2020年12月31日木曜日

自転車日記①

 メモ帳からラレー・ロードスターを入手した前後の記録を自転車日記(抜書き)として転記する。

1973年4月25日(水曜日)曇り 
新聞にラレーの記事あり、RALEIGH ラレー・カールトン 98,000円 家の近くの販売店は、湘南ホンダモーター販売㈱平塚市明石町3-23 自転車及び部品卸 ㈱第一商会 平塚市黒部ヶ丘4-52 である。
 国電がストのため仕事を休む。 23時25分頃地震がある。初震の揺れがはっきりと分かった。

1973年4月26日(木曜日)曇り 
またラレーの新聞記事を見る。 RALEIGH ROADSTER/L 29,800円、ROADSTER DX/L 39,800円、CARLTON 98,000円EUROPA 44,900円、ROYALE 38,800円
 昨夜の地震は、午後11時21分に発生。震源は八丈島近海で、深さ約50キロ。横浜震度1、東京震度2、八丈島震度3であった。

1973年4月29日(日曜日)晴れのち雨 
美しい虹を見る。 午前中、平塚の湘南ホンダモーターへ電話を入れる。店の場所と定休日を聞く。 八幡神社の前で、今日は休業日とのことであった。

1973年5月5日(土曜日)晴れ
子供の日湘南ホンダモーターの店の前を車で通る。なるほど八幡神社の前であった。ユニオンジャックの旗が目に飛び込んできた。ラレーは確かに置いてあるようだ。 

1973年5月12日(土曜日)晴れ 
午前10時52分発の平塚行き神奈中バスに乗り、平塚へ。(バス運賃50円) 平塚の湘南ホンダモーター販売㈱でラレー・ロードスターを29,800円で購入。 帰りはさっそくラレーにまたがり、馬入橋を越える。
午後1時から全米トップ40をカセットに録音し、その後、ラレーをのりまわす。 

1973年5月13日(日曜日)晴れ
母の日一日中、ラレーをのりまわす。 長谷川書店で自転車の本を探すが殆んどなかった。日本で自転車はマイナーなスポーツなのである。

1973年5月15日(火曜日)晴れ 
茅ヶ崎駅近くのサイカ屋裏にあった自転車預け所に初めてラレー・ロードスターを預ける。預かり札番号は、39番であった。預け賃は50円。盗まれるといけないので、フレームに取り付けられている空気入れをはずしておく。
News、アメリカのスカイラブ1号打ち上げ。アコーディオン式太陽電池パネルの故障で計画のおおはば変更とか。地球を周るスカイラブは肉眼でもJ北極星ぐらいに見えるようである。

1973年5月17日(木曜日)雨 
黒い皮の小銭入れをシーサイドボールに忘れる。この財布の中にはラレーの鍵が入っている。引き返しとりに行く。

1973年5月19日(土曜日)曇り
ラレーを念入りに掃除する。前輪のスポークの1本がゆるゆるであるのを発見する。ニップル回しが無かったので、小さめのモンキーレンチで調整する。

1973年5月28日(月曜日)曇り~雨
通勤の帰り、雨になったのでラレーを預け所に泊め、バスで家に帰る。ラレーの宿泊は初めてである。

1973年5月31日(木曜日)曇り
明日から自転車預けを月ぎめにする。自転車預け賃1ヶ月1,200円を支払う。

ラレーロードスター

空中自転車と水上自転車①

空中自転車と水上自転車①

  明治の新聞記事等に時々、空中自転車とか水上自転車という名の自転車が出て来る。これらは一体どのようなものか、紹介してみたい。これらの自転車はそのほとんどが空想的なものか、試作の段階で実用にはならず歴史の舞台から消えて行った特殊な自転車達である。
 当時の自転車専門書として知られる「自転車術」(明治29年)には次のようにある。
近事又水上自転車、或は空中自転車の発明ありと外国新聞に散見したれども、此等は果して成功すべきものなりや否や、甚だ疑はしきものなり。
 自転車の形状がある程度確立される時期になると、これをベースに色々な改良や工夫がなされていった。特にミショー型自転車が定着し、その効率よいペダルクランクによる駆動方法は、人々の夢を広げた。
 人類永年の夢はなんであったか、それは自由に空を飛ぶこと、海上を歩くように移動することであった。この夢を自転車を使って実現できないか、当時の好奇心旺盛な発明家達は考えたのである。
 これから紹介する自転車は、ほんの一例であるにすぎない。他の多くのものは話題にもならず消えていったのである。

