2023年5月31日水曜日

引き札 - 9

 引き札 - 9

これも白黒コピーの引き札、メリアス類一式、西洋手拭、ハンカチーフ製造販売

大阪市本町四丁目心斎橋通角 鶴岡商店

とある。

メリヤス(莫大小・目利安)とは、編み物(ニット)の古称。

自転車は2台描かれているが、1台は転倒している。落車しているのは外国人レーサーのように見える。


明治30年代後半
提供:斧 隆夫氏

メリアス、タオル商 鶴岡商店
「関西実業名鑑」 明治40年版
国会図書館所蔵

鶴岡茂助
「日本紳士録」 第8版 明治35年
国会図書館所蔵

2023年5月30日火曜日

ヴァン・インプ - 2

 ヴァン・インプ - 2

ルシアン・ヴァン・インプ選手の続き、「ミロワール・デュ・シクリズム」誌の1976年7月号 №220 より

参照 → ヴァン・インプ - 1(自転車関係資料 - 243)


ヨープ・ズートメルクとヴァン・インプ

ズートメルク(コーナーでテベネのグループを下から見ている)その隣のルシアン・ヴァン・インプの勇姿! その後、彼らはアルプの偉大な勝者となる。ズートメルクは2つのステージで優勝を果たし、ヴァン・インプはイエロージャージを獲得し、最終ゴールでもイエロージャージを着ていた。


勝利に向かって走るインプ

ミラースプリント誌を眺めるインプ


ルシアン・ヴァン・インプはオリンピックにも興味を持っている。
ミラースプリント誌、オリンピックのカラーガイドを眺めている。

インプが眺めている雑誌はこれ

ミラースプリント誌、 №1-オリンピックのカラーガイド/モントリオール1976


58、59頁
1976年のツール 結果
「ミロワール・デュ・シクリズム」誌の1976年7月号 №220

60頁


ツール・ド・フランス1976は、6月24日から7月18日まで、フランスと周辺国を舞台に全22ステージが行われた。この大会は、エディ・メルクスが出場できなかったことや、ラルプ・デュエズのコースが24年ぶりに復活したことなどが話題となった。最終的には、ベルギーのルシアン・バン・インプが総合優勝を果たし、オランダのヨープ・ズートメルクが4分14秒差で2位、フランスのレイモン・プリドールが12分8秒差で3位となった。ポイント賞は、8勝を挙げたフレディ・マルテンスが獲得し、山岳賞はジャンカルロ・ベリーニが、新人賞はエンリケ・マルティネス・エレディアがそれぞれ受賞した。

2023年5月29日月曜日

錦絵 - 8

 錦絵 - 8

この錦絵は劣化による傷みがひどく、触れるとすぐに破れる状態である。何とかスキャンできた。

伊勢名所 宮川橋より山田町を望む 外宮神苑勾玉池図 明治35年2月5日発行

自転車は橋の中央付近に2台描かれている。その後方には人力車も見える。


日本自転車史研究会所蔵


外宮勾玉池は、伊勢神宮の外宮の表参道にある人工池。この池は明治22年9月に財団法人神苑会によって造られたもので、池の形が勾玉に似ていることからその名がついた。池の周りには遊歩道や休憩所があり、池の中央には舞台が設置されている。舞台では年に数回、歌や舞や能などの公演が行われる。また、池の西側には菖蒲園があり、5月下旬から6月初旬にかけて色とりどりの花菖蒲が咲く。池の向こう側には茜社という神社があり、飲み水の神や蛭子の神を祀っている。外宮勾玉池は、外宮の見どころの一つであり、四季折々の自然や文化を楽しむことができる場所である。

2023年5月28日日曜日

記念の木製ヘッド

 記念の木製ヘッド

2000年にアメリカのマイクさんからプレゼントされた記念品の木製ヘッド。

シマノで開催された第11回国際自転車歴史会議の席上で、マイクさんに頼まれてわざわざ記念品を携えてきた参加者から受け取る。


ヘッドセットバッジ -LAW-賞品
下は制服用ボタン、1880 年代

ラペルボタン c.1896年

ヘッドの底
ラペルボタン c.1896年
アメリカン・ホイールメン・リーグ
ヘッドセットバッジ -LAW-賞品
マサチューセッツ州
制服のボタン、1880 年代

ザ・ホイールメンのマサチューセッツ州支部
のピンバッジ

堺で開催された第11回国際自転車歴史会議
記念のピンバッジ
2000年8月

2023年5月26日金曜日

引き札 - 8

 引き札 - 8

これも白黒コピーの引き札、薪炭醤油、石炭コークス販売 大原の村支店 

京都市猪熊通仏光寺上ル 中川商店

とある。

この絵をよく見ると十二支の自転車レースである。ウマは一番速い所為か観客の中にいる。

ヘビは自分の体を車輪にして走っているところが面白い。ニワトリとタツが競っている。その後方にはウサギが迫っている。サルはずるしてウシの尻尾をつかんでいる。最後尾はイノシシである。猪突猛進で速いはずだが?

