自転車関係資料 - 241
これもマエダ工業関係の資料、
「銀輪讃歌」昭和57年4月10日発行
表紙
奥付
197頁
マエダ工業の製品
1922年~1981年
マエダ工業の歩み(大正11年~昭和31年)
大正11年9月、前田鹿之助、南河内郡千代田村新田(現在 河内長野市市町)にて、個人企業
前田鉄工所を創業し、 自転車用フリーホイルの製造および販売を開始する。
大正11年12月、堺市熊野町に移転拡張。888印のフリーホイル誕生する。
昭和6年3月、熊谷大藏、鹿之助の長女エイの婿として、前田家に入る。
昭和8年1月、堺市南向陽町二丁一番十六号の現住所に移転拡張する。
昭和15年2月、前田鹿之助 死去。享年五十七歳。前田大藏、事業を継承する。
昭和18年5月、企業整備令により、前田鉄工所を中心として同業十一社が合同、有限会社東
亜精機工作所(資本金六十万円)を設立し、前田大藏が取締役社長となる。(創立記念日、5月12日)
亜精機工作所(資本金六十万円)を設立し、前田大藏が取締役社長となる。(創立記念日、5月12日)
昭和18年10月、呉海軍工廠監督工場に指定され、弾丸生産に従事する。
昭和20年7月1日、空襲激化のため、重要物資の疎開に着手する。
昭和20年10月、未明の空襲で工場のほとんどを焼失。 一棟のみ半焼の状態で残る。
昭和20年8月15日、終戦と同時に、再びフリーホイル専門工場となる。
昭和21年1月、工場は、本格的稼動に達す。
昭和21年3月、生産計画をこなせるようになる。
昭和21年10月、河合淳三、入社する。
昭和22年、フリーホイルの生産は、月産一万個の戦前水準を回復。
昭和23年11月、増資により、資本金150万円となる。シンガポールへ輸出し、好評を博す。
昭和24年1月、社名変更により、有限会社前田鉄工所となる。木造平屋の社宅10戸を建設。
昭和25年11月、河合淳三、専務取締役に就任。工場設備を拡張し、40%の増産。
昭和26年3月、昭和25年度、通産省自転車性能比較審査において、通商機械局長賞受ける。
昭和27年3月、昭和26年度、通産省自転車性能比較審査において、通商機械局長賞受ける。
昭和28年5月、創業30年、設立10周年を記念した「すえひろ」を刊行。
昭和28年6月、増資により、資本金300万円となる。自転車のカラーファッション化を提唱。
昭和29年11月、合理化優秀工場として、大阪知事より表彰される。変速機研究を始める。
昭和30年、外装変速機への研究すすむ。自転車のファッション化など、実用車に替わる自転車のあり方を提唱して、各地の自転車小売商との交流が拡がる。
昭和31年1月、自転車用フリーホイルJIS表示許可工場となる。新製品 (ユニット・ハブ型式の多段フリーホイル)のテストのため、河合ら7人が名古屋まで走行。
昭和31年8月、自転車用外装変速機の製造および販売を開始する。各地の自転車小売商との交流続く。
昭和32年、会社設備近代化を手がける。
昭和31年4月、提携先岩井製作所倒産の影響で、希望退職者募る。 外装変速機 "サンツア
ー"の商標を得て、変速機の製造販売を細々と続ける。
(以下省略)