2021年3月31日水曜日

特許関係

 下は特許関係の新聞記事

先に自転車の特許資料を何点か紹介した。
この記事はそれらの特許の一部が満了したことを示す内容である。(先の紹介した特許とは無関係)

特許年限満了の金物
工藝製作品の新意匠新発明に係りて、専売特許を受け得るもの年々増加せることなるが、随って亦年と俱に是れが特許の年限滿了を告ぐるものあり、而かも世人は唯だ其特許の新らしく現はるるのみ注意して其期限の滿ちぬるを氣注かざるもの少からず、而して之を知るは又是れ工藝発明界に採りて多少の益なしとせざるなり、今農商務省の示せる報告に就て去る1月中特許期限の満了せる物品中金物の種目を之に紹介すべし

(註、その中に自転車あり)

自転車 東京 木下豊次郎外三名

東京金物新報 12頁
明治40年3月1日発行

自転車関係の木下豊次郎外三名の特許がどのようなものか知る由もないが、このように当時は自転車関係も数多く出願登録されていたことがわかる。

2021年3月30日火曜日

自転車関係資料④

 先日、自転車工具関係の資料ファイルを見ていたら、下の工具カタログが出てきた。カタログではなくチラシといった感じのもの。内容は異なるが同じようなものが2枚ある。

標題にイタリア、ミラノのS.A.S フラテッリ・ドニセリとある。この会社は1919年に設立された自転車及び部品製造会社のであるフラテッリ・ドニセリのことであろうか。今のところ確証はない。

この資料の年代も不明である。またどこで入手したのかも覚えていない。他に㈱山本自工の工具カタログ(チラシ)もファイルの中に入っていた。

S.A.S フラテッリ・ドニセリ
の工具チラシ
チラシのサイズはA2
振れ取台、スプロケット外し等

ダイス、ワン回し、カッターなど


2021年3月29日月曜日

自転車関係資料③

これは自転車マークの商標登録。

TYC号は全く知らない。どこの自転車店或は製造所なのか、商標権者 高橋修爾とあるから高橋自転車店だろうか。後ほど調べてみることにしたい。

自転車文化センター発行の「日本で製作・販売された自転車のブランド名に関する調査報告書」平成17年版を見ると、
108頁にテーワイシー号とあるが、これであろうか。
関東商会(東京市下谷区)大正14年、典拠は日本輪界興信名鑑大正14年版とある。
年号は一致するが住所が相違する。果たして同じ会社なのか確証はない。

自転車関係資料③

これは自転車マークの商標登録である。

商標登録證明書

登録番号第175861号

東京市本所区厩橋三丁目26番地

商標権者 高橋修爾

登録の年月日 大正14年12月3日

商標登録證明書

トレードマーク

2021年3月28日日曜日

世界無錢輪行者中村春吉

 今回で世界無錢輪行者中村春吉 君の談片

はこれで終わる。当初はこの後に寄稿文も中村氏から送られて来る予定であったが、届かなかったとのこと。

世界無錢輪行者中村春吉

君の談片(承前)

▲君の携帶品
時節柄山嶽探検を為す者の参考のため同君の携帯品を聞く

水筒
麦粉
砂糖及食鹽
燐寸
蝋燭
石油
高野豆腐
洋燈(四方硝子張角燈)
蚊帳
テ ン ト(合羽製)
毛布
空氣銃
懐剣
短銃
鉄槌
釘抜
鑢(やすり)
蚤取粉
幾那円
沃度加里
沃度保留謨
アルコール
繃帯
ガーゼ
油紙
疊針
一斗入金巾袋二打
疊系
絹糸
ナイフ
飯焚アルコール竈
同鍋
金盥
海綿
自轉車附属品悉皆
國旗

等の由、同君の旅行は固より世界旅行にて殊に印度地方の熱帯地及び人跡の未だ到らざる深山を横断せし事なれば斯の如く多数の物品を用意する必要ありたるなるも宜しく之を参考取捨して携帯せば盖し山間露宿を為す場合に不便を感ずる事無かるべし

▲携帯品の用途
以上同君の携帯品の內説明を待たずして用途の會得せらるるものは暫らく措き其內一二特種の物に就て特に其用途を記さんに

蚊帳は山間露宿をなす場合には最も必要にして蛇を始め種々悪虫の襲ふを之によって防ぐは勿論猛獣も蚊帳の内に居れば容易に飛び掛かることなしと而して野宿せんとする時に必先づ其地点に於て焚火をなし其火と灰とをまき散らすべし斯くせば叢中の虫類も土中に潜める惡虫も皆逃げ去るを以て身體を螫さるる事少なしと

高野豆腐は一は煮て食用とすべく一は之に石油を浸してブリキ缶に詰め置夜間の蓋を開きて枕頭に置くこととし猛獣の襲ひ来りし場合に之に点火して八方に撒ちらせば危害を免る事を得べし就中虎は非常に火を忌む獸類なれば斯くして火を八方に撒らせば忽ち逃げ去るものなりと然して虎はまた鳴物を恐るる性あるよりスワといふ時に鉄槌を以て劇しく金盥を打ち鳴らすも宜しといふ

は矢張り蚊帳と同じく獸類の襲来を防ぐの一用具にて猩々猿の類は網を張り置けば来り犯す事なしと

四方硝子張角燈は露宿の場合に終夜點燈し置くの用に供す

金巾袋は種々の旅行道具を容れて肩に掛くるを得べく米又は砂糖類を収容するに最り便利なり

疊針と疊糸は猛獣を捕へたる時に其口を縫付くる為の用に供し現に君は印度の山間に於て狼大蛇等を捕へて口を縫付け危害を免かれたる事ありと

國旗は自己の國籍を明かにする爲め之を二本の籐にて自轉車に結び付け往きたるに順風に之に風を孕みて帆の代用を為したりと而して此籐は又平生蚊帳の釣手ともなし時には惡水濾過器の代用をもなさしめたりと

海綿は平素汗拭いに用し又山間の渓流にて水浴をしたる時など之にて身體を拭ふに足り且つ携帯には最も便利を感じたり云はれたり

▲携帶食料 横浜の福井屋(旅舘)の夫妻は君の今回の旅行に最初より幹旋尽力到らざるなく君の發程に先立つて同家の細君は携常食料として鰹節數本を君に贈り君喜んで之を受けて携帯し或時食に飢て之を用したりしに鰹節は何分にも堅きものなれば君は遂に歯を非常に痛め歯茎を腫らすに至り大に困離を感じたりと之に就て君の実験を聞くに君は常に麦粉を用意しし焚火を為したる時麦粉を金盥の中にて適宜にねり上げ先づ鹽と砂糖にて味をつけ焚火の灰を掻分けて上に瓦を置き其上へ少しづく叩き付けて不等形のパンを焼き上げ夫れをポッケットに貯へて携帯食料とせしと勿論內地の旅行には斯かる不便もあるまじけれどチョットよき思付きなり而かも後には金盥も鍋も破損せしめたれば麥粉を帽子の中にてねり上げたりと云ふ

君の將來 君に向後慈善事業に従事し商業探検隊を組織して更に遠征を試みんとするものあれども目下米国ボストンに在る同志の來年一月帰朝するまでは暫らく郷里(山口縣下之関市東南部町)に蟄居せらるる筈なりと聞く

記者曰 君の談片は既に大抵新聞紙に出盡したれば之にて止むる事とせり尚前号予告したる君の寄稿は本〆切までに到達せざりしに付掲載せず

上記は、
明治35年7月5日発行「輪友」第21号 31頁~34頁より


2021年3月25日木曜日

「ふらんす」誌

 本日、パリ在住の自転車史研究家の小林氏からメールがあり、

白水社発行の雑誌『ふらんす』2021年4月号から、同氏の記事である「失われた自転車史を求めて」の連載(6回連載)が、この号から始まったとのことです。

月刊雑誌『ふらんす』 2021年4月号 3月23日発行

A5・96ページ、定価 本体952円+税


老舗さんぽ㉝

老舗さんぽ㉝ 

以前、小田原市下曽我の一石自転車店について、何度か触れた。その中で店主の名前を「リョウヘイ」としていた。これは開成町延沢の一石自転車店の店主である三代目の一石義雄さんからお伺いしたが、その名前の漢字までは確認しなかった。

この度、日本輪界興信名鑑(大正14年発行)を調べたところ一石良平と載っていた。

これで下曾我の店主の名前が確定した。

日本輪界興信名鑑
大正14年発行
国立国会図書館所蔵資料

下曽我の一石自転車店のあった場所

2021年3月24日水曜日

自転車関係資料②

 自転車関係資料②

これも宮田の特許資料。
難しい旧漢字の変換に少し苦労した。
図を見ればなんとか分かる気がする。

第一四三八八號
出願 明治41年2月22日
特許 同年6月2日
東京 宮田榮助
自轉車用コースター・ブレーキ

本發明は大体の構造を在来のコースターブレーキと畧々同様なすも其の制動作用をなさしむべき要貼全然異るものにして即ち軸及び完着杆を固着せる圓版の内面なる凸起の外部に該圓版と殆ど同径の弾力性缺圓環を嵌着し該缺圓環の缺所に凸起の載缺部に嵌合せられたる排子の頭部を挟容せしめ該排子を鏈車に關聯せしめた壓子にて壓し出し缺圓環を排開して覆筒の内周面に緊合せしめ以て運轉を制止すべくなしたる自轉車用コスターブレーキに關し其目的とする處は在來のコスターブレーキに比すれば構造簡にして而も迅速に且つ完全に制動作用をなさしむると破損の憂少なく耐久の効あらしむるとに在り。