ちょっと分からずらいが十二支全部が参加している。

この引き札の年代も明治30年代後半と思われる。

提供:斧 隆夫氏

2023年5月25日木曜日

スターの続き -51

 スターの続き -51

この「スターの続き」は50回で取り敢えず終了したが、その後また2、3資料がたまったので再開する。

今日の写真は先ほどホイールメンのメンバーがフェイスブックにUPしたもの。

スミスビルで開催されたミーテイングの様子。

アメリカン・スターが3台並ぶ
日本時間2023年5月25日午前5時、ティム・ヒメスさん投稿

スミスビル公園のビジターセンター

案内板

先ほどヤフオクで例のスターを探したが見当たらず。落札されたのか、それとも入札されなかったのかは不明。いずれにしても出品されていなかった。

2023年5月24日水曜日

引き札 - 7

 引き札 - 7

これも白黒コピーの引き札、播洲加古川の自転車商、楠本商店。

英国製、ハンバー、センター、ノートン、アライアンス

米国製、ピアス、スネル

欧米各国、自転車付属品並びに修繕

自転車 播州加古川 楠本商店

とある。

銘柄を見ると日英同盟以降の明治40年代前半と思われる。それまで主流であったピアスやスネルの米国車が英国車の次に紹介されている。

提供:斧 隆夫氏

1910年(明治43年)の神戸、橋本商会のカタログを見ると次のような銘柄車が載っている。
ハンバー、インペリアル、センター、ノートン、スターレー、ラピッド、アライアンス、スタンダード、プリティー、サンシャイン・ハンバー、東洋総代理店

橋本商会は、明治時代に神戸で自転車の販売と修理を行っていた自転車専門店。
当時の日本では、自転車はまだ珍しい乗り物であり、高価であったが、橋本商会は、海外から積極的に自転車を輸入し、その需要に応えていた。また、自転車の普及にも貢献し、神戸の自転車愛好家の集まりである自転車倶楽部も結成した。橋本商会は、明治期の自転車文化の先駆者として、神戸の歴史に名を残している。
余談だが、明治34年12月30日には、世界自転車無銭旅行者の中村春吉がこの橋本商店を尋ね、昼飯を御馳走になっている。

自転車商 橋本商会 店主、橋本治郎七
「関西実業名鑑」 明治40年版
国会図書館所蔵

2023年5月23日火曜日

引き札 - 6

 引き札 - 6

これは白黒コピーの引き札、材木板問屋商 大阪市南区木津川町一丁目 濱恒次郞商店

とある。

濱恒次郞商店は同業者の間では「材木王」と呼ばれていた豪商で、下の「大阪商工大観」にも大きく紹介されている。


明治30年代
提供:斧 隆夫氏

「大阪商工大観」 昭和4年版
国会図書館所蔵

2023年5月22日月曜日

引き札 - 5

 引き札 - 5

これも前回同様のデザインの引き札、古着仕立物 伊勢崎本町二丁目 椎名福次郎

とある。

この引き札の印刷年代は不明だが明治30年代後半と思われる。

やはりこれも「魔風恋風」のヒロインである初野とデートン号自転車をイメージしたデザインである。


明治38年頃

魔風恋風 前編 小杉天外作
の挿絵
明治36年11月15日発行

女性用のデートン号の広告
1896年(明治29年)

デートン自転車について、
オハイオ州デイトンには、デートン自転車のメーカーであるハフマン・マニュファクチャリング・カンパニーを設立したジョージ・ P・ハフマンやライト兄弟のウィルバー・ライトとオービル・ライトの自転車店などがあり、自転車産業の多くの先駆者達の本拠地であった。 

1887年にジョージ・フィリップス・ハフマン(George Phillips Huffman)がデイビス・ミシン・カンパニー( Davis Sewing Machine company)を買収し、1890年にミシン工場をニューヨーク州ウォータータウンからオハイオ州デイトンに移転。デイビス・ミシン会社は、1892年に最初のデートン自転車を製造した。
1924年、ジョージの息子であるホレス・M・ハフマン(Horace. M. Huffman)がハフマン・マニュファクチャリング・カンパニー(Huffman Manufacturing Company)を設立。その後、1949年まで、ハフマンは「デートン」ブランドで自転車の製造と販売を続けた。

2023年5月21日日曜日

引き札 - 4

 引き札 - 4

この引き札は松之山の猪俣商店及び坂杉商店のもの。

松之山町は、新潟県南西部、東頸城郡の東端に位置していた町で、2005年4月1日に十日町市および東頸城郡松代町、中魚沼郡川西町・中里村と合併し新設の十日町市となる。