・水上自転車
本日の広告にも有る通り今度水曲社にて発明製造したる水上自転車を来月一日午後一時より浅草公園旧勧工場にて乗走らせ衆人に縦覧させる由。「めざまし」明20.1.29付より

①「めざまし」明治20年1月29日

②水上自転車 長谷川園吉筆 明治20年

①の図はどうみても不自然で、これでは水上を自由に走ることはできない。この広告の編集者は実物を見ないでこの図を載せたのであろうか、極めて不可解である。
明治20年頃はこの図にあるようなダルマ自転車が一時期流行していた。国産の木製ダルマ自転車も鉄砲鍛冶や刀鍛冶あたりが数多く製作した時期である。
水溜りであれば当然走行可能であるが、この形態の自転車では所詮無理である。

②が、その水上自転車の実態をよく表わしている。この図は以前、自転車技術史研究家の梶原利夫氏から送っていただいたものである。年代も明治20年とあり、符合する。
これが水曲社の水上自転車と思われる。

2020年12月30日水曜日

老舗さんぽ㉓

 昨日は下曽我の星野自転車店の旧店舗を探す。

探すといっても、戦前の下曽我商店街の手書き地図を入手しているから早い。

直ぐにそれらしき古い建物を発見した。ちょうどその建物の隣に住んでいる人が庭にいたので聞いてみた。やはりこの建物で間違いないとのこと。

現在は倉庫のような物置のような感じである。この建物の中に「お宝?」が眠っていそうな感じもするが、覗くわけにはいかない。誰が見ているか分からないし、不審者扱いされてはたまらない。

