2011年3月31日木曜日

これもファッション

 これは、明治34年2月発行の雑誌「流行」(第15号 流行社)の記事です。
 自転車草履とは、いかにも日本的な発想です。履き心地はどうだったのでしょうか。「流行」に載るくらいですから、評判がよかったはずです。価格は壱円半から参円止まりとありますから、当時の貨幣価値から考えると、やはり今の10,000円以上ではないでしょうか。
 雑誌「流行」は月刊雑誌で、明治32年9月15日に創刊されました。当時のファッション雑誌の一つです。

2011年3月29日火曜日

ノーフォーク

                  自転車用ノーフォークスーツ 

 この新聞のカット絵は、愛輪家のファッションの一つです。当時の自転車愛好家の殆どは富裕層で、服装にも関心がありました。
 ノーフォークは19世紀末頃にイギリスで誕生した狩猟やゴルフ用などのスポーツジャケットです。現代でもその伝統は引き継がれています。

2011年3月28日月曜日

富田源太郎

 これは富田源太郎の『英和商売用会話』(初版明治18年発行)の推奨文が書かれたページです。赤線で囲った部分は、自転車世界一周旅行者であるトーマス・スティーブンスの賛辞です。

次のように書いてあります。
This work will be found exceedingly compact and useful.
With this little volume at hand they can always make themselves understood, and thus manage their affairs without the assistance of an interpreter.
Thomas Stevens
Bicycle tourist
Dec 10th 1886

以下は私の拙訳ですが、
この本は非常にコンパクトで便利です。小さいながらもよく理解できます。通訳の助けを借りることなく仕事にも活用できます。
トーマス・スティーブンス
自転車旅行者
1886年12月10日

 富田源太郎は、少年の頃から早熟な才能を発揮し、彼がまだ横浜商法学校在学中(17歳)にこの本を丸善から出版しました。学費稼ぎが目的であったようですが、それにしても英語力は抜群であったようです。
 なぜ、トーマス・スティーブンスから本の推奨文をいただけたのでしょうか。彼が陸路、長崎から横浜に行く途中、恐らく日付から判断して、神戸でこの本を入手したと思われます。
 横浜に着いたときは、真っ先に富田源太郎青年と会い、この本ついて語り、源太郎青年が通訳も買って出たのではないでしょうか。
 この本は、その後も版を重ね、ちなみに上のコピーは、大正8年のもので第15版です。このことから見ても長年にわたりベストセラー本であったことが分かります。

資料提供:松島靖幸氏

スターリングの新聞広告

 これも日米商店のスターリングの新聞広告です。いずれにしても明治38年に新聞各紙にたくさんの広告を出しています。日米商店の自転車と言えばすぐにラーヂ号を思い浮かべる人もいるかと思いますが、英国製の自転車の輸入は明治39年からです。それまでは、店の名前がしめすとおりすべてアメリカ製品でした。
 明治35年の日英同盟締結以降は官民とも、徐々にイギリスとの関係が重視されるよういになり、それまでアメリカ一辺倒であった日米商店にも、改革の機運が訪れてきました。明治治39年1月、社主自らが渡英し、ラッヂ・ホイットワース社との間で直輸入契約を締結することになりました。したがって、これ以降は、英国車ラーヂ号の日米商店となっていきました。

日米商店のスターリング

 日米商店のスターリングの新聞広告です。明治36年から日米商店はスターリングを主力商品として独占販売していました。他の銘柄ではウルフアメリカン、スタンホード、アメリカンなどを取り扱っていました。
 明治37年頃には、陸軍省が軍用自転車として採用、これを契機に更に販売を拡張していきました。明治38年4月には大阪支店も開業し、新聞各社にこの時期、盛んに広告を出しています。

2011年3月27日日曜日

スターリング

 この広告は、アニー・ロンドンデイリーが使用した自転車メーカーのものです。軽量化された競技用自転車であることが分かります。アニーの自転車との違いは、ハンドルの形状ぐらいではないでしょうか。アニーのものはアップハンドルになっています。
 スターリングというブランド名で販売した会社は下記の3社です。
 アニーの自転車は、スターリング・サイクル・ワーク社が製造したものです。

このリストは、ザ・ホイールメンの資料をもとに作成しました。
Sterling-(M) C. F. Stokes Manufacturing Company, Chicago IL, 1892
Sterling-(M) Stokes Manufacturing Company, Chicago IL, 1893  (社名変更?)