年間平均最大積雪深が国内で唯一、3mを超える特別豪雪地帯でもある。周辺は古くから「松之山郷」と呼ばれていた。松之山温泉でも知られている。

日英同盟及び小杉天外の「魔風恋風」
に登場する初野をイメージしたデザイン
明治38年頃

2023年5月20日土曜日

スティーブンス関連資料

 スティーブンス関連資料

 この資料は「英和商売用会話」 第1編 第15版 富田源太郎 著 丸善 大正8年1月7日発行(初版、明治19年7月9日)

スティーブンスは日本旅行の際に「マレーのハンドブック」を携行したことはわかっているが、おそらくこの本も彼のカバンの中に入っていたはずである。

表題
国会図書館所蔵

証言(利用者の声)

スティーブンスの賛辞を拡大

この辞書は非常にコンパクトで役に立つだろう。
手元に置くことで、いつでも自分のことを理解してもらうことができ、通訳の助けを借りずに自分の事柄を把握することができる。
トーマス・スティーブンス、自転車旅行者   1886年12月10日


富田源太郎について
明治時代に活躍した富田源太郎は、商人、政治家、教育者、ジャーナリストなど多方面で才能を発揮した人物である。横浜の外国商館の番頭をしていた伯父の富田砂筵のもとで育った。そこで英語を習得し、横浜商法学校に入学した。在学中には『英和商売用会話』や『米国行独案内・一名桑港事情』などの著書を出版した。

スティーブンスが携行した
「マレーのハンドブック」
1884年版

2023年5月19日金曜日

引き札 - 3

 引き札 - 3

この引き札は30年以上前に大阪の斧さんから白黒コピーをいただいたもの。

この引き札を含め数枚送られてきた。

右端に斧さんのメモ書きで、「これの広告印刷の無いもの京都で入手したことあり、杉野社長に分譲しました。」とある。

註、杉野社長とは杉野鉄工所(現、株式会社スギノエンジニアリング)の杉野 安 氏である。


引き札 明治後期
金属品各種製造
大阪西区新町橋 中村久次郎
提供:斧 隆夫氏

註、図柄は大胆にも自転車2台で汽車を引っ張っている。

2023年5月18日木曜日

自転車関係資料 - 246

 自転車関係資料 - 246

この本は、ハインリヒ・ホルストマンの「自転車世界一周旅行」
ハンス・エアハルト・レッシング著 2007年発行

「Meine Radreise um die Erde 」 Der Bericht des ersten deutschen Fahrrad-Weltreisenden anno 1895 、Heinrich・Horstmann、 Hans-・Erhard・Lessing
2007.

ハインリヒ・ホルストマンは、1895年に自転車で世界一周を試みたドイツの実業家。
 彼は、同じく自転車で世界一周旅行をしたフランク・G・レンツの影響を受けた。
 ホルストマンは少ない荷物を持ってドルトムントから出発した。
ベルギー、イングランド、アメリカを経由。 彼は主に鉄道を使用し、さまざまな国や州のビールの価格などを調査記録した。 
サンフランシスコからはアジア行きの船に乗り、東京とシンガポールを訪れた。 
当時、コレラの流行のため、インド大陸横断を断念し、エジプト、イタリア、オーストリアを経由してドイツに戻った。 
彼は 27 か月間の旅をし、1898 年にその旅行記を出版した。 
その後ベルリンに移り、自転車メーカーの代表を務めた。ワインや葉巻の取引も行った。

本の表紙


日本の部分を抄訳、(268頁~278頁)

1896年(明治29年)10月24日早朝、日本の海岸と山脈は朝日に輝いていた。
6時ごろ、汽船は岬を回って長い湾に入った。10時頃、他の国の船が停泊する横浜港に入港した。すぐにたくさんの手漕ぎボートが汽船の周りに群がり、旅行者たちを上陸させようとしていた。 私はそのうちの1隻に自転車を持ち上げながら乗り込み、数分後には横浜の岸壁に立った。

ドイツ領事館の税関職員に英語で尋ねた。国際的には英語が最も一般的な言語だからである。 "ドイツ語を話せるか?"と云った。その返事は「はい」と答えた。その20歳ぐらいの役人は上手なドイツ語でいろいろな情報を教えてくれた。
その後、国から届いた手紙が旅館に届く。

この極東の島は一つの王国であり、魅力的で、魔法のような詩的な情景に囲まれていた。
 日本人はこの国を「日出ずる国」ニッポンと呼んでいる。
カリフォルニアが西のスイスと呼ばれるにふさわしいのと同様に、豊かな自然の美しさはまさに極東のスイスである。いくつかの大きな島と小さな島で構成されている。
まわりは広くて果てしない海に囲まれている。雪に覆われた雄大な山脈が国の端から端まで伸び、広大な平地はどこにもなく、雄大な富士山がその頂点として聳えている。
到着した日の夜明けに見た姿は雪に覆われ、おそらく標高12,000フィートの高さであり、その裾野は遠くまで伸びている。夕日がその巨大な輪郭を照らしていた。地球の東にある、原生の山々の頂上は夕日を浴び黄金色に輝いていた。
東洋では眠りに就き、西洋では新しい日が明ける。
私はホテルの窓に座って夕方の景色を見つめ、遠く離れた故郷を思い出していた。
夕方、通りを徘徊する盲目のマッサージ師の単調な笛の音でびっくりし、現実に引き戻された。日本にいるとおとぎ話の国のように思えた。