自轉車用コースター・ブレーキ
典拠、明治41年9月25日発行「輪界」第1号 31頁~33頁

2021年3月23日火曜日

世界無錢輪行者中村春吉 君の談片

 今回も中村春吉、世界一周を伴にした愛車ランブラー号が語られている。

米国製ランブラー号は当時の人気ブランドで、小説家の志賀直哉も神田の濱田自転車店で購入し乗用していた。志賀直哉以外で当時ランブラーを愛用していた人に那珂通世がいた。彼は「奥州転輪記」(明治34年4月1日発行の『自転車』所収)の中で次のように書いている。

 余が乗れるは、ランブラーなり、世間に余りはやらぬ旧式の車なり。然れども此車は、余が為には実に善く忠勤を励みたり

ランブラーの意味は「ぶらぶら歩く人」でゴーマリー&ジェフリー社製の銘柄車である。

世界無錢輪行者中村春吉

君の談片

 世界無銭輪行遂行者中村春吉君の輸行經驗談は各新聞紙争って之を掲げたるを以て一般輪友諸君は既に知了されたるなるべければ本誌は殊更にそれを贅せず唯だ新聞紙の記事に漏れたる中にて輪友の大に参考となるべき分丈け追々に紹介すべし偖て同君の

▲平均一日の疾走哩數 を聞くに

印度 八十哩

伊太利 五十哩

佛蘭西 五十哩

英吉利 七十哩

亞米利加 六十哩 

土耳古 不明

即ち自轉車旅行に對する行動に於ける道路の良否を判定するに足るべし

▲自轉車用豫備品の最も必要なりしものは

各部廻轉部に要するボールのみなりし由し

尤もギャーの如は常に大中小の三種を携帯し登りに際しては小、平坦の地は中、降りにては大、と

其時々付替へて輪行せられたりと又チェーンの如きは少しも予備品の要用なく是等は其二三節を満一の準備に携帯すれば沢山なりと

▲タイヤーの耐久力

君はランブラー號に乗り通うされしも車は始終一つ車にて少しも損じたる所なく唯だタィャーは此旅行中三度取替へられたる由なるが君の經驗によれば先づ普通のターヤーは凡そ四千哩は優に保つべしと而して君の乗用車は余程古き出來のランブラー號なるが此旅行中該車製造会社に立寄りたるに同社にては大に君の挙を壮とし且つ其乗用車を紀念のため譲り吳れよ其代りとして同車數台を君に送るべしと頻りに梱望したる由なれど君は固く拒んて肯へりしと記者其理由を問ひしに君曰くどうしてどうしてあの車は私の大事な車です且つ此節出來るランブラーでは迚もあんなに丈夫な訳には往きません・・・・

(以下次就)

因に同君は旅行中の疲労を休め且つ留守中の用事を片付け少しく閑を得次第旅行中の奇事珍談をものして本社へ寄せらるる事を約せられたれば次號には定めし弁を掲載し得るなるべし

以上の記事は、
明治35年6月10日発行「輪友」第20号 34頁~35頁より

2021年3月22日月曜日

自轉車関係資料①

 自轉車関係資料①

これは宮田栄助の特許資料、あまり明治期の長めの文章ばかりでは疲れる。そこで、今後は短めの資料を時々合間に入れたいと考えている。

第一四八八九號 第四六類
出願明治四十一年七月十三日
特許明治四十一年八月十九日
東京市本所區菊川町二丁月五十二番地
宮田栄助

自轉車用自由(ハンドル、ポスト)
本發明は堅直中空軸の上部の一側に把柄を通貫せしむべき短円形の横管を形成し該中空軸には螺旋杆の進退により離合して把柄を廻動し緊締し得しむべき二個の抱締磐を装附して成る自轉車用自由(ハンドル、ポスト)に開し其目的とする所は簡便なる手段により容易迅速に(ハンドル)の傾斜を變せしむるに在り

自轉車用自由(ハンドル、ポスト)
典拠、明治41年10月25日発行「輪界」第2号 39頁


2021年3月21日日曜日

日本自轉車の由來

 この「日本自轉車の由來」は以前にもこのブログで取り上げているが、それは項目の1から10までであった。今回はその続きを含め紹介したい。
何れにしても、この記事は箇条書き風に書かれ、簡潔で読みやすい。

文中に読みにくい漢字もあるが、なるべく原文を尊重した。旧漢字に変換できるものはなるべく原文に合わせた。

明治41年9月25日発行「輪界」第1号 20頁~23頁

日本自轉車の由來

一記者

一、自轉車輸入の嚆矢

自轉車は明治二十年前後に始めて輸入したり、其のときは今日の自轉車の様に完全なるものにあらず。只ダルマと稱する鎖りなく前車大にして、後車は小さき二つの車をつけたり。而して米國より輸入し来りたるものは其不完全一層甚しきを以て、終に其あとを断っに至れり。且つ此不完全なるダルマ比較的歡迎を受け、好評を得自轉車流行の端緒を開けり。

二、我國自轉車製造の始め

故に我國にても自轉車を製造せんと苦心し、終に木製の自轉車を拵へるに至れり。而して此自轉車は多くは三輪車なれども、たまには四輪車を見たり、是等は明治二十年後間もなく製造したるものにして、元よりダルマを模型として製造したるものなれば、タイャは勿論、鎖りなどの存することなく、最も不完全なるものなりしものより。

三、安全車の輸入

それより漸く進歩し、明治二十四年頃には安全車なる自轉車の輸入を見るに至れり、此安全車には鎖り等もあり、略ぼ今日の自轉車に類似し、ダルマに比し稍完全なれば、輕快の點は勿論乘り工合ひ甚だよろしく、又便利なる點に於てもグルマの比にあらざりしなり。

四、タイャの輸入

日本に自轉車の始めて輸入せしときには、タイアなるものなかりしなり、然るに英國よりニューマチックシングルタイア即ち空気タイア輸入したりこれまでタイアの附しある自轉車なきを以て其乘り気持ち甚宜ろしく、自轉車界の一進歩と云ふべし、故に一般乗用者に於てもこれを歡迎せり。

五、自轉車製造業

我國の自轉車製造に從事せしものは、目下本所區菊川町の宮田自轉車製造所なり、其當時は明治二十五年頃なりしが神奈川に於て梶野なるもの又是れを始めたり、共後明治三十六年の頃本所にて蝙蝠傘製造者森田某なる人自轉車の製造に従事せり然かるに今日にては神奈川の梶野本所の森田は其製造を止め、宮田自轉車製作所のみ本所に於て増々盛んに製造をなせり、されば今後一層發展すべきなり。

六、西洋人タイアの修繕を依頼す

其當時自轉車を用ふるものは、西洋人か或は洋行帰りの紳士なり、而して其當時は自轉車の代価非常に高く殆んど三百円以上なり、故に普通の人士はこれを用ふること能はざりき、されば自轉車商人の如きは勿論東京に一人なき有様なり、一日西洋人タイア のパンクをなしたりとて其の修繕を東京市本所區菊川町宮田工場に依頼せり、然れども宮田工場にても、これが修繕をなす能はず、依って工場にてはこれを引き請けたれども、自ら修理をなさずして、これをゴム屋に依頼せり。されどゴム屋にて完全にこれが修理をなすことは、能ふところにあらず、故に不完全に其修理をなし、これが代価として金参円を請求せり、それよりパンクの修理は参円と云ふことになれり。されど如何とも仕様なければ安価なりと稱して、喜んで其依託をなす。これを今日の進步せる諸子の頭脳を以てすれば、実に滑稽の感あらむ。

七、其當時の自輛車使用の目的

目下我國にては都たると鄙たるとを問はず、自轉車と云へば一般に交通に最も便益なるものとし、これを使用するものなり。故に士農工商の區別なく、苟も迅速を貴ぶ事業には此自轉車を用いざるはなき有様なり。然れども最初自轉車の輸入當時は、一人の実用的使用者なく、殆んど貴族の遊びものとして、贅澤品となり終れり。それ故實利を喜ぶもの及び富貴ならざるものは、其使用を欲するも、価甚高き為め其實利ならざるを信じ、これを使用するものなかりしなり。

八、自轉車使用の例

それ故自轉車使用と云へば西洋人か、又は西洋帰りの所謂ハイカラ連中なりしなり。此連中が今日は横濱へ日帰りをせしとか、明日は日光へ行くとか、それ位が自轉車の主たる業務なりしなり。然して價格の如きも殆ん三百円以上ばかりにて、實に高價の贅沢品なりしなり。

九:宮田工場

前述の本所の森田工場も、神奈川の梶野工場も、宮田工場と同じく自轉車を盛んに製造せむとせしが、今日にては森田梶野の二工場は其業を止め、独り宮田工場のみ本所にて旺んに自轉車の製造をなせり。

十、日清戦争と自轉車

斯くして日清戦争は開かれ、贅沢品は其費用を避くる趣きあり依て日清戰爭以前は、多少の使用者を出せしも、開戦と同時に市中に其乗用を見ざるに至れり。而して一面は宮田工場は政府用の御用を命ぜられ、戰時の用品を製造せざるべからず、為に自轉車製造の余暇なし、二十七八年より三十四年までは宮田工場に於ても全く全製造を中止し、一般には全く其乘用を中止する有樣となれり。

(以下次第)

明治41年10月25日発行「輪界」第弐号 33頁~35頁 

日本自轉車の由來 (二)