今度、星野さんを訪ねた時にでも聞いてみたいと思っている。

旧星野自転車店の店舗
レトロな感じいい

2020年12月29日火曜日

自転車が登場する小説

 明治期の自転車が登場する小説などを調べてみた。

有名なところではこの①と②である。

①「自転車日記」夏目漱石

②「自転車」志賀直哉

③「 日清開戦おどけ文庫」 痩々亭骨皮道人著 扶桑堂, 明27.9 

④「自転車の傷」野村銀次郎・磯部太郎兵衛 明治28年 

⑤「魔風恋風」小杉天外作 春陽堂 明治37年

➅「一顰一笑 新粧之佳人」須藤光暉(南翠外史)著 正文堂、明治20年5月

⑦「異国漫遊 瓜太郎物語」明治27年1月

⑧「女の顔切」江見水蔭・関戸浩園著、 明治28年10月

⑨「自転車お玉」伊原青々園著 金槙堂 明治34年

⑩「中村春吉自転車世界無銭旅行」押川春波編 博文館 明治42年

⑪「教育ポンチ新案絵ばなし」加藤耕書堂、 明治27年

⑫「風流的自転車(松葉)」雑誌”新小説”P.168 明治35年8月

⑬萩原朔太郎の「自転車日記」 ←これは大正期

このほかにも数多くあるに違いない。

「自転車」という言葉が一行でも出ている小説などを今後も探索したいと思っている。

「女の顔切」江見水蔭・関戸浩園著
明治28年10月 国会図書館所蔵


「教育ポンチ新案絵ばなし」加藤耕書堂、 明治27年
国会図書館所蔵

「自転車お玉」伊原青々園著 金槙堂 明治34年
日本自転車史研究会所蔵

「魔風恋風」小杉天外作 春陽堂 明治37年
日本自転車史研究会所蔵

「自転車の傷」野村銀次郎・磯部太郎兵衛 明治28年 
日本自転車史研究会所蔵

「一顰一笑 新粧之佳人」須藤光暉(南翠外史)著
正文堂、明治20年5月 国会図書館所蔵

「中村春吉自転車世界無銭旅行」
押川春波編 博文館 明治42年
日本自転車史研究会所蔵

「日清開戦おどけ文庫」痩々亭骨皮道人著
扶桑堂、 明27.9  国会図書館所蔵

「異国漫遊 瓜太郎物語」明治27年1月
国会図書館所蔵

明治33年 武内桂舟画

2020年12月28日月曜日

老舗さんぽ㉒

 昨日の「老舗さんぽ」は、また山北の井山サイクル。

この店の最盛期(昭和30年~50年代)には、山北で3軒の店を構えていたと聞いている。

この日は谷ケにあった(有)マルシン自動車の場所を見に行った。この情報元は、知人の山崎さんで、12月14日のFacebookの私の投稿に際して、「井山サイクルの二代目店主の信次さんは谷峨で・・・」とコメントをいただいた。

 現在は井山さんではなく。別の人が経営しているが、店の名称はそのまま引き継がれている。この谷ケ店は、山崎さんの話によると「マルシン自動車は、井山信次さんが自転車店とは別につくった自動車販売修理会社だと思います。谷峨では自転車はやってなかったと思います。」とのこと。

 名称のマルシンは信次さんの「信」の字から由来しているようである。昭和54年発行の明細地図をみると、山北店の方もマルシン自動車整備工場になっている、この頃は自転車よリも自動車の販売に力をいれていたことが分かる。谷ケの(有)マルシン自動車の場所は県道76号線沿いの清水橋寄りである。

 場所を確認後、清水橋のガソリンスタンドに寄り、休憩。そこでまた新しい情報を得た。ガソリンスタンドの隣の井上さんも一時、自転車店をやっていたとのこと。山崎さんの話では「昭和30年代初めごろから十数年間でしょうか。ご本人は昼間会社勤めをしていて、奥さんが店番という副業でした」という。

その後、谷ケの吊橋を経由して、帰路につく。

井山サイクル

(有)マルシン自動車

清水橋のガソリンスタンド

谷ケの吊橋

2020年12月27日日曜日

老舗さんぽ㉑

 先日はまた、開成町の老舗探訪である。

下曽我にあった一石自転車店と延沢の同店との関係、そして松田町惣領にあった本美自転車の調査である。

 先ず開成町の本美自転車店を尋ねる。以前、松田町にあった本美自転車店との関係を四代目に当たる店主にお伺いした。おそらくこの店の関係者であったかの確認である。結果、まったく分からないとのことであった。先代の時代であれば、明瞭に判明したと思われるが今となってはやむおえない。

 本美自転車店の初代は嘉重(かじゅう)さんで、二代目は繁三さん、そして三代目が嘉一さんである。現在の店主は嘉一さんの奥さんとのことであった。

 次に一石自転車店を訪ねる。ちょうど三代目の店主がバイクの前輪の修理をしていて、傍にお客さんもいた。話し中であったが失礼して、下曽我の一石自転車店との関係をお聞きした。すると、親戚の叔父さんとのこと、名前は確か「リョウヘイ」さんと云っていた。メモをとらなかったのであいまいになってしまったが。

 一石自転車店は、当時手広く営業をしていて、山北にも店をだしていたし、下曽我にもあったのである。当時は相当繁盛していたに違いない。

 現在は主に自転車とオートバイの販売と修理である。前回は気づかなかったが、店の奥にDSK(大東製機株式会社)のオートバイがあるのを見つける。このオートバイはドイツのBMWのコピーで、駆動はシャフトドライブ方式である。1950年代のオートバイで、その筋のマニアであれば垂涎のバイクであろう。当時、シャフトドライブで思い出すのはライラックである。私もそのオートバイを何度も見たし、独特のエンジン音を今でも覚えている。懐かしい時代であった。

本美自転車店


旗屋のスパナ 本美自転車店

一石モータース

DSK(大東製機株式会社)のバイク
1950年代

2020年12月26日土曜日

新型発表会

 先のブログで能沢の自転車を紹介したが、このころは丁度戦後のサイクリングブームが到来していた時期で、国内の自転車製造メーカーの数も多く、国産自転車製造の絶頂期を迎えていた。