この国の神話によると、イザナギとイザナミという一対の神が天の橋の上に座り、夢見心地で下界の青い海を見つめていた。イザナギは押し寄せる大海に槍を突き立てた。そして槍の穂先から水滴が落ち、それぞれの島が誕生したとされている。
ここで彼らの子供たちが生まれ、最愛の娘である太陽神の天照大御神が生まれた。
日本の天皇は、紀元前 660 年に神武天皇の名で最初に即位したと神話は語っている。
しかし現実には、日本の過去は深い闇に包まれている。
現在の日本人も原住民であるのか、それともその故郷がどこにあったのかは誰にも分からない。
仏教が中国や韓国からこの国に渡来し、それとともに文化が入ってきて新しい時代が始まった。
天皇とその民は、太陽の子が顔を見せることを許されたと告げ、精神的な支配者として君臨した。その後、天皇に代わり将軍と呼ばれる世俗の統治者が国を治めることになった。
16世紀半ば頃、フランシスコ会とイエズス会の信者は数十年以内に数十万人に達した。
当初は世俗の支配者たちに支持されていたが、後には残酷な迫害を受けた。 
それにもかかわらず、信者の数は増え続けた。そして、この国の統治者はキリスト教徒の撲滅を決め、1637年には島原の乱が勃発し、キリスト教徒は敗北した。
日本は、外国との貿易の為に長崎の出島に上陸することだけを許可した。だが内地への立ち入りは禁止された。 

ヨーロッパにとって、日本はおとぎの国で、眠れる森の美女が王子の目覚めのキスを待っているような国になっていた。 そしてこの救世主は二世紀以上の時を経て現れた。
1853年、アメリカのペリーが4隻の黒船で現在の首都である東京沖に現れ、米国政府を代表して通商条約を要求した。彼の出現は大きな衝撃を引き起こし、これまで自分たちを世界で最も優れた文明国であると信じていた日本人に、西洋人の優位性を認識させ、驚異的な印象を与えた。日本は不本意ながら一部の港を外国人に開放し、その後、すぐに勤勉さと熟練をもって多様な知識と技能を驚くべき速さで習得した。 ここでも詩人の言葉が現実となり、春が訪れ、廃墟から新たな命が芽吹いたといえる。そして江戸城の門は開かれ、将軍は統治を放棄しなければならなかった。天皇自らが政権を掌握し、日本国民はヨーロッパをモデルに芸術、科学、技術、政治など目覚ましい進歩を遂げ、新たな時代の幕を開けた。この時期を「明治維新」と云った。

日本人は平均して小柄で繊細である。肌の色はまばゆい白から濃い茶色まであり、モンゴル民族の切れ長の目は日本人の特徴でもある。
できるだけ早くヨーロッパ化するために活発な努力がなされているが、軍人、公務員、及び「上流階級の1万人」を除いては、ヨーロッパの服装が一般的になることはなかった。リネンの靴下で靴を履くが、天気が悪くなると木製の下駄に早変わりした。下駄は長さ約6インチの2枚の直立した板を備えたソールで、それを履き土の上を歩く。
ヨーロッパ人が住んでいる港の居留地では、ヨーロッパの靴や帽子、衣服をよく見かけるが、他の村ではほとんど見ない。
日本の家を訪ねてみると、小さくて低い引き戸の玄関があり、そこで靴を脱いで帽子と杖を置く。家の中では上履きか、ストッキングを履いて歩く。 
木枠に紙を貼った障子の二番目の引き戸を通って家の内部に入り、そこで最初に挨拶を交わす。日本の習慣によれば、膝をついて、二三回お辞儀をし、額が床につくようにして、朝の挨拶は、おはよう 、昼は、 こんにちは、夕方は、こんばんは、と挨拶する。
尋ねる場合は「ですか」を付けて表現する。 日本人には椅子がないので、膝を曲げて正座し、その姿勢を何時間も続ける。
私も努力したが、無駄な努力であった。正座はできない。
宿屋の主人は私たちの不快な状況を見て微笑み、メイドにクッションと枕をいくつか持ってこさせ、それを勧めた。部屋は殺風景であるが、一方の隅には花瓶が、もう一方の壁には絵が飾られ、さらにチェストのようなものが置かれ、床は厚さ数インチの畳で覆われている。
壁には引き戸がいくつかあり、その後ろにはさまざまな部屋が隠されており、そこには家庭で必要なあらゆる種類の物や衣類が保管されている。 残りの部屋もこの部屋と同じように家具が置かれている。メイドが木箱を持ってくる。その木箱には灰の中に炭が入っていて、真ん中で燃えている。これは日本のストーブである。 小さな煙管を数本渡され、タバコをひとつまみ入れ、炭で火をつけて吸う。お茶は、絵付けされた上質な磁器で作られたミニカップに入っていて、おしゃべりをしながら飲む。
いよいよ食事の準備が整いテーブルにつく。日本料理がヨーロッパ人の味覚に受け入れられることはめったにないが、日本のスープとご飯料理は素晴らしいと感じた。
カブ、野菜、魚などは喉に詰まらせないように注意する。料理は小さな鍋ですすり、野菜や肉などは2本の箸で口に運ぶ必要があり、最初は慣れない。食事が終わると立ち上がって、賞賛と感謝の言葉を持って宿の主人に別れを告げる。 
女中が襖の向こうの部屋から毛布や枕を取り出して床に敷く様子を見ている。それは日本のベッドである。
東洋と西洋の人々の生活様式の違いに思いを馳せる。私たちは間違いなく西の方が好きであるが、東洋と論争するつもりはない。