一記者

十一、日清戰爭後の自轉車

日清戰爭は名譽の戰勝を博して目出度其極を結べり、而して全國至るこころ景気は次第に良好なり、臺灣は割譲され、償金は多大の額を取得され、為に金貨は市場に流通するに至れり。故に各種の商人は勿論、一般の人士に至るまで自轉車を使用するもの次第に多さを加ふ、是を以て之れが輸入又日を追ふて盛大となり、されば一般人士も大ひに此れを用ゆるあるに至れり。

十二、日清戦争後の自轉車の輸入

然るに米國にては、クリブランド、エッスルの如き少しく進歩せる自轉車を大に我国に輸入し始めたりされば我國にては、上下の區別なく一般に大に之れを觀迎するに至れり。尤も此クリブランド、ェッスルは車輪は元とより其車臺に於ても、日清戦争以前に米國より輸入せしものよりも、細そく寧ろキャシャと云ふ方にて、當世所謂ハイカラ式なり。爲めに車臺極めて軽く、走る點に於て以前のものよりも大に快速なれり、それ故是等の點に於て大いに良好なる結果を得たり。

十三、クリブランド、エッスル以後の自轉車

此クリブランド、エッスルは大いに世に好評を得たり、為めに我國にても外國自轉車の多く用ひらる狀態になれり、故にデートン、及びピャス等續々輸入を始めたり是れ等も大いに世の觀迎を受くること、彼のクリブランド、エッスルに劣らざる有様となれり。

十四、宮田工場再び自轉車を製造す

宮田工場にては日清戦争と共に銃砲の製造をなし砲兵工廠の御用工場となりしが、日清戰爭は其極を結び、加ふるに、明治三十三年我帝國議會に於て、銃猟税を增加することとなり、為に銃を負ふて山に猟するもの甚だ少なし、是に於てか宮田工場にて銃砲を製すること、余りに良好ならざる有様となり、寧ろ不景氣と云ふも必ずしも失當にあらざる次第なり、されば宮田工場にて再び銃砲製造を止め、自轉車を製造することとなりたり。

十五、宮田工場最初の自轉車の模型

是れ實つは自轉車なるのは、從來贅沢品なる観ありしが、日清戰爭以後漸く其観念を去り、実用を旨とするの傾向あり。爲めに宮田工場にて将来大ひに發展の希望を有せり。さればクリブランドを模型となし、自轉車の製造を始めたり。

十六、自轉車の商標

日清戦争以前は、自轉車專門の商店なく、為めにマークの如きも其専用のものなし、されば各々其好みに應じてマークを製造せり、故に或は自家の定紋を以てマークに代へ使用するものあり、又紋は不良なりと云って、種々の形ちを取り以てマークとして使用す、故に殆んど同じマークを見ることなし、是れを以て同じ自轉車と雖も、必ず其マークは異なりしなり。

十七、宮田工場の自轉車の価格

宮田工場にては、スポーク、玉、及びサドル等自轉車に關する凡てのものを製造し、以て自轉車を完備せしめ、此れを五拾五圓か六拾圓位にて販賣したり、為めに大ひに其価額の安さを喜こび以て大いにこれを觀迎せり。

十八、デートン

クリブランドは一時大ひに流行を極めたりしも、今日に至りては、全たく流行の跡を断ちたり、デートンも次で大いに其流行を博せり、然るに此デートンも、車臺に於ても車輪に於ても、大に其良好なるを認めたり、されど一時奸商ありて、大いに不良よる品質の自轉車を盛んに輸入し、これをデートと稱して大いに販賣せり是れが爲め、デートンの信用は落ちて地を払ふに至り、今は僅かに其あとを存するのみ。

十九、ピヤス

ピャス(ピアス)は良好なる車なれども他の自轉車か、時代の進歩に伴ふて其価格も漸次安くなるに反しピャスのみは、五六年以前に猶ほ異なることなし。而して目下內地にて製造する自轉車少なからず、加ふるに外國より輸入するもの亦其価額廉なるもの甚だ多し、これを以て仮令品質に於て多少良好なりと雖も、其価額餘り高きものは用ゆるもの次第に減少するは、是非なき次第なり。

二十、見本の作製

宮田工場にて明治三十四年始めて自轉車の製造をなさんとせし頃、其見本の製造に意を注げり、然れども僅か二臺の自轉車を作るに其日數実に六ヶ月を要せり。然れどもこれをよく製造するに於ては將來大に望みあり、為めにこれより次第に其製造に力を入れ、大いに自轉車の発達を計れり。

(以下次號)


2021年3月20日土曜日

世界自轉車旅行者中村氏③

世界自轉車旅行者中村氏の新嘉坡の滑稽業③

今回の話でとりあえずこの稿は終わることになる。結局中村氏は仕事にもありつけず、路頭に迷い橋の下で野宿することになる。そして炊事の支度をしようと焚火をしたところ、煙が周辺に漂い橋を通る人々に発見され、ひと騒動に。その後巡査も駆けつける事態となる。その結末は・・・

橋下にて巡査に叱かられる

 それで氏は何處にか安眠の場所を講せねばならぬと思ふて居る內に日は全く暮れ市中は電氣燈や瓦斯燈にて昼も欺かんばかりに輝らして居るけれども中村氏の懐中は一向何物も輝らさん。しかし眠さは眠し苦しさは苦しいしはやく眠る方法をつけんと苦慮最中であったが仕樣がないから氏は宮か寺を探し始めた、しかしそれも見當らぬ、ときに1つの橋があった此橋は何ふかと橋の下を覗いて見ると川の一方は水もなく白毛布の様な白砂が奇麗にあって、水の中には星の影やら市中の燈火の影が浮いた様にあるかと思へば又くずれた様になる。しかし中村氏はこれを見て楽しむどころか、腹は空く眠むさは眠むし、何見ても面白くもなければ喜しくもない。それで何もかまわず橋の下の白砂の上に行ひて、ふろしきを枕にしてグーグーと眠ってしまった。すると中村氏は奇麗な奇麗な家に眠かされて居て、自分の側ばには美しき花毛布を敷き。テブールの上には澤山のぼたもちがある、そしてそれは中村氏の為めに用意されてある、腹の空いた中村氏に喜ぶことか喜ばないことか、一時もがまんが出來ない、それで走り寄りこれは甘ひと云ふさま行きなりにぼたもちに手を掛けた。ところが如何なることかぼたもちに羽ねが生へて向かへ飛んだ、やしまったと又追っかけて行つて取らふとした、するとぼたもちはピント飛んだ、只困まったのは中村氏でぼたもちがどふしても取れない、それで此ん度は小供が蝶々でも取る様にそっと行って取らうとする、さすれば手が届かんとするときぼたもちはピント飛んで仕様がない。嗚呼お腹が空いて空いて咽喉はギユーギューと鳴るぼたもちは取れぬ、中村氏はお腹が空ったが又お腹が立った、そこでこんどは怒った。ェーこんなぼたもちなんか有らんと云ったときに、それは夢であって空腹の為めに目は覚めた、目が覚めて見るとやばり橋の下たの白ろ砂なの上である、嗚呼まるで乞食の様だと中村氏グズグズ云って居ったがグズグズでは腹はふくれぬ。

それでこんどは米を出して川の水で洗って、それを袋に入れ砂の中に埋めて中村流の飯炊き法に依り上に火をたき始めた、それまではよかった 市中の人々がアー橋の下から煙がでるあれは何かと云つて寄つて来た、暫くの間に西からも東からも南からも北からも、あつまるものが支那人の形容で日へば壁の如く以つて垣に似たりとでも云ふ様である。そしてがやがや云って居るが、下を見れば中村氏が平然として飯を炊いて居る「ア、これは乞食が火をたいてるとこだ」と一人が云ふと「ムーそふじゃ今迄此乞食は見たことのないやつだ」と他の一人が云ふ、

甲「これはどこの乞食か支那から来たか支那人にしては顔が気がききすぎる」
乙「そうだねーそれでは支那人でもない」
丙「ャー日本人だ」
丁「そふかも知れぬ」

甲乙丙丁まるで雀の竹藪にでもは入った様である。
そのときに巡査が何事かと近寄り見れは、橋よりは煙が出で人が澤山がやがやがや云つて居る、それで橋火事でも出來たかと驚いて走りて行った、する人々がいろいろ批評するなかに中村氏は平然として飯を炊ひて居る、

そこで巡査は「オイ貴様は何をする」
中「僕はにこに飯を炊いて居る
巡査「そんなところに居る法があるか」
中「しかし居處がないから今夜仮に此處に一泊したんだ」
巡査「貴様は誰の許を得て此處に来たか」
中「誰れの許も得ない許を得る位ひならこんな處には来ない」
巡査「人の許を得ないでこんな處に来る法律があるか」
中「来ることが出來る法律がないなら来ることが出来ない法律もあるまい」
巡査「其法律のないのに何故に来るか」
中「君は妙なことを云ふ来ることが出来る法律がないなら又来ることの出來ない法律もない、して見れば法律が許さないけれども又禁じもしない、さすれば我々人民の自由ではないか」
巡査「貴様理屈ばかりこねたくる警察に引っ張るぞ」
中「此困難の中に引っ張られたり出ばられたりしてたまるものか」と

口論中に中村氏の知人某氏がやって来て

某「オイ君は中村君ではないか」
中「中村だ」
某「何ふして此處に来てるかね」
中「実は申し訳ないが無理に君の家を出て山河と云はず步るひて見たが好都合もない それでここに来て橋の下に一泊しょうしたところが此巡查君に叱を載ひて居る處だ」
某「ソーか」

