビスケット」の箱など、現代的なものが並んでいる。

私たちは美しい道に出くわした。その道は一日中、琵琶湖を縫うように走っていた。最初は湖畔を走り、次に湖から離れ、丘の陰に隠れ、また湖へと戻っていく、そんな風に何時間も続いた。琵琶湖はまばゆいばかりに広がっていた。船がそよ風に吹かれて漂い、遠くには雪に覆われた山々が見えた。

琵琶湖は、恵まれた数多くの楽園の一つだ。ロッホ・リーベン、ロッホ・カトリン、そして他のすべての湖も同様である。スコットランドの谷間を埋め尽くすものは、それほど多くはない。


447頁

448頁

2026年5月6日水曜日

ホイール誌

 ホイール誌

第8巻第1号

ニューヨーク、1891年8月28日発行

先週、ゴルマリー&ジェフリー社の新型ダイヤモンドフレーム・ランブラーを徹底的にテストする機会に恵まれた。クッションタイヤが装着され、乗り心地は極めて快適で、振動は最小限に抑えられていた。また、石畳ではスプリングフレームの軽快な旋回が印象的だった。ハンドル操作は素晴らしく、軽いステアリングも大きなメリットである。ステアリングは非常に安定しており、ほぼ自動運転のようでもある。初心者でもハンズフリーで問題なく走行できる。下り坂では、ベアリングが惰性走行で力を発揮し、上り坂では優れた登坂性能を発揮され、全体として、この自転車は嬉しい驚きであった。購入を検討される方は、一度試乗すれば、これ以上のもので満足することはないはずである。私たちが提案できる唯一の改善点は、同じモデル(これは非常に優れたモデルで、新しいダイヤモンド・フレームが完璧に支えている)の軽量化である。これは、優れたライディングエリアに恵まれた、より軽量で経験豊富なライダー向けである。そのような自転車はまさに究極のものとなるだろう。しかし、アメリカの田舎道を毎日走り回る平均的なライダーにとって、この自転車はその価値を証明するだろう。ランブラーのようなスプリングフレーム、クッションタイヤの自転車が手に入るのであれば、空気圧式ホイールを頭に思い浮かべる必要はない。

ゴーマリー&ジェフェリー・マニュファクチャリング・カンパニー


表紙

図はツーリスト号


広告、「ツーリスト」輸入業者
シンプルな構造、安定したステアリング、クッションタイヤ、ボウンボールベアリング
英国バーミンガムのWM. BOWM社製
ジオ・R・ビッドウェル・サイクル社

自転車競技案内、ロードアイランド・ホイールメンズ
第3回トーナメント 1891年9月5日開催
ロードアイランド州プロビデンス、ナラガンセット公園にて

2026年5月5日火曜日

スティーブンス関連

 スティーブンス関連

下の資料にトーマス・スティ-ブンスと日本に関する記事があったので紹介する。

ザ・ホイールメン・ガゼット誌 1888年8月号


127
THE WHEELMEN'S GAZETTE.
August 1888

日本では、物乞いに嫌悪感を抱くようなことはない。物乞いは、他のいくつかの国々と同様に、ここでは立派な職業として認められている。日本の物乞いは、礼儀正しく誠実かつ模範的である。店主をはじめとする人々は、物乞いの掛け声にいちいち対応する手間を省くため、店の前に小さな銅貨を何枚か吊るしておくのが習慣である。壁の釘一本一本に銅貨を掛けておくのである。物乞いがやって来ると、その銅貨を見て、何のためにそこにあるのかを理解し、近づいて一枚を財布に入れる。慈悲深い店主が自分に寄せてくれた信頼を裏切って、二枚以上受け取るようなことは決してない。
トーマス・スティーブンス