Sterling-(M) Sterling Cycle Works, Chicago IL, 1894-1898 (アニーの自転車 シカゴ、イリノイ州 )
Sterling-(M) Sterling Cycle Works, Kenosha WI, 1899 (日米商店が輸入した自転車 ケノーシャ、ウィスコンシン州に移転)

Sterling-(M) Pope Manufacturing Company, Hartford CT, 1909

(Legend: Bicycle Brand, Manufacturer, Distributor, Unknown, Company, City, State, Date)

2011年3月26日土曜日

アニーの自転車

 この写真は、アニー・ロンドンデーリーが自転車世界一周旅行(1894年6月-1895年9月)で使用した自転車です。軽量化されたスターリングであることが一目で分かります。重量は、たったの21ポンド(9.5キログラム)でした。見たところ泥除けもブレーキもありません。いわゆる競輪用の自転車とあまり変わりません。
 スターリング・サイクル・ワークス社は当時、シカゴ(その後ケノーシャに移転)にあったメーカーです。スターリングというブランド名は、他の会社でも使っていました。明治36年頃に日米商店が輸入したスターリングは、同じメーカーです。
 アニーの世界一周旅行はほとんどが船の旅でしたが、その旅の途中で寄港した都市などで、この自転車を利用しました。日本に来たときも神戸の居留地にある公園で乗りました。神戸から船で横浜に来たときも、やはりその周辺を少し乗った程度と思われます。ですが当時の治安情勢から言って女性の一人旅は非常に困難であったはずです。あまり自転車に乗らなかったと言って、彼女を責めることはできないと思います。やはりすばらしい快挙であることに変わりありません。

2011年3月25日金曜日

ラキンス走行計


 上の図は、ラキンス走行計で、1886年9月7日付けのパテントです。
 ジョージ・B・セイヤーが北米大陸往復サイクリングに使用したものです。
 現代ではサイクロメータもデジタル式のサイクルコンピューターに変わり、GPSをはじめいろいろな機能が付いていますが、当時としては、このラキンスのものが最先端の技術のサイクロメータでした。

現物の写真は下記にあります。
オーディナリー型自転車の前輪ハブにラキンス・サイクロメータが取り付けられています。
http://i31.tinypic.com/2dgiz2d.jpg

ジョージ・セイヤー

 1886年、アメリカ人のジョージ・B・セイヤー(1853-1928)は、オーディナリー型自転車を利用して北米大陸を往復しました。その走行距離は11,000マイル(約18,000km)にも達し、かかった日数は7ヶ月間でした。
 彼の使用した自転車は、ニッケルメッキをほどこした美しいコロンビア製エキスパートというモデルでした。前輪のサイズは46インチでした。因みに私の身長は170センチですが、50インチのオーディナリーに乗ります。ですからセイヤーはアメリカ人にしては比較的小柄であったようです。この自転車には最新式のラキン走行計も前輪のハブに取り付けられていました。
 1886年4月10日に彼の故郷であるコネチカット州ヴァーノンをスタートし、北米大陸を西に向かいました。彼が通過した主な都市は、クリーブランド、シカゴ、デンバー、ソルトレークシテー、サンフランシスコで、このルートは、スティーブンスが1884年に通ったルートとほぼ同じでした。ただし、スティーブンスはサンフランシスコからボストンへ向かって走りました。
 セイヤーは、サンフランシスコに1886年7月29日に到着しています。
 帰路は、少し南よりのルートを東に向かいました。デンバー、セントルイス、ケンタッキー、ウェストバージニア、メリーランドをとおり、11月にコネチカットに戻ってきました。
 トーマス・スティーブンスは、前人未到の自転車世界一周旅行を成し遂げましたが、彼のツアーもそれに劣らず、素晴らしい快挙と言えるでしょう。