と又巡査を見たところが丁度幸いに某氏の知己の巡查であつた、それで其巡査に理由を話して連れて歸りた、ところが其妻君が又驚いて「貴君は何故に私の家に来ませんでした」大変親切に取扱つて呉れるしかし中村氏も余り永く一ヶ所に止まるは自分の利益でもなく又本意でもない、それで一日も早く他に行かんと其訳を某氏夫婦に語って仕度をしてるこん度は船から行くことに極めた。某氏の妻君も大に親切にして歸るときに使ひ銭として四圓か五圓を恵んで興へた、それで中村氏も文なしの處に少しの使い銭は出来た。

中村氏の旅行談も此他に最少しはしたいと思ふしかし続き続きでは返って面白味があるまいそれで痛快のところを擇んで一言申上んと思ふ幸に御一読の栄を得は幸甚此上ない
そこで此次には如何に面白きところがあるか御待ちを願いたい。

只恨みとするところは不明の頭脳で拙ない筆、面白き事實をあまり面白くない様にすることが多い
幸に諸子推察して奥に奥あるところを知り賜え
(完)

明治41年10月25日発行「輪界」創刊号 41頁~43頁

註、今回の文中にも現在では不適切な言葉が散見されるが、明治期のそれが表現であるため、そのまま掲載した。

2021年3月19日金曜日

力士と自転車

力士と自転車

コロナ禍で、今回は両国国技館で3月14日から始まった春場所の大相撲も中日(なかび)を迎えている。特に後援をしているわけではないが、私の贔屓力士は照ノ富士、妙義龍、炎鵬、御嶽海、朝乃山、逸ノ城である。

ところで、これも力士と自転車の新聞広告で、先のデートン号に乗る国見山と同じ図柄だが、よく見ると国見山の他に常陸山、太刀山、若島、駒ケ嶽関の名前が見える。皆当時の人気力士である。

自転車競技選手として活躍した鶴田勝三、砂田松次郎の名もある。


明治後期に活躍した上位力士

元横綱、常陸山 谷右衛門 ( ひたちやま たにえもん ) 1874-1922

元横綱、若島 權四郎(わかしま ごんしろう)1876-1943

元横綱、太刀山 峯右エ門(たちやま みねえもん)1877-1941

元横綱、大砲万右エ門 (おおづつ まんえもん)1869-1918

元横綱、梅ヶ谷 藤太郎 二代目(うめがたに とうたろう)1878- 1927

元大関、駒ヶ嶽 國力(こまがたけ くにりき)1880-1914

元大関、國見山 悦吉(くにみやま えつきち)1876-1924

参考までに昭和13年頃の自転車に乗る双葉山の写真も下に載せる。

尚、明治36年5月15日発行の雑誌『輪友』第19号、15頁~17頁に「相撲と自転車競争」という記事があるので、追って紹介したい。

双輪商会の新聞広告
明治38年6月30日
新聞名不明

國見山
明治36年

双葉山 定次(1912-1968)
昭和13年頃
自転車の銘柄は不明

2021年3月18日木曜日

世界自轉車旅行中村氏②

 中村氏が赤い家に住む西洋人の奥さんから棒で打擲されたり、石を投げつけられた真相が、以下で語られる。

文中に現在では不適切な言葉が散見されるが、明治期のそれが表現であるため、そのまま掲載する。

世界自轉車旅行中村氏の新嘉坡の滑稽談(ツヅキ)

一聞生

 此日天清らかに風なき日であった。太陽は中村氏が奉公口を見出さぬとて遠慮はせぬ、それで河の水がさらさら音さして、東の方へ流るるに引きかへ、西へ西へと立ち去りてはや西山に落ちかからむとする、鳥は友を誘ふて遠方よりガーガーと叫んで帰りくる、人は業を終へて家庭の楽しみを見んと西へ東へ南へ北へと我家を辿りて帰るのである。

独り憐れは中村氏にて行かむとして旅費なく、帰らんとして宿もなし、身は捨て小舟に恨みても何の利益もないのである、それで只ボンャリとして立って居た、そのとき丈け高く容貌卑しからず、服装亦中等以上と思はるる温順なる顔付を備へたる西洋紳士中村氏の前を通りた、氏はこれを見て「モシモシ一寸待って下さい」と云へば西洋紳士は振り返りて「何か御用がありますか」と答へたから氏も静かに「少し御尋ね申上げたいことがあります」と近か寄りた、紳士も一寸立ち止どまりて中村氏の顔を見たばかりで「あちらへ行きなさい、あちらへ行きなさい」としきりに手を振りて氏を追ひ払はんとする、中村氏も何か機會を得とする最ひ中であるから又声をかけて「何んですか行けと云はるれば行きますしかしあまりと云へばあまり無理を云ひごとではありませむか」と問ひかけた、それで西洋紳士は不思議相に思ひ、「どうして」と反問したのである、中村氏はこれで話しの端緒を得たと大ひに喜こび「此市中の西洋人は皆狂人ばかりですかしてあなたも此亦気違ひの一人ですか」と云ふた、紳士は「妙なことを云はれるが何う云ふ訳です」と云た。

それで中村氏は静かに口を開き「私は自轉車を以って世界を漫避するものであります、それで甲地より乙地に至り旅費がなくなれば或は奉公し或は種々の労働をなし賃金を得て以て旅費とし、今日此處迄で来ましたところが又旅費を費ひはたし今や何か一仕事をして旅費を得なかつたときは二ッチも三ッチも行かねそれで奉公をせむを思い立ち此市中を歩いて奉公口を探しましたそれから此處の人々優さしを備ふて呉れるかと思ふたが事実は案外で或る家では打たれ又或る家では水をかけられ或る家では叱かり飛ばされ實に言語同断の有様であつた、しかしこれが此地方の習慣でありますか又此地方の礼式でありますか何にしろ実に迷惑な話しではありませむか」と云ふた。

紳士は迷惑な顔をして「決して決してそんなわけのものではない、それは日本人が惡るいのである」と云ふたそれで中村氏は「然らば日本人は如何なることをしましたか」を問ふた、それで紳士が答へて云ふには「日本人は常に金を貪るは少くないそしておまけに日本人の女を下女に雇へば日本の男が来て盗んで逃げて仕舞ふ、それで日本の下女は能く働くけれども雇ふことが出来ぬ、先達ても此町に赤ひ家がある、あの家では妻君が日本に居た時分から使って居た下女、なかなか働くからさと云って、日本を出発するときに態々連れて来た、ところが其下女は実によく働くと云って妻君も大喜であつた、するとあなた見た様な色の小黒き日本人が奉公させて下さいと云ふて来た、それで妻君もそれを下男に使った、がしばらくすると其下男が下女を連れ出して陰れてしまった、其後間もなく其妻君が他行したとき醜業婦の群には入ってかんなで削る様にお白粉を顔につけて居った、それで妻君も折角の良き下女を其男の為めに淫売にされたからくやしくてたまらない、もとよりきかん氣の妻君であるからたまらない、すぐに日本人は雇ふべからずと云ふ規約を結んだそれであなたが雇われようとしても雇はないのは無理はない」と云ふて去って仕舞った。

中村氏其話を聞き大いに後悔したけれども仕方がない、それで最早此土地には奉公する気はなくなった、それで一刻も早く他に行かんと思へども、奈何にせん懐中に分厘の貯へもなく、飛ばんとすれど羽ねもなし、実に憐れなる次第なり。それで船に乘り労働者となり、以て他に行かむと思へりされども今日の日は西山に春き如何ともなる能はず又宿に一泊せんとすれどこれ又文なしでは活動の方法なし。

つづく

明治41年10月25日発行「輪界」創刊号 41頁~43頁

2021年3月17日水曜日

ダニエル・ルブールの描画

 先日、何気なくダニエル・ルブールの自転車部品描画集を眺めていたら、某サイトで見たことがあるイラストが目に留まった。

下のイラストがそれである。

1949年
Magazine "Le Cycle" Drawing Daniel Rebour

ダニエル・ルブールの自転車部品描画集
この資料は以前、横浜のシマダサイクルで入手




2021年3月16日火曜日

プレミア自転車

 下の図の自転車はプレミアである。ただし、フランス語の1896年のカタログ。

日本では、1911年(明治44)に大阪の角自転車商会がプレミア自転車を販売していた。

プレミア「ヘリカル」モデルR 
DEMI - COURSE
準レーサータイプ

1896年、プレミアのフランス語カタログ

これは1906年、ドイツの新聞広告
プレミア自転車は
年産と販売が49,000台とある

上のカタログや新聞広告を見ても当時のプレミア自転車は世界的な大企業であったこのが伺える。

以下はプレミアの略歴である。

1875年、ウィリアム・ヒルマンとウィリアム・ハーバートが自転車メーカーとして英国のコベントリーで創業、社名はヒルマン&ハーバート・サイクル社。

1876年、この年にジョージ・クーパーも参加し、社名をヒルマン、ハーバート&クーパー株式会社と改名。

1902年、プレミアサイクル株式会社と改名。

1914年、プレミアサイクル株式会社をコベントリープレミア株式会社に変更。

1920年、シンガー社に売却、コベントリープレミアの商標は、その後もシンガー社が引き続き使用し、1927年まで製造を続ける。


2021年3月15日月曜日

世界自轉車旅行者中村氏

  明治41年発行の「輪界」創刊号に中村春吉の記事と写真があったので、以下紹介する。

 どうもこの記事はドタバタ喜劇のような内容で、少し呆れる。型破りの中村氏の一面をここでも演出している。以前の中村春吉の直話でもこのようなトラブルは毎度発生していた。これら騒動の海外版といったところであろうか。筆者の誇張もあるはずだ。