 1956年11月の「スポーツ用自転車新型発表会、出品明細」日本自転車産業協議会の小冊子をみても明らかである。

完成車メーカーでは、

安全自転車株式会社

新家工業株式会社

千鳥自転車株式会社

大日本機械工業株式会社

株式会社・栄興社

株式会社・城東輪業社

片倉自転車株式会社

株式会社・川登製作所

光風自転車株式会社

株式会社・近藤鉄商会

株式会社・桑原商会

株式会社・丸石商会

丸金自転車工業株式会社

丸都自転車株式会社

松下電器産業株式会社

三馬自転車工業株式会社

株式会社・宮田製作所

水谷輪業株式会社

株式会社・中村自転車工場

株式会社・中山太陽堂

日米富士自転車株式会社

日本スヰフト株式会社

日帝工業株式会社

株式会社・能沢製作所

サンスター自転車株式会社

株式会社・関根自転車工場

株式会社・沢井商会

株式会社・秀工舎サン号自転車工場

合資会社・土屋製作所

ツノダ自転車株式会社

株式会社・山口自転車工場

株式会社・山崎サンビー製作所

ゼブラ自転車株式会社

以上の33社がスポーツ用自転車の新車を発表している。

 1956年11月の「スポーツ用自転車新型発表会、出品明細」
日本自転車産業協議会

品目別出品者一覧表

エバレスト
合資会社 土屋製作所
この自転車の特徴
レーサーのトップを行く製作技術が誇る
エバレスト号はニューデザインによる
スマートなツアー車

ゼブラ・ツーリング男子用とサンビー号

2020年12月25日金曜日

能澤の自転車

  先日、開成町にある老舗の一石自転車店へ行ったときに、店主との話の中で、昭和30年頃に能澤の自転車も扱っていて、よく売れたと言っていた。

 確か手持ち資料の中に能澤の小冊子(サイクリング読本)があることを思い出し、本日、探したところ先ほどやっと出てきた、下の資料がそれである。

 能澤は宮田や山口などと比べ一流メイカーではなかったが、銘柄のNY号はデザインも良くモダンな感じで、一時人気のあった自転車である。
戦後のサイクリングブームに一役買った銘柄といえる。

(株)能沢製作所     ノザワの自転車    東京都千代田区神田五軒町25
銘柄車:エヌワイ号・ネルソン号・フィールド号

能澤の小冊子(サイクリング読本 1956年



NY号スポーツ車




2020年12月24日木曜日

老舗さんぽ⑳

 昨日の「老舗さんぽ」は、また小田原市内である。

 小田原郵便局前付近にあった太田自転車店のその後と遠藤自転車店(本町)のあった場所、中島自転車の二代目店主についての補足調査などである。
 まず、本町の遠藤自転車店のあった場所を探索する。この店には過去数回訪れているが、現在は廃業していて、まったくどこだか分からなくなっていた。心当たりの道路を行ったり来たりしていたが、どうしても分からない。そこで、周辺にある古そうなお店で聞いてみることにした。一軒の刃物屋に入ってみる。ちょうど店番の人がいて、教えてくれた。「この道路沿いの南寄りにある床屋さんあたりです」という。また少し戻って確認することにした。確かに床屋さんがあり、念のためにその店を覗き、丁度いた店主に聞いてみる。「ここが前遠藤自転車店です」と親切に教えてくれた。いつごろ廃業し、この店を転売したかは調べていないので分からないが、かれこれ20年前ぐらいと思っている。初代の店主は、アマチュア自転車競技の審判員などをやっていて、何回か平塚競輪場でお会いしている。二代目は、聞くところによると病気になり、店を閉めることになったそうである。
 とりあえずその場所が確認できたことで、今日の一つの目的は達成した。