2011年3月24日木曜日

ダルマ型自転車

 この上の絵は、明治31年発行の「人情世界」(第26号)に掲載されたものです。ダルマ自転車に少年が乗っている図柄です。
 明治31年といえば既にダルマ型自転車は旧式で、この時期、巷であまり見かけなくなってきた種類です。
 ダルマ型自転車は明治19年のスティーブンスの来日で評判になり、その後、数年で爆発的に流行しました。一部の富裕層は、アメリカ製の舶来車に乗り、その他の物好きな庶民は、鍛冶屋や車屋が製造した国産の貸し自転車を利用し、楽しみました。ところが、10年も経たないうちに安全型自転車が輸入されるようになると、徐々にダルマ型自転車は巷から消えていきました。

 雑誌「人情世界」は、明治29年から発行され、その後、人気のある娯楽雑誌になりました。この雑誌の影響を受け、当時たくさんの類似誌も出版されました。

スティーブンスの直話

岡山を出発するスティーブンス

 明治19年12月11日付けの大阪毎日新聞にトーマス・スティーブンスの直話が掲載されています。

長崎から神戸までの概要は次のとおりです。
11月20日長崎着
11月23日長崎を出発して大村(長崎県大村市)に向かう 大村で一泊
11月24日大村を発ち馬関(山口県下関市)へ向かう この間雨の日が続き走行距離も遅延する
11月28日正午に馬関に到着 雨が降り続く 馬関に宿泊
11月29日馬関を出発し、中国路を東に向かう
11月30日朝に広島着、ここには泊らず直ぐに出発
12月04日正午に岡山着 6日の朝まで同所に滞在
12月06日岡山を出発し、その日の夜に姫路に着く
12月7日朝の8時に姫路を発ち、同日の正午に神戸に着く 長崎から神戸までの間で、道路が良好なところは岡山から神戸の間と感想を述べている 日本の道路事情は良く、風光明媚であること、日本国民は親切で清潔とも評価している 中国(シナ)とは雲泥の差であると言っている(この記事を書いた記者の作文も多少あるのかも知れないが)

