2021年3月21日日曜日

日本自轉車の由來

 この「日本自轉車の由來」は以前にもこのブログで取り上げているが、それは項目の1から10までであった。今回はその続きを含め紹介したい。
何れにしても、この記事は箇条書き風に書かれ、簡潔で読みやすい。

文中に読みにくい漢字もあるが、なるべく原文を尊重した。旧漢字に変換できるものはなるべく原文に合わせた。

明治41年9月25日発行「輪界」第1号 20頁~23頁

日本自轉車の由來

一記者

一、自轉車輸入の嚆矢

自轉車は明治二十年前後に始めて輸入したり、其のときは今日の自轉車の様に完全なるものにあらず。只ダルマと稱する鎖りなく前車大にして、後車は小さき二つの車をつけたり。而して米國より輸入し来りたるものは其不完全一層甚しきを以て、終に其あとを断っに至れり。且つ此不完全なるダルマ比較的歡迎を受け、好評を得自轉車流行の端緒を開けり。

二、我國自轉車製造の始め

故に我國にても自轉車を製造せんと苦心し、終に木製の自轉車を拵へるに至れり。而して此自轉車は多くは三輪車なれども、たまには四輪車を見たり、是等は明治二十年後間もなく製造したるものにして、元よりダルマを模型として製造したるものなれば、タイャは勿論、鎖りなどの存することなく、最も不完全なるものなりしものより。

三、安全車の輸入

それより漸く進歩し、明治二十四年頃には安全車なる自轉車の輸入を見るに至れり、此安全車には鎖り等もあり、略ぼ今日の自轉車に類似し、ダルマに比し稍完全なれば、輕快の點は勿論乘り工合ひ甚だよろしく、又便利なる點に於てもグルマの比にあらざりしなり。

四、タイャの輸入

日本に自轉車の始めて輸入せしときには、タイアなるものなかりしなり、然るに英國よりニューマチックシングルタイア即ち空気タイア輸入したりこれまでタイアの附しある自轉車なきを以て其乘り気持ち甚宜ろしく、自轉車界の一進歩と云ふべし、故に一般乗用者に於てもこれを歡迎せり。

五、自轉車製造業

我國の自轉車製造に從事せしものは、目下本所區菊川町の宮田自轉車製造所なり、其當時は明治二十五年頃なりしが神奈川に於て梶野なるもの又是れを始めたり、共後明治三十六年の頃本所にて蝙蝠傘製造者森田某なる人自轉車の製造に従事せり然かるに今日にては神奈川の梶野本所の森田は其製造を止め、宮田自轉車製作所のみ本所に於て増々盛んに製造をなせり、されば今後一層發展すべきなり。

六、西洋人タイアの修繕を依頼す

其當時自轉車を用ふるものは、西洋人か或は洋行帰りの紳士なり、而して其當時は自轉車の代価非常に高く殆んど三百円以上なり、故に普通の人士はこれを用ふること能はざりき、されば自轉車商人の如きは勿論東京に一人なき有様なり、一日西洋人タイア のパンクをなしたりとて其の修繕を東京市本所區菊川町宮田工場に依頼せり、然れども宮田工場にても、これが修繕をなす能はず、依って工場にてはこれを引き請けたれども、自ら修理をなさずして、これをゴム屋に依頼せり。されどゴム屋にて完全にこれが修理をなすことは、能ふところにあらず、故に不完全に其修理をなし、これが代価として金参円を請求せり、それよりパンクの修理は参円と云ふことになれり。されど如何とも仕様なければ安価なりと稱して、喜んで其依託をなす。これを今日の進步せる諸子の頭脳を以てすれば、実に滑稽の感あらむ。

七、其當時の自輛車使用の目的

目下我國にては都たると鄙たるとを問はず、自轉車と云へば一般に交通に最も便益なるものとし、これを使用するものなり。故に士農工商の區別なく、苟も迅速を貴ぶ事業には此自轉車を用いざるはなき有様なり。然れども最初自轉車の輸入當時は、一人の実用的使用者なく、殆んど貴族の遊びものとして、贅澤品となり終れり。それ故實利を喜ぶもの及び富貴ならざるものは、其使用を欲するも、価甚高き為め其實利ならざるを信じ、これを使用するものなかりしなり。

八、自轉車使用の例

それ故自轉車使用と云へば西洋人か、又は西洋帰りの所謂ハイカラ連中なりしなり。此連中が今日は横濱へ日帰りをせしとか、明日は日光へ行くとか、それ位が自轉車の主たる業務なりしなり。然して價格の如きも殆ん三百円以上ばかりにて、實に高價の贅沢品なりしなり。

九:宮田工場

前述の本所の森田工場も、神奈川の梶野工場も、宮田工場と同じく自轉車を盛んに製造せむとせしが、今日にては森田梶野の二工場は其業を止め、独り宮田工場のみ本所にて旺んに自轉車の製造をなせり。