世界自轉車旅行者中村氏の新嘉坡の滑稽業

一聞生

中村春吉氏と云へば苟くも輪界に事をなすもの共名を知らぬものなし、故に此處に中村氏を紹介するは寧ろ無用に似たり。然かれども氏一と度び自轉車を以て世界無銭旅行をなし、其內には百難を排し九死一生の間を逃れ、又非常なる歓迎を受け、或は滑稽殆んど腹もよれんとすることあり。故に其談を聞くもの或は戦慄して心胆を寒からしめ、或は欣然自ら愉快を覚へ又滑稽に至りては人之れを笑い顔面殆んぞ皺となり之れを延ばすに火熨斗(ひのし)を要することあり。されば其一端を載せ未だ知らざる人に紹介せんとす、幸に読者の一読を得ば幸甚なり。

尤も中村氏の写真は載せて口絵にあり、一見あらば氏の貌を知るを得。此談話は余の友人某絵を送りし時余に語りしものなり、されば時々其談片を載す。

中村春吉氏無銭にて自轉車旅行をなし終に新嘉坡(シンガポール)に着ひた、時に氏は奉公口を探さん為め所々方々をあるいた、しかし水をかけられ又は種々の目に逢はされ終に赤き家に行いた、ところが家は鎖まって居た。それでごめんごめんと声をかけた、時にいと優さしき女の聲にて返事があったそして戸は開かれたそれで種々の話をしました、すると奥の方より一人の西洋の妻君が出て來て、おまへ何しに来たのかと問ふたそこで中村氏は私は奉公口を探しに来ましたから、此家で若し御入用ならば私を御使ひ被下義叶ひませんかと申しければ、其妻君は中村氏を見るやおまへは実に不都合千万な男だとののしった、そこで中村氏はさっぱり理由が分からんから如何なるわけですかと問ふと其妻君は次第に顔色に怒氣を帯び、此家の下女を盗み出し又よくも此家に来たなと怒鳴る、それで中村氏益々理由が分からず夢ではないかと自から自分の自體をつねた位であった。中村氏の斯く口で云ふばかりであれば怒りもせぬが、しかし妻君大に怒り如何するか今に見ろと云って、大きな青竹を持つて來て中村氏の頭を打った、中村氏は不意を喰ってびっくりして大に驚ひた、ところが其妻君は又中村氏を打ったが、中村氏もそふそふ幾度もは打たれず此度は身をかわして竹を引き取り玄関の段からなげ落した。で妻君は大に立腹して中村氏に打て掛らふとする、中村氏は一度はしゃくにさわり妻君をどふにかしょうと思ふたが、斯くの如さ西洋の一婦人に對して腹を立てるのは、我々志あるもの、不名誉ではあるが決して名誉でない、只馬鹿なからかひしても一度怒らしてやらんと、又種々の悪口を言ふた、妻君さらに愈腹を立て嗚呼くやしひしひと云って益々中村氏を如何ふかせんとする、であるから中村氏も愈々面白くなり終に目を引っ張り尻を向けこれ喰へと二ッ三ッたたひた。妻君は実に日本人ばヅゥヅゥしひものだと顔色愈々赤くなり言葉さへ振へた、そうしてくやしいくやしいの一點張りである。氏益々面白くなり終ひに目を引っ張り後を向け馬鹿と云ふなりに逃げ出した、それで妻君は西洋婦人の例に慣ひ袴の尻をかかへさばさば云って追っかけた、それで中村氏は笑いながら逃げると其妻君は石を取つて中村氏になげつけた、其妻君なかなか石なげが上手と見へ石が中村氏の頭に命中した、中村氏これにはたまらい少しは痛ひ感じがした。されど益々からかわんと罵詈を極めた、そこで其妻君は愈腹を立て石をみだりになげつけた、けれどもふ一つも中らぬ、中村氏は自轉車に乗って四五丁ピューと馳せて逃げた、すると妻君もあきらめたと見へ中村氏がふり返りて見たときは巳に尻をかかへばさばさと玄関へ歸るところであつた。

理由の分からいのは中村氏、はて新嘉坡の人は皆狂者かしらと思ふて見たり、それからどうして我一人こんな目に逢ふか人違ひではないかと思ふて見たりして居た。けれども是れには一の理由がある、其理由は紙數の都合によりて次に譲るを以て讀者に断り置く

つづく

明治41年9月25日発行「輪界」創刊号 34頁~36頁

本文にも書いてある口絵
自転車は米国製のランブラー号

2021年3月14日日曜日

クリーブランド号

 下図のクリーブランド№18は、まだ日本には輸入されていない時期の自転車である。

日本でクリーブランドが輸入れるようになったのは明治30年頃からで、その頃に伊勢善、仁籐商店、高木喬盛館などが販売するようになる。

明治33年、ヴォーガンが富士山に乗って行った自転車はクリーブランドであり、同行の鶴田勝三はデートンであった。

クリーブランド№18
価格は $ 100.00

1895年(明治28年)
クリーブランドのカタログ
H.A.ロージアー&カンパニー

●クリーブランドは、アメリカのメーカーで、1892年~1909年頃まで、次のメーカーがクリーブランドの銘柄で販売していた。この中で、一番古いのが上のカタログにあるH.A.ロージアー&カンパニーである。

以下、製造所の変遷
H.A.ロージアー&カンパニー、クリーブランド オハイオ州、1892-1899
アメリカ自転車会社、クリーブランド オハイオ州、1900-1901
アメリカサイクル製造会社、ハートフォード コネチカット州、1903
アメリカサイクル製造会社、ニューヨーク、1902
ポープ製造会社、ハートフォード コネチカット州、1904-1909

以上は、ザ・ホイールメンの資料より

2021年3月13日土曜日

日本輪友会について④

 日本輪友会について④

 ダルマ形自転車の時分には何しろ車輪が馬鹿気て大きかったもので、畢竟そん滑稽な大失敗があったのですが、もう此節の安全自転車になっては車体が低うございますし、それにはコースターブレーキなども輸入されて居りますし、又乗り手も大変熟練して来て居りますから、乗り手の多くなった丈け失敗もあるようですが、昔のような大失敗の無くなったのは、何より結構だと思って居ります。まだ思い出してお話しすれば種々な出来事がございましょうが、何しろもう古い事で日記にでも書留めて置かなかったことは思い出す事もできませんから、今回はこれだけで御免を蒙って置きましょう、いずれ又輸友諸君の御参考になるような事でもございましたら、お話し申すことに致しましょう。完(半開生速記)

「輪友」第18号 35頁、明治36年4月10日発行より

この頃まだ、ダルマ自転車でサイクリングをしていたことがわかる。屋台店に突っ込んだのは、一体誰であろうか。名前は分からないが、右近氏か或は森村兄弟の一人かもしれない。森村兄弟は、米国製のゴマリー&ジェフリー社製のオーディナリーを持っていたことが知られている。左近氏も当時オーディナリーに乗っていた。

日本輸友会のサイクリング行事については、当時の新聞にも出るほどで、まだサイクリングそのものが珍しい時代であった。

明治27年1月11日付の時事新報
日本輪友会(自転車倶楽部)にては、旧冬まで事務所を府下京橋区銀座2丁目14番地に設けおきたれども、集会上不便少なからざるにより、会の常務取扱所だけを京橋区南鍋町2丁目12番地の交詢社内に移して、集会の場所は近郊に分設する事に改め、旧冬取り敢えず池上の光明館、目黒の内田屋、王子の海老屋を選定して、既にそれぞれ特約を結びたれば、来る14日 (日曜日)を以て、第一回に王子行きを催す事に決したる由。もっとも同日は広く会員外の有志者をも募集して、1日の遊楽をともにせんとするものにして、同行者は当日の午前10時までに、上野公園内精養軒前の休憩所辺りにて待ち合わせ、同刻より王子に向かい、王子よりゆるゆると郊外を乗り回す計画なれども、もし当日雨天なれば、次の日曜日に延ばす予定なりと云う。

日本輪友会は、この様に各所に集会場を設けるなど、発足1年たらずでかなりの会員数を擁したものと思われる。
第三回のサイクリングは、梅見をかねて、2月18日に行われている。

明治27年2月17日付、東京日々新聞に、
日本輪友会、近郊へ観梅のサイクリング
第3回自転車郊遊
日本輪友会にては、明18日を期して、亀井戸、木下川、向島等の各地へ自転車を駈り、会員の観梅野乗りを試むる由にて、当日午前10時までに神田区錦町の吉村方に待ち合わせする予定なりと。

日本輪友会につづく自転車倶楽部は、その後、全国各地に発生し、サイクリング熱が、盛んとなった。また、自転車競走会も行われるようになり、更に発展していった。

「日本輪友会について」はこの辺で(完)とする。

2021年3月12日金曜日

雑誌『輪界』

雑誌『輪界』について、続き

雑誌『輪界』については3月8日のブログで触れたが、今日は明治41年発行の『輪界』創刊号の目次などを見ることにした。

こちらの『輪界』は、明治41年9月25日の創刊で、発行元は東京府豊多摩郡大久保村大字西大久保村59番地、輪界雑誌社、発行人は氏家正統とある。

次に『輪友』の方を見ると、

発行所の住所と発行人は、

住所は東京市本郷金助63番地であるが、その後住所を転々としている。

東京市京橋区西豊玉河岸28号地、東京市深川区西大工町10番地、東京市浅草区寿町51番地など。発行人も島廉太郎、関口才佐、清水 卓、小田垣哲次郎と変ってきている。

いずれにしても大阪の『輪界』は、未見であり、その所在も不明である。

この大坂の『輪界』を加えると以下のようになる。

明治期だけでも16点もの自転車専門誌があったことになり、自転車文化とその熟成度に驚嘆する。

明治期に発行された自転車専門雑誌(2021年3月12日現在の調査)

雑誌名 発行所 発行年

①自転車 日本輪友会 明治26年~5号で廃刊

②自転車 快進社 明治35年8月~昭和初期?