なお、上海から薩摩丸で長崎に入港したとありますが、実際は薩摩丸ではなく横浜丸という蒸気船でした。これは他の新聞記事と彼の旅行記に横浜丸と書いてあります。

大阪毎日新聞の原文は次のとおりです。
●世界周遊者の直話
去る七日神戸に着し一昨九東上の途に就きたる夫の自転車にて世界周遊中なる英人スチヴェン氏が一昨年四月北米桑港を発程せし以来去月下旬清国を経て長崎へ着したる迄の順路の概略は此程の紙上に記載せしが今尚同氏の直話なりとて伝聞する所に拠れば桑港を発して波士頓に出て同港より英国リヴァプールに渡航し夫より欧州諸国を経て君士坦丁堡に着したる迄の間には別に著しき珍談奇事とてもなかりし由なれども昨年八月十日君士坦丁堡を発して小亜細亜に入りし後は風俗人情全く一変せしかば困難を感せし事少なからざりしにも拘はらず氏の濠邁なる嚮導も伴れず食料もを携へずして此未開の異境に入り到る處土人の懇切なる待遇を受けて終に波耳西亞の首府テヘランに出で暫く同府に足を停めて厳寒を凌ぎ滞在中国王の優待を受け夫よりテヘランを発し路を土耳基士坦に取り清国北京に到るの心算にてシャールード迄赴くと同處にて魯国士官の通行を禁止するに遭ひ止むを得ずメセット迄引返し同處より更に途を転じ亞富汗士坦を経て印度に入る事に改め其方針に向かひたるも是亦少許進むと間もなく亞富汗の酋長に抑制せられて波耳西亞界迄護送せられたれば余儀なく再びカスピ海に出で鉄道に搭じて君士坦丁堡に引戻し同府より汽船便にて六千英里の波濤を渡りて印度のカーラチーに着し同處より陸路カルカッタに出でカルカッタより又汽船にて香港に渡航し同港より広東に出で同府より陸路北京に到る胸算にて先月十三日程を起こしたりしも道路狭隘険悪なる為め自転車を用るの地至て稀にて多くは川船にて上り八日目に広西省に入り夫より行くこと数日にしてカンチョー府と云るに達したる迄は不便ながらも指たる異條なかりしが同府にて土人等の取囲みて石を擲つなど頗る乱暴に遭ひ終に府の衛門に送られて懇々内地旅行の危険なる状を説き進行を止められたると道路に自転車を用ひ得べき望なきとに依て志那の旅行は是にて断念し直に九江に出で同口より汽船に搭じ長江を下りて上海に着し去月二十日薩摩丸便にて長崎に着したるなりと偖又先月二十三日長崎を発して以来の行程は先づ長崎より大村に到るの間は坂路多きを以て其夜は大村迄行きて一泊し夫より日々雨中或は雨後にて自然輪の旋転重くして兎角に程捗らず漸く二十八日の正午に馬関に着せしが折柄降雨烈しく少しの小やみさへあらざりしかば其夜は同處に滞在し翌日午後馬関を発して中国路を取り三十日の朝広島に着し同地には足を停めずして直に程に上り本月四日正午頃岡山に着し六日の朝迄同地に滞在し同日同地を発して其夜姫路に着し翌七日の朝八時姫路を発し同日の正午神戸に着したるものなりと然るに同氏の評に長崎より神戸に到るの間にて最も自転車に適したる道路は岡山以東神戸迄の間なりと云ひ且一体に道路の修繕の届き居るには感服し居れる体なりしが独り道路のみならず氏は志那の内地の光景を目撃して日本も大同小異なるべしとの想像を下し居たるに山川の風致より人智の度合に至る迄目に触るヽ者として悉く志那と雲泥の相違にて殊に人民の清潔を好み外国人に接して親切なる事等には最も驚嘆し居り実に意外の事なりと物語りしよしなり又氏が斯く世界中を周遊するは山川の勝を愛するにも将た見聞を拡る為めにもあらずして専ら二輪車に駕するの巧みなる事を世界に表揚せんが為めにして而して此旅行の費用は何處より出るかと云ふに氏は米国の一新聞の社員にして旅行中各地より通信を送り其社より受る所の報酬金を以て支辨する者なりとの説なり(資料提供:松島靖幸氏)

2011年3月23日水曜日

自転車義勇隊

 日露戦争(1904-1905年)がまじかに迫ったこの時期、いままでレースやサイクリングが中心であった各自転車倶楽部も、次第に戦時色が濃くなり、この東京バイシクル倶楽部の面々も義勇隊を組織することになりました。

 東京バイシクル倶楽部は、明治32年に結成され、東京上野の不忍池で春と秋に2回のレースを開催していました。優秀な選手を多数かかえていました。

2011年3月22日火曜日

新粧之佳人のダルマ自転車

 昨日の安全型自転車のところで触れました単行本の挿絵は、上の画です。この画はどこかスティーブンスの影響を感じます。

 トーマス・スティーブンスは、明治19年11月21日、船で長崎に来着しました。その後、長崎を11月23日に発ち、陸路東京へ向かってサイクリングを開始しています。

 改進新聞が連載していた時期はちょうどスティーブンスが長崎に着いた頃で、まだスティーブンスの情報は少なかったはずです。単行本は翌年の5月に発行されていますので、自転車の挿絵といえば、まずスティーブンスの自転車が脳裏に浮かんだはずです。そこで、このようなダルマ自転車の石版画に変更されたと思われます。