 遠藤自転車店の次は、中島自転車店に向かう。その途中、岩瀬自転車店前を通過して、高野古書店を覗いてみる。丁度、店主がいて明細地図をながめていた。声をかけてみる。「自転車が写っている古い風景写真か絵葉書はないでしょうか?」と「あるかもしれないが、すぐには分からない」と言う返事。その他の話の中で、日本自転車史研究会を知っている、以前、横浜の中央図書館で会報「自轉車」をみたことがあると、意外な話の展開でびっくり、「その機関誌を出した人は小田原にいると聞いているが」と、そこまでも知っていて更に驚いた次第である。「私の二人の息子は自転車が好きで、いまでも二番目の息子は自転車関係の仕事をしている」と、ますます興味ある話に進展していった。
 そう言えば、どこかで高野さんの息子さんもアマチュア自転車競技をやっていた、と聞いた記憶がある。後で分かったがファイスブックで友達になっている石井さん(2008年の北京パラリンピック、金メダリスト)である。
 書棚に並んでいる古書の中に齊藤俊彦先生の「人力車の研究」があり、正面奥には分厚い「横浜成功名誉鑑」復刻本が目にとまる。
 高野書店の次は、中島自転車店である。東京オリンピック時に撮影された写真の確認と二代目の名前の確認である。寿町の中島自転車店も少し分かりにくい場所に移転しているので、いつも迷ってしまう。
 丁度、店の前で自転車をとめ様子をうかがっていたら、いつもは閉まっているシャッターが半開きになっいて、どなたかがいる気配を感じた。店の中を覗いて声を掛けたら丁度、三代目の店主がいて、さっそく東京オリンピック時の写真確認と二代目の名前を教えていただいた。名前は難しく、口頭の説明では分かりかねたので、メモ用紙に書いてもらった。中島价藏さんで、読めないうえに漢字検索でもなかなか出てこない。いつも使っているIMEパッドの手書き検索でなぞってみる。价藏(よしぞう)价の訓読みは、1.よし 2.おおきい、音読みは、カイ、ケである。意味は、よろう/鎧をつけた人/善いなど、とある。
 次は太田自転車店の調査である。先の「老舗さんぽ➅」では、既にこの自転車店は無いと書いた。確かに郵便局前付近にあった店はないが、その後、自動車販売に転換していて、中島自転車店近くにある「ホンダ・カーズ」という店名で受け継がれていた。この店の現在の店長は太田利光さんのお孫さんが就任しているとのことであった。

以前は遠藤自転車店

岩瀬自転車店

高野書店

中島自転車店

左から2番目が中島价藏さん
1964年の東京オリンピック自転車競技役員
左から梅本、中島、遠藤、野地さん

Honda Cars 中央神奈川、小田原中央店
小田原市寿町4-5-12

2020年12月23日水曜日

歴史を大事にしたい

  以下の記事は輪史会の会報「自轉車」(1990年1月15日発行)第50号記念特集にあたり、今井彬彦氏から特別寄稿していただいたものである。短文ながら自転車文化の蘊蓄が語られている。
 残念ながら今井さんも物故者(1915.12~2001.6.5)になっている。
今井さんについては雑誌「ニューサイクリング」誌の読者であれば、誰しもご存知のはずである。個人的趣味のサイクリングと戦後の自転車雑誌編集一筋に打ち込んでこられた人で、日本の自転車文化向上にたいへん寄与された方である。
 今井さんとは個人的にも何度もお会いしていて、拙宅にもお見えいただいている。温和な人柄とその存在感はいまでも忘れることはできない。佐野裕二氏同様、自転車文化に貢献したこの二人は双璧と言っても過言ではない。

今井彬彦氏略歴 
1915年12月京都に生れる。東京外国語学校仏語部に学び、以後雑誌、書籍の編集に従事する。昭和27年自転車関係の編集にはいり、昭和38年以降現在の雑誌を発刊し今日に至る。
職業としても、趣味としても自転車、サイクリング一辺倒の生活を過し、生涯この道を続ける予定。愛用の自転車をかって、サイクルツーリングにでかけるのを唯一の楽しみにしている。現在、月刊雑誌「ニューサイクリング」主幹。財団法人日本サイクリング協会常任委員。サイクルフレンドクラブメンバー。(1974年11月20日発行の「サイクリング」より) 