③輪友 輪友社 明治34年10月~明治38年?

④輪界  大阪 発行人 田村規茂 明治36年~?

⑤輪界 東京 輪界雑誌社 氏家正統 明治41年9月~明治45年?

➅猟輪雑誌 大阪、猟輪倶楽部 明治35年9月~明治35年12月

⑦三友雑誌 自転車銃猟写真の友 明治36年1月~明治40年?

⑧関西自転車 大阪 創刊年月日など不明

⑨自転車世界 大阪、自転車世界社 明治35年10月~明治35年12月

⑩愛輪時報 名古屋 創刊年月日など不明

⑪清輪 清輪時報社 明治38年~?

⑫信越輪界 信越輪界 明治43年?

⑬自転車 日本輪友会 明治27年2月~5号まで発行

⑭愛輪 金沢愛輪クラブ 明治36年10月~?

⑮周防愛輪月報 周防愛輪同志会 明治37年6月~?

⑯日米タイムス 日米商店 明治42年6月~?

『輪界』創刊号
明治41年9月25日発行
よく見ると輪友雑誌社とあるが印刷ミスか?
下の目次には輪界雑誌社とある

同上の目次

2021年3月11日木曜日

老舗さんぽ㉜

 老舗さんぽ㉜

昨日の「老舗さんぽ」は、鈴一自転車店である。

たまたま店の前を通りかかると、店先にお客さんと店主がいたので、少し言葉をかけてみる。「このお店は、鈴作、鈴甲さんとなにか関係がありますか?」と尋ねたところ。まったく関係がないとの返事、以前からこの店は、鈴作、鈴甲と何か関係があるのでは、と思っていたので、これで納得である。

註、「何か関係」とは、先代の時に暖簾分けか或は屋号を参考にしたのでは?と考えていたからである。

この店も既に創業から70年程になり、現店主は二代目にあたる。

この店を後にして、浜町のサイクル・ハウントに向かう。店主は、13日のイベント関係の資材の荷ほどきなどをしていて忙しそうであった。
私の自転車のハブ、チェーンへの油さしを依頼。その後、店主と10分ほど会話。
そのうちお客さんが来たので、邪魔にならないように退散した。

註、3月13日のイベントとは
【ストライダー試乗会】
1歳半から5歳までのストライダー初心者に向けの体験イベント
雨天の場合14日(日)に順延
開催場所 sotosotodays -ソトソトデイズ-
住所 小田原市扇町2-32-6

鈴一輪業
小田原市東町3-10-16

サイクル・ハウント
創業は2020年2月23日と若い
小田原市浜町1丁目11−24

店の内部
展示台数が多い
各種取り揃えている

トリオ自転車

 トリオ・ロードスター

資料の間から、下の広告チラシが出てきた。
トリオとは、あまり聞かないブランドである。
メーカーはシカゴにあったアルボー・ドーバー社である。このメーカーは、日本ではあまり知られていない名前だが、当時は大企業であり、自転車のほかにも自動車や農機具などを製造していた。

TRIO 1902 モデル -C

2021年3月10日水曜日

日本輪友会について③

 日本輪友会について③

日本輪友会の主な活動は、当然の事ながら遠乗会であった。発足当時の遠乗会でのエピソードを「輪友」雑誌から紹介しよう。ちょっと長いが、前回も引用しているので全て載せる事にする。

我国自転車団体の最も古き日本輪友会の話 (2)
石川 信

 遠乗会のことに就いて日本輪友会が盛んであった時分の話しを致しますと、26年の6月に中島大尉(参謀本部在動)、 田中力造、高田慎蔵、原六郎、坂田實、玉木某等の諸氏とそれから私とで船橋迄遠乗を致しました。此時は誠に無事で別段お話しする程の失敗もありませんでしたが、其翌々月の8月に坂田實、福沢桃介、福沢捨次郎、伊藤茂右衛門等の諸氏と私とで大磯まで遠乗を催した事がございます。此時は何しろまだ8月の中旬頃で暑さもきびしかったものですから一同非常に疲れまして、殊に私はペダルを踏んで居る脚の神経がどうか成りましたと見えて、もう保土ヶ谷へ掛かりました時分には脚でペダルを踏んで居ると云うよりは、ペダルの回転するのに伴われて脚が動いて居ると云うような風で、脚の知覚が馬鹿になって来たのでございます。

所へもってきて保土ヶ谷の所に坂ありますが、あの坂へ掛かると坂の下に荷馬車が1台休んで居った、私は其時に何でも一行の内の真ん中へ挿まっておったと覚えて居りますが、先へ行った二人がツーッと坂を降りていって其荷馬車の傍を通る時に急にベルを鳴らしたのです、すると其荷馬車の馬が驚いて跳ね上がった所へ、私は後からやはり坂をツーッと降りて行ったのですが、あ馬が狂いだしたと思った時は既に遅しでもう其間近に至ってしまって、殊には今お話しした通りで脚が馬鹿になって居ったのでバックを掛けて飛び下りると云う事もできませんでした、又実際逆踏を掛ける余裕もなかったのです。危うくも其荷馬車へ衝突しそうだったので、ハッと思って急に轅(ながえ、ハンドル)を横へ無理に曲げますと、何しろ坂を降りてきた勢が車について居ったので堪りません、其處へ転落しました。幸いな事には此方が思った程荷馬車の馬が暴れたのでは無かったので自分は別段怪我はしなかったのですが、自転車は非常に破損しました。其時の日記を見ますと車の損所は斯う書いてございます。

一、前車輪の撓屈して回転の柁棒の両脚に触れて運転ならざるに至りし事
二、柁棒の右脚内部に湾曲し且っ其脚に付着せし足掛の落ちたる事
三、柁棒の付け根右方稍々十度位曲りたる事

斯う云う破損を致しましたので自転車へ乗っては行かれなくなりまして、仕方がなく私だけは其時に汽車で参りました。此破損の修繕は神田の吉村自転車店へ頼みまして、修繕料を4円50銭払ったと覚えて居ります。

 それからもう一つ遠乗で面白い失敗のあったのは、何月だったか月は忘れましたがやはり其時分の事です、輪友会の連中で千葉へ遠乗を致した事がございます。其時に行かれた人は印刷局に居られた左近允君、それから森村明六君に同開作君、坂田實君、あとは名前を忘れましたが何でも私ともで七、八人でした。往は一行誰も無事でしたが千葉からの帰り道に、鴻の台の付近まで来た時にはもう日の暮方になりましたので、一同ペダルに力を入れて踏立てて急いで帰って来たのでございます。
すると鴻の台のわきの極く狭い道の妙にうねくれて曲がって居る其曲がり角の所に、往来の人を相手に屋台店をだして駄菓子だの鮨だの並べて売って居った婆さんがあったのです、其處へ急いでやってきますと一行の中で、名はしばらくお預けにして置きますが、最も大輪のダルマ形の自転車に乗って居った某氏が、非常な速力でやって来た所へ急にうねくった道だったもので、ハンドルを取り損なって遂に其婆さんの売って居る屋台店へ突き当たったのです、そうすると何しろ其人の乗っていた自転車は前輪の直径が6尺もあるすばらしい高い車なので、乗って居った某氏は屋台店の天井へ自転車からのめって落っこちながら手を突いたのです、所が天井と云っても何しろ屋台店の天井ですから極く極く手軽く只上から乗せてあった位のもので、おまけに雨障子の天井だったので某氏の体は其天井とも婆ァさんの頭の上へ落っこった、すると可哀想に婆ァさんは不意に頭の上から大の男と天井が落っこって来たので、ギャッと云うと下へ押し潰されてしまった。勿論非常な物音がしたので一同が見ると其始末なので、驚いて自転車から飛び下りて車は其處へ放り出したまんま、寄ってたかって婆さんを助け起こして見ると、幸いにも婆ァさんは怪我はしませんでしたがもう顔の色は青ざめてしまって、唇の色も紫色になって乱ぐい歯の歯の根をガタガタ震わして口もきけるどころじゃなかった。先ず婆さんの方は一時の不意の驚きで始末であったが、屋台店は両方へ二つに割れてしまって売っていた鮨はペチャンコに潰れているし、駄菓子は皆メチャメチャに壊れて気の毒にも何んとも哀れな有様になって居るのです、それからまァ皆も倶も倶も婆さんを慰めるやら謝罪やら致しまして、某氏からは勿論平に過失を詫びた上に相当の償いをして帰ってきたのでございます。其時には一同も驚いてしまた方だったので、可笑しかったと云う方の考えは浮かびませんでしたが、いや帰ってから少し落ちついて共話しが始まると、サァ其時の有様が非常に滑稽だったので一同腹を抱えて笑ったのでございます。

つづく

明治36年4月10日発行「輪友」第18号 33頁~35頁

2021年3月9日火曜日

日本輪友会について②

 日本輪友会について②

 それから「自轉車」という機関雑誌も作りまして、たしか此れは5号まで出して廃刊したと思って居りますが、何しろそう云う風で盛んに会員も募りましたし又雑誌の上では欧米の自転車界の事跡も調べて報道しまして、大いに斯の道を奨励したので御座います。
此雑誌は私も保存して置いたのですが只今一寸見えなくしました、多分慶応義塾の福沢さんの所には保存して有られるだろうと考えます。それから能く遠乗会も催しまして5、6里の所へは毎度出掛けましたが、其当時は今日の百分の一も乗り手は無いので至る所で自転車乗りが行くと珍しがりまして、なかなか面白い話の種を作りました。
 その中で覚えて居ります事を一つ二つあとでまた話しましょうが、斯う云う風で出来た此会が自転車団体の最も古いもので、それから帝国輸友会とか、大日本双輪倶楽部とか、東京バイシクル倶楽部とか云うのが出来て、遂に今日の如く全国至る所に種々な自転車の団体が結ばれたので御座います。
(半開速記)