全国の道路は非常に良好な状態であるが、起伏が多く、幅がわずか 1.5 メートルしかない狭い山道が多い。 残念ながら、雨が降る日が多かったので、自転車旅行を横浜近郊から東京までに限定せざるを得なかった。
約3か月の日本滞在中、日本人の生活や行動を最大限に観察するのに十分な時間があった。
 一つだけ言っておきたいのは、「酒」のことで日本の国民的飲み物であり、ホットで飲むライスブランデーの一種である。このような味はいままでどこでも出会ったことはない。その味は スピリッツを混ぜて煮たものに一番近いかもしれないが、それも味わったことがないので断定はできない。 私の知る限り、ここには飲みやすいビールを生産する醸造所が 3か所ある。 もちろん横浜のキリンビール工場にも訪問し、二代目マン氏が出迎えてくれた。ビールの都ミュンヘンで崇高な醸造技術を学んだマスター・ブルワーが、とても親切に案内してくれた。キリンビール工場は 1886 年に東アジア初のビール工場として建設され、現在では年間約 35,000 ヘクトリットルのビールを生産している。従業員は120名、セラーマスターからビールワゴンの運転手まですべて優秀な日本人である。

日本の自転車について少し調べた。アメリカの新聞で東洋の自転車の安価な生産について読んだ。特に大統領選挙の時にアメリカでは、ある政党が日本の「12ドル自転車」で大騒動を起こした。それは、保護関税が導入されなかった場合、つまりマッキンリーが選出されなかった場合は、すべての地元の自転車製造業者は破滅すると予測した。
日本の自転車は12ドル(約50マルク)で輸出できるというナンセンスは別として、これが単なる政治的トリックだったと付け加える必要はない。 その間、マッキンリーが大統領に就任し、安物の自転車についてはそれ以上何も言われなくなった。 
いくつかのイギリスとドイツの新聞報道を見つけたが、その記事には次のようにあった。
日本の自転車はおそらくヨーロッパではまだ紹介されていないが、ニューヨークではその驚くべき低価格のため、売れ行きが好調である。 「頑丈に作られ、最新の設計に基づいて製造されている」 というのは全くのナンセンスである。日本に住むヨーロッパ人がこれを読むと笑止する。 私は「頑丈」という言葉を使ったが、ニューヨークの巨大なビルの屋上から物を放り投げても、修理のために立ち止まることなく走り続けることができることになる。 日本でそのようなものが近づいてくるのを聞くと、私はロードローラーを思わずにはいられない。ロードローラーはとても大きな音を立て、不器用な構造をしている。 このような自転車の価格は約130マルクである。欧米のメーカーは日本を敵として恐れる必要はなく、むしろ良い買い手である。イギリスとアメリカの自転車は何千台も輸入されているが、他のメーカーの自転車は見かけない。
 
自転車の競技は、そこに住むヨーロッパ人、日本人、中国人によって活発に行われている。
主に前者によって運営されているが、多くの日本人も見られ、民族衣装を着て、腰に三つ編みを巻いて自転車に乗っている中国人の姿は、私を笑わせてくれた。
横浜にも自転車クラブがあったが、意見の相違により2つのパターンに分かれていた。現在ではどちらも非常に強い。 市の中心部には長さ約 300 メートルの小さな競馬場(註、旧根岸競馬場)があり、同時に他のすべてのスポーツにも使用される。私の滞在中、ランニングやフットボールの試合に関連したさまざまなクラブレースが開催されていた。 