ダルマ自転車展示


写真提供:茅ヶ崎市文化資料館

 茅ヶ崎市文化資料館では、3月27日まで「明治大正昭和 茅ヶ崎くらしの博覧会」という特別展を開催しています。その中で、明治期のダルマ自転車が一台展示されています。

 このダルマ自転車は、明治25年頃に国内で製作されたもので、以前は日米商店の創業者である岡崎久次郎家に保管されていたものです。その後、同資料館に寄贈されたと聞いています。

国内に現存するダルマ自転車は下記のとおりです。

(国産ダルマ型自転車の所在先リスト)
№1 江戸東京博物館 東京都墨田区横網1-4-1 計2台所蔵

№2 みどのや自転車店 静岡県藤枝市志太2-2-30

№3 関町民会館 三重県関町

№4 奥野健一 大阪府堺市

№5 茅ヶ崎市文化資料館 神奈川県茅ヶ崎市中海岸2-2-18

№6 ㈱昭和インダストリーズ 名古屋市西区菊井二丁目11番5号

№7 半田市郷土資料館 愛知県半田市 計3台所蔵

№8 口之津町歴史民俗資料館 南高来郡口之津町甲16-7

№9 加茂市民俗資料館 加茂市大字加茂229-1

№10 日本民俗資料館・松本市立博物館 長野県松本市

№11 三和自転車工業(株) 埼玉県蓮田市

№12 ヨシダ自転車製作所 東京都北区昭和町1丁目4-10 所蔵移転先不明

№13 石黒コレクション 東京都杉並区

№14 国立科学博物館 東京都台東区上野公園7-20

№15 法多山尊永寺 袋井市 所蔵移転先不明

№16 東 功一 福井県敦賀市

№17 神戸ランプ館 神戸市 計2台所蔵

№18 関西利工㈱ 大阪府堺市

№19 田原町民俗資料館 愛知県田原市田原町巴江11-1

№20 大垣城郷土博物館 岐阜県大垣市郭町2-52

№21 高橋 勇 大阪府

№22 シマノ自転車博物館 大阪府堺市堺区大仙中町165番6

№23 谷村四郎 滋賀県坂田郡

№24 北谷光義 近江八幡市

№25 自転車文化センター

№26 名取サイクルスポーツセンター

 このリストは30年前に調査した資料をもとに作成しました。その後、移動が判明したものについては修正を加えています。

2011年3月21日月曜日

安全型自転車の挿絵

 1886年(明治19年)11月20日付け改進新聞の連載小説「新粧之佳人」に安全型自転車の挿絵があります。
 明治20年以前に日本国内で発行された印刷物で、安全型自転車が載っているのはたいへん珍しいことです。
 安全型(セーフティー型)自転車の起源については、いろいろな説がありますが、一般的には1884年のローバー号であるといわれています。開発者は、イギリスのジェームス・スターレーの甥であるジョン・ケンプ・スターレー(1854-1901)です。ローバー号が量産されるようになるのは、1896年頃からなので、この挿絵の安全型自転車は極めて早いことになります。絵師が洋書か何かを見て描いたのでしょうか。
 この連載小説は翌年の5月15日に「一顰一笑 新粧之佳人」須藤光暉(南翠外史)著で単行本として発行されましたが、残念ながらこの挿絵は掲載されませんでした。ダルマ型自転車の画が一枚載っているだけです。
 この挿絵を描いたのは、橋本(揚州)周延 (はしもと ちかのぶ  1838~1912)です。彼は、当初、歌川国芳の門人でしたが、後に豊原国周門下になっています。鹿鳴館の官廷官女や大奥など美人画を得意としました。