歴史を大事にしたい
今井彬彦(イマイ モリヒコ)
 最近クラシック自転車に関心を持つ人がふえて来て自転車を愛する一人として大変うれしいことと思います。
 日本の自転車関係とくに自転車を業としている人々、自分達の歴史を大事にする人が少ないのは残念に思っています。先人から受け継いで来た遺産を大事にして、さらに次なる発展をすべきはずなのですが、どうもその辺があまり少し気になります。どのメーカーに行って見ても、過去に自分達が作り上げた製品がほとんどなく、聞いて見ると時代が変ったので全部すててしまったといった言葉をよく聞きます。せめて1、2個でも自分達の歴史のあかしとして残して置くべきではないかと考えます。
 その反面、個々のサイクリストの中に古い物を大事にして保存しようとする人がいること、大きく言えば自転車文化の伝承のために良いことだと痛感します。この方向を今後とも続けばと思っています。
 ただ、見る所何か一部に片寄っているような面が見られるのがちょっと気になります。
大きな眼で自転車の歴史の面からでなく、せいぜい十数年位過去のものに目の色をかえているだけで、それより前、あるいは営業として成立しなかったものにしろ、何か現在の自転車、部品のアイデアの元になった一見、稚拙なもので、消えてしまったものなども堀り出して保存する雰囲気になればと思います。
 自転車文化とは何か、というのはむづかしい問題ですが、単なるモノマニアックなしに歴史を通じ、その発展を流れの中で見ることが大切なのではないかと思っています。

(編者注:今井彬彦氏は、月刊雑誌「ニューサイクリング」誌の編集長でクラシック自転車関係にも造詣が深い、今回は特別寄稿)

月刊雑誌「ニューサイクリング」
第10号 1964年発行
写真提供:渋谷良二氏

1974年11月20日発行の「サイクリング」

2020年12月22日火曜日

自轉車研究會設立の必要

  以下の記事は、雑誌「輪友」第27号、明治37年1月1日発行(24頁から26頁)である。
何気なくこの雑誌の記事を眺めていたら、目に留まったものである。
一見、「自転車史研究会」と早とちりで見えたからでもある。
 先の佐野裕二氏の「自転車学」同様、先人達もいろいろと自転車との関わり合いについて考え、自転車を利用する各界における創意と工夫、そしてその効用の向上をめぐらしていたことが、このような文面からも伺い知ることができる。
 明治期の印刷物で甚だ読みにくい漢字や言い回しであるが、なるべく原文に近づけるよう配慮したつもりである、誤記も多々あると思うので、その辺を考慮しながら読んで戴きたい。

自轉車研究會設立の必要

長澤雄輪
 数年前までは、娯楽品視せられ贅沢品視せられたる自転車も、輓近非常の速度を以て流行の範囲を広めつつありて、その目的は、或はこれを軍事上伝令又は偵察などに応用せんとし、或は馬に仮に代用し、日常の交通機関として之れを利用せんとし、或は体育の具となし、或は日常激務の人は少閑を得て乗輪一蹴、郊外の空気を呼吸して衛生の一助となさんとし、又は遊行に、或い競走に、その他種々の目的に応用せんとす、要するに自転車の効用は、軍事上に、実用上に、体育上に、衛生上に、娯楽上に及び、従って何々会、又は何々倶楽部等の自転車団体も亦少なからず、然れどもこれらの団体なるや多くは清遊的会合をなすか、又は実用的練習の会合をなすか、或は競走会を開くに止り、未だ一の自転車研究会としての団体あるを聞かず、余輩恒に以て憾とす、或人難して日く自転車団体は、多く同好有志の集合より成れるが故に、その職業も亦千差万別にして、研究会員の資格は錯雑なるが故に、研究方法一致せず、極めて不便なるべしと、余輩願うにこの心配は杞憂に属せん、会員の職業千差万別なるは、却つて興味深きものなり、軍人は軍事上研究したる自転車の効用を述べ、科学家は科学上その研究を発表し医師は衛生上その利害を考究し、その他、法律家、商業家、等各々専門的知識により之を解決して、或は学理的に、或は通俗的に、各所見を交換せば斯道の発達上利益少なからざるベしと信ず、尤も自転車に関する雑誌上、これらの事項も屡々散見することあれども、同好の士一堂の中に会し、談笑の知識を交換せば一層妙ならん、但し他の演説討論会と違い、遠乗りを兼ねて少し少しその休憩時間を長くし、その間に是等の事項を加ふること最も可ならんと信ず。
 今一つ希望したきは、この研究会に付属して自転車の鑑定をなさば、大いに利益なるべし、盖し何商売にても、己れの商品を褒め他の商品を譏るは、勢ひの免れざる所なれども、自転車商に至りては常に互いに反目疾視し他の商品をけなすこと甚しく、要するに自転車商ほど商売敵の甚しきはなかるべし、故に乗輪を始め新台購求するに当たりては、、往々商人の瞞着手段に乗り、いかさま車を買ひ、修繕又修繕、遂に自転車ほど失費多きものはなしとして、終には乗輪を廃する、啻に失費を厭ふばかりでなく、車体の不完全なるがために、不測の災害を招き、終には自轉車ほど危険なるものなしとして、乗輪を廢する者なきにしもあらず、是等は自轉車の發達上、尠からぬ影響あることなれば、宜しく公平に鑑定を下し、善きを善しとし、悪しきを悪しとせば、終には奸商の跡を絶ち、斯界に利益を與ふること大ならん。