私の日本滞在は終わりに近づいていた。極東の島の王国との別れである。
1897年 1月 22 日、北ドイツのロイド汽船「ホーエンツォレルン」が私を香港まで運んでくれる。何人かの知人が私に別れを告げるために岸壁に集まってきた。おそらく二度と会うことはないであろう。汽船は12時に出発し、ゆっくりと向きを変え、港の岸壁の狭い開口部に向かって走り出した。私はもう一度タオルを振って別れを告げた。
横浜港が背後に見え、突き出た岬から隠れようとしていた。汽船が湾内にあり、左右に陸地がある限り、海は穏やかであった。しかし、要塞を通過するやいなや、強い風が吹き出し、汽船は上下に揺れた。轟音はどんどん高くなり、午後5時以降、甲板は常に水に浸かりはじめた。 デッキに留まるのは不可能だったので、私は夕方早く寝台にもぐり込んだ。嵐は、私に子守歌を聞かせてくれた。打ち寄せる波が私を眠りに誘った。外は嵐で荒れ狂い、轟音を立てている間、すぐに私は最高に甘い夢を見ていた。 
早朝に目が覚めると、海は滑らかで穏やかで、昨夜の嵐の痕跡はなかった。右側には、雪を頂いた山が朝日に白く輝いていた。一方左側には、揺れる波で地平線が踊り、遠くの景色が見えなくなった。絶え間なく変化する日本の沿岸は絵のように美しく緑豊かな風景で、言葉では言い表すことができない。舌とペンでも言葉を見つけることができないだろう。母なる自然の壮大な創造物をただ直立して静かに賞賛することしかできなかった。
午後、左に2つの島を通り過ぎた。2つの強力な要塞があり、大砲の威嚇的な銃口が巨大な山を見つめ、その背後には兵舎が横たわっている。 日本はあらゆる脆弱な場所は近代的な要塞によって守られており、緊急時に備えて常に新しい要塞を建設する努力を払っている。

2時間後に神戸港に入港しが、もう暗くなっていて岸には近づかなかった。汽船が着岸して貨物を積み上げたのは翌朝のことであった。私は自転車を陸に上げ、地元のドイツ人サイクリストと一緒にその地域を日帰り旅行した。きれいな通りといくつかの村を巡った。
午後はテックハウスに立ち寄って、リフレッシュ。 ここではドリンクを好きなだけ飲めた。
帰る道は、肥沃な野原や日陰の木立を通って、寺院やその他のあらゆる種類の記念碑のある独特な道を通った。小さな村や、子供や大人で賑わう通りを抜けて行く。日本人の名誉のために言っておくが、ここではヨーロッパの一部の地域に比べて自転車に乗る人に対する痴漢的な行為が少ないと思われた。誰もが避けたり、道を空けたりするが、私たちの後には常に大人たちの好奇の視線と若者の嬉しそうな叫び声があった。再び村を通った時、ちょうど日本人の一団がわき道から出てきた。私の同行者は不運にもそのうちの一人にハンドルの前から突っ込み、二人とも地面に放り出されてしまうという事故に見舞われた。転倒した男性は「不器用なサイクリスト」を困らせる代わりに、立ち上がって優しい言葉で謝罪し、非常に丁寧に同行者のケガの状態について尋ねた。そして私たちは大過なく良好な結果で無事に別れた。

神戸に着くと連れが自転車を持って帰ってきた。彼は妻を私に紹介した。洋装の日本人女性であった。 彼女は流暢な英語とドイツ語を少し話した。ここで30分ほどおしゃべりしてから私は船に戻った。 翌朝、瀬戸内海を通って長崎に向かう。絵のように美しい島々が交互に並ぶ無数の島々、赤茶色の岩が水面から浮かび上がり、汽船が回転するたびに色とりどりの景色に変化した。 それは幻灯のように変化するイメージで、最も魅力的な風景は絶えず私たちの前を通り過ぎ、その美しいさに魅了した。そして、後ろの地平線に消えていった。 
夕方近く、私たちの汽船は狭い海路を通過した。 そして、二つの要塞に迎えられ、そのすぐ後ろの広い湾には下関の街があった。
真っ赤に燃えていた太陽はその後沈み、遥か西の空を茜色に染めていた。

そして、太陽が沈むと夜はすぐに訪れ星々が瞬きはじめ、日本の帆船がちょうど幽霊のように帆をはためかせて音もなく私たちの前を通り過ぎ、すぐに闇の中に消えた。
船内は静かになったので、私はプロペラによって巻き上げられる水面の音に邪魔されない静かな場所を探した。

翌朝、11時頃に長崎に到着した。
石炭を積み込み、そして香港へ向かう。 当時、長崎には各国の軍艦がたくさん来ていた。 ロシア勢は特に多く、その船体は青灰色の塗装で目立っていたが、どのペナントの下にも「白、青、赤」の国旗は見えなかった。


註、この日本での旅行記を読むと、ホルストマンは殆ど日本国内での自転車旅行をしていないことが分かる。横浜周辺と東京、それに神戸を少し走っただけである。彼の旅の目的がそもそも商業的な実態調査を主としていたので当然かもしれない。それでも3か月ほど日本に滞在したことになり、日本の文化や伝統に対して造詣を深めたはずである。