2026年5月4日月曜日

スプリングフィールド・ホイールメンズ・ガゼット 誌

 スプリングフィールド・ホイールメンズ・ガゼット誌

月刊・サイクリング専門誌

第11巻 第1号

マサチューセッツ州スプリングフィールド、1884年5月号


ストッダード、ラヴァリング&カンパニー
ミルクストリート10番地
マサチューセッツ州ボストン
ブリティッシュ・チャレンジの米国総代理店
ラッヂ・ライト・ロードスター
コーリー・ヒルを登り切った唯一のダルマ自転車。
52インチ、走行準備完了時の重量は34ポンド。1883年のリーグ選手権はこの自転車で優勝し、1マイルを2分53秒で走破した。
仕様:両輪に調整式ボールベアリング、丸型バックボーン。中空楕円形フロントフォーク、セミチューブラーリアフォーク、湾曲中空ハンドルバー、クレメント中空フェロー、接線方向スポーク、ボールペダル、標準仕上げ。バックボーン、フォーク、フェロー、スポークはエナメル塗装、その他のパーツはニッケルメッキ。
価格:50インチ、140.00ドル。


スプリングフィールド・ホイールメンズ・ガゼット 誌
1884年5月号

註、『THE SPRINGFIELD WHEELMEN’S GAZETTE』は、1880年代前半のアメリカ・マサチューセッツ州スプリングフィールドで発行された、地域密着型の月刊自転車雑誌で、レース結果・技術情報・クラブ活動・業界ニュースを中心に扱った刊行物。
創刊は、1883年  

2026年5月3日日曜日

自転車世界一周 - 11

自転車世界一周 - 11  

「自転車世界一周」ジョン・フォスター・フレイザー著

 1899年発行

註、『Round the World on a Wheel』(1899) は、 John Foster Fraser、 S. Edward Lunn、 F. H. Lowe の3人が、1896〜1898年にかけて世界一周を自転車で走破した記録。以下は日本旅行の部分、その11。

 ペースメーカーのおかげで、時速16マイルで走った。古き良き奈良を出発し、2時間ちょっとで、古い街並みが広がる京都に到着した。

1868年、天皇が京都から新都の東京へ向かう際、先祖代々の装束を身にまとっていた。絹の衣をまとい、冠(立纓)は漆塗りの硬いものであった。数百人の神官たちが、俗人の目に触れないよう常に閉じられた金箔張りの鳳輦で移動した。周囲の武士たちは古風な鎧を身に着け、高く掲げた巨大な両手剣を携えていた。侍従たちは錦織の衣装をまとっていた。

10年後、天皇は京都に戻った。日本は文明を身にまとい、天皇は列車で旅をし、フロックコートと絹の帽子を身に着け、普通の人間のように歩き、宮殿へ行くときは、2頭の栗毛の馬に引かれた立派な馬車に乗っていた。このようにして日本は進歩したのである。

私たちは京都で3日間を過ごし、駆け回り、無数の神々などを見物した。その3日間で見た
神々や龍、寺院の数は、他の場所で2週間かけて見た数よりも多い。

しかし、私たちの中に、神々について互いに熱狂する人はいなかった。神々に関しては、私たちはすっかり飽きてしまっていた。

書斎に神像を置くのは素晴らしいことである。それを寒山、鬼子母神、須佐之、六部天など、好きなように呼んで構わない。しかし、その名前を知らない確率は100分の1である。あなたの友人が知らない確率は100万分の1で、彼らはあなたが知っていると思っている。だからそれでいいのである。

神像には確かに利点がある。奥様は植物標本を吸取紙に押し付ける際の重石として使えるかもしれないし、1歳の息子は神像の耳をかじって歯が生えるのを助けることができるかもしれない。

最悪の場合でも、温室にあるいつものシダや白塗りの石の中にあっても、それほど悪くは見えないだろう。温室では、シャツの袖口を汚し、自分がアマチュア園芸家であるという心地よい錯覚の中で居られる。

私たちは何千もの京都の神像を見た。それらは面白くなく、あまりにも混雑していた。そして、混雑した神像は威厳に見えない。私たちは千手観音立像を祀る三十三間堂に行った。その建物はアールズ・コートの大劇場を思い出させた。そこには何千もの神々が、何段にも並んでいた。皆、高さ5フィート、金色で、皆同じよう並んでいる。これほど多くの神々が集まったことはかつてなかった。中央には、巨大な観音像が鎮座していた。

