酒匂川を渡りながら、川に群れているオオバン、カワウ、ダイサギ、ユリカモメ、マガモなどを眺める。オオバンが水辺にいて意外と足が長いことが分かる。いつもは水の中に入っていることが多く足の長さまでは分からなかった。
オオバン
海からの風が少し冷たかったが心地よい。
コスナサイクルを横目に見ながら通過して、南町の方へ向かう。昔の地名である十字町にあるヒストリアを覗いてみる。これで2回目であるが、先日みたビデオ映像を何とか手に入れたいという下心があったからである。先日に見たビデオとは、昭和16年頃に撮影された記録映像で、戦時中の防火訓練のようすが写し出されていた。この映像に自転車が登場していたからである。自転車のハンドル部に確か「伝令」と書いたプレートが付いていた。
ヒストリアの展示室にいた担当者にその映像のコピーの件をお願いしたのだが、いろよい返事はいただけなかった。小田原市の閲覧可能なデジタル・アーカイブのリストも何回かしらべたが、分からなかった。たぶんないと思う。
諦めかけて帰ろうとしたところ、「小田原町勢一覧」という資料が目に留まる。大正2年の発行で当時の小田原町の職業別店名一覧で、そこに自転車店が載っていた。
3軒の名前が出ていて、既に知っている名前もあった。幸二の瀬戸自転車店、幸一の鈴木自転車店、新玉一の和田自転車店とある。大正2年には3軒の自転車店があったことがこれで分かる。
瀬戸と鈴木は知っているが新玉一の和田は初めて知る名前である。こんどその店のあった場所を訪ねてみたいと思った。現在はこの一覧に載っている3軒の店はない。すべて廃業してしまっている。コスナサイクルを横目に見ながら通過して、南町の方へ向かう。昔の地名である十字町にあるヒストリアを覗いてみる。これで2回目であるが、先日みたビデオ映像を何とか手に入れたいという下心があったからである。先日に見たビデオとは、昭和16年頃に撮影された記録映像で、戦時中の防火訓練のようすが写し出されていた。この映像に自転車が登場していたからである。自転車のハンドル部に確か「伝令」と書いたプレートが付いていた。
明治25年に初めて軍隊で自転車が採用されたときの役割も、この「伝令」であった。まだ自転車はダルマ自転車の時代である。中央公論社「日本の歴史」別巻4にその写真が出ているので、ご覧になった方もいるのではないだろうか。下がその写真である。
「日本の歴史」別巻4
中央公論社、昭和42年発行より
ヒストリアの展示室にいた担当者にその映像のコピーの件をお願いしたのだが、いろよい返事はいただけなかった。小田原市の閲覧可能なデジタル・アーカイブのリストも何回かしらべたが、分からなかった。たぶんないと思う。
諦めかけて帰ろうとしたところ、「小田原町勢一覧」という資料が目に留まる。大正2年の発行で当時の小田原町の職業別店名一覧で、そこに自転車店が載っていた。
3軒の名前が出ていて、既に知っている名前もあった。幸二の瀬戸自転車店、幸一の鈴木自転車店、新玉一の和田自転車店とある。大正2年には3軒の自転車店があったことがこれで分かる。
大正5年の日本輪界名鑑には、8店に増えている。しかし、ここにある和田の名前はない。2、3年のうちに廃業したのであろうか。
大正2年12月25日発行 小田原町勢一覧
大正5年発行の日本輪界名鑑
豆相人車鉄道の資料も見たが、自転車から外れるので、やめておく。興味のある方は是非このヒストリアを訪ねてみては。ただし土日のみオープンである。
あっという間に時間は過ぎ、”老舗さんぽ”もできずに、この日は終わってしました。
一応、野地サイクル商会と箱根板橋のコシミズサイクルには寄ったが、挨拶だけで終わってしまった。
忘れかけたが、一つ発見はあった。それは昔の名前の御組長屋に野地サイクル商会の看板を見っけたことで、今はシャッターが閉まっているが、以前、野地サイクル商会は自転車だけでなく、オートバイと自動車の販売も手掛けていたのである。その名前が消えかかった看板にあり微かに読み取れた。下の写真がそれである。