2023年5月17日水曜日

自転車関係資料 - 245

 自転車関係資料 - 245

日本生命保険株式会社の新築図、明治29年4月起工、明治35年3月に竣成。

この図をよく見ると自転車、馬車、人力車がビルの下に小さく描かれている。


日本生命保険株式会社の新築図
明治35年竣成


明治35年(1902年)に竣成した日本生命保険ビルは、大阪の御堂筋に面した歴史的な建築物である。辰野金吾・片岡 安 監修、関野 貞、設計による赤レンガに花崗岩の帯をもつ外観は、当時の西洋建築の影響を受けた「辰野様式」と呼ばれるものである。この建物は、昭和37年(1962年)に現在の花崗石貼りの本館に建て替えられるまで、日本生命保険の本店として機能していた。現在は、明治安田生命大阪御堂筋ビルとして、事務所や店舗などが入居している。このビルは、市街地建物建替え時の既存地下躯体再利用構法の開発や黄金比による美しいプロポーションなど、多くの建築的な特徴を持っている。


2023年5月16日火曜日

自転車関係資料 - 244

 自転車関係資料 - 244

この資料は子供用三輪車の広告

新荷着最大流行米國製小供自轉車

特色、

●優美高尚にして全部金属製なるを以て堅牢無比なり

●車体は容易に解放し得る為遊山旅行雨降等携帯便利なり

●製作完全なるが為転覆の恐れなし

発売、丸籐直輸入商、籐莚 割籐、小供車製造、籐細工品一式

問屋 深田松之助

などとある。

子供用三輪車のチラシ広告 明治30年頃


子供用三輪車は、明治時代に欧米から日本に伝わった西洋式の三輪車のこと。
当時は乳母車や小児用自転車として使われたり、遊具として人気があった。明治期の子供用三輪車は金属製で、クランク・ペダルやハンドル、サドルなどが付いている。前輪が後輪に比べ一回り大きい。色は赤や青などが多く、デザインも様々であった。現在では、昔ながらのこのような三輪車はレトロな雰囲気を楽しむためにコレクションやインテリアとして飾られたりしている。

名鑑に載っていた広告
子供を含め8名の人物と左端に自転車も見える
明治39年発行「赤十字名鑑」
国会図書館所蔵

明治30年代に自転車を既に所有していることは当時相当繁盛していたに相違ない。
この店は1903年(明治36)に大阪で開催された第5回内国勧業博覧会にも籐製品を出品している。

明治14年発行の「浪華の魁」
国会図書館所蔵

2023年5月15日月曜日

錦絵 - 7

 錦絵 - 7

「東京名所・東京駅及び丸之内ビルディング之偉観」昭和11年 土屋 博 石版画 天正堂画局

自転車が上下の絵で4台見える。その他、自動車、路面電車、人力車、馬車、空には複葉機が2機描かれている。


拡大

全体図
日本自転車史研究会所蔵

天正堂画局と石版画について、
大正時代から昭和初期にかけて活動した石版画の発行所である。
天正堂画局は、東京の浅草にあった天正堂という文具店が、石版画の需要が高まったことに着目して設立した。
土谷伝や土屋博などの人気画家と契約し、東京名所や歴史的事件などを題材にした彩色石版画を多数発行。

石版画は、鮮やかな色彩と細密な描写で知られ、当時の人々に広く親しまれた。天正堂画局は、大正11年(1922年)に開催された平和記念東京博覧会の公式石版画も手がけた。
石版画は、現在でも古書店や美術館で多く見ることができる。

2023年5月14日日曜日

第32回 、国際自転車歴史会議

 第32回、 国際自転車歴史会議

第32回、 国際自転車歴史会議 (ICHC) はイタリアのクレモナで2023年5月13日~16日で開催。

32nd(2023) International Cycling History Conference(ICHC)in Cremona, Italy.


ロベルト・シュテルバ(Robert Štěrba)
さんがフェイスブックに投稿(以下同じ)

会場内の様子と販売されていた本

会場で販売されてる本
「自転車の起源」第1巻 技術の進化
アルフレド・アッツィーニ 著
 2023年発行

「Alle origini della bicicletta」
1. L'evoluzione tecnica
Alfredo Azzini


補足説明、
国際自転車歴史会議 (ICHC) は、自転車の歴史とその社会的、文化的、技術的影響に興味のある学者、愛好家、専門家が集まる毎年恒例のイベントである。
この会議は、歴史、社会学、工学、デザイン、メディア研究など、さまざまな分野の研究者間の学術的な対話と交流を促進することを目的としている。
この会議では、サイクリングの歴史の研究と実践における最新の開発と革新を紹介する機会も提供している。