観音菩薩が神か女神かは、あなたの好み次第である。ここでは、観音菩薩は、くすんだ金色の人物像で、頭は一つだけである。場所によっては、観音菩薩は多くの頭を持ち、時には馬の頭であり、千手でもある。千手とは、もちろん四十本の腕のことで、これらの腕には、法輪、蓮華、数珠・浄瓶・剣・宝珠・弓矢・羂索などが握られている。この観音像の頭部には、本物の頭蓋骨が入っていると云われる。700年前、ある天皇が重度の慢性頭痛に悩まされていた。当時は薬やホメオパシー療法などなく、天皇は当時の慣習に従って社寺巡礼を行い、痛みの緩和を求めた。ある夜、天皇が熱心に祈っていると、幻影が現れた。幻影は、天皇が前世で敬虔な僧侶であり、その善行によって天皇の位に昇ったと告げた。しかし、不幸にも前世の頭蓋骨は川底に沈んでおり、そこから柳の木が生え、風が吹くと木が揺れ、それが頭痛の原因となっていたのである。そこで翌朝、天皇は頭蓋骨を探しに行き、見つけると観音像の頭部に納めた。それが今、そこにある。私は実際に見たわけではないが、この話は信じたいと思う。
私たちは三光神の門を持つ天神様に行き、奇想天外で詩的な名前を持つ曲がった木々を見た。また、大徳寺の彫刻を見学し、狩野 探幽など、聞いたこともない画家たちが描いた絵画を鑑賞した。

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2026年5月2日土曜日

自轉車瓦版 第108号

 自轉車瓦版 第108号

昭和61年2月13日発行

★E、バウアー氏からの手紙、拝啓 ライン河の増水で河沿の木々も水の下になる程一時は寒さがゆるみましたが、ここのところ又青空があおげ、代わりに真冬の寒さに戻ったボンです。大変興味深く絵入りの年賀状を有難うございました。 又、追って多くの日本の資料が届きました。どれも興味ある大変参考になる資料で喜んでおります。さて、以前のお手紙にありました質問にお答えします。西ドイツには個人的に自転車史等研究する人は居てもグループやクラブはありません。従って会報誌、機関誌もありません。自転車コレクションにつきましては個人の収集家はいないらしく、「二輸車博物館(ZWEI RAD MUSEUM)」に集められ、その所有の台数は70台にのぼります。この博物館のカタログももらいましたので、それをその町の案内図・ハガキ、又は先日偶然スイスで見っけた自転車工場の古いポスターのハガキと共に別便でお送りします。もしドイツにいらっしゃる機会がございましたら、その地図を持って是非訪ねてみて下さい。 なお、カタログには自転車以外の二輪車も載っています。昨年開かれた自転車発明家DRAIS (ドライス)の展示会の目録を手に入れましたので、昨年末にお送りしました。又、私の知人ラウク (RAUCK) が、日本滞在中に書いた小論文のコピーを上記のものと一緒にお送りします。彼はマスター論文でこのドライスの生涯を扱っていますので、その論文も手に入り次第お送りしたいと思います。二輪車博物館の情報から他の博物館又は古乗物協会という存在がわかって、その中の自転車担当の方に私は問い合わせの手紙を出しました。返事が来るまで暫くお待ち下さい。

敬具 1986.2.6、Dr. Erich Pauer ,  Japanologisches Seminar der Universität Bonn

ドイツのBrennabor-Werke
資料提供:E、バウアー氏

〇ドイツのBrennabor-Werke(ブレンナボア製作所)の1920年代自転車カタログ。
 創業: 1871年にライヒシュタイン兄弟によって設立。ドイツのブランデンブルク・アン・デア・ハーフェル。かつては欧州最大の自転車メーカーの一つであった。
 Brennabor 3 Neues leichtes Turenrad(新型軽量ツーリング車)。
価格: 全3サイズ一律 150マルク。70インチのギア比、楕円形スチール製クランク、空気圧タイヤ(Pneumatiks)などを装備。
Brennabor 7 Neues feines leichtes Turenrad(新型上質軽量ツーリング車)。
 価格: 全3サイズ一律 180マルク。「Brennabor 3」より上位の豪華モデル。ニッケル仕様のリムや最高級のサドルが使われ、15マルクの追加で木製リムへの変更も可能。