以上は「輪友」第17号、明治36年3月10日発行の記事である。

日本輪友会の設立については、当時の新聞にも次のように出ている。

明治26年7月11日付、朝野新聞
日本輪友会同会は自転車に関する諸般の研究を主とし、併せて同好者間の楽しみをともにせんとする一の倶楽部にして、当分京橋区南鍋町二丁目十二番地の交詢社内に事務所を置けり。
創立の趣旨は、自転車実用の道を啓かんとするに在りて、大いに会員を募集し、雑誌を発兌して一般会員に配布し、また会員の好みに応ずる外国製の車類及び附属品などを購求するの便益を謀り、併せて社交上に一新生面を開かんとする見込みなるを以て、会員二名紹介さえあれば、自由に会員たることを得べしという。

また、機関誌「自轉車」の発行についても、明治27年2月23日付の東京朝日新聞に次のようにある。

自轉車と題する雑誌出づ昨今同車の流行に連れ之に乗る人の機関となるを任ずるもの発行所は京橋区南錦町二丁目十二番地交詢社内日本輪友会

 この雑誌については現在のところ未見である。5号まで発行したとあるが、どの様な内容のものか興味深い。
慶応義塾大学の図書館あたりにないだろうか。
 日本最初の自転車専門雑誌と言われる、明治33年に発行された佐藤半山の「自転車」は、一般読者を対象に販売された商業誌であるが、この日本輪友会発行の機関誌は恐らく日本最初のクラブ誌だろう。

つづく

「輪友」第17号の目次
明治36年3月10日発行

2021年3月8日月曜日

雑誌「輪界」

雑誌『輪界』

本日、何気なく明治期の雑誌『輪友』を眺めていたら、『輪界』という雑誌の記事が目に留まった。

『輪界』は確か明治41年からの発行で、下の記事にある『輪界』は名前は同じだが別物と思われる。

今後、調査が必要である。

●大阪から今度『輪界』という雑誌が出たが遉(さす)がに田村規茂氏が幹する丈あって巻中気骨のある文字を以て満たされて居る輪士の読むべきものは東京で『輪友』大阪で『輪界』だ(愛読生)・・・明治36年3月10日発行『輪友』第17号 67頁


以前に調べた明治期に発行された自転車専門雑誌は以下である。

明治期に発行された雑誌(2020年現在の調査)

雑誌名 発行所 発行年

①自転車 日本輪友会 明治26年~5号で廃刊

②自転車 快進社 明治35年8月~大正?

③輪友 輪友社 明治34年10月~大正?

④輪界 輪界雑誌社 明治41年9月~明治45年?

⑤猟輪雑誌 大阪、猟輪倶楽部 明治35年9月~明治35年12月

➅三友雑誌 自転車銃猟写真の友 明治36年1月~明治40年?

⑦関西自転車 大阪 創刊年月日など不明

⑧自転車世界 大阪、自転車世界社 明治35年10月~明治35年12月

⑨愛輪時報 名古屋 創刊年月日など不明

⑩清輪 清輪時報社 明治38年~?

⑪信越輪界 信越輪界 明治43年?

⑫自転車 日本輪友会 明治27年2月~5号まで発行

⑬愛輪 金沢愛輪クラブ 明治36年10月~?

⑭周防愛輪月報 周防愛輪同志会 明治37年6月~?

⑮日米タイムス 日米商店 明治42年6月~?


2021年3月7日日曜日

日本輪友会について①

 日本輪友会について①

 我が国で最初の自転車クラブは、明治26年に発足した日本輪友会だと言われている。
しかし、明治19年には既に帝大の自転車会が設立され活動していた。確かに組織とか内容などを比べると、帝大の方はむしろクラブと言うよりも同好の士に近い形態であった。自転車の台数もオーディナリーが1台で、メンバ-もたったの4人である。それから見れば日本輪友会は、組織も内容も充実していた。やはり日本最初の自転車クラブなのである。

以下、日本輪友会関係の資料を眺めて見たい。

我国自転車団体の最も古き日本輪友会の話(1)
石川 信

 自転車の著しき発達に伴れて此節は都会は申すに及ばず各地到る所に自転車の団体が設けられない所はない位で、東京市中だけでも挙げて数えたら十有余の団体が設立されて居りましょうから、日本全国では実に百数十余殊によったら二百以上の団体があるかも知れませんが、此自転車団体の中で最も古きものは何という団体であるかと云うと、恐らくは私供が発起となって組織した日本輪友会というのが、最も魁けて設けられたものだろうと思います。
丁度私供が日本輸友会というのを組織したのは明治26年の5月のことで、その当時はまだ当今のように自転車の乗り手も少なく、又車も彼のダルマ形という車が大部を占めて居って、あとは木製の二輪車と三輪車・・・・此節名古屋あたりで電信配達夫が乗って居りますような車の外は、今の空気入安全車という自転車は実に東京市中でも10台とは無かった位でありました。今から考えて見ればその頃は今日流行の安全自転車の極く来たての時分であったと思われます。

 話が少し横道に入りますが、私は性来自転車のような種類のものが大好きでありますから、木製の自転車が輸入されてかの秋葉の原に初めて貸自転車屋が出来た時分から好んで乗りまして、それからダルマ形の自転車にも乗って歩きましたが、どうもダルマ形というのは御承知の通り何しろ前輪が極めて大きいのに、後輪は又極めて小さいので少し体が前へかかると後輪が跳ねるので危険で堪らないのです。するとその頃福沢捨次郎氏が今日流行のような自転車に乗って居られまして、成るほどこれならば安全であるからそう云う車を買入れたいと思いましたが、何しろ東京市中にも何処にもそう云う自転車を売っている所がない。そこでその当時私は時事新報社に居りましたので、同好の坂田實氏と相談しまして同氏も是非一台欲しいと云わるるので、同氏の分と併せて二台を福沢捨次郎氏に願いまして、福沢氏から又当時英国のロンドンに居られました清岡邦之助氏に依頼されまして、英国のジュノーと云ふ会社へ注文してクリンチャータイヤの自転車を2台造らせました。丁度この注文をしましたのは25年11月のことで、それから翌年の3月になって正金銀行へ自転車の代価を逆為替に組んで来たので金を払込みますと、4月の16日に車が出来て参って受取りました。代価は1台112円50銭づつで海関税を3円取られたことを記憶して居ります。

 それで其頃の自転車乗りとして有名な人々は、岩崎久弥、森村明六、森村開作、荘田平五郎、豊川良平、松方正作、樫村清徳、福沢桃介、福沢捨次郎、伊藤茂右衛門、加藤木重教、原六郎、高田慎蔵それから印刷局に居られた左近允、参謀本部の中島大尉等の諸氏でありましてーーその他にもまだまだ沢山有りましたろうが今一寸記憶して居りません、今から考えますと人数の少ない割には何れも有名な人々が乗って居られました。それで私供同好の者が寄り寄り相談をしまして、一つ自転車乗の団体を抑えようじゃないかと云うので前にお話しした26年の5月になって、いよいよ会を結ぶことになって日本輸友会というのを設定しました。

其時に発起者として名を連ねた人々の性名を挙げますと
樫村清徳、岩崎久弥、豊川良平、坂田 實、益田英次、木村久寿弥太、、福澤捨次郎、石川信、佐武保太郎、日比翁助、鎌田栄吉、伊藤茂右衛門、長谷川芳之助、朝吹英二 、福沢桃介、荘田平五郎、和田義睦、酒井良明、松方正作、森村明六、森村開作、中島(大尉)、 田野某等の諸氏でありまして、これらの諸氏の中で今日も尚自転車に乗って居る人は極僅かでありましょうが、実に始めは上流の人々の娯楽用に止って居ったものと言っても宜しいのです。今日の自転車団体の事務所は何れも自転車店かさもなくば其会の主立った人々の家に置かれてあって、至って手軽く行われて居りますが、私供が日本輪友会を設立した時は何しろ極初めで能く様子も分かりませんし、それに之を一つの倶楽部にしようと思ったものですから、京橋の三十間堀に一軒屋を借りまして此處に相当の器具も備えますし、小使も雇って置きまして至って大袈裟な仕掛けにやったもので御座います。

上の記事は、
明治36年3月10日発行「輪友」第17号 36頁~38頁

つづく

2021年3月6日土曜日

國見山とデートン号

 國見山とデートン号

昨日のつづき

元大関の國見山悦吉(1876年- 1924年)の写真がないか、輪友雑誌を丹念に調べていたら、下の写真がでてきた。

双輪商会の広告のイラストと見比べると、若干の違いがあるが、恐らくこの写真をもとに描いたに違いない。

写真の方の力士と和服姿の組み合わせのがより現実的で好ましいが、あえてデートンと書いたジャージーを着せて、ズボンをはいた姿に変えている。自転車もわざわざ右側を描き出している、確かにチェーンホイール側が一般的に表(特に表裏とは言わないが)になる。宣伝効果を考えた画とすれば当然こうなるはずである。