ICHC は、自分たちの研究を共有し、より幅広い聴衆と関わるためのプラットフォームを作りたいと考えていた自転車歴史家のグループによって 1990 年に設立された。
それ以来、この会議はグラスゴー、サンテティエンヌ、ネッカーズルム、ボストン、ケンブリッジ、ステレンボッシュ、バファロー、オタワ、ナイメーヘン、大阪など、世界中のさまざまな都市で開催されてきた。
毎年、この会議では、基調講演、パネルセッション、ワークショップ、展示会、自転車ツアーなどの多様なプログラムで開催されている。 
この会議はまた、会議議事録から厳選された論文を掲載した『Cycle History』も発行している。

ICHC は、自転車の歴史に対する情熱を共有する、あらゆる背景と専門レベルの参加者を歓迎している。 研究者、コレクター、キュレーター、ジャーナリスト、サイクリストなど。

この会議で専門家から学び、仲間とネットワークを築き、サイクリングの歴史についての新たな視点を発見できよう。

『Cycle History』№11 全210頁
2001年発行の表紙

裏表紙

2023年5月13日土曜日

錦絵 - 6

 錦絵 - 6

この錦絵は明治4年頃の「當世い車づくし 辻亀梓」である。絵師は不明であるが絵の構図からして芳虎と思われる。

以前にこのブログでも次のように紹介している。

當世い車づくし 辻亀梓 明治初期 自転車(ラントーン型三輪車、後押自転車(五輪車)、壱人車 、水溺車 絵師は不明だが、この時期盛んに車尽くしシリーズを多く描いた芳虎の可能性がある。

国会図書館所蔵

早稲田大学図書館所蔵

日本自転車史研究会所蔵
但しカラーコピー

芳虎とは、
歌川芳虎(うたがわ よしとら)で、江戸時代末期から明治時代中期にかけての浮世絵師。幕末から開化期にかけて、歌川貞秀と並び活躍した絵師の一人である。
歌川国芳の門人となり、武者絵や役者絵に優れた作品を残した。また、横浜絵や開化絵など、幕末から明治にかけての新しい風俗を描いた錦絵も多く手がけた。一方で、徳川家康を風刺した錦絵「道外武者御代の若餅」を出版したことで処罰されたり、師の国芳と不和になって破門されたりと、波乱に満ちた人生を送った。
生没年不詳だが、作画期は明治15年(1882年)まで確認されている。
一猛斎、孟斎、錦朝楼などの号を持ち、本姓は永島、通称は辰五郎である。

2023年5月12日金曜日

引き札 - 2

 引き札 -2

引き札は、商店や問屋、製造販売元などが商品やサービスを宣伝するために作成した広告チラシのこと。江戸時代から大正時代にかけて流行したが、特に明治時代には、浮世絵の伝統を受け継ぎつつ、機械木版刷りや石版摺りなどの新しい印刷技術の導入で、色鮮やかで大胆な図柄とキャッチコピーが特徴的な引き札が大量に作られた。引き札は、店頭や街頭で無料で配布されたり、家の壁や襖、銭湯などに貼られたりして、多くの人々の目に触れた。商品や商店の名前だけでなく、当時の衣食住や日用品、産業や文化などを映し出す歴史資料としても貴重である。また、美術品としての価値も高く評価されており、現在では博物館や美術館で展示されたり、コレクターにも蒐集されている。

註、引き札 -1は → こちら


引き札 明治期
図柄は郵便配達員と自転車及び
郵便小包・電信料金表
時計附属品とあるが
どこの商店の引き札か欠損していて不明
日本自転車史研究会所蔵

2023年5月11日木曜日

自転車関係資料 - 243

 自転車関係資料 - 243

この雑誌は自転車スポーツ界では有名な「ミロワール・デュ・シクリズム」誌の1976年7月号 №220 である。

昨日、資料を整理していたら懐かしいこの号が出てきた。ミロワール誌は1970年代の初期から丸善をとおして数年間定期購読していた。だいぶ前に殆ど処分したが思い出深い号は数冊保存していた。その一冊がこれである。

1976年のツールと云えば、私の当時の憧れであったベルギーのルシアン・ヴァン・インプ選手で、やっとマイヨ・ジョーヌに初めて袖に通した年である。いまでも時々、YouTubeで当時の動画を見ている。


1976年7月号 №220

ルシアン・ヴァン・インプ選手


☆ルシアン・ヴァン・インプ(Lucien Van Impe、1946年10月20日生まれ )は、ベルギー・フレミング出身の元自転車競技選手。
ツール・ド・フランスでは6度に亘り山岳賞を獲得。まさにキングオブマウンテンの名に相応しい山岳スペシャリストであった。

1976年のツール・ド・フランスでは、ラルプ・デュエズのステージで首位に立ち、ピレネー超えステージで他を圧倒し、7度目の出場にして初めて総合優勝を果たした。

☆ミロワール・デュ・シクリズム(Miroir du cyclisme)は、1960年から1994年の間に発行されたサイクリングの専門雑誌。