十、日清戦争と自轉車

斯くして日清戦争は開かれ、贅沢品は其費用を避くる趣きあり依て日清戰爭以前は、多少の使用者を出せしも、開戦と同時に市中に其乗用を見ざるに至れり。而して一面は宮田工場は政府用の御用を命ぜられ、戰時の用品を製造せざるべからず、為に自轉車製造の余暇なし、二十七八年より三十四年までは宮田工場に於ても全く全製造を中止し、一般には全く其乘用を中止する有樣となれり。

(以下次第)

明治41年10月25日発行「輪界」第弐号 33頁~35頁 

日本自轉車の由來 (二)

一記者

十一、日清戰爭後の自轉車

日清戰爭は名譽の戰勝を博して目出度其極を結べり、而して全國至るこころ景気は次第に良好なり、臺灣は割譲され、償金は多大の額を取得され、為に金貨は市場に流通するに至れり。故に各種の商人は勿論、一般の人士に至るまで自轉車を使用するもの次第に多さを加ふ、是を以て之れが輸入又日を追ふて盛大となり、されば一般人士も大ひに此れを用ゆるあるに至れり。

十二、日清戦争後の自轉車の輸入

然るに米國にては、クリブランド、エッスルの如き少しく進歩せる自轉車を大に我国に輸入し始めたりされば我國にては、上下の區別なく一般に大に之れを觀迎するに至れり。尤も此クリブランド、ェッスルは車輪は元とより其車臺に於ても、日清戦争以前に米國より輸入せしものよりも、細そく寧ろキャシャと云ふ方にて、當世所謂ハイカラ式なり。爲めに車臺極めて軽く、走る點に於て以前のものよりも大に快速なれり、それ故是等の點に於て大いに良好なる結果を得たり。

十三、クリブランド、エッスル以後の自轉車

此クリブランド、エッスルは大いに世に好評を得たり、為めに我國にても外國自轉車の多く用ひらる狀態になれり、故にデートン、及びピャス等續々輸入を始めたり是れ等も大いに世の觀迎を受くること、彼のクリブランド、エッスルに劣らざる有様となれり。

十四、宮田工場再び自轉車を製造す

宮田工場にては日清戦争と共に銃砲の製造をなし砲兵工廠の御用工場となりしが、日清戰爭は其極を結び、加ふるに、明治三十三年我帝國議會に於て、銃猟税を增加することとなり、為に銃を負ふて山に猟するもの甚だ少なし、是に於てか宮田工場にて銃砲を製すること、余りに良好ならざる有様となり、寧ろ不景氣と云ふも必ずしも失當にあらざる次第なり、されば宮田工場にて再び銃砲製造を止め、自轉車を製造することとなりたり。

十五、宮田工場最初の自轉車の模型

是れ實つは自轉車なるのは、從來贅沢品なる観ありしが、日清戰爭以後漸く其観念を去り、実用を旨とするの傾向あり。爲めに宮田工場にて将来大ひに發展の希望を有せり。さればクリブランドを模型となし、自轉車の製造を始めたり。

十六、自轉車の商標

日清戦争以前は、自轉車專門の商店なく、為めにマークの如きも其専用のものなし、されば各々其好みに應じてマークを製造せり、故に或は自家の定紋を以てマークに代へ使用するものあり、又紋は不良なりと云って、種々の形ちを取り以てマークとして使用す、故に殆んど同じマークを見ることなし、是れを以て同じ自轉車と雖も、必ず其マークは異なりしなり。

十七、宮田工場の自轉車の価格

宮田工場にては、スポーク、玉、及びサドル等自轉車に關する凡てのものを製造し、以て自轉車を完備せしめ、此れを五拾五圓か六拾圓位にて販賣したり、為めに大ひに其価額の安さを喜こび以て大いにこれを觀迎せり。

十八、デートン

クリブランドは一時大ひに流行を極めたりしも、今日に至りては、全たく流行の跡を断ちたり、デートンも次で大いに其流行を博せり、然るに此デートンも、車臺に於ても車輪に於ても、大に其良好なるを認めたり、されど一時奸商ありて、大いに不良よる品質の自轉車を盛んに輸入し、これをデートと稱して大いに販賣せり是れが爲め、デートンの信用は落ちて地を払ふに至り、今は僅かに其あとを存するのみ。

十九、ピヤス

ピャス(ピアス)は良好なる車なれども他の自轉車か、時代の進歩に伴ふて其価格も漸次安くなるに反しピャスのみは、五六年以前に猶ほ異なることなし。而して目下內地にて製造する自轉車少なからず、加ふるに外國より輸入するもの亦其価額廉なるもの甚だ多し、これを以て仮令品質に於て多少良好なりと雖も、其価額餘り高きものは用ゆるもの次第に減少するは、是非なき次第なり。

二十、見本の作製

宮田工場にて明治三十四年始めて自轉車の製造をなさんとせし頃、其見本の製造に意を注げり、然れども僅か二臺の自轉車を作るに其日數実に六ヶ月を要せり。然れどもこれをよく製造するに於ては將來大に望みあり、為めにこれより次第に其製造に力を入れ、大いに自轉車の発達を計れり。

(以下次號)