「輪友」第27号、明治37年1月1日発行

2020年12月21日月曜日

老舗さんぽ⑲

  今日は以前から気になっていた、下曽我商店街に戦前まであった一石自転車店の探索にでかける。初めに先日訪れた時に留守であった星野自転車店(星野サイクル)に向かう。この店も老舗で昭和10年頃から営業をしている。現在の店主である成正さんは二代目である。過去に3回ほど店を移転していて、戦前の下曽我商店街の手書き地図を見ると、現在の場所に近いが100mほど離れたところにあった。地図には赤く印をつけておいた。
 今日は丁度、バイクで店に帰ってきたところで、お会いできた。早速、一石自転車のあった場所をお聞きする。横浜銀行と風月堂の間にあったということで、ほぼその位置は分かる。
 星野さんと会話をしている最中に店の奥の振れ取り台が目にとまる。宝山、旗屋、城東などいろいろな振れ取り台を見ているが、このメーカーの物は初めてである。下の写真がそれである。ヤエソノという工具メーカーは初めて聞く名前で、今度調べてみたいと思う。鋳物製のしっかりした造りである。話の中で、星野さんが触れ取りのコツを教えてくれた。私も以前、リムの振れ取りを自分で実際に行ったが、なかなくうまくいかなかった経験がある。星野さん曰く、「縦の振れをとることによって、横の振れは気にせづ、だいたい縦がとれれば、横も自然にとれてくる」と言われた。そういえば過去にそのような話も聞いたようなきもするが、いまはまったく忘れている。
 星野自転車店を出た後、一石自転車店のあった場所の探査に向かう。いまは空き地になっているところが、多分そうではないかと思ったが確証はない。前の肉屋さんで場所を聞いたが自転車屋があったことすら知らなかった。無理もない年齢が若すぎていた。おそらく八十代以上の年齢であればわかったはずなのだが、やむおえない。
 丁度、近くの風月堂の店前に赤い地に団子と書いた幟が立っていたので、風月堂へ向かう。ここの店主も若いので、多分知らないと思ったが、一応声をかけてみた。すると戦前の商店街の地図が確かあると言って探してくれた。しばらくしたらその地図のコピーを持ってきてくれた。その地図が下の写真である。
 間違いなく一石自転車店が載っていた。地図には一石自動車となっているが、その後自転車販売から自動車も販売するようになったものと思われる。オートバイや自動車への販売は他の多くの自転車店でも時代の流れで少しずつ転換してきている。
 この地図により、間違いなく以前あった一石自転車店の位置が判明したのである。

 話は少しそれるが、今季はじめて上曽我の田んぼでケリを8羽確認する。今日のような好日は久しぶりである。富士山もよく見えていた。

星野自転車店

ヤエソノの振れ取台


一石自転車店のあった場所

戦前の下曽我商店街の手書き地図

風月堂の串団子

上曽我田んぼのケリ
今季初めて8羽確認する