資料提供:松島靖幸氏

なお、『新粧之佳人』は、グーグルの書籍検索から全文をダウンロードできます。

2011年3月20日日曜日

自転車世界一周旅行者

明治32年8月10日付けの東京日日新聞に次のような記事がありました。

〇世界一周の自転車乗り
ウイリル(Willy Schwiegershausen)及びグスタフ・コーゲル(Gustav Kogelのこと)という二人のドイツ人は、6月22日パリから自転車で世界一周の旅に出た。
今回の自転車世界一周旅行は第七回目になるが、これまでの英・米・ドイツ人たちの計画した自転車世界一周は、六回ともその目的を達成できなかった。
かつてレンツというドイツ人は、小亜細亜(地中海と黒海にはさまれた西アジアの半島地帯)のワン(バン又はヴァン)いう湖の近辺で現地人に殺害され、クノーリ(英名不明)というドイツ人はベルジュスタン(アフガニスタン、イラン、パキスタン地帯にあったバルチスタンの事か?)の原野にて、病気に冒されて死亡した。
今回の旅行者 Willyは新聞記者で、その旅行記事を各種の新聞に掲載する事を約束している。
彼の同行者 Kogelは、かつてサンフランシスコから歩いて世界一周する事を企画し、ニューヨークで金塊(賞金だと思う)を獲得した人物である。
二人とも体格が良く元気で、今回は無難に世界一周の目的を、必ず達成するという意気込みが感じられる。
旅の道順は、フランスから始まり、ドイツ南部に入り、オーストリア、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリア、トルコを経てバグダットに至り、これよりペルシャ、ベルジュスタン、アフガニスタン、インド、ミャンマー、タイ、中国を経て我が日本に渡り、更にアメリカを通過して、翌年のフランス大博覧会があるころパリに帰り着くはずの予定とのこと。
(以上は松島氏からの情報)


明治期の主な自転車世界一周旅行者を列記しますと

1886年(明治19年)アメリカのトーマス、スチヴェンス(Thomas Stevens 1854-1935)

1889年(明治22年)オーストラリアのバーストン George William Burston と ストークス Harry Stokes

1890年(明治23年)ドイツのファニー・ブロック・ワークマン Fanny Bullock Workman(1859-1925)、夫であるウィリアム・ハンター・ワークマン

1892年(明治25年)アメリカのフランク・レンズ( Frank G. Lenz 1867- 1894)

1892年(明治25年)アメリカのアレン Thomas G. Allen 及びサクトルベン William L. Sachtleben

1895年(明治28年)アメリカのロンドンデリー (Annie “Londonderry” Cohen Kopchovsky 1870-1947)

1895年(明治29年)ドイツのハインリッヒ・ホーストマン(Heinrich Horstmann)

1898年(明治31年)イギリスのジョン・フォスター・フレイザーJohn Foster Fraser、サミュエル・エドワード・ランSamuel Edward Lunn、フランシス・ハーバート・ローFrancis Herbert Loweの三人

1899年(明治32年)ドイツのウィリー・シュバイガースハウセン(Willy Schwiegershausen)及びグスタフ・コーゲル(Gustav Kogel)

1899年(明治32年)カナダのカール・クリールマン(Karl Creelman)

1902年(明治35年)広島県出身の中村春吉

呉市豊町に中村春吉の碑

今月の8日、中村春吉の生誕地である広島県呉市豊町に顕彰碑が建てられました。

この碑は、豊町の住民たちでつくる「重伝建を考える会」が、明治35年に自転車で世界一周を成し遂げた冒険家中村春吉の功績を広めるため、地元にある天満神社に建たものです。

写真提供:「重伝建を考える会」

「重伝建を考える会」は、平成6年9月に御手洗地区が重要伝統的建造物群保存地区(略して重伝建地区)に選定されたのを機に設立されました。