乗輪する國見山
写真の一部を修正
「輪友」第17号
明治36年3月10日発行

双輪商会の広告
明治36年11月10日発行「輪友」

註、写真の修正とは、
右上に別の写真が一部重なっていた。これを削除。
汚れもあったので、それもおおまかに修正した。

2021年3月5日金曜日

堅牢のデートン号

 堅牢のデートン号

コロナ禍中の今月14日からはじまる大相撲春場所の番付が発表され、人気の照ノ富士は先場所に続き東の関脇となり、大関復帰をめざす。因みに彼の体重は、177kgである。
下の双輪商会の広告にある國見山は三十八貫と書いてあるから143kgである。当時としては重量級であったが、現在の力士に比べるの軽量級の範囲になる。

自転車の堅牢や耐久性を強調する場合にうってつけな人物は、当時の人気力士であり、その乗用している姿である。この広告を見て顧客も実感し納得する。

双輪商会の広告の文言にも、
三十八貫目の重體を乘せて能く千里を走る輕快と言はずして何ぞや
堅牢と言はずして何ぞや

とある。

双輪商会の広告
明治36年11月10日発行「輪友」より

註、國見山悦吉(1876年- 1924年)
高知県出身の元大関

2021年3月4日木曜日

雑誌『自轉車』

 雑誌『自轉車』について

明治36年8月5日発行「輪友」第22号58頁に次のような短い記事あり。

●雑誌『自轉車』

 去る五月十日發行第三十三號以来沓(よう)として其消息を聞かず幸に健在にして一日も早く次號の發行を望む


註、明治33年に初めて発行された月刊専門雑誌「自轉車」は、はじめの数年は勢いがあり、内容も充実していたが、この頃になると元気がなくなり、この記事にあるように発行の遅延を来す様になる。

以前このブログでも触れたが、明治40年頃から精彩を欠くようになり、その誌面に変化がでてきたと述べたが既にこの頃からその兆候が現れたことが、この短い記事からも読み取れる。

以下は先に書いたブログの内容の一部である。 

「知られざる銀輪のわだち」その16 
佐藤半山と雑誌「自転車」㊦

明治40年代以後は誌面に活力がなくなる
 いままでのべてきたように明治30年代の『自転車』は、当時の自転車事情を反映して、珍奇談をふくみながらも活気にあふれた誌面を提供しつづけていた。
 しかし、その様相は明治40年代から大正期に入るとしだいに変化する。活気が衰え、誌面づくりにも苦悶しているかのようになる。
 実は、この連載と併行して進められていた、佐藤半山と『自転車』の調査がかなりはかどり、いままで発見できなかった明治40年代と大正初年の同雑誌がまとめて発見された。このため『自転車』が歩んだ軌跡がある程度たどれるようになったわけであるが、そこからわかることは自転車文化の衰退である。
 その変化をのべる前に、新しく発掘された資料によって判明した事実をかんたんに紹介しておきたい。

雑誌『自転車』は関東大震災まで発行されつづけ、最後は『自転車月報』という業界新聞に切り替えられる。この業界紙は半山の死後も継続して発行され、昭和9年ごろまで出されていた。


2021年3月3日水曜日

偽物デートン号

 偽物デートン号

当時のサイクリストに人気のあったデートン号やピアス号などを巡っては、その自転車の偽物や商標の偽造が横行した時期でもあった。その一例が下の「輪友」記事である。

明治36年8月5日発行「輪友」第22号 59頁

デートン号に就て

快速堅牢高尚優美なるを以て我輪界に非常なる好評を博せし双輪商會直輸入のデート号に昨年來偽物若くは粗製品の現はれし事は聞くが儘に報道を怠らざらしが同商會にては自己の迷惑と輪士諸君の此等奸商の毒手に罹るを憂ひ昨年來種々手を盡して其撲滅策を講じたる結果偽物は大抵其跡を絶ちたるも尚デート号製造会社が桑港(サンフランシスコ)向として製出せる安物を桑港なるエゼントの手を経て窃に輸入し之を同商会が日本向に特別に注文し輸入してるものと欺き販売せる奸商あるにより今回同商會にては此の桑港向粗製安物のデート号をも輸入し以て従来同商會が特に注文して日本向に製造せしめ居るデートン号と如何に其構造装飾等の点に於て相違せるかを我輪界に紹介する由なれば從來毒牙を逞ふしたる妊商も愈々退治し盡さるるに至るべし


双輪商会の緊急広告
明治36年8月5日発行「輪友」第22号

女性用のデートン号

2021年3月1日月曜日

電信配達と自轉車

 この記事は初めて郵便局で自転車が採用された時期のことが、具体的に書かれていて興味深い。現場の担当課長から直接聞いた話を記者が口述筆記したもの。

以下にその一部を紹介する。明治期の文章と旧漢字で読みにくい点はあるが、一部を除きなるべく原文を尊重した。

明治36年10月5日「輪友」第24号より

電信配達と自轉車

東京中央電信局受付配達課長  八木鍾次郎

 日本で自転車を初めて使ったと云ふことは、『輪友』の記事に據って見てもる明治十四年頃から既に乘出した人があるやうに見えて居るが、之を実際実用に使ったと云ふ上に就ては、抑も電信配達上に応用したのが一番最初であるだらうと思ふ。それで私は今御需めに依つて電信配達用に自轉車を応用した既往の沿革、現在の有様、及び私の所感と希望とを搔摘まんで御話して見やうと考へる。

 抑も電信配達上に自轉車を応用したのは明治二十五年の三月の事で、今の木挽町電信支局の隣の商業會議所が其頃は日本の電信中央局であって、東京を中心として全国各地から集って來る電報は、皆此の局を経過したものであるから、此の電信局と云ふものは非常に規模の大きなものであって、從つて所屬の配達區域も一番広く有して居った。其頃漸く自轉車が流行の萌芽を現はして來て、勿論今日の空気入りタイヤの安全式自轉車は無かったが、此の自轉車なるものは最も便利なものであるから、之を一つ電信配達上に応用して見やうと云ふことに、其當時の当局者が気付かれて、そこで前申した明治二十五年の三月に初めて十臺の自轉車を中央電信局で買入れた。其內五臺は其當時流行した木製のガタガタ車で、前輪の車軸にクランクが取付けられてあって、ペダルを一踏みすると車輪が一回転する「直踏」と云ふ二輪車であったが、後の五臺は俗に丸ゴムと云ふ細い硬質護謨輪の附いた鉄製の二輪車で、形は丁度当時大流行の安全式空気入二輪車と先づ総体の格構が同じ事で、前後の車輪の大きさも殆んど同じく、矢張り鎖を用ひて伝働するやうに仕掛られた構造の自轉車。(図参照)此の自轉車は横浜高島町の梶野仁之助(今の梶野自轉車合資会社)から買入れたのであるが、梶野で亜米利加あたりから自轉車の部分品を取寄せて模造した車であると云ふことを聞いて居る。今日では如何なる田舎へ行っても貸自轉車店の一軒位無い所はないが、其當時は東京のも私の記憶に残ってい居る所では、僅かに神田の秋葉の原に二軒、錦町に一軒、本郷に一軒、芝の愛宕下に一軒があって、それも皆な重に木製の車を置いて貸自轉車を業として居るのみであった。

謂わば極自轉車の幼稚な時代に早くも十臺の自轉車を買入れて之を応用して見ると、其結果は甚だ好ましい。そこで明治二十七年の三月に至つて、横浜太田町の田中利喜蔵の手を経て海岸中通りのブルウル兄弟商会で輸入した英国製の自轉車を五臺買入れた。是が日本で電信配達に外国製の自轉車を用いた初めである。それから明治二十八年の三月にまた田中利喜蔵から四臺買入れた。其翌二十九年になってどうも英国製の自轉車は其時分の物価に合して廉い方ではない。之はどうしても輸入物をサウ使はぬで日本て造ることにしなければならぬ、既に横浜の梶野では或る一二の部分品を外國から取寄せて用ひたにしても、兎に角自博車を拵へて居るのであるから、東京でも相當の機械師に命じたらできぬことはなからう、一つ試験かたがた造らして見ようと云う説が出て、それから本所の吉岡町に居た森田玉江と云う機械師に命じて、自轉車を二臺製造させて見た、其の車は全部鉄製で目方は非常に重いものである、私は当時まだ其局に当って居らなかったが、其車が今でも一臺遺って居るのを見ても、能くこんな重たい自轉車に乗れたものだと思う位な所謂頑丈一点張りと云う拵へ方である。

所がどうも內國製のものは舶来品のやうに器用に出來ないのと、一方には又舶来品がドシドシ入って來て米國製のものなどは、価格の上から云つても割合に先づ康い方てあるし、且っ製作方が誠に器用に能く出来て居るので遂に又舶来品を買ふことになって、翌三十年の三月には横浜二百六十八番館のワンダイン商会からウルフと云うのを二臺と、外に三十八番館からビクトリアと云ふ自轉車を買込んだ。それから後はズッと米国製のものばかりで、三十一年二月には、またウルフと云うのを六臺、同年六月には銀座の伊勢善商店からウエストフィールドの№1と云ふ自轉車を敷臺購入した、其後は諸方から種々の車を買入れて来て居るのであるが、其數は殆と三百輌に近いのである、以上が先づ極く概略の電信局に於ける自轉車の沿革とも謂ふべきものてある。

本文にある挿絵
梶野製の自転車
どこかビクター号に似ている
ビクター号は、1887年(明治20年)に
オバーマン・ホイール株式会社
(1885-1900、マサチューセッツ州チコピーフォールズ)
が製造した自転車
この会社から梶野が部品を輸入して組み立てたようである

1893年(明治26年)2月27日付け東京朝日新聞
自転車練習場及び販売所広告 横浜 梶野自転車製造所

明治25年 東京郵便電信局の服務心得
逓信総合博物館蔵